忍び難きを忍び―山本玄峰の禅―
 
                    全生庵住職      平 井(ひらい)  玄 恭(げんきょう)
                    東京教育大学名誉教授 山 本(やまもと)  光(ひかる)
                    き き て      福 本  義 典
 
福本:  昭和二十年八月十五日の例の終戦の詔勅(しょうちょく)の中に大変印象的な言葉がございましたですね。今日のタイトルにも致しましたようなことで、「時運(じうん)の趨(おもむ)く所 堪へ難きを堪へ 忍ひ難きを忍ひ」という言葉がございます。この言葉が用いられたもとになったと考えられているのが、当時八十歳の禅僧山本玄峰(やまもとげんぽう)(1866-1961)の書簡と言われております。当時八十歳、今日はその玄峰老師の本当になんと申しますか「本物の禅僧、あるいは人生の達人」とこういうふうに言われた人でございますが、その禅と生涯を偲んでみようと、こういうわけでございます。スタジオにお二人の方をお招きしております。東京谷中(やなか)全生庵(ぜんしょうあん)ご住職の平井玄恭さん。ほとんど四十年にわたる長い間、玄峰老師のお側におられた方でございます。それからもう一方(ひとかた)は山本光さん。山本さんは僧侶ではいらっしゃいません。東京教育大学名誉教授でいらっしゃいますが、大変こちらも大きな影響をお受けになった、ということです。山本さんにとって、玄峰老師という方は、どういう方だったんでしょうか。
 
山本:  一言で申し上げるのは難しゅうございますけど、先ず非常に親切で温かい感じのする方というふうなことが一番印象に残っております。例えば、私、二十歳ぐらいの時に、玄峰老師のいらっした三島にお邪魔した時に、お年寄りから聞いた話ですが、沼津に大正年間に大火があったそうですが、その方が申しておられたのには、「火事に焼け出されると、一番不自由するのは履き物だ」とおっしゃって、「ご自分で藁を叩いて、草履を作って、困っている方に差し上げた。その時に、中には老師が作ってくださった草履は勿体なくて履けないから、と言って懐に入れていた人がいる」なんていうことを伺ったことがございます。あるいは取って付けたような親切でなくて、本当に親切な方でしたね。これは先だって七月ですか、九十歳の高齢で亡くなった商船大学の学長をしておられた浅井栄資(あさいよしすけ)(1899-1989)先生のお母さんから伺った話なんですが、浅井先生のお父さんは、玄峰老師のお師匠さんの宗般(そうはん)老師に就いて坐禅をなさった方だそうで、宗般老師がよく浅井さんのところへいらっしゃる時に、玄峰老師は侍者として就いてよくいらっしゃったそうです。それで玄峰老師がよくおっしゃっていたんですが、「儂は本山を首になったって、破門になったって、いっこう困らんぞ。坊主辞めれば、翌日から按摩やって喰っていく。儂は非常に按摩が上手なんだ」ということをおっしゃっていましたけど、それは浅井家にいらっしゃった時に、宗般老師が寝付かれるまで、玄峰老師は按摩をしていらっしゃったそうですが、それが毎晩なんですが、それで浅井先生のお母さんが、「実の親子でも、あんなにはできるもんじゃない」とおっしゃっていた。そんなことを聞いたことがございます。ほんとに心の底から親切な方なんでございますね。
 
福本:  ただ平井さんにとっては、お師匠さまですから優しいばかりではなかったでしょうね。
 
平井:  その反面、厳しいところがございましたね。
 
福本:  やはり相手が僧侶であるとないとではやはり違いましょうね。
 
平井:  しかし僧侶に対してでも非常に優しい親切なところはございましたね。それは僧侶だけではなくって、毎晩老師の部屋へ行きますと、何か独り言を言っておられるんですね。何を言っているのかなと思うと、ネズミに向かいましてね、「お前たちは、先祖代々この山に住まっておって、儂は余所から来た余所入りだが、まあどうぞ今晩もよろしく頼むよ」と言って、ネズミにね。そして夕方行くと、「やってくれたか」と言うんですね。それは何かというと、「ネズミに餌をやってくれたか」と言うんですね、我々に。そしてネズミにちゃんとネズミ用のお皿がありましてね、それに米を入れて、そしてネズミに、「お前さんたちは先祖代々ここで住んでおる。儂は余所入りだから一つよろしく頼むよ」と言って、真剣になってそう言っておられる。ですからしてそれは人間だけではなくって、ネズミやあらゆる動物に対してもそういう気持をもっておられたんでしょうね。
 
福本:  最初にお会いされたのはいくつ頃でしたか?
 
平井:  玄峰老師との縁は、高知土佐に雪蹊寺(せっけいじ)という寺がございまして、私が六歳の時、大正十四年に、雪蹊寺に小僧にまいりました。雪蹊寺は、玄峰老師が明治二十三年に得度出家された寺でして、私が雪渓寺に来ました時には、玄峰老師は既に雪蹊寺を出ておられましたけれども、年に一回は必ず師匠の太玄老師の墓参りに帰って見えたわけです。私は昭和十八年の五月に三島の龍沢寺(りゅたくじ)の玄峰老師のところへ修行に行って、そして三十四年まで、十六年間は四六時中老師と一緒に寝起きしておったわけですね。
 
福本:  先ほどちょっと触れたんでございますが、終戦の詔勅の中に「忍び難きを忍び」という、あの言葉の本(もと)が老師のお手紙の中にあるという、この辺の話をちょっと聞かせて頂きたいんですが。
 
平井:  これちょっと長くなるかも知れませんがね、四元義隆(よしもとよしたか)(右翼、実業家。元三幸建設工業社長。政界の指南役。血盟団のメンバーの一人。近衛文麿、鈴木貫太郎首相秘書を務め、戦後は政界の黒幕的な存在として歴代総理、特に中曽根康弘、細川護煕政権では「陰の指南役」と噂された:1908-2004)と言われまして、現在でもそうでございますが、歴代の総理大臣のご意見役のような方がおられましてね、この方はもともと血盟団(けつめいだん)―東京大学を卒業されまして、昭和の初めに井上日召(いのうえにっしょう)という血盟団があった。それに荷担せられまして、十何年刑務所におられたんでしょうね。それで昭和十六、七年頃に出て来られて、そして龍沢寺へ来て玄峰老師の元で修行をしておられる。私、終戦当時、四元(よしもと)さんは近衛さんの非常に知遇を受けまして、翼賛壮年団の幹部をしておった。そして四元(よしもと)さんは何とかして早く戦争を終結しなくちゃいけない。その任にあたるのは誰がいいか、と思って、当時の重臣を個別に訪ねられたらしいですね。そうすると鈴木貫太郎(すずきかんたろう)(海軍軍人、政治家。階級は海軍大将、爵位は男爵:1868-1948)さん以外にはない。枢密院(すうみついん)議長をしておられました鈴木貫太郎さんが一番適任であるということに気が付かれまして、まあ自分だけでは説得力がないので、それで玄峰老師に、「是非鈴木さんを総理大臣になって、戦争を終結するように勧めて貰いたい」と、そう言った。玄峰老師を鈴木さんのところへ案内して行かれたんですね。その時に玄峰老師が開口一番、「あなたは非常に正直な軍人であって、政治には向かないお方だけれども、もう今日のような時代には、あなたがお出(い)でにならなくちゃいけない。日本は相撲で言うならば大関みたいなものだ。負ける時には、サラッと負けて、もうことここに至っては、負けて勝つということを考えなくちゃいけない。負ける時にはさらっと大関らしく負けて、そしてその後の再建を考えなくちゃいけない。それにはあんたが一番適任であるから、どうしてもあなたが一つお出(い)でになって頂きたい」そう言って勧められたんですね。そういうと、どういう仕組みになっておりましたもんですか、一週間か十日の後に、鈴木貫太郎大将に大命降下(たいめいこうか)(大日本帝国憲法における憲法慣例の一つ。内閣及び内閣総理大臣の決定方法が明記されていない同憲法下において、天皇が元老や重臣会議などの推挙に基づいて、内閣総理大臣候補者に対して組閣を命じることである)しまして、総理大臣になられた。これは昭和二十年の四月頃の話ですね。そして八月の確か十二日頃であったと思いますが、朝雨の酷い日に、一人の青年が朝早く龍沢寺を訪ねて来ましてね―その当時、私は玄峰老師の侍者をしておったんですが、「是非玄峰老師に直接お会いしたい」と、そういうものですから、老師のところへ案内をしましたところが、老師は、早速手紙を書き出しましてね、「この人はすぐこれから東京へ帰らんならんから、朝早いけれども、朝飯を食べさしてあげてくれ」そう言って、老師は自分で手紙を―当時大事な手紙は老師は自分で書かれましたが、まあほとんど私や宗淵(そうえん)老師が代筆をしておりましてね。しかし老師は自分で手紙を書かれて、それまであまり自分の手紙を人に見せたことはなかったんですが、老師は、「これは非常に大事な手紙で、もしあまり字が間違ったり、文章の意が届かないと悪いから、お前、一度見直してくれ」と、そう言って私に見せられましてね。それで拝見してみますと、「忍び難きをよく忍び 行じ難きをよく行じ」という言葉がありました。話は前後しますが、これは結局、鈴木総理が四元さんを介しまして、「老師がご心配くださっておりました、いよいよ戦争終結をすることになりました」と言って、十二日ぐらいでしたね、書簡を松岡という青年が持って来られた。それに対する返事を老師が書かれて、そしてそれを拝見していますと、「いよいよ戦争終結することになって結構なことだ。しかしあなたの本当のご奉公はこれからであるから、まあ忍び難いをよく忍び、行じ難きをよく行じて、一つ身体に気を付けて、今後の日本の再建のために尽くして頂きたい」そういう手紙でございまして、それを四元さんを介して鈴木(総理)さんのところへ届けられたわけですね。それですから、四月に玄峰老師が、鈴木貫太郎大将に、「あなたがひとつ出て、大関らしくあっさり負けて、そして負けて勝つということを考えなさい」この言葉が非常に鈴木さんの力になり、頼りにしておられて、それを戦争終結を一刻も早く玄峰老師に知らせたい。そう思って老師のところへ寄越された使者だったんでしょうね。果たしてこの言葉が終戦の詔勅にそのまま使われたかどうか知りませんけれども、まあおそらくこれは鈴木さんにとっては、非常に意義の深い、感銘の深い言葉であり、それが影響したと言ってもいいと思いますね。この言葉は、玄峰老師が創られた言葉ではなくって、達磨さんの言葉に、「忍び難きをよく忍び、行じ難きをよく行じて、修行をせよ」という有名な言葉があるんです。それを引いて玄峰老師が手紙の一節に書かれたわけですね。これが巷間(こうかん)伝えられておるところですね。
 
福本:  修行時代ということで、少し時代が遡りますけれども、山本さんが初めて三島の龍沢寺をお訪ねになったのが、まだ当時は一高の学生の時でいらっしゃったんですね。
 
山本:  そうです。
 
福本:  何で突然いらっしゃったんですか。
 
山本:  これは先ほど申し上げた商船大学の学長の浅井栄資(あさいよしすけ)先生、あの方もおっしゃっていましたけど、「どうも商船学校へ入って、閑があると本を読み過ぎて、神経衰弱になって、お父さんが、龍沢寺へ行け≠ニ、勧められて行った」ということをおっしゃっておりましたけど、私も似たようなことでして、高等学校理科へ入りながら、社会科学の本とか、哲学の本とか、そんなものを読みますと、まあ悪い頭でそんなものを読んでもわかるわけございませんで、それこそどうしていいかわからなくなってしまって、まあいろいろと、〈これは宗教でも縋るよりほかしょうがないか〉と思ったことがございまして、周囲にクリスチャンなんかで立派な方もおられたもんですから、いろいろと伺ったんですが、どうもはっきりわからないんで、もういっそのこと本も棄ててしまって、自分で考えるほかしょうがないと思いまして、ぶらぶらしておりましたら、紹介してくださる方があって、龍沢寺へ伺ったわけなんです。それが昭和三年の暮れだと思いますが、当時老師は、尾州(びしゅう)犬山(いぬやま)瑞泉寺(ずいせんじ)の復興で非常にお忙しくて、「正月には龍沢寺へ戻られるから改めて挨拶しろ」ということで、正月にお邪魔したんです。それで、老師が、「お寺にいることはいい。置いてやるが、学校の方はどうする」とおっしゃるんで、「学校の方は病気で暫く休むと言って手続きをしてきました」と申し上げたら、「病気は何だ」とおっっしゃるんですね。「まあ神経衰弱です」と申し上げましたら、「もうそんな病気はないな。芸者あげでもすればすぐ治る」とおっしゃるんで、私は、〈これはえらいところへ来ちゃった〉と思ったんですが、それでまあ私、全然仏教とか禅に何にも関心はございませんでしたけど、老師は仏教の本を読めとか、坐禅の修行しろなんていうことは一言もおっしゃいませんでした。「お寺に置いてやるから、庭掃きをしたり、風呂を焚いたりして暫く居なさい」というようなことで、ずっとご厄介になっていたわけなんですが、今でもございますが、龍沢寺の坐禅堂に、「大疑堂」というのがございまして、「ただ信ぜよと。信ずれば救われる」ということはよく聞きますけど、まさにその通りだと思うんですが、私どもみたいな人間なかなか素直に信ずるということができないのに、「大いに疑う堂」と書いてあるんで、〈あ、面白い宗教があるもんだ〉というようなことも、一つの仏教に関心をもった縁じゃないかと思います。そんなことがあって、ずっとお寺にご厄介になって、それで自然にお寺にご厄介になっておれば、仏教の本も側にございますし、読んでみると、これはなかなか大変なものだと思って、坐禅の仕方なんかも手解きの本がございますから、そんなものを読みながら一人で坐禅をするようになったわけです。別に老師が、「坐禅しろ」と一言もおっしゃいませんでしたが、それがずっとそれ以後もう半世紀以上も続いているわけですが。
 
福本:  なんか磁石が鉄の粉を吸い寄せるよに人の心を吸い寄せてしまうような力をお持ちの方のようですね。
 
山本:  どうもそうですね。結局はさっき申し上げた、親切な方だ。「親切」というのは、「よく人に親切」「自分に親切」「法に親切」法―真理ですかね。それに親切ということをよくおっしゃっていましたが、「人に親切」は普通の親切ですが、「己に親切」とは、辛く接することだ、とおっしゃっていましてね。それから法には深く接する。ですからご自分には非常に厳しい方で、神戸の祥福寺(しょうふくじ)(神戸市)で初め修行していらっしゃった時に、どういうわけですか、「日本中で一番厳しい喧しい老師に就いてみたい」と言って、同僚の方に相談したら、「それならば宝福寺(ほうふくじ)(岡山県の井山(いやま)(総社市井尻野))の九峰(きゅうほう)老師がいいだろう」と。「それで儂は九峰老師のところへ行った」ということをおっしゃっておりましたけど、ご自身には厳しい方でございましたね。
 
福本:  年表で少し玄峰老師の、どういうお生まれで、どういう修行をなさって、どんなふうにして人格形成していかれたか、禅を完成して行かれた、それを見たいと思うんです。









 

 慶応 二年
 (一八六六)
  明治一二年
    一四年
    二○年

    二二年

 

 一歳

一四歳

二二歳

二四歳

 

 和歌山県湯の峰の温泉の宿屋に生誕。
 捨て子だったのを岡本夫妻に拾われる。
 山に入って薪作り。
 筏渡しをして熊野本宮、新宮間往復。
 二年前より眼疾を患い、この年失明の宣告を 受ける
 七回目の四国遍路の途上、行き倒れとなり
 雪蹊寺の太玄和尚に救われる。

 









 
和歌山県のお生まれ、捨て子だったということなんですが、これほんとでしょうかね。
 
平井:  そうですね。これは玄峰老師が生まれましたのは、現在はこういう旅館はないですけど、芳野屋(よしのや)という旅館がございましてね、その家の子どもに生まれたことになっております。これ母親になる人が後妻でございましてね。もう先妻の子どもがたくさんありますし、これは家で育てないという。昔は間引きということをしたらしいですね。まあその一種の間引きなんでしょうね。しかし巷間伝えるような、そんな犬や猫じゃあるまいし、庭先へ捨てて置いたわけではなくって、老師が拾われて、貰われていったのは、岡本という村一番の財産家なんですがね。それですからおそらく生みの母親と、そして岡本には子どもがなかったので、岡本の母親とが相談のうえで、一々養子手続きをするのも厄介だから、「庭先へ置いておくから、持って行って」ぐらいのことで、それで岡本へ拾われて行ったんだろうと思いますね。それですから、老師は、非常に「母」という言葉を口にしても涙ぐむようなお方であった。「お母さんありがたい」という揮毫をかなり沢山なさっておるんです。育ての母と共に、生みの母にもそういう願いがあったと思うんですよ。
 
福本:  ちょうど生まれ落ちた時が、幕末の幕末、戊辰(ぼしん)戦争(1868-1869年)の頃でございますから、それから成長期に入って、どうも年表を見ますと、筏流しをしたみたいですね。働いておられたようですね。
 
平井:  ここは現在でも非常に不便なところでございまして、学校へ行くといっても山坂を越えていかんならんようなところで、当時なかなか学門すると言っても難しいところだったんでしょうね。
 
福本:  大事なのは二十二歳の時に、失明の宣告を受けるということでございますね。これで随分辛い思いをして四国遍路をなさって、
 
平井:  これは、老師を拾っていかれました岡本善蔵(おかもとぜんぞう)というお方ですが、この義理の父親が非常に義理堅い人でしてね。玄峰老師が、若い時に、芳野屋という家で生まれたので、その家の屋号に因んで芳吉(よしきち)という名前を付けて、そして岡本家で育って、その後男の子が二人、女の子が一人、生まれたんですが、非常に義理堅い人でしたので、この家督を一切相続させまして、そして十八歳ぐらいの時に結婚もさせたんですね。ところがこの十九歳の時に、眼を患いまして、もう村一番の財産家でございますので、京都へ行って、京都の京都府立病院(今の府立医大)とどっかで四年間治療した。しかしもう到底治らない失明の宣告を受けましてね、それで諸国流浪しておる間に四国へ行って、それで雪蹊寺に廻った、というわけでございますね。
 
福本:  年表によれば四国遍路の途中で行き倒れ同様になってしまうということがございますね。
 
平井:  それはおそらく自分では死ぬ場所を探しましてね、最初華厳の滝へ行きまして、そこで死にきれずに、今度は足尾銅山などをさまよい、越後の方へ廻られまして、越後国出雲崎で行き倒れになりましてね、その時に現在でもございますが、高島という旧家がございまして、そこの高島伝平さんに介抱されて回復した。老師は生前中この高島家の人に対しては非常に感謝をしましてね、大事にしておりましたね。それで親不知(おやしらず)子不知(こしらず)を通り越して、そこでもどうも死ねずに、そこでも四国へ行けば大歩危(おおぼけ)小歩危(こぼけ)という難所のあることを聞いて、最初は死ぬつもりで行ったんでしょうね。まあ四国へ渡ってみると、八十八カ所の札所がある。それを廻って、最初は信仰心があったわけでもないでしょうけれども、しかし廻っておる間に、これが弘法大師のお徳と言いますかね、自分もこれは一つ弘法大師さんにお願いして、もし自分は自殺をしないから、もし少しでも世の中のお役に立つもんなら、一つそういう縁を結んで頂きたい。役に立たんものなら、一つ何としてでも早く命を引き取って頂きたい。そういう願を立てまして、四国を七回、跣(はだし)詣りの願を立てて、そして廻った、と言いますね。四国は大体昔の言い方で四百里、歩いて廻って四十日ぐらいかかるもんですがね。それを七回目に、これが縁なんですね、三十三番目の雪蹊寺という臨済宗の札所がございまして―四国の札所というものは、大体真言宗が多いんですけれども、三十三番目の雪蹊寺は、「雪蹊」というのは、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)(戦国時代から安土桃山時代にかけての人物:1539-1560)の号でございまして、元真言宗であったのを、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が自分の菩提寺にするために臨済宗に変えたんですね。ところがその雪蹊寺の門前で行き倒れになっておった。ですが、四国ではそういう無銭旅行する人がたくさんいますので、「通夜堂」と言って無銭宿泊のできるお堂がどこにでもあるんですね。で、住職が、「お前、病気ならお通夜堂で泊まって行け」そう言って勧められて、それで三、四日通夜堂で住職の姿をずっと見ておった。そこに「雪蹊寺の太玄和尚に救われる」と書いてありますね。この太玄和尚が非常に偉い人であって、この太玄和尚の姿を見ておるうちに、ふっと自分もお坊さんになろうかという気になったんですね。それで太玄和尚に、「私は紀州の山の中で育って、実際に目も見えないし、そして学門も全然ない。名実共に盲(めくら)なんですが、私のような者でもお坊さんになれますか?」と訊いた。そうすると、太玄和尚は、「いや。お前は、それは葬式法事をする坊さんにはなれないけれども、本当のお坊さんならなれるよ」というんですね。「本当のお坊さんは、これは葬式や法事をするのが本当のお坊さんの役目ではない。本当のお坊さんというものは、自分の心を、人間とは一体どういうものであるか。人間の心とは何であるか。それを自分で本当に納得し承知する。これがお坊さんの本当の仕事だ。自分の心を自分でみるのに本は読まなくたって、目が見えなくたって、自分の心を自分でみるに、眼や文字は必要ないよ。それだからお前でもなろうと思えばなれるよ」と簡単に言われるもんですから、それじゃ自分もお坊さんになろう。そう思って決心をして、それでまあ郷里へ帰って家督整理をして、そして奥さんも離婚をして、そして雪蹊寺の小僧になった。その時に私は偉いと思うのは、これは将来の玄峰老師の生き方のもとをなしておると思いますがね。自分はその時に、「自分が死んで二人以上の人間が助かるんなら、いつでも死んでやろう≠サういう願いを起こして、そしてお坊さんになった」ということを言っておられましたね。「自分もせっかく生まれてきたんだから、一対一じゃどうもこれは自分もちょっと可哀相だから、せめて二人以上が救われるんならいつでも死んでやろう、そういう願を起こしてお坊さんになった」ということを言っておられましたね。
 

















 

 明治二三年
    二四年


    三六年
    四一年

  大正 三年
     四年    一二年

    一四年
  昭和一一年
    二二年
    二六年
    三六年

 

二五歳
二六歳


三八歳
四三歳

四九歳
五○歳
五八歳

六○歳
七一歳
八二歳
八六歳
九六歳

 

 雪蹊寺で得度出家。
 雲水として修行に出る。滋賀県永源寺、神戸
 祥福寺、岐阜の虎渓山などで、併せて十一年
 間修行する。
 太玄和尚遷化、雪蹊寺住職を継ぐ。
 京都円福寺に再行脚。松雲室見性宗般老師に
 つく。
 円福寺七年間在錫、宗般老師に嗣法。
 龍沢寺住職となる。復旧に専念。
 外遊の途に就く。アメリカ、イギリス、ドイ
 ツ巡遊。
 インド仏跡巡拝。
 旧満州に妙心寺別院開創。
 大本山妙心寺管長に推挙される。
 龍沢寺住職を辞任。
 三島伯日荘で遷化。

 

















 
 
福本:  少し後半駆け足になるかも知れませんが、見て驚くのはいくつもの廃寺と言いますか、荒れ寺を復興しているということと、意外にも外国へ―ほとんど世界中行っているということですね。目もご不自由だったのによくおやりになりましたですね。
 
平井:  これは玄峰老師のもとには、またいろんないい人がついておりましてね、玄峰老師が初めて外国へ行かれたのは、大正十二年、五十八歳の時なんですが、玄峰老師を非常に経済的に援助してくださいました方に、安生慶三郎(あんじょうけいざぶろう)と言ってホーロー引きの大きな会社の社長でしてね、本来は自分で外国へ行くつもりでおられたんですが、しかし玄峰老師のような人に外国へ行ってもらうのは、将来日本のために非常に役に立つ。そう思われて、この安生慶三郎さんがご自分で行くつもりだった、当時の金で三千円と言われていますがね、それを「これをあなたに差し上げるから、どこへでも自由に外国へ行って、今のうちに一つ外国をよく見聞してくれ」とそう言って。しかし安生慶三郎という人は、達観でしたね。これは玄峰老師ができあがる蔭には、こういう人がたくさんおりますね。その時のエピソードに面白い、玄峰老師はサインだけはできないと旅行者小切手の金を受け取れないというので、出発前に、「G.Yamamoto」というローマ字だけは習って行ったという。しかしいろんな人に紹介状は貰って行ったらしいですね。一枚の紹介状は、あの人にもこの人にも出さんならんから、それをうっかり取り上げられると困るからね、それにゴム紐を付けておきましてね、「私は、こういうものでございます」と言って、紹介状を出して、向こうが離すと、パッと自分の方へ飛んで帰るような、そういう仕掛けにしておいて、紹介状を持って廻ったという。反面そういう非常に機知に富んだ人でしたね。こういう外国周りの時には、エピソードがある。ドイツにおられた時に関東震災があって、それで帰って来られた。老師が行っていないのは、ソ連だけで、もうアラスカからアフリカ、南アメリカまで廻った―大正時代ですからね。
 
福本:  大変ですよね。その時代ですと。さて玄峰老師の人柄なりを偲ぶのに、文字というものは大変手掛かりになるものですが、あまりお目が見えなかったというのによく字をお書きになられましたね。
 
平井:  ですから今ご覧頂くのは、「竹影払階塵不動(ちくえいかいをはらってちりうごかず)」ですが、ちょっと玄峰老師の字は、普通の人の字と違っておりますね。それは何故かと言いますと、これは触覚と言いますか、筆の先が紙へ着いて、その感覚で書くんですね。それですからして、目で書いた字ではなくって、ほんとに心で書いた字なんですね。
 
福本:  でも少しは見えたんでしょうね。
 
平井:  少しは見えたでしょうが、私も四十年間お側でおりながら、どの程度見えないのかさっぱり見当がつかないですね。眼鏡は、どんな眼鏡でも絶対合わない眼だったそうですね。それですから新聞なんかでも二十倍というような虫眼鏡を使って見ておられましたですよ。老師も、八十二、三までは、「これは練習だ。書くぞ、書くぞ」と言ってよく書かれましたが、八十五、六からは、ちょっと勿体ぶってあまり喜んで書かれなかった。それだけ多少しんどかったんですね。この時分には、まだ喜んで、「字の練習だ」なんて、よく書かれたもんですよ。
 
山本:  六十代頃には、方々から頼まれるのを溜めておいて、百枚以上一遍にお書きになりましたね。私どもお側で墨を擦ったもんですが、擂り鉢いっぱいぐらい墨を擦りまして、なかなか骨が折れるんですが、まあ坐禅でもやっているような気持で、「乱暴に擦っちゃいかん。静かに擦れ」とおっしゃるんで、静かに擦って、擂り鉢いっぱいの墨を、それを一息でスッと書かれるんですね。だけど「筆の先に米俵一俵下げておくような気持で、力が入っていなければダメだ」というようなことをおっしゃっていましたけど、それで私事になりますけど、先ほど申し上げた昭和の初め頃に龍沢寺へお邪魔しておった時に、時に纏めて書かれるようになる。私どもは、沼津の托鉢なんかに連れて行って頂いた時に、文房具屋から唐紙などを買ってきましてね、それで老師が書かれる時に、自分のを二、三枚つっこんでおって、「一緒にお願いします」と、こう雲水の方たちに知恵を付けられたんですが、それでご自分で書きながら、いろいろと独り言のようにおっしゃってましたね。よく簡単な達磨を描いて、ちょんちょんと、達磨って数字の三の字みたいなのを描いて、ちょっちょっと二つ目を付けて、「これでも達磨大師だ」と賛をされますね。中には「どう見てもこれは達磨には見えんな」なんて言って、「のんきな父さん」と賛をされて。その当時「のんきなとうさん」というマンガが流行っておりまして、その時代でしたけど。
 
福本:  この書が、九十六歳、お亡くなりになる二十日前に書かれた。九十六歳でね。
 
平井:  これは大きいですよ。畳み一枚以上の大画仙紙でございますからね。
 
山本:  私どもは、「老師の字は上手とか下手とかわからん」なんて若い頃言っておりましたけど、さっき申し上げた自分で書いて頂いたのを、老師は、「これはようできた」なんておっしゃっていると、後でそれを頂戴するようなことをやっておりましてね。今でも覚えておりますが、「万里有青光」と書かれたのと、「青山白雲」という、晩年の書とはちょっと違いますけど、その二枚を私、頂いて、それで龍沢寺から東京へ帰る時に、鎌倉に一高の教授で、当時書家としても一流だった菅虎雄(すがとらお)(一高(現東京大学)独文学科を卒業した最初のドイツ語学者で、書家としても著名)という先生がいらっしゃって、夏目漱石(なつめそうせき)の日記を見ますと、「菅虎雄来る」というのが毎日のように書いてございましてね。漱石と非常に仲の良い方で、漱石の墓碑を菅先生が書いていらっしゃるんですが、その先生のところへお邪魔しまして、玄関で、どうせ先生から怒鳴りつけられると思いながら挨拶をしましたら、先生ご自分で出て来られまして、「お前、半年も学校に顔を見せないで、どこへ行っておった」と怒鳴られまして、「実は三島の龍沢寺へちょっと考えることがあって、お寺で坐禅してきました」と言ったら、「それは良いことした。あがれ」なんておっしゃって、あがりまして、いろいろお話していましたら、「その龍沢寺というのは、なんていう老師がいらっしゃるんだ」というんで、「玄峰老師だ」と申し上げましたら、「どなたの法を継いだ方だ」とおっしゃるんですね。「松雲室(しょううんしつ)見性(けんしょう)宗般(そうはん)老師の法嗣(はっす)だと聞いています」と言ったら、「そうか。不思議だな。自分は若い時に宗般老師に非常にご厄介になった」とおっしゃっていましてね。それで先生は有名な書家ですから、玄峰老師の書をご覧に入れたわけですよ。そうしたら、どんな批評をされたかと思いましたら、「まあとにかく二つのうち、一つをくれ」とおっしゃるんです。有名な書家の菅先生が、「くれ」とおっしゃるんだから、老師の字も大したもんだな、と思いましてね。「二枚のうちのどちらかでも良い方をお取り下さい」と言いましたら、「儂は普通「陵雲(りょううん)」という号を使っているが、「白雲」という号を使うこともあるんで、この「青山白雲」を貰っておこう」とおっしゃって、差し上げた覚えがあるんです。ですからやはりその時に、上手いとか拙いとかおっしゃらんで、「こういう方との書は別格だと。上手いとか、拙いとかいうもんじゃない」というような意味のことをおっしゃったことを覚えております。
 
福本:  それはわかりますね。今度は、お声を少し伺おうと思うんですが、古い録音でございますが、『無門関提唱(むもんかんていしょう)』でございましたか、これをちょっと教えてください。「提唱」というのは、何でございますか。
 
平井:  これは講義とか講釈とかと違って、「提唱」は大体「公案」という禅の問題をするわけですが、「提唱」とは、引っ提げ唱えると書いてございますね。これは自分はこういう見方をしているが、お前たちは一体これをどういう見方をするんだ、という、自分の見解を指導者の前に述べて、これに対してお前たちが一つ自分の見解を述べてみよ、という。ですから単なる解釈、講釈とは違いますね。自分はこの公案に対して、こういう見方をするんだという、一つの模範と言いますかね。
 
福本:  じゃ、伺いましょう。
 

 
玄峰: (『無門関提唱(むもんかんていしょう)』第七則趙州洗鉢(じょうしゅうせんぱつ)の提唱の一部から)
 
『趙州(じょうしゅう)、因(ちなみ)に僧問う』趙州和尚のところに『乍入叢林(さにゅうそうりん)』今ようやくこの僧堂へ初めて入った僧が因に問う。これはただの問であるかないか、どうか。『乞う師、指示せよ』どうかご垂示を下さい。指示はゆびさし示すじゃが、ただの指示ではない。急所を指示する。一切の修多羅(しゅたら)は月を指すの指なり。
自分めいめいの性根玉(しょうねだま)を月にたとえた。性根玉というのも玉にたとえたものじゃ。
どんなものがめいめいの性根玉であるか―。
この坊さんが趙州和尚にむかって、こう急所をひとつ、お示し下さい。いろいろのほかのたとえ話やほかのことじゃない、直々に自分の人々の性根玉をさしつけて教えて下さい、こう乞うたら、趙州和尚が、『喫粥了也(きっしゅくりょうや)未(いま)だしや』そうか、朝のお粥を食べたか、食事はしたか。『僧云く、喫粥了也(きっしゅくりょうや)』ヘイ、いただきました。そうすると趙州和尚が、『鉢盂(ほう)を洗い去れ』お前の持っておる持鉢(じはつ)(お坊さんの飯椀)じゃ。鉢盂、この食器はわれわれの使うものじゃ。一般の人は自分がその仕事のために働いて、そうして給料をもらう。われわれは織らずして着、耕さずして食らう。着物も人の織ったものを布施してもらう。一文も、金もうけするということはない、月給どころか、日給も一文もない。ただ禅宗坊主は坐禅三昧に修行して、そうしてどうかして一切衆生のために身を捨てて、肉を割いて母に返し、骨を砕いて父に返し、しかして後大神力をめぐらして父母のために説法する。父母のため一切衆生のためじゃ。父母ということは天地ということに解釈していくのじゃ。だからいろいろ施しを受ける。六波羅蜜(ろくはらみつ)のうちの檀那(だんな)波羅蜜(はらみつ)を受けないでは一日も生活ができない。
 

 
福本:  今、私が伺っても、何か懐かしさを感じるというのは、今はもう亡くなってしまった昔の日本の男だけがもっていた堂々たる語り口みたいな、そういうものを感じましてね。
 
平井:  人生に対する自信をもっておられたんでしょうね。
 
福本:  こういうお話を直接伺ってみたいもんだと思いますね。どうですか、懐かしく思いになりました?
 
平井:  そうですね。
 
山本:  ほんとに私ども長い間老師に接することができたということはほんとに幸せだと思いますね。
 
福本:  老師の教えですが、どんな内容で、どんなことを教えになったのか。何かいくつも歌を引用なさったとか、ご自分でもお作りになったんでしょうか。
 
平井:  そうですね。
 
福本: 
磨いたら
磨いただけの光あり
性根玉(しょうねだま)でも
何の玉でも
 
平井:  これはおそらく玄峰老師がご自分でおつくりになったものかも知れませんね。しかし簡単な歌ですけど、これは本当に禅の精神と言いますかね、それを如実に表した歌なんですね。これは玄峰老師はよく「性根玉、性根玉」と提唱にもございましたね。「性根玉」ということは、「自分の本心」ということなんですね。我々は禅では、「見性(けんしょう)」とか言って、よく自分の心とは何か。自分の本心はどういうものであるか。それを自分で本当に納得承知する。こんなものは説明してもダメなもんですけど、人間の本心というものは、これは人と自分とを区分けしない清らかな、人が喜んでおれば、その喜びを自分の喜びとし、人が悲しんでおれば、その悲しみを自分の悲しみとする温かい心、そういう清い温かい心。これが本心というか、心の原点というか。しかしそれが我々は平生生活に煩わされておるために、非常に汚染せられておる。ということは、「人を見れば泥棒と思え」「火を見れば火事と思え」、これは大きな見方が間違っておる。これは早い話が、今日政界に大旋風を巻き起こしましたリクルート問題なんかでも、今日みると、「あんな金を貰っておくんじゃなかった。あれはとんでもないお金だった」と思うでしょうが、しかしその当時は何もあれは悪い金貰うとか、こんなものが後々禍を起こすと思って貰った人はないですね。ということは、今も金に対する心が正常な状態と言いますかね、汚染せられておる状態、そういう先入観がいつの間にか人間はできておる。そういう先入観を払拭して、そして心の原点に立ち返る。それを「磨いたら、磨いたら」というのは、そういう汚染せられた変な先入観をなくしてしまえ。では、それは一体何で磨くかというと、これはいわゆるこの禅では身体を落ち着け、心を集中統一していく。そのことが即先入観を磨いて、そして心の原点に立ち返っていく。そういうことになる。そのことを言った歌なんですね。
 
福本:  その心ということを歌った、これは北条時頼(ほうじょうときより)の、
 
平井:  時頼の歌に、そういうのがありましたね。
 
福本: 
心こそ心迷はす
心なれ
心に心
心ゆるすな
 
平井:  これは、老師は、九十過ぎましても、時たま老師の部屋へ行きますと、内仏(ないぶつ)さんと言って、自分の部屋へ祀ってある仏さんの前で、こうやって礼拝をしながら、「ああ、悪いことをした。あんなこと言うんじゃなかった。相すまん、相すまん」と言って、自分の頭を手で叩くが如くしてね。これは、今日来たお客さんに、ああいう厳しいことをいうんではなかった。もうちょっとこういう教えの仕方もあったという。それを反省して言っておられるんでしょうね。それですかして、いくつになったって、心に心をゆるすな、であって、自分自身がそれだけ自重自戒していかれた。その反対に時たま老師のところへいくと、「儂は長生きして良かったよ。今日何とかの本を読んで、こういうことを知った。俺は早く死んでおったら、こんなことも知らずに死んでしまうんだったが、俺は長生きしたお陰で勉強にもなったよ」と言って喜んでおりましたがね。やっぱり常に心を心して、善い心は育て、悪い心はなくしていくように、自分自身で努めておられましたね。
 
福本:  それにしても、人間愛と言いますかね、人間をほんとに愛していないと、そういう見方というものが、そもそもなりたちませんものね。
 
平井:  そうそう。
 
福本: 
人多き人の
人あるその中で
人人となれ
人人となれ
 
平井:  これなんか誰かの歌ですね。「人人となれ、人人となれ」というのが、人を成長さしていき、そして人も育て、自分も育っていけ、という意味なんでしょうが、しかし老師の指導法というものは、非常に在家の方々に対しては事宜(じぎ)に適したご指示をしておられましたね。これは老師のところへよく来ました沼津に、老師を非常に経済的に援助してくださった家の娘が嫁入りします時に、「お前、嫁入りしたならば、沢庵(たくあん)一つ切るにも、お母さんに、これは縦に切りましょうか、横に切りましょうか≠ニ言って切れ、そしてお茶を入れるんでも手の平へ入れてみて、お母さんに、これはこれぐらいの量でいいですか≠ニ言ってね、ちゃんとお母さんに聞いてやれ。そうすればお母さんも、お前を可愛がってくれるし、そして来たお客さんからも喜ばれるから」と、そう言って教えた。そうすると、里のお母さんが老師のところへ来ましてね、「家の娘も老師のいうことを守って、向こうのお母さんにもみんなに非常に可愛がられておりまして、有難うございました。ところで、今度家の長男に嫁を貰わんなりませんので、またその嫁が来たら、老師さん、一つよく教えて指導してやってくださいよ」と。「家の嫁を立派な嫁にしようと思えば、お前が我慢すればいいんだ」これは厳しい一言でね。「嫁を立派にしようと思えば、お前が我慢すれば嫁は立派になるよ」と言ってね、言われたことを私も聞いておりますがね。一方娘に対しては、沢庵の切り方まで、その母親に対して、嫁を良くしようと思えば、お前が我慢しろ、そうすれば嫁は自然によくなるんだ、と言ってね。そういう指導の仕方というか。またこれは山本先生とよく一緒に龍沢寺へ来ておられた居士の方で、この方も一橋大学へ行く時分から老師のところへ来ておられた方でして、これは日本でも有数の大会社を作り上げた人ですがね、学生の時分に龍沢寺へ行ってみると、老師が手習いをしておるんですね。「いや、老師さん、僕もこれから習字の練習をしようかと思う」と。「そんな習字の手習いなんていうのは、儂の歳になれば―もう老師は七十ぐらいですね―儂の歳になってからやればいいんだ。お前たち若者は、字が上手になると、人に使われるばかりで、自分の仕事ができないから、字なんて上手にならなくたっていい」。面白い、そういう人に適した教育とか指導の仕方をしたもんですね。
 
福本:  誰にも同じことを言うんではなくて、人を見て法を説いた。
 
平井:  そういうわけですね。それですからめいめい自分の中に老師が生きてきたわけですね。
 
福本:  山本さん、そういう意味で人生の指針と言いますかね、ほんとに玄峰老師って、今のお話を伺っても人生の達人だと思いますね。
 
山本:  そうですね。今、全生庵さんがおっしゃった個人名を出すのはどうかと思いますけども、バイエルンから特許をご自分で買って来られて、農薬の会社をお作りになった加藤さんという方ですけど、その方が生前おっしゃったんじゃなくて、亡くなってから奥さんから伺った話なんですが、その会社へまあお年寄りですから、朝早く目を覚めて出勤なさいますがね、どうも会社でみんなの机の上を見ていると乱雑で、とても気になってしょうがないわけなんですね。で、朝早く出勤して、誰も来ていないところで、そのきちんと書類を揃えて机の上を雑巾で拭いて社長室へ引っ込んで黙っておられたんだそうですが、で、社員の方は、これは小使いさんがやってくれたんだろうと思っていたんだそうですが、そうしたらある時誰かが気が付くんですね。「社長がやっているんだ」と気が付いて、それから机の上はきちんとするようになったそうです。奥さんが、「何故そんなことをするんだ」とおっしゃったら、「自分は若い時に龍沢寺へご厄介になっていた時に、人が寝静まった頃になって、なんか本堂の前を人がベタベタベタベタ草履履いて行ったり来たりする音がする、というんですね。何だろうなと思って、ひょっとある時気が付いたら、それは玄峰老師が便所から肥を汲んで本堂の前を通って、小さい畑がございましたけど、その畑の肥溜めへ入れておられるんですね。それを時々やっていらっしゃる」と。で、ある時加藤さんが、「老師、若い方が大勢おられるのに、何故そんなことをなさるんですか」と言いましたら、玄峰老師が、「あんた方も将来人の上に立つことがあるだろう。その時には一番上に立った者が一番嫌がることをするべきだ」ということをおっしゃって、それで自分はそんなことが頭にあるもんだから、ついそういうことをやってしまった」ということを亡くなってから大分経って奥さんから伺いましたけど。それで全生庵さんへお邪魔しますと、お堂の前に、「衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)諸悪莫作(しょあくまくさ)」と、八十九歳の時お書きになった聯(れん)が掛かっておりますけどね。善いことをしろ、悪いことはするな、という当たり前のことですけど、これはなかなかできないことですが、それで老師が、私、一番印象深く残っておるのは、常に「陰徳を積め」ということをおっしゃるんですね。人間は、俺は悪いことしないなんて言っても、知らず知らずのうちに悪いことをしておると。第一自分が生きていくためには、他の生物を殺さなければ生きていけませんからね。それと同じことで、人間というのは悪い動物ですから、自然悪いことをしておりますよ。過去にやった悪いことをなくすためには、善いことをやると。しかも善いことを人の見える前でやるな、とおっしゃる。
 
福本:  陰徳ですね。
 
山本:  それが「陰徳を積め」ということで、それなんか確かに私ども少しでも死ぬまで真似していきたいというお言葉だと思っておりますが、そういう方でしたね。だからいろんな意味で、いろいろの人に影響を与えておられますね。
 
福本:  平井さん、宗教者のあり方というのは、玄峰老師をじっとご覧になっておると、自然にわかってくるというようなものでしょうか。
 
平井:  そうですね。これは玄峰老師というよりも、お釈迦様がお悟りを開かれた時に、妻子眷属(さいしけんぞく)や自分の地位を棄てて出家したお釈迦様が、「世間は、これ我が有なり、衆生はことごとく我が子なり」と言っております。「世間は、これ我が有(う)なり」ということは、世間のことは一切自分の責任だ。一切の生きとし生けるものは、自分の子どもだ、と言っておられますが、玄峰老師もこれと同じ、それですから老師が、よく「いやしくも坐禅をする者は人一倍の力がなくちゃいけない。人一倍の力というものは、強いものにはより一倍強く、弱い者にはより一倍弱くなっていく」。強いばかりが能じゃない。弱い者にもより一層弱くなって接していく。であるからして、玄峰老師なんかでも世の中のことは一切自分の責任だ。総理大臣と会った時には、自分が総理大臣であれば、どういうことをするか。どういう心掛けをしなくちゃいけないか。そういう心で接していき、また八十の病気で寝ておる老婆に会った時には、その老婆と同じ気持ちになって接していかれたもんですね。ここに玄峰老師のあり方と言いますかね、これが玄峰老師だけじゃなくて、本当の宗教家のあり方、それはそこでなくちゃいけないと思います。
 
福本:  今日は本当にいい勉強させて頂きました。有難うございました。
 
     これは、平成元年十月一日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである