道をひらく 内村鑑三のことばA現世と後世
 
               立教大学名誉教授 鈴 木(すずき)  範 久(のりひさ)
               き き て    石 澤  典 夫
 
石澤:  「こころの時代」では、毎月一回、幕末から明治、大正、昭和を生き抜いた思想家であり、キリスト教伝道者でありました内村鑑三の言葉をを読み解いております。二回目の今回は、一高の教師だった内村が、教育勅語への拝礼を躊躇(ためら)い、職を逐われたその不遇の中で、若者たちに語った講演録『後世への最大遺物』を読み解いていこうと思います。内村は、人生の苦悩の中で、この世をなんのために生きるのか。自らの天職とは何かを自問自答しています。自らの実体験を重ねたこの講演は、のちの世まで多くの若者たちに影響を与えました。では先ずこの講演が行われた背景からご覧頂きましょう。
 
ナレーター:  一八八八年(明治二十一年)、二十七歳でアメリカから帰国した内村鑑三は、キリスト教の理想を日本に実現するという、キリスト愛国の志を胸に抱いてきました。帰国後、第一高等中学校の教師となった内村は、青年たちに自らの志を伝えるその仕事に希望をもって臨みます。しかし職を得て間もなく、教育勅語が発布、一高では勅語に書かれた天皇の署名に拝礼する儀式が行われることになりました。神ではないものへの宗教的拝礼を躊躇った内村は、その曖昧な態度から学内の激しい非難を浴びました。やがてそれは不敬事件として世に知られることとなり、国賊の誹(そし)りを受けた内村は、四面楚歌(しめんそか)の立場に立たされます。わずか半年で辞職、その後も内村への非難は止みませんでした。不敬事件の後、内村はなかなか仕事に恵まれません。大阪や熊本の学校に教師として招かれますが、いずれも短期間のものでした。あわせて取り組んだ著述の仕事も、生活を支えるほどのものにはなりませんでした。三十一歳の時に再婚、京都で暮らしますが、家具一つない生活の困窮ぶりに、妻のしづは驚いたと言います。その貧しさは、後に何度も語りぐさになったほどでした。そんな窮乏の中、内村は、一八九四年箱根芦ノ湖畔の旅館を会場に開かれた第六回基督教青年会夏期学校で講演を行います。自分に与えられた一生の仕事とは何なのか。全国から集まった青年たちを前に、内村は自問自答しながら語りました。それが「後世への最大遺物」と題するものでした。
 
時は夏でございますし、処(ところ)は山の絶頂でございます。
キリスト教の演説会で演説者が腰を掛けて話をするのはたぶんこの講師が嚆矢(こうし)であるかも知れない(満場大笑)、しかしながらもしこうすることが私の目的に適(かな)うことでございますれば、私は先例を破ってここであなたがたとゆっくり腰を掛けてお話をしてもかまわないと思います。これもまた破壊党の所業だと思(おぼ)し召されてもよろしゅうございます(拍手喝采)。
そこで私は「後世への最大遺物」という題を掲げておきました。もしこのことについて私の今まで考えましたことと今感じますることとをみな述べまするならば、いつもの一時間より長くなるかも知れませぬ。もし長くなってつまらなくなったなら勝手にお帰りなすってください、私もまたくたびれましたならばあるいは途中で休みを願うかも知れませぬ。もしあまり長くなりましたならば、明朝の一時間も私の戴いた時間でございますからそのときに述べるかも知れませぬ。ドウゾこういう清い静かなところにありまするときには、東京やまたはその他の騒がしいところでみな気の立っているところでするような騒がしい演説を私はしたくないです。私はここで諸君と膝を打ち合せて私の所感そのままを演説し、また諸君の質問にも応じたいと思います。
(『後世への最大遺物』改版)
 

 
石澤:  お話は、立教大学名誉教授の鈴木範久さんです。どうぞよろしくお願い致します。今の様子ですけども、随分くだけた雰囲気で話が始まる講演会ですよね。この「後世への最大遺物」という作品―仕事ですね、これは内村が残した仕事の中では、どういう位置付けになるとお考えになりますでしょうか。
 
鈴木:  おそらく内村の書いた本の中では、一番一般の人に一つは読まれている本ですね。そして合わせて影響の上でも一番大きな影響を与えているそういう本だと思いますね。
石澤:  こちらに一部お持ち頂いたんですが、これも内村の著作ですよね。
 
鈴木:  ええ。だから「後世への最大遺物」の一番最初は、この便利堂というところから出しましたのが最初で、そしてすぐに東京独立雑誌社から小型で出まして、また警醒社(けいせいしゃ)書店から出て、同じ警醒社(けいせいしゃ)書店からこれは関東大震災の後、改版という形で出ました。これはそれぞれ何版も重ねて出ますから。
 
石澤:  それくらい読まれたということですね。
 
鈴木:  そうです。今日に至るまでほんとに親しまれている本の中では、『代表的日本人』と並んで、一、二の本だと思いますね。
 
石澤:  それで話の中では、自ら「講師」と「嚆矢(こうし)」ですか、先駆けをこう掛けた駄洒落(だじゃれ)ですよね。あるいは「破壊党」というふうに自分を呼んでみたりと。
 
鈴木:  日本だったらおそらくこういう壇上に来ますと、鯱張(しゃちほこば)って演説を始めたんでしょうけど、気軽にくだけた調子で話している点も、内村のアメリカでの経験が生きていると思いますね。そして彼が、中でも自分のことを「破壊党」というふうな言い方をしていますけれども、当時内村は、第一高等学校でも不敬事件で失敗しておりますし、実はその後大阪の泰西(たいせい)学館(現在の大阪商業大学)というところでも、これもちょっとトラブルがあって、ですから知る人はみな学校の壊し屋―破壊党と言えば通じたようなところがあるから、それを逆手にとって、その辺が意外に内村の固い面とは一見離れて、実は親しみやすい面がこういうところにも現れていると思いますね。
 
石澤:  その中身ですね。何が書かれているかということでいうと、今鈴木さんがおっしゃったような、自分のさまざまな体験が書かれているということですね。
 
鈴木:  はい。『後世の最大遺物』という本の、私はかなり大きな特徴として失敗学の書であると、そういうふうに思っております。
 
石澤:  失敗学?
 
鈴木:  それは、この頃、内村鑑三自身が、自分にとって、天職とは何か、というのを探していた時代でもあるわけですね。そしてその意味では、天職を求めた旅の最中に、その失敗談をこの本に込め、あるいはこの講演に込めて―だから本当の呻(うめ)き声がそのまま、
 
石澤:  呻き声ですか(笑い)
 
鈴木:  発せられたのが、この講演でもあり、文章でもあっただろうと思います。
 
石澤:  当時でいうと、冒頭でもご紹介しましたが、不敬事件のまだ余韻が残っているという時代ですね。
 
鈴木:  そうです。そんなことがあったものですから、なかなかまともな仕事に就くことができません。いろいろなアルバイトで、その日を凌(しの)ぐ、そういう生活のただ中でしてね、例えばその頃京都では博覧会がありましたけれども、その英文の看板を書くとか、あるいは出版社へ行っても、そこの奥さんに自分の着ている着物を洗濯してもらって、それが乾き上がるのを待って、着て帰るというような、そういうような生活をしており、困窮しきわめていたわけですね。
 
石澤:  そんな厳しい状況の中で、あんなサービス精神溢れる講演が行われたということを思うと、非常に驚きなんですけども、この基督教青年会の夏期学校というのは、どういう生活の場なんですか。
 
鈴木:  勿論基督教青年会は、イギリスに起源をもっておって、そして教派を超えて青年たちの―あの頃の言葉でいうと、健全な宗教精神に基づいて、健全に青年たちを育てるという、そういう会合だったんですね。島崎藤村(しまざきとうそん)(詩人・小説家:1872-1942)が、やはり明治学院の学生だった時に、その会合に出席していて、そして『桜の実の熟す時』という彼の作品にかなり詳しくリアルに会合の模様が出てきております。登場する講師の顔ぶれを見ますと、基督教会だけではないですね。日本全体の最高の知識人がかなり集まっていると見ていいと思います。そしてさらに若い青年たちが、十日とか二週間ぐらいそこで共同生活をしてくるわけですから、だから非常に大きな影響を受けて、島崎藤村も、「これからは、本当の生き方は何かを求めて歩まなくちゃいけないという、そういう決意を固めた」というようなことを言っておりますから、それぐらい衝撃を生き方の上で与えた会合だったと思いますね。
 
石澤:  如何に生きるかということは、この時代の若者たちにとっても、そして勿論内村自身にとっても大問題であったということなんですね。
 
鈴木:  そうだと思いますが、当時の青年たちにとっては、「士農工商」という身分制度が終えて、みなそれぞれ社会的には、どの分野にも進出できるような流動性のある社会が実現しております。そうすると、その中で自分に向いた職業は何かということをみな求めている時代でもあったんですね。内村自身が生き方を求めているから、まさに告白でもあったわけですから、聞いている人も同じような内村の話にやっぱり引きずり込まれて、
 
石澤:  そういう中で行われたのが、今回のこの講演であったということですね。
 
鈴木:  はい。
 
石澤:  それでは自らは何をなすべきなのか。その内村の視点がどこに向いていたのか。こちらの言葉で聞いて頂きましょう。
 
ナレーター: 
私にここに一つの希望がある。この世の中をズット通り過ぎて安らかに天国に往き、私の予備学校を卒業して天国なる大学校にはいってしまったならば、それでたくさんかと己れの心に問うてみると、そのときに私の心に清い欲が一つ起ってくる。すなわち私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、このわれわれを育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくない、との希望が起ってくる。ドウゾ私は死んでからただに天国に往くばかりでなく、私はここに一つの何かを遺して往きたい。それで何もかならずしも後世の人が私を褒めたってくれいというのではない、私の名誉を遺したいというのではない、ただ私がドレほどこの地球を愛し、ドレだけこの世界を愛し、ドレだけ私の同胞を思ったかという記念物をこの世に置いて往きたいのである、すなわち英語でいう Memento(メメント) を残したいのである。
(『後世への最大遺物』改版)
 
石澤:  今の中にありました「自分がこの世界を愛した記念物、Memento(メメント)を置いて往きたい」というこの声ですけどね。これは当時の人にとっての、例えば「立身出世」ですとか、あるいは「名を成す」ということとは違うんですね。
 
鈴木:  はい。今読んで頂いた話の中にも出てきますみたいに、「美しい地球」と言ったのは、おそらく内村鑑三が初めてではないかと、私はちょっと想像していますけどね。「美しい地球のために何かしたい」という言い方の背景としては、一つには、天文学者のハーシェル(ドイツのハノーファー出身のイギリスの天文学者・音楽家・望遠鏡製作者。天王星の発見や赤外線放射の発見など、天文学における数多くの業績で知られる:1738-1822)という人が、やはり大学生の頃、他の二人の友人と、この世の中に生まれたからには、この世の中を少しでも良くしていこうじゃないかという、そういう誓いを三人で立てた、と言いますね。現にハーシェルは、天文学の世界で非常にたくさんの星を発見したりして、天文の世界を広げたとでも言いますか、貢献をしましたし、ちょうどその三人の誓いというのは、ある面で内村と新渡戸(にとべ)稲造、植物学者の宮部金吾が、札幌農学校の卒業の時に、近くの公園へ行って「二つのJ(キリストと日本)」のために一生捧げようと言ったのと、ちょっと似ていますですね。そういうような意味での役に立つ人間になるという、それに従った職業というものを探し求めてきたことは事実だろうと思いますね。単なる軍人になるとか、単なる政治家になるのとはちょっと違って、生まれたからには美しい地球をより美しくするような働きかけをしたいという、彼の言葉で言う「清い欲望」を目指した、他の人とは違う立志だろうと思います。内村自身は、この講演のタイトルでもありますように、「後世」という言葉を使っていますね。だから単に現世での記念物だけでなくて、後世から見て評価されるような記念物としての清い欲の仕事をしたいという。勿論現世にも関わるけど、一番の判断基準というのは、むしろ後世にあって、後世の―現代風な言い方をすると、後世の視線にも堪え得るような現世の生き方だろうと思いますね。
 
石澤:  さて、そこで内村が少しでも世の中を良くするために、何を遺せば良いのか。先ず最初に挙げたのが意外なものでした。
 
ナレーター: 
後世へわれわれの遺すもののなかにまず第一番に大切のものがある。何であるかというと金です。われわれが死ぬときに遺産金を社会に遺して逝く、己(おのれ)の子供に遺して逝くばかりでなく、社会に遺して逝くということです、それは多くの人の考えにあるところではないかと思います。それでソウいうことをキリスト信者の前にいいますると、金(かね)を遺すなどということは実につまらないことではないかという反対がジキに出るだろうと思います。
金を遺すものを賤(いや)しめるような人はやはり金のことに賤しい人であります、吝嗇(けち)な人であります。金というものは、ここで金の価値について長い講釈をするには及びませぬけれども、しかしながら金というものの必要は、あなたがた十分に認めておいでなさるだろうと思います。金は宇宙のものであるから、金というものはいつでもできるものだという人に向って、フランクリンは答えて「そんなら今拵(こしら)えてみたまえ」と申しました。
(『後世への最大遺物』改版)
 
石澤:  後世に遺すもので、一番に大切なものは金だというふうに挙げている。意外な印象もするんですが、何故金を一番に挙げているんですかね。
 
鈴木:  おっしゃるように、聞いている人たちもかなりショックだったろうと思いますよ。当時の時代というのをちょっと考えてみますと、お金を働いて稼ぐということが、まだ必ずしも普通の時代ではない。例えばこれは私も漱石の文学を読んでいてもわかったことですが、主人公はかなり親の遺産かなんかで遊んで食べているような人たちが多いですね。ロシア文学とか、フランス文学とか見ても、やっぱり社交で華やかなパーティーばかりしているような、ああいう人たちは最上層にいて、そして働く人は二番手だというような、そういう考え方は、特にヨーロッパ、あるいは日本でもあっただろうと思います。ところが内村は、現に札幌農学校で農場の作業をしますと、賃金も貰えましたね。だから働くことによって正当な賃金を貰うということは、一つの常識みたいに思って札幌農学校を終えております。さらにアメリカへ行きまして、これはアマストへ行ってからだと思いますけれども、夏休みに前の施設で働いたその施設へ夏を過ごしますと、そこで測量して道を造ったりしております。だからこういう夏休みもほんとに遊んでいるわけじゃなくて、働くということが、やっぱり習慣として、彼には叩き込まれていたと思いますね。そういう意味での金を稼ぐということが賤しいものだとは見ませんですね。
 
石澤:  つまり実業でお金を稼ぐことは賤しいことではないんだと。
 
鈴木:  はい。一番アメリカでのそういう生活体験の精神としては、ルター(マルティン・ルター:宗教改革の創始者。聖アウグスチノ修道会に属するドイツ人神学教授として、ルターは「人の姿となられた神の言葉としてのイエス・キリストにのみ従う」ことによって、信仰と思想において宗教改革という転換をもたらした:1483-1546)の影響があると思いますね。ルターは、ご承知かも知れませんが、聖書のドイツ語訳をやった人ですね。当時は大きく言って清らかな生活が送れるのは聖職者の世界。修道院へ入って悪いことをせずに、禁欲的な日を過ごしていくという、そういう聖職者の世界であって、聖職者でない一般の庶民は、それは無縁だと。当然無縁なら来世においてもそれなりの場所しか与えられないというような考え方があったので、ルターがドイツ語訳の聖書で、「現在の職に留まれ」というふうな訳し方を強調しているんですね。宗教改革の精神でもありましたけれども、聖職者と一般の信徒との間の壁が取り払われました。取り払われたら、今度一般の人たちも、自分たちの仕事に勤しむことが大切だと。それまではどちらかというと、どうせムダだからと言って、飲めやその晩のうちに使い切っちゃった、そういう生活があったのに対して、それから非常に禁欲的で贅沢もせずに、現在の労働を勤しむというような、そういう生活スタイルというものが広まって、それが結局はアメリカ社会の非常に大きな精神にもなっていったという。そういう社会で内村は育ってきましたから、彼は日本へ帰ってからも、おそらくあの時代の人で仕事を―内村は、後でもそうですけど、自分のところに聖書を学びに来る人たちがいると、その人たちが内村が雑誌を出したりするのにも手伝いますけど、そうすると弟子だからと言って只働(ただばたらき)はさせませんね。必ず賃金を払うという。労働とか、その正当として報酬としての金銭とかいうものに対しては、汚れた感じは全然ありませんでしたね。
 
石澤:  内村がいうのは、ただお金を溜めることが目的であるという意味ではないですね。
 
鈴木:  そうです。だからお金を溜めるだけなら、内村も悪い例として、グールドの例を出しておりますけど、そうではなくて、そのお金を何に使うかということが大事だ。そのための蓄財という、そういうことですから、内村の話は結局『後世の最大遺物』の中にも、次にはお金の使い方という、そういう方向へいって、そして事業というものをその例に引き合いに出していくようになりますね。
 
石澤:  しかしこの窮乏生活を続ける内村には、蓄財する力も、事業を興す力もありませんでした。こののち内村は、自分のことを引き合いに出しながら、次なる望みをこんなふうに語っています。
 
ナレーター: 
ある人が申しまするに金を溜める天才を持っている人の耳はたいそう膨(ふく)れて下の方に垂れているそうですが、私は鏡に向って見ましたが、私の耳はたいそう縮んでおりますから、その天才は私にはないとみえます(大笑)。
それでもし私に金を溜めることができず、また社会は私の事業をすることを許さなければ、私はまだ一つ遺すものを持っています。何であるかというと、私の思想です。もしこの世の中において私が私の考えを実行することができなければ、私はこれを実行する精神を筆と墨とをもって紙の上に遺すことができる。あるいはそうでなくとも、それに似たような事業がございます。すなわち私がこの世の中に生きているあいだに、事業をなすことができなければ、私は青年を薫陶(くんとう)して私の思想を若い人に注いで、そうしてその人をして私の事業をなさしめることができる。すなわちこれを短くいいますれば、著述をするということと学生を教えるということであります。
(『後世への最大遺物』改版)
 
石澤:  次なる遺物として内村が、今ありましたように、著述をすること、それから青年たちの教育ですね。これを挙げているんですけど、しかしその場も逐われて失敗を繰り返していくんですよね。
 
鈴木:  はい。内村自身の生涯を顧みますと、水産学も興味が非常にあった学門ですけれども、具体的に水産学をやろうとすると、荒海を船で乗り出さなくちゃいけない。これは自分の弱い身体ではダメだと。
 
石澤:  体力が要るものですからね。
 
鈴木:  はい。それからまた中には、当時としては珍しいキリスト教に力を入れていたから「牧師になったらどうだ」と勧める人もいるし、自分も多少は気がないでもない。だけど考えてみると、牧師という職業は、口が上手でないとダメだと。口下手の自分には向かない。さらに彼は、役人として非常に活躍もしたんですけど、逆説だけれど、活躍し過ぎる役人はダメだということがわかってくるわけですね。
 
石澤:  出る杭は打たれるんですか?
 
鈴木:  そうそう。そして教員の世界にも入るけれども、これは北越学館、そして一高、泰西(たいせい)学館、どのケースもみな文字通り失敗をきしちゃったわけですね。だから悉く自分に合う職業は何なのかわからなくなってきて、じゃ自分というものはほんとに無用の存在であるのかという。初めてここで「無用者」というふうな、無用者の生きる道は何なのか、ということをいう。用のない、仕事の上でも能力の上でも用のない人間はどうして生きていけるのかという、ほんとに自分の体験からきた切実な問題に陥っていたと思いますね。
 
石澤:  普通そこまでくると、何か自暴自棄と言いましょうか、自棄(やけ)になって人生投げて仕舞いたくなると思うんですが、そうならなかったんですね。
 
鈴木:  はい。それは一つには、内村の中に現世だけだったらそうなったと思いますけど、やはり後世という考え方があって、そして「その後世へ何を遺していけるのか」という考え方が、結局自暴自棄を食い止めた一つの大きな思想的な手掛かりじゃなかったかと思いますね。
 
石澤:  では内村にとって、失敗続きの自分にもできることは、つまり遺せる最大遺物は一体何なのか、ということを言っている言葉があります。それをご覧頂こうと思います。
 
ナレーター: 
文学者にもなれず学校の先生にもなれなかったならば、それならば私は後世に何をも遺すことはできないかという問題が出てくる。
しからば私には何も遺すものはない。事業家にもなれず、金を溜めることもできず、本を書くこともできず、ものを教えることもできない。ソウすれば私は無用の人間として、平凡の人間として消えてしまわなければならぬか。
それならば最大遺物とはなんであるか。私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、ソウしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。これが本当の遺物ではないかと思う
(『後世への最大遺物』改版)
 
石澤:  今ありました「勇ましい高尚なる生涯」ということを聞くと、何かとっても立派な人生のようでして、誰にもできるとはなかなか信じがたい、そんな気がするんですが、内村がいう「高尚なる生涯」というのは、どんなものだと思ったらいいんですか。
 
鈴木:  何一つ取り柄もなかったし、失敗だらけだった。そうするともうほんとに辛うじて残っているのは生き方、生き様だけしかないという。それを今言い換えた表現として見た方が妥当のような気が致しますね。
 
石澤:  それは、つまりどういう生き方だというふうに考えたらいいんですか。
 
鈴木:  内村は、ただこの講演の中では、カーライル(トーマス・カーライル:19世紀イギリス(大英帝国)の歴史家・評論家で、スコットランド出身。大英帝国(ヴィクトリア朝)時代を代表する言論人であった。代表作に『英雄崇拝論』、『フランス革命史』、『オリバー・クロムウェル』、『衣装哲学』、『過去と現在』などがある:1795-1881)の例を読んで、カーライルはフランス革命史という名著を書いたことでも知られています。そのカーライルが、大著『フランス革命史』を書いた時に、非常に親しい友だちである思想家のミル(ジョン・スチュアート・ミル:イギリスの哲学者にして経済学者であり、社会民主主義・自由主義思想に多大な影響を 与えた:1806-1873)ですね、その思想家のミルのお友だちが、それを読みたいというようなことで貸したわけです。ところが貸したところで、有名な話ですけども、その家のお手伝いさんが、紙切れを焚き付けに燃やしてしまったという、そういう出来事がありますね。これはほんとにミルも恐縮しちゃったけれども、カーライルもほんとに落胆しました。大著ですからね。今みたいにパソコンとか、そんなのない時代ですからほんとにゼロになっちゃうんですね。ですからどうしようかと思って、何日かは手がつかなかったというようなことが記録にも残されております。しかしその何日か後に、カーライルは、もう一度『フランス革命史』をゼロから取り組んで書き始めて、そして結局は書き上げたですね。そうすると、私も、その出来事を初めて聞いた時とか、読んだ時は、やっぱりカーライルは偉いんだ、と。『フランス革命史』を二度書くという。やっぱり大物は違うというふうに思っちゃって、これも大物だからできたと思うんですけど、内村がここで評価していることは、そのこととちょっとずれていることが、読み直すと分かりますね。書き上げるというのは、やっぱり能力がいる。資質もいろいろあるかも知れませんけれども、内村はどうもそのことよりも、もう一度書こうとする生き方の方になんか目を向けていますね。
 
石澤:  先ほど「生き様」ということをおっしゃいましたが、どう向き合うかそのスタンスですね。
 
鈴木:  そうなんです。たまたまこれはカーライルを引き合いに出しているから、やっぱりカーライルでなくちゃできないというふうに、ちょっと誤解を受けやすいですけれど、内村は、これは無用の者にもできる、病人でもできる、そういう意味での生き方、これを「勇ましい高尚なる生涯」という言い方で表現しようと、この講演の中ではしていると思います。
 
石澤:  我々凡人はさまざまな困難な中に置かれると、人のせいにしたり、運命のせいにしたりして、今ご紹介頂いたような生き方を選べない。そんな気もしてしまうんですが。
 
鈴木:  私も同じ凡人の一人で、それに近い思いをしてきましたし、今もしておりますけれども、後世の最大遺物となる生き方があるんだという、そういうことを内村はいうわけですが、ではその「後世」というのはどういうことなのか、ということをちょっと合わせて、これは考えてみるとしか言いようがないことですけれども、普通一般に、「後世」という場合には、現世の未来としての後世。今から五十年後、百年後としての後世というのが、普通の使い方だろうと思いますね。内村が、ここでの後世の最大遺物という場合にも、勿論その要素もあると思います。ありますけれども、少し違うなと思いますのは、そういう質的な現世の延長線上にある後世だけでなくて、どうも質的にもちょっと違う意味の別の世界という、そういうものがどうも内村にはあったような気がしますね。だから別世界という意味での来世でもないし、この世の現世と連続性をもちならがらも、不連続な後世であっただろうと思いますけれども、じゃそういう後世の最大遺物という言い方の場合は、その意味の後世を視点にして、そこから現世の自分の仕事をみるという視点だろうと思いますね。内村は、別の言葉で言いますと、現世の自分の見方を最終的な見方としないんだという。無用の者であるかどうかというのは、自分では判断できないんだという。後世の方の判断することだと。まあこれは内村がいう神の国である宇宙かも知れませんけど、いずれにしても、そちらに預けちゃうことによって、希望も残すと思います。だから内村は、常に後世の最大遺物とこういう時に、「希望」ということを何度も強調しますけどね。
 
石澤:  そうすると、内村のいうように、どんな人生の困難な中にいても、絶望することなく、希望を先に繋いでいく、ということが後世の最大遺物になるんだという。
 
鈴木:  反対かも知れませんけどね。希望を繋いでいくことがなる、というよりも、そういう見方をするから希望が出てくるかも知れません。
 
石澤:  判断を後に残すということによって、という。
 
鈴木:  希望が出てくる。
 
石澤:  さあ、この講演の後、内村自身がどのように歩んでいったのか。そして自らの天職をどのように求めていったのか。ご覧頂きましょう。
 
ナレーター:  講演の三年後、内村は、請われてジャーナリズムの世界に飛び込みます。発刊して間もないよろず情報の記者として政治の腐敗や足尾(あしお)鉱毒事件など、社会問題に鋭い批判を繰り広げます。日露戦争開戦の是非をめぐっては、世の中が二分されるなか、戦争廃止論をとなえます。しかし開戦に傾いていく世論に迎合して、開戦論に転じた社の態度に反発、退社を決意します。一方内村は、伝道者を志したアメリカ時代からの夢だった聖書雑誌『聖書之研究』を創刊しています。東京角筈(つのはず)にあった自宅で独力での編集、雑誌の読者である青年たちを集めての夏期講談会も開催しています。自宅では、内村を囲んでの聖書研究会が開かれるようになりました。参加を希望する若者は、日に日に増え、『聖書之研究』の発行と聖書講義は、その後の内村のライフワークとなりました。そんな中、五十一歳の内村を大きな悲しみが襲えます。娘のルツが懸命な看護にも関わらず、十七歳の若さで亡くなったのです。それは内村にとって衝撃的な出来事でした。後に内村は、迷いつつ歩んだ自らの職業生活について、次のように振り返っています。
 
余は始めに地理学者とならんと欲した、札幌農学校に入りし時の余はそれであった。
余は其(その)(つ)ぎに水産学者とならんと欲した、札幌農学校を出(いで)し時の余はそれであった。
余は其次ぎに慈善家とならんと欲した、米国に渡りし時の余はそれであった。
余は其次ぎに教育家とならんと欲した、米国より帰りし時の余はそれであった。
余は其次ぎに社会改良家とならんと欲した、朝報社(ちょうほうしゃ)に入りし時の余はそれであった。
余は其次ぎに聖書学者とならんと欲した、ルツ子を葬(ほうむ)りしまでの余はそれであった。
(「目的の進歩」一九一三年九月一○日。全集二○)
 
内村は、自らが実感した天職への道筋を次のように語っています。
 
己が天職を知らんと欲する者多し、言ふ、我にして若し我が天職を知るを得ん乎(か)、我は我が全力を注ぎて之に当たらんと。
人よ、汝は汝の天職を知るを得るなり、汝は容易に之を発見するを得べし。
汝の天職は天よりの声ありて汝に示されず、汝は又思考を凝らして之を発見する能(あた)はず、汝の天職は汝が今日従事しつつある職業に由って汝に示さるるなり、汝は今や汝の天職に達せんとして其途中に在るなり、何ぞ勇気を鼓舞して進まざる、何ぞ惰想(だそう)に耽(ふけ)りて天職発見の時期を遅滞せしむるや。
(「天職発見の途」一九一三年一○月一○日。全集二○)
 
石澤:  最近よく若い人たちの話で、「今やっているこの仕事は、自分の本来のやるべき仕事じゃないんだ。別にあるんだ」という、そういう声をよく聞くんですけども、でも今、内村が言っていることでいうと、目の前の仕事が天職に繋がっているんだと、そういうふうに言っている。今やっている仕事がそれによって示されるんだということなんですね。
 
鈴木:  はい。内村の集会の初期の信徒に、石原兵永(いしはらひょうえい)という人がいました。この人は昔の師範学校を出た後、小学校に勤めますけども、小学校に勤めた時に、内村から「仕事はどうだ」ということを問われまして、それで「もう雑用ばっかで閉口します」というようなことを答えたんです。それを聞いた途端、内村が怒りまして、「雑用とは何事だ。人生というものはほとんどが雑用であると。それをしっかりやれないようではダメだ」ということを言われた。私も、石原さんの書いたその言葉を初めて読んだ時に、ある面ではビックリしましたね。何故かと言いますと、内村鑑三というのは、もうほんとにあらゆるこの世の仕事に失敗した代わりに、自分だけのできる仕事として『聖書之研究』を創刊して、そこのもとで大勢の青年たちに教えをするという、そういう生活できましたから、ある面では宮仕えは昔のままで終わっていますね。そうすると、一番自分の思うような生活が、失敗したお陰で実現できていたと思うんです。その人がその人にしてなおこの言葉があるか。「人生とは雑用ばかりだ」というこの言葉を聞いて、あっと思いましたね。あの内村鑑三にすら、そういっているのに、ましてや自分如きがと。
 
石澤:  しかしどんな詰まらないことでも、その一生懸命やっていれば、続けていれば見えてくるということなんですか。
 
鈴木:  私もその後、この問題はよく考えますけども、そうすると、ある会社で、その会社の社長の利益のために、その仕事をひたすら勤(いそ)しむことが天職なのかという、そういう問題が起きますね。そんなのは社長が利益のために奉仕しているだけじゃないかとか、今現に日本の長い歴史においては、そういう殿様のためだけの辛い労働とか、あるいは税金を納めるためだけの農作業だとか、そういう仕事にひたすら勤しんで税金を納めるだけを奨励した時期もありましたね。じゃ、そういう生活は天職なのか、と。あるいは勇ましい高尚なる生涯なのかという、そういう疑問が誰にでも生ずるだろうと思いますね。内村は、ほんとにそれを奨励したのかというと、ちょっとそうではないと、私は思いますし、それは内村が、後に―先ほど紹介してありましたように、娘のルツの死という大きな悲痛な出来事がありました。このことはまた改めて後でもお話することがあると思いますけれども、その頃彼がたまたま三浦半島へ散歩に出掛けた時に、ひたすら桶作りに勤しんでいる人の姿を見かけて詩を詠みました。そうすると、内村がそこで詠んでいる詩の中に登場する桶を作る人の姿というのは、独立していますよ、そして自由ですよ。
 
石澤:  それでは、その詩をここでお聞き頂きましょう。
 
ナレーター: 
桶職
一、我は唯(ただ)(おけ)を作る事を知る、
其他(そのほか)の事を知らない、
政治を知らない宗教を知らない、
唯善(よ)き桶を作る事を知る。
 
二、我は我桶を売らんとて外に行かない、
人は我桶を買はんとて我許(わがもと)に来(きた)る、
我は人の我に就いて知らんことを求めない、
我は唯家にありて強き善き桶を作る。
 
三、月は満ちて又虧(か)ける、
(とし)は去りて又来たる、
世は変り行くも我は変らない、
我は家に在りて善き桶を作る。
 
四、我は政治の故を以(もっ)て人と争(あらそ)はない、
我宗教を人に強(し)ひんと為(し)ない、
我は唯善き強き桶を作りて、
独り立(たち)て甚(はなは)だ安泰(あんたい)である。
 
石澤:  この詩を作った頃というのは、大切にしていた娘が亡くなった後ですよね。
 
鈴木:  はい。そうです。
 
石澤:  そうしたことも、内村の内面に大きく作用して、この詩に繋がっているということがあるんですかね。
 
鈴木:  そう思いますね。内村が「後世の最大遺物」の頃は、清い欲を願っていたと思います。先ほど読んで頂いたところにもありますように、聖書学者になろうとしたというのは、清い欲望の一つだったろうと思いますね。しかしルツの死と出会うことによって、それも消えたという、そういう言い方もしております。それで吹っ切れている。本当は人間であるから、まだ少しずつはちょっと残っていきますけどね。
 
石澤:  いわゆるその欲望によって、天職を求めるようなこともなくなってきているということですか。
 
鈴木:  そう思います。「後世の最大遺物」の講演をやった時には、それは大きな転機を内村にもたらしました。そしてやがて今のここの桶職の時にも、また大きな転機の、あるいは心境に到達していると思います。
 
石澤:  この「後世の最大遺物」は、ほんとに多くの人、とりわけ時代時代の若い人たちに影響を与えてきたんでしょうね。
 
鈴木:  はい。例えば一人は、大賀一郎(おおがいちろう)(植物学者:1883-1965)という青年がいました。今では古代ハス(1951年(昭和二六年)、千葉県千葉市の東京大学検見川厚生農場(現・東京大学検見川総合運動場)内の落合遺跡で、今から二千年以上前の古代のハスの実を発見した。同年五月に古代ハスの実が発芽、翌年開花し、このハスは大賀ハスと名付けられた)として非常に知られておりますね。東大の農場でしたか、あそこで見つかった古代ハスの発芽に努力したところ、失敗もそれこそしました。大賀さんが失敗した時に、思い出したのが「後世の最大遺物」でのカーライルの再起、それを思い出して、自分も発芽に失敗したけれど、同じような精神で、もう一度発芽に努めて、その結果が今日でいう「大賀ハス」という形で日本全国は勿論、世界の数多くの地でロマンの話とともに花を咲かせていますね。あるいは青山士(あきら)(土木技術者:1878-1963)という青年がおりました。彼は当時の日本としては珍しく大学の工学部を卒業するとすぐにパナマ運河の開削事業に従事したいと言って、それを志して渡ります。日本に帰って来たら、信濃川の大河津分水(おおこうづぶんすい)、あの分水工事を手掛けて、そして信濃平野の氾濫を防いだという。またもう一つは、荒川の氾濫を防ぐためには水抜けの放水路を作る。青山士はいろんな自分の工事をした後に、自分の名前は残さなくて、例えば「人類のため、国のため」という、内村の「二つのJ」と同じような言葉を、エスペラント語で残したりしていますね。
 
石澤:  しかしそういった「後世の最大遺物」は、物理的に残すものだけじゃなくて、有限無限の最大遺物として、内村の志を継いでいった人たちがたくさんいるということですね。
 
鈴木:  はい。数年前でしたかね、私のところへ宅急便でこれくらいの荷物が届きました。開けてみますと、白い封筒で三十通ぐらいの手紙があるじゃありませんか。みなアメリカでちょうど学んでいた日本人の大学生たち、その三十二、三人は、かつて小中高ぐらいか、高校かわかりませんが、不登校の子どもたちだったんです。ところがその後再起して、そして最終的にはアメリカの大学で正規の学位を取るためにみんな勉強している青年たちですね。その青年たちを―学生たちを相手に、ブリティッシュ・コロンビア大学で、東洋学の先生で、ジャン・ハウズという人がいまして、この先生は、内村鑑三研究を長い間続けて、それで学位を取り、そして講義のテキストで、内村の『後世の最大遺物』と私の本をちょっと参考して授業をしたんです。そうしたら、その学生たちが内容と授業に感心して、ハウズさんも言っておりますけど、目の色が違ったと言います。それでその感想を私のところへみんなが寄せてくれたんです。大体便箋三枚ぐらい、丁寧に感想が書いてありました。そしていろいろありますけど、一つの共通性としては、「自分は一時期無用の者だと思った。そういう時期がある。しかしこの本によって無用の者ではない、ということがわかった」と。そういう感想がかなり多かったですね。
 
石澤:  高尚なる生涯、時と場所を隔てて、内村の言っていた思いが、この生徒たちに伝わったということですね。
 
鈴木:  もっともっとその何倍かにわたって、その青年たちみたいな影響を受けた人たちがいるんだなということが改めて感じましたね。
 
石澤:  今のお話を伺っていると、内村鑑三は決して昔の人ではないんだという、しかも志と言いましょうか、思いは今も脈々と生きているということですよね。
 
鈴木:  そう思いますね。時代が変わっても読み継がれていく古典だろうと、私は思っていたんですが。
 
石澤:  有難うございました。
 
鈴木:  いいえ、どう致しまして。
 
石澤:  さて次回は、内村の著作『代表的日本人』をもとに、内村が苦難の中で心に抱いていた天とは一体なんなのか。祈りとは何なのかを探っていこうと思います。
 

 
ナレーター:  ジャン・ハウズ博士、不登校を経験した若者たちに、『後世への最大遺物』を講義した人物です。内村を研究して六十年あまり、自信を失い、将来への不安を抱えた現代の若者たちにも、内村の思想が届くことを実感した出来事だったと言います。
 
ハウズ:  非常に感動は深かったみたいですけどね。内村自身が、何をしたらいいか。どういう方向に自分の将来のプラン(計画)を、どういうふうに立てた方がいいかと迷っているところです。本人があれだけ熱心に考えていることが明らかだったらしいです。学生たちは、それまで気付かなかった解決法を内村が書いていたことに夢中になりました。そしてその重要性をしっかりと理解したのです。
 

 
ナレーター:  後世への最大遺物で、内村は次のように語っています。
 
高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、私がここで申すまでもなく、諸君もわれわれも前から承知している生涯であります。すなわちこの世の中はこれはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。その遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないかと思う。
(『後世の最大遺物』改版)
 
     これは、平成二十五年五月十九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである