聖典を読む 教行信証
 
                 大谷大学教授 寺 川(てらかわ)  俊 昭(しゅんしょう)
一九二八年、広島県生まれ。一九四九年、東京大学文学部卒業。一九五四年、東京大学大学院(宗教学)修了。一九六六年、大谷大学専任講師、助教授を経て、一九七七年、教授に就任。一九八八〜一九九四年、学長を務める。大谷大学名誉教授、真宗大谷派西願寺住職。著書に「清沢満之論」「歎異抄の思想的解明」「教行信証の思想」「親鸞のこころ」ほか。
                 き き て  谷 口  俊 二
 
谷口:  浄土真宗(じょうどしんしゅう)の根本聖典『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』。これは真宗の開祖親鸞聖人(しんらんしょうにん)が鎌倉時代に初めて世に著したものです。親鸞は平安時代の末期、京都伏見区の日野(ひの)の辺りに生まれました。八歳で親に別れた後、九歳で得度して比叡山に上りました。比叡山では修行に身を励ましながら、自らの救いを求めて、およそ二十年間努力を続けました。しかし救いに至るべき道が見出せず、二十九歳の時に決意して比叡山を離れ、京都中京の六角堂(ろっかくどう)に百日間籠もりました。この参籠の九十五日目に、親鸞は、救世(ぐぜ)観音が自分に語り掛けるのを聞いて、これに励まされて法然を訪ねて行きます。当時法然は、京都東山の草庵で貴族や武家、一般大衆の間に念仏往生の教えを弘めて非常に大きな感化を与えていました。親鸞は法然と出会った感動のうちにその門下となり、そのもとに浄土の教えの研究に打ち込んでいきます。しかし三十五歳の時、図らずも法然の運動への弾圧である承元(じょうげん)の法難(ほうなん)に連座して、親鸞は越後に流されました。五年後、その罪は赦され、親鸞は関東に赴いて教化に身を捧げながら、この『教行信証』全六巻を書き始めたと言われています。「聖典を読む」シリーズ、今日は親鸞の『教行信証』です。大谷大学教授の寺川俊昭さんにお話を頂きます。
寺川さん、親鸞と言いますと、私どもは先ず『歎異抄(たんにしょう)』というのが、先ず頭に浮かんでまいるんですが、『歎異抄』というのは、のちに親鸞の言葉を集めたということで、親鸞自身の著書ではないということですから、この『教行信証』が親鸞のもっとも大きな著書ということになるわけですね。
 
寺川:  はい。おっしゃる通り、『歎異抄』と違いまして、『教行信証』は、全体が漢文で書いてございまして、いわば堂々たる大乗仏教の論文、こう理解していい著作と思います。
 
谷口:  漢文で書いてあるということで、私どもには非常に取っ付きにくいもののように思いますけれども、
 
寺川:  おっしゃる通りですね。確かに取っ付きにくいのでありますけれども、同時に「教行信証」という題そのもの、これは実は略称でございまして、正式の題は、内容に相応しくかなり厳めしい題でございます。「顕浄土真実教行證文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)」読み下しますと、浄土の真実の教行證を顕すの文類。余程厳めしい題ですね。その中にあります「教行證」―教・行・證。證は悟り、あるいは真理に照らされるぐらいに理解しておきたいのですが、これが普通の言葉でいう仏教ですね。仏教を「教」と「行」と「證」こういう言葉で表すのです。それに「浄土の真実の」という言葉を添えておりますが、先ず注意をしたいのは、真実の仏教を明らかにしたい。
 
谷口:  本当の仏教とは何か、
 
寺川:  そういうことなんです。さまざまな仏教があるけれども、本当の仏教は何か。このことを一つ明らかにしたい。こういう願い―情熱と言ったらいいんでしょうか、そういうものをもって、親鸞はこの本を書いた。こう理解をしていきたいですね。もう一つ、『教行信証』は、その最初にかなり長い序文をもっております。最初にありますので、全体の序という意味で「総序(そうじょ)」と呼んでいるんですが。
 
谷口:  前書きと考えてよろしいですか。
 
寺川:  そうですね。その総序の中に、親鸞は『教行信証』を書く自分の立場なり、願いを、次のような言葉で述べおります。先ずそれを見て頂きましょう。
 
ここに愚禿(ぐとく)釈(しゃく)の親鸞、慶(よろこ)ばしいかな、西蕃(せいばん)・月支(がっし)の聖典(しょうてん)、東夏(とうか)・日域(じちいき)の師釈(ししゃく)、遇(あ)ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信(きょうしん)して、ことに如来の恩徳の深きことを知りぬ。
 
こう述べますね。そこに「西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈」という言葉がありました。これに私は非常に心を引かれるんです。「西蕃(せいばん)」というのは、インドとお考えください。「月支(がっし)」は、大月支国(だいげっしこく)という国名がありましたように、現在のシルクロードがございますでしょう、その周辺の国々。西域の国々ですね。そこに出た勝れた仏師教者の書いた本。「東夏(とうか)」というのは、中国です。「日域」は勿論日本ですから、親鸞は、インド、中国、日本、こういう広い視野―現在の言葉で言ったら「世界」と理解していいんじゃないでしょうか。親鸞は、確かに平安時代の終わり頃の日本に生まれた人です。そして非常に日本人的な性格を強くもった人とも言いますけれども、しかし仏教を明らかにしていこう。こういう願いをもった時に、インドでも一つの大きな世界でしょう。中国も堂々とした一つの世界ですわね。そういう現代の世界というような視野、あるいはそこに生きる人類、こういうようなものを視野の中に置きながら、人間が何によって生きていくのか。真実の道を求め、そして明らかにしていこう。気宇広大と言っていいんじゃないでしょうか。親鸞の見識、あるいは視野はね。それと浄土の真実の教行証とこう申します。これ具体的に申しますと、法然の仏教をさしているんです。さまざまな伝統をもつ仏教の中で、自分が法然という人の身をもって明らかにした仏教、これを真実の仏教として世の人々に捧げていきたい。当然『教行信証』そのものについても、私は、この『教行信証』を、自分の師―先生である法然に捧げたい。こういう気持さえ込められているんじゃないでしょうか。
 
谷口:  非常に強い法然への思いというものが、題名まで表れてきているという。
 
寺川:  そういうことですね。無条件の信頼と言っていいほどの、大きな尊敬、あるいは信頼を、親鸞は法然に捧げて抱いていた、と強く感じます。
 
谷口:  そこで親鸞と法然との出会いということになるんですが、これはもう今お話にあった通り、親鸞の一生を決めてしまう出来事だったわけですね。
 
寺川:  おっしゃる通りですね。「法然がなかったら親鸞はない」と言っていいほど、法然という人との出会いは、親鸞の人生にとっての決定的な出来事だったでしょう。むしろ「親鸞のいのちは信仰だ」とこう言いますけれども、親鸞はむしろ信仰を語ります時には、必ず「自分は大切な師に会うた。会うて信仰を頂いたんだ」と、師の恩恵を常に語りますから、よほど大きな意味を法然に対してもっていたんではないでしょうか。『教行信証』は、さっきの「総序」前書きとともに、最後に「後書」と言ったらいいんでしょうか。普通の「後ろの序」と書きまして、「後序(ごじょ)」と呼んでおりますが、後序をもっておるんです。ところが後序を読んでみますと、全部が今の法然との出会いを述べているんですね。しかも月日までありまして、「何月何日、法然に会うた。こういうことがあった」こう述べましてね、法然との出会いを結ぶ、そこに「仍って悲喜の涙を抑えて由来を縁を註(しる)す」こういう言葉で結ぶんです。親鸞が『教行信証』を書いたのは、よほど晩年でありますけれども、若たっか時、私は法然に会うた。こんなこともあった。こんなこともあった。あの頃のことを思うと、今でも涙が零れてくる。こういうふうな言葉、非常に感慨深い言葉で法然との出会いを後序に記すんですね。ところが後序の特色と言いましょうか、『教行信証』の特色というべきでしょうが、「私は法然と、このように出会うた」こうは書いていないんです。そうでなくて、法然との出会いによって、私は何を得たか。これを述べているんです。その言葉は後序では、大変有名な親鸞における信仰の確立を表す言葉と理解されている言葉ですが、
 
しかるに愚禿(ぐとく)(しゃく)の鸞(らん)、建仁辛酉(けんにんかのとのとり)の暦(れき)、雑行(ぞうぎょう)を棄(す)てて本願(ほんがん)に帰(き)す。元久乙丑(げんきゅうきのとのうし)の歳(とし)、恩恕(おんじょ)を蒙(かぶ)りて『選択(せんじゃく)』を書(しょ)しき。
 
「建仁辛酉の暦」というのは、建仁元年、親鸞二十九歳ですね。「元久乙丑の歳」これは元久二年でありまして、親鸞が三十三歳の年です。この年に法然の主著である『選択集(せんじゃくしゅう)』を法然の許しを得て、自分は書き写した。そこに自分は大きな使命、『選択集』に応えていくという大きな使命を頂いたものであります。こういう意味の言葉です。親鸞を考えていきます時には、絶対に踏まえておくべきもっとも重要な言葉の一つ、私どもはこう理解をしております。
 
谷口:  その「雑行を棄てて本願に帰す」という、これはどういう意味なんでしょうか。
 
寺川:  雑行(ぞうぎょう)―雑多な努力、こういう不純粋な行(ぎょう)というぐらいの理解をしたいんですが、その言葉で親鸞は何をもっていただろうか。先ほどお話がありましたように、少年時代、比叡山に上った親鸞は、二十九歳の春まで比叡山におります。いわば少年期から青春、青年期、それを比叡山で過ごしましたですね。そこで救いを求めて、おそらく模索したと思います。その実感ですね。雑行―あの道にも努力した。この道にも努力して迷うたと。あれこれ迷ってきた。それを今自分はきっぱりと棄てることができた。こういうような意味ですね。
 
谷口:  過去二十年間の苦しい努力についての何か関わりと言いますか、拘りみたいなものが取れたというふうな、
 
寺川:  そう理解していいと思いますね。あるいは青春をかけた自分の救いを求めての努力の総決算と理解してもいいと思うんです。人間がもっとも多感な青春期でしょう。親鸞は非常に鋭い感覚をもった人ですから、やはり我々もそうであるように、青年期の親鸞も随分悩み生きることに苦しんだろうと思います。ところがそこが親鸞の面白いところなんですが、青春期をかけた救いを求めての模索の中で、何を親鸞は得たのであろうか。現在のイメージで言いますと、当時の比叡山は一種の大学ですから、学びの場、修行の場、こういう性格を強くもっております。
 
谷口:  やはりエリートの集まるところ、
 
寺川:  そういう一面もございますね。叡山の人すべてがエリートとは言えないでしょうけども、そういう人も随分多くいたでしょう。そういう人と伍して、交わって競争社会、こういう一面もありましたでしょう。ある人はときめいていく、つまり栄達していく。親鸞は、日の当たらない場所で、なんかくすんだような自分を見出して悶えたかも知れません。現代の感覚でいうと、多少落ち零れ的な、そういうものもあったかも知れませんが、私は、「雑行を棄てて」こういう親鸞の言葉を聞きますときに、何か孤独に陥って悶えている人。誰も自分を助けてくれるものがいない。孤独の中に沈んで、しかしながら、救いを救われたい。けども、その道が見出せない。その努力の中で疲れ果てていく。あるいは生きることに傷ついていった。こういうのが親鸞の青年時代の姿、というものじゃなかったんでしょうか。私は、「雑行を棄てて」この短い三文字の言葉に、今申し上げましたような苦渋に充ちた青年期の親鸞の遍歴を感じております。ところが親鸞が、先ほどご説明がありましたように、比叡山を棄て、そして六角堂に参籠致します。それは今『教行信証』にふれてありませんので、省略致しますけれども、その中での観音菩薩の夢の告げ―夢の如く語り掛けてくれた言葉、これに励まされて、現在知恩院がある辺り、そこに法然が草庵を結んでおりましたから、そこへ今の六角堂から朝早く親鸞を訪ねて行く。法然を訪ねて行きましたんでしょう。そして法然の語ってくれる言葉を聞いて―『歎異抄』はそれを、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」という言葉で伝えております。「念仏しなさい。そして阿弥陀如来に救われなさい」と、法然がこう言うてくれた。その言葉に、親鸞がとっても大きな感動を覚えまして、心が開かれた。それを「本願に帰す」という言葉で語った。こう理解されてまいります。
 
谷口:  といいますと、「本願に帰す」というのは、今分かり易い言葉に直しますと、どういう今の言葉だと考えればよろしいですか。
 
寺川:  大事なことですね。「本願」これは親鸞の仏教でもっとも大事な言葉ですね。私たちは親鸞の仏教を性格付けますと、「本願の仏教というべきだ」と、こう理解をしているんですが、今言った、「ただ念仏して阿弥陀様に救われなさい」こう法然がいうてくれましたでしょう。その阿弥陀如来、これが我々は人生に苦しむものだ、苦悩する人間だ。その苦悩する我々を救おうとする如来の大きな慈悲ですね。「大悲(だいひ)」こういう言葉で表しますが、その「大悲の働きかけ」これを「本願」という言葉で表すんです。我々に掛けられている大きな如来の慈悲がある。その慈悲の働き、これが本願。自分が法然の教えに遇うことによって、今初めて、「私は孤独のいのちを一人生きているのではないのだ。如来の大悲の本願、その中に私のいのちが生かされているんだ」こういう大きな目覚め、これを親鸞は得た、こう述べているんです。これは「建仁辛酉の暦」とこうありましたから、親鸞が二十九の時、法然の教えに遇うた時、そこに得たとっても大きな歓び、これが「本願に帰す」でございます。私は、実は法然も同じ体験をもったんです。法然が自分のそういう本当の教えに会うて、心が開かれた、その歓びを「念仏に帰す」という言葉で述べるんです。親鸞は、「本願に帰す」。法然は、「念仏に帰す」と。親鸞と法然とはおそらく同じ体験をもった、こう考えるべきですからね。法然の教えに遇うて、如来の大悲に私は救われていると、こういう目覚めを得た親鸞は、その時法然と同じように、朗らかに南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)≠ニ称えて生きるものになった。いわば新しいいのちに甦った、こういうていいんじゃないでしょうか。それで本願に帰す。親鸞に於ける信仰の確立を述べた言葉、こう読むこともできる非常に大事な一言ですね。
 
谷口:  このように師の法然と出会い、その導きを得た親鸞は、ここで一つ高い宗教的位置に立つことになります。それは法然の教えを通して触れた阿弥陀の衆生救済の誓いを心に深く信じて、その阿弥陀の名を称えて生きること、これこそが衆生の往生の行であり悟りへの道である。これが親鸞が二十九歳の時に達した境地だったことです。
 
寺川:  私は、親鸞の信仰を、あるいは信仰の告白を読みまして、強く感じることが一つあるんです。それは親鸞の信仰、あるいは親鸞がいう仏教ですね、これは人生を生きる道にほかならないということなんです。ですから視点を変えて申しますと、親鸞は、この人生をとっても大事にした人だ。どう生きていくかということをとっても大事に求めた人である、こういう強い印象があるんです。しかし同時に、先ほども申し上げましたように、親鸞は、人が生身をもってこの世を生きること。どんなにそれが辛いことか。どんなに深い悲しみを湛えていることか。よく知っていた人だ、こう思われてならないんです。例えば、先ほどの『教行信証』の総序、そこに親鸞は、自分がその中に生きて、生きることに苦しんだ人生。これを例えば「難度海(なんどのうみ)」「無明闇(むみょうのやみ)」こういう言葉で語ります。「難度海(なんどのうみ)」渡ることが容易ではない海。台風で荒れ狂っている海、これを想像していくことができますね。あるいは「無明闇(むみょうのやみ)」真っ暗な明かり一つない闇、どう生きていったらいいか手探りで生きていく道を模索しなければならない。こういうのは親鸞が苦しんだ人生の譬えですね。
 
谷口:  これが親鸞にとっての人生の実感であると、
 
寺川:  そう思います。よほど苦しんだ人でしょうね。ところが信仰というのは、容易に生き抜くことのできない、暴風で荒狂っている海に譬えられるような人生を、勇気をもって生きていく力、あるいは闇夜の譬えで表すような、生きあぐね、生きることに戸惑う。そういう人生に、行く手を照らす光りとなってくれるもの、これが如来なんだ。あるいは信仰なのだ、こう言うんです。ですから親鸞は、高いところに絶対者として仏様がいる。こういう理解じゃなくて、自分の、今申したような、ほんとに厳しい人生を、力―勇気をもって生きていく。その力となり人生を照らす光り、これが如来なんだ、こういう了解であったんです。
 
谷口:  自分の人生は非常に苦しい、暗いという中で、如来さまの光りをみれば、それを支える力となってくれる、支えるんじゃないでしょうか。
 
寺川:  勿論「支える」と言ってもよろしいですけども、よく言う「心の支え」というよりも、「私のいのちの全体を支える、あるいは背負ってくれている」と、こういうような理解で「支える」というていいと思います。
 
谷口:  何か内から起こってくるような、湧き上がるような力なんですか。
 
寺川:  そう言ってもいいですね、信仰というのは。ですから今おっしゃった内から湧き上がる、こういう点で言いますと、大きな感動なんだと。嬉しいという思いなんだ、信仰と言いますのは。あるいは初めて自分の生きていく確かな道が見えてきたと。そういう意味で「智慧」これが親鸞の理解した信仰と言っていいと思います。
 
谷口:  その位置にというか、例えば如来様のそういった形での存在に気付くとか、出会うとかという辺りが大切なんですね。
 
寺川:  その通りです。先ほど「朗らかに南無阿弥陀仏≠ニ称えて生きるものに、親鸞はなった」と、こう申し上げましたでしょう。「南無阿弥陀仏」これはよく聞く言葉ですけれども、実はこれはインドの言葉ですから、ただ「南無阿弥陀仏」無意味な言葉を言うているんじゃありませんので、今言った如来の大きな愛、大きな慈悲に、私のいのちは生かされている。その歓びを表現した言葉ですから、親鸞が、「南無阿弥陀仏」というインドの言葉を、中国の言葉に翻訳しましたものとして、「帰命尽十方無礙光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」という言葉があるんです。「帰命」帰る命、「尽十方」十方を尽くす。そして「無礙光」障りのない光りである如来。この「南無阿弥陀仏」という言葉の意味ですからね。限りない光りである如来―仏様によって、私は生きていきます、と。
 
谷口:  それが「南無阿弥陀仏」ですか。
 
寺川:  それが「南無阿弥陀仏」の意味なんです。だから「無礙光」「無明闇」真っ暗な人生のその苦しみを破られた明るい光りの中に、私は生かされている、と。そういう歓びが、実は「南無阿弥陀仏」という言葉に託された自覚、こういうものなんです。ですから如来が私を救う。如来の救いを親鸞は、「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」という言葉で表します。「摂取」おさめとって捨てない。現在の言葉でいう「救い、あるいは救済」ですね。けど「如来に救われる」というのは譬えで、「私が頂いた信仰が私を救うんだ」と、これが親鸞の信仰理解の非常に大事な特色ではありませんでしょうか。
 
谷口:  「如来に救われる」というのは譬えであって、自分の中に存在に気付く心が生まれた時に救いが始まる。
 
寺川:  もうちょっと正確に言えば、「如来によって救われる」ということは、私が真実の教えに遇うて―親鸞の場合、法然の教え―に遇うて、初めて光りの中に生きる身に目覚めることができた。それが生きて自分を救う如来の具体的な形なんだ。だから信仰の外に如来があるんではないんで、生きて私を救う仏様は、私が得た信仰として、私を摂取して捨てないんだ。「如来によって救われる」ということは、私が得た信仰によって、私は救われているんだ。ここまで内面化したと言いましょうか、自覚化したというていいんじゃないでしょうか。それが親鸞の「摂取不捨」という言葉で語る非常に大事な信仰の、信仰がもたらす恩恵ですね。そういうのが「本願に帰す」という三文字に表れているんだ。ところが親鸞という人は、非常に粘り強い思索をする人でありますから、そこで止まらないで、もう一つ進めました。それは本願に会うことによって、私は何を得たか。信仰を得ることによって何を得たか。それは如来の救いである。「救いを得た」ということは、どういうことか。これを晩年に作った和讃の中で、次のように詠います。
 
本願力にあいぬれば
むなすく
すぐるひとぞなき
功徳の宝海(ほうかい)みちみちて
煩悩の濁水(じょくすい)へだてなし
(「高僧和讃)より)
 
和讃ですからお読み頂ければ見当がお付き頂けるかと思いますが、「本願力にあう」が、本願力に帰すですね。虚しく過ぎる人はいない。これがとっても大事ですね。親鸞の実感じゃなかったんでしょうか。大切な青年時代を、自分は虚しく過ごしてきた。ほんとに生きる歓び、生命の充実感、こういうものが見出せないままに、苦しい模索の中に自分は生きてきた。その自分が今本願に会うことによって、本当に生きる歓び、生命の充実を確かに得た。これが信仰です。あるいは救いでしょう。ところがその後へ「功徳の宝海みちみちて、煩悩の濁水へだてなし」こういうんです。我々は煩悩、さまざまな欲望、どす黒い欲望、これをもって生きておりますけれども、煩悩を乗り越えて、煩悩を断じて悟りを開く、そういうようなことは親鸞は問題にしないんです。
 
谷口:  そうなんですか?
 
寺川:  生身をもった我々であるから、さまざまな、しかもどす黒い欲望が動く。あるいは噴き上がる。これはどうにもならないんだ、と。
 
谷口:  あって当たり前である、と。
 
寺川:  ええ。当たり前、痛ましいけれども、どうにもならないんだ、と。そこに拘るまえと。勿論本願に遇えば、遇うた本願―如来が、私に如来のいのちである大きな真(まこと)―真実を与えてくれる。煩悩によって、私たちが人生といっているのは、欲望の満足でしょう。あれをしたい、これもほしい。欲望の充足を求めて生きている。これを人生設計であるとか、そういう問題をもった行為ですけども、あんまりそれは惨めではないかと。だからそれはどうにもならんと。それは問題ではないんだから、そういう自分のいのち全体を、痛ましいと自覚させながら、確かに勇気をもって生きる。そういう人生を与えてくれるものが、親鸞が求めて、求めて得た功徳―真ですね、真実―それが如来の恩恵なんです。だから親鸞は、「信仰」と言っておりますものは、「真理を知った、真理の光りに私が照らされている」ここまで言っていいと思うんです。どす黒い欲望によって生きてきた私が、そこにあった人生は虚しさ、これが付きまとって離れない人生なんだ。その私が、如来―本願に遇うことによって、如来のいのちというべき大きな真実によって生きるものになっていくことができた。真理によって生きるもの、こういう自覚を、親鸞は、「信仰」こう言うんです。もうとっても素晴らしい人生観というものじゃないでしょうか。
 
谷口:  広いんですね、受け入れようとするものが。
 
寺川:  はい。
 
谷口:  しかし、その親鸞も、再び非常に不幸な出来事と言いましょうか、法然に対する弾圧に連座して流刑という運命が次ぎに待っているわけですが。
 
寺川:  今おっしゃいました法然の仏教運動に対して、非常に厳しい弾圧が行われます。起こった時の年号を取りまして、「承元(じょうげん)の法難(ほうなん)」と普通理解しております。「承元」というのが年号ですから、承元元年(1207年)に起きた法難―弾圧ですね。法然の仏教運動に対する弾圧です。それに親鸞は連座致します。巻き込まれまして、越後へ流されて行きます。私たちは、何故法然の仏教運動が弾圧を受けるのか。それ大きな問題ですね。それと同時に親鸞の運命にとっても、非常に大きな転機となりますので、法然という人の果たし遂げた仕事、ちょっとこれを考えてみたいんです。法然という人、これは人と言ったらいいのか、一人の仏教者、こう言ったらいのか、仏教者と言うべきでしょうけれども、大きな課題をもった人だったと思うんです。
 
谷口:  どんな課題ですか?
 
寺川:  法然自身もやっぱり生身をもって、この世を生きる人間として、親鸞に先立って、生きることにとっても苦しんだ人です。田舎の武士の子ですけども、子どもの頃父親が殺されておりますから、不幸な生い立ちを背負った少年だったんですね。生きることに悩んだ。悩むことによって、この世を生きている人間の生き様が、どういうものであろうか。私はどういう生き様を曝して生きているのか。法然はそれにとっても敏感な感覚をもった人なんです。少し固い言葉でございますけども、法然の課題を言いますと、「末法(まっぽう)濁世(じょくせ)の凡夫の救いを求めた人」こう言っていいんです。「末法」末世、末の世。人間が生きることがさまざまな意味でとっても苦しい時代、しかもそれは「濁世」濁った世ですから、さまざまな社会悪、人間の無惨さ、こういうものが渦巻いている。そういう生きることがとっても困難な厳しい世。これが私たちの生きているこの世なんだと。そこに我々は、一人の力弱い人間として投げ出されている。人間は決して自分が思うほど強いものではない。とっても弱い、とっても脆いもんだという。それを「凡夫」ただ人、という言葉で表しますね。生きる時代と、そこに生きる人間をよく見た鋭い目だと思います。そういう末法濁世に投げ出された弱い人間である我々が、一体どうしたら救われるのか。こう言えば法然の課題が、どういうものであったかというのは、ご見当頂けるかと思います。それを法然も求め求めて、実に四十三まで迷ったんです。とっても長いです。四十三と言いますと、老年期に入りますから。四十三の時に中国の念仏者の言葉に遇うて、その道はただ一つ、ただ念仏すること。念仏すれば、本願が我々を助けてくれる。親鸞が得た信仰と同じでしょう。「ただ念仏せよ。そして阿弥陀様に救われよ」。ここにしか、さっき言ったような、厳しい世に生きている我々の本当に救われる道はない。これが法然がもった信念でありました。もう一度注意をしたいんですが、法然が、仏教を、信仰を、救いを考える時に、どういう人間をみていたか。「末法濁世に生きる凡夫」これを法然が、その著作『選択集』の中で、例えば「貧窮(ひんきゅう)」という言葉、貧しく窮するですね。「ひんぐ」と読むんですけど、あるいは「困乏(こんぼう)」貧しさの中に困り果てている。あるいは「愚鈍(ぐどん)下智(げち)」愚かで智慧がなくて、言うのは愚痴ばかりと。このような生き様を晒して生きている人間がどれほどいるか。そういう人でない人が一体いるか。人間であって、愚鈍(ぐどん)下智(げち)でない人がいるだろうか。そういう人こそ本当に救われなければならない人だ。その救いはただ念仏、このこと一つだと。これが法然の信念であったんです。それを同じように人生に苦しんだ親鸞は、法然に会うて非常な感激で仰いだんでしょう。この人こそ本当に生きた仏教、これを身をもって示してくれている人だ。こういう感動をもちました。
 
谷口:  まさに親鸞にとっては、言葉は薄っぺらになってしまいますが、ピッタリの方と巡り会ったという感じだったんでしょうかね。
 
寺川:  「会うべき人に会うた」こう言ったらいいんでしょうか。『歎異抄』では、親鸞は、法然のことを非常に個人的な感慨を込めて、「よき人」大事な方とこういうんです。しかし『教行信証』では、少し姿勢を改めまして、法然を「真宗興隆の太祖」こういう言葉で尊敬致します。後序にはその法然を、今言った「真宗興隆の太祖」尊敬しながら、その法然上人の仏教運動が、図らずも厳しい弾圧を受けた。これを次のような言葉でかなり厳しく述べております。読んでみましょう。
 
真宗興隆の太祖源空法師(げんくうほっし)
ならびに門徒数輩(すはい)
罪科をかんがえず
みだりがわしく
死罪につみす
あるいは僧儀をあらため
姓名(しょうみょう)をたもうて
遠流(おんる)に処す
(よ)はそのひとりなり
しかればすでに
僧にあらず俗にあらず
このゆえに禿(とく)の字を
もて姓(しょう)とす
 
大変有名な、おそらく親鸞のことを少し研究なさる方でありませば、よくご存じの言葉だと思います。「僧儀をあらため」というのは、僧侶の資格を奪われて遠流に処せられた。強制的に還俗させられて、自分は流刑に処せられた。法然の門弟が、実は六人ほど流刑になり、四人ほどが死刑になるんですけれども、自分が法然と一緒に流罪となった者の一人である。こういう言葉です。私、これ読みまして、親鸞の非常に大きな責任感が込められているのを感ずるんです。それは何故親鸞は、法然と一緒に流罪となったのか。ただ念仏という信仰を変えなかったからだ。信仰を棄てなかったからだ。それで流罪となったわけでしょう。しかしともに流罪となることによって、逃げも隠れもせず、と言ったらいいんでしょうか、私は法然と信仰をともにする故に、運命を共にした数少ない門徒の一人だ、こういう意味ですから。
 
谷口:  他の大勢の人たちは離れていった人が多かったんですか。
 
寺川:  そういう人もありました。私は最後まで法然に従った。そのことによって真宗―生きた仏教を、日本に興隆した法然のその仏教運動に参加するものの一人であります。こういうのがこの言葉の意味ですから、とっても大きな使命感、あるいは責任感の表明、こうじゃないでしょうか。これが大体『教行信証』を書く親鸞の立場なんです。ところがそこに同時に「非僧非俗(ひそうひぞく)」有名な言葉ですね。流罪によって自分は僧侶の資格を奪われた。だから「非僧」である。けれども、仏教のいのちに触れ、仏教のいのちを生きようとする。こういう意味で単に世俗の中にいるのではない。で、「非俗」と。
 
谷口:  僧でもない、俗でもない。故に「禿(とく)」の字を、
 
寺川:  親鸞が、自分を「愚禿(ぐとく)」と名乗りますね。これはそういう意味なんです。愚かな非僧非俗のものである。よく親鸞のことを、例えば親鸞は結婚致します。そのことを非常に高く評価しまして、「僧侶として初めて公然と結婚をした人」こういうふうに親鸞を評価する言い方がございますでしょう。私は、そうだろうか、と思うんです。親鸞は、今ありましたように、「私は既に僧ではない」こう言った人でしょう。「既に僧にあらず」こう言うんですからね。ですから僧侶―当時の僧侶は出家ですから、現代の感覚で言えば、国家公務員ですから、政府の命令によって僧侶とされたり、その資格を奪われたりするような、そういう僧のあり方は、自分は放棄する。こういう非常に強い姿勢の表明、これを感じます。だから親鸞は、僧侶として生きた人ではない。これはよく腹に入れて理解をしたいと思うんです。
 
谷口:  その「愚禿釈」と自ら名乗った親鸞が、越後の地で民衆の中に入っていくわけですね。しかし彼としては、比叡山は見ています。それから都であった京都も見ていますが、越後のような場所―当時よほど田舎だったと思うんですけれども、そういったところに図らずも流されて、そこで暮らすようになった親鸞というのは、どういう気持で暮らしていたんでしょうかね。
 
寺川:  そうですね。これも親鸞という人を理解します時に、とっても大事な視点だと思います。親鸞は三十五で越後へ流罪となりまして、七年越後で生活を致しました。親鸞は満九十年という人生を生きた人ですけれども、越後時代の七年、これがもつ意味を、私どもは、「群萌(ぐんもう)を見出した時代」と、こう理解をしているんです。「群萌」群がり芽生える。現代の言葉で言います「雑草」でしょう。雑草による人々。私は、「雑草」という時に思いますのは、泥塗れになって生きる者、こういう意味です。越後で都人でない、田舎で生きることが、生きることの目的であるような、虐げられ、惨めな無惨な生活を余儀なくされ、まるで大地を這うように泥塗れになって生きている人々。これを親鸞は改めて見出した。そして同じ「群萌」という言葉で表す、これはお経の言葉なんですが、法然の言葉に従って、「いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり」こう言うんです。小石だ、壊れた瓦だ。邪魔にこそなれ、なんの価値もない、こう見捨てられた人々。これで我だと。で、それを親鸞は、大切な友として交わっていきます。私の友だちだと。その言葉を「御同朋」という言葉で表します。「同」は兄弟ですね。尊敬すべき兄弟、尊敬すべき同志、友よと。そういう人こそ本当に如来によって救われなければならない人。これが親鸞が越後で鍛えられた信仰が見出した覚悟、こう言うべきじゃないでしょうか。
 
谷口:  自らも今の群萌の一人として生きるという覚悟をもつわけなんですね。
 
寺川:  そうなんです。群萌の一人として生きる。そういう覚悟を自分の名告(なのり)に表して、「愚禿である釈の親鸞」こう名告(なのり)ます。「愚禿」は、さっきのような意味ですが、「釈」というのは、釈尊―お釈迦様の弟子という意味ですから、非僧非俗の身であるままに、お釈迦様の弟子とされた親鸞、こういう意味です。これが『教行信証』を書いた人なんです。ですから『教行信証』は、最初に申し上げましたように、漢文で書かれた堂々たる大乗仏教の論文ですけれども、書いた親鸞はどこに立っていたか。田舎の人々、群萌の中に立って、そこに立って、本当に我々が救われる道を明らかにしていきたい。こういう願いが、『教行信証』を生んだ、こういうことになるでしょうか。
 
谷口:  しかし親鸞聖人が、越後の地でそういうふうに、自分は群萌の一人であると言いますね。その越後の人々は、逆に親鸞の姿を見て、都から流れてきたお坊さん、というような目で見ていたかも知れません。その辺りの苦しみみたいなものもあったんでしょうか。
 
寺川:  それは親鸞が直ちに田舎の人々の中に溶け込んだかどうか。これは問題です。おそらく溶け込むに、ある時間がかかったでしょう。やがて、さっき出た「御同朋」ほんとに大事な友よと、こう心が通い合う。そういう世界を親鸞は、やがて移って行った関東の地で切り開いていったに違いない。ですから親鸞は、顔付きからもわかりますように、野(や)に立つ仏者、大衆の中に生きた仏教者、こういうものに流罪を通してなっていった。そこまで親鸞は成長していった、こう理解していいんじゃないでしょうか。
 
谷口:  こう伺ってまいりますと、九つで比叡山に入りますが、ということは、物心が付くか付かないかの頃、ということは、親の愛情というものもよくわからないうちに離れてしまったんでしょうし、非常に生まれた家も貧乏だったと聞いていますけれども、で、比叡山で悩み抜いて、そして法然との出会い。そしてまた越後での辛い生活の中で、やはり親鸞がそういった生活を通して得たことというものが、すべてこの『教行信証』の中に纏められている。集大成されているような部分がありますということは、やはりすべての経験が大事だったと。どれ一つ欠けても、親鸞という方が、今のような形で存在し得なかったかも知れないという。
 
寺川:  その通りですね。親鸞は、何一つ人生にムダなことはないと。すべては自分が正しい信仰に生きる、その導きだったんだと、こう受け止めます。親鸞が得た信仰、これは先ほど、「帰命尽十方無礙光如来」こういう言葉で申し上げましたでしょう。限りない光りである如来によって、私は生きる。「光り」というのは、仏教では「智慧」を譬えます。智慧ですね。そうすると、親鸞は、人間の生き様、殊に田舎の人々の生き方を見ていくと、そこに目を覆うような無惨さがある。何かというと、深い生きることの苦しさと共に、苦しさの中で精神生活が、いわば真っ暗だ、と。闇の中に生きている。脅えなければならない。不安に脅える。その暗い精神生活の闇の中に、自分を、人間を脅かすもの―異体の知れない神々でしょう―そういうものに脅えて生きる。その脅えを、正しい信仰は破ってくれるんだ。こういう意味で親鸞は、正しい信仰は暗い精神生活の脅えの不安を破る力をもつ。『歎異抄』では、「念仏者は、無碍の一道なり」こう言います。私は、親鸞が田舎でよく見た田舎人の精神生活の惨めさ―これは少し現代の視点で言えば、呪術的宗教だったと思います。「呪術」呪いの宗教、それに脅えて生きる。宗教というのは、実は人間をより深い迷いの中に引きずり込んでいる。それが田舎人に生きている宗教の現実ではないか、こう見るんです。正しい信仰は、そういうものから人間を解放してくれる。これが、親鸞が、日本の精神史上でもったとっても大きな意味じゃないでしょうか。呪術的宗教性から人間を解放して、真理によって生きる人間を生み出す。これが親鸞のいのちとした信仰の意味だ、これを思うんです。もう一つ、親鸞は比叡山で学びました。日本の仏教を代表する堂々たる大教団でしょう。同時に、これも現代的な感覚で申し上げますと、自分の大事な青年期を過ごした母校でしょう。母校である比叡山、そこに堂々とした既成仏教、伝統仏教が伝承されている。けども、親鸞は、田舎の中で、本当に法然の教えによって救われる道を得た親鸞からすれば、ここに生きた仏教はない。こういう痛みをもったんです。形は仏教だ。お寺もあり、お坊さんもいる。修行も行われている。堂々とした仏教があるように見えるけれども、実際は仏道のいのちは、もはやここにはない。こういうことを後序の一番最初に、次のような言葉で述べます。
 
聖道(しょうどう)の諸教(しょきょう)
行証(ぎょうしょう)ひさしくすたれ
浄土の真宗は
証道(しょうどう)いまさかんなり
 
この「聖道の諸教」が、比叡山の仏教、あるいは奈良興福寺の仏教ですね。「行証」というのは、人間を救う仏教のいのちです。もう失われて久しい。生きた仏教のいのちはここにはない。それに対して「浄土の真宗」こう申しますのは、法然の仏教ですから、「証道いまさかんなり」仏教の生きたいのち。人間を真理によって生きるものにしていく。そのいのちがここに花開いている。親鸞の悲しみでしょう。そして歓びでしょう。そういう「聖道の諸教」は、奈良仏教だけども、実際は呪術的な仏教に転落して、無惨な姿を晒している。それだから仏教者でありながら、法然の仏教運動を弾圧する。こういう悲劇を演じてしまうのだ。そこにある悲しみに満ちた親鸞の批判の眼。本当の仏教とは何か。あるいは本当の人生を生きる正しい道とは何か。ただ念仏することによって、如来の智慧の中に生きるものになっていく。真理によって生きるものになっていく。こういうことだ、と言うんですね。それを親鸞は、終生(しゅうせい)田舎の人々と共にいて、その人々と共に生きようとした。それが親鸞に触れて、信仰に目覚めた人たちにとっては、忘れられなかったんではないでしょうか。
 
谷口:  そのことについては、
一人いて喜ばば
二人と思うべし
二人いて喜ばば
三人と思うべし
その一人は
親鸞なり
(「臨末の御書」より)
 
一人で喜んでいると思ったら、傍に親鸞がいるよ、という意味ですか?
 
寺川:  そうですね。「一人いて喜ばば、二人と思うべし。二人いて喜ばば、三人と思うべし。その一人は親鸞なり」一人であろうと、二人であろうと、如来に救われる喜びをもつ人がいるならば、親鸞はいつでもそこに共にいて一緒に喜びたい。こういう言葉が、「臨末の御書」でありますから、親鸞の遺言であった。こういう伝承が生まれているんです。
 
谷口:  民衆の中で生きたという、その親鸞の気持ちがよく出ているように思いますね。
 
寺川:  そうです。これは親鸞の言葉ではないんです。後の人が作った言葉でありますけれども、民衆の中に生き続けた親鸞の面影、大変よく表す感銘深い言葉だと思います。そういう法然の教えに遇うことによりまして、親鸞は、人間を根本から救う大きな道に目覚めていった。その喜びを「総序」で、次のような言葉で述べております。最後にこれを読みたいんですが、
 
(ああ) 弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)
多生(たしょう)にもまうあいがたく
真実の浄信(じょうしん)
億劫(おっこう)にもえがたし
たまたま行信(ぎょうしん)をえば
とおく宿縁(しゅくえん)
よろこべ
 
こういう言葉です。
 
谷口:  ちょっと難しいですが、
 
寺川:  「弘誓」というのは、本願ですから、「多生」これは自分がふと思えば、長い間迷うてきた。これが「多生」です。長く迷ってきたその私が、今、「弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)」本願に遇うことができた。それによって真実の清らかな信心を得ることができた。けども、人間が、信心を得ることは容易ではない。容易ではない信心を、私は法然に会うことによって確かに頂いたのだ。その次の「浄信」という言葉も、これは信心です。念仏する信心ですね。「たまたま行信をえば」この貴重な人生の中で、たまたま善き人の教えに遇い、真実の教えに遇うて、念仏する身となり、信仰をもつことができたならば、よほど深いお育ての中に、自分はあったのであろう。自分が信仰に目覚め、如来に救われる喜びをもつことができたんだけれども、思えばどれほど多くの人の恩恵を受けて、私は如来を信ずることのできるものになったことであろうか。一番身近には、法然の恩恵を感じさしておりますけれども、法然だけではない、どれほどたくさんの人が、如来を信じる喜びに生きるものにまで、私を育ててくれたことであろうか。こういう一人の裸の人間としての親鸞の信仰による喜び、これを非常に感銘深く述べた、とってもいい言葉だと。
 
谷口:  感謝を述べた、
 
寺川:  感謝と喜びですね。
 
谷口:  しかし『教行信証』というのが、本来仏教というのは、貧しい人々を救うものだ、という視点に立って、そこに本当の仏教というものを明らかにするために、ここを書いたんだと。
 
寺川:  そうです。本当の仏教は、やっぱり人生に生きることに苦しむ人々を救ってこそ、本当の仏教ではないか。みればこの世には、どれほど宗教という名で、人間の迷いを深めるような宗教が多いことか。正しい信仰によって、如来の智慧と如来の大悲と、それによって生きる、そういう人間になっていく。これを親鸞は強く強く民衆の中に生きながら願い続けていった。『教行信証』は漢文で書いてありますけれども、その狙いから生まれた大論文である。こう私は了解を致したいのです。
 
谷口:  有難うございました。
 
     これは、昭和六十三年三月十三日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである