私にとっての3.11奪われた野にも春は来るか
 
                    韓国人写真家 (チョン)  周 河(ジュハ)
 
ナレーター:  今年三月、東日本大震災から二年目を迎えた福島県南相馬市(みなみそうまし)です。福島第一原発から二十キロの範囲内に入っていた地域では、去年まで、人々は生活することを禁じられていました。警戒区域の見直しによって立ち入りが許され、津波に襲われたままだった瓦礫の撤去が、漸く進んでいるところもあります。震災が起きた二○一一年から二年間、福島県に通い続けている韓国人の写真家がいます。鄭周河(チョン・ジュハ)さん。韓国から被災地を訪ねる旅は、今回で六度目となりました。南相馬に生まれ育った西内祥久(にしうちよしひさ)さんは、レンタカーを借りて、撮影の旅を続ける鄭さんに付き添え、道案内をしてきました。慣れない土地を巡る鄭さんを支えてきたのは、地元に暮らす人たちでした。来るたびに表情を変えていく被災地。鄭さんは、そこで何を見続けようとしているのでしょうか。鄭さんが、真っ先にカメラを向けたのは、津波の被害が生々しい家屋や瓦礫ではありませんでした。カメラの先にあったのは、集落に寄り添うようにこんもりと茂った森です。
 

鄭:  今、ここに来ながら見ますと、この村の方々にとって、ここはとても重要なところだったような気がしました。樹齢を重ねた樹も竹林もあります。とても美しく、みなさんが喜んで訪れていた場所だと思いました。周りはこんなに荒廃していますが、樹はめげずに立っている。ここに暮らす人が、この樹を見ながら、何を考えて来たのか。どういうことを今考えるべきなのか。それが私の心の中に入ってきたのです。
 
ナレーター:  鄭さんが、福島県を訪ねて撮り続けてきた写真。原発事故が起きる以前から、人々の生活の傍らにあった風景が写っています。変わらない風景の中の、何が失われ、何が奪われたのか。鄭さんは、それを見詰めようとしてきました。
 

 
鄭:  二○一一年三月十一日以後、テレビや新聞で福島から大量に届く報道を見ながら、私は多くのことを考えました。この経験を通して、私は何を見詰めるべきなのだろうかとずっと悩みました。津波による被害の状況や被災者の失意のどん底にいる姿。彼らの苦痛や叫び、そのようなものを、私は撮って見せるべきなのだろうかという疑問を抱きました。来る前に調べて知ってはいましたが、ここは本当に美しいところですね。まるで韓国のカンオンドにある山里のようです。カンオンドは大変貧しいところですが、季節を問わず本当に綺麗です。私はここに来て、カンオンドを歩いているような印象を持ちました。私が来た十一月は、本当に秋が真っ盛りの時期でした。美しい紅葉で満ち溢れていて、彩りが豊かでした。とても新鮮な空気、晴れ渡った空、その中には放射性物質も混じっていたのですが、そういうものに出会えたのです。それは変わることなく、数万年から数百万年の間、そこにあり続けてきました。そしてこれからも四季は絶え間なく続き、その姿は変わらないでしょう。
私はそうした動かすことのできない本質を、自分の写真を通じて見せることにより、この被災地に暮らしている方々が、ここはどこなのか。私たちは、何を見ながら育ち、どこに住んできたのかということを真っ直ぐ見詰めれば、私の写真もよりよいものになるのではないかと考えました。ここは果たしてどんな場所だったのか。私たちが本当に見なければならないのは、まさにそういうことだろうと思うのです。実は私は、日常の中に潜むきざし、兆候に目を向け撮影してきたと思います。長い歳月、写真の勉強を重ねながら、変わらなかった私の関心は、生活の中にある兆候や意味でした。そのようなものを写真で表現しようとしてきたのです。
 

 
ナレーター:  日常の中に潜むきざし、兆候。鄭さんが福島を写そうと考えた背景には、それまで韓国で撮り続けてきた写真の蓄積がありました。貧しい家庭に生まれた鄭さんは、高校生の頃、近くの現像所から借りたカメラで写真を撮り始めます。以来、人間の生き方や社会を問い続ける鄭さんの写真は、アメリカやドイツを始め、ヨーロッパ各地で高い評価を得てきました。鄭さんが追い続けてきたテーマ、それは土や水、火といった人間の暮らしと切り離せない生活の根源を支えるものでした。二○○八年に発表した写真集『不安、火―中』。「火」をテーマとした一連の写真で、鄭さんが写したのは、韓国の海岸沿いに広がる原子力発電所のある風景でした。これらの写真を通じ、不安の兆候を撮り続けてきたことが、鄭さんの目を、現実に大事故が起きた福島へと向かわせたのです。
 

 
鄭:  写真家によってそれぞれが違いますが、私の方法は、撮影の一連の作業を終えてからタイトルを付けるのではなく、最初に自分が何をするのか先ず考え、それについてよく勉強してから撮影を始めるやり方なんです。言葉としての意味も考え、テーマとモチーフを吟味し、何を撮るべきか。長い時間をかけて考えます。水をテーマにした写真の次ぎに、「火」のテーマでは何をしようかと悩んでいた時、偶然霊光(ヨングァン)にある原子力発電に行くことになり、そこを見ました。そこで私は、実際の火を撮るのではなく、火を作り出す装置としての発電所。それも原子力発電所を撮ったらどうかと思い、勉強を始めました。何度も家の近所にある霊光(ヨングァン)原子力発電所を訪ねました。原子力発電所の周辺を歩いてみると、そこで暮らす人々の様子がとても変な感じなのです。原子力発電の近くと言えば、みな恐怖感がある筈でしょう。しかし近くの海で、人々は釣りをしたり、貝を取って食べたり、泳いだりして日常過ごしています。一方で、人々は夜ごと発電所から聞こえてくる「ウ〜ン、ウ〜ン」という唸るような運転音のせいで眠れないと訴えます。早く家を売り、引っ越さなければ、というような不安も、同時に抱えています。私は、この正反対の現象が、どうして共存できるのだろうと悩みました。見続けた結果、辿り着いたのが、不安は内側に潜んでいるということでした。不安を内に抱えながら、外目にはそうでもないように続く生活、不安が常に厳しく存在していることは確かだと思いました。原子力が作り出す火の内側から不安は生まれ、人は火の内側で暮らしている。ですから朝鮮語で、「不安(プラン)」は「火(プル)+中(アン)」。同じ発音の「火、中」をタイトルとして意味を重ね、「不安・火―中」としたわけです。住民たちの穏やかな日常を写し、その背景に原子力発電所が一緒に並んで見えるような構成を考えました。ただ普通に見た時はわかりません。視点が違えばわからないのです。しかし目をしっかり開いてみると、その状況が如何に非日常的で、不安なものなのかが見えてきます。原子力発電は、他の発電と違って、存在すること自体が不安なのだと思います。火を作り出すプロセス自体が不安なのです。中と外という境界がありません。外から見ていると、自分とは関係ないと思うかも知れませんが、問題が起きたら、外の人も自動的に引っ張り込まれてしまいます。水力や火力と違い、原子力発電には、内と外の境界がないという問題があります。福島の人々に犠牲を強いることによって、東京の人々が豊かで幸せに暮らす。どうして、誰が、福島の人々を窮地に追い込めるでしょうか。福島だけでありません。韓国で原子力発電所がある霊光(ヨングァン)、蔚珍(ウルジン)、古里(コリ)、月城(ウォルソン)、みんな同じです。どうすれば住民の内側にある不安を外に引き出し、彼らの省察(せいさつ)を引き出せるだろうか。その人々が直視すべき現実をさらけ出すために、私は、もっと易しい方法が必要だと思いました。易しいとは、ソフトにという意味ではありません。みんなで一緒に観察し見抜いていかねばなりません。私たちがともに深く学ぶことは何なのか。私たちは誰か、どんな現実に生きているのか。それをともに提示すべきだということです。
 

 
ナレーター:  韓国の不安から福島へ。鄭さんが撮影してきた福島の風景は、去年一冊の写真集となり、韓国で出版されました。百枚の写真が載せられています。日本の風景に寄せる共感と、そこに漂う喪失感。写真集には大きな反響が寄せられ、韓国の各地で写真展が開かれました。ちょうどその頃、写真を見た人の中から、ある企画が持ち上がりました。それは実際に被災地に暮らす人々に、写真を見て貰えないだろうか、というものでした。候補地となったのは、鄭さんが撮影で通い続けてきた南相馬市でした。鄭さんの撮影に協力してきた市民が、実現に向けて動きました。相談を受けた南相馬市の中央図書館が、場所の提供を決めました。鄭さんの写真展は、原発事故の被災地となった南相馬市で、震災から二年目を迎えるタイミングに合わせて開かれることになったのです。被災した人々は、韓国人の自分が捉えた風景をどう受け止めるのか。鄭さんは、何百枚にも及ぶ自分の写真の中から二十枚を選び、見て貰うことにしました。写真の展示を終えた鄭さんが向かった家があります。南相馬に来たら、先ず再会したいと願っていた人でした。二年前、鄭さんが初めて南相馬に来てから親交を重ねてきた佐々木孝(ささきたかし)さん。佐々木さんは、スペイン文学の研究をしていた東京の大学を退職して以来、故郷の南相馬に暮らしています。震災以後、青森に非難させていた息子夫婦と孫も、今は再びこの家に戻ってきました。佐々木さんは、原発事故の後、周囲が自主避難を始める中、介護が必要だった妻と二人、この家に留まりました。佐々木さんは、妻との生活をブログで発信し、本にしてきました。妻が居てくれたお陰で、自分は動揺せず、この地に根を下ろすことができた。佐々木さんは、「妻が自分の魂の重心になった」と表現しています。この日、鄭さんは、一冊の本を携えて来ました。『原発禍を生きる』という佐々木さんの本です。韓国で翻訳され、刷り上がったばかりのものでした。韓国版には、鄭さんが撮った写真が提供されています。その中には、新たに佐々木さんの家族や生活を写した写真も加えられていました。佐々木さんは、共に被災地に暮らす仲間にも、広く鄭さんの写真を見て欲しいと願ってきました。地元で鄭さんの写真展を開く活動の中心になってきたのが、佐々木さんでした。
 

 
佐々木: 鄭さんの写真集を見た最初の印象は、「希望」なんですよ、実は。希望ですね。確かに人影が写っていない写真なんですけどね。見る人によっては、寂しいと見るかも知れません。ある意味で厳しいですね。それはほんとに見方によっては絶望の風景なんですよ、人が居ないし。けれども、そこに見えてくる、初めてそこで本当の希望が見えてくると思いますよ。震災の二周年目、多分一番意味のある迎え方を、南相馬はすると思いますよ。
 

 
ナレーター:  鄭さんは、今回の写真展が、自分にとってここで何を見詰めてきたのかを問い直す機会になると考えています。
 

 
鄭:  私は、撮影当時、南相馬での展示を決めていたわけではありません。しかし私は地元の方たちの背後に立ち、その方たちの考えを貫くようにして、ここを見ようとしてきましたし、その思いを共有したいという気持ちはありました。みなさんのお陰で、福島に来ることができ、写真を撮るようになりました。私たちを案内してくれた方が、福島県に入ってから、最初に見せてくれたのが、郡山の朝鮮学校でした。校長先生によれば、生徒は避難させ、運動場はとても汚染されたので、土を集めてシートを被せたということでした。空っぽの運動場の隅にあるブルーのビニールシートです。その風景を呆然と眺めているうち、私は本当に福島にいるのだ。放射性物質に汚染され、被害を受けた地域に来ているのだと、心の底から深く実感することができました。山に分け入ると、牛を飼っていた痕跡(こんせき)や犬がいたような痕跡もありましたが、ガランとして何も動くものを見ることができませんでした。不安が募(つの)りました。吹いてくる風に、放射性物質が含まれているかも知れないという恐怖もありました。誰も居ないということからくる不安と恐怖が、私の心に残りました。南相馬の海も、海辺の被災地も、美しい秋の風景も見ました。実にさまざまな体験をしたのです。ある日の昼、私の祖母を思い起こさせるような、小柄なお婆さんたちに出会いました。彼女たちは、あちらこちら壊れている廃虚のような場所で作業をされていました。それは汚染された干し草を集め、片づけたりする作業でした。私は気楽に近づいて行き、自分が誰か名乗り、日本語は片言しかできないのですが、挨拶すると、とても喜んでくださいました。ちょうど休憩になり、みなさんはアイスボックスからジュースを出し、餅を食べました。そして私にも一つくれました。私も腹が減っていたので一緒に頂きました。「餅は喉に詰まるからお茶もどうぞ」と一本くださいました。その姿から、私は、この方たちは行動していること、行動するということを通して、現実を見据えているのだと感じました。海が福島にこんな禍(わざわい)を引き起こしたので、海に対する感情もありました。最初にここに来た時、私はレンタカーを借りて、あちこちを廻っていたのですが、海では車の中で寝泊まりしました。十一月の寒さの中で、何故そうしたかというと、海を感じたかったからです。海よ、あなたは何者なのか。したことはなんだったのか。勿論海に意図はなく、罪はないのですが。しかし私は防波堤にぶっつかる海によって、大地がどのように震えるか、一度体験してみたかったのです。防波堤の上に、木彫りの人形が置いてありました。津波が去った後に、誰かが載せたものでしょう。その人形は遠い海を見詰めていました。私は、その視線と海を一緒に撮影しました。人形の永遠に向けられたような視線、真っ直ぐに海を見ているその表情。それが今南相馬で暮らしている、あのような体験をした方々にも、見て頂きたい視線ではないか。表情ではないだろうか、と考えました。私は、自分の写真によってみなさんを慰めたり、頑張ってくださいなどという資格はないと思っていました。また自分は、そういうことをしているのではないという思いもあったのです。
 

 
ナレーター:  鄭さんの写真展は、五月中旬まで埼玉や東京でも循環することになりました。その皮切りとなったのが、被災地南相馬市で開かれた写真展です。原発事故の後、警戒区域に組み込まれた南相馬市。汚染を避け、一時故郷を離れていた人や、未だに仮設住宅で暮らす人もいます。写真展が開かれた三月八日から十日までの間、様々な被災の体験を持つ人々が会場を訪れました。鄭さんが写した「除染作業をする女性たち」。つかの間の休息の表情を捉えたこの写真の中に、知人を見付けたと伝えてきた人もいました。
 

 
見学者: 一枚の写真にできませんか。ここに来て初めてこの写真を見て、わかった。私の知り合いの方が写っておられる。
 
鄭:  あ、そうですか。
 
ナレーター:  女性の希望は、なかなか会えないこの知人に、写真を送ってあげたいというものでした。現像する写真の枚数は、プロの写真家として制限されています。しかし鄭さんは、韓国に戻った後、現像して送ることを約束しました。写された風景は、カレンダーのように美しい。しかしそれを見ただけでは、何が起きたのかわからないのではないか。鄭さんには、そんな問いも向けられてきました。原発事故の前と後、その狭間に見えるものは何か。自然の営みが変わらず繰り返されていく中で、それらの中に潜む目に見えないものを、どう伝えていくのか。鄭さんは、写真を撮る者と、それを見る者の双方が、社会に対する記憶や認識を共有していくことが、表現の限界を超える鍵になると考えています。
 

 
鄭:  私の写真には、霊山(りょうぜん)という山のあの紅葉や落葉などのように美しい風景がたくさん写っています。その美しさは、3.11以前とそれ以後で、同じものなのでしょうか。そういう問題があります。毎日のように、テレビでは空気中にある重い放射性物質が沈殿して、蓄積されている可能性があるので、落ち葉には触れず、足を踏み入れないことなどと言われています。水溜まりがあると、そこも汚染の数値はとても高いだろうから、入るなと注意されます。それを知っている人たちは、私の写真に写る美しい自然は、単に美しいだけではないと思うことでしょう。勿論そのような体験をしていない人には、その風景が、単にカレンダーでよく見るような、平凡な写真のように見えるかも知れません。しかし体験を共有し、認識している人たちには、一見普遍的な美しさのように見える写真も、単純な風景には見えない筈です。ですから私のような写真家は、私たちが共有する知識や経験を得て、それを利用し、対象に向き合う姿勢を通じて、私自身が見たものを伝えているのだと思います。写真は、ある事実を通じてのみ思いを伝えることができると思います。そのためには、私たちがお互いに共有する経験や知識をもってこそ、まさにその目に見えないものを見るようにさせたり、感じさせるのではないか。私はそう思っています。
 

 
ナレーター:  写真は、人間という存在や社会の瞬間的な断面を切り取ったものに過ぎない。撮る側も、見る側も、その背後にあるものを深く知ろうとすることで、写真を通じた対話ができるのではないか。鄭さんは、自分がシャッターを押す前に、先ず何を知るべきか。撮る相手とどう関係を築くべきか、考え続けてきました。鄭さんが、そうした写真家としての信念を持つ出発点となった写真集があります。それは精神を病んだ人たちが暮らす恵生院(ヘセンウォン)という施設で写したものでした。彼らは、鄭さんが大学の写真学科に入学した頃出会った人々でした。鄭さんは、何故彼らにカメラを向けたのか。きっかけは、鄭さんが大学周辺の高い下宿代を払えず、ある民家の好意で庭先を借り、自らバラックを建てて生活し始めた時のことでした。
 

 
鄭:  自炊生活を始めて一週間経ち、散歩していた時のことです。一キロほど先の山間に、ある家を見付けました。暗い感じの家で、表札には「恵生院(ヘセンウォン)」と書いてありました。中が見えず、そのまま帰って来ましたが、気になって、村の人に、「変な家があるけど、あれは何ですか?」と聞いても、教えてくれないのです。以来、毎日のように周りを歩いて見て、次第にわかりました。そこには病んでいるような人たちが往き来していました。私はそこを何度も訪ねました。そして院長にこう頼みました。「自分はここで自炊しているのだが、電気代と水道代のみ、一ヶ月に三百円ほどで生活させて貰っている。近所に何か恩返しをしたいんで、終末だけでもお手伝いしたい」。私は院長から許しを貰い、二年間週末毎に恵生院(ヘセンウォン)に通うことになりました。学期中は土日に行き、休みにはそこに一ヶ月ほど寝泊まりして、職員のように過ごしました。当時そこには、七十五、六名ぐらいの人が居て、職員は三人でした。院長、院長の義理の弟、事務員の三人です。三人が交代で二十四時間、七十人を看ていました。夜、柄杓に水を汲み、みなを立たせて薬を分けます。「病気を治す薬だ」というと、みな薬を飲みます。後でそれが睡眠薬だと知りました。その後、部屋に入れ、外から鍵を掛けます、朝まで。そんな彼らが聞いてくるのです。「お前は何者か」と。「学生だ」というと、「何をする学生か」と問うので、「写真家の学生だ」と答えました。すると彼らはこういうのです。「何故自分たちを撮らないのか」と。何ヶ月か過ぎた後、私に「写真を撮れ」と言うのです。それまで私はカメラなど持っていけませんでした。それから私は、用心しながらカメラを持って行き、撮り始めたのです。彼らは、自ら嵌められている手錠を見せたりしました。カメラに自分を積極的に曝(さら)そうとし、避けることはほどんどありませんでした。この時、疑問が生じました。この人たちは一体誰なのか。心の病とは何か。そういう疑問が浮かんできたのです。この人たちは誰か。何故自分ではないのか。ずっと悩みました。初めて聖書も読んでみました。聖書にこんな一節があります。
 
ある日、イエスさまが村に行くと、人々が雲のように集まりました。その中に足の不自由な人がいました。病気を治してほしいと願っていました。イエスさまはこう言いました。お前の罪は赦された。さあ寝台から起きて歩いて行け。するとその人は、サッと寝台から起きあがって群衆へと歩いて行った。
 
そのような内容の章があるのです。それを読んだ時、私は、その足の不自由な人が、どのような罪を犯したのかがわかりませんでした。神学者の方は、人間にとっての原罪という話をされ、この一節を説明されるのですが、私の理解は届きませんでした。相手の光りを集めて、私が撮るのが写真です。すると相手と私の間に距離があってはいけません。少なくとも気持ちの上では。しかし私は、相手の存在そのものがわからないのです。この溝は大きいですね。誰かを撮って表現して、善いとか悪いとか、そういうことではなく、私自身が相手を理解しなければならない。しかし理解できないのです。ですからしきりに疑問が湧き、どんどん内側に入り込んでしまいました。自分が本当に無知であることがはっきりしたのです。写真の技術的なことは二の次で、先ず本当に勉強しなければならないのは、これだ、と思いました。そうすればもう少し何かできるのではないかと。それでとにかく哲学を勉強しようと思ったのです。
 

 
ナレーター:  鄭さんは、自分の大学が、キャンパス拡張のため恵生院(ヘセンウォン)を買収して取り壊すと知り、抗議して大学を中退。人間という存在を深く知るため、哲学を学ぼうと、ドイツに留学します。そこでの体験を通して、鄭さんは、さらに写真がもつ意味について考えていくことになりました。
 

 
鄭:  ケルン大学の哲学科には、大勢の学生がいました。その時出会った人々から、私が学んだことはたくさんあります。真っ直ぐな気持ちの頭脳明晰な人が大勢いて、ヘーゲルやカントを学んでいましたが、博士課程で勉強している彼らは、十五年も二十年もかかっても、まだまだ終わらないというのです。それを見て、私は自信を失い、落ち込んでいきました。私は、哲学を学ぼうと留学したけれど、それは哲学者になるためではなかった筈だ。哲学は、私が撮ろうとした写真に足りない思考を養うためだったと考え直しました。私がケルンで見たドイツの社会は、うっとりするぐらい完璧だと思いました。システムが調っていて、安全で、道で誰に会ってもみな礼儀正しい人たちです。私のような外国人にもとても親切にしてくれました。街の老人たちもおしゃれでしたし、レストランで麗しく食事している、そんな風景をよく見かけました。しかし、ある程度時間が過ぎると、このようなドイツの社会でも、実は老人たちがとても寂しい思いをしていることがわかってきました。彼らも人間関係において孤立していることが見えてきました。それは、ただ通り過ぎていく人にはわかりません。暮らして見て、初めてわかることなのです。韓国の恵生院(ヘセンウォン)での撮影作業を通じて、私には、人間に対する悩みがありました。私には、そのような負の部分を撮影して、さらけ出す資格があるのだろうか。そのような表現に問題はないだろうか。自問自答の末、考えたのは、結局相手ではなく、私自身の側、写真がもつ暴力性でした。それで私は、意図して街で老人たちに会う度、写真の暴力性の中でも、もっとも強いフラッシュを昼間に光らせてみることにしたのです。道を歩いている時、突然私がピカッとカメラのフラッシュを浴びせれば、当然それを受けた人たちは凄く驚きます。それにより孤立している老人たちの姿を、写真としても孤立させ、真の姿を写し出したいと考えたのです。写真は、それ自体が非常に暴力的です。写真を撮るとは、朝鮮語では、「斧で人を打ち下ろす」という意味もあります。英語でも、「シューティング(shooting)」と言いますが、それは拳銃で撃つのと同じ意味です。そういう過程を経て、私が作ったのが、『写真的暴力』というタイトルの写真集でした。写真そのものが暴力性を持っていますから、私は、南相馬を初め、ここ福島県に来て、住民たちやこの地域が抱え込んでいる難しい問題を、果たして自分がきちんと写せるだろうかと考えてきました。結局は、位置という問題かも知れない。撮る者と撮られるもの、お互いの位置を確かめること。相手が私に見せる姿を超え、私が何を把握できるか、深く考えることです。そしてこそ、もう少し意味のあることができるのではないか。学んできたのは、そういうことでした。
 

 
ナレーター:  鄭さんは、福島の写真に『奪われた野にも春は来るか』というタイトルを付けています。それは、一九二六年に朝鮮半島で書かれた詩から取られました。作者は、李相和(イ・サンファ)(朝鮮プロレタリア芸術同盟に参加。植民地下で、人びとの悲哀をうたい、朝鮮民衆の心を代弁しようとした:1901-1943)。韓国併合による日本の支配を受けていた時代に生きた詩人です。彼は、美しい故郷の風景を連綿と描写することで、故郷を奪われた怒りを綴っていきます。
 
詩「奪われた野にも春は来るか」李相和(イ・サンファ)
 
いまは他人(ひと)の土地―奪われた野にも春は来るか
 
私はいま 全身に陽ざしを浴びながら
青い空 緑の野の交わるところを目指して
髪の分け目のような畔を
夢の中を行くように ひたすら歩く
 
唇を閉ざした空よ 野よ
私ひとりで来たような気がしないが
おまえが語ったのか 誰かが読んだのか
もどかしい 言っておくれ
 
風は私の耳元にささやき
しばしも立ち止まらせまいと裾をはためかし
雲雀は垣根越しの少女のように
雲に隠れて楽しげにさえずる
 
実り豊かに波打つ麦畑よ
夕べ夜半過ぎに降ったやさしい雨で
おまえは麻の束のような美しい髪を洗ったのだね
私の頭まで軽くなった
 
ひとりでも足どり軽く行こう
乾いた田を抱いてめぐる小川は
乳飲み子をあやすよう歌をうたい
ひとり肩を踊らせて流れゆく
 
蝶々よ 燕よ せかさないで
鶏頭や昼顔の花にも挨拶をしなければ
ヒマの髪油を塗った人が草取りをした
あの畑を見てみたい
 
私の手に鍬を握らせておくれ
豊かな乳房のような 柔らかなこの土地を
くるぶしが痛くなるほど踏み
心地よい汗を流してみたいのだ
 
川辺に遊ぶ子どものように
休みなく駆けまわる私の魂よ
なにを求め どこへ行くのか
おかしいじゃないか 答えてみろ
 
私はからだ中 草いきれに包まれ
緑の笑い 緑の悲しみの入り混じる中を
足を引き引き 一日歩く
まるで春の精に憑(つ)かれたようだ
 
しかしいまは野を奪われ
春さえも奪われようとしているのだ
 

 
ナレーター:  李相和(イ・サンファ)は、一九○一年生まれです。日本が、朝鮮半島を植民地にしていた時代、そういう時代に彼は青年期を過ごしました。自らのアイデンティティ(identity)を奪われ、他者の支配と、収奪(しゅうだつ)のもとで生きるというのは、想像を絶することです。植民地時代に、そうした支配を受けた一人の若者が、奪われた土地を歩いて、湧き上がる感情を、詩に表現したのです。筆舌に尽くしがたいことだと思います。私の写真に、李相和(イ・サンファ)の詩からタイトルを付けようとした時、悩んだのは、地震や津波で土地を奪われた日本人の体験と、私たちの歴史を同質化することになりはしないか、ということでした。それは、日本が朝鮮半島を支配したという過去を、私たちが免罪しているように取られないか、という懸念です。これが写真に相応しいタイトルなのかどうか。私は、悩みに悩みました。みなと、いろいろと相談した結果、この問題は免罪符を与える与えないという問題ではなく、奪われるということについての経験を、お互いに共有することではないかと考えました。そうすることによって、過去の日本人の行いについても、考えを巡らせ、歴史への向き合い方も、意味の深いものになるのではないか、と思うようになったのです。ですから李相和(イ・サンファ)の詩のテーマになった朝鮮民族の心と、ここ被災した福島で暮らしていく人の心を、政治や政治家などの立場から考えるのではなく、人間の問題として、つまり福島という自分の住む場所、故郷を奪われた人間としての心は、同じではないだろうかと考え、このタイトルに決めたのです。人間は、苦痛に慣れるということは決してありません。しかし苦痛により、理解できる地点が生ずるかもしれないとも思います。とても大きな問題です。それがどの程度、真の共有になるのかが問題です。李相和(イ・サンファ)の詩には、絶望感すら漂っています。この詩の最後の一行は、こう書かれています。「しかしいまは野を奪われ 春さえも奪われようとしているのだ」。そして、その後がありません。果たして、この「春」とは、どんな意味なのか。私は、どう解釈すべきなのか、考えてきました。「春」とは、ただ季節を指している言葉なのだろうか。毎年巡ってくる春なのか。そうでなければ、何だろうか。季節の春には、希望や自由や温かさとか、そういう意味があるでしょう。それも理解できますが、朝鮮語には、「春」という音に、「見る」という意味があるのです。それもただ単に見るのではありません。「直視する、しっかり見る」そういう意味です。「しっかり見る」ことは、「考える」ということを意味するのではないでしょうか。「見る」ということを通して、その中にある本質を理解すること、悟ること、それが何よりも必要だと訴え、それが「春」の意味だと思います。春があるからこそ、心で読み解くことができるでしょう。「春が希望だとしたら、希望とは希望がないところに見付けるものです」。春がないからこそ、私たちは春を待つのではないか。失われた春は、与えられるのではなく、取り返すのです。時間が経って、自然に与えられるのだったら、それはただの季節の春です。それだったら、夏と変わりません。私が考える春、李相和(イ・サンファ)にとっての春は、単なる季節ではありません。直視することを通じて、どう取り返すか。それが、私が考える見せたい春なのです。
 

ナレーター:  写真展の最終日となった三月十日、南相馬の人々が集まり、鄭さんを囲む「ギャラリー・トーク」が開かれました。議論の中では李相和(イ・サンファ)の詩を写真のタイトルとした意味も問われました。佐々木孝さんは、鄭さんの写真を重ね合わせ、詩の印象について語りました。
 

 
佐々木: 李相和(イ・サンファ)の詩ですね。あれを鄭さんの写真集を見たと同じだった。つまり絶望とか悲惨の中に、あるいは悲惨の中だからこそ見えてくる光を、李相和(イ・サンファ)は描こうとしていると、私はそういうふうにとったんですね。私たちは、今度の被災によって、心にいろんなことを思い―ちょっと言葉が大袈裟ですけど、「奈落(ならく)」というものの中で、やっと朝鮮だけじゃない、中国、東アジアの人たちに対し、与えた苦しみ、悲しみ、屈辱感を、なんとなくわかるような状況になったんです、遅すぎますけども。「奪われた野」というのは、まさに国策の原発によって奪われた―もう私の親戚もいっぱいいます。農業ができないとか、未だに疎開というか、避難している人がいる。同じような国策というものによって奪われた悲しみ苦しみがある。私は、今回のことを通じて、被災地の我々―南相馬を含めて―単に日本人の問題としてじゃなくて、東アジアの問題、それから原発は全世界的な問題ですね。そういうものの、やっぱりこのことがおかしなことであるということに対するメッセージをやっぱり私たちは打つべき。これからそれこそ長い時間かかって。だけど、それは是非やらないと、この原発事故によって、私たちがこれだけの状況におかれているということが、意味がなくなると思います。
 
参加者: 相馬市で、まだ講師なんですけど、中学校で働いているものです。隣の韓国でも、原発が日本と同じように問題になっているという事実を、学校現場でも全然、大学になるまで、そういうことを学ぶ機会もなかったので、やっぱり3・11以後だからこそ、隣の韓国であったり、朝鮮半島、中国の歴史であったり、関わりを学ばないといけないんだなあというふうに、今日この場の中でも強く感じました。
 
鄭:  この3・11の記憶は薄れていくことでしょう。私ができることは、一人の人間として、写真家として、この南相馬で自分が信じて見ようとするものを、みなさんに提示することだけです。ある外国人の写真家がここを訪れて、みなさんを見つめ、それを表現して提示し、お見せした時、みなさんはそれを受け入れてくださいました。写真として認めて頂き、またこのように一緒に話し合ってくださったことに対し、心から感謝申し上げます。今回の写真展は、私の人生の中で一番心に沁みいる展示でした。今回の南相馬での写真の作業を通して、今後私は、変わっていかなければいけないでしょう。同じような問題を過去にも抱き、そうしなければならないと考え続けてきたことでもありますが、今回は、撮影する相手に対して、人間としての配慮と思慮をもって接近しなけれないけないと痛切に感じました。街で誰に会っても、心の病の人を撮っても、農民を撮っても、今回のように痛切に相手への配慮が必要だと感じたことはありませんでした。被災地は、被写体自体がもっているものが、あまりにも強いのです。そのためその強さにちょっと触れただけでも、写真が撮れてしまいます。ですから限りなく多くの写真が撮れることでしょう。そうしたものがたくさんあります。私自身は、そういうものを苦心して避けつつ、しかしそこからさらけ出されてしまうものを撮ろうとしてきました。それが私にとっての配慮という意味です。配慮をもってさらけ出し、共有すること。ここで学んだだけではなく、そうならなければなりません。いまだそれは全部できているとは言えません。南相馬での仕事が、単なる私のプロフィール(profile)になってはいけないことだけははっきりしています。少なくとも一年に一度はこちらに来て、撮影しなくても、変わりゆく姿をこの目で確認したい、共有し続けたいという思いがあります。それも私の一連の作業です。自分が見つめてきた対象が、単に写真を撮るという活動に使われるだけであってはならないと、私は信じています。私は、素材として選んだ撮影する対象、相手と私自身との関係が、自分の生きる幅を広げてくれる時、そこに意味を見出してきました。そうしたことが、単なる一度きりの素材として消費されてしまってはいけないと信じています。そのために私は、恵生院(ヘセンウォン)という施設がなくなるまでずっと撮り続けてきました。ここ南相馬でも、私のいのちが続く限り、繰り返し繰り返し訪れることで、この場所との繋がりが、私にとってのただの素材だけではないことを確認したいのです。誰かに見せるためではありません。私自身が確認したいということです。大地を撮ろうが、海を撮ろうが、人間という存在そのものを見つめ直すということ。大地とは、空気とは、私たちにとって何か。人間の欲望とは何なのか。そういうことを学び続けたいのです。それが私にとっての写真です。
 

ナレーター:  3・11、南相馬市は、東日本大震災から二年目を迎えました。地震が発生した午後二時四六分。その時鄭さんは、自らが撮り続けた海にいました。集落を飲み込んだ津波は、福島第一原発も襲いました。汚染は、人々が暮らす大地のみならず、海にも及びました。
 

質問者: 震災二年目の同時刻に訪ねる場所として、なぜ海を選ばれたのですか?
 
鄭:  海によって、このような現実が始まってしまいました。しかしそれは海の過ちではなく、人間の過ちです。ですから海に対して詫びたい気持ちもあり、また亡くなったみなさんは、海に還ったように思いますので、ともに追悼したいと考えたのです。
 
私たちが今 抱えているのは、津波の問題ではないでしょう。根源は人間です。人間の欲望が作り上げたものが、今、私たちを叩きのめしているのです。たとえ それが海から始まったことであっても。
 
これは、平成二十五年五月十二日に、NHK教育テレビの
「こころの時代」で放映されたものである