道をひらく 内村鑑三のことば@迷いと慰め
 
               立教大学名誉教授 鈴 木(すずき)  範 久(のりひさ)
一九三五年、愛知県に生まれる。東京大学大学院宗教学専攻博士課程満期退学。一九六七年立教大学一般教育部、文学部、コミュニティ福祉学部を経て、二○○二年定年退任。立教大学名誉教授。専門は宗教学・宗教史学。主として内村鑑三など、近代日本キリスト教を研究する。著書に「内村鑑三日録」「内村鑑三」「聖書の日本語」「中勘助せんせ」「近代日本のバイブル」「内村鑑三の人と思想」ほか。
               き き て    石 澤  典 夫
 
石澤:  「こころの時代」では、毎月一回、全六回のシリーズで道を拓いた「内村鑑三のことば」と題して、思想家・内村鑑三の世界に注目してまいります。内村鑑三は幕末に生まれ、明治、大正、昭和を生き抜いた思想家であり、そしてキリスト教の伝道者でした。無教会という日本独自のキリスト教信仰のあり方を生み出した人物としても知られています。番組ではこちら今も世界中で読まれております『余(よ)は如何(いか)にして基督(きりすと)信徒(しんと)となりし乎(か)』アメリカ版、フランス版、日本版、そしてドイツ版とあります。さらに多くの人々に影響を与えた講演録『後世への最大遺物』など、内村が残した言葉を読み解いていきます。それでは先ず内村鑑三とは一体どんな人物であったのか。こちらのVTRからご覧頂きましょう。
 

 
ナレーター:  東京目黒区にある今井館聖書講堂。内村鑑三が、晩年まで聖書講義を続けた建物が移築され、今も保存されています。内村は、いわゆる教会堂ではなく、また牧師など聖職者もいないこの場所で信仰の仲間たちと聖書に向き合いました。そして自らの人生を通して読み深めた聖書の教えを語り続けたのです。内村が生きたのは、幕末から明治、大正へと、日本が近代化の階段を駆け上がる時代でした。近代国家の確立が急がれる中、伝統と西洋、国家と個人など、相対する二つの価値観が鬩(せめ)ぎ合い、また幾度も戦争を経験した時代でもありました。北海道開拓に携わる役人、教育者、ジャーナリストなどさまざまな顔をもつことになった内村は、その信仰に基づいた生き方ゆえに、時代の荒波と真っ向からぶっつかる迷い多き人生を歩みます。そうした自分を見詰め、自身の体験を思想に結晶させることを続けました。青年期の日記をもとに、信仰者としての原点を綴った『余(よ)は如何(いか)にして基督信徒となりし乎(か)』、そこで内村は次のように語っています。
 
私は、自分自身を、注意深い観察の材料にしました。その結果、自分というものが、今までに学んだどんなものにもまして、不思議な存在であることがわかりました。
私は、その向上と進歩、堕落と後退、歓喜と希望、罪業と悪事とを書きとめました。
私は、自分の日記を、「航海日誌」と呼んでいます。それは、このみすぼらしい小舟が、罪と涙と多くの苦難とを通り抜けて、天上の港に向かう、日々の進み具合を記したノートであるからであります。
 

 
石澤:  六回にわたってお話を伺うのは、立教大学名誉教授の鈴木範久さんです。どうぞよろしくお願い致します。鈴木さんは、五十年にわたって内村鑑三を研究されてきました。『内村鑑三全集』全四十巻の編集を手掛け、さらに日記や書簡などをもとに、人間内村の実像に迫った『内村鑑三日録』も纏めていらっしゃいます。今この現代にいる私たちは、この前の大地震、あるいは大津波、あるいは原発事故というものを経験してですね、この生きていく今が、根底が非常に揺らいでいる時代だろうというふうに思うんですけども、そういう時代に私たちが、この内村鑑三の言葉に耳を傾ける。その意味というのはどういうところにあるとお考えでしょうか。
鈴木:  内村鑑三は、一昨年が生誕百五十年でありましたから、その前半はまさに近代日本と歩みを共にしてきましたですね。そうすると近代日本の歩みというのは、ご承知のように、日本が西洋に追い越せ、追っかけるというそういう時代です。そうしますと、私の眼からすると、人間というものを超えた存在―「超越的な存在」と、仮にここでは言っておきますが―「神」と言っていいかも知れませんが―超越的な人間を超えた存在を一つは忘れました。それから合わせて同じようなことかも知れませんが、人間を超えて、あるいは人間と対する存在、「自然」―「天然(てんねん)」と内村は言いますけどね―その二つを忘れてきたのが近代日本だろうと思いますね。それから結果が何をもたらすか、ということを、おそらく日本人の中で、いち早く自覚し説いた―予言者というのはちょっと言い過ぎかも知れませんが、先覚者と言ってもいいだろうと思います。ついでに言いますと、一番おそらく近代の日本人の中で、「個」というもの―「個人」というものの大切さを強調した一人じゃないかと。「個」の大切さというのは、民主主義の上でも非常に大事な概念だと思いますけど、それをおそらく最も強く強調した思想家の一人だろうと思います。
 
石澤:  時代が、全体主義で大きく動いていた、まさにその時代に生きていた内村が、実は「個」を大事にしていた。
 
鈴木:  はい。彼はその意味で、単なる孤独と言うんじゃなくて、「単独者」という言い方をしますけどもね、「単独」という。
 
石澤:  そうすると、内村鑑三の考えていたこと、思想というのは、キリスト教の信仰を、もっているとか、もっていないとか、そんなこととは関係なく、今の時代を生きる私たちすべてに意味があると。
 
鈴木:  ですから、その根底には確かにキリスト信仰、内村なりの理解した信仰があったことは否定できませんけれども、キリスト信仰をもっていないとその思想がわからないかというと、そうではなくて、万人に通ずる、世界の誰にでも通ずる、そういう思想だろうと、私は考えています。
 
石澤:  これから詳しくお話を伺っていくわけですけど、その内村鑑三にはどういう特徴があるのかという、先ず全体像を伺いたいんですが、これはどうでしょう。
 
鈴木:  いろいろな宗教家がいますが、内村鑑三の場合は、特に彼が札幌農学校で自然科学を勉強したせいもありますが、言葉でいうと、「実験」ということを非常に強調した人ですね。自然科学的な実験ではなくて、人生も実験という。自分の実体験、それによって人生の生き方を切り開いてもきましたし、
 
石澤:  頭だけで考えた観念だけではないということですね。
 
鈴木:  はい。失敗も交えてですね。内村ほど失敗の人生の人もそう多くはないと思います。ですからそういう意味で、私なんかもなるべく内村鑑三というのを、伝説的な内村、狂騒的な内村ではなくて、生身の等身大の内村として見ようと言うことを多少努めてきた覚えがあります。
 
石澤:  それでは弟子たちの目には、内村がどう映っているのか。人間内村の、言ってみれば迷いの人、内村の息づかいを伝える二人の弟子たちの文章をお聞き頂きましょう。
 

 
ナレーター:  内村鑑三は、明治三十年代、毎年聖書を学ぶ夏期講談会を開催していました。内村を慕って集まって来た多くの若者たちの間に、後に作家となった志賀直哉(しがなおや)(1883-1971)がいました。志賀直哉は、二十五歳の時、小説の題材にもした悩みを内村に打ち明けています。親の反対を押し切ってある女性と結婚したいと相談したのです。
 
先生は腰かけたまま机の横桟(よこざん)に足を突張(つっぱ)って、椅子ごと仰向けになられ「困ったなあ」と大きい歯を露(あら)はし、笑ひながら、嘆息をされた。私は此時(このとき)程先生を親しく身近に感じたことはなかった。先生は、「仮に僕がそんな事を認めたとすればどうなると思ふか」と云はれた。黙ってゐると、先生はしんみりした調子になって、「僕にもそういう経験はある。その時は死を想った事さへある」といはれた。
(志賀直哉「内村鑑三先生の憶(おも)ひ出」「婦人公論」二六巻三号、一九四一年三月一日)
 
後に東大総長となった矢内原忠雄(やないはらただお)(経済学者、元東大総長:1893-1961)は、第一高等学校時代に、内村鑑三と出会います。キリスト教に接することなく、この世を去った両親について、内村に質問をした思い出を次のように語っています。
 
私は、父と母との死後の運命についてお尋ねしたのですが、先生は横を向かれて、「僕にもわからん」と、一口いわれただけだったので私は仕方なく立上(たちあが)って、頭(こうべ)をたれて、有難う御座いましたといって悄然(しょうぜん)と立去ろうとした時に、ちょっと待てといって呼び止められ、「そういった問題は一生かからなければ解らない問題だ。何よりも、君自身の信仰をよく磨いて行くように。君自身の信仰生活が進んで行けば、そういう問題はいつ解るともなく解るものだ」、とおっしゃった。
内村鑑三先生は私に沢山(たくさん)の事を教えてくれたけれども、「自分にも分らない」といって下さったのが、最大の教訓でね。
(矢内原忠雄『銀杏(いちょう)のおちば』一九五三年)
 

 
鈴木:  単に私も最初そうでしたけれど、内村鑑三という人間は、顔付きもちょっとそうかも知れませんが、厳しくて強くて近寄りがたい。そしてバーンとこう何か語って、人に押し付けるような、そういうイメージをもっている人が、今でも少なくないと思いますね。ですが、内村鑑三は、むしろ今の話にありましたみたいに、同じ目線と言いますか、そこまできて、そして青年たちと一緒のところで、「困ったなぁ」と自分の経験を交えながら言っていますね。内村鑑三自身も同じような結婚の問題で、後で出てきますけど、苦い思いがありました。
 
石澤:  でも信仰が進んでいけば、そういう問題もいつわかるともなくわかるんだというんですが、これはどういう意味なんでしょうか。
 
鈴木:  本で読んだり、人から話を聞いてわかるようでは、ほんとにわかったものではない。自分の経験、体験の中から身に沁みてわかることがほんとにわかるんだと。それにはそういう、矢内原なら矢内原のように、そこで問いを諦めではダメで、その問いをいつも心にもって、そして続けていくことである。そういう続けていくことの大事さを、内村は強調したことですね。そうだろうと思います。
 
石澤:  内村が生きた時代というのは、冒頭でも申し上げましたけども、幕末から明治へと、日本が鎖国を解いて、列強と肩を並べるために西欧文化を積極的に取り入れたそんな時代であるわけですね。そのただ中に青年期を過ごした内村、さまざまな葛藤を抱えて生きていくわけです。キリスト教との出会いも、その一つでした。
 

 
ナレーター:  群馬県高崎市、高崎城のもとに栄えた城下町です。鑑三は、幕末の一八六一年、高崎藩士内村宜之(うちむらよしゆき)の長男として生まれました。父宜之は、藩士の側近を務めた儒学者。鑑三は幼少の頃から孔子や孟子の言葉を暗誦させられ、主君への忠誠や国を尊ぶことを教えられたと言います。ところが高崎藩は明治四年(1871年)に廃藩。父宜之は四十歳で職を失います。鑑三は十三歳で上京。新しい時代を生き抜くために、東京外国語学校で英語を学びます。のちの東京大学予備門。そのまま進めば東大に入学できました。しかし鑑三は、十七歳で奨学金が約束された札幌農学校へ進学。その理由の一つは、家の困窮だったと考えられています。北海道開拓のために設立されたばかりの札幌農学校。鑑三はその第二期生でした。そこでは、ウイリアム・クラーク(William Smith Clark:札幌農学校(現北海道大学)初代教頭:1826-1886)が目指したキリスト教に基づく倫理観の育成など、学門だけでない人間性そのものを育てる全人教育が行われていました。入学生全員に聖書が支給され、講義は外国人教師による英語。衣服も食事もすべてが洋風でした。そこは北の果て辺境の地に突然出現した西洋社会だったのです。入学した鑑三を待ち構えていたのは、キリスト教入信の誓約書でした。既に入信していた上級生が、新入生全員に誓約書への署名を迫ったのです。鑑三は、そのことに強い抵抗感を抱きます。
 
幼いころから私は、なによりも祖国を尊ぶこと、祖国の神々を拝して、他の神々を拝してはならないことを教えられてきました。祖国の神々と異なる神に忠誠を誓うのは、たとえ死ぬ目にあわされても、できないと思いこんでいたのであります。ある日の午後、私は、近くの神社に参拝しました。枯れ草のうえに私はひれ伏し、待ちかねたように祈りはじめました。異国の神を受け容れない者をかたくなに排撃する連中を罰し、そのときなりの愛国心にもとづく、私のささやかな努力に助力を与えるように祈ったのであります。
(『余は如何にして基督信徒となりし乎』)
 

 
石澤:  前近代的な武士の家に生まれた内村にとって、キリスト教入信へ、それを強要されたというのは、相当大きなプレッシャーであったんでしょうね。
 
鈴木:  上級生がほとんどキリスト教に入信していまして、そして元気な、信仰の上でも燃えていた時ですから、まさに新入生たちが入ってくるのを待ちかねたように襲いかかってきたと思いますね。ところが内村自身は、今紹介がありましたみたいに、ちょっとあの頃でも異常なほどの多神教の神社にこだわっていますね。
 
石澤:  それは多くの日本人も抱えたかも知れません。とりわけ内村の中では、日本の多神教の神々と、それからキリスト教、この対立というのは、限りなく大きかったということでしょうか。
 
鈴木:  特にその辺が、内村の特徴が出ていますね。
 
石澤:  というのは?
 
鈴木:  おそらく高崎の人でも、多神教があってもほどほどに付き合っていたんだろうと思いますね。
 
石澤:  内村はほどほどができなかった?
 
鈴木:  できない。ある人のタブーはしっかり守ろう。ある人が歯を痛めるというと、それを徹底して守ろうとする。必ずどちらかの神と衝突しますね。そのことでむしろ悩んでいたぐらい拘りを見せた。
 
石澤:  しかしそんなに拘っていた内村ですけども、入信するための契約書にサインを致しますよね。この変化をどうみたらいいんですか。
 
鈴木:  一つは、当時の札幌農学校の学生生活を想像すれば意外に分かり易いかも知れませんが、ほとんど西洋式の生活が営まれております。それは私なんか想像するに、アメリカのニューイングランドの一角をちょっと取ってきて、それを札幌の地へ移植したような、そういう生活だったと思いますね。
 
石澤:  札幌農学校が社会そのものであったという。
 
鈴木:  そうです。そしてそこで上級生も自分たちも、まさに一つの共同体を作っています。そうすると、それに抵抗することは共同体を去るしかない。そういう厳しい状況があって、しかも内村の中でも同じ東京英語学校時代からの学友だった新渡戸稲造(にとべいなぞう)―名前は当時違いましたが―宮部金吾(みやべきんご)、こういう人たちが先にサインをしてしまう。そうすると内村もせざるをいないような状況からだったと。必ずしも進んでとは言えないと思いますが。
 
石澤:  そうやってまあ嫌々入信したキリスト教の世界であり、信仰でありますけども、内村は生涯それを持ち続けるわけですよね。勿論続けることになるわけですけど、これは何が彼を変えたんでしょうね。
 
鈴木:  彼のその頃の言葉で言いますと、「肉の兄弟よりも親しい兄弟関係がそこに、その仲間入りに自分はしたんだ」という。信仰が核になった共同体は、肉親の兄弟よりも強い兄弟愛というものがそこで得られたという実感をもったと思います。
 
石澤:  血を分けた兄弟よりももっと濃い世界だということですか。
 
鈴木:  はい。それほど深い人間関係がそこで一つは得られますね。そして併せてそういう仲間と一緒に今度は楽しく外を散歩すると、初めて居ながら気が付いていなかった北海道の大自然に接して、今まできっとそんなゆとりもなかったんだろうと思いますね。その二つが結果としては得られた。
 

 
ナレーター:  内村は、キリスト教入信後の心境を次のように語っています。
 
神は一つであり、多数でないことは、私の小さな魂にとり、文字どおり喜ばしきおとずれでありました。もはや東西南北の方位にいる四つの神々に、毎朝長い祈りを捧げる必要はなくなりました。私を支え見守る、神々のなかの神を見いだしていたのですから、もはや祈りを唱えなくても罰のあたることはないのだ、という確信に充ちていたのでありました。神はただ一つという考えは、私を新しい人間にしました。新しい信仰による新しい精神の自由は、私の心身に健全な影響を及ぼしました。私は、野山を歩きまわり、谷の百合、空の鳥を眺め、自然を通して自然の神との交わりを求めました。
 

 
石澤:  多神教のタブーから解放された喜びが、今の文章から伝わってくると思うんですけども、さらに内村は自然の神との交わりを求めたんだと記しているんですけども。
 
鈴木:  内村は好んで、「自然」というより、「天然」という言い方をしますし、そして英語でも「nature」という場合も、「n」を必ず大文字で書いたりしますけど、その辺にも内村の自然というものが、ただの物理的な自然ではなくて、人間を超えた、ある面では神によって創られたものであるけれども、人間と対照的な存在というふうで、そういうような人間を超えたものとして受け取っていたと思いますですね。後にも彼は、神を語るもの、神を示すものとして、「歴史」と共に「天然」というもの、そして「聖書」を三つの大きな要素と、三つの三大物として挙げたりしますけど、天然はこれは外国の人にも一部あるかも知れませんけど、日本人としての内村の際立った特徴に凄くなってきますね。
 
石澤:  そうした心境の変化というのは、農学校での友人たちとの関係、これにもやっぱり影響してくるものなんでしょうか。
 
鈴木:  ええ。そうだと思いますね。先ほども言ったかも知れませんけど、そういう同じ仲間として東京から来た新渡戸稲造(農学者・教育者・倫理哲学者:1862-1933)と宮部金吾(植物学者。北海道札幌市名誉市民:1860-1951)と内村の三人は、札幌農学校を卒業する時に、将来自分たちは卒業した後も、「Jesus(ジーザス) とJapan(ジャパン) のために身を捧げよう」という誓いをするんですね。だから「Jesus(ジーザス)」の「J」と「Japan(ジャパン)」の「J」をとって、「二つのJの誓い」ということを、この三人はその後もずっとモットーにして人生を歩むことになります。
 
石澤:  ジーザス (Jesus) というのは、イエス・キリストの「イエス」のことですね。「Japan」というのは、「日本国のために」ということですか?
 
鈴木:  はい。ジーザス (Jesus)というものに与えられて、あるいは培われたものは、とても一生捨てがたいほどの刻印を魂に与えられましたし、そうかと言って当時の人にとって日本人というのはそう簡単には放棄できるものではありませんし、その二つはほぼ同格に思って、それで二つのJのために一生一身をささげようと二人と誓い合うんですよね。
 
石澤:  さて札幌農学校で得た内村鑑三のキリスト教信仰でありますけども、この後起こる人生の大問題をきっかけに、その信仰は大きな転機を迎えます。
 

 
ナレーター:  札幌農学校を卒業した親友の三人は、それぞれの道を歩み始めます。新渡戸稲造は東大へ進学、宮部金吾は札幌農学校の教師になりました。一方内村は、北海道開拓士や農商務省の役人として水産学調査の仕事に就きます。二十三歳の時、内村は全国のキリスト教信徒が集まる親睦会に参加、近代日本のキリスト教の礎を築いた人々と出会います。新島襄(にいじまじょう)(宗教家、教育者。同志社英学校(後の同志社大学)を興した:1843-1890)もその一人でした。その新島襄が設立した安中(あんなか)教会。内村はここで一人の女性と知り合います。新島襄から洗礼を受け、同志社女学校で学んだ新しい時代の女性でした。内村は、この女性と信仰を共にする家庭、小さな共同体を作ろうとしました。親の反対を押し切って結婚。ところがその結婚生活は、半年で破局を迎えます。それは内村にとって信仰上の挫折でもありました。親友宮部に宛てた手紙で、内村は苦しい胸の内を明かしています。
 
友よ、僕に関する驚くべきことを汝に打ち明けなければならない。僕は、僕のカミ以外だれにもわからないつらい苦しみを味わされた。僕は長期にわたり、その苦しみのもとを探したが、なにも見つからず、責めは僕自身にあると思っていた。ところが最近になり、我が家を長い間煩わせていた秘密が明らかになったのだ。ああ!ああ、それは、なんと僕を助け、慰め、力を貸してくれる人であると思い込んでいた「彼女」が、悪の張本人であり、羊の皮を着た狼であるとわかったのだ。
(原英文。一八八四年一○月二七日付、宮部金吾あて書簡)
 
よき妻を望んだ僕の祈りはその正反対の形で報いられたのだ。父なる神よ、僕は何をしたため、これほどの厳罰を受けるのでしょうか。
 
内村は人生の再起を図るため、農商務省の役人の仕事を捨て、借金をし、自費でアメリカに渡りました。
 

 
石澤:  家族の反対を押し切ってまでした結婚だったわけですけども、この結婚は何故破局を迎えたんでしょうか。
 
鈴木:  内村はまさに信仰が軸になっている。そして新しい人間関係のある家庭と言ってもいいかも知れませんが、そういうホームを作ろうとしたと思いますね。ところが現実はどうかと言いますと、農商務省に勤めたりしますから、長いこと、しかも長期の出張が多いんです。そうすると相手の女性は、その結婚に反対した母親とジッと同じ家に生活しなくちゃいけません。とてもおさまる女性ではなさそうですね、そういうことに。それでだんだん仲が、内村が望んだような明るいホームじゃなくて、暗い陰湿な家に変わっていったんだろうと思います。
 
石澤:  非常に激しい口調で手紙を書いていますものね。
 
鈴木:  そうすると、何故アメリカに行ったかということになります。札幌農学校の起源はアメリカからきていますね。アメリカのニューイングランドのキリスト教です。そうすると内村の中にイメージとして、アメリカの母国のキリスト教というのは、おそらく日曜日になると敬虔な信者たちが、鐘の音に乗って、方々から小高い山の十字架の立っている教会へやって来て、敬虔な祈りを捧げて、そしてまた次の一週間を過ごしていくだろうというような、甘い―今から思えば甘いんですが―そういうような幻想があったと思いますね。それによって彼自身は、自分の崩れかかった信仰を、ひょっとすると再建を図ろうとしたんじゃないかと思う。だからとにかく心の信仰を癒すこと、そして自分の信仰の再建をアメリカのキリスト教に求めようとしたというのが理由だと思いますね。
 
石澤:  しかし渡航費も借金をしてまでして行くわけですから、アメリカに無事に渡ったとしても、そこでの活動・暮らしというのは、そう容易なものじゃないですね。
 
鈴木:  そうです。しかも当時のアメリカは必ずしも楽な情勢―時代ではなかったようで、なかなか就職口が見つかりません。
 
石澤:  内村はどうしたんですか?
 
鈴木:  それでたまたま見学に行ったフィラデルフィア近郊のエルウィンにあるペンシルベニア知的障碍児養護院という知的障害の子どもたちの教育施設がありまして、そこへ行って事情も話したところ、そこの院長のカーリンという人が、「ちょっとここで働く気はないか、ちょっとね」というような感じで。内村もちょっとぐらいのつもりで、とにかく食べていかなければアメリカでの生活も成り立ちませんから、そして年末にアメリカへ渡って、その正月からそこの施設で、いわば看護人というようなそういうポストで仕事に入りました。まだ具体的には、そこでは知的障害の子どもたちがいます。子どもによっては十分自立してできない子どもたちがいます。そうすると、下(しも)の世話をして、しかもそれをやっている自分を、子どもたちは「ジヤプ、ジヤプ」とバカにする。農商務省のお役人というのは、当時は今より遙かに偉かったと思いますね。そこで安定した生活をしておった。ところが、一夜明けてアメリカへ来れば一転して、あまりにも落差が激しいですね。だからこの落差というものを、とにかくそれでも毎日があるんだから、と受け止めていかなくては給料も入りませんし、
 
石澤:  しかしなかなか受け止めて、と言っても、受けがたいですよね。そういう状況をどう内村は乗り越えていったんですかね。
 
鈴木:  最初は、彼は自分がああいう親の意志を無視して、ある女性に夢中になって、神も親もみんな忘れたように無視しちゃって、そして自己中心の生き方をしたことの罰だと、最初は。これは罰じゃないかと。罰だから我慢してやらなくちゃいけないと最初は受け取る。だけどそのうちにちょっと変わりましてね、内村がよく当時偉い人の伝記など盛んに読みましたけれども、例えばルター(マルティン・ルター: 宗教改革の中心人物となったドイツの神学者)がいます。彼が、宗教改革をするまでは修道院で非常に試みにあうような、試練に耐えるような、そういう生活をして、それの結果がやがて宗教改革に導かれますが、あるいは内村は、ルターにもまして、お父さんから言われた言葉ですね、例えば孟子の言葉(天の将(まさ)に大任を是(こ)の人に降さんとするや、必ず先ずその心志を苦しめ、その筋骨を労せしめ、その体膚(たいふ)を餓せしめ、その身行(ふるまい)を空乏せしめ、その為さんとする所を払乱(ふつらん)せしむ。心を動かし性を忍ばせ、その能くせざる所を増益せしむる所以なり)を、内村は何度も引用しますけど、「天は大きな任務を与えようとする者を先ず試みに会わせると。そしてその試みに耐えた人間には、天は大任を与えようとする。大きな任務が自分には待っている」と。それとキリスト教と、両方がごっちゃになって、綯(な)い交(ま)ぜになりながら、罰の次は試練だというふうに、この試練を克服しなければいけないというのが、次のエルウィンでの生活の課題になってきますね。
 
石澤:  しかしそれは時が経ってしまえば、なんということもなかったでしょうけど、その最中に身を置いていたら、いつまで経ったら自分は救われるんだと、こう悶々としますよね。
 
鈴木:  かなり限界状況に達して、祈りが激しくなって、もうそういう状態になると、続けることができないと思った時に、たまたま新島襄がアメリカに訪れていまして、それで新島の薦めるマサチューセッツ州のアマスト(アマスト大学とマサチュウセッツ大学がある)へ行くことに決断しますね。そこで何人かの先生たちに出会いますが、特に内村に影響を与えたのが、学長のシーリーという先生でしたね。シーリーは、一遍日本へ来たこともありますし、内村という異国から来た青年を、特に心のケアには気を配ってくれた人ですね。
石澤:  そうすると、この悩みの中でも潰れてしまいそうであった内村にとっては、一筋の明かりと言いましょうか、シーリーというのはそういう存在だったということですか。
 
鈴木:  そうだと思います。そこへシーリーがある時、ふっとヒントを与えたわけですね。
 

 
ナレーター:  先生はある時、余に教えて云ふた。徒(いたずら)に自己の内心のみを見ることを廃(や)めよ。貴君(きみ)の義は貴君の中にあるに非ず、十字上のキリストに在るのであると。この一言は余の信仰に大革新を起こさしめた。汝の義とせらるるは汝の努力に由(よ)るに非ず、汝自身如何に自己を聖(きよ)めんと欲するも聖むる能はず、汝の義は汝自身に於てあるに非ず、汝の罪の為め 其身を十字架に釘(つ)けられ給ひし かの主イエスキリストに於てあるなり。
(信仰の三段階)
 

 
鈴木:  内村が当時苦しんでおりました罪の克服としての罰から、試練という―自分の力、自分の努力によって耐えていこうと内村はしておりました。ところがシーリーは、「それではダメなんだ。自分の力で自分を聖(きよ)くしようとしたって、とてもできるものではない。そして内村の苦しんでいる自己克服の道というものは、自分の方から自分の力で生きるのではなくて、自分の罪に代わって十字架に釘(つ)けられて死んだイエスキリストにおいてあるんだ」と。このキリスト教では、他の宗教と違って、キリスト教というふうに、「キリスト」が付いています。その「キリスト」という意味が、まさにここの言葉にあるだろうと思いますね。というのは、どういうことかと言いますと、キリストが十字架に架かって死んだ意味・意義は、人がどうしても自力で罪から脱却できない。それに代わってキリストが十字架に架かって死んだんだという、そういう意味を、キリスト教では非常に中心的な考え方としてもっています。だから「内村よ、何故キリストが十字架の刑に遭って死んだのか。その意味の方を先に考えなさい」というようなヒントを与えたわけですね。それは結局そういうことで、苦しんできた者にとっては、ハッとした転機になったと思いますね。ちょうど視点の逆転と言いますか、こちら側からだけ見ていたのを、あっち側から見るという。そういう視点を与えられると、アッと解決が意外にできる。しかしその前提としては、自分の努力によって試練を克服しようとするギリギリまでいっている人はわかるだろうと思いますね。
 
石澤:  何もしないんじゃなくて、
 
鈴木:  内村の場合は、そういう限界状況にきていたと思いますね。
 
石澤:  言ってみれば、信仰上の大転機とは言いましょうか、それもこれもこのエルウィンでの生活が起点になるということでしょうかね。
 
鈴木:  それまでのエルウィンで、あそこで先ほどもちょっとお話したみたいに、非常に辛い罰と受け取ったり、試練と受け取ったりする生活がありました。ところがそういう生活を続けている間に、そこに内村は後に名前を出しておりますけど、ダニーという少年がいて、どうしても言うことを聞かないという少年だったようです。それに対して内村は困った時に、自分が断食をして、その断食はダニーのためにしているんだということが、今度は仲間の少年たちに伝わったんですね。そうするとダニーも、少年たちが内村を救おうとか、内村がこんなことまでしているんだということで、つまり内村とその子どもたちの間に初めて心の通い路が開けた事件だろうと思いますね。その結果内村は、もうそれまである面では内心そういう仕事をしながら、ひょっとしたら小バカにしていたかも知れません。自分の方が偉いし、自分の方は教養もあるし、自分の方はいろんな努力もしてきた。だけど、そういう子たちの中に、自分とまったく変わらない同じ人間としての「共通の心霊」―「心の霊」という言葉を使っておりますけど―「魂」と言っても、「ソール(soul)」と言ってもいい―同じものがあるんだということに気付くわけですね。だから人間の努力というものは、何ももたらすものではないというエルウィンでの経験が、シーリーのそういう思想を、人間の努力でないという意味で受け入れる基盤になっていた、と私は思います。
 
石澤:  この信仰の深まりを経験した内村は、伝道者となるために今度は神学校へ進むわけですけども、その志半ばで日本に帰ることになります。そして日本で思わぬ事態に直面します。
 

 
ナレーター:  伝道者の道を志した内村は、二十七歳でコネチカット州のハートフォード神学校へ進みました。しかしそこで教えられる多くは、教会の運営方法や経済的な基盤作りなど、内村が求めていたキリスト教の本質ではありませんでした。内村は、牧師の資格を得ることなく帰国を決意します。その時内村は、アメリカで使っていた聖書を携えていました。その見返しには、内村のある決意が書き込まれています。
 
I for Japan (自分は日本の為に)
Japan for the World (日本は世界の為に)
The World for Christ (世界はキリストの為に)
And All for God (凡ては神の為に)
 
キリスト教国アメリカで、矛盾に充ちた社会の現実を目(ま)の当たりにした内村は、日本にこそキリスト教の理想を実現したいと考えます。内村が抱いたキリスト愛国の志。しかしそれが時代の潮流と悉くぶつかることになりました。
 

 
石澤:  今出てきた内村鑑三が掲げた「キリスト愛国」という考え方ですけど、これはどういうものだったんですか。
 
鈴木:  内村はキリスト教の勉強をしようとしてアメリカへ行きました。しかし内村の見たアメリカは、もうそのキリスト文明が落ち目に向かっている、衰退期に入っていると。それに対して日本はどうかというと、まだほとんどキリスト教には未知数の国であると。だからこういう若いキリスト教の未知数の国にこそ内村の考えたキリスト教文明、あるいはキリスト文明国が形作れるんじゃないか。そして形作るための一働きを、自分は日本に帰って参加しようという、そういう意気込みで帰ります。その言葉を象徴するのが、まさに「キリスト愛国」というジーザスとジャパンとを両方活かした日本人を作ろうという、そういう意気込みで帰ってきました。
 
石澤:  しかし実際は内村の考える「キリスト愛国」を実現するには当時の社会―日本社会とは上手くいかなかったわけですよね。
 
鈴木:  そうです。その場合に大きく言って、二つ大きな挫折をします。一つ目は、ジーザスとジャパンですけども、内村は新島と同じ教派の運営する北越学館という新潟の教育機関に教師として赴任します。内村が赴任した一つの大きな理由は、そこは土地のキリスト者が自主的に運営している、そこに惹かれたと言っておりました。しかし現実に行って見ると、宣教師たちがやっぱりかなり力を振るっていますし、そしてもう一つは、内村はキリスト教徒が聖書ばっかり教えておっては、キリスト愛国のジャパンの方はダメになると思って、そして実際にも日蓮宗の僧侶を呼んだり、論語を教えたりとか、そういう日本人には日本的な教養が要ると思って、そういうものをやろうとして、それも学校当局と対立しましたね。そして裏には多少政治的な勢力も絡んではいますけれども、行ってわずか三ヶ月ぐらいで霙降る寒い日に新潟を追われるようにして戻ってきましたね。二つ目は、暫くしてから友人の木村駿吉(きむらしゅんきち)というキリスト教の人がいました。物理学者です。最初の物理学教科書を作った人とも言われております。その人が一高(第一高等中学校)の先生をしておりました。そして内村を一高に世話をするんですね。世話をしていたところ、例の教育勅語が一八八九年に発布されて、暫くして一高とか東大(東京大学)には、明治天皇が「睦仁(むつひと)」という署名を墨でした特別の教育勅語が配布されました。そうしたら今度は特別の奉読式―その勅語を読む儀式をするわけですね。それは実相(じっそう)はどうかと言いますと、教育勅語にある明治天皇の署名に対して奉拝をするという、そういう儀礼ですね。内村は、例のキリスト教の一番の骨格の精神でもありますように、「汝の神以外はすべて神として拝んではいけない」という、一番大切な思想があります。そうすると、その署名に対して奉拝をするということが、神以外のものにも拝むことになりやしないかという躊躇が残っていましたね。当時の内村ですから、「天皇は尊敬しておる」ということは言っておりますが、「天皇の、ましてや署名を神として奉拝することはできない」と言って、曖昧な、されたのか、されないのか、わからないような態度で引き返したんですね。そうしたらそれが不敬として一高の先生、それから学生からわぁっと非難が起こって、それがさらにマスコミに広がる。
 
石澤:  けしからん、というわけですね。
 
鈴木:  そして国粋系(こくすいけい)の新聞・雑誌―まあ何百種類と書き立てられました。次々と内村の家へいろんなのが押しかけて来て、罵声を浴びせたり、投石するなど、とにかく大変な目に内村は遭うわけです。結局は一高からも結果的には逐われた形ですね。
 
石澤:  まさに四面楚歌の中で、内村はこの状況でどうやってこの後生きていこうというふうに思っていたんでしょう。
鈴木:  彼としては、定職は見つからず、そして臨時的に学校へも行ったりとか、そして定まるポストもないまま京都に住んでいました。就職ができないなら、文筆で立つしかないと思って、『余は如何にして基督信徒となりし乎』『基督信徒のなぐさめ』『日本及び日本人』とか、そういう著作が生まれますね。
『基督信徒の慰(なぐさめ)』の「もくじ」には、
 
第一章 愛するものの失(う)せし時
第二章 国人(こくじん)に捨てられし時
第三章 基督教会に捨てられし時
第四章 事業に失敗せい時
第五章 貧に迫りし時
第六章 不治の病に罹りし時
 
とあります。その序文では、彼は、「自分の実話ではない」とは言っております。言っておりますけれども、例えば第一章の「愛するものの失(う)せし時」というのは、彼が一高時代に迫害に遭って、その直後に流行性感冒(流感)で倒れて寝ている、その時は再婚してかずさんという奥さんがいましたけど、その後奥さんが亡くなります。そして第二章の「国人(こくじん)に捨てられし時」というのは、まさに不敬事件の結果ですね。そして第三章の「基督教会に捨てられし時」というふうに、不敬事件の結果キリスト教会が彼を弁護するどころか迷惑をかけたと言って、内村を非難しました。みな私から思うと、彼の実経験―自分の生々しい体験をそのまま文にして、ある程度それが評価されました。
 
石澤:  さてそれでは、愛国者でありながら、国人に見捨てられた内村鑑三。その窮状に瀕した内村の心情を伝える一節をご覧頂きましょう。
 

 
ナレーター:   嗚呼(ああ) 余も今は世界の市民なり、
斯土(このど)の外に国なしと思ひし
狭隘なる思想は、今は全く消失せて、
小さきながらも世界の市民、
宇宙の人と成るを得しは、
余の国人に捨てられし
めで度(たき) 結果の一(ひとつ)にぞある。
然らば宇宙人となりしに由り
余は余の国を忘れしか、
嗚呼 神よ、
捨てられし後は
国を慕ふは益々切なり。
(『基督信徒の慰』)
 

 
石澤:  今の文章の中にある「世界の市民」とか、「宇宙の人」という、これはどういう意味合いなんでしょうか。
 
鈴木:  これは、キリスト教は特にそうかも知れませんが、宗教の思想とか、宗教に関わった人にとっては、現実に対して、現実を超越した世界というもの―キリスト教では「神の国」というものを、朧気には一応知ると思います、あるいは教えられたりすると思います。しかしその輪郭は曖昧なのが普通の人じゃないかと思います。ああ、神の国はあるんだとか、神の国はどうのこうのと聖書にも書いてある。だけど何か実感のない、そういうものだったんだろうと思います。ところが内村の場合は、実体だと思ったこの余の国からほんとに捨てられたという、そういう経験によって、自分は国がないと思っていたけど、初めてそういうことによって自分を受け入れてくれる国というものとしての神の国があるんだ、ということを、初めてそれこそ経験から実感したんだろうと思いますね。
 
石澤:  そういう内村が、「宇宙人」という言葉を使っていますけど、宇宙の人になってしまえば、自分の国という、まあちまちましたことをどうでもいいのかなと思うんですが、「益々慕わしくなる」と言っている。これはどういう心理なんでしょうね。
 
鈴木:  これはほんとに、私も、この余の国から決定的に捨てられたものがないから、なかなかわかりにくいでしょうけど、私も内村と全く同じで、わからないことになりますが、内村の思想の特徴を考えると、彼は常に今ある場というのを非常に大切にします。そういう面で、その宇宙の国と知った以上は、じゃこっちは要らん、お役ご免だと言わないところが、彼の思想の特徴で、むしろたまたま生まれた国は、愛するに足らないけど、生まれた大事な国であるという、この両方並び立つ、こういう思想は内村の特徴でもあると思います。
 
石澤:  二つの矛盾を抱えたまま生きていくということですか。
 
鈴木:  そうです。
 
石澤:  それを自分の中に取り込んでいくという。
 
鈴木:  どっちも欠けてはいけない。自分のうちの国だったら、つまらん愛国者になる。単なる愛国だけの愛国者は、内村の言葉で言うと、「ならず者」なんです。そういう意味で愛国を否定して、宇宙の国の住民としての愛国者になる。
 
石澤:  内村が、人生のもっとも困難な時に書いた『基督信徒のなぐさめ』でありますけども、この中で「慰め」という言葉がありますけども、これにはどんな思いを内村は込めたんでしょうね。
 
鈴木:  当時の日本語としての「慰め」は、なにか不幸せになる人を、まあまあ元気を出せよという。ちょうど今日の言葉でいうと、「なだめる」ぐらいの語感だったと思いますね。ところが、私も初めて『基督信徒のなぐさめ』を読んだ時には、そうかなと思いましたけど、決してそうではなくて、もっと積極的な意味が本の中にもありますし、内村は英語の世界を単純に日本語にしますから、英語でいう「comfort」に当たる言葉は、「力づける」という意味もあるようですね。「国人に捨てられた時」とか、いろんな「貧に迫りし時」とか、その度毎に、神からその力を与えられて慰められるという、そういう意味で積極的に言っていると思います。
 
石澤:  有難うございました。
 
     これは、平成二十五年四月二十一日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである