一粒米の教え―盲人村長森盲天外の生涯―
 
ナレーター:  盲人としては、世界で初めて村長になった日本人がいました。およそ百年前、松山市郊外の余土(よど)村長になった森盲天外(もりもうてんがい)。彼は全盲でした。中途失明のため、初め彼は絶望のあまり自ら死を望んだこともありました。しかしその彼に立ち直らせ、生きる勇気と人生の意味を見出させたのは、この米、たった一粒の米との出会いだったのです。
 

 
ナレーター:  愛媛県松山市余戸(ようご)。盲人村長森盲天外は、元治(げんじ)元年、当時余土村(愛媛県伊予郡のち温泉郡にあった村。昭和二九年松山市に編入)と呼ばれたこの村の庄屋の長男として生まれました。明治維新の四年前のことです。
 
(盲天外の生家の前に住む森善吾さんの話より)
森善吾: 盲天外さんの生家は、そのブロックの辺りから、あのブロックのあの辺りまでが昔のお庄屋さんですね。ここが広い広い庄屋さんです。もっと広かったんですが。子どもの時から、父親から、「みんなこの村は弱い人作ったらいかん。弱い人ないようにして、人が辛い目したり、悲しい目しておったら、そういう人を作らんように。分けて悲しんであげるとか、喜びを分けようじゃないか。弱い人も強い人も手を繋いで、差別のないのが余土村、というのが、前の叔父さん(盲天さんのこと)の精神だけん」と聞かされていましたね。
 

 
ナレーター:  森盲天外。本名森恒太郎(もりつねたろう)。彼は、松山中学に学んだ後、上京し、自由民権運動の気風の中で青年時代を過ごしました。盲天外が郷里に帰ったのは二十三歳の時です。その年、村は大水害に見舞われ、大きな被害を出しました。この時の体験から、盲天外は、村の問題に関心を持ち、政治家を志すことになりました。明治二十二年、帝国憲法のもとで府県制が実施され、盲天外は二十七歳で県会議員に当選しました。彼は次いで村会議員となりますが、考えあって議員を辞職し、実業界に転じました。しかし明治二十七年、盲天外に運命の日が訪れます。この年、日本は朝鮮に出兵し、日清戦争が起こりました。これに伴い、大本営が広島に設けられることになり、明治天皇は広島に行幸しました。『一粒米(いちりゅうごめ)』は、盲天外が一粒の米に託して人生の意味を思索した書物です。この本によれば、盲天外が眼に異常を覚えたのは、広島でのことでした。盲天外は、この年の九月十五日、愛媛県の代表として、天皇を迎えるために広島に出向きました。翌十六日、川べりの旅館で目を覚ました盲天外は、手すりに寄り掛かって川を見ました。その時左眼は、雲がかかったように朦朧として霞んでいます。盲天外は、幾度か眼を擦ってみましたが、そのうちその左眼の中に数個の黒い点と赤い血の筋が浮かんでいるのを認めました。盲天外は急いで松山の家に帰り、その日のうちに東京に発ちました。東京に着くと、盲天外は大学病院で診察を受けました。診断は、左眼の眼底出血と網膜剥離でした。盲天外は、二年あまりにわたって治療を受けましたが回復せず、さらに右眼も眼底出血を起こし、両眼も失明したのです。明治二十九年、盲天外は失意のうちに松山に帰りました。その時盲天外は三十三歳、まさに男盛りの時に光を失い全盲となったのです。突如として暗闇の中に投げ込まれた盲天外、この時の心境をこう述べています。
 
予(私)は盲目の身となって、人生に絶望し、煩悶し、寧(むし)ろ死を願っていた。生は予をして苦しませしむるのみである。死すればこの苦しみを遁(のが)れることができるであろうと思いつめたことである。何故に生が此(かく)の如く苦しいのであろうか。何故に死を爾(か)く安しと思ったのであろうか。私が生を厭うて死を得んものと思ったのは、生きて而(しこう)して生きる所以を知り抜く為に、生きていながらもほとんど我が人生の意味を悟らないが為ではなかったか。夫(そ)れ故に生の楽しき事も苦しみ変じていくのである。実に此(この)時の私は、生死に輪廻して、哀れにも又恐ろしき境遇に沈んでいたのである。結局生死の境遇を悟らないが為であった。即ち人として生きる意味を知らないが為であった。
 
三十三歳で光を失った盲天外は、比叡山に籠もり、絶望から救われようとしました。しかし絶望は深まるばかりでした。そしてついには死しかないと思い、三度自殺を図ろうとしました。その時、盲天外に大きな心の転機が訪れたのです。
 
予は、既に死を覚悟して、猶ほ時機を見て、実行を果さんと期して居る。毎日毎日憂悶に沈むで、暗闇は益々閉(とじ)られ、人生の光明とては、更に一点の認むる処もないのである。生きながら既に心は死の境涯に移って居る。夫れ故に予は、三度の食事すら嫌になった。
死を決心して居る予に、食物の必要が何処にある、
膳に向かって、箸を採って見ても、食物は快く咽喉を通じなかった。
ある日の事であった。予は膳に向かって食せんとする時、一粒の飯が、會々(たまたま)箸を離れて膝の上に落ちた。予は是を探り求めて、我が指頭に拈(ねん)じて居ると、豁然(かつぜん)として忽ち悟る処があった。夫れは僅かに指頭に拈じ得られる一粒の飯にも、殆んど量(はか)るべからざる重さのある事を知った事である。
予は我が指頭に拈じつつある一粒の米に依って、我が心身は粉微塵に打ち壊されたのである。
指頭の一粒米は、無限の光明を放って、暗黒の境遇を照らした。乾坤打破の境涯とは、全く此の時であったらうと思ふ。
 
盲天外にとって、一粒の米との出会いは、まさに彼が真の人間として生まれ変わる衝撃的な出来事でした。その出会いから、盲天外は、一粒の米に宿っている命の意味を考え始めたのです。
 
予が膝の上に落ちたる一粒の飯を拾い得て、徐かに指頭に拈じた時に、フト此の幼時より家庭に於て訓誡せられた、一粒米を尊敬せよとの事が思ひ出された。夫れと同時に、一(ひとつ)の疑問が起った。一粒の米に向かって、我々は合掌し低頭しなければならぬと、母人は訓へ給ふた。
日に三度食膳に向かっては、必ず掌(て)を合わせて拝んだ後に食(しょく)せ。只一粒の飯といへども、是を粗末にしてはならぬ。若し粗末にする時は、眼が潰(つぶ)れる、罰が当るとこの一事のみは、至って厳重に訓誡(くんかい)せられ、猶(な)ほその実行を忽(ゆるが)せにせられなかった。予は此の訓誡を受けてから、常に粛(つつし)んで実行し、嘗(かつ)て一回も廃した事はない。
世人も恐らく斯(か)くするであろう。一粒米は、斯くも尊敬を受けて居る。萬物の主宰者、萬物の霊長と云はるる吾人より、此の尊敬を受けて居る、されば一粒米は、吾人人類よりも猶ほ貴きものであろうか。人をして合掌し低頭せしめて居るではないか。されば、一粒米は、如何なるものであるかと深く考へて見ると、今食膳に上って居る彼は、一つの植物性である、草の実である。実にそれに相違ない。植物性の彼、如何で吾人人間より、貴いものと云ふことが出来やうか。
斯く思ひ来ると、母人は如何なる意味を以て、我々に斯くせよと訓へられたのであらうか。
尊敬を払ふて敢て怪まないものは、其間に深き意味があるからであらう。一粒米を尊敬するの意味は、果たして如何なる訳であらうか。
思ふに、彼の一粒米が吾人の食膳に上って、我が口腹に入り腸胃に消化せられて、血液となり、乳汁となるは、即ち一粒米の進化である。一粒米の向上である。僅に数時間、否数分間以前まで植物であった一粒米が、その進化向上に依って、忽ち吾人の肉体に上り、吾人の栄養となり、生命となるとは、実に驚いた事ではないか。
此の如く短時間に最高位の向上を遂げて居るものなる事を思へば、賛嘆措く処を知らないのである。此の如く進化し向上すべき性質を有する一粒米が、一たび進化向上し来りては、もはや素との一粒米ではない。萬物の霊長たる人とまで向上したのである。
故に、此の短時間に於て、彼(一粒米)が進化し来って、人類とまで向上するの一事は、吾人又敬服の外ないではなかろうか。
予は曾て進化論を読むだ時、其理法の整然たるのを甚だ愉快に感じた。然れども、是は書籍上の理として、会得したのであるから、感覚の上の反応は甚だ乏しかったのだ。然るに、今我が目前に於て、彼の一粒米が此の如く進化して、僅少なる時間に最高の向上を遂げて居るのを感じては、予の感覚をして転(うた)た深甚ならしめたのである。
予は日に三度の食を貪りながら、此の大々的真理の存在することに気付かず無意味に経過して居た。
謂ふこと勿れ一粒米は植物なりと。謂ふこと勿れ一粒米は草の実なりと。彼(一粒米)が進化し向上し来るならば、已に植物でない、草の実でない、即ち今の我となって居るのである。
 
ああ、一粒の米も、また無限の天地を宿して余すところはない。人間のために生まれた米、その米のもつ命が盲天外の心に一つの光を投げ掛けたのです。
 

 
(愛媛大学名誉教授和田茂樹の話より)
和田:  ご飯を食べる時に、やはり眼が見えないですから、それで零(こぼ)れたと。それがこの指先のこうあった時に、この米の重み、この米にも、一粒の米にも重みがあるんだと。この重み、しかもこの中に生命がある。こんな小さなものに一つの生命を見付けた時に、自分が今まで死を決意して、自分の生きている命を絶とうとした自分として、そのお米の中にある生命、これから伸びていく生命というのを感じた時に、何か急に禅宗でいう悟りと言いますか、それが開けてきたんじゃないか。その時の心境として、大燈国師の、いわゆるこんなことを書いておられます。
 
一谿(いっけい)雲に閉ざして水潺潺(せんせん)
 
といったその心持ちが、さながらそれだと、こういっているわけですね。谷に雲が覆うていると。何も見えない。ところが水の音だけが、はっきりと鮮やかに聞こえてくる。はっきり鮮やかに聞こえてくるということと、心の中に光明が出てきたということとが、共通な場だと、私はそういうふうに感じたわけです。だからパッと光明を見付けた。その生きる生命が、一粒の米にあって見付けたところから、盲天さんの人生観が、順次反芻し反芻して、今まで比叡山で修行されたり、いろんなところで苦労されてきたことを思い出したから、それが開かれていったんじゃないか、というふうな気がします。
 

 
ナレーター:  盲天外は、一粒の米の真の姿を見極めるため、さらに米との対話を深めていきます。
 
臆念(おくねん)せよ、彼一粒米が向上の手段を臆念せよ。農夫の粒々辛苦に由って、漸く彼は一粒の米となすであらう、口あらば斯く云ふであらう。
「我は今茲(ここ)に一粒の米と生れた。若し此の儘(まま)にして徒(いたずら)に朽ち果てては、我が享有せる天稟(てんぴん)を空(むな)しくする訳である。一度人に生まれた以上は、此の上の進化向上を遂げなければならぬ、かくて天稟を全ふする訳である。多くの植物は、花を着け、実を結び、之を飛散して繁殖するを以て本能として居るが、我れ一粒米に於ては、空しく草の実たるに終ることを以て、満足すべき性質ではない、此の上の向上を遂げねばならぬ、一度人の口に入り腸胃に消化せられて、萬物の霊長たる其人と同化し去るの向上を遂げなければならぬ、何ぞ夫れ一の植物たる境涯に安んずべきではない。
如何なる困難があらうとも、是を躬行(きゅうこう)せなければならぬ。我は天与の衣服を有して居る。籾(もみ)は即ち寒熱を防ぐべき我が衣服である。いでや向上の為には、此の衣服を脱ぎ捨てやう。水力、電気、蒸気、乃至(ないし)人の足に依って運転せらるる臼(うす)の中に、潔よく我が身を投じやう。木や鉄の杵は、忽ち頭上より墜落し来って、我を舂(つ)くであらう。舂(つ)かるるのは無上の痛苦である。併しながら向上する為には、痛みも苦しみも厭ふ所でない、生きながらにして精く其皮膚を剥がれやう。又進んで石臼に挽かれては粉とならう。炮烙(ほうらく)の中に入って肉を焼かれ、身を焦がされやう。猶又釜中の熱湯に身を投じて、熟するまで烹(に)られやう。此くの如く危難を恐れず水火を避けず、粉骨砕身するは我の厭ふ処でない。犠牲は固(もと)是れ我が分である。斯くて団子となり、煎物となり、飯となり、粥となって、人の口に投入し、歯に咀嚼され、唾液に滓和(しわ)され、胃腸に消化せられて、全く我が身を滅し尽し終らう。是(これ)ぞ我が本懐とする処であって、又向上する手段である。向上せんが為には、百難千苦も敢て厭ふ処でない。進むで此の苦悩を受けんとするのである。若し我れ此の手段を躬行せずして、只一粒米として苞(つと)の中にこめむしの糞となり、或は陳米となって獣類に食まるるは、却(かえっ)て我の遺憾とする処である。故に敢て向上の手段を躬行して、我も又人間となるの光栄を得なければならぬ」。
彼れ一粒米に口なく声なけれども、彼は確に斯の如く云って居る。
眼あるものは見よ、耳あるものは聞け、彼が向上するの手段を実行するの這裡に、無口の言がある、無声の声がある。
 
一粒の米の問い掛けを、自らの人生の新しい出発点として、盲天外は甦ったのです。彼は村の人から押されて、明治三十一年、三十五歳で余土村の村長になりました。しかしこの時、盲天外の村長就任を巡って問題が起こりました。愛媛県は、初め盲天外が盲目である理由で、彼の村長当選を認めませんでした。盲天外は激怒しました。盲人と雖も公民であり、盲人であることを理由として合法的な選挙の結果を認めないのは人権蹂躙であり、公権力の乱用であるとして、盲天外は県知事と直談判しました。そしてついに村長としての認可を勝ち取ったのです。
盲天外の生まれた地区に、地元の歴史を読み込んだカルタが伝えられています。「余土村是内国博で日本一」。盲天外が村長になって最初に手掛けたのは、村の掲げる目標を「村是」として定めることでした。その村是が、大阪で開かれた内国勧業博覧会で日本一となったのです。村は封建時代からの数多くの問題を抱え、また村民の公民自治の意識も希薄でした。盲天外は、まず村の実態を科学的に把握することが必要と考え、村人に呼び掛けて詳細な調査を行いました。人口構成、土地の調査から始まって、米や麦を毎日どれくらい食べるか。薪や炭、石油を一年にどれほど消費するか。また塩や酒、醤油や味噌についてはどうか。更には肥料をどれぐらい買うかを調べました。そして村全体の生産力を弾き出し、徹底した現状調査の分析を通して、村の課題を明らかにし、あるべき姿を模索したのです。その結果をもとに、七つの村是を定めました。
@良い習慣を身に付けること。
A勤倹貯蓄を勧め、勤勉の美風を養うこと。
B必需品の購入や生産を共同で行うこと。
C恵まれない小作人を保護するための施策を講ずること。
D生産性を高めるため土地の改良を行うこと。
E青少年教育を行い、
Fまた副業を盛んにすること。
 
盲天外は、これらを目標に村作りを進めていきました。先ず盲天外は、青年たちの教育に力を入れました。青年団活動を盛んにし、また専門の技師を招いて農業技術の改良や実習を試みさせました。生活の向上を図るため、農閑期を利用して、伊予絣(かすり)を織るなどの副業を行うことも勧めました。米作りの基本は、何よりも土にあるとして、牛を使って土を深く耕すなど、土地改良に努めました。また耕地整理を他に先駆けて行いました。土を入れ替え、排水路を整備した結果、荒れ地も美田に変わり、一毛作の土地が二毛作の土地へと生まれ変わりました。盲天外が、心を痛めたのが小作の問題でした。明治になって地主と小作の対立は深まっていました。盲天外は、貧しい小作農を支援するため、地主から毎年田圃一反に付き米一升を拠出して貰い、それを公売に付して基金とし、小作農に営農資金として貸し付けることを考え付きました。盲天外は、地主からの米の拠出を実現されるため、村議会の議決による強制的な徴収によらず、村長自ら頭陀袋(ずだぶくろ)を首に掛け、地主を一軒一軒訪問しては、小作農の保護を訴えました。盲天外の行為にうたれて、青年たちがこの運動に加わり、また地主までが加わって、米の積み立ては軌道に乗っていきました。ともに助け合えばこそ、人の世は美しく、互いに助け合うことによって幸福は求められると、盲天外は考えたのです。村は家庭でもあると考えた盲天外は、村の議会の持ち方についても形式的なことは避けました。形式によると会議が理屈だって弁の立つ人ばかりが意見を吐き、沈黙に隠れている尊い意見を聞くことができない。理論はややもすると感情に走って纏まるべき妥協点も発見できず、ために村政は円満を欠く。そんな考えから、盲天外は役場の近くに暮らしていた自分の部屋に議員を集め、炬燵や火鉢を囲みながら、納得いくまで語り合う家庭的な村議会を開くのを常としました。村長在職中、盲天外は少数意見をあくまでも尊重するという態度を貫きました。一粒の米との出会いから、盲天外は、人間にとって愛をもって互いに助け合い、ともに向上を期することが、人生の意味であると考えました。その理想を掲げて盲天外は村政を導いたのです。
 

 
和田:  これは「余土村是」という中に、何箇条か掲げて、纏められているんですが、今の時代に非常に適用される一つは、「日掛け貯金」というふうなものを、その時に始めて、ご自分が最初に袋を掛けて、そしてずっと廻られるというふうなことをされたわけですね。毎日やられたわけです。盲人でありながら、それをやるということは、容易なことではなかったと思います。そういう点で、みんなも付いていったと。その当時助役をした人のお話を伺いましたけれども、「並大抵ではない。結局盲天さんのその誠心誠意のやり方にみんなが打たれて、それに応えるようになったんです」というふうなことを言っておられました。
 
質問者:  先ず一粒米に、盲天外さんはよく「向上」という言葉を使っていますね。
 
和田:  それが完全に出ているんじゃないかと思います。それがまた実践されたと思います。だから博覧会の時に、特等賞でしたか、優等賞でしょうか、とにかく模範村だというふうな折り紙が付いたわけですね。後に村だけじゃありません。道後湯之町の町長もしておられたですが、県会議員もされたわけですし、そうした形で見えないけれども、町のあるべき姿、県のあるべき姿、そういうところの向上を絶えず望んでいられたと。肉体的には見えない。しかし精神的には見えてくる。裡から開かれてきて、しかも人の気が付かないものまで、細かい点まで見えてくる。そういうふうなのが盲天さんじゃなかったでしょうか。
 
ナレーター:  明治四十年、盲天外は三期十年間務めた余土村の村長を辞任しました。そして『一粒米』の本を出版した後、道後温泉に移り住みました。盲天外は、道後でも社会教育活動を続け、ボーイスカウトの連合団長となり、青年男女の教養を高める塾を開き、また悩み事の相談所も開きました。盲天外は、六十九歳の時、町民に押されて、道後町長となり、町の財政の立て直しに力を尽くしました。
 

 
質問者:  嫁から見て、舅の盲天外というのは、どういう人でした?
 
森かね: 盲天さんがね、村をこう歩くんですわ。他を連れて歩きおっても、「この田には水が涸れておる」とか、水田に植えたすぐに、それが「ここの田は水がないの」と言いおったそうです。勘のとっても鋭い人でしたね。
 
質問者:  食事をされる時には、どんな様子だったんですか?
 
森かね:  もう話はせずだったです。無言でね、黙々として、何にも笑ろうたり、話したりせん人でしたね、黙って。もう胡座(あぐら)かいたりしたの見たことないです。きちっと正座してね。
 

 
ナレーター:  盲天外は、日本のキリスト教会の指導者と言われてきた新渡戸稲造(にとべいなぞう)と親交をもっていました。新渡戸稲造は、盲天外の『一粒米』に序文を寄せて、その思想に大きな感動を覚えたと書き記しています。
 
此書の初めを読むに当たり、屡々(しばしば)涙を以て紙面を潤(うる)した。
己が名利を獲(え)んが為には人を害するまで野卑(やひ)な心も起り易い此世の中に、人生の最大要務は萬物の向上を助長するにあり、之を遂ぐるには犠牲を要し、犠牲の目的は人生の円満を期するのだと絶叫する教導者は有り難い。
自ら人生の悲境の極(きわみ)に達し、自殺まで企てたる人が翻(ひるがえっ)って人生の楽観の福音(ふくいん)を説いて呉れるに対し、吾人は何の言葉を以て之に感謝しやうか。吾等はなまじい。眼(まなこ)があればこそ疑惑の念に駈(か)られ、事の軽重をも判断せずに銘々(めいめい)の主張に執着し己れの好む者を正道とし、気に合はぬを邪道と呼んで、一旦己れと所信を異にするものあれば仇敵の如くに視て、狭き世の中を一層狭め、短き命を一入(ひとしお)縮めるが、霊的の眼を具(そな)へた人は肉眼が無くも道を外づさぬ。双脚のみ頼って進む者は、廣き街路に出れば兎角踉蹌として歩みばこそあれもこれも己れの進行を障害するものと心得れど霊光に照らさる人は独立直行して道幅は踵の踏む丈けあれば細き道を辿って目的地に達する。森氏は吾等肉眼を具へた輩の迷ふ路を、無雑作に安楽に踏んで進まれてるのである。
 
盲天外は、道後町長を一年務めた後、昭和九年胃ガンのため七十一歳の生涯を閉じました。盲天外の亡くなった昭和九年頃は、農村は冷害や干魃が相次ぎ、日本は凶作に見舞われていたのです。富士山麓に、米作りに精魂を傾ける農民が住んでいます。勝又清一(かつまたせいいち)さん。美味い米を作るのは、堆肥が一番と、勝又さんは昔ながらの有機農法で自然に適う米作りを続けてきました。勝又さんは、盲天外の『一粒米』の思想に深く感動している農民の一人です。頑なに手作りの農業に拘る勝又さんは、日本人の米離れの一因は、農民が愛情を傾けて美味い米を作ることをしなくなったためではないかと考えています。
 
勝又:  実に感動しちゃったですね。昔の人があれだけのことを、たった一粒という米の見方を、あれだけに詳しく見ているのかなという。現代の人も、やはり米一粒を大切にした気持でもって生産しないと拙いと思ったね。だから実にあの文章を読まして貰って、自分ながらに涙が浮かんできたというかね、ジンときたところがあったね。
妻武子:  私もほんとに一粒も大事にやっていくというかね、その一粒の米の尊いね、人間の命にかかるもんでもあるし、粗末にできないと思ってね。
 
勝又:  一粒だということを、ああいうふうにして表現してくれた先生のこの心構えが実に大事だと思う。だから森先生の考えたということが、眼の見えない―自分らは全部視界がはっきりわかるんだけど―先生は全然見えないというところでもって、それだけのことを表現されたということは、実に尊いと思うがね。だから一粒の小さいものから大事にしていかないというと、大きなものにならないという。大変な量にならないのだというふうな気がするな。だから昔「塵も積もれば山となる」という、その諺とマッチした考え方を育てていくことを、自分でも自覚しなければいけないな、というふうな気がするんだけどさ。
 

 
ナレーター:  愛媛県立松山盲学校。この学校は、明治四十年、盲天外の提唱によって創設されました。盲天外は、村長を辞める時、その退職金をこの学校のために寄贈しました。この学校には、今五歳から三十六歳までの眼の不自由の人たち、八十人が学んでいます。助け合って向上を励まし合う。盲天外が『一粒米』の中に説いている言葉が、この学校のモットーとなっています。
 
先生:  「一粒米」という言葉を知っていますか?
 
生徒A:  聞いたことあります。「一粒米」と言葉を思い付いたきっかけというのは、盲天外先生が盲目になって、失望している時に、一粒の米が膝の上に落ちた時に、ポロッと落ちた時に、なんかこの米というのは、米がこれまでくるには農家の人たちの苦労とか、そういういろいろな人の手を渡ってきたんだなということにハッと気付かれて、それでなんか心に感銘を受けて付けられた名前だと聞いています。そういう何もかもに失望した時に、そういう米一粒との出会いで、そういうことを思って、米一粒からそういういろいろなことをパッと気付かれたというのは、凄いなんかドラマチックなことだなと思って感動しました。
 
生徒B:  盲天外先生は、いろいろといろんな大変な苦労もされていますし、自分も少々の失敗でダメだと思わずに、そうであるけれど上を向いて、という気持で頑張っていくしかないと思います。
 
生徒C:  一粒の米から、人生がまったく反対の方向に向くとか、そういうところは非常に見習わなければならないというふうな感じがします。
 
生徒D:  一粒の米でも大切にできるというか、そういうような人間になれたらなあと思っています。
 

 
ナレーター:  人間の命となる為に生まれてきた米。その実を滅し尽くして、ただの草の実から萬物の霊長たる人間にまで、その命を高める米。盲天外は、一粒の米の辿る犠牲の意味を深く追い求めてきます。
 
一粒米が其身を烹られ、食はれて、全く形骸を滅尽し、始めて人の栄養となり、生命となるといふも。牛豚羊鶏の類が其身を屠(ほう)られ、其身を裂れては、人に食はれて以て栄養となり生命となるも、樹木が切り倒され、断ち裂かれて家屋となり、燃料となるも、燃料となるも、其他魚介蔬菜の類が殺され、切られ、食はれて人の栄養となり生命となって居るのも、一切向上の為に身を殺し、向上の為めに犠牲となる消極の犠牲で、所謂犠牲中の犠牲である。
犠牲なければ、この人の世を連続せしむることができぬのである。犠牲が人の世を連続せしむるものとせば、犠牲ほど価値あるものはない。犠牲は実は高潔である。犠牲は実に神聖なものである。犠牲が新なる生命を造って、向上を遂げて居るのであるから、犠牲は生命の連続を意味して居るのである。
進化律も向上法も、犠牲の手段に由って始めて行はれて居る。人世は全く此の犠牲に依って、生命は生命の連続を為して、波状線を描いているのである。一波は一波を生じ、生じては又滅し、滅しては又生ず、生則滅、滅則生と云ふが如く、無窮無限の命が連続して居るのである。
彼の一粒米が其身を粉にし、其身を焚いて、人の食となりては、能く血液となり、生命となり、進化向上しては居れども、彼等は此の向上の手段を遂ぐる事が出来ないのである。
彼が稲として発育し、結実するにも、之を野生に委せて置いたならば、今日の如き米の進化はないのである。実を結ぶに至るにも、適当の場所を選んで彼れ自ら移つることが出来ぬ。乾湿を適当にすることが出来ぬ、害虫を駆除することが出来ぬ、夫れ故に農夫は苗代を整へ、籾を蒔いてやる、又本田に移してやる、水を注いでやる、又乾してやる、草を取ってやる、営養を与えてやる、害虫も駆除してやる。彼は手なく足なきものである。夫れ故に吾人は彼を運んで臼に入れてやる、釜に入れてやる、又之を粉に挽(ひ)いてやる、飯に焚いてやる、食ふてやるのである。斯(か)くして始めて彼は向上を遂ぐることが出来るのである。木も、草も、禽獣も、虫魚も皆以て此の如くならざるものはないのである。
畢竟(ひっきょう)萬物一切の事物が、向上を遂ぐるに於て、自ら其手段を実行し得ないから吾人は是を助長すべく努むるのである。
米は人間の犠牲となったのをもって尚満足するのではなかろう。吾人は米の犠牲に感謝すると同時に、吾等人間自らの向上を遂げて、吾等の犠牲になったものの希望を満足させなければならぬ。
我にして此の念なくば、彼が犠牲の精神を空しく終ったならば、犠牲も犠牲でない、却(かえっ)て我の殺生となったのである。依って吾人の向上は、取りも直さず、犠牲となりし一粒の米の新たなる生命を向上させて、其希望を満足せしむるものと云はなければならぬ。故に三度食する毎に是に向かって、合掌低頭しては、其犠牲を感謝し、是と同時に我の向上を遂ぐべく誓はなければならぬのである。
 

 
和田: 盲天外の一粒米の巻頭に次のような歌を残しておられます。
 
もとむれば わがみ よにふる みちもがな
ただ ひとつぶの こめのなかにも
 
ただ一粒の米の中にも、自分がこの世に過ごしていく、その道もあってほしい。「道もがな」とありますから、「道もあってほしい」そういうふうな願いが込められていると思います。それだけに眼の見えない人だけじゃなくて、眼に見える人にも、その道があってほしい。こういうふうな希望がこの歌の中に託されているように思います。あんな小さいなもの、と普通だったら考えられるものの中に、自分の生涯を託し得るような無限のものが潜んでいる。そういうふうなことを確信してのお歌だと思います。最後に非常に大事なことがある。これを盲天外が書いておられます。「畢竟(ひっきょう)予が此の境遇に処して、而して此(かく)の如く楽しく、人世の要務を果さうと云ふのは、只一点の光明を得たからでらう」。一点の光明を得たから楽しく人生を過ごしていこうと。眼の見えないという暗黒じゃなくて、楽しくこの世の中を過ごしていこうと。そしてそこに希望をもつ。これが希望と光明と関連があることですが、そういう世界を開いていこうというふうなところにあろうかと思います。盲天外も最後まで楽しく明るく過ごされていったと、私は思います。
 
ナレーター:  絶望の暗闇の淵から一粒の米によってその命を救われ見事に甦った盲天外。彼は重荷を背負って生きる人々を、次のように励ましています。
 
予(私)は只一粒の米の放てる光明によって、初めて人生の光を認めて、ひいて人生の楽きことを知り、我が身の盲目たることを忘れ得たのである。たとい両目の明かりを失おうても、人生の光明は、盲目であるか否かを区別しない。心の中の光明は、人の世一切の共有物である。両目に光なくとも、また人生に処して人生の楽しみを得ることができるのである。明治三十一年、私の郷里の人は、私をして村長の職に就かしめた。村の人の心中は如何なることを期したのであろうか。私は、この職に就いて、十年村政に与(あずか)った。されどもやってみれば遣(や)れぬこともなかった。十分なる治蹟(じせき)を挙(あ)ぐることはできなかったが、敢えて人後に落つるようなことはなかったつもりである。私が、この境遇にあって、而(しこう)してかくの如く楽しく、人生の目的を果たそうというのは、ただ一点の光明を得たからである。これによって暗黒を照らされて、もって人生に処するの安心を得ているからであろう。この安心を得なければ、また一日の生を全うすることもできぬのである。されば一粒の米より発射した光明が、光を失った私のために、人生の闇を照らし、無尽の燈となって、千万燭光(せんまんしょっこう)の電灯にまさる無尽燈となった。盲目の境遇においてすら、なおこの光明を認むることができる。もし世の眼の見える人にして、それ無尽燈を発見せば、盲目の境遇にまさるもっとも大いなるものがあるあろう。世に失望し煩悶する人よ。決して自ら捨ててはならぬ。尽きることのない光は、常に人の世を照らして、燦然として輝いているのである。
 
求むれば 我が身世にふる 道もがな
ただ一粒の米の中にも
森盲天外
 
盲天外は、人生の中に、一粒の米の命を生かしきって生きた人です。
 
     これは、平成二年五月二十日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである