いのちのリレーを伝える
 
                    教 師 金 森(かなもり)  俊 朗(としろう)
一九四六年、石川県七尾市生まれ。金沢大学教育学部卒。元小学校教諭。二○○八年北陸学院大学人間総合学部教授。八○年代より「仲間とつながりハッピーになる」という教育思想をかかげ、人と自然に直に触れ合うさまざまな実践を試みる。一九八九年に妊婦を招いて行った性の授業を皮切りに本格的にいのちの授業を開始するようになる。一九九○年には末期癌患者を招いた「デスエデュケーション」を行う。 その教育思想と実践は、教育界のみならず医療・福祉関係者からも大きな注目を集め、「情操教育の最高峰」と高い評価を受けている。金森学級の一年を追ったNHKスペシャル「涙と笑いのハッピークラス 四年一組命の授業」が、二○○三年第三十回日本賞グランプリをはじめ数々の賞を受賞。著書に「太陽の学校」「町にとびだせ探偵団―おコメと水をさぐる」「性の授業 死の授業(共著)」「いのちの教科書」「いのちの教科書 生きる希望を育てる」「希望の教室―金森学級からのメッセージ」「子どもの力は学び合ってこそ育つ−金森学級38年の教え」ほか。
                    ききて 杉 原  満
 
ナレーター:  金森俊朗先生、五十八歳。石川県金沢市の小学校で三十六年教師をしています。金森先生は、子どもたちにいのちの大切さを教える「いのちの授業」を行っています。「生まれること」「生きていくこと」「死を迎えること」、いのちのもつ意味を子どもたちと一緒になって問い続けます。
 
(授業の現場から)
 
金森:  この私、曾爺ちゃん、曾婆ちゃんがこの世に誕生していなかったら、私はいるか?いないか?
 
子どもたち: いない!
 
金森:  そうだな。生きていないということです。生きていないじゃなくて、誕生しないということです。
ナレーター:  金森先生は、これまで「いのち」について、真っ正面から取り組んだ本を何冊も書いてきました。一昨年出版された『いのちの教科書』には、いのちを巡る子どもたちとの対話が綴られています。
 

 
金森:  「いのちの教育」って、僕の場合、三本柱みたいなものがあるんですよね。一つは、少年―僕は敢えて「ガキ」と言いますけどね―このガキの時代―少年時代に、「少年らしく輝いて生きようぜ」というのが、一つありますね。一番新しいのでは、今日のこの雪の降りしきる中サッカーをやっておりましてね。それは「自然と友だちとでも、ボディー・コミュニケーション―ボディとボディで関わり合う」。共感性を育む土台になっているのは、子どもと子ども、子どもと四季折々の自然と激しくぶつかり合う「ボディ・コミュニケーション」と呼んでいる活動である。言葉が、今中心になっていますけど、それが一つベースにあって、それで二つ目に、「いのちの教育」という時に、「自分たちの存在というのは、地球上のいろんな生き物と関わっている」。これは、例えば給食を食べますね。そうすると、今日の給食一食だけで、もう二十ぐらいのいのちを食べている―食材としてね。我々は勝手に食材にしているんですけどね、生き物にとっては迷惑な話ですね。それは言ってみれば、「そういう生き物によって生かされている、そういう存在なんだ」。我々のいのち、存在そのものを深く捉えようということで、実は簡単に我々はここにいるんじゃなくて、お母さんが居て、そのお母さんを生んだお爺ちゃんお婆ちゃん、そのまた曾爺ちゃん曾婆ちゃんが居る。そこが簡単に繋がっているんじゃないよ、ということで、「いろんな危機を家族から聞き取ってこよう」ということで、これは存在を深める。三つ目は、とても今この時代だからこそ大事にしているんですけども、自分は勉強ができないとか、上手くやれないとか、あるいは勉強ができなくなった、習い事で上手くいかなくなって、親の期待に応えられない―「突き放される不安」ということを言いますけども、そういういろんなことで自分を閉ざしている子どもたちが多い。それを「心開いて繋がりあう」という。その三つを含めて、僕は大体「いのちの教育」と言っているんです。
 
杉原:  ほんとに「学ぶ」ということ、全体のベースとして、人が生きるとか、暮らすとか、そういうことからすべてみていくというのが、「いのちの授業」ということが言えるわけですね。
 
金森:  すべてはそういうふうに繋がって、勉強も学びもできる。
 
杉原:  そうすると、先生の実践されている「いのちの授業」というのは、我々は得てして勉強は勉強と、もう一ついわゆる生活指導をどうするか。その他の部分でいろんなことを学んでいくのかな、と思いがちなんですが、そういうわけではない、一緒なんですか?
 
金森:  九割の人はそう思っていますね。「いのちの教育」というのは、どっか別にあって、それで普通の算数、国語、社会、理科という教科があったりという。僕にとってはそうじゃないんです。「いのちの教育」というのは、四月に子どもと子どもが交わり、食事をとって生かされていることを考え、検尿の時におしっこを採れば身体からのメッセージである。検尿の提出日には、「おしっこの授業」をします。
 
杉原:  そこにいろいろ科学というものが入ってくるわけですね。
 
金森:  身体からまさにメッセージをいっぱいもって、出てきたおしっこです。それを調べる人がいる。これが一本、四月からずっと通るわけですね。
 
杉原:  先生の中のプログラムと言うんでしょうか。
 
金森:  子どもたちは、そのいのちを支えてくれる米を育てる田圃へ行けば、アッと子どもは思うのね。耕した跡に鳥がいっぱい来て、ミミズとか小さい虫を啄んでいる。米だけ育てるだけでなく、鳥も育てるんですよ。これはやがて小さい虫たち―トンボも育てている、ヤゴ(トンボ類の幼虫の総称)もいたりして、そういうものをずっと季節折々を上手く使いながら授業するわけです。
 
杉原:  先生の場合、特に思うのは、いのちがこうしてきたんだというふうに、先生が語るというのとは大分また発想そのものが違う。
 
金森:  だから自分の生き様とか、人生かけてきた哲学を、子どもたちにどう伝えたらいいか、という時に、今そこら辺りが、大人や教師の弱さがあると思うんですけども、なんか説教や観念で伝えようとするんですね。確かに僕も、兄貴が癌で五十七歳で亡くなりましたけども、その兄貴の話を子どもたちにしたところでピンとこないわけです。当事者性がないわけです。やっぱり大事だなというのは、子どもに差し迫ったことでしかないですよ。これは大人もみなそうですね。
 
杉原:  他人事じゃないという。
 
金森:  他人事じゃないと。他人事じゃないということを、自分の体験を語ることではなくて、体験を子どもたちに、どう子どもたちの手で掴んでこさせるか。
 
杉原:  それは体験を与えるんじゃなくて、掴んでこさせるか。
 
金森:  掴んでこなければいけない。だから自分の生き方と教育の手法は、そういう意味では変わっていないんですね。僕は、特別な教育の手法をとっているわけではない。子どもたちが、「チョウが死んだよ」ということで持ってきますね。持って来て、子どもが騒いでいるんです。僕ね、何を子どもたちが言いたいのか、わからなかった。「チョウが死んだ、チョウが死んだ」と言って騒いでいる。死んだらどうなるか、ということを、彼らは聞きたいのかな、と、ある時思ったんですね。で、「チョウが死んだら」ということで、基本的には人間以外の生き物は、他のものに食われるわけです。死んだ鳥を子どもが持って来たんですよ。その時に、「埋めてみよ」と。
 
杉原:  死んだ鳥を埋めた?
 
金森:  死んだ鳥を埋めた。五十日経って掘り起こしてみます。そうすると、ほとんど骨だけを残してなくなった。つまりバクテリアたち―小さい虫たちが食べている。あ、死ぬということは、子どもたちは、「いのちのリレーには二つあるな」と言った。一つは、「自分が子どもを産んで、すぐに後のリレー」。それから、「死んで他のものたちに食われて、他のものたちのいのちを支えるいのちのリレー」と、二つあるんだ、と言った。それを私は教え込んだわけじゃないですね。私は、そういうところを大事にする。それを自分が育ってきた子育てというか、育ちの論理なんです。
 

 
ナレーター:  金森先生は、昭和二十一年、石川県中島町で生まれました。農家の次男坊。ガキ大将として野山を駆け回る毎日でした。いのちについて深く考えるようになったのは、この少年時代の体験がきかっけです。
 

 
金森:  僕の家は能登の中島というところの川の近くですね。そして家がいわゆる複合農家でしたよ。だからニワトリと豚と牛とアヒルがいましたからね。だからいろんな世話をしなければいけなかった。リンゴも育てて、稲も米も育てていたわけですから、ありとあらゆる仕事はほとんど手伝いはさせられました。その中で私が身に付けたものというのは、大変たくさんあったと思いますね。今子どもたちを見ていて、生活がほんまに育てていないんだなというのを思いますからね。だからニワトリを育てる時には、二百羽もいたんで―僕の時代はまだ配合飼料というものはなかったものですから、毎日友だちと一緒に、幅広い石のうえに、孟宗竹の筒を置いて、その中に牡蠣(かき)の殻を入れて、鉄の棒で粉々にするんですね。飛び散らないように。それを毎日やらないと遊べなかった。
 
杉原:  ニワトリにタマゴを生ませるために牡蠣殻を食べさせるんですね。
 
金森:  食べたものが殻になるんだ、というようなことは、それでわかるわけですね。親父が、「今日はすき焼きだぞ」と。すき焼きと言っても牛肉じゃないんですね。鶏肉なんです。それで解体するんですけども、親父の手さばきは見事でしたね。何よりもビックリしたのは、ニワトリの卵がずっと繋がっているんです。あれは感動しましたね。
 
杉原:  繋がっている。だんだん小さくなるんですね。
 
金森:  そういうようなものは、親父たちは教えようとはしなかったんです。だけど僕には、学びの現場がそこにあった。こっちがその気になれば、自然に学んでいく現場が準備されている。今の子どもというのは、不幸だなと思うのは、大事なことがなかなか見えない。学校云々じゃなくて、生きていく時にほんとに大事だというのは、例えば死ぬ―死に様というのがあるじゃないですか。そういうものが簡単に見えてきてくれない。僕は、お婆ちゃんが亡くなったんだけれど、ほんとに人間はもの凄く醜い存在もあるんだなと思ったんですね。這いずり回っては、手当たり次第戸棚を開けて食べようとする。だからみんな戸棚を縛る。垂れ流す。で、死んで逝く。それは人間の一つの死に様として。でもずっと小さい頃から関わってくれた祖母だから、とことん汚いとか、とことん嫌だとは思わないんですね。そういうふうに死ぬのも人間なんだなというのは、教えてくれたわけです。ところが今、病院へ行っちゃってわからないですね。昔は僕の家の大事なリンゴ畑とか、野菜畑とかというのは、火葬場の横にあったんです。火葬場というのは、ほんとにちょっと薄い石の台があって、そこに縦長にドンと置かれるわけです。くべる薪があって、それを僕はただでさえ、想像しただけでも恐い。ましては焼かれているところを盗み見した経験もあるものですからね。人間が間違いなく焼かれる。それを見た後は毎晩寝れない、うなされる。そういう少年期にいましたよ。ましては私の家の山道を挟んだところに火葬場があるわけです。そこはちょっと高くなっていて、そこに私の家の畑がある。で、中学校とか、高校生になったら、「そこへ行って耕して来い」と言われる。後になって聞いたら、御袋(母)が怖がって嫌がったんだ。男の子ですから、面子があって、「俺、火葬場怖いから嫌だ」というわけにもいかないしね。ほんとに火葬場って、ほんとに今の火葬場と全然違いますからね。火葬場の真ん中に黒々としたところがボォッと見えている。そこを後ろ向きになって見ないようにしてね。夕方―大体学校から帰って来て、「耕して来い」と言われるわけだ。何か後ろから「わぁっ!」とやって来そうでね。前向けば目の前の火葬場の人間燃やすところがまるごと見えるわけでしょ。燃やした炭がうずだかく積んである。それはもう嫌だったですね、怖かったです。死んだら燃やされる。なんて恐いことかというのが徹底的にありましたね。僕らはそうやって学んだ。死んだら、ボキボキと身体の骨の音がする中で棺桶の中に入れられる。今みたいに、横そのままじゃないですね。こういう屈葬みたいなものですね。いろんなことを見てきているんです。今の子たちは、見ていないですね。死がもつ意味ですね、今とりわけ死が恐いということが。恐さというより、死ぬから無限の世界じゃなくて、有限の世界で、一回きりしかない人生だからもっと大事にしたい、というふうに思わせるということは大事じゃないかと思っています。
 

 
ナレーター:  教師になって間もない二十五歳の時、金森先生は、自ら死に直面する体験をします。交通事故に遭い、重体となったのです。痛みで眠れない夜、天井の板の年輪を見詰めながらいのちの脆(もろ)さに思いをめぐらせる日々が続いたと言います。
 
俺はたかだか二十四、五本の年輪を刻んで、
死ぬところだったのか。
いのちはこんなふうにして予期しないときに
簡単に奪え去られるものなのか。
 

 
金森:  もの凄く強いのは、自分の交通事故体験ですね。それはほんとに若くて、まだ二十代のことですからね。結婚はしていましたけども、まだ子どもはいなかった。ある夜突然に信号無視の車に横っ腹をぶっつけられるということがあったんです。その時の私は、大学でほんまにいい勉強をして、これからは自分が受けたことのないような教育をやりたいという、やりたいことがいっぱいあり、ある意味ではもの凄く夢をもっていましたから、現場へ出て盛んに喧嘩をしながら激しくやっていた時期なんですよ。その時に―交通事故というのはほんとに生々しいですよね。ダァッとぶっつかった瞬間に、ぶっつけた人は車を降りて来るけども、目の前をほんとにパッパッパッパッと走り回っているだけなんですよ。「何しているんじゃ!」って。相手の事故を起こした運転手は、もうトットットットッと走り回っているだけなんですよ。公衆電話がちょうどあったところなんですよ。グルグル車の周りを回っているだけなんですね。助けないんですよ。それで私は、なんか顔がよく見えないもんですから、右手でハンカチを取り出して顔を拭こうと思ったら、右手が動かない。左手でハンカチ出して目を拭いたら血だらけだったですね。それで「バカヤロウ! 早く救急車呼べ!」と怒鳴ったんですね。もの凄い野次馬でした。その中の一人が私を支えてくれたんですけど。救急車の音を聞いたら、わぁっと意識がなくなったんですね。気が付いた時に、医者が酸素吸入していた。〈俺、こんなに酷いのか〉と初めてわかった。それでいろいろあるんですけども、また気を失ったりしているんですけども、その夜ですね、ほんとに身体を動かせませんでした。全身強烈打撲で、身体がビシビシきしみしながら、もう動けませんから天井を見ていた。天井板に年輪がありました。年輪を見ながら、俺は二十数本の年輪刻んだだけで死ぬんだな。こんなにも死というのは突然やってくるものなのか。そうならば人生誰のものでもない、全然約束されてない。何年生きるか約束されていない、保証されてないこの僕の人生を、やっぱり自分で満足いくように生きたい。喧嘩してでもいいって。自分の本当にやりたいことや言いたいことを、誰かに気兼ねしたり遠慮して生きるよりは、自分の夢の実現のためには喧嘩してでも貫いて生きなければ損だぜ、って。いつなんどきこういうふうにして、手をもぎ取られるかも知れないという。子どもたちにも、「きみたち、ずっと子どもは生きているとは限らないんだ。だから今を大事にしてほしい。これからを生きている時には、自分というのを大事にして欲しい」という。その思いは、強烈にその自己体験をしてあります。
 

 
ナレーター:  同じ頃、金森先生にとって、いのちの脆さを実感させるもう一つの出来事が起こります。九年前に出版された著書『生の授業 死の授業』その一節にはこう記されています。
 
私たち夫婦も二度も悲しい体験をした。
 
妻のはるみさんとの間にできた子どもが二人続けて亡くなったのです。金森先生は、いのちが繋がっていくことの難しさ尊さを深く考えるようになります。
 

 
金森:  僕の子どもでいうと、今誕生を祝える子どもというのは三人目と四人目ですね。一人目がお腹で亡くなり、二人目が男の子で二日間居て亡くなった。そして三人目が今の長女が生まれ、四人目が今の次男である。一人目、二人目という子が、残念ながらこの世に生を実現できなかった。亡くなった二人の子どもの生は、今の娘と息子になっているのだと思っている。この子らの誕生を祝うというのは、もう一つは、生を得なかった子への一つの祈りがなければいけないんですね。生きているものだけが、ただ「良かった、良かった」じゃなくて、そういうことも含めてというのが、必要だなと思ったことですね。そういうふうに、今の自分の存在を捉えてほしいというのが、とても強かったんですね。二つ目は、自ら死を選ぶ子どもたちというのは、僕の教え子の中でも「暁の自殺」というのをした子がいますね。それはわずか十三歳、中二の子が、ビルの屋上から友人と手を繋いで、太陽が昇ってくるのを見ながら飛び降りるという。「暁の自殺」というのがちょっと流行したんですよ、その当時。教え子でほんとに大人しい子だったです。「私の人生にとって、いいことは、あの六年の時にやった畑の活動だけでした」という遺言を日記に残して亡くなりました。畑作りということで、スイカを育てるとか、ナスを育てるとか、大がかりにやった。そういう活動だけが楽しかった、って記していたんですね。これから遙かに長い人生に非常に早い間に見切りを付けて亡くなっちゃった。自分の存在をそうやって消すことが、どれだけ多くの人の存在を消してしまうことになるかという、重み深さを是非教えなければいけない、というのがありましたね。それはその子だけの問題じゃなかった。社会的に多くありました。教え子の中で、暴走族の青年と暴走して電柱に激突して亡くなった子もいます。子どもがいろんな形で暴力を―学校内の暴力とか、いろいろありましたよ。で、虐めがとても強く出てきました。そういう一つは、自殺とか、不登校とか、過食、拒食、薬物依存など自分自身に攻撃を向ける。もう一つは、他者を恐喝、暴力、虐めなどで攻撃する。そういうようないろんなことがいっぱい高まってきた中で、本当は勉強―学びというのは、自分の中にある可能性、それから外の世界にある可能性―それを「希望」という名前で呼びますけど―自分とその自分の内と外にある希望を見出すことが学びなんだ。それは単なるいのちの教育ということではなくて、学びそのものをもう少し原点からつくらなきゃというのがあったんですね。
 

 
ナレーター:  限りあるいのちの大切さを学んでほしい。金森先生が最初に行ったのが、「誕生」の授業でした。お腹の大きなお母さんに学校に来て貰い、妊娠、そして出産の体験について話をして貰ったのです。
 

 
金森:  最初は、自分のいのちというものが、母親は勿論ですけれど、家族ももっと大きな広い広がりの中に、ほんとにお祝いされて、温かく注目の中でほんとに生まれてきたんだぞ、ということを子どもたちにわからせたかったというのがありますね。僕ら小さい時に、僕の田舎なんか「ねんねこ団子」というのがあるんですね。「赤ちゃん生まれるぞ」というのをお知らせして、お婆ちゃんたちが寄って、米の粉を練った小さい団子を近所に配るんですね。それで赤ん坊の誕生をみんなで待つ。私は、その誕生というのは、そういう少年時代に見ているわけですね。「生まれたぞ」とか、親戚中がわぁっと集まる。今のように病院のわぁっじゃないですね。子どもに、そういうことをほんとに分からせるために、どうすればいいのかなと悩んで、それで「ああ、そうだ」ということで、自分の学級のお腹の大きいお母さんを呼んだというのがありますね。その時に「教える」と「学ぶ」の違いですね。子どもたちは、そのお母さんを見たなり、「ワァッ!でっかきお腹や。重そうやなぁ」というわけですね。当然「重たいよ。重たいだけでなくて、今逆子だから、ちゃんとするためにお医者さんから言われて体操しなければならないので、なおひどい(大変なのよ)」と言ったら、「なんや、逆子って?」というから、「ああそうか、知らんわねぇ。逆子って頭がここら辺にあって、本当は下のほうになってないとだめなん」「ええっ、頭が下にあったら逆さまや。苦しいがぁ。そっちのほうがおかしいのにどうしてや」と、こういう応答がいろいろあったうえで、子どもたちが帰り際に、「このお腹を撫でていいか?」と言って、撫でさせて貰ってね。「元気に出て来いや」とか、声出しているんですよ。それは教えられるものじゃないんです。肉親でもなんでもない彼らが、無邪気になってお腹の中の子に声援を送っている。お母さんに声援を送っている。で、子どもたちにその時に気付いてほしいのは―その時でなくてもいい、後でもいいんです。いろいろなことを忘れても、〈あ、お母さんがお腹大きい時に、俺たちはこうやってさすっていたな〉ということが、像として残ってほしい。生きるための大事な原風景と言いますけども、〈あ、そうやって俺も生まれてきた。そうやって私も多くの人たちに生を喜ばれて生まれてきたんだな〉ということをわかってほしかった、ということがありますね。生の部分というのは、まだいいんですけども、それがあった後に、「ハンディをもった子が生まれたら、金森さんどうするの? その子が死んで生まれるとか、生まれる時に死ぬのか、生まれた直後に死ぬ、ということは絶対ある筈だ。どうするの?」と友だちから言われたんですね。それはすべて受け止めようじゃないか、ということになるわけですけども、でもずっと生きていたにしても、我々も死ぬわけだし、子どもも死ぬわけだから。死をどうやって子どもたちに捉えさせたらいいか、というので―自分の体験もあるんですけども、ちょっと置いておいて―子どもたちに癌患者さんを招くというのをやったんです。癌患者さんは、病院から来るわけだけど、その時に癌患者さんは、死を前にして、生―生きていることの意味を子どもたちに語る。それは小学校四年生でした。子どもたちに私は、癌患者さんの言葉が通じたか通じないか―勿論言葉として子どもたちに通じたこといっぱいあるんですけども、通じなくてもいいぐらいのことは思った。夏の暑い時―七月二十日ですから、ほんとに暑かったんですね。しかも学校はクーラーがないところですから、そこに彼女は白い薄手の長袖セーターの上に白いカーディガンを着て、ほんとに身体細いですね、黒板の前に置いておいた椅子に座って、「ほんとやっぱり生きるってね」って、その人が言うわけでしょ。「私は、一ヶ月前に乳ガンの大手術したばかりなの。あの世に行ってきたのだけれど、私にはやりたいことがあるので、また帰してくれた」と笑って言う。こうして話が始まった。それは私が間接的に話しするわけではない。生きることの尊厳、いのちの尊厳みたいなものを雰囲気としては、しっかりと感じれるものをもっている。それはやっぱり感性が豊かであれば通じるんですね。彼女は話をたくさんするわけですけども、子どもたちに多く残ったのは、「生かされている」ということの話。「病気になって初めてわかったのは、生きていると思ったけれども、実はたくさん人に生かされていたんだ。それに気付いたんだ」という話だとか、「自分は病気でありながら、できるだけのことはしたい。できるだけ人と繋がっていたい」ということで、病気のもっと重たい、自分より重たいあるお婆ちゃんを看取る話をしたんですよ。看取る時にみんなで―その亡くなる三十分前に、お婆ちゃんが、自分を励まそうとして「わっしょい、わっしょい」って呟いた。それでお医者さん、看護婦さん、私のみんなで、「わっしょい、わっしょい」と、お婆ちゃんにみんなで言ったそうです、三十分間。それで最期亡くなった。このお婆ちゃんは、家族と一緒にそれができたらもっとよかった。でも最期に「ご臨終です」と言われて亡くなるのと違って、お医者さんと、看護婦さんと、私と関わった人たちで、「わっしょい、わっしょい」と言って、お婆ちゃんもそれを呟きながら、一緒になっていのちの大合唱をしながら亡くなったという。そういうお話なんか子どもに残ったと思う。だからまさしくその現場に居合わせた、そしてできたら私もそうやって声を掛けられて、温かい人に囲まれて、そうやって亡くなって死んでいくというような、そういう意味合いは通じていたんだろうと思います。
 

 
ナレーター:  今、金森学級の子どもたちは、両親や祖父母がどのように生まれたのか。その時の状況を聞き取り学習を行っています。私という存在は、どのようにして生まれてきたのか。自分が今ここにいる不思議を見つめ直す授業です。いのちはリレーしている。自分たちは細いリレーで繋がった奇跡的な存在だと、子ども自身が気付いていきます。
 

 
杉原:  いのちを教える時に、「その一人ひとりのいのちだけでなくて、リレーをしていく」という。ほんとにそういう言葉を使われますけども、それはどういうことからなんですか。
 
金森:  どういうことがあって、明確に使ったかというのはわからないんですけど、実感的にはいのちのリレーというのはわりと思っていることもあるけれど、明確に「いのちのリレー」という言葉を使ったのは、子どもたちだろうと思うんです。ある子が、突然に、「先生、おれ、わかった! 気が付いたことがある」と言う。教室に年表が貼ってあったんですね。それで、「おれらというのは―ああいう浅間山の爆発とか、いろんな事件がありますね。第二次大戦とか書いてある―ああいうことがあった時に、決して死ななかった人たちが、リレーしてきたからここに俺はおるんだ、ということを気が付いた」と言った。その子が、そういう前には、「私たちは奇跡的な存在だ」と言った子どもたちなんです。お母さんが、本当に辛うじて生まれた。お婆ちゃんから生まれた、ということを調べてきた時に、子どもが、「奇跡的な存在である」と。「お母さんも辛うじて生まれた。そのお母さんから僕が生まれた。考えたら、私たちって誰もが奇跡的な存在なんだ」と言った。だからそういう子どもが、それぞれがとても危機的なことが、三代か四代遡れば当然ありますよ。だからそんなことを潜り抜けているということがわかっていたからね。彼らは何の時間帯か覚えてないけどね、教室に貼ってある年表を見ておったんでしょうね。年表をそんなふうにして見るというのは、僕の発想の中にはなかった。あの中を潜り抜けてきた人たちがみんな元気でバトンタッチしてきたから。その事件の時に、死んでいた人は渡せなかった。だからその時に言ったのは、「リレーは思っていたより遙かに細かった。太いものじゃなかった」と。それはそれぞれがどうやって生きてきたか、どうやって誕生したか、家族への聞き取り調査をして、自分だけじゃない、友だちがいっぱい聞いた結果、わかって知ったことですね。だから三十五人が家族から聞き取って報告をもってくれば、それは三十五例じゃないですね。これはたまたまお母さんですね。お爺ちゃん、お婆ちゃん、今子どもの書いたものがストックされていますけども、当然お爺ちゃんの分、お婆ちゃんの分、あるいは自分の兄弟の分、お父さん、お母さん、いっぱい事例が出てくるわけです。そうするとこれは大変なことだね、ということがわかります。今の学級もあったわけですけど、五月にこの学級の大事な若いお父さんが、三十四歳で脳腫瘍で亡くなりました。普通よくいうのは、「学校現場で触っちゃいけない。言ったらいけない」と。言ったらいけないんじゃないですね。もう現実は嫌というほどわかっているわけです。だから当然学級の中では、そのことの話をきちっとしないとダメでしょう。我々教育界の常識みたいなものは、放っておいてあげればいいんです。でも放っておくことは、ある意味では無視するということなんです、その問題を。本人も周りも知っているわけです。でもどういう関係を保てばいいかというのは、よくわかっていないわけですから、私はしっかり話しました。それは亡くした子に手紙を書いた中身です。「今から大事なことをいう。私は、お父さんは間違いなく脳腫瘍という病気が奪った。一番愛して結婚したお母さんは悔しい。そして愛したもの同志が、一番大事に生んだ私の学級の子を残して。残された者の悔しさ。もっと言えば、お父さんはどんなに悔しかったろう」ということは言いました。親の無念さということを。愛された者から生まれた子が、お父さんを奪われる無念さ、も言いました。そしてその時に、僕は、「死んだ時に、よくみんなはよく言うよね。どこへ行った?天国へ、と。僕は違うと思う。間違いなくみんなが知っているように、骨はお墓の中に入っちゃうけれども、そして写真は家に残される。もう一つ写真もそれから骨もじゃなくて、そっくりそのまま、もうお父さんがもう一カ所いく場所があるんだ」と、子どもたちに言ったんです。それはその子の心の中に。人は心の中に人を住まわせることができる。人は人の中に住むこともできる。心には定員がない」と僕は言う。よく言う言葉ですけど、住まわせることができる。今お父ちゃんは、間違いなく、えりちゃんの心に棲んでいると。一緒に今ここにいると思う。それはえりちゃんが真っ直ぐに生きるということに頑張っていればいるほど、しっかりする。一緒に頑張れよ」と言ったんです。で、私は、本人にもそう言ったし、周りにもそういうふうなんだね。僕はそう思っているんだ、ということを言ったんです。お母さんにその子は、「大丈夫だ。お父さんがここにいるから」というようなことを言って、お母さんはとてもホッとしました、と言っていました。だからその時に私は、話を避けないで、全力を込めて言ってあげる。僕は、「人生の全体重を込めて」という言い方をしますけども、上っ面な言葉で言えない、ただの悲しいだけを残すということは言えないんです。やっぱり一人の人間にとって、周りと一緒に関わってきている人にとって、死ぬということ―愛した人が亡くなるということが、どういうことかというのを、その年齢の子どもに全力を込めてわかるように話す。だから教室のあそこに書いてある。「でも、人間だって早く死ぬ時があるよ。(前)のお父さんも、(金)の子どもだって」(金)というのは私です。これはごく身近な世界にも起きうること、起きたこと。少なくともそのことを知った時には、やっぱり自分を大事にしたい。横にいる友だちを大事にしたい。これは大人も同じなんです。神奈川県から一人女性が、金沢の私の学級に来たんです。その人は数ヶ月前にパートナーだった檀那さんを―まだ若いですよ、三十代前半です―来た女性は、育児休業ですから、子ども小さい。朝突然冷たくなったパートナーを見て、生きることに絶望するんです。しかし周りから励まされる。励まされれば、励まされるほど彼女は違和感を感じる。みんなが、「頑張って!」と言う。もう頑張っていて、精一杯なんです。それを〈どれだけ頑張れというの〉という気持ちになっちゃう。誰も受け入れてくれない。ひょっとしたら私のところへ行ったら生きる力を貰えるかも知れない。パートナーが死んだことを受け止めてくれるかも知れない。それで十枚くらいの手紙をくれたんですよ。「そっと学級に置いて頂けませんか」と。その彼女が来ていて、三日ぐらい経ってから、僕が言ったんです。「この子どもたちに、この上で良かったら、亡くなった一番辛い時のことを話してみない」と言ったら、「十五分か二十分ぐらい時間ください。話はできそうです」と。ところが翌日、彼女は六十分以上喋るんですよ。「あんなに喋る自分にも驚いたけど、あんなに聞いてくれる。頑張れ≠カゃなくて、聞いてくれる」と。それで僕は初めてわかったのは、彼女は金沢へ来ている間、夜ほとんど眠れていない。というのは、ある日ぽっくりとパートナーを亡くした辛さを知っているから、小さい赤ん坊をお母さんに預けてきている。金沢のホテルで夜になったら、お母さんがぽっくり死ぬんじゃないか、と思う。思えば思うほど、飛んで帰りたいんだけど、でもここへ来た以上は、生きる力を貰って帰らなきゃというんで、彼女は聞いてくれる子どもたちと、自分の言葉で返してくれる子どもたちから生きるパワーを貰って帰って行った。死は避けて、そしてみんな安易な言葉で人と関係を結んだらあかんなというのに気付きました。だから子どもたちも、その人の話を聞いて、とてもいのちは大事にして輝こうと思ったし、彼女もそうだった。だからそこら辺りを、今は蓋をし過ぎるんじゃない、と思います。
 

 
ナレーター:  金森先生の教師生活は残り二年。子どもたちと共に大事ないのちを学び続けたいと考えています。
 

 
杉原:  教えてこられた子どもたちがどんどん大きくなっていって、そういう子どもたちが、またそういう繋がる仲間を広げていらっしゃるわけですね。
 
金森:  どこまで、どう教え子が、というか、追跡もしたことはないですけど、そうだろうと信じている、と言ったらいいのかな。中には先生になっている子もいますし、先生になりたいという子もいますし、海外で頑張っている子もいます。この間も教え子と対談をした時に、子どもが言っていましたけど、納得するまで調べるとか、それから仲間と―人と繋がりあって大事にしろとかというのは、もうガァっと身の中に入っていたと言っていましたけどね。でも私との出会いは精々一年間か二年間ですからね。長い人生の中で、それが大事な時にフッとこう出て来て、忘れられないものであったら、それが再構成、再編成されるようなものであったらいいなって思っています。それは単なる計算とかじゃなくて、生きる原風景になってほしい。あの癌患者さんは、死ぬ一年前に学級へ来たわけですけども、私たちにこんなことを伝えたくて来たんだなって。実際子どもは聞くと、再構成しているような、そんなものとして残ってくれれば幸せに思う。私自身も間違いなくたくさんの人に生かされていますからね。そのことに対してもっと敏感であってほしいというのは、子どもにもいいますし、大人にも言いますから。まあそういう意味では、辞めても今僕は教師としての学校というのは、社会にいっぱい生きている人たちとのネットワークの中だろうと思っていますので、六十以後はまだ大事な設計はまだですけども、そういう人と人との繋がりを大事に一番いい仲間と繋がりあって、「ハッピーに生きようや」とは、よく子どもに言いますけども、それは大人も同じだなと思います。
 
     これは、平成十六年に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである