いのちをつなぐ
 
                  作 家 落 合(おちあい)  恵 子(けいこ)
一九四五年、栃木県宇都宮市生まれ。明治大学文学部英文学科卒業後、一九六七年、文化放送にアナウンサーとして入社(同期にみのもんたなど)。TBSテレビ採用試験に不合格となったみのを、文化放送に誘ったのは落合である。「日野ミッドナイトグラフィティ 走れ!歌謡曲」や「セイ!ヤング」のパーソナリティを担当。特に「セイ!ヤング」では、リスナーから「レモンちゃん」の愛称で親しまれ、歌手としてもデビュー。同番組のパーソナリティは、作家に転身した後も一九七八年まで務めた。一九七一年には「こんばんは、落合恵子です」がスタート(一九七五年まで)し、ゆったりと静かに語りかけるその話術と優しさで、幅広い年齢層に人気を博す。三十歳を前にした一九七四年退社、作家活動に入り、一九七六年に児童書籍専門店「クレヨンハウス」を開く。その経営のほか、近年はフェミニストとしての視点から女性や子供の問題についての評論・講演活動や週刊金曜日の編集委員を務めている。その傍ら、1986年-1990年には文化放送で、日曜夜に女性だけのスタッフによる硬派生情報番組である、「ちょっと待ってMONDAY」のパーソナリティを担当。 また、二○○五年からはTBSラジオ日曜日の早朝番組「おはようございます 落合恵子です」で一五年ぶりにラジオ番組のパーソナリティに復帰した。反戦運動・反核運動・原子力撤廃集会に参加するなどいわゆる進歩的文化人として知られる。小坂英二はツイッター上で「反日左翼」とラベリングして批判した。一九七五年に発売された南沙織のシングル「ひとねむり」の作詞を担当している。
                  ききて 町 永  俊 雄
 
町永:  変わらないですね、ここはね。
 
落合:  そうです。三十七年です。
 
町永:  ここの選ぶのは、けっこう落合さんが選ぶ場合もあるんですか?
 
落合:  いいえ。最初の頃はそうでしたが、今はみんなスタッフたちが、毎月「新刊会議」というのをやりまして、厳しく選んでいます。
町永:  ああいうところで読むんですね。
 
落合:  そうなんです。
 
町永:  お母さんとね。
 
落合:  古いテーブルなんですよ。
 
ナレーター:  落合恵子さんが、経営する子どもの本の専門店です。
 
子ども:  これなんだろう?
お母さん: 何だろうね? がたたん がたたん がたたん がたたん わぁ〜てっきょうだ。
 
ナレーター:   親子でゆっくりと、豊かな本の世界に浸ってほしい。絵本など、子どもの本五万冊を取り揃えています。
 
町永:  昔の名作もありますね。私が、子どもに読んであげたような絵本があるから、あ、懐かしいなと思って。
 
落合:  そう。絵本って、案外残っていくロングセラー。絵本でベストセラーを出すこと、私、ないと思うんですね。むしろロングで、次の世代、次の世代にこう手渡していくって、大切だと思うんですけどね。
 
 
ナレーター: 差別や恋愛、老いなど、今を生きる女性が出会う課題を、作品のテーマにしてきた落合さん。女性や子どもが大切にされる社会こそが、誰もが生き生きと暮らせる社会であると訴えてきました。落合さんは、五十代半ばから七年間、母親の春恵(はるえ)(二○○七年逝去。享年八十四歳)さんを自宅で介護しました。その体験は、介護のあり方だけでなく、母親と自らの関係を見つめ直すきっかけになったと言います。
 

 
町永:  お母様のことですけれども、亡くなったのは六年前ですよね。
 
落合:  ええ。
 
町永:  介護生活が七年間に及んだという。
 
落合:  約ですね。「七年、介護、大変でしたでしょう」と言われたりして。確かに大変な部分ありますが、でも「七年かけて準備させてくれたのね、お母さん」という気持ちがありますね。
 
町永:  七年かけて、別れの日々に向かって、毎日送ってきた。
 
落合:  ええ。
 
町永:  でも介護は在宅で、というのは、割合すんなりと決断なさっていたんですか?
 
落合:  ええ。決断しましたね。母が、私から見れば祖母を在宅で看ていたのがあったことと、それからやはり介護必要になった時、ここからもう一回母との―どういったらいいのかな―血の縁と書く「血縁(けつえん)」。確かに母と娘ですから血縁ですが、私、ずっと血の縁がすべてではないだろうと。結び縁―「結縁(けちえん)」も人間にとって大切で、それも家族だ、と考えたい、というのを書いてきたんですね。もう一回「結び縁」の方の家族も、母とこう結んでみたいという、そんな気持ちもあったんですね。
 
町永:  実のお母様と結縁―結ぶ縁を、介護の日々で、
 
落合:  はい。とても私が親孝行で、我が家でやりたいとか、そういうよりも、私自身がそうしたかった、ということが、一つ大きな理由ですね。ほんとに未知の日々ですから、躓(つまず)いたり、壁にぶち当たって跳ね返されたり、いったい医療って誰のためにあるのって考えたり、この国の福祉はどこへいくんだろうと、非常にいつも私はそうですが、憤りで―この怒髪(どはつ)ですね―怒りの子になったりとか、そんな日々の積み重ねでした。
 
町永:  お母様を腕の中で看る。
 
落合:  そうですね。そんな考えていなかったんですが、いつもの夏の朝がきているわけですね。外が白々と明けて、野鳥の声がして。で、一回ベランダに出て、毎朝そうしているように、その朝咲きそうな朝顔の数を数えて、母の好きなアーリーヘブンリーブルーって、凄く綺麗なブルーの朝顔で、それをずーっと種から蒔いて育てていたんで、その年も咲いていて、で、「今日はいくつ咲いたよ」って、母に伝えて、医師も在宅医療の看護師さんも、それから親類縁者、それぞれの部屋で連絡をしましたから待っているんですが、二人だけにさせて、ということで、なんか伝えなきゃ、母に。で、一応ものを書く人間なんで、なんか素敵な言葉ないかなって、探していたけど、全然思い浮かばないもんですね。母の手を先ず握って、「お母さん、有難う。お母さん、私はあなたの娘でよかったよ」と伝えて、どんどん見ているうちに、脈がさらにトントントンと早くなっていくし、どういろんな手当をしても、血圧は上がらないし、尿の出も悪くなっているし、もうここで最後の言葉を伝えるしかないのかなって思いまして、もうベッドの上に上がりましてね、ギュッと抱きしめるって、怖かった時もあったんですね、いろんな管が気になって。でもいいと思って、上半身抱いてですね、「お母さん、もしよかったら、も一度私を産むかい?」って、訊いていたんですね。そうしましたら、もう何もわからない。大きい病院で言われたりしていた母なのですが、大変な勢いで瞼をパチパチパチパチ。先ず目を開けようとしたのか、あるいは何かの自分なりの合図かわかりませんが、もうとても瞼をパチパチして、それから開けようとして。ところがここに力が入らなくて、上手に瞼が上がらなくて、それから息が苦しいですから、肺活が落ちていたんですが、これを必死に上げようとするんですね。というのは、最後の最後まで何らかの形の、彼女なりの方法で、私と対話をしようとしていたのかな、と。すべてが想像でしかないのですが、でも、そう思いましたね、その時にね。ずっと腕の中に身体を抱いていると、温かいじゃない、まだ。まだ母のいのちはここにあるじゃない、という思いもしたし、同時にこうしているうちに、徐々に徐々にですが、体温が下がっていく。でも下がっていっても、ここにいる。あるいはここにいた身体が、例えばその後見送って居なくなった後も―どういったらいいんでしょうね―ここにいるよねって。「ここってどこですか?」というと、心かも知れないし、どこかわかりませんが、いるよね、っていう体験は何度かしていますね。
 
町永:  そうですか。じゃ、看取った後も、「ここにいるよね」っていう。
 
落合:  そんな感じがしました。この間ね、宮城に行って、新幹線帰り乗っていたら、小さい子どもが―お父さんと多分一緒だった―五つぐらいかな、「早くお家帰りたい」と言っているんですよ。ああ、「お家」って、とっても温かい言葉なんだなって。宮城で被災者の方々とご一緒だったその結果もあるでしょうが、「お家」って大事な言葉だな、と思った時に、私の感覚―「お家」っていう時、少なくとも、母の顔がいつもそこにありました。今は存在そのものはなくなっていますが、でも私が戻っていくところは、やはり母がいる「お家」なんだな、という思いはありますね。だからそこが寂しくもあります。でも他の何かが、そしていてくれるのかなと思う時もありますが。
 
町永:  それぞれは必ずお家がある筈なんですよね。
 
ナレーター: 落合さんの故郷は、栃木県の宇都宮市(うつのみやし)。太平洋戦争の末期、昭和二十年に生まれました。落合さんの母は、四人姉妹の長女。教師だった父が早く亡くなった後、母を助けて働き、妹たちの面倒もみてきました。そして戦争の最中(さなか)一人の男性と恋に落ちます。二十二歳の春恵さんは、未婚のまま出産することを決意、母親だけで娘を育てる道を選びました。
 
落合:  これは私が、小さい時に一度、それから十五の時に聞いた時は、はっきり覚えているんですが、「敢えてその険しい道を、敢えて何故お母さんは選んだのか?」と訊いたことがあるんですね。生まないという選択もあったかも知れない。あるいは生まれた私を、どこかお子さんが欲しいというとこのお家に預けることも出来たかもしれない。それでもそうしなかった理由の一つとして、彼女がこう言ったのは、「あなたが生まれたのは、戦争のほんとに最後の頃だった。昨日街角ですれ違った幼なじみが、今日は焼夷弾で死んで逝った。人のいのちってなんて儚(はかな)いんだろうと思った時に、お腹にあなたがいる、って、お母さんは知っておった。お母さんは、あなたのお父さんに当たる人が、ほんとに好きだった。ほんと大好きだった。で、日に日に大きくなっていくお腹を撫でながら、お母さん、いつもあなたに言っていた。早くこっちにお出で∞早くこっちに来て≠ナも、それぞれの人生生きていこうよ≠チて、声を掛けていた。私、覚えていないんですが、小さい頃、ずっと言っていたそうなんです、夜寝る前に。「私のところに来てくれて、有難う」って。「その最初に生まれた夜、あなたに伝えたんだよ」という話を聞きましたが。やはりあの時代に一人の若い女が、未婚で出産を決意するというのは大変なことだったろうと思います。
 
町永:  それは落合さんが、お母さんに直接聞いたんですか?
 
落合:  ええ。はっきり覚えているのは、十五歳の時ですね。
 
町永:  どういうふうに?
 
落合:  「敢えて何故生んだの?」って。
 
町永:  お母さんに向かって、
 
落合:  後になって母は、「ずっとそれを説明したかった」と言っていましたね。もう一つ、その時、彼女が付け加えた言葉が、「世の中にはたくさん差別あるんだから、その差別される間に、無念なことだけれど、あなたは生まれたんだ。そのことを大事にして、世の中にある差別とか、される側の人と、こう軟らかく手を結んでいけるような大人になれたら、後はもう何にもお母さんは要らないと思うよ。お母さん、五重丸付けるよ」って言ったのかな。そんなふうに言っていた記憶がありますね。
 
町永:  お母様が、差別について話したというのは、それは裏返して、お母さんはやはり未婚の母になったことによって、相当差別というものを意識せざるを得なかったんではないでしょうかね。
 
落合:  今、気を使って、「未婚の母」という言葉を使って頂いていますが、当時はこれも括弧で括るんですが、「父(てて)なしっ子」という言葉ですよね―父親のいない子と言われたことありましたね。で、その言葉をもって家に戻って、意味がわからなくて、母に、「どういう意味だ?」と訊いたことありました。母が、「お父さんのいない子をそう呼ぶ人がいる。でもそんなに素敵な言葉じゃないから、あなたは使わない方がいいよ」って言ったのかな。それはとても印象に残っています。「使っちゃいけない」じゃなくって、「素敵な言葉じゃないから使わない方がいいんだよ」という言葉を、私の母は、四人姉妹の一番上で、私から見れば、教師をしていた祖父ですね。早くに祖父は、三十代で亡くなっているんです。亡くなって、自分は妹たちを進学させるために進学を諦めた人で、机の上の、いわゆる学歴って、まったくない人なんですね。でも生きることの意味を一生懸命考えて、学歴はなかったけれど、知性、あるいは感受性かな、とても深いものがあった、ということは言えるかも知れません。
 
 
ナレーター: 父親がいないことで、差別に曝(さら)されてきた落合さん。母の春恵さんは、落合さんの小学校への入学を目前に大きな決断をします。親子二人で、生まれ育った故郷を離れ、東京に移り住むことにしたのです。それは落合さんの将来を考えたうえでの選択でした。
 

 
落合:  こういう話、言われましたね―ずっと後ですが、「自分の失敗をすべてお父さんがいないからだ、と言ってしまう子になられるのも、お母さん嫌だったんだ。だから何にも知らない人たちのいるところに行って、新しい生き方をしよう」。暮れでしたね。霙(みぞれ)の降っていたのを覚えているんですが、私を連れて、母は東京に出て来たんですね。で、東中野にあるほんとに一間だったと思います、アパートで、母と私の新しい生活が始まった。
 
町永:  アパートで、小さなアパートですわね。
 
落合:  「東中野ハウス」と言いましたけども。
 
町永:  まだ名前もしっかり覚えている。
 
落合:  はい。お姉さんたちでしたね、みんな。暮らしておられたのが。
 
町永:  お姉さんたち?
 
落合:  「お姉さん」と、私が呼んでいた。母は、神田だったかな、にある小さな会社の経理の仕事から始めたんですね。事務職で入っていますね。夕方になると母が帰ってくる。この時間にアパートの部屋のお姉さんが出て行くんですね、「お仕事」と言って。
 
町永:  夕方になると出てくるお仕事、
 
落合:  で、運動靴履いてね。布の袋持って、ここにこんな踵のハイヒールを履いているお姉さんたちが多くて。今ダンサーと言えば、恰好いいお仕事ですが、そうではなくて、なんかチケットかなんかを男性が買って、ダンスをし、でも酒のあるところだったり、そういうお仕事をしていたお姉さんたちで。お姉さんたちは、もう二度と戦争は嫌だ。で、「死んでいった男たちも悲しいけれど、残された女たちだって悲しいんだよ」という話が、わりと日常的に入ってきていたんですね。母の帰りがちょっと遅くなって、私が―二階だったんですね―階段の指定席と呼んでいて、そこに座っていつもこう母を待っていたら、あるいは本を読んでいたんですね、そこで。に座っていると、後ろからタッタッタッと走って来るお姉さんの足音が聞こえて、で、私に後ろから声かけてくださって、「鍵はどこどこにあるからお部屋に入っていい」と。で、「ちゃぶ台の蠅帳の中に蒸したトウモロコシが入っているとか、蒸かしたお芋が入っているよ。二本入っていると、一本あなたにあげるよ。あなたのお母さんもすぐ帰って来るから、元気な顔して、お帰りと言ってあげな」って。言葉はぞんざいなんですが、ほんとに深いものをお姉さんたちから、私は、共同保育みたいなもんです。私一人が子どもで、お姉さんたちもみんなで育ててくださって。ただしこの少数派の生きているアパートの一歩外に出れば、多数派のルールがあって、母に言われてパンを買いに行く。食パンの耳なんかが、おやつによく出てきている時でしたけどね。で、並んでいる。「どこの子?見たことないね」と言われて、アパートの名前をいうと、なんか空気が変わって。えっ!何だろう、これは。それから二十年以上も経って、私が三十代半ばになっていた時、何人かで平和の集会みたいなのがあって、お話をさせて頂いた。話を始まって、パッと見たら、一番前の真ん中の席で、白髪の小柄な女性が、ずっとハンカチを顔に当てて。ただハンカチの縁から目を出して、こう私をご覧になっているんですね。どなただろうな?って思って、控え室に戻ったら、訪ねて来てくださる。「恵子ちゃん!」とおっしゃって。思い出したんですね。「Aさんですか?」って、名前まで突然浮かび、自分でも驚いた。「ああ、覚えていたの!」って、走って来られて、抱きしめてくださったんですね。その方が、東中野ハウスの二階の廊下一本隔てた、私たち親子が暮らしている部屋の前の部屋に住んでいた方。「手紙を書こうと思って、何度か書いて、お母さんにも会いたいし、でも止めたんだ」って。「私たちの職業がハイヒールを袋に入れて持っていく職業の女たちと同じアパートにいたということを、他の人が知ったら、恵子ちゃん、嫌だから。人っていろんなことを言うから、私、書いた手紙破ってたんだよ」と言って、ちょっと泣かれたのね。「そんなことないで、お姉さんたちにもの凄くお世話になったし、お姉さんたちみんな育てて貰ったようなものであったので、他に方法ないけれども、あの日々を書こう」と話して、敗戦後の東京の片隅で夏草みたいにね、逞しく生きて。でも悲しみを秘めた女たち、同時に憤りと抗いをもった女たちの日々を子どもはどう見るか、という視点で、それが〈お姉さんたち有難う、有難うございます〉という思いでした。
 
町永:  そこでの日々が、今の落合恵子さんの、今でいうと言葉では、少数派と多数派という概念になるけど、違和感として根付いたわけです。
 
落合:  見方を変えれば、出生そのものもそうだし、それが原因として東京に、母は私を連れて来るしかなかった。
 
町永:  あの時に、母一人子一人と言えば、生活していくというのは、大変なことで、
 
落合:  事務職だけでは生活できなかったんだと思うんですね。一間のアパートで、夕方帰って来て、「早く夕ご飯食べなさい」と言われて、急いでお母さんと食べて、それから娘時代に習っていた生け花なんか教えたりしたこともあったし、ただそれだけでもやっていけなくて、新聞の大きな包みを抱えて、「もう一つお仕事するからね」って、出て行くんですよ、アパートを。どこへ行くかよくわからなくて、ある日母がいつも、もう一つの仕事のために出て行く時に持って行く新聞の包みを開けてみたら、とても大きな黒い長靴と、黒いやっぱりゴムでできている、この辺までエプロンが入っていて、何に使うのかわからなかったんですね。ある日学校の帰り、雑居ビルの前を通った時、それも白髪の女性ですね。ほんとに小柄な方が、モップ手にして、自分の身体の半分ぐらいある大きな水を張ったバケツを置いてお掃除している。母が持っている長靴と、それからゴムみたいでできたエプロンと同じ恰好をされていた。あ、もう一つの母の仕事、これだったんだ。恥ずかしいことに、私は事務職の母は認められるし、お花を教えている母を認めることできたんですが、そのお掃除をしているお母さんというのが、どうしても上手く心に入らなかったんですね。
町永:  で、どうしました、それは?
 
落合:  母の機嫌の良い日をみはらかって、「あの仕事をしないで」、
 
町永:  そうしたらお母様は?
落合:  暫くして、有給かなんか取ったんですよね、会社の。私にも、「今日、学校休みなさい」と言って、管理人さんのお部屋に行って、電話借りて、「休ませます」と。一日中、母と二人なんですよ。まあ何だか息が詰まるし、普段なら一緒にいるのが楽しくて仕方がないのに、長い一日が終わって、夜になって、もう一つの仕事の時間がきて、で、「長靴履きなさい」と言われまして、月が出ていて、星も出ていて、「晴れているよ!」と言っても、「履きなさい」って。母の後就いて行って、東中野駅の近くのやっぱりビルを清掃していたんですね。全部清掃して、私、黙って就いて行くしかない。「その仕事を止めて」と、母に言ったことも、他でもない自分ですからわかっている。で、全部終わった後、母は、「はい。この仕事のどこが恥ずかしいですか? 何故止めるんですか?」と言われて、もう何にも言えない。お手上げ状況。あ、早く家へ帰りたい。寝たいと思う私がいたら、「踏切の向こう側、もう一つ、お母様、ビルやっています。いらっしゃい」。もうこれも就いていくしかなかったですね。ですから自分が、差別される側の子どもの一人であったことで、学んだこともありますし、でもその子どもの中に差別する自分もいるということ、とても学びましたね。差別する人間と、される人間が、別々にいる場合もあれば、されてきている人間、される痛みを知っている側が、誰かを今度は、差別する側に回ってしまうこともあるのだ、という、一つの体験だったかも知れません。
 
町永:  普通の親だったら、まあ「そこに座りなさい」で、言葉でコンコンと説きますよね。「こういうのは恥ずかしいんじゃないよ」。そういうことじゃなくて、実際に連れて行った、という。お母様は、どういうところから、そういう接し方を学んだというのか、獲得したんですかね。
 
落合:  まあよくわからないですが、私からみれば、祖母に当たる母の母ですね。もう早くに夫を亡くしているんですね。祖母は、これも仕方がない当時の家族の関係だと思いますが、娘たちに自分の思い、期待をかけて、で、その期待通りにいかないと―うちの母なんてもっとも期待通りにいかなかったわけです―それが怒りになったり、嘆きになったり、悲しみになって生きてきた人であり、何とか言葉で通じようとして上手くいかなくて、ぶっつかったり、攻撃したりという場面は、何度も見てきて、母もきっとそこから学んだんでしょうね。自分が、されてしまったあのこと―お婆ちゃんはお婆ちゃんで苦労したけど―ではない形で、娘である私に接したいと。もしかしたら自分がこうあってほしかった母親って、こういうものよの、こういうものの中身を、今度は自分が実践して、私に見せてくれたのかも知れません。
 

ナレーター: 昼も夜も働き続けた母の春恵さん。季節の草花を育てることをささやかな楽しみに暮らしを支えていました。ところが東京に出て来て四年目、春恵さんに異変が起こります。心のバランスを崩し、神経症で入院することになったのです。
 

 
町永:  異変を傍にいて感じましたですか?
 
落合:  あれだけ懸命に、疲れたでしょうが、必死に仕事をしていた母が、ある日から朝起きられなくなってしまうから始まって、「あなたが歯が痛い時、何々歯医者さんへ行くよね。お熱出した時、何々の小児科の先生のとこ行くね。お母さんは―どう言ったのかな―心に穴ぼこが開いちゃったみたいだから」と言ったのかな、「神経科というところに入院します」と、ちゃんと説明して、入院してきました、小さいボストンバック持って。
 
町永:  自ら?
 
落合:  そうですね。で、なんか子どもにとってみれば、それこそ見知らぬ旅の話を聞いたような気がして、面白くて、それを作文に書いたんですね。「お母さんが、心に穴ぼこで、何とか何とかで―東京医科歯科大学―今もありますが―入院しました」と書いたんです。そうしたら、私が作文に書いたことを、みんなの前で読まれたんですね。
 
町永:  上手く書けていたからなんでしょうね、きっとね。
 
落合:  なんか賞を頂いて―鉛筆一ダース頂いたかも知れないですが、子どもは何も知れず、それをそのまま持って帰って、その家の大人に語り、そこで一つの再生産、再助長がされたのかもしれないんですね。お友だちと「遊びに行こうね」と約束をして、お友だち呼びに行きますが、「居ないよ」って、その家の大人から言われる。次の家へ行っても「居ないよ」って。そんな筈はないって、約束したんで。パッと二階見たら、二階のガラス戸がちょっと開いていて、そこからお友だちが見ていたんです。
 
町永:  落合さん、遊びに行って、居留守を使われた。その時は何故かとわからない?
 
落合:  よくわからなかった。それで祖母が私を見るために上京して来て、「こういうことあったんだ」と言ったら、「なんて子なんだ」って、叱られて。
 
町永:  作文を書いたことですか?
 
落合:  そう。「それは言ってはいけない」「だってお母ちゃん、自分で言っていたもん」「でも言っちゃあいけない。盲腸の手術だったらいいし、骨折したならいいんだけど、それは言っちゃあいけない」。どうしてなんだろう? よくわからなかったですね、その時は。中学に進学をする時に、先ず戸籍を必要とすると。私の戸籍は、父親が居ない。母は、私立のそれを必要としない学校、東京中探しあぐねて、最終的に私立に進学させて、ここで凄く疲れたんだと思うんです。よくなったり、また調子が悪くなったり、良くなったり、調子が悪くなったり、
 
町永:  その頃学校がなかなか馴染まなかった?
 
落合:  そうですね。やっぱりみんなと同じでなければいけない。まあ一つの現れは―一番分かり易いのは、制服がそうなんですが―みんなと同じじゃなければいけないということが、とても窮屈でした。だんだん学校で居場所がなくなっていきましたね。よくさぼっていましたが。
 
町永:  そうですか。
 
落合:  はい。只ね、学校さぼって―ちょうどね、私、石灰化巣(せっかいかそう)というのが胸に見つかって、わりと自由に学校休めたんです、ラッキーなことで。図書館へ行ったり、一日のうちに三本立てで百円の映画館へ行ったり、いろいろしていたんですが、そういう中で、どっかの大学のお姉さんと知り合い―どうも「お姉さん」って、キーワードなのかも知れない―「今、世の中でこういうことが起きているんだよ。私、行くんだけど、一緒に行く?」と誘われたり、でもその後にアイスクリームご馳走になったりとか、それから知らない公園で出会ったお年寄りと、何故かお話していたりとか、もう一つの学校があったのが、私の救いですね。あの学校しかなくて、そこで居場所がなかったら、きっとどうしていいかわからなかったけど、飛び出せばもう一つの学校があるって。
 
町永:  心を病んでしまったお母様と、一方で学校からドロップアウト(dropout:脱落すること、枠の外にはみ出した人間)しかかっている落合さん。ここはこの両者は交わったんでしょうか?
 
落合:  交わっていたんでしょうね。母と私の関係も、母は神経症を所有すると、敢えて言ってしまえば、所有することによって、自分の心の置き場所を見付けた。その方向ですね。私は、神経症を所有しない代わりに、神経症の原因になっているものと闘うという方向を所有することで、違う人生を選択したと言えるのかな、と思いますね。
 
町永:  その後の歩みをずっと辿るとね。あのお母様が、体長を崩して、心のバランスを崩した時に、実は落合さんが自分の進路でも悩んで、
 
落合:  学校が面白くなかったと、それだけだと思うんですけどね。で、「喫茶店へ行こう」。でも喫茶店行ったことないですよ、前を通るだけで。でも母と行って、向かい合って。「ほんとにあの通りならいいわよね。その代わりちゃんと働いて、自分の面倒は自分でみなさい」。当時、誰かから頂いて読み出した欧米の女性作家の短編を原文で読めたらいいな。そんなの読めっこないんですが、そんな思いと、例えばmade in USAの映画を字幕なくてわかったらいいなとか、とんでもない思いがあって、進学したいというのもあったんですね。向かい合って、真っ直ぐ私を見て、「自分の人生自分で決めなさい」って、言った母は、私がずっと知っていた元気な母だったですね。
 
町永:  元気な母を見て、どう思いました?
 
落合:  なんかとっても恰好よく見えたし、「自分の人生自分で決めなさい」って。これは辛いことでもあるんですけどね。全部を決めるって、全部責任取らなければいけない。
 
町永:  それはお母様が辿ってきた道筋ですよね。
 
落合:  そうでもあるんですね。十五の時に聞いた、「ほんとにあなたが欲しかったんだよ」という、言葉ともそこで重なるんですね。彼女はそうして選択したんだなって。私もこれからの人生は、自分で決めていくしかないというか、決めていこう、という思いになったのは確かでしたね。
 

 
ナレーター:  落合さんは、高校卒業する道を選び、その後大学の英文科に進学しました。一九六七年、ラジオ局に就職。深夜放送がブームになるなか、DJ(disc jockey:ラジオ番組の司会者)に抜擢され、「レモンちゃん」の愛称で人気者になりました。しかし、ありもしない恋愛の噂を立てられたり、従順な女性像を求められたり、自分のイメージが勝手に作られることに悩みます。そんな中、ありのままの自分を表現しようと書いた『スプーン一杯の幸せ』がベストセラーになりました。落合さんのもとには、思い掛けない額の印税が入ります。三十一歳で、その印税をすべて注ぎ込んで始めたのが、子どもの本の専門店でした。子ども時代に、母の帰りを待ちながら、本を読む喜びを知った落合さん。子どもたちに、本の豊かな世界を届けることで、のびのび育ってほしいと考えました。自らの道を切り開いていった落合さん。母親との関係も、次第に変化していったと言います。
 

 
町永:  落合さんに訊いてみたいのは、就職して、世代的にはみなさんよく知っている「レモンちゃん」という時代の中の一つの大きな憧れの的になった。実はその後のいろんな噂や勝手に作られた私に対して、違和感をずっと持っていた落合さんというのは、自分をもう一回ね、ほんとの自分に抜け出そうという、そういうベクトルがある。それはおそらく母と子の暮らしも、ここで抜けでないと、自分が見いだせないんじゃないかという。そこは重なり合っていったんじゃないかなあ。
 
落合:  そうかも知れないですね。私たちのような親子は、ともすると何をする時でも、あらゆる感情を共有しなけらばいけないと思うようになってしまう。「それは決していいことじゃないよね」って、彼女が言っていたのを覚えていますから、母は母であり、娘は娘であることに代わりはないんですけれど、距離を少しずつ取っていこう。『あなたの庭では遊ばない』という小説は、まさにそこを書いているものですが、ともにありたいと願いつつ、ともにありながらでも別々であるという。当たり前のことですが、当たり前の人間関係をつくるまでに、母と娘がどれだけの苦労をしていくか、というプロセスだったり、あるいはそれは母と娘だけでなくて、周囲と個―個である自分というものの関係性ですが、とても大きなテーマだった時期はあったし、そのおっしゃっているベクトルと合ったような気がしますね。
 
町永:  そうですか。『あなたの庭では遊ばない』の中に、「もう私は母の娘であることをやめたい」という一節がありますね。
 
落合:  はい。一番最終章―主人公の小説家の女性が、そう思うというとこで終わっていますが、「母と娘」はいいんです。「母の娘」であることはやめます、という。そこに主人公の思いを。で、「母と娘」で、「and」だと、「あなたと私」の関係で。で、「あなたと私」でもいいんですね。それを「母の娘」というと、母の所有の何かになってしまう。そこを私はもうやめますと。新しい愛情で―今日ちょっと冒頭でお話した―血の縁の血縁の母と私であるけれど、結び縁―結縁の形で結び直しましょうよ、というところを、預言して終わっていて、あれが私の四十代ぐらいかな。
 

ナレーター: 落合さんのお店では、季節毎に花を植え替えています。草花の育て方は、幼い頃から母親の傍らで覚えた、と言います。母の春恵さんは、七十七歳になった時、介護が必要になりました。パーキンソン病や認知性を発症した春恵さんを、落合さんは自宅で介護することにしました。
 

落合:  私は、たまたま在宅で、その状況がそうであったから母を看ました。でもそれがベストですとかね、あるいは施設にお願いすることは何だか距離を取っちゃうことですとか、そういう選択肢しか意識に中にないのは、違うような気がするの。それぞれがそれぞれの方法で、そしてベストじゃなくても、ベターな介護のあり方―される方もする方も、もっと選べる社会を作りたい。私は娘だから看なければいけないとは思わないし、娘だから看なければいけないというような、介護の仕方は、母は拒否をしたと思うんですね。私自身ももっと深く―妙な言い方ですが―母と付き合いたい。それが後何年かわからないけれども、もう一度母と深く付き合う、これが最後のチャンスかな、という思いがあったことと、私の場合は、血の血縁じゃなくて、結ぶ縁の家族というのが、小説のテーマでもあったんで、「あなたは血の縁に戻るのか」と言われて、そうじゃないですよ。
 
町永:  そこのところをお伺いしたいんですがね。ともすれば介護というのは、「親の介護」というふうに、まさに「親の」というふうになりますよね。
 
落合:  一人の人である彼女と向かい合いたいと。一九四五年に、父親のない子を生んだ一人の女性。どのような思いの中でそこに至ったか。ここはあんまり触れちゃいけないと私は思って、あまり触れないできた。それからその後の日々の中で、彼女の人生どんな喜怒哀楽があって、今日に至って、そして病の中にいるのか。ここをちょっとだけ違う意味で、人としての彼女を見ていきたいって。どうしても母として見てしまう。それを否定しない、しょうがないことだけど、少しだけ違う見方をしたい、というのもありましたね。
 
町永:  お母様が、体調を崩して、認知性というふうに確定診断を受けた後に、実はお父さんのことを話したことがあるんですって?
 
落合:  そうなんですね。急に様態が変化して入院をした。母が病院に入院すると、一緒に私も行っちゃうんですが、母のベッドの横に、私も横になった。午前何時頃かな、パッと見たら母が目を開いて、こっちを見ているんですね。まだその頃は言葉も十分にあった頃なんで、「どうしたの?」と言ったら、とっても嬉しそうに笑って、「私はね、あなたのお父さんのことが大好きだったのよ」って、突然言い出したんですよ。どう応えていいか、娘はわからなくて、「何を病院でのろけて」って、言ったんですが、そう言っても、母は嬉しそうに、「大好きだったの」って。でもちょっとそれは安心しましたね。彼女にとって、戦中の最後のほんとに一年に満たない一人の人との出会いであり、出会いであったかも知れない。こんなにその人が好きだった、という気持ちがあるならば、彼女の人生は、外側から見ると、また違った意味で充実していたのかな、というのが、とても私には祝福したい言葉でした。
 
町永:  現実は病気があります。大変困難な病気で、お母様はどんどん病気が変化していったんじゃないですか?
 
落合:  そうです。記憶はね、指を閉じてるつもりが、少し開いていて、ここからポロポロ砂が落ちていくように、日々記憶が遠ざかっていく。母が、言葉をなかなか通常の通知でいうと理解できない、認知できない状況になっても「おはようございます」というと、その言葉を失っていても、「おはよう」の顔になる。それはありますね。それから「おかあさーん、ただいまー」というと、これも思い込みかも知れないけど、「お帰り」という表情になったり、そういうなんというのかな、言葉にならない言葉でのコミュニケーションがたくさんあったし、母の好きな音楽とか、その曲がかかると、自分の中での何かの記憶が甦るのかな。とても優しい表情になったりとか、その人は表面的にどの状況になったとしても、その人の内側の核の部分は、生きて活動しているんだって、心から思いますよね。
 
町永:  そうしますと、普段何気なく音楽が流れていて、あるいは「ただいま」とか、「おはよう」と言えば、もう惰性としていう言葉が、落合さんの中で、もう一回違った、
 
落合:  まったく違ってきましたね。
 
町永:  そうですか。
 
落合:  同時にね、どんどん言葉がシンプルになっていった。例えば嬉しいとか、楽しいとか、切ないとか、大人になるに従って、それらの感情の大本は可能な限り表に出さない方がいいと。少しオブラートをかけた方がいいというふうな言われ方したんですが、母とのコミュニケーションにおいては、きわめて原形ですね。感情の原形がそのままこうぶっつかり合う楽しさ、深さというのを再確認しました。
 
町永:  嬉しさは嬉しさで躊躇(ためら)わず出す。悲しかったり、困ったりしていたら、
 
落合:  そのまま出すという形で、子どもの頃、母が私にくれた感情生活も、これに近かったのかなと思い当たる瞬間もありましたね。
 
町永:  そうですか。日常がまったく違った色彩を帯びてくるという。
 
落合:  ありましたね。花が咲いたら嬉しいし、この花母が花好きでしたから、待っているわけですね、その季節季節に咲いてくれる花を。「お母さん」って、例えば夏の始まりだとするならば、「矢車菊が咲いたよ」って持って行く。「アーリーヘブンリーブルーが最後のブルーだよ」って持って行く。その瞬間に母の中には、花の名前が消えていても、ここに咲いている藍色の花の美しさは映っているわけですね。こういう瞬間もとても楽しかったですね。楽しいこといっぱいありました。で、「今日は本を読むよ」っていう気持ちになる日は、少し余裕のある日なんです。余裕がないと、絵本開く気がしなかったですから。ですから、その夜はもう私も幸せで、で、母の同じ目の高さで一ページ―最初の頃は自分で大変だったけど、ページ摘んで捲っていましたが。
 
町永:  お母様自身が、
 
落合:  そうです。で、最後のところに来ると、とても満足したように、フッーってため息をついて、つかの間の安らぎや満足のフッーという息のために一緒に読む。で、読んであげているつもりが、読んでいることによってこちらがむしろいい時間を貰っているという思いがありましたね。
 
町永:  その頃の落合さんって、まさに社会に向かって発言している中ですから、介護の日々になると、そうした活動に随分制約を受けたでしょう。
 
落合:  あったですね。
 
町永:  そのことについては?
 
落合:  当時は、ほんとに申し訳ないって。今でも私にとって悲しい記憶ですが、いわゆる同時多発テロが起きた。報復攻撃―戦争反対の集まりがあります。みなさんが参加をして、みなさんがメッセージを出しているところに、「行きます」と言えないのですね、母の状況が。「行けたら必ず行きますけど、名前は消してください」というしかなかった。これはほんとにアフガニスタンへの攻撃もそうだし、イラク戦争もそうだし、語りたいこと山ほどあったのに、でも多くの場合行けない私がいた。それにどう私は納得したらいいのか。とてもとても悩みましたね。これは正しい言い方かどうかわからないんですが―ある種エクスキューズ(excuse)のような気もするんですが、こう思ったんです。目の前にいる彼女―母のいのちと、今私は深く付き合いたい。この一つのいのちと深く付き合うことを通して、海の向こうでの戦争、たくさんのいのちが奪われるであろ戦争に、反対と思う私。一つのいのちと付き合うことで、たくさんのいのちとどこかで結び付く日がくるかな。だから私は、「ごめんなさい。今、目の前にいるこのいのちと、今日は付き合います」という方向しか取れなかったんですね。
 
町永:  さっき伺って、お母様が大変草花が好きで、その草花を枕辺に持ってくるということが、なんかとても大きな意味合いがあるんですね。
 
落合:  そうなんです。砲弾が飛び交う中で、どこまで介護できるのか。私は介護したことによってよりいのちを阻むもの、いのちを奪うものには、さらに以前よりもさらに強くさらに熱く反対します、という気持ちをとても持ちました。
 
町永:  大変失礼なことを率直に伺いますけど、母親の介護がなければ、と考えたことありませんでしたか?
 
落合:  故意には考えました。母のことがほんとに一日も長くいてほしかったけれど、〈いつまでこれが続くの〉と思ったことがあります。でも、〈いつまで続くの〉と思う私を、私はなかなか許容できなかった時があるんですね。〈いつまで続くの〉と思うと、早く終わって欲しいというのに結び付いてしまうんじゃないか、というのがとても怖かったです。でもある時から、〈当然だよな〉そう思ってしまうのって、思えた瞬間に楽になりましたね。なんか恒常的な睡眠不足で、私は七年母のベッドの横に簡易ベッドを置いて寝ていたんですね。
 
町永:  七年間?
 
落合:  そうです。そこに居ることで、なんとか自分で安心したい、ってありましたね。パソコンも、大きなパソコンはこっち側に置いて、ノートパソコンのそこの横で仕事を毎日していましたし、そうすることによって、なんとか現実と折り合おうとしていた私がいたことは認めますね。
 
町永:  落合さん、まさに戦後民主主義の申し子みたい。終戦の年に生まれてずっと歩んできた。どっかで、お母さんも非常に大衆デモクラシーの開明的な世の中にいながら、その後の忍従の日々を自己主張をあまりすることなく過ごされた。落合さんも実は世代的にどっか古い価値観が体質にあって、そのことを意識しているから、よりなんか自分自身を外に向けてという、なんか二重性があるんじゃないかと思って、未だに。
 
落合:  私は、書いていて、そこは削っちゃって、いつか活かそうと思っている部分なんですが、私は、私に、私で、なってきました、という世代です、戦後は。でもよく自分の中を腑分(ふわけ)して入っていくと、やっぱり祖母の時代や母の時代のある種のものが私の中にも流れている。血縁の血の縁じゃなくて、結縁の結び縁をやりたいと思っている私がいながら、「でも血の縁の方の私もいます、ということに気が付いたような気がします」という文章を―三行ぐらいですよ、新聞でいうと―入れて、カットした私がいるんですが、どっかでこれは最後のところで入れようかなって、まだ思っている私なんですが、おっしゃることの意味がとてもよくわかりますね。
 
町永:  でもその介護の日を、敢えて言えばですよ、これは世界の平和に直結する日々だというふうに納得させないと、そっちの方に、
 
落合:  前の方に進めなかった。
 
町永:  いってしまうという、そういう駆動力みたいなものが、
 
落合:  あるかも知れないですね。同時にほんとに介護をして、平和なこと―平和なことというのは、戦争がないことだけではなくて、あらゆる差別がない―それは夢かも知れないけど―ないことであり、人が外側からいのちを脅かされないですむ社会の大切さというのは、心底感じましたね。介護は辛い時はたくさんあります。疲れる時もたくさんあります。それでも介護できるというのは、一応戦争がないからである、と考える時も、あ、こういうふうに結び付くものいっぱいあるんだなって、自分でビックリしました。
 
町永:  介護の日々というのは、そこに閉じないで、多くの窓があるというのは、
 
落合:  これは見送ってから気が付いたのかな。介護をしていたつもりの母という存在に、介護していた私が、むしろケアされていた。そこに居てくれること、それだけで掛け替えのないいのちってあるんだ、ということを気付かせられたと言いますね。
 
町永:  例えばどういうことなんでしょう?
 
落合:  母のは、例えば言葉を失った。けれども、そのベッドに母は確実にいる。そのことがどれほど私のあらゆる活動の、ある時は支えになり、ある時は源になり、気付きの時をくれたかって、私は母を介護していたというよりも、母という存在にケアされていたんだ。あるいはもう一つ言い方を換えれば、母に対して頑張ってこれまでできるという自分を体験したということは、そのまま自分のキャパシティー(capacity:能力、受容力)を母から広げて貰った、ということも言えるかも知れないですね。その人を失ってほんとに純粋に、悲しいと思う人と、長い人生で人間はどれだけ出会うことがあるだろうか。そう考えていった時、喪失の悲しみもまたその人を愛した記憶であり、その人を愛した証であるとするならば、その回復する必要もあるのか。回復しない私がいても、喪失の悲しみというのをずっと胸の奥に置いたまま生きていく人生があったとしても、それはそれでいいんじゃないかなって、思っていた時期がかなり長くありましたね。そうだ、母を見送った後なんですが、詩人の長田弘(おさだひろし)(詩人:1939年福島市生まれ。1963年早稲田大学第一文学部卒業。1971-72年、北米アイオワ大学国際創作プログラム客員詩人。毎日出版文化賞、桑原武夫学芸賞、講談社出版文化賞、詩歌文学館賞、三好達治賞などを受賞)さんから『詩ふたつ』、この中に二つの詩が入っていて、
春の日、あなたに会いにゆく。
あなたは、なくなった人である。
どこにもいない人である。
どこにもいない人に会いにゆく。
きれいな水と、
きれいな花を、手に持って。
 
から始まるんですが、どこにもいないんじゃない、ここにいるよって、亡くなった人が応えるんです。
 
十歳で死んだ
人生の最初の友人は、
いまでも十歳のままだ。
 
病いに苦しんで
なくなった母は、
死んで、また元気になった。
 
死ではなく、その人が
じぶんのなかにのこしていった
たしかな記憶を、わたしは信じる
 
その後です、
 
ことばって、何だと思う?
けっしてことばにできない思いが、
ここにあると指さすのが、ことばだ
 
という言葉で、母を見送った後、いろんな言葉を頂いた。どの言葉も私のことを心配し、どの言葉も母の死を悼む言葉であることは十分にわかりながら、なかなかピタッとする言葉に出会えなかった。それからそれに対してお返しする言葉もなかなか見つからなかった。その時、言葉ってなんだと思う。決して言葉にできない思いが、ここにあると指さすのが言葉だ。あ、そうなんだって、ストンと心に落ちました。後書きで長田さんが書いている
 
一人のわたしの一日の時間は、いまここに在るわたし一人の時間であると同時に、この世を去った人が、いまここに遺していった時間でもあるのだということを考えます。
亡くなった人が後に遺してゆくのは、その人の生きられなかった時間であり、その死者の生きられなかった時間を、ここに在るじぶんがこうしていま生きているのだという、不思議にありありとした感覚。
心に近しく親しい人の死が後にのこるものの胸のうちに遺すのは、いつのときでも生の球根です。喪によって、人が発見するのは絆だからです
 
というふうに書いておられて、まさにそうだな。亡くなった人が遺していってくれるのは、死ではなく、生きる方の、生の球根だ。そうだ、私の中にも生の球根がある。そしてこの生の球根と亡くなった人は、どっかでいつも結び付いている、ということを考えると、もう少しやれる気持ちになれますね。いのちって連続性なんだと思うんですね。
 
     これは、平成二十五年七月七日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである