普遍の法をどう聴くか
 
                精神科医師 永 尾(ながお)  雄二郎(ゆうじろう)
大正十四年、東京・渋谷に生まれ、東京医科大学に学ぶ。昭和二十七年、静岡県小笠郡大須賀町に永尾医院を開設。昭和三十二年から仏教学者・金子大栄師に師事。人生の師と仰いだ。
                き き て 金 光  寿 郎
 
ナレーター:  静岡県掛川市(かけがわし)。遠州灘(えんしゅうなだ)に面したこの地方では、一年を通じて温暖な気候を生かして江戸時代からお茶が盛んに栽培され、全国的にも掛川茶として知られています。ここは掛川市大渕(おおぶち)にあります介護老人保険施設あおばケアガーデンです。施設長の永尾雄二郎さんは、診療内科のお医者さんでもあります。永尾さんは、大正十四年のお生まれ。心の問題への強い関心から、大学は医学部に進みました。そして昭和二十七年に掛川で開業されます。永尾さんは、精神医学の道を選んで、精神分析を日本に初めて紹介した古澤平作(こさわへいさく)(1896-1968)さんの教えを受け、彼の薦めもあって仏法の研究を金子大栄(かねこだいえい)(真宗大谷派僧侶、仏教思想家。前近代における仏教・浄土真宗の伝統的な教学・信仰を、広範な学識と深い自己省察にもとづく信仰とによって受け止め直し、近代思想界・信仰界に開放した:1881 -1976)氏について始めます。以来五十年にわたり、仏道を歩み続けてきた永尾さんのお話をご自宅で伺います。
 

 
金光:  今日は、「普遍の法をどう聴くか」というちょっと難しい題名のようなんですけれども、実はこちらの永尾先生のお宅に掛かっています掛け軸に、金子大栄先生の、
 
念仏は普遍の法と特殊の機の呼応である
 
と。普遍の法が呼んで特殊の機が応えるという呼応ですね、という言葉が、軸にあったんですが、その言葉を頂いて「普遍の法をどう聴くか」という題名にさして頂いたんですけれども、この題を拝見した途端に思い出したのは、お釈迦さんが亡くなられる直前に長く付き従っていた阿難(あなん)さんが、「お釈迦さんに亡くなられたら、我々はどうすればいいんでしょうか」という質問をされた時に、「それは自分がいなくても、みんなそれぞれが自分を頼りにする、自分に帰依する=Bそれと法に帰依する≠ニ、この二つを守れば自分が言ったことがそこの中に入っている」という。これは、漢訳では「自帰依(じきえ)」「法帰依(ほうきえ)」とか、あるいは「自灯明(じとうみょう)」「法灯明(ほうとうみょう)」というような訳にもなっておりますけれども、これがちょうど普遍の法と特殊な機とぴったり一致しまして、「法に帰依しなさい」という方が「普遍の法」であり、それから「特殊な機」というのは―「機」というのは人間のことですから、これが「自分」ということになるわけで、それを金子大栄先生流に、こういう言葉になさったのだろうというふうに了解したわけですが、その金子大栄先生に、永尾先生が長い間、仏法の話を聞いてお出でになったわけで、そういう中で普遍の法というものを、どういうふうにお聞きになっていらっしゃるか。随分以前にこちらへお邪魔した時に、「先生ご自身が、どういうふうに近づいたか」という話を伺っているんですが、じゃさて「普遍の法の方は、どういうふうに受け取っていらっしゃるのかな」ということをお伺いできないかなと思って、今日はお邪魔したわけですが。
 
永尾:  「普遍の法をどのように頂くか」と。これはこの前ちょっとご一緒さして頂いたのをご覧になった方が、それを感銘なさって、ご返事をくださったのに、「永尾さんが、頂く≠ニいうことを盛んに言っていた。頂く≠ニいう言葉が出ていたのに非常に感銘した」と言ってくださった。その頂く姿勢というものをその方に教わった。なんかその頂く姿勢というものがこの頃少し乏しくなってきているんじゃないかと。結局「普遍の法」というのは、「仏様の教え、阿弥陀如来の世界」というものを「普遍の法」というのであって、それを私たちは、学門も勿論大事でしょうが、それを身に付けるのにはどうしたらいいか、というと、「拝む、頂く」という姿勢。ところがこの頂くという姿勢が、この頃だんだん薄れてきている。一九九○年頃だったでしょうか、日本で世界中の哲学者とか、宗教家みたいな方が集まって、「国際頭脳サミット」というのを、日本で開催したことがあったんです。その時、「国際化、情報化社会における価値観の多様化を踏まえてアイデンティティ(自己確認)を確立し、かつ積極的自己実現を図ることが二十一世紀における理想的人物の姿だ」という宣言文が出たんですよ。なるほどと思うような、しかしちょっと分かり難い。結局私なりに簡単に言いますと、「世界中のあらゆることを知って、そして自分を主張できるような偉い人になりなさいよ」と。非常に学問的で難しいですが、私もいい言葉のような気がしたんですが、簡単にいうと、「世界中のどんなことでもよく知った偉い人になって自分を主張するような人になりなさい。これが二十一世紀の理想だ」という。それを聞いて、私は、ちょっと残念だったのは、「自己を確立」するのはいいですが、宗教の世界―親鸞の言葉を踏まえて考えてみると、「普遍の法を頂くという姿勢」がまったく書かれていないんですね。それでちょっと失望しましたね。まあ結局は、「拝む」という言葉が無くなってしまった。普遍の法は賜るもの。どんなことでも「頂く」「賜る」。儂が研究して勝ち取った、というものではないと、私は思うんです。
 
金光:  「普遍の法」というのは、そういう意味では、人間も自然のすべて―周囲の木や草も、あるいは太陽も月も、普遍の法によって生かされ、動いている、働かされているという。ただ現代の人間は、そのことにはあんまり気がつかなくて、自分はもう一人で生きているんだと。「自然の中で一人で生きている」というふうに、つい思いがちなんですけれども、自分だけで生きているんではない世界で、普遍の法に気が付くと、「あれ、今まで思っていたのとは違って、普遍の法の上に乗っかっている世界というのは、随分広いもんだな」ということに気付かされるという。自己の確立もいいんですけども、その自己自体が、その普遍の法の上に乗っかっているということが欠けてしまうと、おかしな方向にいってしまうことにもなりかねないのかなというふうに、今お話を伺いながら思いましたけれども、さてその普遍の法というのは、どういうふうに頂いていけばよろしいんでしょうか。
 
永尾:  これは仏教に限らず、宗教そのものの頂き方ということになるんでしょうけども、まあ簡単に言えば、太陽、月、地球、すべて円いですね。それ軌道も円いです。ですから直線でいきますと、どこまでいっても有限ですよ。それが一応曲線になって、みんな円いと言いましたが、円を描くというところに、初めてそこにたとい円は小さくとも、大きくとも、無限の働きが入っている。小さな円でもどこまでいっても限りがありませんね。浄土真宗の親鸞聖人の「讃阿弥陀仏偈和讃(さんあみだぶつげわさん)」の中に、
 
弥陀成仏のこのかたは
いまに十劫(じっこう)をへたまへり
法身(ほっしん)の光輪(こうりん)きわもなく
(親鸞「讃阿弥陀仏偈和讃(さんあみだぶつげわさん)」第一章)
 
「十劫(じっこう)をへたまへり」これは永遠ですね。「法身(ほっしん)の光輪(こうりん)きわもなく」の「きわもなく」ということは無限ということ。「永遠無限」というものが、もう「普遍の法の基本」ということになるんではないでしょうか。「讃阿弥陀仏偈和讃」第三章になると、
 
解脱(げだつ)の光輪(こうりん)きわもなし
 
と。光輪というのは、光の輪です。「輪」というと、すぐ「どんな輪ですか?」と。それから「浄土」というと、「どこにありますか?」と。「どれぐらいジェット機で行けばありますか?」というような具合に、すぐ実体的にものを掴もうとするのが、現代人と言いますか―現代人に限らず昔からそうかも知れませんけども―すぐ実体として、「どこに円がありますか?」と。「どこに浄土がありますか?」というように、実体論的にそれを掴もうとするが、そうではない。実相で、働きとして、普遍の法というその働きの方です。目に見えない、形のない、その実体の方の働きを頂くという、そういうことではないかと。そう思いましてね、これは僕自身、特にこの頃四、五年思っているんですが、その円というものは、勿論僕が思うといっても、僕自身はもう何十年と金子大栄先生のお教えを受けていますから、もともとは金子先生から受け継がれたものでありますし、金子先生の教えはまた金子先生が、普遍の法、阿弥陀様から頂いたものでありますので、私が考えたというよりも、そういうものをほんとに賜った、頂いたという気持で、お話申し上げると、結局数学的にこの円というものを考えてみますと、ここにちょっと図に書いてございます。この円で、これが「正数」と「負数」とあります。負数の立場というものが、「負数」→「負ける」という意味ですね。
 
金光:  マイナスの方ですか?
 
永尾:  マイナス。この頃の言葉でいうと、パッシブ(passive:受動)とアクティブ(active:能動)ですね、英語でね。
 
金光:  「能動」と「受動」ということで。
 
永尾:  このパッシブ―受け身へという、こっちの負の立場から入って、「負数→負ける」、これ逆算していくと、次に「分数→割り切れぬ(老)」、次に「無理数→開きがつかぬ(病)」、そしてついには「虚数→虚しい・悲しい(死)」という立場に入っていく。この一つの流れがパッシブ(受け身)の方の流れです。全体が円くなっていますから、負の立場だけでなく、こっちの正の道に入ってくる。こういう形で了解ができるんじゃないだろうかと。そして結局「実数」ということがこの世の中、
 
金光:  人間社会ですね。
 
永尾:  「実数」という社会というものが成り立つためには、「虚数」がなければならずと。だから数学でいくと、実数があるということは、虚数があるということによって成り立っている。それがただ実数だけだと、現在でいうと、儲ければいいというような、そういう形ですね。なんといっても儲けるのが大事だと理屈をいう。この「正」の方は、ロケットを上げて、これがビジネスになればウンと儲かるよ、というような、なんか物事をすべてビジネスにプラスになるか、あるいは実になるかという、そういう形。しかしそれがダメだとは言わぬ。それはあってもいいですけども、それだけに奔ると上手くいかない。
 
金光:  この頃は宇宙の成り立ちも、ブラックホールがあるから今の宇宙があるんだ、と。要するにすべてを吸い込む、それこそ負の世界。黒い固まりのブラックホールがあるから宇宙が成り立っている、というような説が、天文学の方では出ているようでありますが、そういう難しい話はそういうこととして、それを今後は実生活の方に応用すると、さてどういうことになるのかというんで、今の説明を受けて、先生が言葉にしてくださっているのがあるんですが、これの説明をして頂けますか。
 
負をしりて分しり
無理しり虚をしれば
人生すべて明らめの道
 
永尾:  結局、これ数で今お話しましたけども、「負をしりて分しり」分は分数ですね。「無理しり虚をしれば、人生すべて明らめの道」というふうに、
 
金光:  「分を知る」ということは、「特殊の機」の「特殊」というのが、「自分の分際」というか、「自分の能力、分限」という「分」にも通じるわけですね。
 
永尾:  通じますね。
 
金光:  それではすべてが上手くいくかというと、通らないところもあるし、それは無理だということに気が付くと。そういうことに気が付くと、実の世界だけではなくて、もう一つの手の届かない世界というか、仏様の世界もあるんだと。言葉を換えてみると、そういうふうに受け取ってもいいのかなと思って伺いましたが。
 
永尾:  そうですね。それでこの最後の「虚を知る」と。「虚」というのは、「虚(むな)しい」という字ですね。この「虚しい」ということは、これは「儚い」なんていう言葉。「儚(はかな)い」という言葉は、「量ることができない」という語源だという。私、数学なんていうものは全然素人ですので、この図について一応数学を知っている方などにお聞きも致しましたが、「これは順序としてはその通りだ」ということでした。「虚知れば」悲しみを知ることである。金子先生が、「悲しみを知らない者は、法に遇う喜びを知ることができない」といつもおっしゃっていらっしゃった「悲しみを知らない者には、いくら説明しても解らない。つまり宗教と言う、特に念仏の教えというものは、悲しみを知る教えですよ」と。
 
金光:  そこまでを視野に入れたところに人生のすべてがあると。善いことばっかりじゃないと。悲しみもある、虚の世界もあるんだと。それがはっきりすると、これはまた新しい世界が開けますよ、と、そういうことになるわけですね。
 
永尾:  悲しみを知ると、喜びも出てくると。そして悲しむ、そこへいくと、これ円ですから、よく人間の言葉でいうと、「超える」という。この負の世界が超えられるんだ、と。超えなければ直線で真っ直ぐ行っちゃいますから、どこまで経っても有限ですよ。それが超える。「超える」ということは、結局「包む」に通ずるわけです。包んでいく。すべてのものを包む。良いも悪いもですね。現代の思想は悪い、と言って決めない。それもいいでしょうけれども、一応バックに、あるいは土台として、この負の思想というものがあって、それを包んでいく。その包むというのが、浄土真宗の『歎異抄』の第一章ね。
 
金光:  今のお話を受けて、それと同じような内容のことを、ここに言葉として書いて頂いていますので、それを紹介しながらもう一度お話して頂けますでしょうか。
 
永尾:  包むという用(はたら)きは
つねに無限的豊さを
含むものである
 
永遠と無限ということについてのご説明は、明治の清沢満之(きよさわまんし)(明治期に活躍した真宗大谷派僧侶、哲学者・宗教家:1863-1903)先生が、「有限から見れば、無限は有限の彼方にある」手の届かないところにある。しかし「無限から見ると、有限は無限のうちにある」という、そういうお話をしていらっしゃる。それがずっと清沢門下の流れと言いますか、それが、結局ここで包むになってきた。「有限から見れば、無限は有限の外にあり、無限から見れば、有限は無限の内にある」と。「無限的働き」というものが、結局「包む」という。「包むという働き」が円になって出てくる、ということで、ややなんか難しいことのようですが、親鸞聖人も、信心とはどういうものか、というところに、「円融無礙(えんゆうむげ)の働きがある」と『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の中にございます。
 
金光:  それも字として書いて頂いてありますので、
 
円融無礙(えんゆうむげ)
 
永尾:  「円融無礙」と。結局、円融の中へ入っていると無礙。結局「あれはいかん」とか、「これはいかん」とか、そういうゴチャゴチャした「有る」とか、「無い」とか、「右だ、左だ」「ああだ、こうだ」「あれはいかん、これは」という、知の世界はそうですね。親鸞聖人は、「善悪のふたつ惣(そう)じてもて存知せざるなり」。善だ悪だとか、それで人間が喧嘩ばっかりしているんじゃないですか。善いとか悪いとかね。有るとか無いとか。右だとか左とか、そういうようなものも何にも無くなった世界というものが、そこへ出てくる。それが「御浄土だ」という。その説明が、先ほどの『教行信証』の中心と言いますか、信心とは何か、ということになってくると、円融無碍の働き。そして今、いろいろお話した「円になる」ということは、この「円融」ですね。「融」というのは融(と)けるですね。善いも悪いも全部融けてしまう。『阿弥陀経』でいうと、
 
解脱の光輪きわもなし
光触(こうそく)かぶるものはみな
有無をはなるとのべたまう
 
有るとか無いとか、みな無くなってしまう。人間社会というものが、全部有るとか無いとか、右だとか左とか、なんか知らんいろいろのことでゴタゴタいつも争っているんですが、そういうものも無くなってしまいますよ、というのが「無礙」。
 
金光:  さっきのお言葉で、永遠から見ると有限は、無限の世界の中に包まれる。だから個人も円融無礙の世界に包まれてしまうと、そういうものが融けてしまう。そういういわば仏さんの働きと一緒になるという、そういうことになるわけですね。
 
永尾:  そういうことになるんでしょうね。
 
金光:  現代風の言葉で言い直しますと、こういう言葉も書いて頂いているんですが、
 
真なるもの それは
大自然より生まれる。
 
永尾:  「自然」というと、なんか目に見える海だとか山だとか、すぐそういうものが自然だというふうに言っている。それも含まれてはいるでしょうが、さらに自然の奥にあって、すべてのものを、そうあらしめている働きと申しましょうか、我々が拝むというものが、その自然の奥にあって、自然を自然たらしめているもの、とそういうことになりますね。
 
金光:  今お話伺いながら、「総論賛成、各論反対」という言葉があるんですが、なかなかそういうお言葉を聞いても、その通りに現実がいくかどうかというと、こういう面白い言葉で書いてくださっているんですが、
 
計算どおりには
いかないのが人生
である
 
「はからい」というのは、個々の人間が、いろんのことを「ああしたい、こうしたい」とか、「こうほしい」とかあるわけですけれどもその通りにいきませんね。
 
永尾:  その通りいかない。この前高校野球がありましたね。決勝戦を見たんですが、負けた方のみんながおいおい泣いていましたね。「御国(おくに)の方に申し訳ない」とか、「応援してくれた人に申し訳ない」と。監督さんも暫く出れなかった。あれを見てね、私は、「よく負けたね」と。負けたあの涙を頂いた、ということが、あれが優勝旗を頂くよりも、さらに大きな人生の糧になっている。金子大栄先生のお言葉のように、「悲しみを知らない者は、法に遇う喜びを知らない」と。それが結局「計算通りにはならないのが人生である」ということを、先ず知ったうえで、虚の世界というものを知って、普遍の法というものを知って、その涙の中に開けてくるところに本当の喜びがあるんだよ、ということを負けた人たちに教わる。
 
金光:  勝つばっかりだとその世界を知らないわけですから、そういうことを表しているんでしょうか。こういう言葉を書いて頂いていますね。
 
人は悲しく寂しい
でもそこに幸せがある
 
ただそこに幸せがあると思えるのは、すぐにはなかなか思えないでしょうけれども。
 
永尾:  そうですね。しかし今言った道理としては、そこに「大自然の道理」と申しますか、ちょっとここに私が書いたんですが、
 
道理に順応すれば功徳自ずから賜る
 
この「道理というものに順応する」というところにいくんじゃないでしょうか。
 
金光:  あれは「大自然の道理」と言ってもいいわけですね。
 
永尾:  大自然の道理ですね。それに順応すれば自ずからそこに功徳が賜るです。尊いじゃないくて。
 
金光:  これまでになかった新しい喜びの世界が、悲しみの世界の後に出てくる。そこにはあるんですよ、ということですね。
 
永尾:  そうです。
 
金光:  それが「賜る」ということですね。「貰いたい」ということではなくて「賜る」という。
 
永尾:  「勝ち取る」と、この頃言いますが、そうではなく「賜る」。さっき野球の話をしましたが、最近イチローさんが、あの人が四千本安打を達成しましたね。あの時の感想をテレビでやっているのを聞いたんですが、その四千本の安打に達成するまでの間にはどれだけ失意があったかという、そういう話を聞いてやっぱしな、と思いましたよ。ああいう人は、ただ上手で四千本打ったんじゃなくて、さっきいったように「計算通りにはいかないのが人生である」というのを、はっきり知った上で、そしてあの四千本を勝ち取ったというね。
 
金光:  「失敗した時の方が印象に強く残っている」とおっしゃっていましたね。
 
永尾:  そうおっしゃっていましたね。さすがは日本の誇る名手だと思いましたね。
 
金光:  ということで、悲しく寂しい世界を知った人は、一本調子に非常に思うようになった世界ではない、広い世界に気が付くということでしょうが、さてそれについての言葉としてこういうのがありますね。
 
あの世をば拝めば
すべて丸くなり
大悲いただき此の世安らか
 
この場合の「あの世」というのは、失意をも含めた世界ということですね。悲しみも含めた世界、善いことばっかりだと、この世だけの話になるわけですけれども。
 
永尾:  実の社会だけでなく負の世界ですね。
 
金光:  虚の世界、負の世界―マイナスの世界まで含めたのが、あの世であります、と。
 
永尾:  はい。さっき私ね、
 
負をしりて分しり
無理しり虚をしれば
人生すべて明らめの道
 
と。この「明らめの道」というのが「四聖諦(ししょうたい)」。「四聖諦」というのが「生老病死」。これが、「負・分・無理・虚」に当て嵌まる。つまり「生は苦なり」というのが、「負」ですわね。
 
金光:  「生きることも苦しみである」ということですね。
 
永尾:  「老」は「分」に当て嵌まる。これは割り切れない。分数は割り切れません。「病」は、「無理」に当て嵌まる。お医者さんのおっしゃるように、カロリーは四、五百カロリーに決めたと。だのに糖尿病になったと。無理したし、そこには理屈通りにいかない無理もある。そして「お前、死ぬぞ」と言われる。「ダメだな」と言われる時が必ずくる。「死」が、「虚」に当て嵌まる。それが虚を知れば、ということで、これが全部(負と分と無理と虚)が、(生・老・病・死)とピッタリ重なってくる、ということですね。これは私が、四、五年ゴチャゴチャ考えているうちに思ったことです。それが「四聖諦」つまり「明らめの道」。この「明らめ」は「諦」。あきらめの道、人生すべて諦めの道。
 
金光:   漢語の「諦」というのは「真理」という意味だそうですけれども。
 
永尾:   日本語でいうと「明らかにする」と同時に、「死ぬということをそうガタガタ騒いでもしょうがないよ」と、「あきらめなさい」というようなものにも一応重なるということ。そういうふうに理解しているわけです。
 
金光:  ということは、これは「生・老・病・死」を含んだ人生すべてが明らかになるということは、これはあの世に通ずる。
 
永尾:  そうでございます。あの世に通ずると同時に、これが普遍の法にもそのまま通じていくんではないでしょうかね。普遍の法をあの世、あの世というのが普遍の法に通じていくんじゃございませんか。
 
金光:  死で終わりじゃなく、ストップして円が途切れるわけじゃないということですね。
 
永尾:  そうです。常に円―無限です。
 
金光:  ということは、普遍の法という働きの上で、それが現れているわけですけれども、その働きを「大悲(たいひ)」という言葉で表されるわけですね。
 
永尾:  大いなる悲しみですね。
 
金光:  それは人間の悲しみというよりも、仏様が人間の悲しみを受け取っていらっしゃる、と言いますか、呼応する世界。
 
永尾:  そうです。
 
金光:  だから人間は悲しい悲しいだけで終わってしまうところがあるかも知れませんけれども、実はその悲しみはもう一つ大きな世界への道でもありますよ、と。
 
永尾:  そういう普遍の法は、結局「大悲の本願」ともなるわけですね。その大悲本願と人間の悲しみというものが感応するんです。さっき「受け身」―「パッシブ」と言いましたね。パッシブはパッション(passion:情熱・激情)に通じるんじゃありませんか、語源的に。パッションに通ずると、それが結局アクティブ―アクション(action:動作・行動)。アクションの方ですね。パッシブの反対はアクティブですから、アクティブの方に通じてくる。つまりアクション。だから常に円還して回ってくると言いますか、そういう形になってくる。
 
金光:  そこのところはいろいろな味わいがあるわけでしょうね。こういう言葉も書いて頂いていますね。
 
不思議な波の上に
生かされている私
 
無限の働き、普遍の法の上に生かされている。ただしそれは人間にとっては不思議な、思議できない世界の大きな波の上に生かされているんだと。これは永尾先生の実感ということなんでしょうね。
 
永尾:  そうです。結局現代の知識で言えば、不思議でなくて不可解なんですよ。それは知識とか理論というものにとらわれているから不可解なんです。解くことができない。ところが不可解と不思議は違う。不思議というのは、まあ言葉を換えれば、「有り難い」ということ。つまりさっき「死」を申しましたが、「死は必然、生は偶然」という言葉がございます。
 
金光:  人間は必然的に死にますね。
 
永尾:  必然の死を了解すれば、偶然の生は有り難いものになる。
 
金光:  どうも現代の人ほど、そういうことにはどっちかというと鈍感で、昔の人の方が敏感だったんではないかな、というふうな気もするんですが。というのは、昔から有名な言葉で、これも先生に書いて頂いているんですが、
 
無生忍(むしょうにん)
 
という言葉があるわけですね。「無生忍」の「忍」というのは、忍耐の忍ですけれども、認めるという意味があるんだそうですね。無生(むしょう)の生であることを認めるということで、これは死は必然の上に、生―偶然の生があるということに気が付くと、そういう生であるということは、生だけがすべてではないと。無の生を認めるという。極端な言葉を使うとそういうことにもなるかと思うんですが、これについてはどういうふうに感じていらっしゃいますか。
 
永尾:  簡単にいうと、当たっているかどうかわかりませんけども、「生まれなくてもともとなのに、生まれていることの有り難さ」と。「生まれなくてもともとなのに、生まれているということはなんと不思議なことか、有り難いことだ」と。偶然に生まれたわけですよね、偶然の生と。「そんなことはないよ」と、学者の先生に怒られるかも知れませんが、実は私が、金子先生―昭和五十一年十月二十日に亡くなられましたけども、その亡くなられる半年前に、「永尾にちょっと話をしておきたいことがある」と言って呼ばれたんですよ。そうしますと、「言いたいことは、この忍ということについて、どうしても言っておきたい」ということで、それを承ったんですが、その時に「忍」というのは、これは『倶舎論』の中に、
 
忍知見(にんちけん)は慧(え)の別名(べつみょう)なり
 
という言葉があると。難しいですがね。忍は認める、知は知識の知、見は見解の見、この頃でいうと、理論でしょうか。「慧の別名なり」慧は智慧の慧、慧の別名なりということで、とにかく智慧というものにはそういうものがあるが「忍知見」と。忍というものが、これが忘れられていると。忍があって、知見も成り立つと。ちょうど虚の世界、見えないそんな世界はあるもんか、というような虚の世界があって、初めて実もあると。じゃ、虚の世界を証明せよ、と言った時には、証明ができない。証明はできないけれども、実があるということは、虚があってしかるべきということです。ですから、あの世を証明せよという。どうしてもいうならば、この世があるということですよ、と。この世があるということが、あの世があるという証明であると。そうでなければ成り立たないという、これが数の上でも言えるわけです。ですからこの「無生忍」の「忍」というものは、これはよくおしんのように我慢する。この野郎と思っても、まあ我慢するという、そういうような意味に使われているけれども、しかし本当の意味は、「承認」の「認」ですよ。「承る」「承認する」。相手の立場を承認するという、そういうところで、自ずから我慢ができる。歯を食いしばってこうして我慢するというものではなくて、そういう立場に入って、「忍知見は慧の別名なり」という、そういう広い世界に入ったならば、相手の立場というものを認めることができると。
 
金光:  それは相手も普遍の法の現れの一人であると、そういうことになるわけですね。
 
永尾:  そうです。
 
金光:  それを認める、承認する、ということですね。
 
永尾:  そうです。
 
金光:  それはしかし、人間の知恵ではなかなか分かり難いんで、今の「慧の別名」という「慧」は仏さんの智慧の方だと思うんですが、人間にとっては、それもやっぱり不思議なことでありまして、こういう言葉も書いて頂いていますね。
 
不思議
分らぬが解る
それが如来の道
 
永尾:  この「分らぬが解る」の「分らぬ」は、分の方ですね。これは分析の方に使う「分かる」。こっちの「解る」は、アンダースタンド(understand:理解する)です。アンダースタンドとは何か。下へ立つんですよ。近頃は、さっきの国際化情報化社会における価値観の多様化を踏まえる「アップスタンド」。アップスタンド―偉い人になりなさい、ということになる。偉い人というのになっては、わからん。アンダー―下へ入って、解る、了解ですね。
 
金光:  人間は、しかし「わかりたい、わかりたい」というのは、どうしても分けて考える。分けている間は、不思議はわからんわけですね。
 
永尾:  下へ下へ分けていく。そうでなくて、これは別にアンダースタンド。僕は、老人保健施設に行ってご老人と接していますがね。よくこの頃は、「認知症が増えた」。なんか認知症というと、老人の代名詞みたいに。それで昔のことを何回も言っている。忙しくて聞いちゃおれんといって、若い方は大変です。同じことばっかり言っていると。それから叱られてくるでしょう。そうすると、「あの人は認知が進んでいますから」というような形ですが、それはどうするんだという。それは理性が無くなって、感情失禁が起こってきているんですよ、と教科書に書いてあったというけども、さっき言ったように、教科書通りにはいかないということですね。
 
金光:  今の認知症について、こういう言葉を書いて頂いているんですね。これは先生が専門のお医者さんでいらっしゃいますから、認知症というのは、一般には病気と思っていらっしゃる方が多いと思うんですが、
 
認知症なんて病気ではない
 
と。
 
永尾:  これは僕が歳をとってわかることなんですよ。ですから若い方を責めるわけにいきません。やっぱり自分が認知症に近づいてきて、そして初めて認知症なんていうものは病気でない、と。これが普遍の法でいうと、阿弥陀様のお恵みじゃないか。要らんことは全部忘れてね、ただ「有り難いね」と言っている。
 
金光:  私も、永尾先生に近い歳なんですけれども、認知症という言葉を聞く度に、私だって認知症の症状は、いろいろ思い当たることがあるもんですから、ですからあんまり認知症の方というのは、別世界にいる人じゃなくて、親戚みたいな気がしてしょうがないんですが、「病気じゃない」と言われると、「ああ、そうか。病気でなくて、よかったな」というふうな感じで、この言葉を伺っているんですが。
 
永尾:  こういう気持でご老人に接すると、ご老人は怒りませんよ。ニコニコしていきます。そう言っちゃなんですけども、私も歳八十八です。いわゆる米寿になる。十月十一日生まれですから。そういうことで、歳をとって、自分自身がこういう身になって、初めて認知症の方というものはないんだ、と。結局普遍の法―阿弥陀様のお恵みだと。要らんことは全部忘れちゃってね。
 
金光:  ずっと最初からの話を続けて、今のことを伺いますと、こういう言葉も生きてくると思いますね。
 
ぼけてきて次第に
わかる如来像
 
ということですね。
 
永尾:  自分が惚けてきてね、初めて如来様というものが―如来様というのはもともとぼんやりしているもんですよ―いわゆる認知症はみんな物忘れとか、そういうようなものなんかは、如来様が見えてくるんじゃないでしょうか。如来ってぼんやりしている。如来様そのものがぼんやりしている。はっきりしているなんて、これはあんまり感心しませんね。ですから自分が呆けてきて、初めてぼんやりとした如来様がだんだん見えてきたという、そういうようなつもりでね。
 
金光:  そういう世界にいらっしゃるから、こういう次のような言葉も生まれてくるんでしょうが、
 
人の誤ちを微笑む
ような優しさが欲しい
 
やっぱり決めつけて「認知症だから、これあんたダメ。だんだん認知症が進んでいます」なんていうんじゃ困るわけですね。
 
永尾:  かえって良くないですね。ですから結局さっきの「忍」に戻りますが、相手の立場を了解すると言いますか、認知症の方というものを、認知症の方だとかなんかそういうような目で学門として見るのでなく、認知症の方がちょっと間違いをなさる。よく間違いますね。時間を間違えたりなんかいろいろしますね。そういうのを「また間違えたの」と言ったような、そういうような気持でニコッと笑うような、そういうような優しさが欲しいなという、そういうことです。
 
金光:  笑うということはやっぱり大事なことなんですね。
 
笑顔とは人の誤を
ほほえみにて受けとめる心
 
しかしなかなか笑顔が出ない。微笑みも出ない。頭の中にある自分の「こういうもんだ」という、当たり前という考えがあると、それに外れるとつい相手を叱ったりするようなことになるわけでしょうけども。
 
永尾:  そうですね。そして微笑みというのは、教科書に書いてありますよ。介護のテキストに。微笑みをもって接すること、と。ところが顔だけ見ている。まあやらんよりはやった方がいいでしょうけども、顔だけの微笑むというのは、本当の微笑むでなくてね、やっぱり心の微笑みというものが大事じゃないかな、とそう思いますね。
 
金光:  その施設とか、あるいはそれ以外のクライアント(client)の方なんかにお会いになっていらっしゃって、お感じになっていることだと思うんですが、こういう言葉もありますね。
 
人間とは謝まらねば
生きてゆけない存在
 
永尾:  これもやや難しい言葉ですが、金子先生から書いて頂いたお言葉に、
 
称佛六字即嘆佛(しょうぶつろくじそくたんぶつ)
即懺悔即発願廻向(そくさんげそくほつがんえこう)
一切善根荘厳浄土(いっさいぜんごんそうごんじょうど)
(尊号真像銘文より)
 
これは『尊号真像銘文(そんごうしんぞうめいぶん)』の中の一文です。
 
金光:  伝導大師、あそこに掛かっている掛け軸のお言葉が、今読んで頂いたお言葉だと思うんですが、
 
永尾:  『尊号真像銘文(そんごうしんぞうめいぶん)』の中の一節で、これを心に決めていますが、「称佛六字即嘆佛」これを訳しますと、「仏様有難うございました」ですね。それは「即懺悔」申し訳なかったという、ここに謝る。申し訳なかったという、こういう心が出てくる。俺が研究してこうなったんだとかという、そんなものではなくて、「即発願廻向」さっきあらゆるものを踏まえるような偉い人間になりなさいと言いましたけども、それ逆なんですね。仏様から頂いてそうなったものですよ、と。
 
金光:  それで「一切善根荘厳浄土」と、
 
永尾:  これ簡単にいうと、経験感情になると。純粋精神の世界がそこに出てきますよと。全部一緒になって一つのものですね。ですからここにあるように、結局これ別々に書いてあるが、別々じゃない。「仏様有難うございました」ということは、先ず「その心が申し訳なかった」ということ。人間とは謝らなければ生きていけない存在です、ということですね。「申し訳なかった」ということ。申し訳なかったということは、すべて平和からくるんじゃないですか。ですから「一切善根荘厳浄土」なんかというと非常に難しいですが、簡単にいうと、「平和がくるよ」と。自分の心で言えば、「幸せがくる」と。「幸せになりますよ」ということではないかと思うんです。それはどうしても、この謝るということ。これは感謝ということが、誤りを感ずると。即ですね。別々のもんで、私は謝る必要はないというのが、大体今理論の世界です。ですから、こう言えばああいう。右だ左だと、そういうものが常に出てきて争うんですね。
 
金光:  そういうところが、エゴの世界がなくなった世界。エゴの底が抜けた世界ということにもなるわけですね。
 
永尾:  そうですね。ですから禅などのお坊さんなんかがおっしゃる「無我」ということ、その通りですね。
 
金光:  今お話を伺いながら、応接室に掛かっていました金子大栄先生の色紙の言葉を思い浮かべたんですが、その中の一枚に、
 
人間に生まれたる
ありがたさ
仏法に遇へる
かたじけなさ
今日を生きる
もったいなさ
 
という言葉があったんですが、これを今までのお話は、地で味わっていらっしゃる、そういうお話が伺えたような気がするんですが。
 
永尾:  これが結局遺言になったんです。これ九十五歳と書いていらっしゃる。先生が、満九十五歳の記念にこれをくださったんです。ですから最後のご遺墨と同時にこのお言葉がすべてを締め括るような言葉でないかと思うんです。人間と生まれた有り難さ、法に遇えるかたじけなさ、今日を生きる勿体なさ、と。それがつまりすべて「有難う」という、そういう気持で最晩年に先生がお亡くなりになられるその時の最期のお言葉として、私、肝に銘じております。そして有り難いことだと、そう思って過ごさして頂いているわけです。
金光:  日頃はあんまり考えたことのない、この私たちの人生―生きて死ぬ、その人生というものが、普遍の法によってどういうふうに生かされているのかというのを、いろんなお言葉でお話頂いて、そういう世界に気付かせて頂きたいものだなと思いながら伺いました。どうも有難うございました。
 
     これは、平成二十五年十一月三日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである