ふがいない自分≠ニ生きる
 
              ノートルダム清心学園理事長 渡 辺(わたなべ)  和 子(かずこ)
一九二七年北海道旭川市生まれ。二・二六事件で青年将校に襲撃された渡辺錠太郎教育総監の次女。十八歳でキリスト教の洗礼を受け、聖心女子大学から上智大学大学院修了。二十九歳でナミュール・ノートルダム修道女会に入会。アメリカへ留学し、ボストンカレッジ大学院で博士号を取得したのち、三十六歳という異例の若さで岡山県のノートルダム清心女子大学の学長に就任。長年にわたり教壇に立ち、学生の心を支え指導する。一九五七年にはうつ病を患う。一九八四年にマザー・テレサが来日した際には通訳を務めるなど多方面で活躍。著書も多数。一九九○年にはノートルダム清心女子大学の名誉学長、及びノートルダム清心学園の理事長に就任。一九九二年には日本カトリック学校連合会理事長に就任した。著書に「置かれた場所で咲きなさい」「美しい人に」「「ひと」として大切なこと」「愛をこめて生きる」「愛することは許されること」「心に愛がなければ」ほか。
              き き て         小 山  正 人
 
 
渡辺:  一つ一つのことをほんとに丁寧に両手で頂いて、たといそれが病気であっても、災難であっても、挫折であっても、または人からの裏切りであっても、ほんとに悲しい、突き返したい、その一つ一つを両手で頂いて、神様は力にあまる試練を決してお与えになりません。
 

 
ナレーター:  シスターの渡辺和子さん、現在八十五歳です。学校法人の理事長を務めながら、大学で授業も行っています。父は、渡辺錠太郎(わたなべじょうたろう)。一九三六年(昭和十一年)に陸軍の青年将校が武装蜂起して、要人を殺害した二・二六(ににろく)事件の犠牲者の一人です。当時九歳だった渡辺さんの目の前で射殺されました。激動の幼少期を過ごした渡辺さんは、一九四五年、戦争の最中に、母の大反対を押し切り洗礼を受けます。そして一九五六年、二十九歳の時に修道女になりました。以来、信仰と体験に基づいて、愛と示唆に満ちた言葉を数多く世に出し、人々に生きる勇気と希望を与え続けてきました。岡山市にあるノートルダム清心(せいしん)学園、渡辺さんは、ここの大学の学長を務めた後、理事長に就任。病さえも神からの賜物と受け入れています。六十八歳の時には、膠原病(こうげんびょう)を患い、薬の副作用で背中の骨を損傷、身長が十四センチも縮み、重い物が持てなくなってしまったのです。若さは永遠ではなく、老いてくるとさまざまなものが自分から離れていく。しかし齢を重ねることで、初めてわかることもある。ふがいない自分と向き合って、仲良く生きていくことが大切だと、渡辺さんは言います。八十五歳の今だからこそ、見えている心の世界とはどんなものでしょうか。ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子さんに聞きます。
 

 
小山:  渡辺さんは、日々若い人たちに囲まれて、今過ごしていらっしゃるんですが、私たちと接しながらどういうお感じになっていらっしゃいますか。
 
渡辺:  私は、若い人が好きですから、その意味ではとても幸せでございます。ただ四十年、五十年近く前から、若いここの学生と接しておりまして―そうですね、学生たちは大好きですけれども、やはり昔と比べると打たれ弱いと言いますか、ちょっとのことで気を落として、「シスター、こういう時にはどうしたらいい?」と聞きに来たりしてくれます。でも、私は、やっぱり学生たちからたくさん元気を貰っていて、有り難いと思っています。
小山:  「打たれ弱くなっている」というのは、昔の学生たちの方が強かった、ということですか。
 
渡辺:  そうですね。我慢強かった、という。そしてどちらかというと、兄弟も多かったからかも知れませんけれども、わりに人に譲るというようなことができていたと思います。でも今の学生たちは、そういう点で、「私が、私を」という、「私」というのが前の学生に比べると、強いような気がする。それが個性的の意味で必ずしもなくて、やはりみんながこういう靴を履けば、自分もこういう靴を履かないといけないとか、みんながこういうソックスをはけばソックス。そういう点では、夢中のようなところもあるんですけど、「個性的になりたい」と言いながら、そして目立ちたいという気持ちが強いんですけれども、人とあんまり変わってはいたくないという、そういう気持ちを学生たちが持っているように思います。
 
小山:  渡辺さんは、そういう若い人たちには、どういうふうにおっしゃるんですか、そういう時には。
 
渡辺:  目立ちたければ、髪の毛とか服装とか、あんまり奇抜なものをして目立つのでなくて、今人の忘れがちな、「美しいお辞儀とか、正しい言葉使い、それからお年を召した方に進んで席を譲るとか、そういうことで目立ちなさい」ということを言ってはおります。
 
小山:  この大学を私は訪ねまして、キャンバスを歩いていますと、出会う学生たちは非常に礼儀正しいな、という印象をもったんですけれども。
 
渡辺:  有り難うございます。ちょうどいい学生に会ったんだと思います(笑い)。でも全般的に良いです。私が、ここにまいりまして、私の方から挨拶したり、笑顔をしてやりますと、学生たちがだんだんそういうふうになってきてくれました。学生たちが、今求めているのは、「おはようございます、中村さん」という、それなんですね。つまりただお辞儀をして通って行ってもいいけども、私が、「おはようございます、中村さん」「おはようございます、佐藤さん」と挨拶することで、「あ、今日はシスターに挨拶してもらった。今日はきっといいことがある」と言って、そういう学生たちの心理と言いますか、学生たちが求めているのは、ある意味のコミュニケーションであり、優しさであり、労(いたわ)りであり、シスターだからと威張っているんでなくて、シスターたちも、私たちと同じに苦労してたり、習ったりしてという、その信頼関係ができたと思うんです。だから今の言葉を伝えてやりましたら喜ぶと思います。
 

ナレーター:  渡辺さんは、一九二七年(昭和二年)に、生まれました。軍人だった父・錠太郎は、教育総監を務めていた一九三六年の二月二十六日早朝射殺されます。渡辺さんは、銃弾を浴びる父の姿を間近で目にしました。
 

 
渡辺:  川の字になりまして、父、私、母と三人で、日本間に休んでおりました。それが毎日のことでございまして、母はほんとに働き者でございましたから、早く起きて、もうおりませんでしたけれども、ちょうど六時前でございましたか、反乱軍がトラックで乗り付けてまいりました時に、父と私だけが休んでおりました。
 
小山:  そこへ将校たちが押しかけて来た。
 
渡辺:  はい。そうですね。家の門の前にトラックで三十数名の青年将校と、それから兵隊たちがまいりまして、門がけっこう頑丈だったものですから、それを開けるように、怒号(どごう)と申しますか、叫んだり、弾を撃ったり―この人たちは、斉藤実内大臣(内府)を殺してから来ておりますから、気も立っていたんだと思いますけど、随分大きな声で叫んだらしくて、その声が私ども父と私が休んでいるところまで聞こえまして、で、その時にもうすぐに父は起きて、枕元にある棚からピストルを取って、そして私に「和子はお母様のところへ行きなさい」と言って逃がしてくれました。私は、ほんとに六時前だったものですからまだ眠くて、寝ぼけ眼で母のところへまいりましたら、母はその門まで来ている兵卒たちを入れまいとして非常に気を使っていたわけです。私のことなどかまってくれませんでしたから。私は、また父が好きだったものですから、来た道を戻って、父のいるところへ戻って行ったんですよ。父は、銃撃の名手でもあったようでもございますけれども、横になって構えて待っていたんですね、敵が来るのを。で、私が戻って来たものですから、とっても困った顔を致しまして、目で合図して、自分の足下の方に立て掛けてある座卓のその後ろに入れ、という、目顔(めがお)で合図をしてくれました。入った途端に、弾が飛び交いまして、そしてやがて兵卒と陸軍将校の少尉二人でしたけれども、入って来て、まず軽機関銃で最初に父の足は撃たれておりましたから動けないようになっていた父に、入って来た二人の兵卒と二人の少尉でございますけれども、相手が弾を撃って、止(とど)めを刺して帰りました。それを父の足下の座卓の陰から、私はずっと見ておりました。で、引き上げて行くのを見まして、そして父はまったく片方の足は骨だけになっておりました。それほど軽機関銃で乱射したようでございますね。そして父に、「お父様」と言って出て行きましたけども、勿論亡くなっておりました。
 
小山:  そのお父様が目の前で亡くなった、という目の当たりにした時、どんな感じだったんでしょうか。
 
渡辺:  私はその時、「あ、こういうものか」ということだけ―というのは、以前から憲兵が二人家の二階にSP(security police:要人警護の警官)のような感じで泊まっておりまして、その日もいたんですけれども―それで私は一軒隣の姉の家に父と一緒に訪ねて行く時も、憲兵は付いて来ておりました。そういうことがあったので、ほんとに幼心ですけれども、父の身には何か起きるのかも知れない。母も何にも言いませんでしたし、父も何も言いませんでしたけれども、やっぱり感じていたんですね。だから、「あ、来た」という感じできっと受け止めたんだと思います。だから勿論一つも騒ぎませんでしたし、父が死んでも涙も出しませんでした。
 
小山:  渡辺さんにとって、日常の中でのお父様というのは、どういう方だったんでしょう。
 
渡辺:  ほとんど接触する時間は少なかったと思います、小学校に行ってからは。ですけれども、「父が帰って来た」というと、一番先に飛んで行って、父に飛びつく特権がございましたし、父も私をとっても可愛がってくれまして、「この子とは長く一緒にいられないから」ということは言っていたようでございます。「この子とは長く一緒にいられないから」と言って、よく軍服のポケットから宮中で頂いたボンボン(菓子の一種)とか、そういうものを私にくれておりまして、それから戻りまして、いつも軍服を脱いで、着物を着ておりました。着物を着て椅子に座って、その上に私を膝の上に載せてくれて、その頃は小学校の一年生ぐらいだったと思いますけれども、成蹊(せいけい)小学校(東京の私立小学校)という小学校はちょっと変わっておりまして、『論語』を一年生から読ましてくれたんです。「論語読みの論語知らず」と言って、兄たちからは冷やかされましたけど、父はとっても喜んで、私を膝の上に載せては、その『論語』を開いて、「ここはこういうふうに書いてあるけれども、これはこういう意味なんだよ」と言って教えてくれました。で、その意味で私にとってはほんとに優しい父でございました。
 
小山:  お父様が大分お歳を召してからおできになったお子さんだったんですね。
 
渡辺:  五十三歳でちょうど旭川の師団長になって、二年目か三年目でございましょうかね。それで周りの方から、「師団長に孫が今まで生まれたことがあるけれども、子どもが生まれたことがない」と。父は確か十代の師団長だったと思いますけど、そしてまた私の姉が、私よりも二十二歳上で長女なんでございます。それでちょうどその姉が、私と同じ年に長女を生んでおります。ですから孫と子どもが一緒に、というので、母は産みたくないという気持ちをもっていたようです。その時に父が、「男が子どもを産むのはおかしいけれども、女が産むのに恥ずかしいことがあるものか。産んでおけ」と言って、私を生んでおいてもらった子なんです。
 
小山:  お父様のお陰で生を受けることができた。
 
渡辺:  そうなんです。父は、私をそこでも救ってくれて、命を。それから二・二六の日も弾から私を救ってくれて、その代わりに私だけが父の最期を看取ったと言いましょうか、敵の最中で、ただ一人で父を死なせないですませることができた。そのために生んでおいてくれたのかな、と思います。だからある意味で、何か誇らしげではないですけど、母でさえ傍にいなかった。私がお父様の最期まで見た。父のほんとにそれこそピストルを構えた時から、最期の息が絶えた時まで、一部始終を見た唯一の人間でございます。
 
小山:  お父様がお亡くなりになった後は、お母様が一人でお育てになった、ということなんですね。幼少期から大きくなるまで、ほとんどお母様の影響を受けていらっしゃるんでしょうか。
 
渡辺:  そうでございますね。特に躾に関しては、母がもうすべて、「お父様の分まで二人分厳しく躾ます」と、私たち子どもに宣言して、ほんとにその通り致しました。
 
小山:  厳しかった?
 
渡辺:  はい。
 
小山:  例えばどんなふうに厳しいんでしょう。
 
渡辺:  先ずお行儀という点でも、例えば足は必ず揃えて座るもので、いわゆるこう股を開いて座ってはいけないということや、それから我慢すること。「お母様、これ買って」と言っても、「まだ今持っているものが十分に使えるから買いません」という。そして口答えを許さない人でした。ですから私は、ほんとに口答えをしないで育ちまして、唯一最初の一番大きな母に対しての反抗が洗礼を受けたことです。
 

ナレーター:  渡辺さんは、一九四五年四月、戦争が続く中、十八歳で洗礼を受けます。そして二十九歳になった一九五六年、修道院に入り、シスターになります。
 

 
小山:  もともと渡辺さんのお宅では、キリスト教とは縁はあまりなかったんですか。
 
渡辺:  何もございません。浄土真宗でございました。まず最初の反発が、「キリスト教の洗礼を受けた時だ」ということを申しましたのは、母が大変そのことに腹を立てまして、「敵性国家の宗教と考えられているキリスト教徒になるとは何事だ。自分は許さない」と。私は、それまでずっと母のいうことを守っておりまして、私は、「でもお母様のいう通りになる人間ではありません」ということを、やっぱり示したかったんですね。歩いて荻窪から四谷まで、途中で警戒警報、空襲警報のたんびに防空壕に飛び込んで歩いて行きまして、夕方になってしまったんです。それで一晩泊めて頂いて、翌朝洗礼をドイツ人の神父様に授けて頂いて、家に戻りましたら、母が三日間口を利(き)いてくれませんでした。それで母とそういう戦闘状態に入ったんですけども、やはり戦争が主でございましたから、やはりそんな親子の間の争いとか、そんなことは小さなことで、お互い同士助け合ってまいりました。私も、母がほんとに髪振り乱して家庭菜園を作ってくれたり、隣に行ってお大根を貰って来たり、今までの「大将婦人が」という、そういう気持ちが私にもあり、やっぱり申し訳ない、私も手伝わないといけないという、そういう気持ちがあって、キリスト教徒になって少しずつ良い子になったつもりだったんですけれども、母がよく「それでもあなたはクリスチャン」と言って、私をなじってくれました。これほど反対を押し切って、キリスト教の洗礼を受けたんだったら、もうちょっとキリスト教徒らしく、笑顔もいい、祈りもする、人にも親切、それから有り難うという感謝―これはいわゆる日本人がキリスト教者にもっていたイメージだったと思うんですね―仏教徒に対してもそうかも知れませんけど、特にキリスト教徒に入ったとしたら、「祈りと喜びと感謝」そういうものをいつも大事にというところが、欠片(かけら)もなかったような私だったものですから、母が、「洗礼を受けたにしては、あなたはなっていない」と言って、とっても叱られました。
 
小山:  普通信者というところから、その先さらに修道女、シスターというところにまでお進みになりますね。
 
渡辺:  はい。十一年かかりましたけれども、修道院に入るのは、三十歳が制限年齢でございまして、それで洗礼を十八で受けて、二十九までいい加減な信者で、けっこう仕事もして、お友だちもたくさん作っていましたけれでも、これまたスパッと思い切って、修道院に入り、ただ母も、「どうして結婚しないのかね」って、「どうして修道院に入らないといけないのかね」って、夜お風呂で背中を流してくれながら、「でもね、結婚だけが女の幸せじゃないからね」って言ってくれました。
 
 
ナレーター:  修道院に入った渡辺さんは、アメリカに派遣されて、ボストンカレッジ大学院で学び、博士号を取得して帰国します。そして一九六三年(昭和三十八年)、三十六歳という若さでノートルダム清心女子大学の学長に任命されます。渡辺さんは、仕事の重さに悩みながらも、多くのことを学んだと言います。
 

 
渡辺:  ある時、「くれない族」になったんです。ご存じですか?
 
小山:  「くれないぞく」?
 
渡辺:  「わかってくれない」「親切にしてくれない」「慰めてくれない」「お辞儀してくれない」「感謝してくれない」。つまり「くれない族」っていう言葉があるんですよ、日本語に。「みんながしてくれる筈だ。私は黙っていてもいい。みんながしてくれる、なのにしてくれない。だから私は不幸だ」と。で、修道院を出ようかと思ったことがあるんです。というのは、三十六歳で学長になって、「シスター大変ですね」って、誰も慰めてくれない。「シスター、この間のスピーチは良かったですよ。誰も誉めてくれない」。挨拶してくれない。感謝もしてくれない。そういう「くれない族」になった。その時に東京の神父様が、ちょうど私の上司でいらっしゃった方ですけども、私が縷々不平不満を述べて、「こんな筈じゃなかったと。私が修道院にこんなことをするために入ったんじゃないと思う」と、そんなようなことを申し上げた時に、笑いながら、「あなたが変わらなければ、何も変わらないよ」とおっしゃったんです。その言葉でほんとに目から鱗が落ちたというか、「幸せは自分の心が決める」という言葉がありますけれど、今まで、「幸せにして貰うはずだ」「こんなに苦労しているのにわかってくれる筈だ」とか、それをすっかり変えましてね、「私が変わらないといけない」。私が変わる。だから私が進んで学生に挨拶する。学生に笑顔で微笑む。先生方にほんとに助成金をあげたから向こうから御礼言ってくれていい筈だけど、私の方から「先生、有り難うございました。この間はとってもいい本ができましたね」と言って、ある意味で損をするわけです。損をしてもかまわない。そういう自分の視点を変える。発想を転換する、そういうことをしたら、学校が明るくなりました。そしてちょうどその時に、「置かれたところで咲きなさい」という詩をベルギー人の神父さまから頂きました。私は、だんだん歳を取って、歳をとるということも、ある意味で置かれた場所が変わってきているということだと思うんです。それは私の場合は、今でこそまだ授業ももっていますし、学校法人の仕事もさして頂いていますけども、定年でお辞めになった方、置かれたところが違いますよね。職場の中でも置かれたところが違うかも知れない。そういうすべてのことにおいて、やっぱり置かれたところで咲く。それこそ置かれたところで咲いてほしい。そのために私は何ができるか。こんなに歳をとって、身体もそれほど完全でないし、部品も傷んでおりますし、「小さな死」ということを考えているんです。「little death」と英語で言いますけど、私にとっては大きいな死をいつか迎えないといけない、そのリハーサルなんです。だから自分の生活の中で、辛いことや、嫌なことや、あ、これから嫌な人と会わないといけないな、と思う時に、「小さな死」と呟いてから行きます。つまり私は、この嫌なことを喜んで受けます。そして学生に「おはようございます」と言っても、返ってこない時があるんです―ほとんどの学生は返してくれますけど―その時に腹が立ちますよ、やっぱり。どうして私が学長なのに、学生に「おはようございます」とこっちから言ったのに、返ってこない。その時に〈あ、ここで腹を立ててはいけない〉。私の母が、「小さなことで腹を立てると、それはあなたの大きさよ」って、言っていたのはこういうことなんだと思いましてね。「神様のポケットに入った」と考えることにしているんです。神様がポケットがあるかどうか知りませんけど、私なんか大きいのを持っていますけどね。つまり私の挨拶は、ムダになっていない。私の微笑みも、ムダになっていない。神様のポケットの中に入って、「神様、好きな時にお使いください」と、それが今の私にできることだと思います。「ヨハネによる福音書」12章24節に「一粒の麦は、地に落ちてしななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」の一粒の麦と同じように、地に落ちて死ぬ。そのことによって多くの実を結ぶ。それはやはり私が、「おはようございます。ありがとう」という。そして返ってこない時に、むしろ〈あ、良かった。返ってこなかったから神様のポケットに入ったんだ〉と。返ってきたら、そこでプラス(+)マイナス(−)ゼロになるわけですね。力のない私にできることは、自分がせめて我が儘とか、それから意地悪とか、悪口とか、そういうものを自分の中で収めて、神様のポケットの中へ入れて、「神様どうぞお使いください」と、そんなことしかないんです。
 
小山:  ずっと特に学生たちと接してこられて、逆に学ぶことっていうのはたくさんあったかと思うんですが。
 
渡辺:  学生から。はい。「我以外みな師なり」という言葉が、私のモットーの一つです。すべての人から、すべてのことから、すべてのものから、私は習う。大学にまだ来たばっかりの時などで、階段教室の後ろの方で話をしている学生たちがいると、〈あ、やっぱり私の授業ダメなんだな〉というふうに思ってしまいましてね、カッとして、「そこの二人の人たち、さっきから見ていると話をしているけど、外へ出なさい」と言って、出したことがあるんです。その後で、身体が震いましてね、声が出なかったことがあるんです。その時に、私はしみじみと、〈あ、一呼吸おかないといけない。怒ってはいけない。叱らないといけない〉、この二つの違いを知りました。つまり私は怒ったわけなんです。そこの二人おしゃべりしていて出なさい。ところがその時に一呼吸おいて、「そこの二人の人たち、何かお話があるようだけれども、お話があるんだったら外へ出てお話をしてくれる」って、「授業中は私の話を聞いて頂戴ね」という、そういう同じ叱る、注意するにしても、怒った時の自分の神経の立ちようと、それから、あ、この学生たちにやはり自己制御と言いますか、セルフコントロール(self-contorol:自己制御、克己)、そういうものを教えていかないといけない。私自身も自分というものを一呼吸置いていかないといけないと思いました。私がよく思いますのは、「生きる力」と「よく生きる力」の違い。今日本の国で欠けているのは、生きる力ばかりに力を注いで、つまりそれはお金と直結するんですけれども。「よく生きる」人間としてよく生きる。それはやっぱり自己制御、自己管理という、今非常に必要なことが抜けていると思うんです。あまりにも無機質なものを扱うことにおいては、幼い時からずっと上手になっておりますけれども、人間味というものがなくなってきていることと、それから今のようなパソコンとか、携帯とか、スマートホーンとか、そういうものは、匿名で、ツイッター(Twitter)にしても、ブログ(blog)にしても、匿名で出てまいりますね。そうすると、気を付けないと、私が何をしようとかまわない筈じゃないか、と。親の知ったことじゃない。私が誰とメールを交わしていようと、どういうサイト―出会い系サイトを開いていようと、そしてどういうチャット(chatは英語での雑談の事であり、 ネットワーク上のチャットも雑談同様に会話を楽しむ為の手段である)をしていようと、ツイッターをしていようとかまわない。特に大学生になると、何時に帰って来ようと、私の勝手で、お母さんたちを「うざい」とか―うざいとは『うざったい』の略で、「鬱陶しい」「わずらわしい」「うるさい」「面倒臭い」「 気持ち悪い」「邪魔」といった意味を持つ―いろんなことを生徒たちは教えてくれるんですけれども、そういうことに対して、今考えていることは、自由というのは、何でもしたいことをすることではなくて、自分がほんとにすべきことができる人、してはいけないことをしないですむ人、そのためには、「面倒だからしよう」という言葉を、私は学生たちと使っております。例えば履き物を脱いだら、そのままで上がってはいけません。ちょっと手を添えて、揃えてから上がりましょう。「面倒でしょう」というと、学生が、「うん、面倒だ」と言いますから、「面倒だからするのよ」と。「あなた方が、一生懸命お化粧して綺麗になる。でもね、この大学は美しい人を育てる。美しい人というのはね、綺麗な人でなくて、綺麗さはお金で買える。化粧品にしても、ブランドにしても、洋服にしても、または整形手術を受けてもいいし、エステ(エステティック(仏: esthtique )とは、痩身や脱毛、美白を始めとした、全身の美容術を言う。リラクゼーションを兼ねていることも多い)に通っても全部お金が要るんです。美しさは、お金は要らない。自分の心との闘い、そういう意味で自由さというものは、どれだけ不自由を乗り越えた人だけが選ばれたか。つまりしたいことをしていては、本当の自由は得られないんですね。それを今、間違って、子どもさんたちを見ていると、したい放題を親がさせている。そして何かというと、「学校が悪い、先生が悪い、何とかが悪い」と、そうでなくて、やはりもっと自分の内部を見つめる時間が学生たちにあってほしい。保護者たちにもあって欲しいな、と。私の母を見ていて、よく思ったんですけど、母は、子どもが今喜ぶ顔は見ようとしませんでした。将来困らない子どもの顔、それが多分いつも母の頭にはあったんだと思うんです。そのお陰で私も修道院に入りましても、いろんな辛いこともありましたけれども、やっぱり母があの時に、今喜ぶ顔でなくて、将来ほとんどのことが我慢できる、そして考えることができる、そして自分なりに、何故こういう辛いことが私に今与えられたのか、有り難いと思う。そういう気持ちを教えてくれた、と思います。とっても有り難いと思っています。
 

 
ナレーター:  八十五歳の渡辺さんに、曾孫(ひまご)のような歳の学生たちは、いろんな相談を持ちかけます。渡辺さんは、それに一つひとつ丁寧に答えています。
 

 
渡辺:  授業の後で、メモをみんなが書いてくれるんです。そのメモの中に、いろんな質問も書いてありますし、相談もございます。「ボーイフレンドに捨てられて、他の女の人のところへいったけれども、悲しくてしょうがない。シスター、どうしましょう」。「そういうのは男はごまんといるんだから、ほっときなさい。そのうちにもうちょっといい人が出るから」。そうすると今度、次のメモに、「シスター、ほんとにそうでした。前の人よりよっぽどいい人に会いました」と。それで顔は知らないんですよ。二千三百六十人おりますから。私、書いた人がこの人だということはわからないんですけど、授業をとっていてくれることだけはわかっています。で、誰が言ったとか、そういうことは一切私のことで言いませんから。そういうことを、「私は、あなた方の曾おばあさまぐらいの歳なのよ」とはっきり言います。全然かまわないんですね。それから「自分の弟が鬱病になっているけれども、シスター、どうしてやったらいいと思いますか」。だから「私も鬱病だったけれども、お医者さまのおっしゃる通りにして、とにかく「頑張りなさい」とか、「あなたダメじゃない」とか、そういうことを言わないで、ほんとに優しく寄り添ってあげてごらんなさい」って、返事を書くんです。一筆書いてありますと、それを喜びます。
 
小山:  最近自殺ということもよく耳にします。若い人たちから、そういう相談はありますか。
 
渡辺:  リストカッとを随分した、というのもございます。ただ私に直接、「自殺をしようと思っている」というのは、メモではございません。ただ話に来た人はいます。「私なんか居ても居なくても、私の母親は妹が居ればいいんです、と。シスター、私は朝起きて、ご飯食べて、そして機械的に学校に来て、勉強して、また夜寝て、なんのために生きているかわからない。で、母親は私なんか居ても居なくてもかまわない。妹が居れば母親はいいんだ。だから自殺したいと思う」という。で、私が、「じゃ、一人でもあなたが大事だ、という人がいたら、自殺しない」と言うと、「しません」というから、「じゃ、私がそうなんだから、自殺する前には挨拶に来なさい」。結局、卒業していってくれました。今良い家庭を作っています。いつかCMか何かにあったんですか、「いのちが大切、いのちを大切に」と何千何万遍言われるよりも、「あなたが大切だ」と、一人でもいいから言ってくれたら生きていける、と。ほんとにそうだと思います。「あなたが私にとっては、地球よりも大事な人なのよ」という、ほんとにこう抱きしめてやる愛情。言葉でなくて、それを求めているように思いますね。
 

 
ナレーター:  ノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサ(カトリック教会の修道女にして修道会「神の愛の宣教者会」の創立者。インドのコルカタ(カルカッタ)で始まったテレサの貧しい人々のための活動は、後進の修道女たちによって全世界に広められている:1910-1997)が来日した時には、渡辺さんは、通訳を務めました。身近に接したマザー・テレサからも多くのことを学んだと言います。
 

 
小山:  マザー・テレサと接した時、どういうふうなことをお感じになりましたか。またどんな示唆をお受けになったんですか。
 
渡辺:  最初の第一印象は、随分厳しい眼差しをお持ちの方だと思いました。ちょうどヨハネ・パウロ二世が、ほんとに温顔な方だったんですね。それに比べると、マザーは顔もしわくちゃでしたけれども、たくさんの惨めな死、生活を見ていらっしゃったためでしょうか、非常に厳しい方だという印象を持ちました。ただお話をしてみるとユーモアもおありになるし、ほんとに見捨てられた人たちこそ大事だという。それをもった方だというのを感じたんですけれども、そうですね、マザーから一番受けた強烈な印象というのは、あの方は本当に祈りの人だということ。仕事をたくさんしていらっしゃいますね。でもそのお仕事は、全部キリストに仕えているお仕事なんです。こういうことをおっしゃっていました。「みんなが私を福祉事業家だというけれども、私は事業家ではありません。私の心をいつも占めているのは、数でも群衆でもなくて、一人ひとりの魂です」という言葉をおっしゃった。これはノーベル平和賞を頂きになった後のお言葉でしたけれども、「何故あなたは、政府を動かして、インドの貧困をなくさないんですか?」とか、「何故世界平和のために声をあげないんですか?」、そういうことを人々が言った時に、マザーがおっしゃったのは、「私は偉大なことはできません。ただ小さなこと一つひとつに大きな愛を込めてすることができます」。その道端で倒れている人を介抱して、また生み捨てられた子どもを養ってやる。エイズとか、ハンセン病とか、人々が嫌がる病人の世話をしておやりになる。それはあなた方は、お仕事でなくて、ほんとにその人たち一人ひとりは、イエス・キリストだ、というふうに―これは信仰ですけれども―考えてしていらっしゃる。それは聖書の「マタイによる福音書」二十五章三十五節にあるんですけれども、「あなたは私が飢えていた時に、食べさしてくれた。渇いている時に飲ましてくれた。裸の時に着せてくれた。病気の時に見舞ってくれた。だから天国へ入りなさい」と。そしてその人たちが、「いや、私は、生きている間、イエス様、あなたとお会いしたこともない。なのにどうしてあなたに食べさせたり、飲ませたりしたんですか」とお尋ねすると、イエスさまが、「私のもっとも小さな兄弟の一人ひとりにしたことは、私にしてくれたことだ」、それを信じ切って、マザーはしていらっしゃった。だから私にはできませんけれども、マザーのお偉さだと思います。
 
小山:  それが最初におっしゃった祈りの人という意味ですか。
 
渡辺:  はい。ですから、あの方にとっては、身体を清拭(せいしき)してやっている間も、それからお薬を飲ませてやっていらっしゃる間も、それは神様イエス・キリスト様の身体を拭いててあげる。イエス・キリスト様にお薬をあげている。つまり神とのコミュニケーションというものを絶えずもっていた方だと思うんです。仕事は仕事、チャペルに行ったらチャペルで祈る、というのでなくて、あの方の生活全体が祈りだった、と思います。それは岡山にお出でになって、プラットフォームが溢れかえるほど、人がおりましたし、マザーもお歩きになるところ全部シャッターとかフラッシュ焚かれておりました時に、私が傍で通訳しながら感心したのは、笑顔だったんですね、マザーが。その日、朝六時過ぎに東京を出て広島にお出でになって大きな講演をなさって、それから岡山に戻っていらっしゃって、それも夕方の五時頃だったでしょうか。それから岡山の教会でお話を二つなさって、私ども大学生たちに一つしてくださって、それが済んだ時、ほとんど夜の八時半頃でした。十一月二十三日ちょうど勤労感謝の日でしたから、もう随分寒うございまして、暗くなっている。「マザー、お疲れでしょうから、修道院でお休みになりませんか」と言って、お連れして歩いている。その時にフッと私におっしゃったのが、「シスター、私はね、フラッシュが焚かれるたんびに、魂が一つ神様の御許(みもと)に召されていくように、神様とお約束してある」と。つまり私が嫌な顔をしません。煩わしいフラッシュでも、シャッターでも、つまり私が小さな犠牲と言います死を遂げる。その代わりに神様一人の人を救ってやってくださいと、お約束がしてある」と。それを伺いました時に、〈あ、この方は何にもムダにしていらっしゃらない〉と思いました。
 

ナレーター:  八十五歳になる渡辺さんは、これまでに何度か大きな病気に悩まされました。五十歳の時には、鬱病になり、六十八歳で患ったのが膠原病(こうげんびょう)。その治療薬の副作用で背中の骨が損傷し、身長が十四センチも縮みました。齢が重なり、病に蝕(むしば)まれることで、ふがいなさを増す自分自身。それだからこそ見えてくる世界があると、渡辺さんは言います。
 

 
渡辺:  今鬱病になっている人が多い。また学生でも鬱的な人が多いですけど、その人たちに、私が、「シスターもなったのよ」というと、安心するんですね。だからなった時はほんとに神様を恨みましてね、五十歳でしたから。「神様今働き盛りの私に、何故こんな病気をお与えになったんですか」と言いましたけども、「何故」でなくて、「何のためにお与えになったか」というと、どっかで使うためにくださったんだ、と思う。学生たちに「大丈夫よ。きっとよくなる。それは私が言っているから」。私は、人生には穴が開くことがあると思うんですね。ぽっかりと思い掛けない病気を頂いたり、それから挫折をしたり、人から中傷されたり、裏切られたり、そういう鬱病を、五十歳の時に致しましたけれども、その時に何故鬱病を頂いたか、ということと同時に、鬱病を頂いたが故に、これは何のために頂いたんだろう、というふうに発想をちょっと変えまして、この世の中にムダなものはないんだ、という大前提のものなんですけれども、そして鬱病を頂いたが故に、人生の穴―譬えてみれば、隙間風も吹いてくるし、行動も非常に制限されて難しくなる。しかしながら人を恨んだり、「何故、何故」と聞くのでなくて、穴が開くまで見えなかったものを、その穴から見てやろう、そして見えるんだという、そういう方へ自分をもっていった、と思います。例えば非常に暗くて深い井戸があったとすると、そうするとその井戸の底に、肉眼では昼間見ることができない星影が写っているんだそうです。だから肉眼では見えないものが、穴が開いているが故に見えることがある。あくまで見えなかったものを、開いたが故にその穴から見る。それだけ自分は豊かになる。そういう考え方に自分を切り替えていきたい、という気持ちをもつようになりました。学生たちにも、「あなた方の今までの人生に穴が開いたかも知れないし、これからもきっと開くと思う。その時に、「何故何故」と、後ろばっかり向かないで、前向きに、「これは何のために、私のために開いた穴なのか、ということを考えるようにしたらどうですか」というふうに話をしているんです。歳をとるということは、ある意味で、今まで自分が平坦な道を歩いておりました、その平坦な道に、凸凹(でこぼこ)の穴がたくさん開け始めた。目も、耳も、歩くことも、いろんなことが少しずつ不自由になって、部品もやっぱり長く使っておりますから、それだけ悪くなっておりますけれども、でも老いも悪いものでは必ずしもない。つまり老いるまではわからなかったことを、わかることができる。ちょうど人生に穴が開くまで見えなかったものを、開いたが故に見た。同じように老いるまでは、わからなかったことが、老いたが故に少しわかるようになった。例えば老いるまでは―これは私の好きな言葉なんですけど―「木を切るのに一生懸命で、斧に油を注(さ)す暇がなかった」という言葉を、ある定年に達した方がおっしゃったんですね。「私は今まで木を切るのに忙しくて、斧に目を向ける暇がなかった」と。結局木を切るお仕事が終わって、初めてその斧を見る暇ができた。暇になり見たらば、斧がボロボロに欠けていた。確かに私は、仕事をいっぱいした。木をたくさん切ったわけですね。だけども木を切る間に、もうちょっと何故斧に油を注してやらなかったか。労ってやらなかったか。つまり私たちの人生の量が、今までは問題だった。英語で「doing to do(する)」という言葉がございますけど、しかしこれが非常に大事だった。ところが人生も終わりに近づきますと、することが限られてくる。とすると、どうするか。如何に丁寧にするか。如何に周りを見ながら、周りの人に何か自分はできることがないか、ということを、頭に入れながらするようにする。つまり「to be being(自分のあり方)」、今までは、することに一生懸命。その自分が、している自分はどういう人間なのか、という、斧を見る暇ができてきた、と。これは私に言われた言葉のように、自分では受け取っているんですけど、仕事一本で、もうとにかく仕事をすればいいんでしょう、すれば、というような気持ちでいた私が、どういう気持ちでこのお仕事をするか、という、自分のあり方に目を向けることができた。量よりも質に目を向けることができるようになった。そういう点では、一つのチャレンジとして、老いというものの恵みとして、チャレンジとして、老いを受け取ることができるのではないだろうか、というふうに、ちょっと考えるようになりました。私よく思うのは、「今日が私に一番若い日」という言葉なんです。母が八十五年前に、零下二十四度の寒さの中で、旭川で私を、それほど生みたくなかったのかも知れませんけど、生んでくれました。その日から今日は一番歳をとっています。明日はまた一日歳を取ります。ということは、今日は私にとって、これ以上ない若い日なんです。でしょう、理屈です、ある意味では。だから若々しく生きよう、と思います。笑顔で生きようと思う。私も、この自分の人生の春、夏、秋、冬、今―今もう冬だと思うんですけれども、その冬を今過ごしていて、若い人たちが、元気よく階段を駆け下りて行ったり、ハイヒールでカツカツ歩いているのを見ると、私もあんな時があったんだなあと思う時もございますけれども、春、夏、秋を懐かしんでばかりいてはいけない。冬が来たら冬のことだけ思う。そして冬を如何にして過ごすか。冬の魂に触れ、冬のいのちに触れる。そして冬だけがもつ深さと静けさと厳しさ、それを習っていこうと、そういうことを思うようになりました。
 

(参考)
詩「置かれたところで咲く」
 
 神が置いてくださったところで咲きなさい。
 しかたがないと諦めてでなく
 「咲く」のです。
 「咲く」ということは
 自分が幸せに生き
 他人も幸せにするということです。
 
 「咲く」ということは
 周囲の人々に あなたの笑顔が
 私は幸せなのだということを
 示して生きるということなのです。
  “神が私をここに置いてくださった
   それはすばらしいことであり
   ありがたいことだ”
 あなたのすべてが
 語っていることなのです。
 
 「咲く」ということは
 他の人の求めに喜んで応じ
 自分にとって ありがたくない人にも
 決していやな顔 退屈気な態度を
 見せないで生きるということなのです。
               (作者不明)
 
     これは、平成二十四年九月九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである