この岸から彼の岸へ
 
                  京都大学名誉教授 川 畑(かわはた)  愛 義(あいよし)
明治三八年(1905)、鹿児島県生まれ。七高をへて京都大学医学部卒。同教授(衛生学)、大学退官後、京都府衛生研究所長、日本生活医学研究所長を歴任。熱心な真宗門徒として宗教講演や著作に活躍する。二○○五年逝去。
                  き き て    有 本  忠 雄
 
有本:  先生、よろしくお願い致します。
 
川畑:  はい。
 
有本:  今日は、西本願寺でお話を伺うわけですが、是非先生がこちらでということなんですが、何かご理由ございますか。
 
川畑:  私は、一時多分反宗教的な生活を送っていたんですけども、途中からこの浄土真宗の信仰にお蔭様で入らせて頂きました。だからこういう高いところに座らせて頂くというのは勿体ないんですけどもね、これ許しを頂いてと、そういうつもりです。
 
有本:  ここはなかなかお庭拝見できないんだそうですけども、先生は何回かいらっしゃっているんですか。
 
川畑:  いいえ。実は私も今回初めて見るんです。
有本:  そうですか。ご覧になって如何でございますか。
 
川畑:  やっぱり古い伝法と言いますか、念仏の雰囲気が漂っているように思います。
 
有本:  念仏と言えば、先生ご出身の鹿児島も真宗王国と言われるぐらい念仏者が多いと伺っておりますけれども、先生のご実家の方も古くから念仏信じて。
 
川畑:  ええ。忝(かたじけ)なくも私の方も先祖代々なんですが、よく知られておりますように、鹿児島の薩摩藩が、この念仏禁止令(島津家による公式の禁止令は一六○一年に発令)というものを出しまして、長い間鹿児島では浄土真宗というものは御法度(ごはっと)だったんですね。そういう事跡が今も尚残っておりまして、例えば私がまだ小学校に行かない前の頃、野山で遊んでいると、山のふもとが半分くらいけずられたような崖っぷちがあって、その前はススキだとか、小さな灌木におおわれていましたが、よく見ると一つのドームのような穴が開いている。その中へ入ると薄暗い中に目が慣れると、そこにはお線香とかロウソクを焚いた跡があって、お仏像が刻んである。これはその村の人が、役人の目を逃れて、身を寄せ合って念仏を称え、信仰を守ってきた跡だということを、母から聞きました。
 
有本:  そうしますと、禁止令が出ているだけに、念仏者にとってはほんとの敬虔(けいけん)な念仏だったということになりますよね。
 
川畑:  万一見つかると、酷いお折檻というお仕置きに遭いましたんですけども、そうすると、妙なものでますます信仰に対する思いが募っていくと。私の方も小さい頃は、他人(ひと)の家に行きましても、先ず仏壇へ拝んでから「こんにちわ」と、こうやる具合でありました。
 
有本:  小さい頃の想い出と言えば、お母さんの想い出が、今でも胸の中におありかと思いますが、お母さんの想い出を一、二思い出して頂いてお話して頂きましょうか。
 
川畑:  私は、考えてみますと、おそらく母に抱かれていた頃から、あるいは母におんぶされていた頃から―記憶はありませんけども―そういう頃からお念仏を聞いて育ったんだろうと思うんです。母が、生活の中で、先ず朝起きると、先ずお仏壇にお詣りをすると。そういうのがどうも癖になっておりまして、八十を越える今も、私は母の真似事みたいなことをやっています。
 
有本:  先生のお書きになったご本を拝見致しますと、お母さんは、「右に行こうか、左に行こうかと迷った時に、損をする方の道を選びなさい」とおっしゃったとか、書いていますね。
 
川畑:  そうね、人生行路で、分かれ道に立った時に、「右せんか、左せんかという分かれ道に立ったら必ず損をする道を歩きなさい」と。何でや、というと、「得をする道へ行くと、身が危ない。どっか危険なことがある。しかし、たとい損をする道へ行っても、ちゃんと仏様が見てござる。また仏様が聞いてござるから、安心して損をする道へ歩きなさい」と、そういう教えもありましてね。
 
有本:  そういうお母様の教えというのが、間もなく先生は、八十九歳になるとおっしゃいますけども、振り返ってお母さんの教えというのは、守っていらっしゃいました?
 
川畑:  ところが八十九歳、それが試行錯誤よりも失敗と過ちの連続でして、先ず私は、そういうような信仰篤い土壌に育ちながら、天の邪鬼というのかね、生来の反逆児で、物心が付いたら、なんだお寺さんへ行くのは、お爺さんお婆さんの慰め事じゃないかと。しかし自分は、自分が頭ではっきり納得しなければこの信仰はしないという具合な、そういう反逆とか謀反心みたいなものをかなり強く持っていたんです。ところが小学校の先生で上原覚市(うえばらかくち)先生という人が、小学校の卒業式のちょっと前に、「あんたたちは、中学校へ入るのもけっこうだけども、もっと大事なことがある。それは死を怖れない。死ぬ時でも平気であると。場合によったら、喜んで死ねる世界があるから、このことは今はあんたたちはわからんだろう。けども、耳のどっかにおいておきなさい」というようなことを言われた。ところがその小学生だったけど、そのことが私は妙に忘れられなくて、中学校、高校、大学と行きますけども、私はその上原先生を大変尊敬しておりましたので、それから高校に入った頃は、マルキシズムにほんとに精通して自分は無産階級のためになろうというて、そういう時代におりました。それから上原先生の言われた、あることがわかれば死ぬことも平気だと。そういう死を克服する、死線を越える世界というものを知るために、「武士道とは死ぬことと見つけたり」という葉隠れの精神に憧れたり、あるいは禅の世界にいって坐禅をしたこともありました。青少年時代ですから、かなりロマンチックな考えで、大した実践的なことはないんですけども、ただ一言でいうと、反宗教的のような思想に駆られてきました。
 
有本:  今お話のように、禅であるとか、葉隠れであるとか、あるいはマルキシズムという、当然当時の青年たちがもった悩みを解決するためには、ということなんでしょうが、なんかほんとに信仰に触れるきっかけということは、どういうことなんでございますか。
 
川畑:  島津の殿さんが、三州学舎という育英の寮を建てられ、そこは武士道あるいは日本精神というようなもので統理されておりました。まず私は武士道精神で、どうしたら死が怖くないようになるかとトレーニングをするのですが、なかなか思惑とは反対に、夜の墓地が恐くてしょうがないという状態におちいり、全くお話にならない。それで三州学舎を出まして、前に龍谷大学の学長もされたことのある、当時は京大の仏教学の教授をしておられた羽渓了諦(はたにりょうたい)先生が司宰されていた知四明寮(ちしめいりょう)へ入った。ところがここはまったく打って変わった世界でして、みんなが信仰を熱心に、特に浄土真宗の教えをほとんど命懸けというんですか、真面目に情熱を込めて求めていました。それが渦巻きみたいに情熱があるんですね。私もその中に巻き込まれるみたいな形で、「よし俺もこれなら何だか死が解決できそうだ」というので、一生懸命求めて、その時にたまたま池山栄吉(いけやまえいきち)先生(元大谷大学のドイツ語教授:1873-1938)のお話を聞いて、『歎異抄(たんにしょう)』を読みなさい、ということで、私はその『歎異抄(たんにしょう)』を毎晩一節ずつ読むことになっていました。しかし何度読んだって、観念的にと言いますか、そういう理論的に言ってもわからない。読めば読むほど疑いが出てくる。実感は出てこない。そこで―これはちょっと恥ずかしいんですけども―ある晩机の前に坐って『歎異抄』と、それから医学部の学生ですから髑髏(しゃれこうべ)を置いて人生無常ということで、そして『歎異抄』を読んでいましたら、夜が深々と更けていく中に、別に何も変わったことはないんですけども、なんとなしに自分の身が引き締まるような思いをしておった時に、その静寂ですか、無言(しじま)の中になんとなしに親鸞聖人のお声が聞こえてくるような錯覚でしょうかね、声を直に聞いたような気がしたんです。それはご承知かと思いますが、『歎異抄』の第二節でして、
 
親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀(みだ)にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業(ごう)にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりいける身が、念仏もうして、地獄におちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし。
 
親鸞は出会ったけれども、どうしても自分は地獄に行くような、そういう身分だということしかない。結論は地獄行きだ、ということを、親鸞の声として、私が自分の心身をもって受け止めたような感じがした。〈そうだ。親鸞でさえ比叡山に二十年間、難行苦行されて、そして地獄行きだ、という。増してこの川畑如きが、一日の行もしないのに助かろう、助けて貰おうと思うのは、これは大間違いだ。自分こそ―この川畑こそ地獄行きと言いますか、一定すみかと。地獄に堕ちるんじゃなくて、一定もこの中が、このままが地獄のすみかであるということを。はぁ、なんと愚かな傲慢なことだった〉と思って、自分の五体を障子の前に投げ出したんですね。ところが不思議なことに、自分が投げ出して、ここが地獄の釜の底と思ったそこへ弥陀の本願と言いますか、大いなるものの救いの手が用意されていまして、どういうことかその刹那に、今まであれほど称えなかった念仏がなんとなしにさらさらと流れて出る。そしてあれほど死というものに対して対決をしようと思っておった自分が、その死も生もどっか自分が無我になってなくなると同時に、生も死もなくなっちゃった。そしてもうほんとに生なにするものぞ、死なにするものぞ、後に残ったのは、今日そこまで導いてくださった多くの方々のお蔭と言いますか、ご恩と言いますかね、そういうものがあって、それは大元(おおもと)は阿弥陀様のお救いのご恩が、なんとなしに、天地どっかへ向かってお辞儀したいようなそんな気持の体験があったわけです。
 
有本:  池山先生は、「勿論味わいながら『歎異抄』を読むということも大事だけれども、身体で読まなければいけない」というようなこともおっしゃった、と伺ったことがありますが。
 
川畑:  池上先生という方は、あんまり多くを語られない。しかしご自身がほんとに念仏のシンボルみたいな方でしたね。ある時、先生と静かに二人で対座しておりますと、先生は何もおっしゃらないですね。で、私も勿論何も喋らない。そうすると、何か微かな声で先生が、「ナムアミダブツナムアミダブツ・・・」とこう称えると、そこが森羅万象が念仏の座になって、さながら涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)で本当に静かなんです。降る雨の音、吹く風の音にも、如来様の人間の世の中を渡っていく足音を聞くような、そういう涅槃寂静、そんなものを、池上先生の印象から受けました。そんなお人柄でした。
 
有本:  先生、間もなく彼岸の入りでございますけども、春のお彼岸、秋のお彼岸と、日本人にとっては大変意味合いが大きいんですが、先生はこのお彼岸の意味合いを、どんなふうにお感じでございますか。
 
川畑:  このお話を頂いたのは、去年の暮れだったと思うんです。その時に、有り難いなと思ったんですけども、さてさて、僕は彼岸まで生きているかどうかと、こう思ったんですがね、幸いに今日、こんな良いお日和で、間もなく彼岸だということで、こんな清々しい中にここへお話させて頂くのはほんとにお蔭様だと思います。私ね、この彼岸について、思い出されるのは、二河白道(にがびゃくどう)(善導(ぜんどう)大師が記した仏教の説話)の話だと思います。これはみなさんご存じのように、善導大師(中国浄土教(中国浄土宗)の僧である。「称名念仏」を中心とする浄土思想を確立する:613?-681)が「散善義(さんぜんぎ)」の中にお説きになったのを、親鸞聖人も『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の中にかなりご丁寧に引用されていらっしゃると思います。それでよく知られておりますように、「二河白道」というのは、簡単に言いますと、旅人が西の方へ行こうとすると、突然目の前に一本の大きな河があって、その岸にぶつかる。ところが南の方には火の河で、炎がほんとに燃え上がっている。北の方には、水があって、洋々たる水が波立っている。とても渡れそうもない。それじゃ引っ返そうとすると、後ろの方から強盗が来るし、それからまた猛獣悪獣が牙を剥いている。それが右にも左にもいる。だから旅人はほんとに困りまして、絶対絶命のところに、よく見ると炎の河と滔々たる波の間に四、五寸の白道がある。それを渡るのも大変だなと思っておると、西の方から「汝一心に正念にして直ちに来たれ。我よく汝を護(まも)らん」という声が聞こえると。どういうことかというと、私は、どうしてもピンとこないのは、「一心に」というと、なかなか妄念妄想で一心になれない、私は。そして思い煩(わずら)うことの方が多いのに、私に「一心になれ」というのは、これはちょっと無理な話だなと、私は思ったんです。ところがある時、フッと静かに考えておると、「一心に」というのは、あれやこれやと考えんと、「そのまま、このまま」と、そういう具合に考えたらいいんじゃないかと。「ただそのまま」「ただ」と、こう読んだんです。それから次ぎは、「正念にして」というのは、正しい思いで来いということだろうと思うんですけども、その「正しい」ことが、私にはわからない。たとい私が、「これが正しい」と思っても、それが本当の意味をもっているのかどうかわからない。これも迷っているうちに、その時に感じたのは、「正念にして」というのは、正しい念―私の考えではなくて、「これは念仏することだ」と。「正念とは念仏することだ」という具合に思った。だから「一心に正念にして」というのを、私は、「だた念仏して」こう読んだんです。そうすると、アッという思いで、「あ、何にも要らんじゃないか。ただ念仏して来い」と。これなら僕もいけると。私は、その時思ったんですね。それで先ほど池山先生の話がでましたが、池山栄一先生は、これをこう読み替えられた。「お願いだから、すぐ来ておくれよ」と、そう読まれました。それで私もこれを有り難く頂くわけですけれども、こちらから行こうとするんじゃなくて、彼岸―彼方ですね―から、御浄土の方から、私が願われているのだ。すぐ来いよ、と。助けてやろうぞ、という、そういう阿弥陀様のそういうお願いが、私に届いて、やっとそれじゃ自分も、ただ念仏していこうという、そういうような気持になるんじゃないかと。私は、今日まで反逆と抵抗の精神できましたけれども、この私自身現在今も頼まれておる。お願いをされておる。そういう有り難い自分であると。ただもう忝(かたじけ)ないとして、これを頂く。だからお彼岸というのは、こちらから見て、向こうのお浄土ですけれども、同時にそのお浄土とこちらが、念仏が掛け橋になっている。彼岸と此岸の掛け橋になっていますけど、それは非常に近い。考えによれば、そういう如来様の呼び声というものが、私のこの胸にまですぐ念仏の橋を通って伝わってくると。だからお彼岸というのは、こう有り難いものだと。
 
有本:  先生、善導大師の「二河白道」のお話が出てまいりました。親鸞聖人は、どんなふうに「二河白道」をお説きになっていらっしゃるんですか。
 
川畑:  これをほとんど善導大師の『観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)』(『観経疏』)の中の「散善義」の、そのまま補って、すなわち「彼岸からの呼び声は、弥陀回向の本願の心を伝えるんだと。これが弥陀様からのお心をこちらに譬えとして、これ人生行路の中で分かり易く説いて頂いたのが「二河白道」の譬えだ」と、こうおっしゃっているんです。
 
有本:  先生、私たち今生活しているこの岸―此岸ですね―煩悩もあれば、執着もある。しかし西の方には―彼岸には西方浄土がある。先生のお話で、「いや、彼岸と此岸はそんな距離はないんだ」とおっしゃいましたね。そうしますと、この岸―此岸にいても、私たちがこう幸せにならなければ、幸せを掴まなければいけないということですね。
 
川畑:  ええ。それに関連しまして、アメリカは遠いところにありますね。先般ね、アメリカで十三年ぐらいアメリカの仏教団の総長をされた辻顕隆(つじけんりゅう)先生(ワシントン市にある恵光寺主管元北米開教総長)がお見えになりまして、そして西海岸の方には仏教のご縁があるんですけども、西の方にはほとんど仏縁がないんですね。辻顕隆(つじけんりゅう)先生は、単身一人でワシントンに乗り込まれまして、このお念仏を伝えようと行かれたわけです。それでこれは大変なご苦労さんだと思うんですが、そこで今恵光寺(えこうじ)というお寺を建てられて、そして白人に対しても念仏の尊さを広めていらっしゃるんです。その恵光寺(えこうじ)の本堂のところに「南無阿弥陀仏」と書いて掲げて、その下に、「I am one with Amidabutu」そう書かれたというんです。これは私は大変味わい深いことですね。私は「I am one with Amidabutu」と。これは大変有り難いお言葉じゃないかと思うのは、「阿弥陀仏」というのは、私どもは、ともすれば十万億土を経たところから、私たちを照らしているように思うんですけども、そうではなくて、私どもは阿弥陀仏と共にある、ということですね。ということは、そういう今もおっしゃったお浄土の阿弥陀さんじゃなくて、今ここに阿弥陀仏のご信心を、阿弥陀仏の光明と慈悲を頂くんだと。ここで頂く。即ちもう彼岸もこの此岸も一つになって、今現にここで救われる、という意味じゃないかと思うんですね。ですから遠いところにいたんじゃ本当のこの世の生活に生き生きと働いてこないけれども、この阿弥陀仏のお浄土というものは、この世の中からしても、すぐにそこに連なっているというか、一つになっているということだろうと思います。
 
有本:  「with Amidabutu」と言いますと、アメリカ人を初め外国人にも理解できましょうね。
 
川畑:  そうですね。
 
有本:  さて、先生は、医学者でいらっしゃるわけですが、科学と宗教というのは、いつも問題になりましたね。宗教者はとかく科学を、あるいは科学者はとかく宗教を、否定をしないまでも軽んじる風潮があったように思いますけれども、先生は、科学者であると同時に敬虔な真宗信者でもいらっしゃるわけですが、その辺如何でございましょうか。
 
川畑:  私は、この科学、医学、これは同じ領域にある。これは非常に大切であると。それで今度国が発展するか、あるいは民族が向上するかということは、この先端科学がどれだけ進歩するかということにかかっていると思うんです。だから科学の進歩というものは、これからもどんどんと推し進めていかなければならない。同時に、決して科学は、万能ではない。またこれを盲信してはいけない。ノーベル賞を受けたアレキス・カレル(フランスの外科医・生物学者:1873-1944)は、「人間は現代の文明の進歩にはついていけない。文明が進むほど人間は退化している。どうしてもこのへんで科学が人間にどんな影響を与えているか、また人間は果たして幸せにしているかどうかはっきり見きわめる必要がある」と、そういう具合に言っています。物は豊かになって、そして便利になって、それで人々は、今の現代人がみんな幸せになったかというと、ちょっと問題ですね。確かに心、あるいは心霊、そういう信仰というような、そういう豊かさがなかったら、人間というものは本当の幸せにはならないと思います。
 
有本:  確かに科学技術の発展というのは、私たちの生活を便利に豊かには致しましたけれども、心の豊かさまで充実したかというようなことになりますと、今先生のおっしゃる通り、かなり疑問がございますよね。
 
川畑:  それで今度は宗教ですね、宗教家にとっても、私は問題があると思うんです。例えば、先般日本医師会及び厚生省が、「脳死をもって人の死とする」という判断をくだしました。しかし、ともすれば宗教家の中には、「脳死を人の死と認めることができない」ということをおっしゃっている方々がないでもないですね。私は、これはちょっとおかしいんじゃないかと。人の死亡―死を決定するのは、これは医者ですね。ローマ法王ピオ十二世も、「死の瞬間を決めるのは、医師の仕事である。魂を失った者は、もはや人間ではない。治療の対象とはならない」と言っています。そういう意味で、そういう死の診断は医師に任せておいて、それより大事なことは、精神とか心とか魂の問題を、どういう具合にするかということは、これは医者はまったくわかりません。我々医者が、患者に対して、あるいは悩みをもっているクライアント(client:依頼人・相談者)に対しまして、なかなか思うように治療できませんし、そして医学が進歩するほど、医学というものが未熟である、ということを感じるわけです。それで例えば、近代内科の大家と言われましたアメリカからイギリスへ渡りまして、そしてアメリカの臨床学のシステムを立てると同時に、イギリスの医学のシステムを立てたサーウイリアムオスラーという近代科学の内科の泰斗がおります。この方が、「近代の医学はまだ未熟である。だから医者は夜寝る前に三十分間、バイブル(聖書)、あるいはそれに似たような本を読んで、いのちの尊厳性というものを考え直してみなさい」とこう言っているわけです。ここで、「聖書、またはそれに似たような」ということは、これはやはり信仰の世界で、医学の世界に入ってこなければいけないということだろうと思うんですね。
 
有本:  先生は、今八十九歳を迎えようとしていらっしゃるんですが、先生は、「生と死というのは交響楽である」というような言葉を使っていらっしゃいますね。
 
川畑:  例えば人間の身体というものは、絶えず移り変わっていく、変化していると。流転(るてん)しているということなんですが、例えばこの一番変わらんであろうと思われるこの骨でも絶えず一刻も変わらず変化しているんですね。例えば破骨(はこつ)細胞―骨の破る細胞と、片一方で骨芽細胞というものがあって、それを補充して新しい骨を作っていると。二年半ないし三年経ちますと、もう人間の骨は全部入れ替わるということがわかっているわけです。それよりもっと激しいのは赤血球で、これは大体百二十日間しか寿命ないんですね。そうすると細胞が発育し、成長し、成熟し、老衰し、そして赤血球が死滅していくわけです。例えば人間の赤血球は、一ミリリットルの血液の中に、四百五十万という膨大な数の赤血球がありますが、人間の身体の血液は約五リットルですから、二十兆という血液細胞の中で、一分間に千三百万個の血液が生まれたり死んだり、死んだり生まれたりしているわけですね。それではどこで生まれるかというと、骨髄、骨の中の髄です。これを壊すのは、肝臓と脾臓です。生まれて発育して成長して大人の赤血球になって、老衰して死滅していく、このライフサイクルが百二十日。こういう細胞が死ぬことによって我々は生きることができる。生きるということは、その裏づけにはこれらの細胞の死があるということです。だから医学的に見ても、人間の身体というものは、絶えず動き、絶えず変わり、絶えず移っていくと。だから自分の考えが、これが正しいと思っても、あるいはこれはどうにもならんと思っても、そうではないですね。身体がそういう具合にして変わるんですから、心の脳の働きも変わるのは当たり前だと思います。これはまた大変一致するのは、思想家、あるいは宗教家のみる目も大体同じようなことがあるようです。『倶舎論(くしゃろん)』(阿毘達磨(あびだつま)倶舎論のこと)というお経の中に、五蘊(ごうん)(現象界の存在の五種類。色(しき)・受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)の総称で、物質と精神との諸要素を収める。色―物質の肉体、受―感覚・知覚、想―概念構成、行―意志・記憶など、識―純粋意識。蘊は集合体の意)という、我々の身体を構成しておる成分は、刹那に生滅する。生まれたり死んだりする。刹那と―瞬間瞬間に死んだり生まれたりする。我々の凡夫が―「覚知(かくち)」という言葉を使っているようですが―ただそれを知覚しないだけであると。従ってそういう人間の身体が儚いものであるということを知らないから、菩提心を起こさないんだということを、『倶舎論』の中で言っているようです。また同時に、徳川時代の儒者(佐藤一斎(さとういっさい):1772-1859)は、「生ぜざれば則ち死せず。死せざれば則ち生ぜず。生は固(もと)より生、死も亦(また)生。生生之れを易(えき)と謂(い)う」というて、「生ぜざれば即ち死」、即ちそういう具合に赤血球の場合ですと、片っ方の細胞が死ななければ、我々のこの生の細胞が出てこない。だから私たちは、現に死ぬことによって、我々の生が可能であると。だから我々の生のプログラムの中には、同時に死ぬプログラムが組み込まれているわけですね。ですから、ただ自分の生というそれだけを見て、死ぬということをなんか大袈裟に、あるいは特に暗いことのように考えることもないじゃないかと、そう思います。「生死は生き物である」と。そうすると、今ここで私も、こうしておりますけれども、これ今死のプログラムの中に入っているわけですからね。そう死を怖れることも、癌告知なんて大層に言うほどのことも、私はほんとにないんじゃないかと思います。
 
有本:  「生死一如(しょうじいちにょ)」という言えば、先生のように本当にご高齢でお元気で、私たちも先生のようになりたいなという願望を持っておりますけども、多分四十代とか五十代に、先生のような健康を維持するためには、準備しなければいけないと思うんですが、四十代五十代の壮年期にやらなければいけないということは、どんなことがございますか。
 
川畑:  これは、いろいろな方面から検討されなければならないですけれども、私は、アメリカの養老園を見て廻りました。その時に感じたことは、養老施設を、向こうの養老園のお年寄りたちが明るい感じを持っているんです。そうして、みんな平和な顔をしているんです。ところがどうも日本の養老施設へ行くと、あれほどの明るさとか喜びというものが顔に漂っていないように思います。それもどこからくるかと言いますと、一つは、彼等はやはり宗教―信仰を持って、そして何か養老施設のために、世のため、人のためにと言って、何かと仕事をしている。ある者は編み物をして、それをバザーに出すと。あるいは彫刻をして、そうして自分も楽しむが、それを困った人たちにそれを分けて与えるというような、そういう何かボランティア活動をしている。養老園の中に一つの働き場を持っていると思うんです。ところが日本の場合には、どうもそれが安らぎ、自分の心の平安だけで、積極的に世の中、人のために何かをしてお布施をしよう、供養をしようというような考えがないから、喜びがないんじゃないかと思うんです。ただ私は、日本の四十代五十代、もっとこういきますと、もう少し働ける範囲内でまめに仕事をしたらいいんじゃないかと思うんです。というのは、私は、カリフォルニア州のサンノゼに行きました時に、私の話を聞いて一人の中年過ぎた男性の方が来られて、「私は、実は前は薬剤師で薬店を開いて盛大にやっていた。ところが卒中で右手が適わなくなって、今は薬局を閉じて、そしてこうしてはいるんですけれども、どうも人に厄介をかけて、人に面倒をみて貰って、私の存在そのものが、どうも邪魔者のような感じがして、どうもならん」と、こういうことを彼が言いました。私は、「それは前に比べたら不自由でしょう。けども、ものは考えようで、あなたはすぐ近くにお寺さんがあるじゃないか。お寺さんに行って、その左手が適うんだから、そこに屑拾いをしたり、草抜きをしてやったら、お寺さんが綺麗になる。そうしたらあなたの心も爽やかになりますよ」こう言ったら、とっても彼の目が輝いてきましてね、「よくわかりました」と、こう言って、それから後で聞きましたら、彼はそれを実行しましてね、ところが予期しないことだけども、リハビリをやりまして、右手もだんだん利くようになった、と言います。ですからお年寄りでもできる範囲内で働く。世のため人のために供養する、布施をする。そうしたらそれが老後の生き方の一つじゃないかと思います。
 
有本:  確かに外国の老人ホームの明るさを伺いますと、日本の老人ホームは、今一つということですが、持っている能力を十分発揮しながら、かつある目標に向かっていくと言いましょうか、喜びを持つということになりますよね。
 
川畑:  ええ。人間というものは、妙なもので、自分のために、自分がいいことを受けても、そんなに純粋なと言いますか、爽やかな喜びがない。これぽっちでも世のため人のために布施をする、供養をしたら、なんとなしに心が温まる。フランク・シナトラが、「マイ・ウェイ(My Way)」という世界的ヒット曲の中に、死ぬ時に、「わたしはなすべきことをした(I did what I have to do.)という歌詞がある。その過程でさまざまな出来事のあった人生を、とにかく「なすべきことをした」という満足をもって終えることができたら、どんなにすばらしいだろう。これに対し、もし「わたしはしたいことをみんなした(I did what I wanted to do.)と言って目を閉じるとしたら、どうであろうか。なすべきことをなしとげた後の「さようなら」とは、かなり違った生涯の響きをもっているように思われる。なすべきこと、それは客観的に求められていることであるし、社会的にも価値があるに相違ない。これに対し、したいことは自己中心である、外部からの評価も必ずしも高くないのであろうし、心の爽やかさ、喜びというものは湧いてこないと思うんです。何か世の中のために、ちょっとでもいいから、何かを働いたらと思いますね。
 
有本:  自分の能力の範囲で、
 
川畑:  そうです。私の友だちも少なくなりました。しかし元気で頑張っている人たちがおるんですが、長生きをして、そしてできたら元気で幸せでやってほしいと、こう思うわけです。私の友人の一人に、医者で、長い間、国立病院の病院長をして難病なんかに尽くして、高い叙勲を受けた人がおるんですが、彼は現職を退いてから、やはり何か世の中のためにと言って、考えたあげく、自分の家の周りを毎朝早く暗いうちに起きて清掃することをやったんです。そして爽やかな気持ちになると言って喜んでいたんですが、ところが、「掃く箒の音が喧(やかま)しゅうて、安眠妨害だ」というようなことを言う人がいたんです。そこまで彼は気が付かなかったと。そこで自分で音のしない箒を発明しまして、それで静かに掃いている。これなんか何かできることで、世のためにボランティア的に働くということの一つの例だと思いますね。
 
有本:  しかしご高名な病院長が、リタイアーなさって近所の掃除、周りの方で「いやぁ、恐縮です」という方がいらっしゃる反面、そういう方もいらっしゃるんですね。
 
川畑:  そうですね。それでやはり長生き、それから健康という医者の立場から言わせて貰うと、私は、小さい時、ほんとに身体が弱くて、青瓢箪、吹けば飛ぶような存在だったんですけれども、今日までこうして生かさせて頂いたわけは、先ず第一に私の身の周りにほんとに親切な有り難い方がたくさんいらっしゃって、私を生かさせて頂いたと思います。同時に、この健康法として大事なことは、物事を肯定的と言いますか、良い面を考えて生きると。孔子が論語の中で、「君子は人の美を成(な)して、人の悪を成さず。小人は是(これ)に反す」(顔淵第十二)と。君子は他人の善事や成功を喜んで、それが成就することを願い、他人が失敗したり悪評を受けたりするのを心配して、援助したり弁解したりする。しかし小人は、これとは全く反対の行き方をする。即ち、人に美点長所があると、嫉んでその成功を妨げ、なお、世の人に認められないような反対運動をする。万一、人に短所や悪事があると、わざわざその事が、世間の人に知られるような宣伝に努めるものである、ということですね。そこで私は戯れ歌を創っているんですが、
にこにこと
にこにこにこにこ
話しましょ
あなた 人よし
あなた 人よし
 
もう一つは、やはり一番大事なことは、自分の死を怖れない。上原先生の話じゃないけれども、平気で死ねるというような信仰というものが根底にほしいと思います。私は今から二十年ぐらい前に、自分の墓を建てました。そしてその墓石の表にも梵語で、「南無阿弥陀仏」と書いて、その裏には、私の辞世の句を書いたんです。その辞世の句というのは、
行きあたり
突きあたりせし
宿業の
壁はみえずも
光寂(ひそ)けり
 
生きていた時には、なんかかんかあったけども、この墓石の下に入ってみたら、何にもそういう壁はなかったと。ただ静かでひそかな光がそこに輝いていると。みんなこれは五蘊であったと。有り難いことだったと思うんです。もう一ついいですか?
 
有本:  どうぞ。
 
川畑:  もう一つは、
 
たまはりし
いのちを生きて
おのずから
消えなむときに
(かえ)るめでたさ
 
私は勝手に生きたんじゃない、限りない大勢の生かされて、その根源をなすものは阿弥陀如来様であると。それに生かされつつ今日まで生きてきたんですけども、その賜りしいのちを生きて、自ずから自然に無理をしないで自分のいのちが消える時には、それはお浄土へ―彼岸へ還るんだと。何も嘆き悲しむこともないじゃないかと。西洋のある哲人が、「これから何をなすべきか」ということを考える時に、自分の墓石の上に、「自分の名前を記すことだ。それが自分が、これから何をなすべきかということを決める一つの鏡になる」というようなことを言っているんですけども、幸いにして私は、今まだ元気で毎日研究所でオモチャのような研究をしながら、「有り難い、忝(かたじけ)ない」というて送らさせて頂いている。これみんなお慈悲の仏様から頂いた知恵のお陰だと思って感謝している次第です。
 
有本:  ほんとにお彼岸間もなくございますが、一人ひとりが、今自分の歩んでいる足下をよく見なければいけないわけですが、先生、今日実は先生と私の位置が逆になりまして、私の方が上手に坐らせて頂きましたけども、先生は左の耳の方がちょっと聞こえるということで失礼致しました。どうぞこれからも長生きなさってください。どうも有難うございました。
 
     これは、平成六年三月十三日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである