ハンサムに生きる
 
                   同志社大学大学院教授 佐 伯(さえき)  順 子(じゅんこ)
一九六一年、東京都生まれ。一九八三年、学習院大学文学部史学科西洋史専攻卒業。一九八九年、東京大学大学院総合文化研究科比較文学比較文化専攻博士課程終了。一九九二年、「近代化の中の男と女」で東大学術博士。二○○一年、帝塚山学院大学文学部国際関係学科教授。二○○二年、同志社大学文学部社会学科教授(新聞学専攻)。二○○五年、同志社大学社会学部メディア学科教授。祖母は観世流の能楽師で幼い頃から能に親しむ。中学時代から「源氏物語」を原典で読む。昭和六二年、修士論文に手を加えた著書「遊女の文化史」を出版、既成の女性論、学門の枠組みから解き放たれたしなやかな感性の作品と評される。著書に『遊女の文化史』『文明開化と女性』『美少年尽くし』『「色」と「愛」の比較文化史』『恋愛の起源』『泉鏡花』『「愛」と「性」の文化史』『「女装と男装」の文化史』『明治〈美人〉論 メディアは女性をどう変えたか』ほか。
                   き き て      品 田  公 明
 
ナレーター:  同志社大学大学院教授の佐伯順子さんは、いのちの生み出す性である女性の生き方と社会との関わりを研究しています。その佐伯さんが思いを寄せている一人の女性がいます。新島八重(にいじまやえ)。幕末から明治という激動の時代を生き抜いた女性です。会津藩の砲術師範の家に生まれ、戊辰(ぼしん)戦争(慶応四年/明治元年-明治二年(1868-1869)は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦)では、最新式の銃を携え戦に参加します。戦に敗れた後は、京都に移り住み、同志社大学の創始者新島襄(にいじまじょう)(宗教家、教育者。同志社英学校(後の同志社大学)を興した。福澤諭吉らとならび、明治六大教育家の一人に数えられている:1843-1890)と知り合って、洗礼を受け、結婚。洋服を着て、洋館に住み、洋食を食べて、レディファーストを実践するなど、時代の一歩前を行く夫婦像を打ち立てました。夫の襄は、八重のことを「決して美人ではないが、ハンサムな生き方をする人」と評価していました。今回の「こころの時代」は、同志社大学大学院教授の佐伯順子さんに、「ハンサムな生き方」をする人、新島八重から学んだものを聞きます。
 

 
品田:  新島八重は、幕末―当時の一般の女性とはかなり違う行動をとったと言われていますが、佐伯さんはこのことについてどうお考えですか。
 
佐伯:  新島八重は、会津藩の砲術師の家に生まれて、彼女自身ですね、非常に男っぽい子どもだったということを回想しているんですね。兄に習って砲術とか銃の撃ち方を勉強して、非常に男勝りだったので、米俵を持ち上げるぐらい力があったといったような、とても活発な女子だったようです。
 
品田:  鉄砲も撃ったそうですね。
 
佐伯:  そうですね。自分のそういったものが、興味関心というか、得意な分野を活かして、何か社会貢献したいという気持ちで、おそらく会津の戊辰(ぼしん)戦争が起こった時に、登場してそこで官軍と戦ったと言われています。
 
品田:  戦った時の様子というのは資料で残されているんですか。
 
佐伯:  そうですね。かなり強烈な体験だったようで、「砲弾が飛んできて、顔が真っ黒になってしまった」とか、かなりリアルな回想をしています。ただ非常に彼女の凄いところは、大変過酷な経験だった筈なんですけれど、後に振り返って、「非常に戦というものは面白いものだ」というふうに想い出していて、彼女としては、勿論戦争は悲惨なものなので、それに賛成するわけではないんだろうけれども、戦わなければならない時には、潔く戦うということを非常に誇りとしていたのかな、というふうに思います。
 
品田:  幕末の戊辰戦争での会津の戦いと言いますと、かなり藩の中の侍も、そして若い人たちも戦ったということですけれども、八重もやはりそういった若い世代との交流などもあったんでしょうか。
 
佐伯:  そうですね。少年たちに銃の撃ち方を教えたりとか、あと自分の弟が鳥羽・伏見の戦い(慶応四年一月三日-六日(1868/1/27-30日)は、戊辰戦争の緒戦となった戦である。戦いは京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)で行われた)の傷がもとで亡くなってしまいましたので、そういったことで年少の男子に対する思い入れというものは非常に強かったようですし、戦った時には弟の着物を着て、弔い合戦というか、リベンジ(雪辱するの意)といったような意識をもっていたと思います。
 
品田:  当時は、鉄砲に大砲の時代になっていたわけですものね。
 
佐伯:  そうですね。非常にモダンな戦争を実践した女性という意味では、大変先駆的な非常に珍しい女性だったと思いますし、特に私たちの世代ですと、『ベルサイユのばら』という大変人気なマンガがありまして、ちょうど中学時代に回し読みをして、ボロボロになるくらいのどんぴしゃ―いわゆる「ベルばら世代」なんですけれども、多分男装して戦う女性というのは、勿論多いものではないんですけれども、勇ましく自己主張できる女性の象徴として、女性の池田理代子(いけだりよこ)(漫画家・劇画家・声楽家:1947-)さんが書かれた『ベルサイユのばら』という、男装をしてフランス革命に身を投じて戦う女性というのが、一定の人気を―今でもけっこう若い方読まれているようで―新島八重は、男装して戦ったということで、「日本のジャンヌ・ダルク」というふうに呼ばれているのですけれども、非常に『ベルサイユのばら』の主人公のオスカルと似たようなイメージで、日本の女性も一つの憧れのパターンになっているのかなと思います。
 
品田:  自ら戦場の一番戦いの激しかったところにも出て行ったということですけれども、女性でそこまで行って活動した方はそんなにいらっしゃらないんでしょうね。
 
佐伯:  そうですね。戦いは男の世界ですから、そこに女性が混じるということは、武士としては女性の力の借りてというかね、恥ずかしいという考え方もありましたので、八重は戊辰戦争の時に、官軍とも戦いましたけれども、当時の因習的な男女差別的な考え方とも闘っていたということが言えると思います。
 

 
ナレーター:  八重に思いを寄せる佐伯さんが、八重を始めとする女性の生き方を研究するようになった背景には、母や祖母の大きな影響があります。
 

 
佐伯:  そうですね。私の祖母が、女性の能楽師をしておりまして、私の小さい頃は祖母がそういうことをしているということが特に珍しいことだとは思っておりませんでしたけれども、でも妹と二人でよく、祖母が神戸の舞台で演能しておりましたんですけれども、そこにまいりまして、お婆ちゃんが能を演じていらっしゃるのを見て、だんだん大きくなってくると、あ、御能というのは、基本的に男性世界で、そこにプロとして入っている女性というのは少ないんだ、ということにだんだん気が付いて、芸能と女性の関わりとか、あるいは芸能の中で描かれるれる女性に興味をもったことがきっかけで、当時祖母の家庭というのが、今にして思えば近代化以前の一つの女性の生き方の類型だったのかと思いますのは、私、明治以降の近代の女性の歴史を研究していて、明治時代というのは、非常に格差社会なんですよね。市民平等と言いながらも、華族の方々はまあ社会的なステータス(status:(高い)地位、身分、状況、情勢などの意味)がかなり上の方にいらっしゃって、そういうところのお嬢様方は、自らお掃除とか洗濯とかはしないで、外国語の勉強をしたり、ハイカラなピアノのお稽古をしたりしながら、趣味に生きている。あまり生活の心配をしなくていいといったような女性が、一方では存在し、もう一方では、夫と一緒に働いて生活を支えながら、かつ子どもを育てるのが当たり前という女性もたくさん居て、そういういろいろな多様な女性の生き方が格差として存在していた時代があったわけですけども、家の祖母の場合は、夫が開業医として、生活は特に心配はなく、家の祖父も特に妻に対して家庭料理を作ってもらうとか、お掃除・洗濯をして貰うことで、妻の愛情を確認するというタイプではなくて、妻がプロの能楽師であるということが、夫にとってもある意味生き甲斐のような部分が、今にして思えばあったんですよね。でもそういうライフスタイル(生活の様式 その人間の人生観、価値観、アイデンティティを反映した生き方)というのは、非常に昔風のライフスタイルで、だんだんと都市が近代化が進んでいくと、まあ人口もだんだん都市に集中してきますし、家庭というものが、会社員の賃金労働をするご家庭というのが増えてくるわけですね。男性が家庭の外に出て、生計を担って、妻は家にいて、家事などをして、夫の生活費を稼いでくるのを支えるという、非常に近代的な会社員の家庭というものが、だんだんと平均的な家庭像になっていくのが近代化の家庭ですよね。家の母の場合は、今思えば非常に面白いんですけども、都市化・近代化の中で結婚しましたので、地方から東京に出て来て、会社員の夫である私の父と結婚して、家族を営んでということになると、非常に都会の暮らしという意味での豊かさというのは、手に入るんですけれども、そこで女性は結婚したら、出産したらもう家庭に入って、ひたすら夫を支えるという役割が、理想化され、求められていくようになるので、母自身にもいろいろやりたいことがあったようなんですけども、特に「子どもが生まれた後は、外で仕事はしないでくれ」というふうに、私の父である夫に言われて、母は服飾デザインなんかもしていましたんですけども、母としてはキャリアをできるだけ伸ばしたいなと思っているところで、出産があって、家事・育児に専念するという生き方が、当時としてはある種当たり前のようなこととして受け入れたために、後から自分のやりたいことができたのかなという気も、チョコチョコ口にするようになったので、時代時代による女性の生き方の可能性であったり、その限界であったりというものを、自分の身内の生き方を見ていて考えさせられたということはあると思います。
 
品田:  その佐伯さんが、ご覧になる戊辰戦争で敗れた後の八重を、どうご覧になっていらっしゃいますか。
 
佐伯:  非常に大きな挫折感を味わったと思うんですよね。それまで信じて、そのために戦った価値観というものがまったく壊れてしまうわけですので、勿論文字通り敗北したわけですし、これから自分は何を信じて生きていったらいいんだろう、というふうに悩んだと思うんですね。そこで兄(山本覚馬(やまもとかくま))が、京都で非常に革新的なアイデアをたくさん出して評価されていたということがあったために、兄を頼って、そこからだんだんと開明的彼女が当時の京都女紅場(にょこうば)(後の府立第一高女)という女子教育の場で舎監として働いたり、あるいは博覧会が京都で開かれた時に作られたガイドブックの活字を拾ったりといった、いろいろな社会参加ができるようになっていくわけですけれども。
 
ナレーター:  そんな時に八重は、同志社大学の創始者新島襄(にいじまじょう)と知り合い、結婚することになります。
 

 
品田:  新島襄と言いますと、アメリカに渡って、そして帰国して来たということですが、この新島襄が八重に与えた影響というのは、どういうものなんでしょう。
 
佐伯:  襄の留学というのは、それ以降の森鴎外(もりおうがい)とか夏目漱石(なつめそうせき)といった、非常によく知られたドイツなりイギリスなりに留学した知識人とは、全然違うパターンの留学をしたと思うんですね。森鴎外や夏目漱石というのは、一定のあるキャリアをある程度日本で積んでから、このことを勉強するという、かなり明確な目的意識をもって留学していくわけですけれども、新島襄の場合は、まだ世の中が非常に流動的な時に、密航という大胆な形で、破れかぶれというか、破天荒な形で、ようやりはったなというぐらいの感じで海外に渡るわけですよね。そこで非常にある意味で白紙に近い状態で海外を見るということで、ハーディー夫妻という現地のご夫婦のもとで生活をしながら現地の教育を受けるということになるので、単に学門的な部分だけではなくて、ライフスタイルも含めて吸収したわけですよね。そこから襄が養った女性観というものが、八重にも非常に大きな影響を与えたというか、フィットしたのかなというふうに思います。
 
品田:  八重の立場で言いますと、そういう襄と知り合った。いろんなことを影響を受けていますよね。
 
佐伯:  そうですね。日常生活―衣食住の「住」の部分では、二人は当時としては非常にハイカラな洋風の家に住んで、襄が好きな洋食で食卓を囲んだというふうに言われていて、やはり頭の部分だけではなくて、身体の部分からかなりアメリカ風の影響を、八重は受けたと思いますね。
 
品田:  着るものも洋装で、
 
佐伯:  そうですね。あれはほんとに面白いんですが、当時の女性は、ほとんどいわゆる着物のわけですよね。明治時代の新聞雑誌記事の中に出てくる女性の写真を見ても、本格的な洋装をしている女性ということは、一部華族の女性たちに限られていて、市井(しせい)の女性が本格的な洋装をするということはなかなかなかったわけですが、八重の場合は、宣教者のご夫妻が身近にいらしたので、その洋装を見たり、あるいは夫の襄が、洋装社会の中で暮らしていたわけなので、夫としても着物を着ている妻よりは、むしろ洋装の妻を見るのがなんとなく自然だったのかも知れませんし、ですので、鹿鳴館にああいうスタイルをする人というのは、当時限られていた筈なんですけども、八重はかなりそれに近い本格的なドレス姿の写真を残されていて、着るものの面からも、ハイカラな生き方を実現しようと思っていたと思います。
 
品田:  夫である襄に対しては、どうだったんでしょう。
 
佐伯:  そうですね。「襄(じょう)」とファーストネームで呼んでいたということがよく知られておりまして、今でも私たち日本人って、ファーストネームを普通に呼び合うということは、親しい間柄でないとなかなかしないんですけども、夫婦間でも「おとうさん、おかあさん」とか、そんな感じになりますけども、そこはほんとにアメリカスタイルで、襄と八重の夫婦としては、自然に「襄」というふうに呼んでね、ということになったんでしょうけれど、やはり明治の社会では、「なに、これ」という感じで、周りの人が凄く違和感を覚えたらしく、また人力車に乗る時も、レディファーストで、襄が妻の八重を先に乗せた、ということがあったので、
 
品田:  二人で一緒に乗る時も、先ずレディファースト、
 
佐伯:  そうですね。それはやはり京都の周りの方々にとったら、女性の方が先に乗るなんてそれこそ婦徳に反するというか、日本人なのになんなのかしらという、やはりかなり違和感をもたれたようですね。襄としたら、もうごく当たり前のことをしているだけであって、たまたま奇跡的に八重という、当時としては型破りの女性と出会ったために、妻の方もそういう夫の振る舞いというのを、逆に違和感なく受け入れたんでしょうけども、もしかしたら八重でなければ、「いいです、私」というふうになったかも知れないですよね。
 
品田:  奥ゆかしく、そうはならなかったかも知れない。
 
佐伯:  当時はね。八重は周囲の女性から見たら非常に変わり者だったかも知れないけれども、襄から見たら、あ、こういう自分の主張をもって、そんな人はおそらく自分に合うだろうというふうにピンときて、つくづく奇跡的な出会いだなというふうに、私は思っているんですけれど、もしかしたら二人ともお互いと出会っていなかったら、襄は襄で、もしかしたらずっとそのまま独身が長かったかも知れないですし、なかなかそこのところは運命の巡り合わせだなと思います。
 
品田:  襄が八重を見ていたという様子を表すものは、何か残っているんですか。
 
佐伯:  襄が、八重がこういう人だということを、アメリカでお世話になったハーディー婦人に手紙で紹介する時に、「彼女は、見た目はハンサムではないんだけれども、ハンサムな行いをする人だ」というふうに紹介しています。「いわゆる美人というわけではないんだけれども、彼女の行動が非常にハンサムで、そこで私は彼女と結婚したいと思ったし、非常に彼女に魅力を感じる」というふうに書いていて、そこはほんとに明治の男性としては、本当に例外的に近いと言っていいかなと思うんですけれど、これは明治の女性関係の新聞記事を見ていますと、女性についてはやはり美人というのが凄く評価の一つの基準になるんですよね。例えばお見合い写真というものが明治になってだんだんと普及していって、その見合い写真を使って縁談を纏めるということが、ハイカラな結婚方法として注目されるようになるんですけれども、その写真を見て、例えば相手がイケメン(日本語で美男子を指す俗語である。「かっこいい」「魅力的」を意味する)かどうかとか、女性であれば美人かどうかということが、非常に人物の評価に左右されてしまうということがあって、女性の場合はやはりキーワードとしては、美人でないといけないぐらいのちょっとプレッシャーがかかっている様子が伺えるんですけれど、襄の場合は、「外見がどうこうというよりは、中身がしっかりしていれば、それが自分にとっては素敵な女性なんだ」というふうにはっきり言っているので、それは明治の男性としては珍しいかなと思います。
 
品田:  その新島襄が、称している「ハンサム」ということは、どういうことなんでしょう。
 
佐伯:  私は考えるには、「自分の信念を曲げないというか、相手に媚びたり迎合したりせずに、自分の信ずる道を貫く」ということを意味しているのかな、というふうに思います。井戸の上に板を渡して、涼しいからその上で縫い物をしていたという。
 
品田:  普通落ちて怖いと思うような井戸の上に板をして、その上に平然と座っていたんですか。
 
品田:  はい。それを襄が目にとめて、「あれは危ない」というふうに、兄の覚馬に思わず言ったら、覚馬が、「家の妹は凄い大胆なことをして困るんだよ」というようなことを言って、その時に襄はピンときたと言われていて、「何この人」みたいな、こんな無茶なことをする女性は引いてしまうというのが、もしかしたら一般的かも知れないんですけども、襄も、言ったら良くも悪くも当時としては変わり者というか、個性的な人物という言い方ができると思うんです。むしろ大胆な女性であるからこそ、八重に興味を引かれて、それでけっこう八重に対して襄の方がわりに積極的に関心をもったとも言われています。
 
 
ナレーター:  八重の兄山本覚馬。八重が新島襄と出会う前から、眼と足が不自由になっていました。八重は、兄の介護をしながらも、積極的に社会活動に参加します。
 

 
佐伯:  私が、八重が先駆的だと思いますのは、今でこそ女性が家族の介護をすることでは、非常に社会的にいろいろ議論されているんですけれども、八重はまさに介護の先駆者で、兄(山本覚馬)が眼が不自由になり、かつ足も不自由になってしまったものですから、ケアしてあげる人が必要になって、例えばお客様に呼ばれた時に、彼女が覚馬を負ぶって廊下を移動したりしたという。それに関して、八重が想い出しているのは、妹である八重が、男である兄を背負って廊下を行くわけですから、その光景をお呼ばれした家の書生さんが覗いて、好奇の目で見ていた、ということも言われていて、八重はその時は凄く気持ちがよくなかった、ということを率直に書き綴っているんですね。
 
品田:  お兄さんを背負っていたわけですか。
 
佐伯:  背負って廊下を移動したという。かなりの力がいったと思うんですね。
品田:  お兄さんは小柄な方でもないんですよね。砲術師範とかいろいろされている方ですから。
 
佐伯:  そうですね。よっぽど八重の力持ちというのはかなり評判だったので、当時は車椅子というものも、近代的な車椅子というものもないですし、
 
品田:  お家も造り自体も違うでしょうしね。
佐伯:  そうです。ほんとにバリアフリーという考え方も勿論ないですし、介護の仕方―ノーハウ(know how)というのも、勿論ないと思うんですね。八重が力まかせにやったことだと思うんですけども、そこを多分八重は、「何で私がこんなことをやらないといけないの」みたいには思っていなかったと思うんですよ、私の想像ではね。愛する兄のために、自分の力持ちが役に立てるのであれば喜んでやりましょうという気持ちで、身体がおそらく動いたんだと思うんですね。非常に彼女の逞しさというのは、優しさに裏打ちされた逞しさで、私はそこが八重に学ぶべきところかなと思いますし、私もたまたま大震災の数日前に母が倒れまして、要介護になってですね、介護の仕方を一から理学療法士さんにレッスンのようなものを受けて習ったんですけども、結構コツが要るんですよ。力も要りますし、コツも要るので、まあ私の場合は母ですから、私より小柄ですし、まあ何とか慣れて車椅子に乗せたり降ろしたり、寝かせ方とか、それなりに、一年以上になりますかね、それなりにできるようにはなったんですけれど、自分でやってみて、〈あ、こんなに大変なことを八重はしていたのだな〉ということを非常に身近に感じまして、そういうこともしながら、同時に彼女自身は、介護者としての側面以外のいろんな可能性も模索していたわけですから、そこが非常にバイタリティのあるタフな女性だなというふうに思っています。
 

 
ナレーター:  八重は、京都に来てからキリスト教に出会います。キリスト教も八重の生き方に大きな影響を与えました。
 

 
品田:  八重は、京都に出て来てからキリスト教徒になったということですけども、八重にとってキリスト教というのは、どういうものだったんでしょう。
 
佐伯:  キリスト教という新しい価値観に触れて、八重は日本に生きていた中で、おそらく非常に大きな価値観の揺らぎを感じたけれども、こういう新しい人生観とか考え方があるんだなということで、おそらくはキリスト教に新しい希望を見出していたのではないかなと思います。
 
品田:  キリスト教のどういう部分に八重は魅力を感じたんでしょう。
 
佐伯:  キリストの「愛」。説く「愛」というものが、一番大きかったのではないかと思いますね。「愛」と一言で言っても大変難しいものではありますが、キリスト教の『聖書』の教えの「マタイによる福音書」第二十二章三十七節から三十九節というのが、キリスト教の非常に重要な教えの二つを記している箇所なんですが、実は私が学んだ中学のキリスト教のモットー―キリスト教主義の中学だったんですが―モットーだから覚えているんですが、
 
『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。
第二もこれと同様である。『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』。
(「マタイによる福音書」二十二章三十七節〜三十九節)
 
というのが、キリスト教の第一、第二の教えだというふうに言われていまして、それが「愛神、愛隣」神を愛する、隣人を愛する。「愛神・愛隣」という形で、この「神の愛」と「隣人愛」という考え方は、現在でも信者ではない日本人にも多く訴えるものがあって、現在少なからぬ若いカップルの方が、キリスト教の信者さんではないにも関わらず、教会で結婚式を挙げているというのは、まさにそういう明治の本来説かれていた、例えば襄と八重の夫婦がしたような相手を思いやる気持ちにお互い支えられた結婚だったのかなと。そういうものを理想化するという考え方が、世俗化する中でも残っていて、今でもキリスト教式の結婚というのが人気があるのかなというふうに思っているんです。
 
品田:  当時の八重にとりましては、凄く新しい考え方だったんでしょうね。
 
佐伯:  そうですね。それまで恋愛とか、愛というと表現なり考え方自体が、明治時代にキリスト教が聖書なりを通じて、日本の文化なり文学に普及したものなんですね。それまで江戸時代以前には、例えば夫婦の情けとか、親子の情け―「情け」という表現が、比較的愛に近いものですけれども、そこには結構上下関係が、多分親から子へであったりとか、妻から夫へ、妻の場合は、愛情とは言っても、夫に尽くすタイプの愛情だったりということであるわけですよね。でもキリスト教が説く「愛」というのは、本当に神のもとに人間は平等であって、そこでお互い思いやりながら生きていくというタイプの教えだったものですから、それは女性にとっては非常に魅力的だったと思います。明治の女性にとって、キリスト教というのは、非常に女性にとっての自由とか解放ですね、教えてくれる宗教であったと思うんですね。儒教というものが、非常に男性に対する女性の従順さというものを規範としていくものですので、そうではない生き方をしてもいいんだ、という考え方は、キリスト教に学んだというパターンが結構明治の女性の場合は多くて、新しい機会とか社会貢献を求める心の支えとして、キリスト教というのが、例えば男女平等な夫婦関係であったりとか、たとい夫が亡くなった後も、そういう理想を持ちながら、女性の生き方の可能性を探っていくという点で、まったくそれまでの女性に対する窮屈な感じというものとは違って、新鮮な魅力があったのではないかと思います。
 

ナレーター:  佐伯さんは、東日本大震災の後の大学のチャペルアワーで八重の話をしました。その時被災者のためにと、佐伯さんが選んで歌った讃美歌が、この二六七番、そして三五八番でした。
 

 
佐伯:  それほど参加者の方は、実は多くはないんですけれど、おそらく八重が好きな讃美歌が、八重が大事な夫を失った時の慰めになったのと同じように、震災でパートナーの方であったり、それ以外の大切なご家族の方なり、お友だちを失われた方も、少なからずいらっしゃると思うんですけれども、そういういろいろな方々に対して、讃美歌が八重を慰めたように、向こうの讃美歌を歌うことによって、大切な人を喪失した悲しみというものが、少しは癒されるのかなという思いで、それに相応しいと思われるような讃美歌を選んでチャペルアワーで話をさせて頂きました。八重は、戊辰戦争で、勿論周りで白虎隊(びゃっこたい)を含む少年たちが亡くなるという、大切な同じ故郷の若者を失うという経験もしていますし、いろいろと彼女も試練に見舞われた中で、それでも前を向いて逞しく生きていこうという気持ちをもっていたと思うんですね。そこで彼女の心の支えになったのが、讃美歌の歌声であり、神様がついていてくださるという信仰の力だったと思うんですね。ですので、チャペルアワーで話をした時も、二つ選んだ讃美歌の中で、一つは、
 
こころみの世にあれど
みちびきのひかりなる
主をあおぎ、雨の夜も
たからかにほめうたわん
(讃美歌第三五八番)
 
試練の中でも頑張って生きていこうという力を与えて貰えるような歌詞であったり、あるいはもう一つ、讃美歌第二六七番「神はわがやぐら」という言葉で始まる讃美歌がございますんですが、その讃美歌の後半の部分が、
 
おのが力 おのが知恵を
たのみとせる陰府(よみ)の長(おさ)も
などおそるべき
(讃美歌第二六七番)
 
という歌詞なんですね。ですので、死の試練というのは非常に大きな試練ですけれども、陰府(よみ)の長(おさ)の力を畏れなくてもいいんだと、神様を信じて元気に生きて生きましょうという、そういう震災後の私たちを励ましてくれるような、あるいは試練を受けた八重とも同調するようなメッセージをチャペルアワーで少しでもお伝えできればいいなというふうに思ってお話を致しました。
 

 
ナレーター:  八重は、一八九○年(明治二三年)に、夫・新島襄を病で亡くします。その後は赤十字の活動に参加し、日清(第一次中日戦争。一八九四年(明治二七年)七月(光緒二○年六月)から一八九五年(明治二八年)三月(光緒二一年二月)にかけて行われた主に朝鮮半島(朝鮮王朝)をめぐる大日本帝国と大清国の戦争である)、日露の戦争(一九○四年(明治三七年)二月八日-一九○五年(明治三八年)九月五日)は、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部を主戦場として発生した戦争である。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、一九○五年九月五日に締結されたポーツマス条約により講和した)では軍の病院に赴いて傷ついた兵士の看護に当たりました。
 

 
品田:  八重は、新島襄の亡き後、看護婦として活躍をしますが、そこにはどういう思いがあったと考えていらっしゃいますか。
 
佐伯:  そうですね。当時の女性が社会活動できる機会って凄く限られていたんですよね。明治の末から大正にかけて、女子教育で良妻賢母主義というものが、非常に強く言われるようになって、女性は家庭で、外で働く男性を献身的に支えるという考え方が良妻賢母主義の教育によってとても強くなっていきますので、女性の社会活動というものに対しては、あまり肯定的に見られない状況になっていく。そういう中で堂々と女性が社会貢献できる、社会参画できる仕事というのは何かというと、一つは、看護婦として傷病兵の方を癒すという役割がありまして、八重としては、一つには自分自身の経験として、戊辰戦争の時に実際リアルに戦争で負傷した人を見て、その方々をケアする役割というのは、既に自分で経験している。それと同時に、八重が生きていた当時に堂々と女性が社会貢献できる、何か自分も社会のためにやりたいという気持ちが、八重としては非常に強かったと思うんで、止むに止まれず女性だからジッとしているというのは我慢できない。何かしたい。戊辰戦争の時は、私でも何かした。で、襄が亡くなった後も、じゃ、私も何か社会の役に立ちたいと思った時に、あ、これだ、というふうに、ちょうど彼女の過去の経験と、それから社会の要請に上手くマッチしたお仕事が、この看護婦という仕事だったのかなと思います。
 
品田:  看護婦として戦争もまた体験しているということですよね。
 
佐伯:  そうですね。日清、日露戦争で、看護婦として仕事をした時には、実際に戦地に行ったわけではなくて、こちらの日本の病院で看護活動に当たったということなんですけれど、日露戦争の時は、八重自身が割に高齢になっていたので、彼女自身の回想によれば、そんなに具体的な介護活動に当たったのではなくて、むしろ「傷ついた方の心のケアをした」というふうに八重自身が回想しています。今、私は今風な言い方をしたんですが、物理的な介護をしたというよりは、傷病兵の方たちの慰めになるような、多分話相手になったり、苦しみを聞いたりしたんだと思うんですけれども、今言われている「心のケア」と言われることを、随分早い時代からやっていたんだなというふうに、そういう点でも非常に先駆者だったんだと思いました。
 
品田:  八重と同じ時代を生きた女性で、他には印象に残る方はいらっしゃいますでしょうか。
 
佐伯:  ええ。これは大変ビッグネームではあるんですが、樋口一葉(ひぐちいちよう)ですね。樋口一葉も非常にハンサムな女性であったというふうに思っています。世代的には八重よりも後の世代にはなりますけれども、八重もいわゆる学歴がないわけですね。つまり八重がもっと新しい時代に生まれていたら、当然何らかの女学校か何かに通って教育を受けたと思うんですよ。ですが、まだ八重の時代は、女子教育が盛んになっていた時代でなかったので、目立った学歴がないというハンディの中で自分なりの可能性を模索するという必要に迫られた。樋口一葉の場合も、非常に彼女は文学少女で、成績も優秀だったので、上の学校に行きたいんだけれども、親の負担から女性は学門なんかしないで、お裁縫とかする方が良妻賢母になられるというか、女性としては全うに生きられるというふうな考え方で、泣く泣く学校を諦めたということがありまして、そういう意味では制限された状況の中で、自分なりに生きていこうという部分が八重とよく似ていますし、また八重が非常に男っぽい私ということを自覚していたのと同じように、樋口一葉も自分の筆の力でなんらかの自己表現をしたいという、かなり野心的な女性だったんですが、その野心を社会にぶっつけようにも、ぶっつける場所がないと。非常に熱心に新聞も読んで、当時の社会情勢に、日記を読むと、とても大きな関心を示しているんですけれども、「女の私が社会情勢、政治情勢とか、外交問題に対して、何か考えたとしても、女に一体何ができるんだろう」という非常に絶望的な気持ちも日記にこう記していて、
 
「婦女のふむべき道ふまばやとねがへど、そも成難く・・・」(樋口一葉「蓬生日記」)
 
つまり女性として真っ当な生き方を、当時としてしたいと思っても、それがなかなかできないと。一方で、じゃ、男になれるかというと、男になって立身出世されるわけにもいかない。それを非常に悩んでいて、まあ彼女なりに精一杯やることをやった結果、作家として評価されるということがあったわけです。あと女所帯で、妹さんとお母さまを抱えて、何とか自分の力で生計を立てていかないといけないと。その時に自分に、「一回自分を振った男性が、それこそ出世してもう一度アプローチしてきて、僕と一緒にならないか的なことも言われるんだけれども、でも私は今更この人と一緒にならないわ。もしこの人と結婚したら、家族の生活も豊かになるし、自分の将来も安泰の筈なんだけれども、今更この人に靡くことはしない」というふうに日記に書いていて、非常に苦しむ道を選んでいるような人なんですが、生活のために別に好きでない男性にまかせるということもしないで生きていきたいという、非常に力強い決意というのは、大変ハンサム女性だなと思います。
 
品田:  八重の時代からおよそ百年が経ちました。女性がハンサムに生きていける道筋が多少は広がっているのでしょうか。
 
佐伯:  海外で生活をしてみると、例えば現地で親しくなったご家庭に行かれて、一緒にお食事をしたり、クリスマスを過ごしたり、ということを致しましたけれども、全然日本の家庭の雰囲気とかなり違うのを未だに感じるところあります。それこそ夫を「襄」と呼ぶというそういうカルチャーショックに近いものは未だにありますよね。例えば「ドイツの主婦の方というのは、あまり家庭で料理をしないんです」というふうに生活ガイドに書かれていて、私は最初にそれを読んだ時に、一体料理をしないで、男性の方がお料理をされるという意味なんかしらと思って半信半疑で読んでいたんですが、ドイツの料理というのは大変便利なもので、あんまり手を加えなくてもパンとチーズ、ソーセージが、そのままで結構美味しいものですから、あんまり手を加えなくても、女性であれ男性であれ、そんなに手間を掛けなくてもすっと美味しいお料理を頂けるという。お料理というか、まあ食生活―お料理自体にそんなに凝る文化ではないんですね。そこが勿論料理文化として見た時には、日本料理文化の方が遙かにハイレベルで、まさに世界遺産登録をされていいぐらいのハイレベルなお料理文化というのは、日本文化として誇れるものだと思うんですけれども、一方でドイツの社会というのは、必ずしもお料理に凝らない。シンプルな料理でも十分に満足して、それ以外の部分で、例えば夫婦の会話であったり、料理以外の部分で人生を楽しむ文化であるなということを実感致しまして、どちらかが正しいということではなくて、料理に手を掛けることが幸せだと思う生き方もあってもいいし、お料理をもう少しシンプルにして、その代わり会話を楽しむような生活がいいなというような生き方でもいいと思いますし、いろんな選択肢があるというのが一番いいことかなと思いますね。文化によって大分違うなと思いましたしね。ドイツ人の女性研究者の方で、日本のことを研究されている方とお話をした時に、子育てみたいな話を致しましたけれども、その時ドイツの女性がおっしゃるのは、日本人のお母様方は、手作りの手芸の手提げ鞄とか、要するに自分が時間を掛けて縫った手芸の生活をしているものを何か子どもに持たせるということが、日本の文化の中では愛情表現だと思っている。ですけども、ドイツの文化の中では、手間を掛けてそういう手芸をして子どもに与えるというよりは、その時間があるのであれば、一言でも子どもと会話をすることが愛情表現だと思うというふうにおっしゃったので、私も〈なるほどな〉というように違いを感じましたね。
 
品田:  お母さんが一生懸命作っている時に、子どもから声掛けられて、それで「ちょっと待ってね」ではダメなわけですね。
 
佐伯:  なるほど、と。どうしても日本人は、手作りの手提げ鞄とか持たせてあげたいでしょう。それが喜びに繋がるという感覚がどうしてもありますよね。「そんな時間があったら一言でも子どもと喋ればいいのに」と言われて、あ〜っと。
 
品田:  今の女性は、ハンサムに生きていると感じていらっしゃいますか。
 
佐伯:  そうですね。例えば今「女子力」という言葉が流行語になっていますよね。一面では、女性が非常に公私にわたって輝いて活躍しているという含みもあると思うんですが、一方で、例えばお化粧が上手であったりとか、お料理が上手であったり、そういう部分で、例えばお料理上手な女性に対して「女子力があるね」とか、お化粧が上手だったら「女子力があるね」と、そういう使われ方もしていますよね。ですので、一面保守的な要素も合わせもっているので、一概にこういう言葉が流行することを、日本社会で女性の自由度が高まったとは言い切れないのかなという、私は非常に複雑な心境で見ております。
 

ナレーター:  困難な状況が続く今だこそ、八重のハンサムな生き方を見習うべきだと、佐伯さんは考えています。
 

 
佐伯:  高度成長期に歴史的に形成された専業主婦の母親がいて、外で仕事をする男性がいて、男性と女性の生活仕事空間がはっきり分かれている中で、経済効率を高めていくという、それが決まった幸せの型であって、それに合わせていく生き方というのが、ずっと普遍的な幸せな型として長い間信じられてきたと思うんですけれども、その震災以降は明らかにその型というのは崩壊して、全体的にそのことに対する疑問が提示されていると思うんですね。八重の場合は、周りの人がどうあっても、「自分はこういう生き方を貫きたい、自分のライフスタイルはこうありたい」という、その信念をずっと貫く勇気をもっていた人ですので、これからの日本人の生き方としては、高度成長期のノスタルジー(nostalgie: 郷愁、懐古の意)に浸るのではなくて、もし高度成長期だけを理想化してしまうと、例えば女性の生き方、男性の生き方というのは非常に画一化されてしまって、「自分なりのいろんな幸せがあるよ」という考え方が掻き消されてしまうと思うんですね。例えば「男性も育児をしましょう。子育てをしましょう。イクメン(育児を楽しむ男性。育児を積極的に行う男性のこと)になりましょう」ということが言われているんですけれど、それは女子を有利にするためであるとか、女性を助けるためではなくて、男性自身の人生も身近にいのちが育まれる現場に携わることで、経済効率以外のこの世の中の豊かさとか人生の豊かというものを実感していく。そういうセンスというものを養っていくことになって、その結果自ずと自然のいのちと共生するような社会なり文化なりというものが、また見直されていくのかなという気がするんですね。今までの型にとらわれずに、新しい女性と男性の生き方の可能性を、高度成長に戻るのではなく、新しく模索していく。その時に自分なりのライフスタイルというのを、周りに左右されずに目指していく。その時の心の強さというのは、例えば八重のような女性のハンサムぶりに学ぶことができるのではないかと思います。
 
品田:  佐伯さんは、ハンサムに生きていらっしゃいますか。
 
佐伯:  あ、どうでしょうね(笑い)。ハンサムに生きたいなと思っていますけれども。まだまだ途上で。
 
     これは、平成二十五年四月十四日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである