三界に遊戯す―禅居士久松真一―
 
                 神戸大学教授 倉 澤(くらさわ)  行 洋(ゆきひろ)
一九三四年、長野県生まれ。一九五六年、京都大学文学部哲学科卒。一九六二年、京都大学大学院宗教学専攻修了。神戸大学教授を経て、宝塚造形芸術大学教授。著書に「対極桃山の美」「芸道の哲学」ほか。
                 花園大学講師 宝 積(ほうずみ)  玄 承(げんしょう)
一九三七年、熊本県人吉市生まれ。小学校二年で伯父が住職を務める臨済宗妙心寺派の東光寺に入って以来、仏道一筋。五九年花園大学仏教学科卒業と同時に山田無門老師の下に参じ、祥福寺専門道場にて修行。のち大森曹玄老師に参学、嗣法。財団法人禅文化研究所を経て、花園大学実践禅学講師、宗教部主事のち副部長。自坊では禅道場・水月道場も開設。平成八年、外国人のたねの「京都国際禅堂」を開設し、指導にあたる。世界宗教者平和会議日本委員会評議員。かめおか宗教懇話会会長。京都国際禅堂師家。臨済宗妙心寺派東光寺住職。著書に「わらじからの出発」「目で見る坐禅入門」ほか。
                 き き て  有 本  忠 男
 
有本:  今日は、在家の禅者久松真一(ひさまつしんいち)さんをご紹介しましょう。久松さんは、生涯を通じて茶の湯と禅の心を探究し、禅でいうところの「形のない自己、無相の自己に目覚めて、人間の道を歩もう」と提唱しながら、京都大学や花園大学、京都市立美術大学などで、哲学や宗教学を教えて、十五年前に亡くなられました。教え子、関係者方はもとより、禅居士として一般市民の方々にも大変尊敬されておられます。今日は生前ご縁の深かったお二人の方々にスタジオにお出でを頂きました。私のお隣、神戸大学教授の倉澤行洋さんでございます。そしてそのお隣が、花園大学講師で、京都府亀岡市に禅寺をお持ちの住職宝積玄承さんでございます。どうぞよろしくお願いを致します。もうお亡くなりになって十五年ということなんですが、お二方が最初お会いになりまして、どんな印象を持たれたのか、その辺を倉澤先生から伺いたいんですが。
 
倉澤:  私が、久松先生とご縁を結ばせて頂いたのは、主に心茶会(しんちゃかい)を通してです。そして心茶会での私の印象は、とても怖い、しかしまたとても優しい先生だということですね。いろいろな思い出がありますが、一つ申し上げますと、ある年に心茶会の茶会を企画しまして、それも外部の方をお招きしての公開茶会を考えました。そしてこの茶会を開くための資金が足りないというようなことがございまして、その足りない資金を補うために、来てくださるお客さんに、茶券を買って頂いて賄おう、と、こういうことを考えたんですが、これが我々の先輩の方々は、どなたも賛成してくださらない。しかたないから会長の久松先生に直訴しようということになりまして、妙心寺の春光院(しゅんこういん)にお住まいの先生ですが、お伺いしました。そうしますと、先生は私どもの話をお聞き下さったうえで、こんなことをおっしゃいました。「心茶会の茶会は、純潔さが第一のものである。それを失ってはならない。茶券など売ると、心茶会は茶会をして金儲けをしていると誤解されかねない。それは是非止めてほしい」ということをおっしゃいました。そしてじゃ、どうしたら茶会ができるかということで、「お金がなくっても茶会はできる。お茶がなければ、お湯を心を込めて差し上げたらよろしい。お菓子が買えなければ、榧(かや)の実・椎(しい)の実を採っていらっしゃい―榧のみ椎のみってどんなものか知らないから、私困りましたけれども―それを採ってきたらよろしい」そういうふうに言われました。で、私は一問もお返しする言葉がなくって、辞去しましたが、その時先生は、門まで送りくださって、そして別れる時に、やおら懐中から白い封筒を出されて、「これをお役に立ててください」というふうに言ってくださった。お金が入っておりました。その時に、先生の優しさと同時に、限りない恐さを感じました。そんなことが先生については、最初に強い思い出になっております。
 
有本:  倉澤先生が京都大学の学生の頃のお話なんですね。
 
倉澤:  そうです。私が大学院の一回生の時です。
 
有本:  宝積さんは如何ですか?
 
宝積:  私は、昭和三十年の時、臨済宗の宗門大学の花園大学に入りまして、それで先生から教わったんですが、それが最初の時に、学生に頼まれましてね、「欠席するから、わからないように返事をしておいてくれ」と、こういうふうにいう学生がおりましてね、私も辛かったんですが、その友だちのいうことを聞いて、代わりに返事をしたんです。そうすると久松先生が、順番に調べていかれたら、返事したのと、人数が食い違いがきましてね、「これはこの中に代わって返事をした奴がいる」ということで、非常に厳しく叱られました。「この中に誰がそういうことをやったのか」ということでね。ところが私は、自らそれを言う元気がなかったんです。そこで久松先生は、授業を止めて、そして「宗門律の学生が、こういうことであってはどうするか」ということで、その授業がずっとそのことに係わって注意をされました。我々は、それをジッと聞いていたんです。そういう最初の久松先生との出会いでございましたが、私はそのために四年間、花園大学で勉強しまして、卒業論文を書く時、久松先生が自らこの主査をしてくださいまして、それを私が、西田幾多郎博士の「純粋研究」というものを扱いましたので、「これは私がしなければならない」と、自ら買って出てくださいましたんです。その時に同じく卒論見てくださった方が、のちの南禅寺派の管長になられた柴山全慶(しばやまぜんけい)老師と、それから現在静岡県の奥山(浜松市北区引佐町奥山)にあります大本山方広寺(ほうこうじ)の管長さんになっていらっしゃる大井際断(おおいさいだん)老師も卒業論文を見てくださいました。ところが、久松先生が卒論を最後に審査される時に、「あなたは、まあこれで卒論はいいけれども、お寺の出身だからこれからは道場に行って修行されると思いますが」とこう言われたんです。その時私は、道場へ行く気はなかったんです。実は南禅寺の管長の柴山全慶老師が、「あなた、今のうちに東京へ行って、大学へ行ってしっかり勉強してきなさい。修行は後からできる」と、こう言われておりましたので、その準備をしておったんです。ところが久松先生が、「道場へ行かなければ、これからの時代はダメです。実践がなければダメです」と、きつく言われまして、そのお言葉で、私は、当時山田無文(やまだむもん)学長老師のところの神戸の祥福寺(しょうふくじ)専門道場に行くことに決めました。これがご縁なんでございます。
 
有本:  今お二方の印象を伺いますと、大変厳しさの中に優しさがある、というふうなお人柄を伺うことができたんですが、もうほんとに最晩年、亡くなる直前にお話をなさったテープがたまたまございますんで、一つ聞いて頂きましょう。
 

 
久松: 臨済禅と言いますが、臨済以後なんですね。その臨済以後というのを、臨済以前と。私は臨済以前に遡って雲門とか、趙州とかね、ああいう歴々の禅というものを、もう少し生き生きと復活させるというような意気込みでいかなくちゃいけないと、そう思っておりますよ。それが禅の、つまり復興と言えばね、あれが本当の禅の復興であるというふうに、私は思ってるんです。もうこれは間違いないと思うんです。達磨から臨済までの禅というものを体得する、ということが、これからの禅の復興だと思うんですよ。
 

 
有本:  九十歳の、亡くなる一年前のお声ですけども、大変張りのある声ですね。
 
宝積:  お元気でしたからね。しっかりとはっきりしていらっしゃいましたからね。そののち一年後に亡くなるとは、それこそ思いもしませんでした。
 
有本:  それでは年表を見ながら足跡を辿ってまいりたいと思いますが、
 

    久松真一略年譜
誕生


参禅見性
禅寺に奇寓
教師生活


 
明治二二年
   四一
大正 元
   四
    七
    八
昭和 二
   一二

 
 岐阜市の長良に生まれた
 第三高等学校 入学
  京都手国大学哲学科入学
  卒業後妙心寺臘八接心で見性(二五歳)
  妙心寺春光院に寓す(四五年間住)
  以後現花園大、龍谷大で講じる
  「抱石庵」号を西田幾多郎より受く(三八歳)
  京都大学助教授就任、仏教学担当(四八歳)

 
 
明治二十二年、岐阜市にお生まれなんですね。第三高等学校を経て、大正元年、当時の京都帝国大学哲学科に入学でございます。この京都大学時代に、西田幾多郎博士の教えを受けるわけでございますね。たくさんの著書がございますけども、やはり西田幾多郎博士のことについてもいくつかお書きなんでございましょうね。
 
倉澤:  そうですね。
 
有本:  で、哲学を勉強なさるわけですが、若き青年学徒に悩みがございまして、恩師の西田幾多郎宛のお手紙をちょっとご紹介しようと思います。
嗚呼(ああ)、何といふ恐ろしいことでありましょう。
私はこの(虚飾の悪魔の)毒素を、
私の行為の成分から全く除去しなければ、
一刻の平和も得られません。
・・・真の私の手足は、
鉄鎖(てっさ)によって堅固に縛(ばく)せられて居(お)ります・・・。
(西田幾多郎への手紙)
 
随分難しい表現でございますけれども、ほんとに精神的に大変悩みをお持ちだった様子が伺いますね。
 
倉澤:  そうですね。卒論をお書きになっていらっしゃる間に、こういう悩みがだんだん強くなってきまして、もう卒業するのを止めようとすら思われたわけですね。その時に恩師に出されたお手紙がこれです。しかし西田先生は、これをご覧になって、「卒業しなさい。そしてもうこのさえ思い切って禅の修行に打ち込みなさい」というふうに、アドバイスをなさったわけです。
 
有本:  そうしますと、京都大学を卒業後、西田博士の勧めで妙心寺でございますかね、
 
宝積:  西田先生は、最初に川島昭隠(かわしましょういん)老師と、妙心寺にいらっしゃる池上湘山(いけがみしょうざん)老師のお二方を紹介されたんですね。ところが川島老師の方は、非常に学問的なタイプの老師でございまして、池上湘山老師は、またそうじゃなくして、「禅僧らしい禅僧であるから、あなたは池上湘山老師さんの方が良かろう」ということで、妙心寺を勧められた。早速紹介状を持って、当時妙心寺の雲水でありました植木憲道(うえきけんどう)という方がいらっしゃるんです。後に専門道場のお師家さんになられる方でございますけども、その植木老師が、この紹介状を以て、「なるほど、この方だったら一般居士でも、専門の雲水に入って修行しても良かろう」というふうに理解されまして、そして妙心僧堂に専門の雲水に混じって修行することを許されたんですね。これは珍しいことです。
 
有本:  生活はまったく専門の雲水さんと同じような生活をなさるわけですね。
 
宝積:  そうです。
 
有本:  西田幾多郎宛の、先ほどのお手紙で非常に悩んでいらっしゃる。それは妙心寺の僧堂で参禅をなさって解消をするんでございますか。
 
宝積:  そうです。特に久松先生は、当時人生の悩みというものを全身で受け取っていらっしゃいますので、これを解決しなければ、生きるか死ぬかというところにまできていらっしゃいましたので、それに打ち込んで坐禅をしっかりやられたわけですね。その当時の年の十二月にあります禅で一番厳しい臘八大接心(ろうはつおおせっしん)というのがあるんですが、それに参加されまして、自らが見性(けんしょう)体験をなされるわけですね。見性体験というのは、「本来の自己を徹底する」ということで、「人間が人間として、もっとも人間らしく目覚める」ということなんです。そこに自信をもって頂いたわけです。これは大事な久松先生の経験だったと思うんです。
 
有本:  そういうことで「学究生活の思い出」という文章に、その辺をお書きでございますのでご紹介しましょう。
 
(こ)の時、・・・一大疑団(ぎだん)の彼(久松真一)は忽然として内より瓦解(がかい)氷消(ひょうしょう)し、
・・・無相(むそう)にして自在なる真の自己を覚証(かくしょう)すると同時に、
・・・多年解決し得なかった一切の問題は、
抜本(ばっぽん)塞源的(そくげんてき)に解決せられ、
未だかつて経験したことのない大歓喜地(だいかんきじ)を得た。
(「学究生活の思い出」から)
 
大きな疑問はあったけれども、坐禅をすることによって、本当の歓び、本当の自分を見出すことができた、ということですね。
 
宝積:  そういうことですね。禅でいう「大疑(たいぎ)のもとに大悟(たいご)あり」という、こういう言葉がございます通りに、久松先生は自ら禅の体験をもって自分でこのような確証を得た。自信満々でございますね。大変なことだと思います。
 
倉澤:  先生は、のちにご自分でおっしゃっていらっしゃいました。「疑いがあったというふうなことではなくって、自分自身が頭の天辺から足の先まで疑いの固まりになっていたんだ」ということをおっしゃっておりました。だからそれが一挙に解けることができたわけですね。常識では考えられないほど短い期間に見性ができたのは、そのためだと思います。
 
有本:  先ほど専門道場で、雲水さんと一緒に修行ということですが、私たちは、僧堂で十年とか、あるいはもっと長くお師家さんの指導を仰いで、悟りの道へという非常に時間のかかるものだと、こう理解しがちなんでございますけども、久松さんの場合は随分短いんでございますね。
 
宝積:  久松先生は、今までの禅の教育法、いわゆる修行方法というのが、公案禅というものをもって、千七百則の公案を全部透過しなければいけないという、こういう古い考えをもっていてはいけない。一遍に見性する―頓悟(とんご)する。今までの修行方法は、だんだんだんだんということで漸悟(ぜんご)。ところが久松先生は、頓悟(とんご)でなければならない、と。こういうところに見性の体験を非常に重要視されるわけです。その辺が久松先生の後の考え方に繋がっていくんじゃないかと思います。
 
有本:  その頓悟というのは、閃きと言いましょうか、ハッとこの一瞬と言いましょうか、
 
宝積:  それは全身全霊をもって、「人生とは何か」というものを、もっていなければ、一遍にハッと気が付くということ、目覚めるということはないわけです。そこが大切であるということですね。
 
有本:  それでは再び略年表を見ながらお話を伺ってまいりますが、妙心寺の僧堂で長い生活をなさるわけですが、三十歳の時に、花園大学、龍谷大学の教授、そして京都大学の助教授にもなられます。で仏教学を担当ということですが、昭和十四年に代表的な著作の一つ『東洋的無』を刊行されますが、その『東洋的無』の序文をお読み致しますんで、それをまたご覧頂きながらお話を進めてまいりたいと思います。
 
これは単なる学門の問題ではない。
私に死ぬか生きるかを択一的(たくいつてき)に迫り来る問題である。
・・・私の生命の全体がそれに対(むか)って一体となって、
死にものぐるいに直面する全一的な問題である。
・・・ここに於て私というもの自体の存在が真剣な問題になってくる。
(「東洋的無」序文から)
 
倉澤先生は、この『東洋的無』の序文をどんなふうにお読みでございましたか。
 
倉澤:  普通学者の学門と言いますと、これは対象的に学門を追究する、対象的に知識を追究するということですが、先生の場合には、先生ご自身の主体の生き方と学門とが一つにくっついていたということですね。先生は、「学門的な知識には二通りある」ということを、いつもおっしゃいました。一つは、客体知―客観的に求める知識。もう一つは、主体知だというわけですね。自分の生き方に関わる智ということです。『東洋的無』は、そういう客体知と主体智が一つに結実した日本の思想史の中でも大変ユニークな位置を占める書物であると思います。
 
有本:  宝積さんは、どんなふうにお読みでございますか。
 
宝積:  大事なことは、「東洋」ということに、非常にこれからの時代は大切なことであるということですね。それは西洋のも含めて、「東洋とは一体何なのか」ということで、東洋にはやはり仏教があり、そして禅の精神性というのはまさにあるわけでございますね。そこに重きをおく。それはやはりこの純粋な自己ということ、やはり形なき自己に目覚めるということ、そこにこの「東洋的無」の中心的なものがあるということを、やはり本人自身も、それをみんなに知らすとともに、自分もその道を歩んでいこうという決意そのものじゃないかと思うんです。「東洋的無」というものはね。
 
有本:  『東洋的無の性格』というご本も、その後出るようですが。
 
倉澤:  論文ですね。
 
有本:  論文ですか。ドイツ語、英語に翻訳されて、外国の方もお読みだということで、大分「東洋的無」ということについて、外国人も理解なさっているようですね。
 
倉澤:  そうです。「東洋的無」と言えば、久松先生。久松先生と言えば、「東洋的無」ということで、外国の方にとっては、「東洋的無」という言葉は、訳さなくてもそのままで通用するわけですね。
 
有本:  それではまた年表をご覧頂きながら、お話を伺うんですが、
 










 

著作
茶道哲学の
運動振興


人類の誓

講演旅行

 

昭和一四年
一六―一九
  
   二三
   二四
   二六

   三二
   三七

 

  著作「東洋的無」刊行(五○歳)
 京大心茶会学道道場などを創立(五二―五五歳)

  著作「茶の精神」など刊行
  京大教授退官、花園大、大谷大で講じる(六○歳)
  「人類の誓」を発表
  このあと京都市立美大教授就任
  翌年にかけて米欧、中東、インドで講演
  京都 室町に転居、翌年 花園大教授に(七三歳)

 
 
倉澤先生は、第一印象を伺った時に、「心茶会」の話が出てまいりましたけれども、この心茶会ができましたのは、昭和十六年でございますね。その後学道道場など創立ということなんですが、この心茶会なるものをもうちょっと詳しくご説明頂きましょうか。
 
倉澤:  昭和十六年に設立されました茶道の実習と研究の団体です。京都大学の中に初め創られまして、当時の裏千家の家元でありました淡々斎(たんたんさい)宗室と久松先生が協力して創られました。この心茶会の目指すところは、今までも茶の世界は、遊びの茶とか、老後のお茶とか、ただの趣味のお茶とか、いろいろ流行っておりますけども、それはその頃でも同じことでして、そういうふうな茶とは一線を画して、あくまでも心に茶を追究するという、こういう会でありました。ちょうどできたのが、昭和十六年の太平洋戦争の勃発する前夜ですから、この当時は帝国大学ですね、京都帝国大学の学生が茶の湯をするということが、ちょっとした話題になりまして―話題になったというのは、多く非難をする―非難の対象になりました。そして「この非常時に帝大の学生たる者が茶の湯をする。そんなものをするとは何事か」という非難の声が轟々とあがって、それが新聞などにも取り上げられたという状況でした。しかし久松先生及び創立に係わった人々は、そういう非常時であるからこそ人間にとってもっとも普遍的なものを追究しなければならない。茶の湯によってそれを追究するという強い信念をもってやっておりましたので、そういう非難はすべて排除をして、そして幸い当時の大学の総長、学生課の主事などが、このことに非常に共感をもってくださって、大学の茶道部としては、周囲の状況は厳しかったけれども、恵まれたスタートを切ったと思っております。そしてこの会は毎週一回、裏千家に行って坐禅の稽古をしておりましたが、この時ももう戦争の末期になりますと、空襲警報が発せられる。警報のサインが発せられるその中で、文字通り明日のいのちも知れないという一期一会(いちごいちえ)の稽古をしておりました。そういうことをよく先輩のみなさんから伺っております。
 
有本:  当時倉澤先生が参加された頃、京都大学の心茶会のメンバーというのは何人ぐらいいらっしゃったんですか。
 
倉澤:  心茶会は、スタート以来、会員に、いわば背番号を付けておりまして、私が一○一番になります。私は、できてから十何年か経って、のち昭和二十九年に入りました。その時点で一○一番です。
 
有本:  背番号が付いているとは面白いですね。その裏千家でお茶を点(た)てて、坐禅をして、で、お話もお聞きするわけでございますか。
 
倉澤:  裏千家にまいりますと、先ず坐禅をするわけですね。その坐禅は、利休堂―今日は御祖堂(おそどう)と言っているようですが、その利休堂に入って坐禅をする。狭いから正座でするわけですね。その時に、時々久松先生のお話がありました。例えばこんなのがあったですね。古くから茶の方で詠われている道歌に、
 
茶の湯とはただ湯をわかし茶を点てて
  飲むばかりなるものと知るべし
 
こういう歌があります。お茶を点てて飲むだけのものが茶の湯だということですね。ところがこれとは別に、
 
茶の湯とはただ湯をわかし茶を点てて
  飲むばかりなる本(もと)を知るべし
 
「ものと知るべし」じゃなくて、「本(もと)を知るべし」というのがある。その二つの歌を引き合いに出されて、「もとを知るべし」という「もと≠ニは何か。それをよく考えなさい」という。答えをおっしゃらずに、そういう問題を提起されたことがありますね。これは一例で、そういった示唆に富んだお話をよく伺いました。
 
有本:  言葉は大変優しいようですけれども、大変奥の深い深みのある表現なんでございますね。で、五十五歳で学道道場を設立ということですが、心茶会は京都大学の学生さん中心ということですが、これは広く門戸(もんこ)を開くわけでございますか。
 
倉澤:  最初は京大の学生で結成しました。しかし後に一般の方も参加して頂くというふうに変わってまいりました。特に学道道場が、「FAS協会」というふうに名前を変えました頃から、積極的に一般の方々にも門戸を開放してお入り頂くというふうになっております。
 
有本:  その「FAS」ですが、どういうことなんでございますか。
 
倉澤:  「FAS」と申しますのは、「F」と言いますのは、英語で申します「Formless Self」形のない自己ということですね。先ずもって我々は形のない自己、言い換えれば本当の自己に目覚めなければいけない。これが「F」です。それから「A」は、「All mankind」全人類ということですね。我々は行動し、ものを考える時に、全人類の立場に立たなければいけないという、これが「A」の精神ですね。それから「S」は、「Superhistorical history」歴史創造に参与するということで、歴史の流れの中にただ埋没しているんでなくて、その歴史の流れを外から客観的に見るという、そういう立場から保持しながら、新しい歴史創造に参与していくという、これが「FAS」ということの意味でして、これはそれまでの伝統的な禅の立場は、己事究明(こじきゅうめい)ということを、先ず一番大事なこととしている。これはこれで当然のことでよろしいんですけれども、同時に今の「A・S」の面ですね。全人類の立場に立って、歴史の創造に参与するという、そういう面での積極性が欠けていたという、そういう伝統的禅への批判の意味も込めて、「F」だけでなくて、「A・S」ということを強調された。これが「FAS」ということですね。しかしこれは別に伝統禅と違っているということではなくて、伝統禅でずっと継承してきたものを時代に合うように、特に外国人に分かり易いように、はっきりとおっしゃったという性格のものだと思いますが、如何でしょうか。
 
宝積:  そうですね。久松先生の学道道場からFAS協会に変わるということの、非常に久松先生の意気込みがそこに感じられるんですが、ちょうど昭和三十二年から初めて海外に行かれます。アメリカ、そしてヨーロッパ各地、エジプトまで行かれます。キリスト教の聖地でありますエルサレム(イスラエル東部にある都市)までも行かれます。そういうことで、久松先生が、何故FASになったかと言いますと、この東洋的無の精神を、今ここからはもう外国人に必要な時代がきておるんじゃないかということで、これは単なる仏教、あるいは禅そのものではなくして、もっと大きな意味で全人類の立場にとって、この歴史の進むべき道をはっきりと打ち立てていかなければならないという決意なんですね。これは久松先生本人の決意であると同時に、みんながこういう気持で生きていかなければならないという、まさにそこから「人類の誓」の、これは決定的な協会の具体的な発展への道を築かれたと思うんですね。これはアメリカ、ヨーロッパに行って初めてこういう時代がきておるんだという実感をもたれたと思うんですね。FAS協会に名前が変わったのは昭和三十四年のことです、。
 
有本:  三十二年およそ一年間ということでございますけれども、ヨーロッパ、アメリカその他外国をお巡りになって、さらに学問的にも思想的にも視野が広くなったと申しましょうか、さらに大きなものが見えてくるわけでございますね。その「人類の誓」という今お言葉がありましたが、これも先生の教えを紹介したものでございますか。
 
倉澤:  そうです。先生の今言いましたFASの精神を、より分かり易く文章化したものとご理解頂いたらよろしいかと思います。
 
有本:  これは先生の思想と言いましょうか、長い年月をかけての「人類の誓」という文章に纏まるんでございますか。
 
倉澤:  ええ。FAS協会、つまりFASの精神を分かり易く文章化しようということで、先生と弟子たちが集まって協議をしたうえで作ったのがあの文章です。
 
有本:  掛け軸にしてあるんでございますね。
 
倉澤:  先生がご自分でお書きになった自筆の「人類の誓」ですね。
 
有本:  素敵な字でございますね。
 
倉澤:  読んでみましょう。
 
人類の誓
 
わたくしたちはよくおちついて本当の自己にめざめ、
あわれみ深いこころをもった人間となり、
各自の使命に従ってそのもちまえを生かし、
個人や社会の悩みとそのみなもとを探り、
歴史の進むべきただしい方向をみきわめ、
人種国家貧富の別なくみな同胞として手をとりあい、
誓って人類解放の悲願をなしとげ、
真実にして幸福なる世界を建設しましょう。
 
この最初の部分が「F」、後の部分が「A・S」に当たります。
 
有本:  今でこそ国際化、地球規模でものを考え、話をしますけれども、当時この「人類の誓」の文章から非常に先取りをなさっていますですね。
 
宝積:  そうですね。我々仏教徒も「四弘誓願文(しぐせいがんもん)」と言いまして、「衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)」衆生は無辺なれども誓ってどせんことを願う。「度(ど)す」ということは救っていくということですね。世の中を救っていくことを願う。そして二番目に「煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)」煩悩は尽きることなけれども誓ってだんぜんことを願う。そして三番目は、「法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)」法門は無量なれども誓ってまなばんことを願う。この世の真理は学んでいこうじゃないか。そして四番目に、「仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)」仏道は無上なれども誓ってじょうぜんことを願う。仏道は無上なれども遙か遠くにあるかも知れませんが成就していこうと、こういう願いを持たなければならない。つまり仏教の精神というのは、この「四弘誓願文」にあるんですけれども、久松先生は、これを超えて、単なる仏教ではなくして、全人類の立場に立って、男の人にも通ずる、女の方にも通ずる、日本人にも通ずる。ヨーロッパ人にも通ずる、子どもにも通ずる、大人にも通ずる。すべてのものに通ずる。この人類の誓というものを分かり易く説いていかれるわけです。だから単なる仏教精神だけじゃなくして、もっと大きな世界観をここに打ち立てていかれるわけですね。
 
有本:  本当の自己に目覚め、憐れみ深い心をもった人間となれ。本当に表現は優しいんですけども、大変深い思想、今、宝積さんがおっしゃるように、「四弘誓願」これは仏教の教えでしょうけれども、その「人類の誓」は、仏教はもとよりキリスト教も全宗教を包含したという。
 
宝積:  そういうことですね。そして一般社会人、在家の者をも含んで、みんながこのような気持で生きていくならば、この世は非常に幸せな世界を作ることができるんではないんでしょうかと、こういう気持を含んでいらっしゃいますので、これは一般市民への非常に大きなメッセージだと思いますね。この気持がほんとに今まさに大切なことなんです。現代この気持をもっていかなければ、宗教とは一体何か、仏教とは何か。ましてやキリスト教とは一体何か、ということになりますね。我々は、そういうことをやっぱり含めて、やはり深く人間性に目覚めていかなければならないと思うんです。
 
倉澤:  先ほどの「FAS」で言えば、外国の方々も大変理解をなさる。非常に分かり易い。で、先生はお話をなさると同時に、外国人にも分かるように、図をお作りになって説明なさったということなんですが、
 
倉澤:  我々は、これを「無の独楽(こま)」というふうに呼んでおります。FASの精神を独楽に託して、外国人の方に説明しようとなさったですね。今出ておりますように、縦軸に「nothing」です、つまり「無」ですね。それを縦軸にして、猛スピードで独楽が回転している。そして水平方向と上下の三方向に力が進んでいる。下に向かっての力が、「formless self」つまり形のない自己に目覚める。先ほどの「人類の誓」ですと、「よくおちついて本当の自己にめざめる」というところにあります。そして水平方向に働く力が「全人類」。それから上に向かって働く力が「歴史を創る」という。この三方向が無の軸からして現れた、と、こういうことをこの独楽を使って説明なさったわけですね。外国に行かれる時に、この図を持って行って、あちらでこれを使ってFASの精神をご説明なさったと伺っております。
 
有本:  今でこそこういう映像的なものは、どなたもお考えになると思いますが、明治二十二年生まれの先生が、こういうアイディアをお出しになるということは、宝積さん如何ですか。
 
宝積:  新しいあり方、生き方。古いものに拘らずに、それをも乗り越えて、いいものを残しながらそれをも乗り越えて、歴史を創っていくその主体そのものですね。そういうところが伺われますからね。非常に新しい、非常に生き生きとした、しかもみんなに通ずるエネルギーを感じるわけです。このエネルギーは、久松先生は大変なものですからね。非常に大人しい方なんですが、非常に端正な非常に物静かな方なんですが、心は非常に気迫に満ちた、はっきりとしていらっしゃいますから非常に恐いですよね。物事を正しくはっきりと見極めるその精神性ですね。
 
有本:  今もテレビで画面にお写真も何枚か出ましたけれども、和服姿が大変多いようでございますが、お茶を点て、そして静かに座られる。で、お客さんも多いそうですが、いらっしゃるお客さんにお手前をというか、お茶を頂くんだそうでございますね。
 
倉澤:  どんなお客さんが来られても、誰彼の差別なく、ご自分でお手前をしてお茶を点てていらっしゃいました。もっとも大分お歳を召されてからは、身の周りのお世話をしておられた村田心月(むらたしんげつ)さんが代わっておやりになることもありましたけれども、それ以前はいつもご自分でお茶を点てておられたんですね。それもほんとに省略なしにきちっとやっておられたので、中には戸惑われるお客さんもいらっしゃったようです。
 
宝積:  私は僧堂におりました。そして僧堂から休みを頂いて帰る時には、久松先生のところへ必ず寄りましてですね―その頃は妙心寺の山内にある春光院にいらっしゃいました。そしてその後に、室町中立売下ルの方に移転されますけれども、その時にも私、お伺い致しました。それでいつもお茶を頂いたり、そして「修行を頑張っておるか」という励ましを常々頂く。その気持ちが嬉しくて、私はずっと訪ねておりました。長良(ながら)(現在の岐阜市八代)にお帰りになってからも訪ねておりました。だからほんとに心の我が師だと思っております。
 
倉澤:  お茶を点てるのについて、博多円覚寺の住持・龍淵環洲(たつぶちかんしゅう)さんが後に回想しておっしゃいますのに、「先生のお手前は、説かずしてお説きになる法だ」と、こういうふうにおっしゃっておられたですね。言葉はない、そのお手前がそのまま法を説く姿であった。それをいつも自分は伺っていたと、こうおっしゃっておられた。そんな受け取り方をしておられた方もあります。
 
宝積:  その立ち居振る舞いをこちらから眺めておるだけで、それでもう教えが伝わるわけですね。そういう素晴らしい人格をもっていらっしゃったんですね。それがお茶の精神にも自らの生活の中に溶け込んでいらっしゃったんじゃないかと思うんです。
 
有本:  妙心寺の山内に長くお住まいということで、ある意味では寺の方という側面もあるように伺い知ることができるんですが、でも何か教団と言いましょうか、とは距離と言いましょうか、がございましたね。
 
宝積:  そうですね。久松先生は、やっぱり厳しい眼で見ていらっしゃいましたので、「禅の教団そのものは、これからの教団としてはやはり行き方を変えていかなければならない」というふうにおっしゃっていましたので、決して当時の教団を迎合していらっしゃったわけではないです。厳しい眼でやっぱり見ていらっしゃいましたからね。四十年近く妙心寺にいらっしゃいましたけれども、自分はやはり山から下りて、普通の市街地に出て行くという決意をされましたね。これはまさに釈尊が山から下りていくそういう出山の仏にやはり道が通ずるんじゃないかと思います。それは大衆の中に入って、やはりこの自分の誓いをみんなとともに歩んでいこうということですから、やはりある意味では教団から離れて、そしてもう一度教団の勇気をみんな出して貰いたい、というふうにみていらっしゃったと思うんです。私は、それはほんとにそう思っておりますね。
 
有本:  教団の方々の中には、随分煙たいなという方もいらっしゃったんではないですか。
 
宝積:  そうしてですね、この妙心寺の管長になられた山田無文老師は、久松先生の教え子でもあるんです。花園大学の前身、臨済宗大学の時の生徒でありますので、その山田無文老師が妙心寺の山内の霊雲院に入られたということは、老師自身も久松先生を非常に高く評価していらっしゃいました。これからの仏教者はこうなければならないということで、この山田無文老師も革新的な禅者として、この時代に生きていかれるわけです。これはやはり久松先生の教えというものが、そういうところに通じているんじゃないかと思うんですね。
 
有本:  倉澤先生のお書きになったものの中に、「久松真一さんは人間の達人である」という表現をお使いでございますが、この人間の達人であるというのは、具体的にどんなところなんでございますか。
 
倉澤:  例えば宮本武蔵のような剣の達人というのがおります。佐々木小次郎も剣の達人でした。そういう剣の達人は、しかし剣というその場を離れてしまいますと、達人でも何でもない、普通の人間になってしまうということが多いですね―宮本武蔵は違ったかも知れませんが。茶の場合でもそうです。茶の達人と言われている人が、普通の生活に入ったら、俗人とまったく変わらないというですね。こういうんでなくって、人間としての一挙手一投足が、それが達人の境地に入っている、こういう意味ですね。例えば水泳をするという時に、水泳についてのたくさんの知識があっても、知識だけでは泳げない。水泳をするについては、水泳をするコツというものがありますね。コツを会得しますと、何も知識がなくっても泳ぐことができる。このコツを会得した人が達人ということになります。久松先生は、その人間としてのコツを会得しておられた、そういう意味で達人だと思いますね。それから先生は、また書の面と茶の面で抜群の力量を発揮されました。これは先生は、書の達人、茶の達人と言ってもいいと思います。そういう書の達人であり、かつ人間の達人であるというのを、これを「名人」と称するわけです。ただの達人でない、二つの、書なら書という芸の達人で、かつ人間の達人、そういう人が初めて「名人」という。久松先生は、書の名人であり、茶の名人であったと言えると思います。
 
有本:  今お話のように、書もたくさん残していらっしゃるようですが、ごく一部ですけれども拝見したいと思います。これは何とお読みするんですか。
倉澤:  先生の書を読めないということで、みなさん苦労していらっしゃいますが、これは「任運(にんぬん)」と読みます。「任(にん)」まかせる「運(うん)」運まかせということですが、読み方は「にんぬん」と読みます。
 
有本:  宝積さんも大変達筆家でいらっしゃいますけども、ご覧になって如何でございますか。
 
宝積:  久松先生の字は、非常に鋭い執筆ですので、非常に線が生き生きとしておりますね。ここに久松先生の精神そのものがやっぱり伺われるんじゃないかと思いますね。
 
有本:  精神が籠もっている。
 
倉澤:  それでよく「先生の書は、禅の書としてはいいかも知れないけれども、いわゆる書としてはよくない」というふうにいう人が稀にあります。しかし客観的に見て、先生の書は書道の歴史の中でも非常に高い峰に位置するものだと思います。
 
宝積:  言葉は禅語が非常に多いということですね。これは「道(どう)」。いわゆる禅の言葉から見た「平常心是道(へいじょうしんこれどう)」―道とは一体如何なるものか、というところですね。
 
有本:  私、これ拝見致しますと、大変力強さを感じますけれども、同じ「道」でも力強さを感じる「道(どう)」もあれば、その他何枚も「道」というのはお書きになっていらっしゃるでしょうね。
 
倉澤:  たくさんあります。おっしゃるように、その書の風は、それこそ任運自在その時に応じていろいろさまざまなものがあります。
 
有本:  さて年譜に戻りまして、最晩年のお話を伺おうと思いますが、
 




 



 寂
 

昭和四四年
   四九
   五五

 

 「久松真一著作集」刊行開始 
  岐阜市に転居(八五歳)
  岐阜市の自宅で示寂、葬儀なし(九一歳)

 
 
京都から生まれ故郷にお帰りになるわけですね。それが昭和四十九年、八十五歳の時でございますね。で、その岐阜に四十九年にお戻りになって、亡くなるまでいらっしゃるわけですけれども、先ほど時々岐阜までお訪ねしたというお話でしたけれども、病気などはなさらないんですか。
 
宝積:  いいえ。晩年やはり病気をされましたですね。
 
有本:  でも病気に打ち勝つというか、病気に負けてなるものかという。
 
宝積:  そうですね。そういう精神でいらっしゃいましたから、寝込んでしまうということはなかったようですね。
 
有本:  しかし人間の達人という、先ほどのお話ではありませんが、ご自分の死を意識なさるというのか、何か遺言的なものをお遺しになったんでございますか。
 
倉澤:  先生はいつも、「私は死なない」というふうにおっしゃっておりましてね。しかし肉身としての先生は、これはやはり死ぬことがあるわけですから、それを予期して「遺詠(いえい)」を遺していらっしゃいました。ちょっと読んでみますと、
 
遺詠
形無き自己に覚(めざ)めて
不死(ふし)で死し不生(ふしょう)
生れ三界(さんがい)を遊戯(ゆげ)
 
今更に死すとや誰か
云ふやらむ
もと不生なる我と知らずや
 
我死すも引導(いんどう)追薦(ついぜん)
(そう)無用(むよう)むくろを
荼毘(だび)て骨なひろひそ
 
わが墓碑は碧落(へきらく)に建て
碑銘をばFASと
深く彫(きざ)まむ
 
大死(たいし)せば来るにや及ぶ
今其処(そこ)でそのまま
真の臨終(りんじゅう)あはなむ
 
有本:  先ほどの「FAS」で言えば、形なき自己に目覚めてですね。随分長いと申しましょうか、遺詠ですけれども、これもやはり何年かおかけになって完成された遺詠なんでございましょうね。
 
倉澤:  一つ一つは、それ以前から作っておられたわけですね。そしてそれを纏めてお書きになったのは、岐阜に行かれてから、もう亡くなられる一、二年前です。
 
有本:  確かに、私は、先生もご自分の死を意識なさるというようなことを申しましたけれども、「不死で死し不生で生れ」凄い表現ですね。そして「わが墓碑は碧落に建て」青い空にということですか。そしてご自分のお教えでもありますし、全地球規模と言いましょうか、「FASと深く彫まむ」これもよろしいですね。
 
倉澤:  そして一番最後に「大死したら自分の臨終に来なくてもよろしい」ということをおっしゃっておられるわけですね。これは弟子どもにとっては大変恐ろしい言葉です。大死したら来なくてもいい。来る奴は大死していないんだという。そんな言い方になるわけですね。私は、しかし師の言葉に背いてノコノコと出掛けてまいりましたけれども、宝積さんは、流石に行かれなかったそうですね。
 
宝積:  私は、昭和の三人の三大居士としまして、久松先生のお師匠さんであります西田幾多郎先生、そしてその友人でもあります鈴木大拙(すずきだいせつ)先生、そして久松真一先生、この三人が、いわゆる昭和の三大居士として非常に大きな意味をもっているんじゃないかと思うんですね。というのは、この西田幾多郎先生は、禅の哲学者として本当に大成されました。そして鈴木大拙先生は、アメリカ、ヨーロッパを渡って、禅の思想性というものをほんとに中心として活躍されました。久松先生は、この禅の文化、芸術として、そしてそこから東洋の心というものを、ほんとに地球規模でみんなと一緒に考えていこうと、この三人の精神性というものが同時代に生まれてきておるという。この三人をもって、お互いに働く世界に通じていらっしゃったんじゃないかと思うんですね。この世界を見逃すことができない世界観ですね。それを私は久松先生はほんとに見抜いていらっしゃると思うんですね。
 
有本:  「昭和の三大居士」ということですが、間もなく二十一世紀、ほんとに久松真一さんの教え、もう地球規模で物事を考えなければいけないということなんですが、平成の今、私たちは、先生の教えから何をこう受け止めたらよろしいんでございましょうか。
 
倉澤:  一人ひとりめいめい、受け取るべきことが違うと思います。しかしここで我々考えなければならないのは、おっしゃるように二十一世紀を迎えるに当たって、我々はどのような生き方、どのような考え方をもつべきか。その点について先生の教えられることは、このうえなく深いと思います。
 
宝積:  久松先生の教えを、私はこの身をもって今生きておるんですね。だから先生自身が、まだそれこそ私の中に生きておると思っております。師の精神を、私はほんとに強く頂きました。
 
有本:  ほんとに今日はお忙しいところ有難うございました。
 
     これは、平成七年七月九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである