一歩前に出る勇気
 
                 児童文学作家 那須田(なすだ) 稔(みのる)
一九三一年、静岡県浜松市生まれ。一九五三年、東洋大学国文学科卒。一九五六年、愛知大学中国文学科中退。「詩と詩人」「列島」に同人として参加。一九五八年、「日本児童文学」に少年詩を発表。五九年、日本児童文学者協会事務局に勤務。六二年、「ぼくらの出航」を刊行し児童文学作家となる。六六年、「シラカバと少女」で日本児童文学者協会賞を受賞。一九七八年、浜松市でひくまの出版を創立。一九八八年より「忍者サノスケじいさん」シリーズを書き継いでいる。ほかに「もう一つの夏」「チョウのいる丘」や詩集「ジャパニイズ廣場」ほか多数。
                 き き て  えのきどいちろう
一九五九年、秋田県生まれ。本名榎戸一朗。中央大学経済学部卒業。大学在学中に仲間内で発刊したミニコミ誌「中大パンチ」が『宝島』の編集者の目に留まり、在学中からコラムニストとして活動を始める。執筆活動と共に、テレビ・ラジオのレギュラーも数多く、テレビ番組では、2002 FIFAワールドカップ開催時にスカパー!で関連番組の司会を務め、ラジオ番組では、文化放送の平日朝ワイド番組のパーソナリティを四年間担当した。
 
ナレーター:  児童文学作家の那須田稔さん。三十代で作家活動に入り、八十二歳になる今日まで、たゆまず創作を続けてきました。那須田さんは、浜名湖に面した静岡県浜松市舞阪町(まいさかちょう)に暮らしています。コラムニストのえのきどいちろうさん。那須田さんの作品をこれまで読者として楽しんできました。五十年以上第一線で書き続ける作家としての原動力を知りたいと、那須田さんを訪ねました。
 
えのきど:  ずっとこう本を読んでね、どんな方かなと思っていたんで、今日こうやって生身の那須田さんにお会いしまして凄く嬉しいです。
 
那須田:  この貧弱な体型と全然成長していない精神と(笑い)。
 

 
ナレーター:  那須田さんの最新作は、六年を掛けて書き上げた連作の長編『忍者サノスケじいさんわくわく旅日記』です。四十七都道府県それぞれを舞台に一冊ずつ、そして最後に富士山で一冊、合計四十八冊のシリーズです。
 
那須田:  富士山にまつわる話を書こうというんで、それで最終が四十八巻。六年かかった。楽しい仕事だったよね。
ナレーター: 小学校高学年向けの作品を中心に書いてきた那須田さんにとって、「忍者サノスケじいさん」は、初めて挑戦した低学年向けシリーズです。主人公は、サノスケじいさんと孫の一郎太。友だちのゆかりちゃんやフクロウのゴンザエモンと、各地で冒険を繰り広げます。日本を隅から隅まで旅しながら、サノスケじいさんは、奇想天外な忍術で困っている人たちの力になります。那須田さんが、シリーズ四十三作目の栃木編を書き上げようとしていた二○一一年三月、東日本大震災が起きました。
 
えのきど:  書き直されたわけですね。
 
那須田:  はい。もう一回チャレンジ。やり直しということでやっているうちにね、果たして被災した子どもたちに読ませるにはどうしたらいいか。
 
えのきど:  被災した子どもに読ませる?
 
那須田:  被災した子どもに読ませるためにどうしたらいいか。
 
ナレーター:  那須田さんは、物語を一から書き直し、震災から五ヶ月後に出版しました。「手をつなごうの巻」栃木の旅です。物語には、被災した仙台の小学校の先生に取材した現地の子どもたちの様子が盛り込まれています。仙台に住んでいたともちゃんは、津波で家をなくし、栃木のおばあちゃんのところに身を寄せていました。親しくなった一郎太は、ともちゃんを仙台の友だちに会わせてあげたいとゴンザエモンに頼みます。
 
ナレーター:  ゴンザエモンはじゅもんをとなえ、小さくなったともちゃんたちをのせて空へ! ともちゃんがくらしていた仙台の海のそばのまちまで、やってきました。ゴンザエモンがさあっとまいおります。男の子も女の子もともちゃんにかけよりました。
「ともちゃん、元気でよかった。」
「ゴンザエモン、みんなをのせて飛んであげたら。」
一郎太がいったのでみんなの顔がぱっとあかるくなりました。
(『忍者サノスケじいさんわくわく旅日記 手をつなごう!の巻』より)
 
那須田:  どういう話かというと、サノスケじいさんの細君が、非常に美味しいバウムクーヘンを作った。で、みんなを楽しく遊ばしてあげたんだけども、最後にバウムクーヘンをご馳走したわけ。ところがそのバウムクーヘンを食べると、笑いが止まらない。笑って笑って大笑いして、しかも尚かつ不思議なことに、どれだけ食べてもなくならないバウムクーヘンだったんですね。バウムクーヘンというのは、ドイツの会社なんだけども、輪切りにした木の幹をかたどり、年輪のような層を表した洋菓子で命の象徴なんだけどね。食べたら笑いが止まらない。もっと笑いをいっぱい届けようと。悲しいんじゃなくて、逆に笑いを届けようと。つまり手を繋ぐことがどんなに大事なものか、ということを、面白い話を盛り込んでいこうというんで書き上げた。
 
ナレーター:  那須田さんが、大切にしてきたテーマが「友情」です。その原点は、三十一歳で書いた初めての長編小説『ぼくらの出航』です。舞台は、旧満州国北部の都市ハルビン。小学校五年生のヤマザキ=タダシが、友だちと力を合わせて苦難に立ち向かう物語です。タダシの友だち中国人のヤン=ルウチャンは、「満人(まんじん)」と呼ばれ、学校で虐(いじ)められていました。しかしタダシにとっては一番の友だち。二人は、終戦前後のハルビンの混乱の中で友情を深めていきます。那須田さんは、六歳から十五歳まで、旧満州―現在の中国の東北部で育ちました。南満州鉄道に職を得た父の正男(まさお)さんが、一家で浜松から移り住んだのです。『ぼくらの出航』は、那須田さんの少年時代の体験が反映された自伝的要素の濃い作品です。満州は、日本の関東軍が実質的に支配していた傀儡(かいらい)国家です。ハルビンはその北部の大都市です。現在の中国黒竜江省(こくりゅうこうしょう)にあります。中国人、ロシア人、朝鮮人など、さまざまな民族が暮らす国際都市でした。街にはロシア正教の教会があり、石畳の大通りに、ロシア語、中国語、ドイツ語など、さまざまな言葉が飛び交っていました。
 
那須田:  ハルビンというのは、中国の中でも特にさまざまな民族が集まっている街で、特にロシア人が作った街なんで、そこにはドイツ人も来ているし、ヨーロッパから来ている。他の街奉天(ほうてん)なんかは、ロシア人とかいなくてね。外国のヨーロッパ人は全然いないんだけども、ハルビンだけは国際都市なのよ。それが自然だと思って、僕は住んでいた。小学校高学年から中学へあがると、非常に思春期時代は楽しくてね、いろんな外国の友だちもできてね。僕は、中国語とロシア語若干やったけども、後はほとんど片言の中国語で通した。その物語の中にあるのが、事実なの。
 
ナレーター:  一九四五年八月、終戦直前にソ連が参戦し、満州に進攻すると、ハルビンの街は一変しました。市街地では銃撃戦が行われ、広場に兵士の死体が積まれます。大通りには、ソ連軍の戦車が列を組んで進入してきました。『ぼくらの出航』にも混乱するハルビンの様子が描かれています。
 
牛車(ぎゅうしゃ)は、あとからあとから、六、七台つづいた。どの牛車の上にも、こもがかぶせられたなにかが、のせられていた。
牛車が、ごろごろっとゆれた。そのひょうしに、こもの下か、なにかがのぞいた。
タダシは、はっと息をのんだ。
それは、人間の腕だった! 黄色い手のひらが太陽の光をつかもうとしているかのようだった。その腕は、軍服をきていた。
牛車にのせられているのは、日本の兵隊の死体だった。牛車はごろごろと、とおりすぎていってしまった。
タダシは、ふいに、めまいがしてきた。
(『ぼくらの出航』より)
 
えのきど:  戦車が来るんですからね。
 
那須田:  大戦車隊を先頭にダァッと入ってきたわけです。その前にソ連軍が入ってくるのは、一九四五年の八月九日、国境を突破して入って来るんですね。情報が入ってくる。その時に、ハルビン中学校から呼び出しがあって、「全員集まれ」と。それで僕は最上級だからね―二年生が最上級だから―三年生は全部いない。特攻隊で全部行っちゃったわけよ―それで「みんな集まれ」ということで、校庭に集められて、陸軍の将校から、「いよいよ来るぞ」と。「ソビエトがやって来る。君たちは戦え」と。それで拳銃一丁ずつ配られたわけよ。重くてね。「弾は二つしかやらんぞ」と。「一発は撃(う)て、一発は自決(じけつ)しろ」というわけよ。僕は、「自決」という意味がわからなくてさ。それでね、みんなでいっせいに「ソビエト打倒! 倒せ!」なんて言ってね。それで家に帰ったんだけども、僕は恐くてね、非常に僕は。それで家に地下室があったもんで、地下室にそのピストルを隠したわけよ。やばいと子ども心に思ったんだね。あの時の体験と記憶はずっと残るね。なんていうことをこの将校たちは言うんだ、と。僕はずっと後で沖縄へ取材に行って、ひめゆりの少女たちの本(『ひめゆりの少女たち 沖縄戦にちった女生徒隊の悲げき』)を書くんだけども、その時も沖縄の少女から同じようなことを聞かされたね。あの時、「日本軍から戦えと、一緒に」ということで、それで「ダメな場合は自決しろ、と言われた」というんだ。それを聞いてね、昔の体験とこう重なり合うのがあってね。
 
えのきど:  でも生き死にの問題を考えなければならないことに、十四歳でなったわけじゃないですか。
 
那須田:  そう。目の前にね、関東軍という日本の兵士の死体が、荷車に乗っけられて、もう見ると、どういうことになっちゃったんだ、と。隣では死んだ奴もいるしね、いろいろあった。一挙に、昨日と今日で大違いで、世界がまったく変わった。だから死ぬということが、現実問題に一日違いでなっちゃった、ということですよ。だからその時初めて直感的に「頑張らなければいかんな、生きぬかなきゃダメだ」と思った。「死にのはとんでもない」と。
 
えのきど: 生き抜かなきゃダメだと思いますし。つまり死ぬかどうかということを考える前に、頑張って生きなければならない。
 
那須田:  そうそう。というのは、何故かというと、妹、弟がいたからね。病気がちの母親もいたしね。僕は長男で、中二年生で。
 
ナレーター:  ソ連軍の侵攻によって、日本人の暮らしは激変。物語は、次第に緊迫していきます。
それまで満州を支配してきた日本人に対する中国人の不満が一気に噴き出しました。タダシの家にも石が投げられ、一家は地下室に逃れます。そんな時タダシの家に親友のヤンがやってきます。
 
「おうい。」
と、まどの外でよぶ声がきこえた。
「ぼくだよ。」
お! ヤンだ!
「ヤン=ルウチャン! いま、げんかんをあけるから。」
タダシは、うきうきした声でいって、げんかんにかけていこうとした。そのとき、
「お待ち、ヤン君だって、気をゆるしてはいけないよ。」
と、おとうさんがとめた。
「だって、ヤン君だよ。」
タダシは不満だった。
(ヤン君は、友だちだ。友だちがやってきたのに・・・。)
タダシがぐずぐずしていると、ヤンがまどのむこうで、
「おうい、タダシちゃん、げんかんをあけなくてもいいよ。手紙書いたから、よんでくれ!」
ヤンは、まどから、アサぶくろをぽんとなげこんでかえっていってしまった。
(ありがとう)
タダシは心がはりさけるようになった。せっかくヤンがきてくれたのに、あうこともできないなんて!
(『ぼくらの出航』より)
 
ヤンは窓から麻袋を一つ投げ込みます。袋の中から出てきたのは、一羽の鶏。逃げ回る鶏を追って、一家は笑いに包まれます。ヤンからの思い掛けない贈り物でした。鶏には手紙が添えられていました。
 
タダシちゃん、たいへんなことになってしまったね。
でも元気を出してください。日本が戦争に負けたって、ぼくたちはやっぱり友だちだ。日本が中国をいじめていたことは知っている。だが、日本人ぜんぶの責任ではないと、おとうさんがいった。ぼくも、そうだと思う。ぼくたちは、これからもずっと友だちでいたい。きょうは、ニワトリをもってきた。タマゴをまい日うむ、すてきなニワトリだ。かわいがってくれたまえ。
では、また、
さようなら。
ヤン=ルウチャン
(『ぼくらの出航』より)
 
しかし平穏はつかの間でした。タダシの父は、ソ連軍に抑留され、シベリアに連行されて行きます。自宅もソ連軍が接収。収容所に向かう途中、身体の弱かった母は病死してしまいます。タダシは天涯孤独(てんがいこどく)になりました。
えのきど:  本の中で、お母さんが亡くなった。これは本当ですか?
 
那須田:  いやいや。母親は病気になっただけで、生きて帰って来た。
 
えのきど:  お父さんは、ソ連軍に連れて行かれたと。これは本当ですか?
 
那須田:  それは本当。ソビエト軍の司令部に捕まったんだけども、それで連行されるトラックに乗った。それで、「おーい! 稔、元気でやれよ! 頑張れよ!」と去って行ったのは事実なんだけども、ところがそれから三ヶ月したら、鶏が届いた。その鶏の脚に手紙が付いていた。それを開いたら、「俺は、中国人の信頼できる人間に助けられた。そこにいると。今すぐ帰るということはできないから、暫くはここにいると思う。自分は会えないと。その代わりその鶏の卵を食って頑張れ」という父からの手紙が付いていた。『ぼくらの出航』の中では、ヤン君が届けてくれた、となっているけども―そういうことです。
 
えのきど:  例えば、お母さんが急に倒れられたり、身体が具合悪くなったり、お父さんが三ヶ月とは言い、連行されて、いなくなって、「俺しっかりしなければならないな」と思う。なんというか大人にならざるを得ないような思いが、
 
那須田:  僕はね、ソビエト軍の石炭運びの仕事に就いたわけよ。それで夜中まで働くと倍貰える。僕は朝から夜中まで働くチームに入ったんだけどね。夜、石炭山に上ると切なくなる。星空は明るいけどさ。その時に話は脱線するかもわからんけども、ちょっと二、三年前に、小学校の先生が、戦争に出征して行く時に、「君たちにたった一つ言いたいことがあると。宮澤賢治という作家がいる、俺の出身地の素晴らしい作家だと。その中の『風の又三郎』の冒頭の詩を朗読してくれないか」と。これは、
 
どつどど どどうど どどうど どどう
ああまいりんごも吹きとばせ
すつぱいりんごも吹きとばせ
どつどど どどうど どどうど どどう
(宮澤賢治『風の又三郎』(初版)より)
 
この四行の詩をみんなで教室で合唱したわけよ。「ありがとう。俺は戦地へ行って、どんな時でも君たちの合唱の声を思い出して、なんとか頑張ってみるから」と。で、「あばよ!」と消えて行った先生がいたわけね。僕はその石炭運びの最中に、深夜労働だから空を見上げながらね、みんなで合唱したこの「どつどど どどうど」を自分で口ずさむわけよ。それは勇気づいてきて、元気出して、みんなどっかで頑張っているだろう、と思いながら。その宮澤賢治の『風の又三郎』は、僕の人生の恩人なのよ。いまだに大事にしている。
 
ナレーター:  終戦後のハルビンで一人生きるタダシを支えてくれたのは、同じ境遇の少年たちでした。中国人のチン、朝鮮人のサイとアヒル。日本人のタヌキ、身よりのない子どもたちは、逞しい行動力で生き抜いていきます。
 
石炭は午後の太陽に、
きらきらかがやいていた。
石炭のつよいにおいが鼻のあなに、つうんととびこんできた。かれらはいそいで石炭山にかけこむと、ものいわずにふくろをひろげて、石炭をかきこんだ。
「どうだい、すごいい宝の山だろ。」
もってきたふくろは、またたくまに、いっぱいになってしまった。もちあげると、ずっしりと重い。
五人は鉄条網にかけより、はらばいになって、つぎつぎに出ていくことにした。だが、こんどはきたときとはちがい、石炭のふくろをせおっているので、なかなかうまく鉄条網をぬけられない。
「早くしろ。みつかるぞ!」
すばやくさきにぬけだしたサイが、むこうでどなった。
ふとったチンがてまどった。タダシは、いらいらしながら待っていた。と、そのとき、ソビエト兵が遠くからわめいてかけよってきた。やっとチンがぬけた。タダシも石炭ぶくろをしっかりかかえて、鉄条網をくぐろうとした。鉄条網のやぶれめに、石炭ぶくろがひっかかった。
「にげろ!」
鉄条網にひっかかって、ばたばたしているタダシをおいてきぼりにして、四人は、まるくなってにげだした。
「ま、待ってくれ!」
タダシははんなきになってさけんだ。うしろから、ソビエト兵の足音が近づいてくる。タダシはむちゅうになって、ふくろをひっぱった。ふくろが、ピリッと音をたててやぶれた。中から石炭が、ばらばらとこぼれた。だが石炭をひろっているひまはない。タダシはまえにつんのめるようにしてにげた。
ソビエト兵がなにかわめいた。
ダーンッと、銃声が一発、耳もとをかすめてとんだ。目のまえに水のかれたどぶがあった。タダシは、がばっとどぶの中にころがった。
(『ぼくらの出航』より)
 
那須田:  そのうちに仲間ができてきた。一緒に石炭泥棒をやった。ほんとにやったんだよ。ほんとにやらなかったらあれ書けない、ああいう描写は。リアリティでなくなっちゃう。書きようがないし、そういうストーリーも生まれてこないね。仲間と行って、ほんとにやったのよ。鉄条網の間を潜り抜けて、ソビエト軍の監視の隙を狙って。その時には僕は、物語を同じような仲間がいたわけよ。それで一人は、ソビエト兵が来たのを知らせるとか。それは僕らは冒険だね。冒険の心を揺さ振るようなね。ほんというと殺されるかもわからないけども、自動小銃だもの。帰ってきて母に言ったら、ぶん殴られてね。「止めなさい!」って。しかし断固、石炭に向かって行ったね。
 
えのきど:  友だちは、那須田さんにとってどんな存在だったんですか?
 
那須田:  共同生活者だね。昔の言葉で言うと、「同志」というか、志を同じくする。
 
えのきど:  いろんな国の、中国人もいれば、朝鮮人もいれば、いろいろなんですよね。みんな生きていくために関係ないんだね、そんなことは。
 
那須田:  あの時、たくさんチームができたね。
 
えのきど:  でもその時のいろんな国籍の、いろんな国の友だちと通じ合えたみたいなことって、一生の経験、
 
那須田:  そうよ。それがあったから今あるわけだよね。
 
ナレーター:  終戦の翌年、日本に引き揚げてきた那須田さん一家は、浜名湖畔に住む親戚を頼って新たな生活を始めました。ハルビンとの環境の違いから、なかなか浜松に馴染めなかった那須田さん。次第に、文学―とりわけ詩の世界に惹かれていきました。高校に入学すると、詩の雑誌に次々と投稿しながら、仲間と文芸部を立ち上げて創作活動を始めました。
 
えのきど:  報道する那須田少年としては、詩を書くというのはどういう感じなんですか?
 
那須田:  それはやっぱり満州大陸が、中国大陸が僕の故郷だと思っている。それがなくなった、と。だから祖国喪失の思いなのよ。母国への賛歌、それを書いたのよ。僕の心の故郷は満州時代の日々だったんですね。
 
えのきど:  つまり日本ではなくて、あの大陸満州が、
 
那須田:  そこで出会った国際の子どもたちとの繋がりがなくなったからだね。
 
えのきど:  中国人や朝鮮人やロシアの少女や、
 
那須田:  それがなくなった。同じ民族だけがいるということが不思議でしょうがなかったよ。日本人だらけ。その辺が違和感で、なかなか日本の子どもたちとは交流できなくてね。
 
えのきど:  世界が変わる。全然住んでいる環境が変わるみたいなことって、子どもの気持ちの中でいろんな変化をもたらしますよね。
 
那須田:  だから今考えてみると、僕は幸いなことに中学生だったからね。思春期の真っ直中でね。だから世界が違うなと思って、割り切ることができた。その中に飛び込んでいくことは、また跪(ひざまず)こうとは何にも思わないのね。僕は、君たちの知らない未知なる国から来たプリンスかもわからない、と。
 
えのきど:  未知なる国から来た。つまりそれは言い方を変えると、「俺は俺だ」という感じですね。俺は俺だから、それはみんなにわからないかも知れないけど、自分でもっていようと。
 
那須田:  それでそのきっかけが詩を投稿する。投稿したら掲載されると、全国のbPぐらいに思う。
 
えのきど:  書いたものを、誰かに読んで貰いたいな、誰かに届くといいな、というのはありましたか。
 
那須田:  それは書いていればね、昔の仲間が読んでくれるかもわからない。昔の好きだった女の子も日本にみんな引き揚げてきたね。だから毎回投稿していた。普通の授業時間も詩を書いていた。怒られてね。「何しているのや!」って。でも俺は詩人なんだから、と思うよ。それから電信柱にぶっつかりそうになりながらも、詩のことばかり考えていた。熱中するんだものね。熱中して他のことが目に入らないのよ。次の詩はどう書こうかと。ぶっつかったのよ、電信柱に(笑い)。
 
ナレーター:  一九五一年、那須田さんは、東京の大学に進学しました。坂口安吾(さかぐちあんご)(1906-1956)の敗戦直後に発表した『堕落論(だらくろん)』に感化され、安部公房(あべこうぼう)(1924-1993:1951年『壁』で芥川賞を受賞)らの、戦後の新しい世代の文学者と交流を深める中で、前衛的な詩の世界にのめり込んでいきます。
 
えのきど:  その時は、自分は詩人として立とうと思っていましたか?
 
那須田:  もう「詩人だ」と言っていた。
 
えのきど:  なかなか向こう気が強くて、いい若造ですね。
 
那須田:  そうよ。髪を長く垂らしてね、如何にも詩人なんだと。それで眼孔をランランとして、というように自分で思っている。文学が好きだったから、坂口安吾という戦後の大作家をよく知っていて、作品を読んでいましたよ。
 
えのきど:  戦後の日本―終戦直後だとか、戦後その後の混乱期と言われるようなとこというのは、いろんな価値観が動いていったり、引っかかる、転倒するところですよね。そこで安吾は、それをもっと特に『堕落論』なんかで積極的に―前衛でしたよ―いわば破壊の力によって何か新しいものを作ろうということでしたよね。
 
那須田:  そう。
 
えのきど:  だから破壊への強い衝動というのを胸の中に抱えていた作家ですよね。
 
那須田:  共鳴したからね。それで難しいけども、言っていることはなんか響いてきてね。僕が詩を書いていた中央詩壇の先輩たちも安吾的なグループがいて、一人は安部公房という―安部公房はその時は東大の大学生時代だかな―いたんですよ。一応小説作家として頭角を現してきた。『壁』が芥川賞に入った年かな。東京に入ったら忽ちに誘われたのは、全学連ですよ。全学連を知らなかった。知らず知らずのうちに僕も全学連の仲間に入って、だんだん先頭を切るようになっちゃって。
 
ナレーター:  詩の仲間を通じて学生運動に参加した那須田さん。大学二年生の時に、人生の転機となる事件に遭遇します。朝鮮戦争が勃発し、再軍備に向かい始めた日本。一九五二年のメーデーでは、政府への批判が大きなうねりとなっていました。デモ隊は、皇居前広場で警官隊と激しく衝突。投石するデモ隊に対して、警官隊が発砲します。二人の死者と千人を越す逮捕者を出した、いわゆる血のメーデー事件。那須田さんも、この日皇居前広場にいました。事件の翌月に出版された『ジャパニイズ廣場』。那須田さんの最初で最後の詩集です。「ジャパニイズ廣場」とは、那須田さんが皇居前広場に付けた名前です。
 
このいちにち。
ずりあるいたが変にいたましく。
人間わ人間と腕を組みあわせ。
絞首刑執行人がおまえで。
絞首刑被執行人がおれだ。
万事解決したら交代だ。
行くんだ。
朝鮮事件わどこに起こっているのだ。
砲煙わどこであがったのか。
人間のにぶい色わ壁をつきぬけて。
(『ジャパニイズ廣場』より)
 
那須田:  ここで皇居の広場にやって来た。グループが入ったら警官隊が門に立って、遮断なのよ。出れないの。そこへ向かって警官隊が銃を撃ってきた。ほんとよ! 正面へ向かって撃つんだよ。恐かったなぁ! 木の上に上ってね、逃げた。
 
えのきど:  いわゆる血のメーデー事件というのは、那須田さんにとって、何か残る、何かを変える経験だったんですか、それとも変わらない?
 
那須田:  メーデー事件はね、戦争のハルビン体験ね―みんな殺されるとか、傷ついたとか、そういうことを思い出したね、ここで。警官が真っ正面からピストルを正面から突き付けてきた時には、これ日本かと思ったね。猛然と沸き立つものがあってね。それ以来ますます警鐘していった。詩にはそんなにまともに書いていないけども、僕の詩はね。僕の場合は、アバンギャルド(前衛的)の詩であって、政治の問題と上手く結び付かないから表現できない。違うとこがあって、だんだん詩が難しくなってきたということもあるけども。ただはっきり言うと、詩が書けなくなった。今まで非常に情熱をもって関わってきた詩が、僕の方が遠ざかって、書けなくなった。
 
えのきど:  その時は苦しいですよね。
 
那須田:  苦しいというよりも、情けなくなったね。今まで俺は詩を書いていた。素晴らしい詩を書いていると思っている。それがある時追い詰められて書けなくなった。何にも書けないの。
 
ナレーター:  血のメーデー事件に関わった那須田さんは、大学を退学処分になりました。那須田さんは、浜松に戻り、父の建設会社を手伝い始めます。高度成長の中で、仕事に追われる日々。次第に詩から遠ざかっていきました。しかし結婚して長男が生まれた時、那須田さんは、子どもに自分の人生を文学の形で伝えたいと思うようになりました。
 
那須田:  満州から無事に帰ってきた。そして素晴らしい恋愛をして、結婚したら子どもが生まれた。その時思ったのよ。いつどういう状況が起こるかわからないと。その時僕はその時生きているかどうかわからないと。いつどうなるかわからない。なんとか自分の言葉を伝えたいと思っていた。その最初は、斎藤秋男(さいとうあきお)(中国思想や中国児童文学の研究者:1917-2000)という教師が、「今、日本児童文学の新人を募集している。詩を投稿したらどうか」と書いてきてくれた。ふっと戦後の動乱の中で石炭運びしながら、宮澤賢治の詩を口に出して空に向かって読み上げたことの記憶が、パッときたんだ、その時に。難解だった壁にぶつかった力から解放されるということもあったかもわからない。逃げたいということもあったかもわからないけど。僕の求めているのは、そういうアバンギャルドな詩ではなくて、宮澤賢治に連なる子どもの物語及び文学ではなかったか、と気が付いたね。ほんとは父親の事業を継げば生活は困らない。妻は、むしろ「東京へ行こう。どんなに苦しくてもいい。あなたの好きな世界へ飛び込んで行こうじゃないか」と言ったのは妻なの。僕はちょっと動揺していたからね。
 
えのきど:  それもまた「東京へみんなで行こう」という奥様がおっしゃったのも、冒険の旅ですよね。
 
那須田:  そう。
 
ナレーター:  転機が訪れたのは、三十歳の時でした。父の正男さんが、突然交通事故で亡くなり、那須田さんは、このまま会社を引き継ぐのか、決断を迫られます。この時那須田さんを突き動かしたのが、文学への止みがたい思いでした。会社を親戚に譲り、家族と共に再び東京を目指します。一年でものにならなければ、文学は諦めよう。背水の陣で臨んだのが、児童向きの長編小説のコンクールでした。
 
那須田:  応募の締め切りが、三月何日かというわけ。それに向かって書いてね。初めてなの、三百枚書くのは。いきなり長編小説を募集しているという。でもこれを書かないと、子どもたちは飢えて死ぬからね。書いて書いてね。もう疲れてね。ところが筆をおろすことできないのよ。書き上げなかったらさ、子どもたちの生活どうするのか、と。
 
えのきど:  それはやっぱりお子さん二人いらっしゃって、食わせなくちゃという凄く大きいですか?
 
那須田:  大きいね。今まで初めてだものね、生活困ったのは。その前は父親が世話してくれたしね。それで妻が、テストの採点のアルバイトで、小さい子ども二人連れて会社へ行って、仕事を貰って帰って来て、夜遅くまでテストを採点してやらなければならない。
 
えのきど:  でもそれは長編を初めて書くために籠もっている時間というのは、言ったら十四歳の時に、石炭拾っているの同じで、生きていかなければならないという馬力ですよね。
 
那須田:  そう。それはエネルギーがあったね。
 
ナレーター:  こうして生まれたのが、『ぼくらの出航』でした。物語の後半では、主人公のタダシとその仲間の活躍が、冒険活劇として描かれています。クライマックスは、悪漢のチャンに捕まったタダシを仲間が救出に向かうシーンです。
 
とつぜん、
「わぁ!」
というさけび声が、外のほうであがった。と、同時に、まどガラスが、ガチャンと音をたててわれた。外から石がなげつけられたのである。
「やあい、チャン、石でもくらえ!」。
子どもの声がして、また、ばらばらっと石が酒場の中にとびこんできた。
「チンピラどもめ!」
チャン親方は、血相をかえて、外へとびだしていった。
 
サイが屋根裏に、ひらりととびこんできた。かれは、ポケットからジャックナイフをとりだして、タダシをしばりつけてあるロープをぷつんときった。
「さあ、にげるんだ。だいじょうぶか。」
「待ってくれ。アンナをつれていく!」
タダシはサイにいった。
(『ぼくらの出航』より)
物語は身寄りのないロシア人の少女アンナを仲間に加えて、終盤へ迎えます。最後に描かれるのは、タダシと中国人の親友ヤンとの劇的な再会です。ヤンの仲介で中国軍に無事保護されたタダシたちは、それぞれの母国で新しい暮らしを始めることになります。本のとびらには、那須田さんがこの作品に込めた思いが書き記されています。初の長編小説『ぼくらの出航』は現在のトムソーヤの冒険と絶賛され、コンクールに入選。出版された本は、ベストセラーとなりました。
 
那須田:  少年は、夢がいっぱいあるんだと。それをもってみんなで手を繋いで生きていこうということを、その時代を背景として書きたかったわけね。
 
えのきど:  生きなきゃならないんだという、まさに行動のとこの一つひとつは、多分決断が必要だった筈だし、つまり少年たちが跳躍していくところ、ジャンプしていかないとできないんですよ。那須田さんだって、いろんな時に、おっかないなぁとか、不安だなみたいなのが、もしかしたらあったかも知れないけど、その都度やっぱり跳躍できているし、今児童文学のお話を伺った時も、わりとむしろ楽しんでチャレンジができるんですよ。
 
那須田:  冒険の旅に旅立つという感じね。新しいものに向かってやっていけるという自信は、どこから出てきたのだ、ということを、今思い出したよ。今、ほんと。それは母親でもないんだよ。父親だったんだよ。父親は、ほんとに僕を可愛がってくれたと同時に、励まし続けてくれたね。父親は浜松の街の市役所の土木課にいたの。土木課の給料の三倍以上の給料を、南満州鉄道株式会社が出すから来てくれと誘われた時に、行こうと思った。子どもを育てるために、家族をね。で、満州へ行って。ほんとに父親からは、ある意味では厳しく、ある意味では励まされて育った。小学校の四年の時から弓道を教えられて、毎朝早くもう五時ぐらいに起きて、弓道場へ行って弓道をやり続けた。矢を射る瞬間を厳しい目で見ているわけよ。的に当たった場合、抱擁してくれたね。「やれるじゃん」ということでね。それで父親は出張が多かったから、南満州鉄道株式会社の出張ね。居ない時も弓道をやった。父親がそばにいると思うじゃない。それはやっぱり僕の脂肪の中に入っていたね。今、思い出したよ、ほんと。何かあったんだ、どっかに。父親の厳しいなんか試練と抱擁と。一生懸命やれば扉開くんだね。
 
えのきど:  それが思えるかどうかは、ほんとに違いますよね。子どもにずっと残っていく。生きていく力を与えるようなもの、そういう種みたいなものというのは、あげたいですよね。その自分の実際の子どもにもあげたいし、読者の子どもにも生きる力になる。ずっとその子の力になる。
 
那須田:  そういうものを書いていきたい。書いてきたと思うし、これからも書いていきたいね。
 
ナレーター:  東京に留まり、少女小説、伝記、創作民話と、作品世界を広げていった那須田さん。四十五歳の時、母の介護のため故郷浜松に帰ることを決意します。那須田さんは、郷里に戻ったのを機に、自分で出版社を立ち上げました。初代社長は、妻の敏子(としこ)さん。故郷に出版文化の拠点を作ろうと、浜松の古い地名に因んで、「ひくまの出版」と名付けました。会社を設立して三年あまり、那須田さんのもとに、ある少女の日記が持ち込まれます。
 
那須田:  天竜養護学校というのがあって、身体の障害を持っている人たちが通う学校がある。天竜養護学校の先生が来て、実は聡子(さとこ)ちゃんという人がいてね、先天性胆道閉鎖症(たんどうへいさしょう)と言って、この病気は、現在の医学の力では、治すことが大変難しく、最後は肝臓が悪くて生きていけなくなってしまうという。でも非常に頑張って生きて、十四歳で亡くなった女の子がいるんだけど、それで家に原稿を持って来たんだけども、「命日に自費出版で出して、聡子ちゃんの仏壇にあげたいし、知人に配りたい」とダンボール箱五つ持ってきたんですね。社長の敏子が読んで、「聡子ちゃんは素晴らしい」という。
 
ナレーター:  それは静岡県に暮らす鈴木聡子さんが、十四歳で亡くなるまで書き続けた日記でした。親元から離れ、病院で闘病を続けた聡子さんは、身の回りの出来事を素直な言葉で綴っています。
 
八月五日(月)はれ
きょうは、さと子のたんじょう日です。
ママがきて、いろえんぴつを、かんじのかきかたの本をもらいました。バァバからは、びんせんとふうとうと、えノートです。
ママたちが帰ったあと、ちょっと雨がふりました。お天気雨でした。雨がやんだら、大きなにじが、天竜川の上にかかりました。
さと子は小さいころ、にじを見たことがあります。病院のまどからみたにじでした。こんどのにじは、天竜荘の山の上から見るにじです。にじをわたっていったら、おうちにかえれるかなあと思いました。たんじょういわいにもらった、いろえんぴつで、にじをかいていたら、ほんとうのにじがすこしずつ消えていきました。
(『さと子の日記』第二章さと子の一年生)
 
七月六日(木)はれ
きょうは七夕です。
短ざくを、ささにつけました。私はあまり願いごとを書きたくありませんでした。生まれてからずっと、病気がよくなるように願っているのに、どれひとつかなったことがないからです。
なにも書かずにいたら、沢入(さわいり)先生がそばに立ってにこにこわらっていました。沢入先生って、すらりと背のたかいハンサムな男の先生です。沢入先生がそばにいるだけで、うれしくなります。私はどきどきして、短ざくに「てんきになれ」なんてへんなことを書いてしまいました。
(『さと子の日記』第六章さと子の五年生)
 
亡くなる前の日記には、保母(ほぼ)になりたいという聡子さんの夢が記されています。日記を読み終えた那須田さんは、なるべく原文に手を加えずに出版することを決意しました。『さと子の日記』は、子どもたちの圧倒的な支持を受け、九十万部のベストセラーになりました。
 
那須田:  聡子ちゃんは小さい時から、日記を書くというのが好きでね。絵を描いている。自分は一歩も外へ出れないけども、物語―空想の中で世界旅行やったりしているわけよ。僕読んだんだよ。ほんとに素敵なんだよ。健康な子どもよりもっと健康でね、精神がね。あ、これはやっぱり本にして出版しようと。自費出版じゃなくてね。世に問おうじゃないかということで、僕の本に描いてくれる有名な挿絵画家に依頼して絵を描いて貰った。ところどころ文章のダブったとこを整理して、編集をして出版をした。
 
えのきど:  那須田さんは作家なのに、他人(ひと)の原稿を本にするというのは、つまり聡子ちゃんは他人なわけですから、それはどんな感じなんでしょうか?
 
那須田:  それは創作活動と同じでね、僕が出したいものを出版すると。僕が書くんじゃなくてね。作品作りをサポートするということで、僕の出したいものを出版しているという出版社があっていいんじゃないかと。作家が出版社をもっているのは、僕のところしかないし―ヨーロッパはいっぱいあるんだよ。作者は小さい出版社を作っている―作ってよかったと思うんだよ。あまり僕に属しているものばっかり出しちゃうと、詰まらないじゃないかと思う。僕に属しているものでなくて、僕の知りたいことを書いてくれたその作品を、僕が協力して出版していくという。だからなんか文学的な本はないのね。ノンフィクションが多いのよ。
 
えのきど:  なるほど。そういうことですか。
 
那須田:  やっぱり今生きる子どもたちに対しての出版をやっていこうと思って。
 
ナレーター:  出版社を経営する傍ら、自らも書き続けた那須田さんは、これまで百点を越える作品を生み出してきました。次回作は、モンゴルの少年と抑留された旧日本兵との友情をテーマにした成長物語です。
 
えのきど:  ちょっと話が飛ぶようなことなんですけど、僕は個人的に凄く関心があることがあって、「成長物語」とさっき那須田さんがおっしゃったことってあるじゃないですか。つまり苦難を乗り越えて、あるいは何かに立ち向かっていくことで、例えば少年が物語の中で成長していく。そして何かを掴み取っていくという。世の中は、成長しなくなっているんです。成長、あるいは成長の形が変わっている。僕の感では、わりとある種の子どもは早くわかっちゃうんですよ。今、空気を読み取ることにもの凄く敏感で、まあビクビクしながら。子どもですよ、ちっちゃい子が。例えば小学生ぐらいの子が、自分が変わっていないように、みんなから目立たないように、ほんとにピリピリしながら空気を読もうとしたり、あるいは読んでない子が虐められたりするような。
 
那須田:  つまりその子どもたちは救えないんじゃないかと。
 
えのきど:  簡単にいうと、煎じ詰めるとそういうことだね。
 
那須田:  それだったら文学を書くことも支障にならないし、僕の場合は、どんな子どもにも、僕のページさえ開いてくれれば、子どもの心を開くという自信を持って生きてきたし、これからもその自信をもって生き抜こうと思うのよ。それでもし僕の本を読んで、子どもが解放されないならば、僕の存在価値はないからさ。
 
えのきど:  例えば「立ち向かっていけ、闘え」ということをあまりにも、
 
那須田:  言っちゃいけない、物語の中では。物語を読む中で、自ら確信を持ちうるような、そういう作品を書いていきたいし、書いてきたんだよ。いろいろな物語があるけども、いろんな子どもたちの中にどうやって入ろうかじゃなくて、僕のメッセージを堂々と伝えることで、必ず扉を開いてくれる―心の扉をね。だから明日もそれに向かって原稿を書き続けるわけね。それ僕自身へのメッセージと同時に、今から生まれてくる子どもたちへのメッセージでもあるし、亡くなりそうな人たちへのメッセージでもあるわけよ。だから絶対ね、子どもは心を開くと思っているの。そんなのでなければ書けないですよ。毎日もう大丈夫かと思いながら、なんか八十代はダメになったとかさ、感覚がなくなっちゃったと思う。でも書くことで、それを突破しているね。
 
えのきど:  書くことで突破していく。
 
那須田:  書けなくなった時だよ、思うのは。イメージが湧かなくてね、全然。書くことで突破していくしかないから。
 
     これは、平成二十五年五月五日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである