いま・ここを生きる 鈴木大拙の生と死から
 
鈴木大拙館名誉館長   岡 村(おかむら)  美穂子(みほこ)
昭和十年(1935年)、米国ロサンゼルスに生まれる。昭和二十六年、鈴木大拙博士と出会い、昭和四十一年(1966年)のご逝去まで師事する。ハンター・カレッジとコロンビア大学に学び、昭和四十四年から平成十年まで『ザ・イースタン・ブディスト』編集員。昭和五十年から五十六年、国際交流基金役員秘書室主任。平成四年から十八年まで大谷大学非常勤講師。日本民芸館評議員。共著に、「大拙の風景:鈴木大拙とは誰か」「思い出の小箱から:鈴木大拙のこと」ほか。
聖路加国際病院名誉院長 日野原(ひのはら) 重 明(しげあき)
1911年(明治44年)山口県山口市生まれ。1932年京都帝国大学医学部に入学。1937年(昭和12年)に京都帝国大学医学部を卒業し、京都帝国大学医学部三内科副手(無給)に就任(1939年まで)。1938年北野病院や京都病院(現国立病院機構京都医療センター)で勤務。1939年京都帝国大学医学部大学院博士課程(心臓病学専攻)に進学。1941年(昭和16年)に聖路加国際病院の内科医となる。1945年に志願して大日本帝国海軍軍医少尉に任官。1951年聖路加国際病院内科医長に就任。1951年エモリー大学医学部内科に一年間留学しポール・ビーソン教授に師事。1952年帰国し、聖路加国際病院院長補佐(研究・教育担当)に就任(1972年迄)。1971年聖路加看護大学副学長及び教授に就任。1973年財団法人ライフ・プランニング・センター設立、同理事長就任。1974年聖路加国際病院を定年退職。1974年聖路加看護大学学長(第4代)に就任(1998年迄)。1992年に聖路加国際病院院長に就任(1996年迄)。1996年から財団法人聖路加国際病院理事長に就任。院長を退任し聖路加国際病院名誉院長に。1998年聖路加看護大学名誉学長及び名誉教授。2001年(平成13年)12月に出版した著書『生きかた上手』は120万部以上を売り上げた。高齢者の希望の星的存在となっている。2012年現在は聖路加国際病院名誉院長であり、数多くの著書でも知られている。レオ・ブスカーリア作の絵本「葉っぱのフレディ?いのちの旅?」のミュージカル化に当たっては、日野原が企画・原案に携わっている。マスコミへの出演多数。一○○歳を超えてなお、スケジュールは二、三年先まで一杯という多忙な日々を送る。乗り物でのわずかな移動時間も原稿執筆に使い、日々の睡眠時間は四時間半、週に一度は徹夜をするという生活だったが、九六歳にして徹夜をやめ、睡眠を五時間に増やしたという。本人は少なくとも一一○歳まで現役を続けることを目標にしていると語っている。
ききて 鈴木大拙館館長  木 村(きむら)  宣 彰(せんしょう)
1943年富山県城端町(現南砺市)出身。1966年大谷大学文学部仏教学科卒業。同大学助手、短期大学部教授、文学部教授、文学部長などを経て、2004年4月から同大学学長。2010年3月をもって、退職。名誉教授となる。実家は富山県南砺市城端の報土寺。同寺の住職でもある。
 
ナレーター:  石川県金沢市。室町時代に蓮如(れんにょ)上人(室町時代の浄土真宗の僧。本願寺第8世。本願寺中興の祖:1415-1499)が行脚して廻ったこの地域は、古くからの仏教への篤い信仰が今に続く場所です。明治から昭和にかけて活躍した仏教思想家鈴木大拙(すずきだいせつ)は、明治三年(1870年)に金沢で生まれました。鎌倉円覚寺(えんがくじ)で参禅したのち、師の勧めにより二十七歳で渡米、仏教や東洋思想について研究や執筆活動を続けました。帰国して研究生活を送った後、八十代を目前に再び世界各国を回り、東西の思想の交流に貢献しました。九十五年の人生をかけて大拙が伝えた思想は、現代に至るまで世界的に大きな影響を与え続けています。大拙は、八十代でアメリカに滞在していた時、ある少女に出会います。当時十五歳だった岡村美穂子(おかむらみほこ)さんです。生きることに悩みを抱いていた岡村さんに、大拙が説くいのちの見方は、一筋の光をもたらしました。以来、秘書の役を務めながら共に暮らし、亡くなるまで教えを求め続けました。大拙が亡くなった後も、岡村さんの人生には、その存在が生き続けています。
 

 
岡村:  私は、十五年間お世話になったんですよ、先生に。その十五年間ちっとも変わらなかったという、その境目が感じなかったということを、私は実感として思いました。そのことを、先生(大拙)は死をもって私に教えてくださったような気がするんですね。
 
ナレーター:  鈴木大拙が遺した言葉に触れることで、訪れる人自身が思索を深められる場所があります。鈴木大拙館です。亡くなる前の五年あまり、大拙の主治医を務めた日野原重明(ひのはらしげあき)さん。患者である大拙の生きる姿勢に感銘を受け、今もその言葉を学び続けています。大拙は、どのように人生を歩み、死を迎えたのか。傍(そば)で見守り続けたお二人は、その姿に何を学ばれたのか、お話を伺います。
 

 
木村:  先生、お医者さんとして、あるいは大拙先生の最期を看取られた主治医として、先生の―こういう言い方はおかしいかも知れませんけど、患者さんから学ぶこと、というようなものが何かおありでしたか。
 
日野原:  私は、朝早く電話が掛かってきて、「大拙先生が非常にお腹が痛んで苦しんでおられるから、聖路加に入院させてくれ」という救急の電話がありましたから、私は、若い私のアシスタントの医者に、「すぐ鎌倉へ行って診察して状況を教えてくれ」と言ったら、「非常に先生は今苦しんでおられるが、鎌倉の病院ではこのご高齢の方を―危篤事態を手術することは困難だから、東京の聖路加で」というふうに聞きましたので、高速のないあの当時でしたから、三時間もかかって聖路加病院に来られて、すぐ私は病室に入れたんですがね。
 
木村:  鎌倉から東京の聖路加病院まで、岡村先生お一人で付き添って来られたわけですね。
 
岡村:  そうですね。
 
木村:  その時のご様子などはどうですか?
 
岡村:  ちょっと車にガソリンを給油するために停まるわけですよね。そうしたらば、私は、先生が後ろに寝ておられるから心配で見に行くんですね。そうすると、私は驚いたことに、先生はモルヒネを打たれてもう寝ていらっしゃると思ったんですよ。ところが先生は自分の腕時計をご覧になって、「美穂子さん、今何時か?」と訊かれたんですね。これはほんとに先生らしいなと思いながら、驚きも同時にありましたのは、発病して何時間経っているかという、その結論を知りたいわけですね。何時間か経ったことによって、自分の死が近いか否かということが、なんか逆算できるような頭が働くんですね、そこで。それで、「美穂子さん、何時か?」と訊かれる、この質問はどういうことなのか、と。お腹が痛いのに、それどころじゃないと、普通は思いますけどね。「何時か?」とおっしゃるから、それでもう何時間経ったということがわかる。そこに九十六歳の先生おられたという。
 
日野原:  それはね、そういうふうに非常に危篤な状態であるにも関わらず、自分というものを内省してみる。それが心の、
 
岡村:  平静と不動というか、ぶれないというか、なんかそういうものを感じましたね。
 
日野原:  「先生、お苦しいですか?」と言った時、「非常にとても痛い」。その時にもう血圧は下がっていたんです。だから腸閉塞が起こっているのはわかっているけど、開腹手術はできない。「先生、それではモルヒネを注射して痛みを軽く致しましょう」というふうに私は言ったんですがね。どんどん血圧が下がっていく。「誰かお呼びしましょうか?」と、私は言ったんですよ。いろいろ聞いてお見舞いに夜でも心配で駆け付けた方があったんですがね。そうしたら「誰にも会わなくてよい。一人でよい」と言って、眼を閉じられた。「一人でいい」ということが、口から出たということは、死を完全に受容して、ここで自分は死んでもいい、ということを言われた時に、傍(そば)に付き添って、先生の脈を取って傍におられた岡村さんは、「いつ先生が亡くなられたかどうかわからない、そういう状態で最期を迎えられた」といんですよね。そのことについては、私が、先生に「誰かをお呼びしましょうか?」と、ただそういう言葉で聞いたんですが、岡村さんはそれを英語でなんか表現をしておられましたね。
 
岡村:  「なんか欲しいものないですか?」って、先生に伺ったんですよ。「して貰いたいものとか、すぐ欲しいものないですか?」って聞きましたら、「No,nothing,thank you」(いや、ない。ありがとう)とおっしゃったんですね。
 
日野原:  そういう静謐(せいひつ)の中に生命を終わったという、ああいう生涯の終焉は、静謐そのもの、静けさそのものだ、というふうに感じましたね。私は、たくさんの大勢の癌の患者をホスピスで見てきていますが、その癌のいよいよ迫って、もう意識がなくなる最期に、「ありがとう」の言葉で人生を閉じられる患者さんがたくさんあるんですよ。
 
木村:  その方は常日頃から感謝の思いをもって生きておられるから、もう自然に自ずからそういう言葉が出てくる。
 
日野原:  そうそう。私は、大拙先生がアメリカから帰って、夫人が亡くなられて、そして独り生活をして、コロンビア大学から特別の教授として、東洋の哲学、それから禅についての講演をされた。その講演に歳を隠して、岡村さんがその時十六歳ぐらいでしたでしょうか、若い者が一体先生のどこに魅力を感じられたのか、ということを、私は一番最初に聞きたいんですが、どうでしょうか。
 
岡村:  先生のご講演を拝聴したのが十五歳だったんですね。十代というのは、おそらく人間はいろんな問題にぶっつかって不平不満をもつんじゃないかと思うんですね。それで私自身の周囲を見ていましても―大人の世界ですね―こんな大人の世界に自分はこれから突入するんだけれども、こんなバカな話はないというような生意気なというか、ブツブツ毎日言っていまして、それでちょうど真向かいに浄土真宗の仏教会がありまして、そこで日本語を教えて貰ったりしていたもんですから、そこの開教師さんが、「日本から偉い先生が見えるからね、あんたみたいな子は、そういう先生のいいお話を聞いていらっしゃい」って言われたんですね。その時私が思ったのは、〈偉い先生、何が偉いんだ〉というところから始まるんですね。それから話を聞くと言ったって、まあ結論は決まっているんだから聞いたってしょうがないな、というのも半分ありましたね。それで学校をさぼって、コロンビア大学の図書館―大きなギリシャ宮殿みたいな図書館ですけども、そこでお姿を拝見してお言葉を耳にしたわけです。お姿は静かで、その時は直には出会いませんでしたけれども、私は最後の講義の日、休息時間に先生が一人でおられるところを見計らって、英語でこう質問したんです。「先生、世の中にたくさんの宗教があるでしょう。だけど究極的には同じことを言っているんじゃないですか」と。そのとき先生は、「ノー(no)」、つまり「同じところには到達しない」とおっしゃったんです。当然「イエス(yes)」という返事が返ってくると期待していた私は、この答えを聞いて驚いてしまいました。先生は続けて「そうか。明日は土曜日だから学校は休みでしょう。よかったら三時のお茶に、わしのところにいらっしゃい。そうしたら説明してあげましょう」と言ってくださったんです。それで三時のお茶に先生のお部屋に伺ったというのが、本当の出会いなんですね。そうすると、先生が、私の話を全部聞いてくださったんです。「なぁ、なぁ」と言って、耳をこうやってね。耳がちょっと遠かったもんですからね。私の不服不満を全部聞いてくださいました。
 
日野原:  大拙先生はね、いつもこういうふうに手を耳にかざして、こういうのが癖だったんですよ。私もその頃少し先生の癖が移ってきたように思います。
 
岡村:  そうですか。それでちょっとこういうふうになっていた姿勢が、ちょっとこうなって、私の顔をジッと見ておりましてね、「美穂子さん、手を出しなさい」とおっしゃったんですね。手を出せとおっしゃるから手をこう出すわけですね。そうしたら先生が、それを手を取って、「綺麗な手じゃないか」って、こうさすってくださるんです。こうやってね、「よく見てご覧」とおっしゃるわけですから、よく見るわけです(笑い)。そうしたら、「仏の手だぞ」とおっしゃったんですね。今度は〈私の手がどうして仏の手だ〉という疑問が湧くわけですね。バスに乗って揺られながら、〈どうしてこれが仏の手なんだ〉というふうにしてですね、家に帰って一晩考えました。眠れないです。〈どうして私の手が仏の手なんだ〉という。どうしたって定まらないもんですから、次の日もう一度行くわけですね。そうしたら待ってたわけじゃないんでしょうけれども、私の疑問というのに引っかかっているな、ということは確認して頂いたのかな。そうすると、「美穂子さん、あんたが作った手じゃないだろう」とおっしゃるんですよ。「あんたの手はあんたが作ったわけじゃないだろう。あんたの手だというけども、あんたの親が作ったわけじゃないだろう」とおっしゃるんですね。「あんたの親の親が作った作ったんじゃないだろう」って、もう一遍確認してくださるわけです、そういうふうに。「じゃ、誰の手だ」とおっしゃるわけですね。そこから一つの公案みたいなもんですね。つまり私が考えている自分というものには、もっと違う次元があるに違いない、ということを指してくださっているわけですね。自分の思っている自分というものは、非常に限られた意識の中の自分だということですね。しかしそんなもので終わっているわけじゃない、窮極じゃないということを、そういうお言葉で先ず教えてくださったのが発端なんですね。
 
日野原:  そうですか。私は、大拙先生と岡村さんとの出会いが、なんか不思議な力が働いているように思いますね。引力のように、今までいろんな人の講話を聞いたりしたりなんかしたんだけれども、双方で同じところに心が向いて、話題が開かれるというふうな感じだったんじゃないかなと想像しますね。
 
木村:  大拙先生は、その当時の岡村さんのことをよく受け止めて、仏教で「待機説法(たいきせっぽう)」と言いますね、「待機説法」相手の気持ちを心得て法を説く。そのことを言い換えると、「応病与薬(おうびょうよやく)」病に応じて薬を与える、というのと同じで、そのように法を説かなければいけない。だからおそらく当時の十五歳の岡村先生には、そういうふうに話すのが一番いいと。きっとそれがきっかけになって、次々と解(ほぐ)れていくなと、先生はお考えになったんじゃないかなというふうな思いがするんですけどね。
 
日野原:  今言われた「解れていくであろう」という、その解れが一つの秘密であり、禅的なものの考え方のように、私は思うんですね。
 
木村:  実際にその後ずっと解れて(笑い)。
 
岡村:  大分かかりましたけども(笑い)。
 
木村:  そうですか。でも今から振り返って、やっぱりその時の出会いというものは、やっぱり先生ご自身も何か不思議なものというか、そういうことをお感じになられましたか?
 
岡村:  そうですね。大拙先生と私の間には、六十五年の違いがあるんですよね。半世紀以上の年齢の違いがあるんですけどね。先生は、おそらく十五歳の私をご覧になってくださって、この先私の人生の一生がどういうふうになるかということを―私だけじゃない、どんな人間でも、十代の人間に対してそうだったと思うんですけども―それで孔子の「十五にして学を志す」というのをずっと七十までのものを書いてくださったんですよね。それで私の一生はこうなんだ、というふうに、地図みたいに、若い私を見ていて、きっとこれからはこうなられるだろうと。望むというか、こういうのが人間の生き方だという。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳に順(したが)う。七十にして心の欲するところに従(したが)えども矩(のり)を踰(こ)えずとか、そういうのを書いてくださいましてね。
 
論語為政第二
孔子曰
十五而志于学(じゅうごにしてがくにこころざす)(to making inquires bout things(物事(人生)について何であるかを探求する)
三十而立(さんじゅうにしてたつ) (You stand on your own feet)
四十而不惑(よんじゅうにしてまどわず)(You don't go astray.You know your own way)
五十而知天命(ごじゅうにしててんめいをしる)(You know your own destiny)
六十而耳順(ろくじゅうにしてみみしたがう)(You reach a state of acceptance)
七十而従心所欲不矩踰(しちじゅうにしてこころのほっするところにしたがえども、のりをこえず)(You act as you will.yet do not go beyond the norm(nori))
 
木村:  先生が、実際にペンでそれを書いて、十五歳の美穂子さんに示された。
 
岡村:  私に英語でそれを説明しなくちゃいけませんから、私が一生懸命書いたわけなんです。わけがわからないんですね。「矩(のり)を踰(こ)えず」なんていうのは、全然十五歳の人間にはわかる筈はないわけですし、全体的にわかる筈がないんですね。ただ盛んにおっしゃったのは、「十五にして学を志す」君はここなんだって盛んに指でね、「君はここなんだ」ということを地図を指すように言ってくださったのがね。「学を志す」というこれすらですね、その時は、そうでないものと匹敵できないわけですよ、自分自身は。「学」というものはどういう内容のものなのか、がすぐわからないわけですね。それがわかるまでかなりかかるわけですよね。「学とは何ぞや」という。
 
木村:  知識の問題じゃないという。
 
岡村:  知識の問題じゃないということに、気が付くまでが大変また暫くかかりましたですね。しかしそういうふうに、「あなたの先がこれほど長いんですよ」ということを言ってくださったことと、「その間にこれだけのことが身に付いていかなくちゃいけない」ということの示しですね。それ一つずつ紐解いていくまでがちょっと時間かかりましたですけれども。しかしそういうことがあるということを教えて頂いただけでも大分違ったんじゃないかと思いますね、私の人生の中では。
 
木村:  『論語』の孔子さんはそこまでですけども、さらに「その上の長生きしなければいけませんよ」というふうな、「その先がまだある」ということをおっしゃっているんですよね。
 
岡村:  「九十歳にならんとわからないこともあるんだぞ。長生きをするもんだぞ」っておっしゃいましたね。
 
木村:  孔子さまはそこまでおっしゃっていないけども、先生は、「九十歳にならないとわからないことがありますよ」と。日野原先生も「百歳にならないとわからないことある」と。
 
日野原:  そうですよ。多いですよ。
 
岡村:  これを言って頂くんですね。「味わう」ということがやっぱりいい言葉ですね。味わって暮らすという楽しさですね。そういうことをなんかただの理屈じゃなくって、楽しいということもなんかお言葉の中に教えて頂いたような気がしますですね。
 
 
ナレーター:  一九六○年、九十歳の大拙は、インドの外遊から帰国する途中、高熱で体調を崩します。大拙は日本に導入されて間もない人間ドックを受けることを決意、それが日野原さんとの出会いでした。
 

 
日野原:  私は、日本の人間ドックを、昭和二十九年からチェックシステムを作りましたので、いつもそういう予防医学的な気持があるんで、先生(大拙)に言ったら、「それじゃ一週間入院して、詳しい日帰りの検査じゃ十分でないから検査しょうと思う」と。血圧が高いんですよ。それが朝や夜はこう揺れが非常に強いんですね。で、これはどうしても誰かが傍(そば)にいて、日常生活の間の血圧の揺れを観察をして、それに対して医師としての私が忠告を―何を食べたらいいか、どういうふうな生活をやったらいいかを、私が指導することができると思ったんで、私は、誰か傍にいてね―そのころ血圧を測るというと、お医者さんだけしか血圧を測れなかったものです。それよりも私は、「美穂子さん、あなたに教えるから」と言って、この頃は少なくなった水銀血圧計に、「この椀帯を巻いて、プレッシャかけて、そして動脈の音がとんとんと聞こえる、それが最高血圧。その音が消えるのを最低血圧と言うんです。この表を作ってください」と言って、そして血圧の測定の仕方を教え、そして月に一回だけは、築地の聖路加病院に来られて、その外来でまたチェックをするという、そういう健康指導を私はやったんですよ。それを克明に岡村さんはチェックして、私にレポートをされるというんで、私は、先生が大切な人だし、どうしてももっともっと長生きをして欲しいし、先生は、まだまだ自分はすることがあるというんです。先生はご高齢だけれども、「先生は、どういう仕事を、研究をされるんですか?」と聞くと、「私は、『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の翻訳を五年間ぐらいかかってしなくちゃならないし、大切な仕事があるから」って。それで先生が召し上がる食事のことをいろいろ聞いて、「これをこうした方がいい」とか、「運動を不足にならないように、朝起きたら必ず運動をするように」と言ってね、そういうように教えますと、大拙先生は、家から出て、そしてその道をずっと歩いて往復する。何回往復するかは、一回往復したら石を一つそこに置く。二回、三回というふうに、石の数から―今のように万歩計がないですから―そういうことを非常に科学的にされることを聞きましてね、私は素晴らしいなと思ったんですよ。
 

 
日野原:  これが先生の一番大きな「無」ですね。
 
ナレーター:  先生の終焉を予感しながらも、すべてを受け入れ、日々静かに今ここを生きる。大拙の生き方の根本には、無の思想がありました。
 
岡村:  私がガタガタいうと、「美穂子さん、もともと何にもないんだよ」ってね。さもこのことを言っていらっしゃる。「相対の無じゃない」ということを言うんですね。
 
日野原:  いやぁ、この本物の「無」という字を見ると、なんとも言えないですね。何とも言えないというのは、私の表現ですね。独特の「無」ですね。
 
 
日野原:  先生(大拙)に、観察をした後にね、「先生、何か一筆書いてくださいませんか」と頼んだら、そうしたら色紙を渡しますと、それに先生が書かれたのが「無事」という。ここに私は先生から頂いたのを持って来たわけですがね。これは私の家宝です。私の家の部屋にこれを掛けていまして、これを見ている時に、これは禅の言葉かな、と思ったんですよ。「事が無い」というのね。事がないで自然に流れている。これを俗には「無事」と言うんですね。言葉で、我々日常生活で表現していますがね。それが一切の自分を離れて、そして自分を内省して観るという。そういう中でこういう言葉が創られるんじゃないかと思ってね。私は、先生が書かれた『日本的霊性』という、これを今でもこれを読んでいるんですがね。
 
ナレーター:  『日本的霊性』は戦時中に書かれた代表的著作の一つです。日本人が東洋思想を背景に培ってきた世界観、人生観について、大拙の考えが記されています。
禅者の言葉に「平常心是道(びょうじょうしんこれみち)」ということがある。また「心に無事で事に無心なれ」という言葉があるが、これでなくてはならんのだ。ここには生死(しょうじ)ということはないのである。なんでもすべきのこと、そのことに成りきれば無心である。無心であれば無事である。それが平常心である。そこに道がある。
(鈴木大拙『日本的霊性』「死について」より)
 
日野原:  これは何にも「事無しでいい」というふうな、そういう考えでなしに、これはすべてのことを受け入れて安楽に生活をするということでなくて、もう少し深みを考える。それをこの中には、老荘そういう哲学者が、東洋の哲学者の思想というものが入り込んで、「事無しでなしに、自分たちが生存していること事態、そして私たちはどうせ寿命があって死ぬ。生きていること、死んでいること、それを含めてやはり考えるべきだ」ということが、この『日本的霊性』にあるんですが、私も百を越えて、読んだり書いたりすることが多いんですが、大拙先生の書は、私の愛読書の一つに今でもなっている。そして部屋にこの「無事」の額を置くと、何かお祈りをする―キリスト教でいうお祈り、あるいは仏の手を合わせる。いろんなようなことを含めて生と死を超えたものが霊性じゃないかというふうに、だんだんと私は理解することになったんですが、その先生の問答を本当に往ったり来たりや、講演の中でもやがて「こうだ」と、「いやこうだ」というふうに、納得がいくように人にゼミナールで説明するんでも、学生の諮問がありますけれども、ストレートに答えられないで、往ったり来たりして、聞いている学生・若者がなんか一緒に考えるようなそういう雰囲気を、先生はつくるのに長(た)けていたと。
 
岡村:  やっぱり迷いがないと悟りもないんですね。その迷いの大切さというのかな、疑問がどうしてそうなるのか、という。
 
日野原:  先生はやはり聞いている人に、考えさせるというふうな雰囲気を上手に作られているんじゃないかというふうなことですね。
 
木村:  岡村先生も大拙先生から「無事」という書を頂いたそうですね。
 
岡村:  頂いた時は、まだ私十代の、十七歳ぐらいだったかしらね。最初に初めての墨跡を頂いたんですけどね。ですから、わからないままに頂いた状態だったんですけれども、如何にこれが西洋にない言葉ということが、だんだん見えてきましたですね。西洋にないというのは、翻訳できない言葉なんですね。翻訳できないからきっと大拙先生は、伝えなくちゃいけないという、なんか一種の使命感みたいに生き甲斐に感じておられたと思うんです。東洋が貢献できる思想というと、この「無事だ」ということを、「無事」に匹敵できる言葉も随分ありますけれども、無事の境地だという。これは最終的にどこが違うか。西洋と東洋のどこが違うというと、まだ事が顕れてない本―大元があるということを言っているんですね。まだ出てこない本があるから、事が出てくるんだという無事なんですね。
 
日野原:  ちょうど氷山の九分の一が上に出て、しかし本体はもっともっと深みにある。そういう沈んで見えないもの。
 
岡村:  沈んで見えないし、まだ形になっていないから、形にまだなっていないということの「深さ」をいうのが、東洋の特徴なんですね。それをいうことで、初めてものが顕れるという。顕れてからものをいうんじゃなくて―言ってもいいけども、また大変西洋では立派にいうことができていますけども―やっぱり顕れる前を言わないと、本当に言ったことにならないんだという、東洋側の思想もあるわけですね。
 
木村:  大拙先生の日頃読んでいらっしゃった『臨済録(りんざいろく)』という禅の語録がありますけど、その中に出てくる「無」字というのに、先生は全部印を付けて、上に朱で、赤い字で「無」字を全部書き出していらっしゃいますね。ですから『臨済録』の中から、今、先生が、老荘思想との関わりもあるとおっしゃいましたけども、やはりそれが東洋的な両先生のご説明になったようなものを「無」字という言葉に託しておられるんじゃないかと思うんですが、如何でしょうか。
 
岡村:  私はそう感じました。そうだ、と一遍にはおっしゃらないけども、そういう方向に向かっていたような気が、私はしておるんですけれども。
 

ナレーター:  岡村さんが感銘を受けたという言葉があります。「それはそれとして」これは大拙が日常口にしていた一言でした。
 

 
岡村:  それはちょっと晩年なんですけども、沢山書を頼まれて紙が残ったんですね。そうすると私の方に向かわれて、「美穂子さん、なんか書くかな」って私に言ってくださったんですね。紙が残っていたらね。すぐに私の念頭にあったのは、その日起こったことがありましてね。それは不仲な喧嘩ばっかりする夫婦がいましてね、その夫婦が二人とも揃って来たんです。自分の言い分を聞いて貰いたくて、大拙先生に。それで二人をそこに坐らせて、どっちも自分の言い分をいうんですね。大拙先生が、「なぁ、なぁ・・」という調子で、どっちも聞かれてですね、終わった時に、「それはそれとして」と、こうおっしゃったんですね(笑い)。それは初めてのことじゃなくて、二、三回そういう状況がありました、内容は同じじゃないんですけど。「それはそれとして」という言葉をお使いになったんですね。私、これは凄くいい言葉だなと、その時は思ったんですね。それでどういうことを意味しているのか。「それはそれとして」の次の言うことが大事なのかなと思ったら、そうじゃなくて、切り替えることですね。切り替えるというのは、次元がその次元だけじゃないんだと。もっと本(もと)に別の次元があるんだということに目を付けなさいという。「仏の手だぞ」というのと一緒なんですね。私の考えている私という、以上というか、もっと深いところに問題があるんだということを指すための切り替えの言葉なんですね。「それはそれとして」というのはね。私は、「先生、それ書いてください」と申し上げたんです。その時に残った紙にね。先生、ニコッと笑われましてね。ご自分では気が付かなかったような感じでした。「それはそれとして」という言葉が、そんなに意味があるというようなことは。それでこう書いてくださったのが、こういうふうに残ったんですけどね。
 
日野原:  素晴らしいですね。今日、私、初めて見てね。こういう私は、誰かが「書いてくれ」という時に、そういう心境になかなかまだまだダメだなというふうに。これを英訳すると難しいことですね。東洋の思想がわかっていないと。
 
岡村:  人間だからいろんな次元があってですね、もっと絶対な次元が私たちを動かしているんだ、ということを言ってくださっているんだと、私はまあ感じさせて頂いたと言いますか、
 
日野原:  書かれた字の後ろに存在しているもの、それが大切だということでしょうね。
 
木村:  今、目先の現象とかいろんな事柄ばかりにとらわれ過ぎていますね。やっぱり先ほどおっしゃった事が無い、あるいは事が有る。それを超えた大元(おおもと)のことに目を向けないといけないと。
 
岡村:  相対の次元ばっかりこうあれこれするんですね。有るか無いか、白か黒か、上か下か、前か後ろか。でも量っているんですよ。量りなんですね。だけど仏さんや神様の世界は量れない世界ですから。まあ付け加えることがあるとすれば、日本におりますと、気が付かないことが一つあるなと思うのは、大拙先生は、英語という語学とそれから漢文ですね。それから少しサンスクリットもおできになりましたけど、この語学ということが大分大きい大拙先生の思想を作り上げるものになっていたんじゃないかと思えるんですね。日本語以外の言葉でものを考えるということは、大きなまた別の鏡があるんですね。言い換えてみると、どうであるか。置き換えてみると、どうであるかという。往ったり来たり、そういうところでも往ったり来たりができたということが大きいと思うんです。
 
日野原:  それで私は、大拙先生はね、「wonderful」と言ってね、「wonderful」という言葉を、シェックスピアの「あるがまま」の台詞にぶつかった時に、あ、この言葉が非常にそれを表しているなということを思いましたね。
 
岡村:  置き換えてみると、違いもわかるし、同質のこともわかるわけなんですね。これはとっても思想的に思索的に大事だと思われるんです。これから人がそれがますますできるようになっていくんじゃないかなって、望むわけですよね。語学的にもうちょっと広げてものを考えるというか、
 
木村:  「妙(みょう)」という字を「wonderful」と。インドから中国へ仏教が伝わった時にも、例えば正しい法というのを、「正しい法」と訳すんじゃなくて、鳩磨羅什(くまらじゅう)という方は、「妙法(みょうほう)」と訳したんですね。だからそれは「妙」という字を使ったところに非常になんというか奥深いものがあって、それが中国の人たちの心に通じたわけですね。でも今度は、「妙」を今度は英語に直すというのは、これはとても難しい。それを先生は大変にご苦労なさった。それで今先生おっしゃって頂いた「o wonderful」に到達される。
 
岡村:  それは一回「wonderful」ではないんですよ。何回も何回も。それでも尽きないというのが、シェイクスピアの喜劇の一つでAs You Like It(お気に召すまま)第三幕第二場よりなんですね。「yet again,most wonderful,wonderful」。「wonderful」を何回も、だから点々点(・・・)となっているんですよ。何回も言っても尽きないという。これが「妙」だということを、大拙先生がね。だから一言じゃないんですね。
O wonderful,
wonderful,
and most wonderful wonderful!
and yet again wonderful・・・Daisetz
 
木村:  「妙」という言葉も、言葉で言い表すことのできないものを「妙」と。
 
岡村:  しかもそれは「詩でないといけない」とおっしゃるんですね。「poetry(詩)の次元でないと無限が捉えられない」というお言葉も遺していらっしゃるんですね。普通の常識語じゃ枠ができちゃって、それは限界があると。しかしそれを超えた時に、初めて詩になるわけですよね。そういうこともきちっと書いていらっしゃるというのが凄いなと思います。
 
木村:  今おっしゃって頂いたようなことは、日頃私などは忘れて生活していることばっかりですから、やっぱり先生の書とか、やっぱりお書きになったいろんなものを通して、それをもう少し深く受け止めるというか、内省・内観するというのかな、今日一番重要なことじゃないかと思いますね。岡村さんが、大拙先生に、「世の中は恐いですね」という意味のことを大拙先生にお話になったら、大拙先生は、目に涙を浮かべて、そして「これで私も安心して死ねる」なんかそのようなことをおっしゃったということを、どこかで記していらっしゃいますけど、そのことをもうちょっとお聞かせ頂ければと思います。
 
岡村:  そうですね。どういうことがその日にあったのか、私は覚えがないんですけどね。なんかあったと思うんですけどもね。その日の先生が眠りにつく前に、余談話やっていまして、「先生、この世って恐いところですね」と言っちゃったんですね。「恐いところなんですね」と言ったらば、先生が、私の目を―寝室のベッドに入っている間に―じっとこう見ておられて、「それがわかったか。これでわしは安心して死ねる」とおっしゃってくださったんですね。どういう意味か、先生の意味というのが―私がいつも暢気だから、これから生きていくというのに危機感がない人間のようにお見受けしてくださったのかなと思ったりするんですけど、「これでわしは安心して死ねる」とおっしゃったんですね、言葉上ね。それでちょっと目にこう潤いが―涙があったのが記憶にあるんですけどね。先生の涙というのは、ものを同質に見るということがあるんですね。猫を見ても、ムカデを見てもですね、人の話を聞いていても、なんか同質のものが感じられて、
 
木村:  共感のようなもの、
 
岡村:  共感ですけどね、本来同質だと思っていらっしゃると思うんです、生き物を。みんな生き物ですよね、あの葉っぱ一枚とってもですね。それに心が触れるというかな、それに触れる時には、やっぱり涙ぐむということがあったように思うんです。なんか世界中全部同質なように思われておられたなというのが、私ね。
 
木村:  そういうことを感じられた時に涙を浮かべられる。
 
岡村:  そうなんですね。静かなんですけどね。なんかそれを感じていらっしゃるなぁというのが、私はそばに居て拝見することがいくつかありましたですけどね。葉っぱが風が吹いてこうしているという、葉っぱがこう揺れているのをご覧になっていても、なんか懐かしいというのかな、懐かしさですね。どっか同質だからね。自分が触れているという感じがするのかもわかりませんし、なんかそういう優しさがありましたですね。「優しい」と言ったらちょっとなんかフニャッとなっちゃいますけど、そうじゃない、やっぱり生きていて良かったなというような、これが見えてよかった、一緒にいるのがいいなっていう、そういう感じがどっかにあったように思いましたね。
 

 
ナレーター:  一九六六年七月十二日、九十六歳を目前にして、大拙は息を引き取りました。岡村さんは、その時のことを後にこう語っています。
 
先生が動かずに横たわっていられたことが、生きていられることの続きのように思えて、生きている先生と死なれた先生の間に、さほどの大きな変化の起こったような気がしなかった。
 

 
岡村:  「いつ亡くなったか、死と生の間がわからなかった」と申し上げたんですよね。そうしたらば、私は思うのには、先生は生きながら死んでおられたということに気が付くんですね。普通だったらそういう矛盾したことはいけないと思うんですけども、至道無難(しどうぶなん)禅師という方の有名な偈があることに、随分後になって気が付くんですけども、その通りの大拙先生だったなと思うんです。それは、
生きながら死人となりてなり果てて
思いのままにするわざぞよき
 
という偈なんです。生きながら死人となるということも全部解脱ですね、解脱というか解(ほぐ)れたというか、
 
木村:  そういうことをなり果ててという。だから生きながら死人のようではダメなんだけども、死に果てて、思うが如くなすわざぞよし、
 
岡村:  そういうわけなんですね。そういう偈があるんですね。大拙先生そのままだなぁと。だから欲はありますよ、人間ですからね。しかしそれが尾を引かないんですね。その尾を引くというのが、「我」ですからね。「自我」ですからね。そういうのがなかったなというのが、私は、先生が亡くなられたあの時、日野原先生に、「生きておる時と死んだ時の境目が感じられない」ということを申し上げたんですけどね。
 
日野原:  そうですよ。まったくそういう禅的に言えば、禅の中枢にタッチして仏になったという気がしますね。
 
木村:  仏教では、「生死」が、「不二」だとか、「一如」とかと言いますが、そのまんまのお姿という感じだったんでしょうかね。
 
岡村:  そうだと思いますね。死がないわけじゃないんです、あるわけなんですけどね。そういうことがあってもなくっても、一緒と言ったらおかしいですけども、それがわかったならば静かになるんじゃないでしょうか。つまり安らぐんですね。
 
木村:  鈴木大拙先生の最期に立ち会われたそのことが、日野原先生のその後の生き方と言いますか、それに何か大いに影響しているようなことがございましょうか。
 
日野原:  人生の終わりは、このような静かな環境の中で、もうみんなが十分なことをやってくれたんだから、私はもうあの世に行ってもいいんだなというふうな感じを、私はホスピスの入院患者の末期にも、そういう感謝をして死を受け入れたというケースがある、その死に方。これも、私、鈴木大拙先生から教えられたことの大切な一つのじゃないかと思いますよ。
 
木村:  おそらく岡村先生の中には、ある日ながらの大拙先生がいつもいらっしゃると思うんですけども、
 
岡村:  出会いそのものが奇跡のように思っておりますけれども、まだまだとても先生のおっしゃることが十分にわかったとは言えないんですけども、まあしかし奇跡です。それでこれからまだまだ長い道程がある、そういうふうに教えて頂いたと思っております。
 
日野原:  私は、「人生は出会いだ」というふうに私は考えています。出会いこそがやっぱり私たちの魂の接触点であり、そこに学ぶことが多いんじゃないかとそう思っております。
 
木村:  そうすると、やっぱり今ここに生きるというか、今というところがとても大切に、掛け替えのない今ということになるわけですね。今日は本当にございました。いろいろご教授を頂きました。
 

 
ナレーター:  いのちのすべてを慈しみ、十代で希望を失っていた少女に生きる道を示した鈴木大拙。この世を去っておよそ半世紀。大拙の存在は、今も岡村さんを導いています。
 

 
岡村:  「先生、来ましたよ」。「先生、喋ってくださっていました。嬉しい。ありがとうございました」って。本当にお礼をほんとに言っても言っても足らないくらいそういう気持で毎日勿体なかったなと思って感謝申し上げております。生きながら死人となりて、ずっと。だから死にながら生きながらという感じも、逆も言えるんじゃないかというぐらいに教えて頂いたような気がしたんです、その時に。それがずっと今日まで続いているような気がして。ですからそこにおられるような。「まだそこでもたもたしているのか」なんて言われそうなんですけどね。もたもたするのも人間かなと思ったり、もしかしたらどっかで許して頂いているかなって、自分で甘いことを思っております。
 
     これは、平成二十五年十二月一日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである