いのちの炎≠描く
 
            画家(東京芸術大学名誉教授) 絹 谷(きぬたに)  幸 二(こうじ)
奈良県奈良市生まれ。東京芸術大学美術学部油絵専攻卒(1966年小磯良平教室)。卒業制作で大橋賞受賞。小学校一年生の頃から油絵を習い始める。芸大卒業後、1971年にイタリアへ留学、ヴェネツィアでアフレスコ古典画(フレスコ画のことで、本人は必ずアフレスコとア≠つける)の技法を研究する。1974年安井賞展安井賞受賞、若手洋画家として期待される。その後メキシコ留学などを経て、1993年東京芸術大学教授に就任、後進を育てる。また、NHKの日曜美術館によく出演する。アフレスコ絵画技法の地方公演なども行っている。純然とした空の青を背景に、限定された形の中に明るく躍動的な色彩で描かれた人物などが特徴とされる。アフレスコという壁画技法の国内第一人者でもある。2008年に35歳以下の若手芸術家を顕彰する絹谷幸二賞を毎日新聞社主催にて創設。2010年に東京芸術大学名誉教授に就任。日本芸術院会員、独立美術協会会員、東京芸術大学名誉教授、大阪芸術大学教授、日本美術家連盟理事。
            き き て         品 田  公 明
 
ナレーター:  絵画を学ぶ学生を指導しているのは、画家の絹谷幸二さんです。
 
絹谷:  こっちも何かある。そういう意味で、君の世界ができかかっている。できかかっているけども、もう一段グァッとこう、いわゆるなんというかな、身を捨てて、のめり込まないと。自分の欠点は長所。相反する二つの観念は、別々のものではなくって、一つのものの一部であるということ。
 

                                    
ナレーター:  鮮やかな色彩と燃え上がるような筆使い。絹谷さんは、生きる歓びといのちの大切さを描き続けています。代表作の一つ「銀嶺(ぎんれい)の女神(めがみ)」、一九九八年(平成十年)に、長野県で開かれた冬のオリンピックのメーンポスターになりました。笑顔を湛えた女神の頭では、選手たちが競技に打ち込んでいます。「蒼穹夢譚(そうきゅうむたん)」、二○○一年(平成十三年)、日本芸術院賞を受賞した作品です。風神と雷神が天上から見つめているのは、砂漠と化した大地。砂に埋もれたテレビは、全世界の悲しみを映し出しています。絹谷さんは、今年七十歳を迎えました。絵に懸ける思いはますます熱くなっています。        
                                    
絹谷:  切なる思いとか、あるいはこう強い思いとか、そういうそのあるいは熟練された思いとか、いろんな思いの丈を自分の中で成長さしていきながら、それを思えばそれが絵になっていくと、あるいは形になっていく。想像力の翼をほんとに子どものように羽ばたかしていきたいなと、この歳になってそういうことを思っております。
 
ナレーター:  古都奈良の中心部にある猿沢池(さるさわのいけ)。ここ一九四三年(昭和十八年)、絹谷さんはこの近くで生まれました。
 

 
品田:  絹谷さんは、奈良のご出身ということで、小さい頃は、興福寺や東大寺の境内でもよく遊ばれたそうですね。
 
絹谷:  そうです。もうこの公園一帯が私の遊び場で、三笠山とか、もっと遠くまで行きましたね。奈良町(ならまち)もそうです。もうみんなこの辺で探偵ごっことか、いろいろ遊んだんです。
 
品田:  じゃ、隅々を使ってもう遊ばれた。
 
絹谷:  そうですね。猿沢池が家のすぐそばなんで、ここでもうほんとは魚とってはいけない神聖な池なんですけどね、メダカ掬ったりして遊んでいました。
 
品田:  みなさんが手を合わせてありがたがるところで遊べるって、凄いことですね。(笑い)
 
絹谷:  良いことですね。いわゆる想像力の世界ですからね。浄土がある、極楽がある、というふうなことは、もう想像上の世界と言いますか、いわゆるほんとにあるかどうか帰ってきた人がありませんのでわかりませんけどね。そういうふうに信じている人にはある世界ですから、そういうイメージの中で、私は遊んでいたということが言いますね。
 

 
ナレーター:  猿沢池の西に広がる古い町並み。奈良町と呼ばれる一角に、絹谷さんの生家が残っています。絹谷さんが生まれた頃は、料亭を営んでおり、文化人が集(つど)うサロンとして賑わっていました。幼い頃から国宝や文化人に囲まれて育った環境が芸術を志すきっかけになりました。
 

品田:  アトリエで作品を前にお話を伺わせて貰いますが、古典的なモチーフの作品と現代的なものと、たくさんの種類を描かれていらっしゃるんですね。
 
絹谷:  そうですね。先年に奈良県立美術館で、古事記をテーマに展覧会をさせて頂きました。これはその時の作品なんですけども、まだこれ完成していなかったもんですから、これは出さなかったんですね。
 
品田:  そしてもう一点が、非常に現代的で、立体的な作品なんですね。
 
絹谷:  そうでございますね。これは発砲スチロールというものを、色彩を施していくと、中の素材が、発砲スチロールなのか、木なのか、石なのか、そういうものがわからなくなるということですね。結局化粧すると中の素材がわからなくなるのと同じでございましてね、色彩というものはすべての形を、素材を覆い隠してしまうというところがございますんですね。
 
品田:  絹谷さんは、画家になろうと思ったのは子どもの頃からですか。
 
絹谷:  そうですね。絵を描くのが好きでしてね。とにかく姉が油絵の具持っていまして、もうほとんどカチカチになって使えなかった油絵の具が押入に入っていたんです。それを使いながら、物心付いた頃から―ちょうど油絵の具って、キュッとひねり出すとぐにょぐにょと出たりして面白うございますね―それをキャンバスに描いたりしていましたんで、素材がすぐ傍にあったということでしょうかね。それで大体アウトドア派で野球が好きだったり、魚釣りが好きだったり、こうしてはいたんですけども、絵を描くのも大変好きでございまして、この窓から五重塔を描いたり、そんなことをしていたんですよ。
 
品田:  描かれていたものは景色が多かったんですか?
 
絹谷:  そうですね。小学校の先生が―西岡先生と言って、大変絵の虫のような先生で、それで先生に就いて奈良公園写生に行きましたり、それから東大寺の戒壇院(かいだんいん)の、昔は広目天(こうもく)さんとか、多聞天(たもんてん)さんとか、あのお堂の中に入って描けたんですよ、描かしてもらったり。新薬師寺の十二神将さんを描かして貰ったり、薄暗いところで。もうそれから南大門の金剛力士像、そんなのを描かして貰ったりして、もうそれはそれはほんとに描かして貰う相手に不足はなかったと言いますか、国宝ですから(笑い)。そういうのを物心付いた頃から描かしてもろうておりましたんでね。
 
品田:  お姉さまの絵の具がきっかけになったということでしたけれども、ご家族が絹谷さんが絵にのめり込むことになった背景としては、ありますでしょうか。
 
絹谷:  そうですね。私が子ども頃から父と母が離婚しまして、家を出て行きましてね、二人とも。ですから私、ここへ取り残されたような感じになったんですけども、お陰様で姉が十四ぐらい離れていましたんで、それがお婿さん貰って、私を育ててくれたんですけども。二十歳ぐらいまでは、ちょっと辛い時もありましたんですけども、そういう辛い思いも、絵を描いたり、野球をしたり、そういうことで救われたと思いますね。それは楽しいことですから。それからもう一つは、やっぱり自分で自立していかなければいけないという、そういう克己心も、そういう辛い環境が逆に僕を押し上げてくれたということもありますね。ですからやっぱり「苦労は買ってでもしろ」ということでしょうかね。ですから「買ってした」わけじゃないんですけどね。そういうことが私のエネルギーになっていると言いますかね、後押ししてくれているんじゃないかなと思いますね。絵を描くということ、そのものは大変イメージの世界に飛行できる世界、飛んで行ける世界と言いますかね、「色即是空(しきそくぜくう)空即是色(くうそくぜしき)」ということなんですけども、「空(くう)」を思っていればそれは「色(しき)」になる、色(いろ)になる。あるいは形になるということでございますので、維摩(ゆいま)(維摩経の主人公として設定された架空の人物。古代インド毘舎離城の長者で、学識にすぐれた在家信者とされる。病気の際、その方丈の居室に、釈迦の弟子を代表して文殊菩薩が訪れたとされる)さんは言っているんですけどね。そういうふうに「心と体とか、あるいは水と油とか、戦争と平和とか、楽しい辛いとか、そういう相反している概念は別々のものじゃない」と言っているんですね。それは「同じ一つのものの一部だ」と言っているんですね。例えば朝が来て夜が来ると。これは朝と夜とは別々のものじゃないと言っているんですね。一つのものの一部である、と言っているんですね。そういうことを、何の気なしにこの辺の公園歩いているだけで、そんなこと感じるんですよ。そんな難しい話じゃのうてね。例えばこの猿沢池に何か願いが叶ったら、魚を放つというようなことですね。そういうことでも、思いと魚、いのち、そういうものが繋がっている、ということでしてね。ですから男女もそうですね。男女のこともそうですけども、それをお互いに離ればなれじゃないということを言っているんですね。そういうのを、何もそんな難しいことをお坊さんから教わるわけじゃないんですけども、もう子ども心になんかこう皮膚感覚として入ってきているんですね。
 

 
ナレーター:  絹谷さんが、主に手掛けるのは、壁画の技法を使うフレスコ画です。アフレスコ画とも呼ばれる西洋の伝統技法で、教会の壁画にも多く使われています。壁に漆喰(しっくい)を塗り、生乾きのうちに、表面に水性の絵の具で絵を描きます。限られた時間のなか、やり直しはできません。大きな作品を描くことが多く、事前の準備から完成まで、根気と機敏さ、それに体力が要求される絵画です。絹谷さんが、フレスコ画の道に進み始めたのは、東京芸術大学の学生の時でした。
 

 
品田:  フレスコ画に出会われたのは学生時代だそうですね。
 
絹谷:  そうでございますね。ちょうど芸大に入りまして、イタリアからフレスコの職人が来ておりましてね。私もイタリアへ留学したいと思っていましたんで、その前からフレスコ画を描いていたんですけども、是非フレスコ画という、まだキャンバスがなかった頃の技法ですね。ヨーロッパでは紙もあんまりなかったんですね。それで結局壁に絵を描いていたわけですね。それは石灰岩という石を焼いて、そして生石灰(きせっかい)というものを作って、それに水をかけたら、消石灰(しょうせっかい)になるんですね。消石灰ってよく運動会でシュッと白い線を引いている、あの白い粉なんですけど、それと川砂混ぜましてね、煉瓦の壁とかへ塗るんですよ。塗りますと、壁が乾燥していきます。その時に水分を放出すると同時に、空気中の炭酸ガスを吸うんです。炭酸ガスを吸う時に、毛細管現象という、そういう物理的な作用じゃなくて、炭酸ガスを吸う非常に科学的な作用の時に、壁が絵の具を吸い込むんです、炭酸ガスと一緒に。で、炭酸ガスを貰って、もとの石灰岩という固まりに固まっていくんですね。その半乾きの時に、水溶きの絵の具で絵を描くと、それが石の中に石こづめになる画法なんです。
 
品田:  とても科学的なものなんですね。
 
絹谷:  非常に科学的なもんなんですけども、その原理は、アルタミラ(アルタミラ洞窟-洞窟壁画で知られるスペイン北部の洞窟)の昔から、人間が洞窟に住んでいた時、それはその石灰岩の山の中にできる鍾乳洞なんですね。その鍾乳洞の中で絵を描いているんです。特に天井なんかですね。そうしますと、その石灰岩がポタポタと落ちる時に、薄い無色透明の被膜が表面を覆うんですね。そうしますと、二万年前の絵が、今日まで残っているとか、そういうふうになって現在に立ち現れてきたのが、ラスコー(フランス)やアルタミラの壁画なんです。それを簡易的に家に壁塗って絵を描くといったのがフレスコ画なんですがね。尾っぽは、人類が生まれた頃までずっと続いているわけなんですね。それに比べて油絵の具とか、最近の絵の具は非常にインスタントになってきているわけなんですね。絵を描くためだけのものという感じ。ところがフレスコ画というのはやっていますと何万年も前、何億万年も前に遡ってくる。その石灰岩というものは、もともと何だったのかと言いましたら、それは人間の骨だったり、珊瑚礁だったり、貝殻だったりするわけなんですね。私が何故東京芸大油絵科に入っていながら、そのフレスコ画の方に進んだかと言いますのは、油絵というのは、やっぱりちょっとインスタントなんですよ。フレスコ画に比べると。私は油絵描いている時も、その油絵の具を新聞紙にこう出してね、油を引かしてから、つや消しのので描いていたんですよ。そういうことをずっとやっていました。フレスコ画というやっぱりこれは、私が奈良生まれのせいかも知りませんね。この奈良の白壁とか、これも漆喰なんですね。そういうふうにやはり伝統というもの、歴史というものを学びながら、フレスコというもうほんとに古代の人間の初心に連なる心を感じながら、そしてそこでそういう伝統に縛られて、雁字搦めになるんじゃなくて、新しいもの、そういったものを創造していかなければいけないなという思いが、私をフレスコ画に進ませた原因なんですね。
 
ナレーター:  フレスコ画を本場で学びたい。絹谷さんは、大学院の時、イタリアに留学します。そこで大きなカルチャーショックを受けました。
 

 
品田:  イタリアに留学をされるわけですが、日本とは大分違っていましたか?
 
絹谷:  そうでございますね。やはり世の東西―西洋と東洋―なんか考え方がまるで正反対であったりするわけですね。例えば先ほど言っていますように、「違う概念は、それぞれが別じゃなくって、一つのものの一部である」というふうなことを、私たちは仏教的史観でもっているわけなんですけども、ところが向こうは違うわけですね。一番ショックを受けましたのは、「You must say simply yes or no.」と言うんですね。「あなたはYesかNoをシンプルに答えなければいけません」ということなんですね。どっちかを選ばなければいけない。「あなた、コーヒー飲む?」と言った時は、「coffe no」とか、「yes」とかと言って、それでどっちか「yes」か「no」か言ってから、また次が始まるわけなんですけども、「さあね」というのがないんですね。「どっちにしよう」とこう迷うところがないんですね。どちらかをこう決めていかなければいけない。これは、「あなたはキリスト教を信じますか、信じませんか」ということを、yesかnoかではっきり言いなさいという、その一神教の教えと言いますかね、そういうのが根底にあるわけなんですね。ですからもうこれが一番向こうへ行った時のカルチャーショックと言いますかね、そういうことですね。「さあどっちにしようかな。あ、こっちもいいけど、まあそっちにしようかな」という、そういうことは許されないわけなんですね。
 
品田:  「yesと言うか、noと言うか、言いなさい」ということは、芸術にも関わってきますでしょうか。
 
絹谷:  関わってきますね。大いに関わってきますね。例えば私たちは、融和しなければいけない。あるいは人と和を尊ばなければいけない、ということを教わってくるわけなんですけども、そういうことに気をとらわれすぎると、あるいは独自のもの、個性的なもの、自分だけのものというものが、なかなか確立できない土壌にあると。まあ「みんなと一緒に渡れば怖くない」と、あれと同じですが、最近少しそういう傾向はなくなってきましたけれども、「個」が確立されてきましたけれども、それにしてもやはり「私は、これに関しては、yesだ」と言える強い信念と言いますか、そういう信念に従って自分を確立していくんだという、そういう縦に繋がっていくと言いますか、そういう繋がりが生まれるんですね。個人主義と言われるものでしょうかね、向こうのね。個を大切にするということですね。向こうの連中は、割合思想的と言いますか、理論的にと言いますか、割合絵の底にある内容を見ようとしますね、描こうとします。内容が大切なんですね。ところが私どもはどちらかというと、ちょっと襖絵というようなイメージがありまして、ちょっと装飾的になると言いますか、まあ美しければいいんだ、ぐらいのことで止まっちゃうというところがありますね。いわゆる建具になってしまうということなんですね。いわゆる絵を見て、内容を見ない。表面を見て、その絵の後ろにある深い思想を見ない。そういうところがございますので、この辺はちょっと日本人もこれから注意しなければいけない点だと思いますね。例えばピカソの絵ですけども、あんな簡単な絵と。「あんなのわかるか」というふうなところがありますね。大体ピカソは、一日に三十六枚絵を描きます。そして三百六十日掛けて、彼の人生を掛けた数の分量の作品を描いているわけなんですけども。あの絵が何故あのように世界的に普遍性を持つかということをですね、あれは決して上手い絵じゃないわけですね。ところが彼が時代を一つ進めたという点で、非常にエポック(epoch:時代・時期・特に新しい時代や時期)をつくっているわけなんですね。そういうことに対して、価値を付けていく、ということでございますので、価値の創造力に対するみなさんの拍手の度合いが、拍手するところが違うと言いますかね、そういうことでございますので、やはり私どもも、そういった世界があるということを認識しないといけないと思いますね。ただただ見目麗(みめうるわ)しいものだけ、目に写るものだけが、目の表面的に写るのがいいということだけではない、という世界があるということですね。要するに目の後ろ側にある人間の脳味噌と言いますか、そういうものを新規にイノベーション(innovation:物事の「新結合」「新機軸」「新しい切り口」「新しい捉え 方」「新しい活用法」を創造する行為のこと)してくれる作品に対して拍手を送ると。こういうことも必要かと思いますね。
 
 
ナレーター:  イタリアで教わった個性と信念の大切さ。強烈な太陽の光と鮮やかな色彩、明るく陽気な人々。そして競い合いの歴史で鍛えられた圧倒的な迫力。絹谷さんが、描く絵は変化していきました。
 

 
絹谷:  そうですね。それまで非常に地味な絵を描いていたんですね。内容は変わっていないんですね。絵の内容は地味な絵を描いている時も、それから色彩感豊かな絵を描いた時も、いわゆる下に流れているテーマは「無常観」と言いますか、そういうことの大切さを無常の中に見出していたんですけども、やはり無彩色に近かった絵が非常に多彩な絵になったということ。それぞれ歌い出せばいいんだという気概を留学時に教わった。そういうところでやってきますと、やはり胸襟を開いて、それぞれがそれぞれの歌をもって、あるいは色彩をもって飛び立つことなんじゃないかなというのを学んでいく中で、自分の絵が形成されていったという感じですね。
 

ナレーター:  イタリアに留学して、およそ二年が経ち、画家として認められようとしていた頃、故郷の奈良で高松塚古墳から極彩色の壁画が発見されます。絹谷さんは、壁画の保存に協力してほしいと日本に呼び戻されました。
 

 
絹谷:  やはり高松塚というものが、故郷の奈良から出た、ということが大きかったですね。我が国の高松塚というのは、ほんとに入室調査をした時は驚きました。大変仕事が丁寧でございましてね。例えば中に描いてある人物の顔が、これぐらいの大きさなんですけども、その中に目があるんですけど、その目の睫(まつげ)が描いてあるというぐらいのことでございまして、これは相当日本という国に住んでいないと、できないことだなと思いました。その後秦(しん)の始皇帝(しこうてい)の陪塚(ばいづか)とか行きまして、よく似た絵はありましたけども、もっと大きくって、もっと雑なんですね。やはり日本という国の自然を間近に見ている人でないと、これぐらいな微細な観察はできないな、という感じでしたね。だから当然その当時、トランジスターラジオだとか、そういう近代的なものができていましたけれども、「あ、日本人ならこういうのはわけないな」というぐらいのことを高松塚の絵を見て感じましたですね」。大変素晴らしい作品であると同時に、「絵がその時の時代を語る。その時の時間を語る。もし絵というものがなかったら、その当時どんな顔をしていた人がいるのかなとか、どんな服を着ていたのかな、どんな息づかいをしていたのかな、というのがわかりませんね。文章で読んだだけとか、あるいは木簡が出てくるだけですとね。ところがそういう存在というものがあるということが、その時の時間を取りだしてくれるんだな、ということがもう非常に感動的でしたね。
 

ナレーター:  一九七四年(昭和四十九年)、イタリアから帰国した次の年に、絹谷さんは、画壇の芥川賞とも言われる安井賞を、それまでの最年少で受賞しました。受賞を力に、絹谷さんは、斬新な作品を描き続けました。そして日本芸術院賞など、美術界の重要な賞を次々に受けます。

 
品田:  美術界の芥川賞と言われている安井賞を受賞されたわけですね。
 
絹谷:  はい。
 
品田:  これは今までフレスコ画で受賞された方はいらっしゃったんでしょうか?
 
絹谷:  いや、どなたもいらっしゃいませんね。私はポッと帰ってきましたから、どこの画商さんもついていないし、なんの後ろ盾もない。しかも絵が非常にこう斬新であるということで、私が安井賞を頂けるなんていうことは夢にも思っていなかったんですが、まあ頂いたわけですよね。そのお蔭かどうか知らないんですが、その後先輩たちが言ってくれたことは、「絹谷が受賞したことは、日本の絵画を十年進めたなあ」というふうなことを言ってくれました。それは嬉しかったですね。まあしかし依然としてまだ日本の体質というのは、私が思うようなほど、進取の気性があるというふうには思えていませんでしたが、その後の美術の動向を見ていますと、例えば奈良美智(ならよしとも)(一九五九年、青森県弘前市出身の画家・彫刻家。世界的に評価されているポップアート作家で、ニューヨーク近代美術館(MoMA)やロサンゼルス現代美術館に作品が所蔵されるなど日本の現代美術の第二世代を代表するひとり。にらみつけるような目の女の子をモチーフにしたドローイングやアクリル絵具による絵画で知られる)とか、その他少し口から吹(ふき)き出(だ)しがあるような絵とか、ちょっとマンガチックな絵だとか、そういうふうに時代が僕についてきてくれたということがありますかね。
 
品田:  「吹き出し」というのは、文字?
 
絹谷:  「吹き出し(主に漫画で登場人物のセリフを表現するために、絵の中に設けられる空間のこと)」は、絵の世界では、禁じ手だったんですよ。マンガみたいという感じですね。そういうことも敢えて私は勇気をもって改革していきたかったもんですから、日本を変えていくのは、芸術、文化からだと思っておりましたので、そういう絵を、「こんな絵描いていると、日本では生きていけないよ」とか言われながら、私はそういう道を進んでいったわけなんですね。そうすると、むしろ時代の方から、私の方についてきて頂いて、帆を進める者にそういう奨励して頂ける賞がついてきたということで、意を強くしたわけでごじますけれども。まあそういう私としては、「この賞が欲しいから、なんかそれに対してするんだ」というふうなことはほとんど考えていませんでしたですね。私がごく自然に振る舞う絵―描き続けた絵に対して賞がついてきてくれた、という感じですね。
 
品田:  絹谷さんが、絵を描く原動力というのは、何でしょう?
 
絹谷:  何でしょうね。とにかくそうですね、例えばいつも言っていることなんですけども、ある時、三十代の後半ですかね、タヒチ島に行ったんですね。タヒチへ行きますと、非常に暑いもんですから、私ども裸になりますですね。そうすると、それまでは「人体というものは美しいもんだ」と、私は思っていたんですね。で、学生時代から人体デッサンとか、人体とかと描いて、「ヌードというのは美しいもんだな」と思っていたんですが、果たしてほんとにそうだろうかと。向こうに行って、海に潜って熱帯魚を見ましたり、それから年中咲いている花を見たり、鳥を見たりしますと、そのものたちがもの凄く極彩色で綺麗なんですよ。もう信じられないほど、竜宮城ですしね。それに比べて人間というのは、そんなに美しいものかな、と。なんかずる抜けじゃないかな、と。毛並みもここだけしかありませんし、私みたいになってきますと、だんだんありませんしね(笑い)。そうなってきますと、こういう服を着ているからなんとかなっているようなもんですけども、もしそういうものがなかったとすると暑くって。で、そのタヒチ島で油絵を描こうとしても、油絵の具が売っていない。キャンバスが売ってない。何もないんですよ。そういう描くものもないところに行って、裸でうろうろしていますと、なんか恥ずかしいんですよね。そうなりますと、現地の人を見ると、この辺に絵を描いていたりね。こう身体に絵を描いていたりするわけですよね。「あ、そうなんだ」と、気が付いたんですよ。もしキャンバスというものがなかったら、自分のここに絵を描くんだよ、と。あるいはここに鳥の羽根を付けるんだよ、と。あるいはここに骨を付けるんだよ、という。向こうへ行ってみたら、鳥や花や魚や、そういう人たちと一緒にもし住んだら、きっと僕もそうなるだろうと思いましたですね。つまり鳥も花も魚も、自分たちの身体を支持体(しじたい)―いわゆるキャンバスにして、誰に言われることもなく、大昔から自分の身体に絵を描いている芸術家なんだな、ということに気が付いたんですよ。そして、そうですね、その自分の身体に色彩を施したり、あるいは香りを出したり、あるいは揺れてこうダンスをしたり、そういうことすべてが、自分の生存権をまた続けていく、もう切なる思いの、もの凄い思いの中にある作用なんだな、ということを思いますと、やはりその思いを強くする。思う心を、そういう心が非常に大切なんだな、ということに気が付いたのが、三十代半ば頃でしょうかね。
 
ナレーター:  イタリアやタヒチで心を揺さ振られた絹谷さんは、独自の世界を形作っていきました。しかしその根底には、生まれ育った奈良で身近に接していた仏教の教えが流れていると言います。
 

 
品田:  子どもの頃からなんですが、やはりこういう周りがお寺の中にいますと、人間のいのちも、形のあるものも壊れていくんだな、と。無常観に苛まれるわけでございますね。「色即是空(しきそくぜくう)」ということですね。「色(しき)」というのは、「色(いろ)」と書きますけども、「色(いろ)」というものも、電気を消せばなくなる。海の底に行けばなくなる。宇宙に行けばなくなる。あるように思っているものは、実はないんだ、というふうな世界ですね。そういうものは「形あるものは壊れていく」ということを若い頃ずっと思っていたんですけども、しかしその後に、今度は「空即是色(くうそくぜしき)」というのが付くんですね。形のない、例えば愛だとか、イメージだとか、あるいは信じるとかですね、絵に描いてある内容とか、そういうものは壊れないんだ、と。そういうものを思っていけば、形になっていくんだ、と。「ヘリコプターに乗りたい」というのを、ダビンチが思ったら、それが何百年後かにヘリコプターになっていくとか、そういうつまり「思いが形になる」ということでございますので、私も今絵を一生懸命描いているんですけども、そういう思いをますます募らせてですね、そして形というものを編み出していきたい、創りだしていきたい、というふうに思っているんですね。ですから切なる思いとか、あるいはこう強い思いとか、あるいは熟練された思いとか、いろんな思いの丈を自分の中で成長さしていきながら、それを思いば、それが絵になっていく、と。あるいは形になっていく。あるいは国の形になっていく。今ちょっと思いというか、信ずるというか、そういう形のない世界が、非常に薄くなってきていると思います。むしろすぐ形というものから入っていって、それを能率というものに置き換えたりなんかしながら代価を得る、というふうな感じになっていますので、それだけではやはりもっとより新しい創造とか、もっと飛び越えた翼とか、そういうものはもてません。現実に引きずられたり、あるいは周りの仲間との調和の中に沈み込んだりしますので、やはり自分の翼をもって、そしてその翼を羽ばたかして、新しい世界をこの歳になっても子どものように、あるいは三十代に感じたタヒチ島の島のことでもそうなんですけども、あるいは今、子どもたちを見ながらでもそうなんですけども、そういう初心を忘れないで、想像力の翼をほんとに子どものように羽ばたかしていきたいなと。この歳になって、そういうことを思っております。
 
ナレーター:  大阪府の南にある大阪芸術大学。絹谷さんは、現在この大学の美術学科長を務めています。絹谷さんが学生に絵を教えるようになったのは、三十七歳の時、それから三十年あまり数多くの学生を育ててきました。
 

 
絹谷:  あなたの絵は、三十パーセントぐらい描けばいいんで。
 
学生A: 残りの七十パーセントは、何を?
 
絹谷:  次の絵を描けばいいわけだ。
 
学生A: いつ辿り着けるんですか?
 
絹谷:  もうとにかく三十パーセント、三十パーセント、三十パーセントを―例えばピカソの絵を見てご覧よ。あれ百パーセント書いている?
 
学生A: そういう意味の三十パーセント、
 
絹谷:  もう三十パーセントまでで、とどめられれば天才よ。
 
絹谷:  どれが自分が一生打ち込んでいける仕事か、というのがきたら、いわゆる天からくるんだ。それをわぁっと。それはしょっちゅう君が毎日学校に来てやっているから来るわけよ。だからあんたは、もう良いチャンスが来ているのを、わざと余所見してこう逃がしているという感じ、そう思います。
 

 
ナレーター:  絹谷さんには、芸術家を志す人たちに伝え続けている強い思いがあります。
 
絹谷:  何よりも大事なのは、やっぱりイメージを構築していく。イメージを研ぎ澄ましていく。ですから、「絵を描く」と言った場合に、ただ単に上手く描くということじゃなくって、心の佇まいというか、そういうものをしっかりたてていかないと、描いた絵に必ず心が移ってくるんですよ。どんな上手い絵を描いていても、どんなみなさんを納得させるような絵を描いていても、例えば時間が経過したら色褪せてきたりですね、いろいろ絵は心を映し出す鏡なんですね。その鏡の本人が消えていってしまう、ということがあるんですね。ですから「絵を描く」ということは、上手い下手じゃないよ、と。やはり心をどれだけ、心の働きを強くもって、それを鏡のように絵に写し出せるか、ということなんですよ。だから鍛えなければいけないのは、テクニック以上に人間の佇まいと言いますか、心と言いますか、そういうものを想像していかなければいけないんだ、ということを、若い人たちに言っているんですが、それは私自身にも言い聞かせていることなんですけどね。やはり時代がこういう時代になってきますと、その心の問題がどこかに飛んでいってしまいましてですね、こう現されてくる絵の表面だけの世界になってきますね。そうしますと、非常にそれは見目麗しいんですけど内容がない、というふうな話になってきますので、なかなか時代の時間が経過していきますと、もうもたないというふうになってくるわけなんですね。ですから先ず心を鍛えること、そして新しい進取の気持ももつということ、ただその進取の気持も、ただ目新しいものだけに目がいくんじゃなくって、非常に古いとこから、アルタミラの昔から、あるいはもっと昔から、いわゆる「人間とは何か」という問い掛けをする。そして自分の現代という今の瞬間、この瞬間に絵として出していく、表現していく、ということですね。
 

 
ナレーター:  若者たちを長年教えてきた絹谷さん。事を究めるには、世間の常識にとらわれない心の自由をもつことが大切で、時には一人になることも必要だ、と言います。
 

 
絹谷:  世間的に言われています「引き籠(こ)もり」というような状態にならないと、実は絵は描けないわけなんですね。だから「引き籠もり」というのは、悪い言葉だと、みなさん思っておられると思うんですけども、絵描きにとっては、引き籠もらないと、絵は描けない、ということなんですね。だからその言葉は、絵描きにとっては当たりませんよ。「引き籠もりなさい」。それから「ニート(若年無業者のうち、就職したいが就職活動していない、または就職したくない者である。日本では大抵この意味で用いられるのが一般的である)」という言葉がありますね。なんか親からこう仕送りを受けて、自分は何にもしないみたいな話でしょうけども、絵描きも大体五十ぐらいになるまで「青年画家」と呼ばれているんですね、絵描きの場合は。「青年画家」の定年は五十歳みたいな話なんですね。つまりそれだけやはり世間の援助がないと、あるいはそういうことがないと、なかなかアルバイトしながら絵を描くということは非常に辛いことなんですね。アルバイト自身が非常に責任を、それぐらいの歳になりますと、責任をもつ立場になってきますから、こっちが主流になってくると、そうすると絵は描けなくなるわけなんですね。ですから世間の常識は、絵描きに対しては非常識なんだよ。ニートも引き籠もりも大いにやりなさいと。そして援助があればそれを糧にして、まああんまりアルバイトしないで絵を描きなさいよ、ということを、僕は心の中で思っているんですけど、なかなか言えませんけどね。貧乏だということを懼れないと言いますか、心は貴族である、というふうな、そういう感じを実は教えたいんですけどね。世間が、もの凄い時代になっていますんで、それはなかなかそれは難しいですね。
 

 
ナレーター:  これまで独自の絵の世界を切り開いてきた絹谷さん。その道は決して平坦ではありませんでした。絹谷さんは、ピンチの時ほどチャンスだ、と言います。
 

 
品田:  「ピンチの時ほどチャンスに」というのは、発想の転換でしょうか?
 
絹谷:  そうですね。ピンチの時には、ピンチのことを思わない、反対側を思うわけですね。チャンスの時は、その反対側のことを思うと。つまり双眼でいつも見ていて、そのチャンスの時に浮かれずに、ピンチの時に悲しからずに、というふうな相互互換を常にしています。私の場合は、例えば絵を描いていますと、大きい絵の場合がそうなんですけども、いろいろ部分的に良いとことか悪いところが出てくるわけなんですね。そういう時は、意外と両目開けてしっかり見ているんですね。ですけど、その両目開けてしっかり見ていると、意外と全体が見えない場合があるんですね。その場合目を細めて、見えにくくするんですね。そうすると、今まで部分的にそのピンチのところに閉じ籠もっている自分が、目を細めることによって、全体がボヤッと大きく見えてくる、ということがあるんですね。大きく見た中で、その小さい部分を見て、その小さい部分の欠点を処理していくとかという。あまり大きい目でグッと見ていると、得てして細かいところに意識が集中してしまう場合があるんですね。そうすると、意外にそこに拘っていて、そこだけはよくできても、その部分と全体とが不一致になってくるということもありますんで、常に涼しい目をして、相手を見たり、あるいは絵を見たりするということですね。ですからどんな不幸が襲ってきても、どんな辛いことがきても、そういう部分に拘っていないで、全体を見て、その部分のことを感じれば、これはあまり大したことではないというふうにもとれますし、ここのところを修復していくということも非常に大切だと思います。
 
品田:  長引く不況に、そして震災と、日本はピンチが続いているような状況ですけども、如何お考えですか?
 
絹谷:  そうですね。ほんとに日本は大変美しい国なんでございますけども、艱難辛苦な自然災害、これは如何ともし難いとこがございますけども、私どもは古来そういうピンチを常に受けながら、プレッシャーを受けながら、しかしこうまた復活していくというふうなことを繰り返しております。ですから私の絵の仕事でも、いろいろピンチはきます。もう肩が痛くて、手が動かない。どうしようもないという時もございます。もう倒れていなければ、手が上に上がらないというふうな時もございます。そうすると、そういう時こそチャンスでございまして、絵は今まで立てて描いておりましたけども、それを横に下に寝かして描く。絵の具は手で描いていましたけども、絵の具を手が上がらないわけですから、こういうふうに絵の具を下に零せばいいわけですね。そういうふうにして、私は絵を描き続けてきました。それはやはりこの大変な地下にマグマがあり、そして地震が起こる。そして津波が起こるといった、こういう地理的条件のとこで生まれてまいりましたけれども、それはまた必ずしもそれを悲観的に捉えないで、また次の新しい想像のための一つの礎として、そういう人たちのご苦労を無にしないで、その上に私たちの新しい想像力を加えることによって、変化し、イノベーションし、そして創造していくという、その先祖からの血を受け継いでいると思いますので、やがてこういう艱難辛苦もはね除けていけるというふうに思っております。
 
品田:  これからこうありたいことを伺わせてください。
 
絹谷:  そうですね。もうとにかく私も絵を取ったら何もなくなるというふうな性格でございましてね。絵を描くことがいのちというか、もし絵を描くということ、ものができるという世界を取ったら、私の時間は全部なくなるというふうな感じでしょうかね。初心を忘れずでございます。若い頃感じたことですね。これから集大成にもっていきたいと思っているんですけども、やはり想像を楽しむということは、先ず楽しいことなんですが、「木」を描いて、「目」を描いて、「心」という、人々が何かを想像するということがありますね。そういう想像を多くの方が考えている、想像しておられることを超えていくと言いますか、一歩でも半歩でも身体を前に倒していくというか、そういう姿勢ですね。そういう姿勢をこれからも続けていく。そしてその多くの方が考えておられる常識の世界と言いますか、そういう世界を踏み越えていくと、本当の「創造力」ということになってくると思うんですね。これをより拍車をかけて、これから邁進していきたいと思っているんですね。そのためには健康な身体を維持するということも大切ですし、それからやはり維摩(ゆいま)さんのような考え方、そういう思想的な背景も積み重ねていって、私独自の解脱(げだつ)と言いますか、考え方と言いますか、あるいは一家言(いっかげん)というようなもんですね、そういうものが喋れるようになればいいかなと思っているんですね。そのためにはやはり自分の本業である絵の中にのめり込んでいって、飛び込んでいって、体中でこの絵を描くと言いますか、心身共に、と言いますか、上下隔てなく、とにかく埋没していって、「あ、絵の中から、絹谷が向こうからこっち見ているよ」というふうな、そういうふうな絵を描いていきたいな、と思っているんですね。それは大変なことですけどね。そして心と心が話し合ってくれればいいな、と思っているんですね。例えばこれから会ったこともないような、絶対会えない子どもたちがいますね。私のいのちが終わって、それから何百年、何十年とかとなってきますと、私は知らないわけですけども、私の絵を見てくれれば、その絵から私が飛び出してきているというふうな、まあ立体感のある仕事ができて、そしてその心が、見る人の心に移ってくれればいいな、と。そしてそこで皮膚と皮膚と、あるいは精神と精神、あるいはそういったものが語り合ってくれる、というふうな絵を、これから構築していって、自分の世界を、まあ身体は滅びていきますけども、いのちの精神と言いますか、絵の中に描き込まれた精神が光彩を放って、何年も何年も見る人の心を明るくしてくれたり、あるいは元気付けてくれたり、あるいは指し示して、知らしめてくれたり、そういうことができればいいな、と思うんですね。
 
品田:  どうも有難うございました。
 
     これは、平成二十五年七月十四日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである