すべてのいのちに感謝する
 
                   法泉寺住職 増 田(ますだ)  洲 明(しゅうめい)
一九四六年滋賀県八日市市生まれ。仏教大学社会福祉学科を卒業後、県職員になり、現在の児童自立支援施設・淡海学園や知的障害者更生施設・しゃくなげ園などで勤務。知事賞などを受賞した書家でもある。七七年の父の死後、職員と住職を兼任したが、八三年に県を退職して住職に専念。「老若男女が気軽に集った昔の寺の雰囲気を取り戻したい」と、九四年から年に二回、落語家を呼んで「法泉寺寄席」も開いておられる。
                   き き て 金 光  寿 郎
 
ナレーター:  滋賀県の東側、鈴鹿山脈から琵琶湖畔まで広がる東近江市。中心部の八日市(ようかいち)は、八の付く日の市(いち)が賑わったと言われる古くから仏教信仰の篤い地域です。今日は中心部から車で五分ほどのところにある法泉寺(ほうせんじ)に、住職の増田洲明さんをお訪ねします。寺の入り口に立つ掲示板には、通り掛かりの人たちにも、仏の教えが伝わるようにと、増田さんが書いた言葉が張り出されています。増田洲明さんは、この言葉を書く紙を二十年わたって自分の手で漉(す)いてきました。
 

 
金光:  おはようございます。お邪魔します。
 
増田:  どうも、こんにちわ。
 
金光:  紙漉(かみすき)ですけれども、この日本の紙のもとは、コウゾ(楮)とかミツマタ(三椏)が多いと聞いたんですが、これちょっと違うようですね。
 
増田:  これは書道の画仙紙ですので、
 
金光:  元の画仙紙(がせんし)を細かくして、
 
増田:  はい。白と黒を―反古紙(ほごし)です。
 
金光:  そうですか。それからこうやって漉いていらっしゃるわけで。これは漉かれた紙は、この後乾かした後、どうなさるんですか。
 
増田:  また字を書いて、
 
金光:  ご自分で。じゃ自分用の紙をご自分で漉いていらっしゃるわけですね。
 
増田:  はい。とにかくこういうふうに反古紙が、ほとんど焼却なんですよ。
 
金光:  普通はもう。書き損じたようなものは全部燃してしまうと。
 
増田:  はい。これは書道やっている人は、みんな感じてはると思うんですけども、勿体ないと思いながら処分していまね。
 
金光:  それを何とかしようと、
 
増田:  なんとかしようということで、再生ですね。四尺、八尺と言って、これが八尺ですから、長さ二メートル四十あるんです。失敗した奴、これみな燃やしておったんですけど、勿体ない。これを白と黒の部分を分けてカットして、黒は黒で溶かして漉くんです。これは黒い部分。黒い部分はこうやって水で何回も晒していきますと、晒しようによって、色は薄くも濃くもなります。だからもう捨てるところがないということです。白い部分を取り去った残りの墨で書いた部分は、水に溶かすと、濃淡の違う薄墨色の和紙の原料になります。これ乾くともっと薄くなるんですよ。
 

 
ナレーター:  増田さんは、この紙を「おわび紙」と名付けて、昭和六十三年から作り続けてきました。仏道を歩む中で、日々頭に浮かんだ言葉と絵を書き記し、展覧会などでも発表しておられます。
 

 
金光:  先ほど漉いて頂いた紙に、書を書いて頂いているのがこれなんですけれども、ここには、
 
正気になればなるほど、
自分の粗末さがみえてくる。
 
「正気になればなるほど、自分の粗末さがみえてくる」という。これご自分でお考えになった言葉だろうと思うんですけれども、こういう言葉が出てきたということは、ご自分を正気になって気が付かれた、ということだと思うんですが、それでこれを紙自体に「おわび紙」と。「お詫びする紙」という名前を付けて呼んでいらっしゃるようですが、なんでこの自分でお漉きになった紙が「おわび紙」なんですか?
 
増田:  もう下手な字書きやっていましてね、たくさん失敗した紙―反古紙(ほごし)ができて、それはもう焼却するしかない。随分焼いてきたんですけど、しかしその反面「勿体ないな」という思いをしながら焼いていたんですが、ある時牛乳パックの再生紙が流行(はや)りだしましてね。それをやりかけたんですけれども、なかなか手間の掛かるもので―和紙を取り出すのにね。それでこの反古紙を引っ張り出してきて、それで漉いてみたら、このように風合(ふうあい)のある―一枚一枚違いますし、出来上がりが。それがきっかけですね。で、それからだんだんといろんな形の紙や大きさも増えていくんですけれども。
 
金光:  誰に、何に、お詫びするわけですか?
 
増田:  いや、今までたくさん焼いてきたことに対する「申し訳ない」という思いですね。
 
金光:  直接はそういう紙に対するお詫びということで、
 
増田:  はい。そしてこういう形で生まれてきてくれたというか、それに感謝する思いと、それ引っくるめて「おわび紙」という名前を付けたんですけども、みなさん「良い名前やな」と言うてくださいます。
 
金光:  お書きになった本の後書きのところで、お経歴を拝見しますと、「その小さい頃亡くなられた前のご住職―お父様は、わりにいろんなものを大切になさって、それであらゆるものを大事になさって、子どもの頃は必ずしもそれをいい目では、良い思いではご覧になっていらっしゃらなかった」と書いてありましたね。その辺の経緯をちょっと聞かせて頂きましょうか。
 
増田:  お寺も六畳一間に兄弟三人がすし詰めの生活でしたからね。そんな余所で物を拾ってきて、拾ってきた茶碗でご飯食べさしたり、「もうそういうことをやめてくれ」と。「我々の生活の空間を、もうちょっと気持ちのいいものにして貰えんのか」ということで、思春期の頃ですからね、随分反発しました。ほんとに「勿体ない、勿体ない」でしたからね。
 
金光:  かなり徹底した勿体なさの暮らしをなさっていたということですか。
 
増田:  それを我々に押し付けられるということが、非常に苦痛でしたからね。
 
金光:  お前たちもやれ、と。それはそうでしょうね。素直に「はい」とは言えないでしょうね。
 
増田:  お寺ですから食器ぐらいいっぱいあるわけです。それを敢えて拾ってきた茶碗でご飯を食べよ、ということですからね。本堂の裏にそういうものが溜められてあるのを、私は見ていますから、決して美しいものではありませんからね。それはもう堪らなかった。私の親父はケチではないんですわ。家にもあるんだけども、敢えて拾ってきたものを、それは言うたら「可哀相だ」という。何も欠けてひびも何もいっていないのに、何で捨てられるんや、という。「こういうものを粗末にしたらあかん。物にもいのちがある」ということを言うていましたですね。けども私は反発の固まりですから、とてもじゃないけど、それを理解しようなんていうのは、努力は一切できなかったですね、その当時は。
 
金光:  確かに思春期の頃の反発心というのは、殊(こと)に親とか目上の者なんかに対する反発心というのはけっこう強うございますからね。増田さんは、大学で社会福祉学科へ行っていらっしゃいますね。やっぱり多少そういう方面に関心をお持ちだったわけですか。
 
増田:  いや、そんなことはないですよ。もう正直に言いますと、坊さんになるのが嫌でね、とにかくこの世界から抜け出たいと。だけれども周りからいろいろ言われましてね。「まあまあ卒業だけはしておけ。坊さんの資格だけは取っておけ。後は好きなようにいったらいいやないか」というようなことで。その時分、仏教大学というのは、まだ社会福祉学科というのは、浅い、新しい学科で、私は、もう耳慣れん言葉でしたからね。じゃ、これでも専攻しようか、という。特別、福祉に関心があったとか、そういうようなことはなかったです。
 
金光:  でもそこで卒業になって、それから就職なさるのもやはりそういう社会福祉関係の方へ就職なさったわけですね。
 
増田:  そうです。
 
金光:  嫌でも応でも、しかしそういう世界に身を置かれたわけですよね。入ってご覧になるとどうでした?
 
増田:  それは学生時分に、教護院(現在の児童自立支援施設)という施設へ―これは別に義務付けられた実習じゃないですけど、卒業論文を書くのにちょっと一遍門を叩いてみようかな、というので、三週間ぐらいでしたかな、そこで住まわせて貰って、それが施設へ足踏み入れた最初でしたけれども、そんなに私にとっては違和感なかったしね。ああ、こういう仕事もあるんやな、ということで。それは教護院へ実習さして頂いたというのが、福祉の現場に足を入れさして頂く一つのきっかけになったと思います。だけど、私、卒業する時は求人なかったですしね。
 
金光:  まだあんまり施設が発達していなくて、
 
増田:  まあ大阪の方に、そこがお寺が運営しておられる養護施設でして、振り出しは養護施設なんですけど、一年間だけ勤めたんです。
 

 
ナレーター:  増田さんは、大学卒業後、県の職員として児童擁護施設などで働いた後、知的障害者の人たちと共に暮らす施設の職員となりました。一年経った頃、人生の師ともなる人・田村一二(たむらいちじ)(明治四二年、舞鶴に生まれる。昭和八年、京都師範(現・京都教育大学)図画専攻科卒業、昭和八年〜一九年、京都市滋野小学校特別学級担任。昭和一九年〜二一年、大津石山学園設立、寮長。昭和二一年〜三六年、滋賀県立近江学園設立、寮長。茗荷塾開設)さんに出会います。田村さんは、障害者が一方的に世話を受けるのではなく、健常者と共に生きる社会を作ろうという茗荷村(みょうがむら)構想を立てていました。二人が出会った昭和五十六年、田村さんは、滋賀県で現実に茗荷村を作り始めたところでした。そこでは障害者と健常者を区別なく、共に暮らしていくための工夫がこらされていました。村作りの第一歩は、廃村となっていた場所を整地して、農地にすること。土を耕して米や野菜を作り、家畜を飼う。村民一人ひとりが、それぞれ無理なくできることを実践し、家族のように暮らしていく。人はみな等しく尊いという見方による茗荷村の活動は、当時他に類を見ないものでした。田村さんは、この村を原点に、人が人を大切にする社会を作っていきたいと考えていました。
 

 
田村:  大自然の中で、土と―開墾なら開墾、作付けなら作付け、いろんなことをやりながら、しかも傍にいろんな障害の人がおる。その障害の人と一緒になって、土を―自然を媒体にして汗を流すという形態を取らんと、その障害の人に対する温かい目とか、心の広がりとか、そういう本当の意味の内面の理解ができんのです。知識だけの理解でなしに。汗を出すとそういうものが入ってくる。
 

 
増田:  田村一二さんという方に出会わして頂いて、一年目ぐらいに研修会がありましてね。「茗荷会(みょうがかい)」という、田村一二が提唱される茗荷村作りを実現していこうという組織がありましてね。そこの宿泊研修の時に話がありまして、一つは、「君ら、こうやっていつも熱心に集まってくれるのは有り難い。障害者の問題だからというて、障害者の方へ目を向けてくれているのは有り難いけれども、障害者の問題というのは、実はこれは障害を持たない人の問題や。いわゆる健常者の問題だ。だから障害者の方ばっかりみんなあんたら目を向けていたらあかんで」ということを、そのお話の中でありましてね。それは非常に新鮮なお言葉でしたね。やっぱり障害を持たない健常者の世界を、あれこれといじくって、いいようにしていかなあかん。そういう活動をやってもらわなあきまへんな」というようなことをおっしゃられましたね。お話の後半のところで、「これだけ経済大国日本というようなことが言われるいる中で、こういう弱者が、ますますおいてけぼりというか、粗雑に扱われている。その諸悪の根元は何かというと、やっぱり「使い捨て」だ。非常に今の日本人は、贅沢飽食三昧の生活をしているけれども、これが一つの諸悪の根元や。やっぱり「使い捨て」というのは、もののいのちを頂いているのに、そのいのちを粗末にするということやからね。ものにもいのちがある。それを粗末にしていたら、それがやっぱり人間同士、粗末にしあうということに繋がっていく」という。実は〈これ、儂、その話どっかで聞いたことがあるな〉というふうに思ったんですよ。それがふっと考えてみたら、私が親父に反発していた頃、「ものにもいのちがあるんや。こんな贅沢な勿体ないことをしていたら、今度は必ずこれは人間同士、粗末しあうようなことになってくる」と、実は父がそういうことを言ったんですね。
 
金光:  お父様がおっしゃっておられて、それに反発していた時の言葉と、田村先生の言葉と一緒になって、あらためてお父様を見直した。
 
増田:  なんかそういうきっかけを頂いたようなもので。
 
金光:  そうすると、自然頭が下がらざるを得ないところがありますわね。
 
人間だけが幸福になろうなんて
ムシがよすぎるわな。
 
増田:  人間は、大自然からいっぱい助けを頂いているんですからね。そのことを忘れて、未だに人間だけ、「人権、人権」いうているけど、牛には牛の「牛権(ぎゅうけん)」があるし、豚には「豚権(とんけん)」があるし、鶏には「鶏権(けいけん)」があるんですからね。やっぱりそういうところまで今目を向けていかなあかん時じゃないかなと、私はそう思っているんです。
 
金光:  でも、その話を聞かれた人は、「そんなことを言っても、人間食べていかないかんじゃないか」と思いますけれども、ただそれを同じ食べるにしても、頂き方ということが、そこから違いが出てきますでしょうね。
次々になかなか良い言葉があるようでございますが、
さずかりもの。
あずかりもの。
 
という。考えてみると、私なんか自分のこと考えてみましても、自分自身で自分の身体を設計したわけではございませんし、両親を縁として、ということでしょうけれども、こういう身体を頂いているわけですよね。これはどういうことですか?
 
増田:  これは、私には孫が今九人いるんですけど、その五番目に生まれてきたのは、ダウン症でしたですね。彼が生まれた時に、親は非常に深刻な状態になりましてね。この二人をどう励ましたらいいんかなということで、随分真剣に考えました。その時に「子どもは天からの授かりものや」と、昔からよう言われますけども、授かったもの、頂いたものやったら、その子どもをどう育てようと勝手や。それは大事に大事に育てる人もあれば、今日みたいに子どもを粗末に、辛い思いをさしたりとか、自分が貰うたもんやさかい自分がどう育てようと勝手じゃないか、と言わんばかりなんですけども、それが「授かりもんじゃなしに、預かりものだ」というふうに、私はちょっと実感したんですね。誰から預かったんや、と。預かったもんならば、いつかは返さんならんやないかという、こういう話の筋道を立てましてね。「預け主は誰か」と言うたら、これは「阿弥陀さんや」と。阿弥陀さんから預かったものやさかいに、いずれ人間だけでなしに、生きとし生けるもの、この世に生まれたものは、必ずこの世から消えていくんですからね。その時にやっぱり預け主に預かったものは返さなあかん、ということですから、まあしっかり大事に育てよ、という気持ちを込めて、励ましになるかどうかわからんけども、そういうところからできた言葉なんです。
 
金光:  だから無形の働き―人間とか自然を生かしている働きそのものを「阿弥陀さん」という言葉で表現なさっているというふうに了解しても、そんなに大きな間違いじゃないかと思いますが、そう思ってもう一度考えてみると、そういう赤ちゃんだけじゃなくて、さっき先生がちょっと言いましたように、自分自身も預かりもの、阿弥陀さんのことを考えると、預かりもんだな、ということで、
 
増田:  だから私は障害を持った子だけを指しているんじゃなしに、ここでは子どもというものは、みんな実は預かりもんや、と。それを突き詰めていきますと、私らみんな実は預かりもんで、親が一生懸命育ててくれて、しかるべき時がきたら、預け主に返して頂こう、と。みんなに言えることだなという、そこへ到達するんですね。
 
金光:  今の「授かりもの、預かりもの」に関連して、これもいい言葉だと思うんですが、
そんざいが役割
 
存在していること自体が、それでちゃんと役目を果たしているんだ、と。
 
増田:  これは田村一二さんが、いつもおっしゃっていたのは、「この世に用のないものはない、置いていない。やっぱりみんなそれぞれにみんな用があるから存在するんや」ということを、そこから頂いた言葉なんですけどね。例えば寝たきりになられた人を指して、「もうあの人も寝込まれはったな、もうあれで終いやな、可哀相やな」と。だけど、ほんとに寝たきりになったら終いか、と。誰でもああいう姿になるということは嫌なものでありますけれども、しかしみんなそういう可能性はあるわけでね。しかしああいう状態になっても、お世話をしておられる方を育ててはるんや、というふうに受け止めたらどうか、ということですね。ですから決して寝たきりになったからと言って、終いじゃない。まだ働きをなしておられる、というふうに思ってみたら、存在が役割。まだ役割を果たしておられる、ということが言えるんじゃないかな。お年寄りの存在というものは、非常に重いものが、尊いものがあるわけですけど、余生は楽しく、若い者と諍(いさか)い起こさずにいきたい、というふうに思っておられるんじゃないかなと思いますけどね。やっぱり若い者からしてみたら、大きな手本ですからね。やっぱり年寄りは年寄りとしての存在価値がある、と。
 

 
ナレーター:  田村一二さんが作った「茗荷村村是(そんぜ)」は、茗荷村の根本理念を集約したものです。この四つの言葉を、増田さんは人生の大きな指針としてきました。
茗荷村村是(そんぜ)
一、賢愚和楽(けんぐわらく)
二、自然随順
三、物心自立
四、後継養成
 

 
金光:  茗荷村の構想の一番最初に、「賢愚和楽(けんぐわらく)」というのがありますね。賢い人と愚かな人が和やかに楽しみという「賢愚和楽」という。
 
増田:  「賢い人」と「愚かな人」というふうに思われがちですけども、それだけを指して言うんじゃなしに、いつも言うておられたのは、「二つで一つ」という言葉ですね。「二つで一つのものを成り立たす。すべて物事は」。だからこの「賢愚」というのは、賢い愚かな人だけを言うんじゃなしに、例えば男女―男と女とか、老若の関係とか、プラスとマイナスですね。プラスが立派で、マイナスがあかんとか、そういうことじゃない。両方が尊い、ということをおっしゃっているんですね。だからお互いに、「儂もあんたにとっては必要かわからんけど、あんたも儂を必要としてくれている。そういう者同士だから仲良くいこうじゃないか」という、そういうことに尽きるんじゃないかと思います。それが第一条ですね。
 
金光:  田村先生の「自然随順」という。これも自然に順うという。言葉としてはそう難しくない言葉ですが、これは現実にはなかなか難しい意味があるような気がしますが、これはどういうことでございましょうか。
 
増田:  「自然というのは、人間に奉仕するためにあるのや」という、そういう人間の勝手な、非常に傲慢な考えで、自然に対して相向かってきた。それによってその傲慢さが自然を随分傷め付けて、今それがしっぺい返しとして、いろんな不都合なことを受けているという。やっぱり「人間も自然の一部や」というふうに考えて、やっぱり自然は大事にせないかんという。川を汚したらあかんとか、山を汚してはいかんとか、いろんなふうに言えるんですが、そういうことをおっしゃっているんですけど、私はちょっとまだそういうことだけじゃなしに、自然に順った生き方というのは、学校の先生は学校の先生―「本来自分の置かれているポジションです、そのポジションにしっかり立ち戻るということが、これが自然」というふうに、私は受け止めたんですね、またもう一つ違う方向で、自然随順をね。みんな今それを逸脱していると。野球でいうたら、サードがショートを守ったり、ショートがセカンドまで守りに行ったりとかね。それは何やと言ったら、みな「金や」と。それによって、みんな本来置かれているポジションを外れておる、と。それを戻していこうというのも、これは自然随順じゃないかと思うんですね。
 
金光:  おっしゃる通りですね。
 
増田:  そうする時に、私自身考えた時に、私はお寺の住職をしながら施設勤めをしておると。で、施設を立てれば寺立たず、寺を立てれば職場が立たず、というようなことで、随分板挟みになったり、
 
金光:  その場合には、二にして一とは簡単にいかないわけですね。
 
増田:  そうそう、生活もありますから。しかし私の知人も、「私は勤めを辞めたらお寺のことをやるんや」というていました。「もうちょっとでな」と言いながら。それで辞めて一年で亡くなりましたからね。これはちょっと私も親父と同じ道を歩めんな、という思いがあったんですよ。ところが田村先生の講演の中で、「障害者の問題は、実はこれは健常者の問題だ。健常者からより良いものにしていかないかん」と言われた時に、そういう活動というようなものは、何処で誰がするんや、というふうに、実は思ったんですね。自分は寺の住職だ。やっぱりお寺なんかは教化活動として、茗荷村のこの構想は、お寺の教化活動にも活かせるな、というふうに思ったんです。それで私も二足の草鞋というのは、どっちつかずだから、檀家もそんなにたくさんの檀家さんではないんだけれども、まあまあ今のこの日本で餓死することはないやろう、と―これは私の勝手な考え方です。それでそこへもって、ある政治団体の事務所に教化看板がある。それを毎日通勤する道すがら目に飛び込んでくるんですけども、その日はまたちょっと新鮮な思いでその看板の文字が―言葉が目に飛び込んできましてね。それはどんなことが書いてあったかと言いますと、
 
異常も日々続くと、正常になる
 
と書いてあるんですよ。坊さんの二足の草鞋というのも、これ正常じゃないな、と。本来は正常じゃない。しかしそれがもう何十年とそれが当たり前のようになっている。それが正常になっているんやな、ということというふうに、私は思った時に、〈あ、もう辞めよう。もうお寺へ腰を据えよう〉というふうに。家内なんかまあ随分猛反対しましたけどね。ちょっと時間かけたとは言いませんけれども、もう自分の頭の中で出来上がってしまって。やっぱり親父がし残したことをやろうと思ったら、同じことをしていたらあかんな、というふうに思った、そういう部分もある。それで先ずいろんな人に、「お前、そんな不幸なことを、奥さん可哀相に、子ども可哀相に」と、みんなに言われましたからね。しかし、いわゆる『無量寿経』の中に、「弥陀の四十八願」というのがあって、そこで第十八願で、阿弥陀さんが言われてはるんですね。「私に委しておけ」と。「念仏称えて、後は儂に委せ」というようなことをいうてはるわけだけどな。ところが私たちは、こういう坊さんの恰好をして、みなさんにそういうことを説くんですね。「阿弥陀さんに委しておきなさい。阿弥陀さんが、みんな掬い取ってやる、と言うてくれはるんだから、委したらいいんですよ」と言いながら、私、二足の草鞋を履いている。言うているだけで、「じゃ、おっさん、どこまで阿弥陀さんに委しているんや」と言われたら、辛いところですわね。だからそれに賭けてみようという思いも、私はあったんですよ。それが仏さんにということは、結局周囲の人々からみな支えられ、励まされ、助けられていったという。それが仏さんということなんで、私はそう思っていますけど。
 
金光:  二者択一、二つのうちの一つ、要するにお寺に帰ると決められた後は、スムーズにいきましたか。
 
増田:  いや、なかなか。この仕事を辞めて、お寺に腰を据えるということについては、先ずそれは家内が猛反対でしたからね。三人の子どもの前に立ちはだかったみたいな感じで。それでも私の頭の中では出来上がっていますから。まあそこを今思えば、強引だったと思いますけども、それでスタートするわけですけどね。二年ぐらい経った頃に、なかなか前へ進む軌道が取れずに、ちょっと悶々とした部分があって、つい家内にこぼしてしまうたんですね。そういうふうに「ちょっと早まった」と言った時に、家内が、「それみてみな。どっかそこらでちょっと仕事の口探してきたらどうやな」と、こう言われるのがおちや、というふうに、私も思いながら、その言葉をついつい吐いてしまったんですけどね。そうしたら、「そんな今更何いうてはるんや」ということですわ。「そんな後ずさりできへんで」と。「慌てんでもいいがな。ぼちぼちいったらいいがな」と言ってくれたね。これで実はほんとに救われたというかね、私も腹が決まったというか、えらい情けない話ですけども。
 
金光:  それにつけて、こちらにあります「涙ポロポロ」というのがありますね。これを読んで頂けますか。
 
増田: 
お釈迦さんも
法然さんも
みな脱ぎ捨てて
涙ポロポロ
南無阿弥陀佛。
愚かなわたしここからさきが
捨てられません
涙ポロポロ
南無阿弥陀佛
 
これは実は私自身も涙ポロポロやったんですよ。家内が、「そんなもん別に慌てんとゆっくりぼつぼついったらいいやないか」と言ってくれた。それで私は救われるんですけど。その日の晩ですね、本堂で、「いやほんまにもう委せます。一つ頼みます」と。阿弥陀さんの前でお念仏した時に、止めどなく涙が零れましたですね。お釈迦さんも一国の国王になる人であったのが、それを捨てて修行に入られ、それでやがて悟りの境地に到達される。法然上人も武家の家に生まれながらにして、それを捨てて、比叡山へ上られて、やがてお念仏の道を悟られるというふうな。それで私の涙というのは、そんな上等なもんやないんですわ。「あと、家族やら、みなおりますので、一つみなぐるみで、儂だけやなしに、みんな一つよろしゅうお願いします」という、こんな程度の涙で、ここから先が捨てられません、というのが、その辺りですな。執着というか、そんな状態で捨てきれない荷物を、前後ろに引っ提(さ)げながら、家内の一言に救われて、今日あると思います。
 
金光:  三番目が
物心自立
 
という。物と心の自立というのがございますね。これの説明はどういうふうにして下さったんですか。
 
増田:  私は、これが茗荷村のほんまの骨というか、と思っているんです。何でも、例えば福祉の世界というのは、やっぱり国とか、県とか、市とか、そういう税金を頂いて動いているわけですけれども、この茗荷村においては、それはちょっとまあ甘えることはやめておこうやないか、と。障害を持たん人でも、みんな汗水垂らして頑張って働いてはるんだから、障害あるからというて、甘えて、頭から助けを乞うとかね、そういうことは止めよう、と。もうとにかく同じように汗流そうやないか、と。流してもどうにもならんという時に、周りから援助の手を差し伸べてくださる方があったら、それは有り難く頂戴しよう、と。先ずは額に汗をしよう、ということですね。だから助成金とか、そういうものには頼らんでおこうというのが、当初、これが田村先生がここで「物心自立」というのを強調されたのが、そういうことだと、私は理解しています。
 
金光:  「物心自立」に関連して、
 
万粒(ばんりゅう)構想
 
これはどういう?
 
増田:  田村先生が、こういう言葉を提唱されると、あ、福祉の施設作りの一環か、というふうに、とらわれやすいんですけども、そうやなしに、こういう「村是」いわゆる目標ですね、これは一軒の家の中においても、みなそれは実践できることだ、というんですね。一軒一軒の。またそれが滋賀県だけの茗荷村だけにあるというようなものではなしに、どこにでもそれができるという。万粒構想というのは、そういうことで、先ず一軒一軒の家を茗荷村的に、という願いがあるんですね。実はその茗荷村というのを、私も、これは住職としての思いなんですけどね、檀家のみなさん方に、「一緒にやりましょう」というようなところまで、言えていませんけども、この茗荷村の活動を実践していきたいな、という。
 
金光:  このお寺でも?
 
増田:  ええ。お寺でも。それで仕事を辞めた時に、実はそれが私の頭の中にありましてね。私は、知的障害を持たれた人の更正施設に二年半ほど仕事をしていまして、そこを辞めるという時に、入所者の一人の人が期限がきて、施設を出なならんという状況にありまして、「どうや、私と一緒にやろうか」というような軽い感じで、親御さんにも話をして―私が世話をするとか、面倒を見るという意識じゃなしに―一応私の坊さんとしての教化活動を手伝ってくれるか、というようなことで、二人の私の担当していた人たちが、家に来るようになって、それで共同生活を始めたんです。一人は、そのうちに家庭復帰したんです。その人は、字の読み書きもできるし、自分で電車に乗って家に帰れる。もう一人の彼は、字の読み書きできないし、自分一人で電車に乗って家に帰るというようなことも、当時はできなかったし、で、彼が残って、今一緒に共同生活しているんですけどね。そういう彼は、毎朝お勤めしますので、字の読み書きはできんけども、毎日毎朝のお勤めは耳で覚えて、日常のお勤めはついてこれるんですよ。一緒にお檀家回りやり、毎月の月参りやり、この近在では一緒にお詣りしているんですけどね。毎日同じことを、あれもこれも違うことがてきぱきできるということは、それはできませんけども、同じことの繰り返しをやるということについては、これは彼やこそできるんかなという、そういう思いがしますね。
 
金光:  だからすべてのグループというか、人たちのところで、それぞれのその茗荷村構想ができると、そういうお考えなんですね。
 
増田:  そうですね。
 
金光:  それと同時に、「後継養成」と。当然後継者ができないと困るからということでしょうけども、こういうのがありますね。
 
ひらいたまんまの
佛のおんめ
 
仏様の御目はいつも開いたまんまだという。
 
増田:  この仏さんというのを、みなさんおそらく仏像―ご尊体を想像されると思うんですけれども、朝起きて、日中仕事をして、夜がきて寝ると。また明くる日、朝目が覚めて、と、みんなそう思っているんですね。だがわからへん。朝、冷とうなっているかもわかりませんしね。じゃそれがどうして朝無事に目が覚めるかというふうに考えた時に、やっぱり護られているということなんですね。先ず空気―夜寝ている時もちゃんと空気が作用してくれて―そんなこと思わへんわけですわ。「空気そのものが仏や」という。そのものも空気も仏やというふうに、私ら寝ている時でさえも、空気が仏としての姿で私たちを護ってくれているという。そのことにも気付きたいなという、そういう思いでこの言葉を書いたと思うんですけどね。人間が生きるためには、何が必要か、ということを考えた時に、ちょっと思い付いた言葉として、こんなのがあるんですよ。
なんぼ空気吸うたかなあ。
なんぼ水を飲んだかなあ。
なんぼ米つぶ食べたかなあ。
なんぼ魚肉(ぎょにく)を喰うたかな。
なんぼ人のおせわになったやらうか。
 
これを私は、「無量寿の歌」というふうに書いているんですが、私は、六十七歳ですけども、六十七年間、どれだけ空気吸うてきたやらう。どれだけ水を飲んできたやらうな。みなさん方もそれをちょっと想像して頂けたらいいんですけどね。米粒だって、ご飯何杯やなしに、あの一粒一粒の米粒ですね、これを今日まで、六十七年間一体どれだけ食べたやろう、何粒食べたやろう。ちりめんじゃこでも一掴みで、果たして何匹皿の上に乗るか。どれだけ食べたやろう。牛や豚や鶏の肉をどれだけ頂いたやろうかな、ということを思いますと、量りようがありません。量れません、というのは、「量る」というのは計量の量を用います。それは「量れない」ですから、その上に「無」が付くんですね。「無量」なんですよ。量れんほどの空気を吸い、水を飲み、米粒を頂き、魚や肉の命を今日まで六十七年間も量り知れんほどのものを頂いた。オギャーと生まれる前の先祖さんとの繋がりも、たくさんの繋がりですよ。生まれ落ちてから今日までも、たくさんの人にお世話になってきた。支えられ、励まされ、どれだけの人にお世話になったかということも、これはもう量りようがありませんね。そういうことを、この言葉に託しまして、これを「無量寿」量り知れない寿(じゅ)という。「寿(じゅ)」は「ことぶき」という字なんですけども、意外とこの「寿(じゅ)」というのを、「どういう意味ですか?」と尋ねますと、大概は「目出度い」とか、「言祝(ことほ)ぐ」とか、そういう答えが返ってくるんですが、仏教ではこれは「いのち」というふうに読むんですね、意味があるんです。「いのち」―「寿命」という言葉があります。「寿命」の「寿」はこの「ことぶき」で、「命(みょう)」は、私たちの生命の命ですね。「寿命」というのは、この寿なんですね。「無量寿」の「寿」というのは、空気やら、水やら、米やら、いわゆる魚やら、肉やら、こういう私を生かすために犠牲になってくれた尊い命のことを「寿(じゅ)」という。そういう「寿(じゅ)」なんですよ。その「寿(じゅ)」を「頂いたいのち」―生命の命、これは私のいのち。だから私は、寿命というのは、この寿というのは、頂きものですね。頂いたいのちというふうに、私は、そういうふうに解釈しています。で、無量寿と。実は「南無阿弥陀仏」―「阿弥陀さん」という言葉があります。「阿弥陀」―「弥陀」というのは、これは量るという意味なんです。「阿」は、その量るを否定しますから、否定の言葉ですから、阿弥陀で量れない。つまり無量です。だから「無量」というのと、「阿弥陀さん」というのと、「阿弥陀」というのと、同じ意味なんですね。私はそれだけのたくさんの量り知れない尊いいのちを頂いて、私のいのちは、今成り立っていますよという、こういうことなんです。ですから今、人のいのちを奪ったり、自ら命を絶ったりされる方がありますけれども、仏教の立場からすると、それは否定されるんですね。何故かというと、私の身体には六十七年間、これだけたくさんいのちをいろんな頂きもののいのちが詰まっての六十七年間ですからね。私だけの一人だけのものじゃない。たくさん犠牲が私のいのちに籠もっているわけですから、それを自らいのちを絶つとか、人のいのちを奪うということは、それは許されないことなんですね。だからやっぱり子どもたちにもこれはわかって貰いたいですね。
 
なんぼ空気吸うたかなあ。
なんぼ水を飲んだかなあ。
なんぼ米つぶ食べたかなあ。
なんぼ魚肉を喰うたかな。
なんぼ人のおせわになったやらうか。
無量寿のうた
 
金光:  今日お話を伺いながら、自分というものも、どなたも同じでしょうけれども、やっぱりいろんなもののお力を頂いて生かされているんだなあということを、いくつかの言葉によって教えて頂きながら、あ、そうだったな、と思いながら聞かせて頂きました。どうも有難うございました。
 
     これは、平成二十五年六月二十三日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである