道をひらく 内村鑑三のことばB静かなる細い声
 
               立教大学名誉教授 鈴 木(すずき)  範 久(のりひさ)
               き き て    石 澤  典 夫
 
石澤:  「こころの時代」では、毎月一回、幕末から明治、大正、昭和を生き抜いた思想家であり、キリスト教伝道者でありました内村鑑三の言葉を読み解いています。三回目の今日は、前回取り上げた『後世への最大遺物』と並んで、多くの人に読み継がれてきております『代表的日本人』を読み解いていこうと思います。こちらです。ここには西郷隆盛、二宮尊徳、日蓮など、五人の日本人の生涯を記してあります。当初は、日本や日本人を海外に知らせる目的で、内村は、この本を英語で書きました。日清戦争、日露戦争があり、日本が帝国主義への道を進んでいた時代、内村はこの五人を「天の声に耳を傾け、天の与えた使命に忠実に生きた人物」として描いています。それは内村自身の生きる道の模索でもありました。では内村が求めた生き方、また祈りとは一体どのようなものだったんでしょうか。先ずは『代表的日本人』が書かれた背景からご覧頂きましょう。
 
ナレーター:  『代表的日本人』、この本が書かれたきっかけは、内村のアメリカ時代に遡ります。内村は結婚の破局から人生を立て直すため、二十三歳でアメリカに渡りました。知的障害のある子どもたちの施設で介護人として働きながら、人生の挫折や信仰の躓きを如何に乗り越えるのか、自問自答する日々を送ります。そんな内村に追い打ちを掛けたのは、日本に対する差別と偏見、キリスト教の神を知らぬ暗黒の国と憐れむ宣教師たちの眼差しでした。思い悩んだ内村は、留学の先輩であった新島襄(にいじまじょう)の薦めで、東西の偉人たちの伝記を読み始めます。内村を惹き付けたのは、ルターやサヴォナローラ(1452-1498)など、宗教改革に挑んだ偉人たちの姿、そして日本人の先人たちの生き方でした。内村は、慈愛と真実味に溢れる先人たちの姿を、欧米のキリスト教徒にも負けない生き方として評価し、また自らの生きる手掛かりとしていきます。帰国した内村が、そうした日本人を世界に紹介するために記したのが、『代表的日本人』でした。選んだのは、西郷隆盛(さいごうたかもり)、上杉鷹山(うえすぎようざん)、二宮尊徳(にのみやそんとく)、中江藤樹(なかえとうじゅ)、そして日蓮(にちれん)の五人。後に各国で翻訳された『代表的日本人』。そのドイツ語版の後書きで、内村は、次のように記しています。
 
私は宗教とはなにかをキリスト教の宣教師より学んだのではありませんでした。その前に、日蓮、法然、蓮如など、敬虔にして尊敬すべき人々が、私の先祖と私とに、宗教の神髄を教えていてくれたのであります。
何人もの藤樹が私どもの教師であり、何人もの鷹山が私どもの封建領主であり、何人もの尊徳が私どもの農業指導者であり、また何人もの西郷が私どもの政治家でありました。
神の選びの業(わざ)は、わが国民のうちに二千年以上も昔から働いていたのであり、ついに私も主イエスキリストの僕(しもべ)として選ばれることになったのであります。
 

 
石澤:  お話は、立教大学名誉教授の鈴木範久さんです。どうぞよろしくお願い致します。
 
鈴木:  よろしくお願い致します。
 
石澤:  先ず内村の著作の中でもっとも読まれているという『代表的日本人』ですけども、内村はどのような思いで筆を執ったんでしょうね。
 
鈴木:  内村自身は、アメリカにいる頃から、自分というものをどういう人間にすべきか、という大きな問題を抱えていましたから、自分の自己形成のために、一つは、偉人の伝記を一生懸命に読もうとしました。それが帰国します。帰国してからは、しっかりしたキリスト教を日本に立てようと思います。そうすると、日本に期待できる要素として、日本には、先ほど紹介がありましたみたいに、決して西洋のキリスト者に劣ることもないような立派な人たちがいるんだよと。そういうことを一つは外国向けに示そうという、そういう意図と、その二つの両面―外向けに、自分向けと、両面が入った本だろうと思いますね。一口に『代表的日本人』とは言っていますけども、ここにもありますように、明治四一年に『Representative Men of Japan』と改題して刊行されたこちらの方で、最初は明治二六年に『Japan and the Japanese』という形で発行しましたですね。『Representative Men of Japan』の方は、ちょうど時が、日清戦争と重なりますから、日清戦争が、「日本の正義の戦いである」という、そういうことを強調したような論文も入っています。ところが内村は、日清戦争というものが決して義の戦いじゃないということがわかりました。そして次の日露戦争の時には、非戦論を称えることになります。その非戦論を称えた後に書かれた、あるいは編集し直した本が、こちらのいわゆる『代表的日本人』という本です。そうすると、前の『Japan and the Japanese』の中から、日清戦争の義という論文などは除きました。そして西郷隆盛以下、上杉鷹山、中江藤樹、二宮尊徳、日蓮、この五人だけの伝記の部分だけを、こちらに収めて出しましたですね。
 
石澤:  基本的には、『代表的日本人』というのは、伝記と考えていいですか。
 
鈴木:  ええ。伝記は伝記ですけれども、偉人を神として崇(あが)めるような、そういう見方はしていないですね。
 
石澤:  そうすると、その五人を通したテーマと言いましょうかね、内村はその五人にどういう目線を送っているんでしょうね。
 
鈴木:  それぞれ、ある面では改革者ですね。西郷隆盛で言えば、日本の鎖国体制を開国体制に変えたという体制変革という改革者で、大きな役割を西郷隆盛はしていた。上杉鷹山は、貧しい藩の財政を立て直すという改革をしたとか、みななんらかの意味で五人共が、ある面では改革者です。内村が参考にした資料は、それぞれ日本で行き渡っていた伝記類ですが、日本で一般的に流布しておった伝記類と比べると、内村は一味違う伝記を、この五人を通して描こうとしております。五人と「天」との関わりという、そういうものを内村は描こうとしている面があるようですね。
 
石澤:  そこはやはり思想家であり、キリスト伝道者である内村が、敢えてこの五人を選んだ、そこの意味合いですよね。
 
鈴木:  はい。内村がこの五人を通じて描こうとした「天」というのは、私は、三つぐらい特徴が挙げられるかなと思いますけど、一つは、当然普遍的な存在ですね。それからもう一つは、超越的な存在。ちょっと人間界とかは一線が画されるような存在。そしてそれでいて同時に人格的な存在として、人間とある面では親しい交わりも見せるという、そういう「超越性」と「普遍性」と「人格性」、この三つの特徴をもつ天として描いているような気が致します。
 
石澤:  では、天の声をキーワードに、『代表的日本人』を読み解いていこうと思います。先ず内村が最初に取り上げたのが、西郷隆盛(1827-1877)です。ご承知のように、薩摩藩主であった西郷は、幕末維新の時期、さまざまな局面で重大な決断を下して、時代を大きく動かしていった人物です。
 
ナレーター:  内村は、西郷隆盛を、天の声に耳を傾け、私利私欲に惑わされず、天から与えられた使命に忠実に生きた人物として描いています。
 
わが主人公が、日夜、好んで山中を歩き回っているとき、輝く天から声が直接下ることがあったのではないでしょうか。静寂な杉林のなかで「静かなる細い声」が、自国と世界のために豊かな結果をもたらす使命を帯びて西郷の地上に遣(つか)わせられたことを、しきりと囁(ささや)くことがあったのであります。そのような「天」の声の訪れがなかったなら、どうして西郷の文章や会話のなかで、あれほど頻(しき)りに「天」のことが語られたのでありましょうか。のろまで無口で無邪気な西郷は、自分の内なる世界に籠(こも)りがちでありましたが、そこに自己と全宇宙にまさる「存在」を見いだし、それとのひそかな会話を交(か)わしていたのだと信じます。
(原英文。内村鑑三『代表的日本人』岩波文庫)
 
石澤:  西郷を「のろまで無口」というふうに書いているわけですけども、内村は一体どのようにその西郷を見ていたんでしょか。
 
鈴木:  内村が描くのに使った資料は、ほとんどこの『西郷南州翁(さいごうなんしゅうおう)』と『西郷南州翁逸話』の二冊に尽きると思いますけれど、いわば、どちらかというと、多少ナショナリズムの面もあるんです。この本には忠孝観念とか、そういうものが貫いている面もあるんですが、内村はそういう面はまったく無視して、そして「天の声を直接聞こうとした人間」という、むしろそんな面を強調しているような感じが致します。彼は、例によって、よく犬を連れて山の中を散歩したというような話がありますけど、山の中で、そして人里離れた静かな山の中に分け入って、そこで独りで天の声に耳を傾けたという点を、内村は強調していますね。そしてじゃ、天からどういう声が聞こえたかと言いますと、内村は―最初は英語ですが―「静かなる細い声(still small voice)」という言い方をしております。「聞こえるか聞こえないかという囁くような静かな細い声だった」という表現を、内村がとっている言葉は、そのままが実は旧約聖書の「列王記(れつおうき)」という歴史本の中に登場してくる言葉、預言者に神が囁(ささや)いたという言葉をそのままとって、「静かなる細い声」というのを、西郷も聞いた、という言い方をしております。
 
石澤:  ということは、西郷も預言者という認識で、内村は見ているということですか。
 
鈴木:  預言者というのは、また非常に限られた人間でして、神の声をそのまま預かって人々に説く存在が預言者ですから、内村は決して預言者と同格に西郷を見ているわけではありませんが、ほぼ預言者に近い存在という捉え方まではしていいと思います。それぐらいの人材が、日本人の中にもいたんだよ、と、西洋に向かってものを言っていると。それがこの本の一つの特徴かも知れません。
 
石澤:  そして、さらにここでは、西郷の、では一体「天」というのは何であったのか、ということなんですが。
 
鈴木:  ご承知かも知れませんが、西郷隆盛が好んで書いた書―字があります。それはある程度晩年のようですけど、「敬天愛人(けいてんあいじん)」という―天を敬い、人を愛するという言葉を、西郷は好んで人にも書いて与えたという言葉とされております。「敬天」の部分は、これは西郷隆盛は、前々から陽明学(ようめいがく)という天の思想が人間の中に内面化されるという、そしてその天の声に従って、それを知るだけでなく、行いが大事だという、そういう思想に親しんでいました。ですから「敬天」という言葉自体は、西郷は知らない筈はありませんし、前もって知っていました。ところが「敬天愛人」という四字熟語になりますと、中国の明(みん)の時代のキリスト教関係文書に、二、三ありますね。はっきり四つの言葉で、それを使われていたと。もうちょっと後の中国の―西郷隆盛が生きていた時代の中国のキリスト教書を見ますと、例えば、モーセの十戒という聖書の初めにある言葉がありますが、十戒のうちの初めの方は、敬天の思想を言っている。後の方は、愛人の思想である。人に関わる思想である。そういう言葉でキリスト教者も説明をしている。西郷隆盛の思想の中に、あるいは書として「敬天愛人」という言葉を書く中には、明らかに中国のキリスト教に基づいた「敬天愛人」という思想があって、それが単に「敬天」だけでなくて、「愛人」も含めている、というところにキリスト教的な要素も入っているという。だから西郷の天には、陽明学的な天の思想に加えて、キリスト教的な、人格的な思想も入っているとみてよろしいじゃないかと、私は考えます。内村が強調しています有名な勝海舟(かつかいしゅう)(1823-1899)との会見がありますね。「江戸の人々を、我々が戦争することによって戦禍に引き込んでしまうことは避けようじゃないか」という、そういう行動の一つの中にも愛人の思想が現れているという、そういうことを内村は見ている。「敬天愛人」を実行した人なんだ、という見方をしていますね。
 
石澤:  それでは、今度は二番目となります、上杉鷹山(1751-1822)の世界を見ていこうと思うんですが、米沢藩主でありました上杉鷹山は、「民の父母となる」という誓いを立てて、経済破綻に瀕(ひん)していた米澤藩の再建を成し遂げた、まさに名君として、みなさんもご存じだろうというふうに思います。この鷹山にとって、では天の声とは一体何だったんでしょうか。
 
ナレーター:  上杉鷹山は、勤労と倹約を奨励し、漆や養蚕など、新しい産業の育成に努めました。ところが旧体制に馴染んだ一部の重臣の反発に遇い、改革は難航、緊迫した場面を迎えます。そこで鷹山は、自分の改革について、家臣たちに問い質しました。
 
藩主は、ただちに家臣全員を総会に召集しました。家臣は武装して何千人も城内に集まり、待機しました。この間、藩主は、春日神社に加護を求めて出向き、難問の無事解決を祈願しました。その後、大事な家臣らと会い、自分の政治が天意にかなってはいないのか、と彼らに尋ねました。執政たちは「いいえ」と言いました。隊長も隊士も「いいえ」です。「異口同音(いくどうおん)」に「いいえ」です。藩主は満足しました。民の声は神の声(vox populi est vox dei)であります。
(『代表的日本人』)
 
鈴木:  内村鑑三が、上杉鷹山を描くのに使った主な資料は、ほとんどちょうどここにありますけど、川村惇(かわむらじゅん)(「朝野新聞」の主筆)という人の書いた『米沢鷹山公(よねざわようざんこう)』(朝野新聞社、一八九三年)という、これからきていますね。そして鷹山公の資料にないような言葉を加えていますですね。
 
石澤:  例えば、どういう?
 
鈴木:  その行政改革は上手くいかない。ほんとに藩のみんながどちらを望んでいるか、というのを、全員を集めて聞いたわけですね。ここは資料では、みなの考えが一致したぐらいのことしかほんとは述べてないですが、だけど内村自身は、まさにこれは「天意に賛成したんだ」と。「天意」という言い方で、この場を描いています。内村は、天意は民の父母とする鷹山の姿勢に天意が反映したという、そういう見方をしたわけですね。
 
石澤:  ここで鷹山が問うている天意ですね、もう少し伺うとどういうことになりましょうか。
 
鈴木:  これは内村の言い方をすれば、「民の声は神の声だ」というふうに、内村は描いています。これは今度は、「民の父母」というのは、東洋的な古典からきた言葉ですけれども、「民の声は神の声だ」という言い方は、ラテン語でよく西洋世界では誰でもわかった、そういう諺に近い言葉ですね。これは八百年ぐらいの中世の僧侶でもあり、神学者でもあったというアルクィヌス(中世の神学者:735-804)という人が、いわば政治の心構えを説いたその言葉のようですね。「民の意見を尊重することは、それを神の声と同然と思って尊重しなさい」と。内村も、鷹山の民の声を重視した決断とかを政治の中に反映することは、キリスト教精神でもあり、後には今日民主主義の一つの考え方とも言われております「民の声を重視する」という思想を、そこに読み取ったわけですね。背景には、当時の日本の政治批判もやはりあったと思います。それなりに日本は近代化を遂げて、例えば限られた人たちにも投票による政治ということも実現しました。しかし投票箱もまだなかった時代でも、この米沢みたいに、真に血の通った政治が行われることもあったんだ、ということで、形式だけの民主主義、形式だけの現状に対して、いわば鷹山の名を借りて痛烈な現状批判、政治批判も、ここでしているように、私は思います。
石澤:  さて続いては、儒学者中江藤樹(1608-1648)です。中江藤樹は、天の声とどのように向き合っていったんでしょうか。
 
ナレーター:  中江藤樹は、米子藩に昔抱えられていましたが、藩主が四国に国替えになったのを期に、年老いた母親と暮らすため、生まれ故郷の近江(おうみ)に帰りました。母親孝行の人物として知られる藤樹。内村は、藤樹のもう一つの人物像を浮き彫りにしています。
 
藤樹は儒者として厳格な一夫一婦主義者でした。中国聖賢の定めにしたがい、三○歳にして結婚しました。その伴侶となった女性は、容貌のうえではかなり見劣りしました。母は、家人の受ける悪評を心配し、当時よくみられたように再婚を勧めました。しかし、母の願いにはたいてい何事でも聴き従っていた、まことにやさしい息子も、この一事に関しては従いませんでした。
「母上のお言葉ですが、天の法に反してはよくございません」と言ったのです。
(『代表的日本人』)
 
鈴木:  それだけ内村鑑三は、主にテキストの中で不要のところは除きますね。除くだけじゃなくて、言いたかったこと、強調したかったことに関しては、別の資料でもって補うというやり方をとっています。中江藤樹というと、親孝行、特に母親孝行で知られています。その藤樹が、お母さんの命令なら何でも聞くと、一般には思うけれども、奥さんを留めましたね。ということは、内村からすれば、外形だけで人を判断するというようなことはよくないことだと。本当の人間、あるいは天の声ならば、そういうことはしていけないんだと。またこういう出来事も記載されていますね。例の岡山の殿様(池田光政(いけだみつまさ))が、江戸へ往ったり帰ったりする交代の途中に、当時の藤樹の評判を聞いて池田家に召し抱えようとして、そしてわざわざ琵琶湖畔の藤樹の塾へ立ち寄ったという。村中大騒ぎだったと思いますが、そういう殿様が門前に来たというのにも関わらず、藤樹は少しも騒がず、授業がちゃんと終わってからやっとその殿様と会ったという。内村は、授業というもの、つまり真理というものが、何よりも優先する。内村は、そのことを言いたいために、その話を取り寄せていますね。
 
石澤:  例えば母親思いだけども、この一点だけは譲らないとか、それから殿様の権威にも屈しない、真理を追究する場を確保する、それが天の声と繋がってくるのかなって思ったんですが。
 
鈴木:  そうですね。人の作った制度とか、人の作った習慣とか、そしてそれが本来自由に生きるべき魂、生きる精神、そういうものが押さえているから、そういうものから解き放す時に、内村にとっては、天と声が、こういう人たちを介して自分も聴き、こういう人たちも聴いたものとして描いたと思いますね。
 
石澤:  続いて、二宮尊徳(1787-1856)です。貧しい農家に生まれながら、持ち前の勤勉さで、小田原藩の領地の復興を成し遂げた人物ですね。内村は、一般的なイメージとは違う二宮尊徳像を描き出しています。
 
ナレーター:  一八三○年代、多くの餓死者を出す深刻な飢饉が全国を襲いました。天保(てんぽう)の大飢饉です。小田原藩の家老から藩の救済方法について意見を求められた尊徳は、次のように語りました。
国は飢饉(ききん)をむかえ、倉庫は空になり、民の食べるものがない。この責任は治者以外にないではありませんか。その者は天民を託されているのです。民を善に導き、悪から遠ざけ、安心して生活できるようにすることが、与えられた使命ではありませんか。ところが今や民が飢饉におちいっているのに、自分には責任はないなどと考えています。諸氏よ、これほど嘆かわしいことを天下に知りません。この時にあたり、よく救済策を講ずることができればよし、もしできないばあいには、治者は天に対して自己の罪を認め、みずから進んで食を断ち、死すべきであります。
 
石澤:  二宮尊徳というと、薪を背負って本を読んで、非常に質素倹約勤勉で、というイメージがあるんですけど、内村が描く二宮尊徳は、見ていると非常に厳しい人ですね。
 
鈴木:  そうですね。藩主という者は、天から民を預かっているんだと。天から預かった民を餓死させるようなことは、天の命に反するんだから、藩主も家老もみな責任をとって命を絶てという強い言葉で二宮尊徳の説いた教えを、内村は、一つは強調していますね。他にも、みんなが飢えで苦しんでいる時に、藩の倉庫の中に米を蓄えておる。「殿様の文書がないと開けることができません」と言ったのに対しても、「何事だ!」と言って、さっきと同じような叱声を重臣たちに浴びせましたね。ということは、結局二宮尊徳自身は、藩の財政を立て直している。後には江戸幕府からも雇われるという道を、いわば更生人(こうせいにん)みたいな、そういう役割をしていきましたけれども、
 
石澤:  立て直し請負人みたいなものですね。
 
鈴木:  そうですね。だけど、どこかで旧―古い秩序を超えるところを見せるんですね。内村は、むしろそういう点を二宮尊徳の本領として評価して、この『代表的日本人』に加えていますね。幕府の声だとか、殿様の声じゃなくて、天の声を聴いて、民を第一とする政治、あるいは立て直しをやろうとした人物として、内村は、この『代表的日本人』の中では、尊徳を描こうとしていますね。明治の末ぐらいから、今度は日本政府が税金やお金を取り立てるために、一般庶民に勤勉と倹約を非常に奨励します。それを率先して全国で説いて廻った運動を「報徳社運動」と言いますが、これは二宮尊徳の精神によって、人々にただひたすら倹約をして働けということを奨励した運動がありました。これは日本国家の内務省や文部省により形成される尊徳像とは大きな隔たりを生じさせることになり、内村は、これをこっぴどく批判します。内村が見たのは、その下の民じゃなくて、支配者へも異議申し立てをするような尊徳の精神。民のことを考えて政治をするという意味では、いわば封建秩序を乗り越える尊徳像みたいなのを、ここで描いていると思われますね。
 
石澤:  さて、生きる道を模索する苦悩の中で、内村がもっとも熱心に読んだのが、鎌倉時代『法華経』を根本経典として日蓮宗を開いた日蓮(1222-1282)の伝記です。内村はこの日蓮をどのように見ていたのでしょうか。
 
ナレーター:  日蓮は幕府や既存の仏教界を激しく批判し、たびたび流罪(るざい)に遭うなど弾圧を受けました。内村は蓮長(れんちょう)と名乗っていた若き日の日蓮について、次のように記しています。
 
ある夕、蓮長は、仏陀(ぶつだ)が入寂(にゅうじゃく)する直前に語ったという涅槃経(ねはんぎょう)に目を注いでいました。そのとき、次の文がこの若き僧をとらえました。そして迷い苦しむ心に言い知れぬ解放感を与えたのです。それは「依法不依人(えほうふえにん)」、真理の教えを信じ人に頼るな、との言葉であります。すなわち、人の意見は、どんなにもっともらしく、耳触りがよくても、頼るべきではない、「仏尊(ぶっそん)」によって残された経文(きょうもん)こそ頼るべきである、あらゆる疑問は、それによってのみ解決しなくてはならない、とわかったのです。
(『代表的日本人』)
 
石澤:  この「依法不依人(えほうふえにん)」という、これはどういう意味なんでしょうか。
 
鈴木:  「ただ法だけによって、人に依らない」という。内村の尊敬していたのに、宗教改革者で、マルティン・ルターがいます。マルティン・ルターの宗教改革の精神を、三つとか、いくつかありますけれども、中でも一番根本的なのは、「聖書のみ」という、そういう精神ですね。そして日蓮の場合は、「法華経」などその法話ですね。
 
石澤:  法華経のみ従いと。
 
鈴木:  ですから内村の場合にも、同じようなルターとかの精神、聖書のみによる精神をいち早く日本人の中でも称えた宗教改革者で日蓮がいたという意味で、日蓮というものを日本の宗教改革者のモデルとして、そして併せて同時に内村からすれば、自分も日本のキリスト教の日蓮たらんという気持ちが非常に強く、これを描く頃にはあったと思います。後に内村は、法然(ほうねん)や親鸞(しんらん)の教えを知ると、そちらにも日蓮に劣らず共感をしていきますが、日蓮と内村は、考えれば経歴も非常にそっくりですね。例えば、二人とも十六歳ぐらいの頃に入信というか、信仰への接触を始めます。二人とも十六歳ぐらいですね。そして同時に二人共が、教派に対して疑問を持ちます。内村も、札幌時代、キリスト教の教派の存在に疑問をもちました。日蓮も修行している間に、「何故仏の教えは一つだと言われるのに、こんなに教派があるのか」と言って疑問を持ちます。そして疑問を持った上に、既成仏教の腐敗というのを見て非常に嘆きます。で、内村も東京へ出て来て、札幌時代とは随分違う冷ややかな東京のキリスト教に失望しましたですね。そしてその結果、単独でも聖書のみという、あるいは法華経のみによって、世に立とうという決意を二人とも固めていきます。
 
石澤:  これまで見てきた五人に共通するのは、「天の声を聴く」ということであるわけですけども、内村は何を通して、では天の声を聴いているのでしょうか。
 
鈴木:  西郷隆盛が静かな山の中へ入りました。内村の場合にも同じように森の中とか山の中へ入って、独り静かに祈るということがたびたび重なっていますね。そして天の声を聴こうとして静かな祈りを捧げた時もあったかと思われますね。
 
石澤:  それでは内村にとって祈りとはなんだったのか。次のコーナーで見ていきましょう。
 
ナレーター:  内村が、「祈祷の森」と名付けたこの場所。祈りのためにいつも通っていた森です。
 
如何なる場所にて祈るべき乎(か)、「汝祈る時は厳密(ひそか)なる室に入り戸を閉じて隠れたるに在(いま)す汝の父に祈れ」、祈祷は父との秘密の会話である。故に人の見えざる所にて祈るべきである。
交際の最も親密なるものは人の見えざる所にての交際なるが如く祈祷の最も深きものも亦隠れたる所に在(あり)ての祈祷である。或(あるい)は住宅内に特別の一室を定めて、或は山上に於て林中に於て河畔に於て、凡(すべ)て人の見えざる所ならば何処にても可なりである。
(「主の祈祷と其解釈」)
 
鈴木:  おそらく内村が、こういうことをいう背景には、初めて東京へ出て来て、食事をしようとした牧師の家かなんかで、そうしたらいきなりご馳走食べようとして、牧師に諫(いさ)められたというような、「私たちはこういう食前の祈りすら知らないほど原始的なキリスト教だったんです」というくだりがありますけどね。きちっと人前でいろんなところでこういう祈りがあるということが、東京のキリスト教には発達していたんでしょうね。そうすると、勢い祈りの上手な人とか、そんなような評価も教会によってはあったかも知れませんね。あるいは大きな声でその人の祈りは立派だったとか―私も聞いたことありますけども、そういう感想を―ところが聖書には、そういうことをやるなという戒めの言葉が聖書にもありますし、人前で大声で「自分は信仰を篤い、高揚しているんだよ」とかというようなことはせずに、祈りは誓いそのものですから、内村からすれば人里離れた静かなところで祈りは捧げるべきだと。そこで自分と超越的な存在との交わりをはかるべきだという考え方が昔からあったみたいですね。ですから内村自身も、比較的新宿から近い戸山ヶ原(とやまがはら)(現都立戸山公園一帯あたり)を「祈祷の森」と名付け、そこへ好んで独りで入って行って、祈りをし、そこで何かの声を聴こうとしていたことはあったみたいですね。
 
石澤:  その祈りは内村に一体何を与えたんでしょうか。「山と祈祷」という文章の一節をお聞きください。
 
ナレーター:  山と祈祷
我れ弱き時に独り静かなる山に入り、其処(そこ)に我の磐(いわ)にして我が救主(すくいぬし)なるエホバの神に我が祈祷を以て接す、而(しか)して見よ、入る時には弱かりし我は強き者となりて出(い)で来るなり、偉大なるかな山の勢力、量るべからざるかな祈祷の効果、山と祈祷とありて人世(ひとのよ)は苦痛の谷に非(あら)ず。我れ山にむかひて目を挙(あ)ぐ、我が扶助(たすけ)はいづこより来るや、我が扶助は天地を造り給へるエホバより来る。
(詩篇第百二十一篇)
 
鈴木:  内村は、旧約聖書の詩篇の言葉の「我れ山にむかひて目を挙ぐ」という言葉が好きで、と言いますか、他でも何度も触れております。他に触れている中で、じゃ、山に入って祈っている時に、助けはどこから来るかと言って、具体的な例を挙げております。皮肉的な言い方も加えてこう言っております。「それは政府からは来ない」。そしてこれはちょっと教会側にはショックな言い方ですが、「教会からも来ない」。そしてさらにショックなのは「信仰からも来ない」。そしていくつか「来ない、来ない」という例を十ぐらい挙げまして、で、何から来るか。「我が内より来たる」という言い方をしています。その「内」という意味は、要するに神から来たのが、自分の内に、内面化されて―だから言えば仮に宿してしている感じの内から来ているんだと言います。今の強き助けというのは、前後関係から私は察するに、それは砕かれた心の姿勢だと思いますね。静かな場で、もう何か求める気持ちも、ある面では転換させられた、そういう実にへりくだった、砕かれた心の気持ちを得て帰って来た。それが彼にとっては強き助けというふうに、これ以後おそらく―この後もう一回似たような場面が、そういう祈りはほんとに聴かれるかという場面があるかと思いますけど、そこで併せて考えたいと思いますが―それを言ったのは、強き助けじゃないかなと、逆説的かも知れませんけども思いますね。
 
石澤:  人生の危機的な局面において、内村も神に助けを求め祈っています。しかし結果は自分の思い通りになったわけではないようです。それは内村に深い問いを投げ掛けることになりました。
 
ナレーター:  二十九歳の時、不敬事件で四面楚歌(しめんそか)の状況にあった内村は、身を挺(てい)してかばってくれた妻の死を経験します。著書『基督信徒の慰』の中で、内村は愛する妻を失った悲しみから暫く祈ることができなかったと告白しています。内村五十歳の時、さらなる不幸が襲います。最愛の娘ルツが、不治の病と宣告されたのです。御心に叶うならば、この病を癒さしめ給え、懸命の祈りにも関わらず、ルツはわずか二ヶ月で此の世を去りました。その直後内村が記した苦悩の言葉が残されています。
 
雷電(いかづち)は劇場をも撃ち、教会堂をも撃ち、盗賊は悪人をも襲ひ善人をも襲ひ、而して死は最後に諸人(すべてのひと)を拉(らっ)し去る、此世に在りては善人必ずしも長寿ならず、悪人必しも短命ならず、義人(ぎじん)必ずしも幸福ならず、罪人必しも不幸ならず。
神は無いのである乎(か)
善を為すの結果は悪を為すの結果と等しくある乎、諦了(あきらめ)は智者の最後の了悟(さとり)である乎、天道是耶非耶(てんどうぜかひか)は賢者の発せざるを得ざる悲嘆(なげき)の声である乎。
(「人生の謎」)
 
鈴木:  「天道是耶非耶(てんどうぜかひか)」は、司馬遷(しばせん)の言葉で、中国の『史記(しき)』の中に出てきたと思いますが、悪人が栄えて、善人が滅びるという不合理な、非条理な現状が人生にはあると。一見悪いこともしていない筈だと。それなのに次から次へと自分にはこういう苦難が襲いかかってくる、これは何なのか。まさに中国でいうような「天道是耶非耶」という言葉を、自分の言葉として、内村も投げ掛けていたようですね。この頃内村が非常に愛読した書物として、旧約聖書の「ヨブ記」という編があります。これはご承知の人も多いと思いますが、ヨブは家庭的にも子孫を繁栄し、非常に幸せに充ちた生活を送っていました。ところが突然資産が奪われ、そして子女も奪われ亡くし、そして最後は奥さんまでも自分に背(そむ)いて去って行くという。そしてそのあげく孤独になったヨブは皮膚病に罹って、そしてボロボロと落ちる皮膚を撫でて嘆いているという状況になりました。そして彼が叫んだ言葉は何かというと、「ほんとに正しい人は救われるのか」という問いですね。内村は、その「ヨブ記」の中の十九章だというようなことを自分の本の中では言っていますが、結局「この答えは、この世では与えられない」というようなところに、ヨブは気付くわけですね。この世では、その答えは与えられるものではない。「ヨブ記」はその後ちょっと展開していきますけど、内村は、「ヨブ記」の山はそこだと言っていることは、自分がそこに共感を示したと思います。
 
石澤:  つまり内村はそこから何を学んだということですか。
 
鈴木:  その答えは、「この世では与えられない」ということは、「祈りは聴かれない」という。内村の表現をすれば、「聴かれざる祈祷」ですね。一般に「祈りは聴かれる」というのが常識ですね。ところが内村の結論は、「祈りは聴かれない」という。聴かれない祈りの先輩みたいな人たちを何人か、内村は例を挙げて語っております。
 
(ここ)に聴かれざる祈祷の著しき例が三つあるのである、モーセの祈祷が聴かれず、パウロも聴かれず、イエス御自身も亦聴かれなかったのである、依(より)て知る祈祷の聴かれないのも亦決して悪い事でない事を、憐憫(あわれみ)あり恩恵(めぐみ)ある神は時には其(その)忠僕(ちゅうぼく)愛子(あいし)の祈祷を斥(しりぞ)け給ふことを、即ち知る、祈祷を聴かるゝ事、必ずしも恩恵(めぐみ)にあらざることを、祈求(ねがい)を斥(しりぞ)けらるゝこと、決して詛(のろ)はれしことにあらざる事を。
(「聴かれざる祈祷」)
 
石澤:  「モーセもパウロもイエスも願いが聴かれなかった」というふうに言っているわけですけど、これはどういうことなんですか。
 
鈴木:  モーセは、イスラエルの民を率いて出(しゅつ)エジプトを図(はか)って、そして待望の地へ達する前に、モーセ自身は途中で死んでしまいます。旅の途中で死んでしまいますから、イスラエルの民を故郷へ戻す夢は、願いは聴かれなくて終わっています。それからパウロは、これは謎とされますけど、一つの身体に傷がある。それを抱えて、ずっと一生生き抜いてきて、それを取り払ってほしいと、何度も痛切に願ったけど、ついに取り去られ、除去されることはなかったという。イエスは、十字架に張り付けられる前に、「此の苦(にが)き杯(さかずき)を私から取り除き給え」と、神に向かって最後に独り祈ります。しかしその祈りは聞き届けられなくて、十字架にかけられましたね。だからもう内村からすれば、信仰の大物たちが、みな祈りは聴かれていないんだ、と。そういう出来事を経験して、その結果内村は、「祈りは聴かれない。こんな人でも聴かれない。ましてや自分が聴かれる筈はない」という結論に到達しました。
 
石澤:  その言葉としては、「祈祷の聴かれないのも悪いことではない」というわけですよね。
 
鈴木:  それをどういう表現で内村が言っているか。私も、祈祷は聴かれないというままで終わっては、ちょっと寂しいというんですか、普通の人なら誰でもそう思うかも知れません。そうした時に内村の書いたものを、言っている言葉を読み進めていきますと、ポツンと二つちょっとした付け足しがあるんです。それはどういうことかと言いますと、「ところで自分の人生を顧みると、こうして欲しい、ああして欲しい、と自分のために願った祈りは、一つも聴き届けられなかった。これだけは間違いない」。だけど「そうだな」という感じで言っていますね。「一つは自分のためでない祈りは、ひょっとすると、聴き届けられているかも知れないな」という言い方をしています。非常に微妙な言い方ですけどね。それをポツンと言っている辺(あた)りが内村らしいですね。聴かれないで終わっていないですね。「自分のためでない、利害のためでない、そういう祈りはひょっとすると聴かれているかも知れないなあ」というぐらいで、この大きな問いの結末を、内村は結んでいると思われますね。
 
石澤:  もう一つは、どういうことですか。
 
鈴木:  先ほど申し上げましたことと、非常に裏表みたいな関係になりますけれども、「今は与えられない。ひょっとすると、後に与えられるかも知れない」という。今は判断保留ですね。
 
石澤:  結局自分では「わからないんだ」という。それに無理矢理答えを出そうというところに無理があるんだ、ということでしょうかね。
 
鈴木:  それが要するに、内村のいう「砕かれた心」の言い方を表してもいるし、「祈祷は聴かれない」ということを表していると思います。内村自身の「砕けた心」というのは、言い換えれば、「謙虚」という言葉でもあると思いますが、これは後に内村の真理観―真理とか宗教をどう見るかということにも連なっていく大前提となる考え方だと思いますね。
 
石澤:  ありがとうございました。
 
     これは、平成二十五年六月十六日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである