イエスと歩む沖縄
 
                   牧師 平 良(たいら)   修(おさむ)
一九三一年、沖縄県平良市(宮古島)生まれ。四四年、旧制宮古島中学一年のとき台湾に疎開し、翌年、敗戦を迎える。四五年、宮古島に帰島し、宮古中学(後の新制宮古高校)に進学。四八年、キリスト信仰による受洗。五二年、琉球大学英文科三年中退の後、パスポートをもって東京神学大学に留学。五九年、米軍基地の町コザ中の町の沖縄キリスト教団上地教会牧師に就任。六四年、再びパスポートをもって国際基督教大学(東京)に留学。六五年、ジョージ・ピーボディ教育大学(米国)に留学。信仰と生活の一大転機を体験。六六年、沖縄キリスト教短期大学学長に就任し、日本復帰の激動期を生きる。七四年、日本キリスト教団桟敷教会牧師に就任する。沖縄良心的軍事費拒否の会代表、一坪反戦地主代表世話人。著書に「沖縄にこだわりつづけて」「小さな島から大きな問い」ほか。
 
ナレーター:  毎月第四日曜日、沖縄の自宅から一時間かけ、小さな伝道所に向かう人がいます。生まれ育った沖縄で牧師生活五十四年目を迎えた平良修さんです。
 
平良:  つまらん話で、いつかは教会の帰りにあの食堂に寄ってみたいと思っているの。看板が大きいからね。なんか楽しそうな感じがして。まだ果たしていません。そのなことも思いながらここを通るんです。
 
ナレーター:  信徒の数が二十人にも満たない教会は、「伝道所」と呼ばれます。平良さんがやって来たのは、専任の牧師がいない「うふざと伝道所」。この日の礼拝説教は、「小さな群れよ、恐れるな」という聖書の一節でした。一般の民家を借りて設けられた伝道所に、六人の信徒が集まりました。
 
平良:  勝れた人たちを全員選(すぐ)って教会員として、神様が、キリストが寄せ集めたグループではないんですよ。教会は数の問題ではありません。質の問題です。キリストの小さな弱さがその教会の本質であるような教会であり続けるしか、教会は存在し得ないと思います。高いところから見下ろして行動を起こした方ではないんですよ。まさに苦しい思いの中に身を置いて、そこから歩いた方です。すべてが満たされていて、高いところから余裕をもって見渡せるようなことができるような形では、どうしてもキリストにおける神の働きというものをほんとに共有できないだろうと思うんですよ。また違う。立ち位置が違うからです。
 
ナレーター:  沖縄が復帰する前の一九六六年、牧師としての平良さんの言動を内外のメディアがこぞって取り上げ、大きな波紋を呼んだ出来事がありました。沖縄の統治者として、当時絶大な権力を揮(ふる)っていたアメリカの高等弁務官が交代し、就任した時のことです。沖縄の牧師として祝福するよう呼ばれた平良さんは、就任式の場で、「これが最後の高等弁務官になりますように」と神に祈ったのです。以来四十七年、平良さんは、米軍基地の存続に不安を抱え反対する人々と共に歩んできました。住宅密集地にある普天間基地。そのゲート前に今は週に三日、夜が明ける前から立ち続けています。沖縄の牧師として沖縄に拘り、自らが信じるイエスの道を進む。平良さんが、そのような信念に至るまでには、さまざまな出会いがありました。もともとクリスチャンではなかった平良さん。その人生の原点は、生まれ育った沖縄の離島宮古島(みやこじま)にあります。
 
平良:  沖縄で生まれ、沖縄で育ち、沖縄で働いて、多分沖縄でこの生涯を終わるであろう自分とすれば、沖縄でどのような生き方をするのかということは、まさに真剣な課題です。私の沖縄意識というのは、確かにだんだんと方向付けられてきて、固められ、深められてきたことですね。初めは沖縄意識というのを、むしろ捨てようと思っていたんですよ。沖縄意識をもつことは不幸なことだったんですよ。どういう意識をもつべきか。日本人意識ですよ。ほんとに徹底的に日本人になることを誇りに思って、寸分も疑うことなかったですね。ですからズーッと優等生で級長をしましたよ。今考えると、優等生というのは、先生の「言う通り生」なんですよ。先生の言う通りしない人は優等生になれないです。それで沖縄の言葉を使ってはいけないということが、一つの具体的な事例としてありましたからね。私は、沖縄の言葉は、宮古の言葉―私の両親は那覇の出身なんですよ。ですから那覇から宮古に移住して、ここで商売していて、兄弟みんな宮古で生まれたんですね。だから両親は、家では―二人の間では那覇の言葉使っていました。ですから那覇の言葉も宮古の言葉も、聞くことはかなり自由にできたんです。話すことはほとんどできませんね、未だにできません。沖縄戦が始まる前に、約十万人ほどの疎開者を沖縄県は送り出したんですね。南九州、台湾に。私は、宮古島で生まれましたから、台湾に近いもんですから、台湾に疎開したんです。そして台中(たいちゅう)第二中学校というところに転校しました。私は感じたことは、台中二中の軍事教練の甘いこと。これでほんとに日本人教育としてまともかどうかと、私は疑いましたし、多少軽蔑の感じはありましたよ。例えば赤白の旗を持った手旗信号ね。これなんかは私はほんとに完璧でしたよ。どんなに早く振っても読めました。どんなに早くでも振れました。沖縄の人たち一般的に言いましたら、普通のレベルじゃ日本人に間に合わないんですよ。一般的なレベルの日本人以上の日本人にならないと、そのレベルの壁敗れないんです。だからほんとにひたすらに立派な日本人になる。誰からも後ろ指さされないような、それこそ天皇さんから褒美が貰えるぐらいに日本人になるということが、必然的な私たちの方向性だったんですよ。私は、沖縄地上戦で二十万人の人が死んで、その半数以上が沖縄の民間人であったという事実の中に、いろんな私は事情があると思うんですね。一つは、やっぱり共通に養われていった立派な日本人になららければ、自分たちはこの苦境から救われないという感覚ですよ。日本人らしく受け入れられたいという思いです。しかし敗戦でしょ。私、そこで初めて日本人としての自分のアイデンティティ(identity:主体性、自己の存在意識)の問題を初めて経験しました。クラスに内地人ではなしに、台湾人の学生が少数いたということが後でわかったんです。名前まで覚えていますよ、顔まで覚えていますよ。梅村という仲間でした。彼が、日本の敗戦後はクラスで自分たちを虐めた日本人―内地人に対する報復を始めたんですよ、暴力行為を。教室の椅子を振り回して殴りつけるんです。特に荒っぽかったものを第一の標的にしてね。それで何十名かの内地出身の日本人たちはガタガタ震えて手も足も出ないんですよ。隅っこで固まって脅えていました。私もそこに行こうとしましたら、彼が言ったんですよ。「平良、お前は琉球だから別だ。離れておれ!」と言われたんです。台湾の人から見たら、琉球は自分たちの仲間だと、友人だと、隣人だという感覚でもってね―歴史的にそうですから、似ていたんでしょうね。だから台湾人虐めの復讐の対象にはしなかったんですよ。これは私は生まれて初めて、一体自分は何人(なにじん)なのかということを考えさせられる非常に大きなショッキングな経験でしたね。
 
ナレーター:  那覇から空路およそ一時間弱、平良さんの生まれ故郷の島宮古。平良さんは、今、月に二、三度宮古島に通い続けています。宮古島伝道所。平良さんが高校生の頃に洗礼を受けた教会の流れを汲む伝道所です。一年前、専従の牧師がこの世を去ってから、平良さんは代行の牧師を務めてきました。この日は亡くなった牧師や信徒に祈りを捧げる日でした。
 
信徒:  小さな教会をほんとに守ってくださった先生ですよね。ほんとに感謝しています。私は、最近病魔に冒されて、頭もおかしくなり、教会生活は続けられないと諦めていましたけれども、みなさまのお陰で、みなさんが付き添ってくださるお陰でこうして来ることができました。ほんとに感謝しています。有難うございます。いろいろ教会の中で聖書の開けられない人の傍で一緒に賛美歌を歌ってきましたけれども、まさか私の番になるとは想像もしていませんでした。どうかそういう私も、神様はゆるして、杖をつきながらも教会に通わせて頂くことができ、ほんとに感謝にたえません。主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン。
 
ナレーター:  平良さんは、戦後、疎開先の台湾から宮古島に戻りました。平良さんが通った宮古高校。それまで信じていた立派な日本人になるための軍国教育は、手の平を返したように変わっていました。そんな時、平良さんの前にある人物が現れます。宮古女子高校の校長として島に帰って来た国中寛一(くになかかんいち)という牧師でした。国中牧師は、それまで宮古島になかったキリスト教の教会を作り、伝道活動にも乗り出していました。これから先、何を信じ、何を自分の指針として生きていけばよいのか。平良さんは、偶然訪ねた教会で国中牧師と出会い、その後の人生を大きく変えていきます。
 
平良:  私、あれほど信じていたものが、そうではなかった、ということになった時に、それだったらほんとに信じていいものはあるのかと。それは何なのか、という問いですよ、私の問いはね。そういう時に宮古で初めて宮古キリスト教会という教会ができて、私の友人がそこに先に行ってましてね、私を誘ったんですよ。「平良君、君は音楽が好きだろう。教会に行ったら楽しい音楽があるよ、聞けるよ、歌えるよ、楽しめるよ」と言ってね、音楽でもって私を誘ってくれたんですけど、私はすぐには行きませんでした。でも何度かの誘いを受けて、私は試しに行ってみようかな、覗いてみようかな、という程度の感覚で行ったんです。そうしたら、私、久しぶりにほんとに確信をもって語る人の顔に出会ったんですよ。もう毫(ごう)も疑わないというか、迷わないという確信そのものの言葉を語る人物に会ったんですね。そして嬉しそうな顔なんですよ。人間というのは、これほど嬉しそうな顔ができるもんかと、私は思いましたね。私はそれには惹かれました。久しぶりに惹かれました。でもそういう確信をもって、たくさん歌も歌わせた教師たちに欺(あざむ)かれたという経験がありますからね、簡単にはいかんよと、私は斜めに構えていたんですよ。彼が、なんかしどろもどろというか、はっきりしない人だったら、私はそんなに引っ張られなかったと思いますけどね。出会いの時に説教するでしょ。説教の直前まで彼は飴玉しゃぶっているんですよ。こういうところで牧師さんが飴玉をしゃぶっている。説教の前に飴玉しゃぶっている牧師さんというのは、おそらく前代未聞(ぜんだいみもん)じゃないかな。古今東西そんな人はいないと思いますけどもね、飴をしゃぶっていたの。私は、なんという不謹慎な、という思いはあったけど、その理由を知ってからですね、非常に打たれました。肺結核が高じていて痰が溜まってくるんですね。その痰を飴玉の甘い汁でもって、その都度飲み下していたんですね、説教の直前まで。熱でもって顔が赤く火照(ほて)っているんですよ。飴玉でもって痰を飲み下すような努力をしながら火のような説教をしたんです。火のようにね。これは嘘だったらこんなことできないだろうと、私は思いました。少なくともこの人はほんとのことを語っている。自分の信ずることを語っている、と思いましたね。それに私は打たれたということあります。私は、私の理屈を超えた、私の知らない真理というものがあるだろうという謙遜な気持はもっていました。だからそこに触れたわけ。もしこれが嘘だったら、私の人生はガラガラと嘘の人生で崩れていくかも知れない。そういう可能性もあるかも知れないけども、それはないというふうに思い定めて、高校の三年の時に洗礼を受けたんですね。私はこれで賭けました。これでいいと思いましたね。
 
ナレーター:  平良さんが通った国中牧師の教会は、戦後の荒れ果てた建物を間借りし、転々と移りました。その一つが宮古神社でした。神職が居なくなった宮古神社を借り受け、みんなで修繕。国中牧師と平良さんたちは屋根に十字架を掲げました。
 
平良:  神社の廃虚の屋根の上に十字架を立てるということは面白いじゃないかというような発想で、みんな喜んで、「やろうやろう」ということで。楽しい不思議な感じがします。これが自分たちの教会だったと思ったら。
 
ナレーター:  国中牧師は、平良さんたち若者に、具体的な行動を通して、自分が信じるイエスキリストの道を伝えました、教会での礼拝が終わると、みなをトラックに乗せ、毎週共に宮古島のハンセン病施設を訪ねていたのです。宮古南静園(みやこなんせいえん)。当時ハンセン病施設は島の片隅に有刺鉄線を張って隔離され、患者たちは子どもを産むことを禁じられるなど不当な差別を受けていました。国中牧師は、小さい者、弱い者の傍らにいたイエスキリストの教えを、入園していく患者たちに伝え励ましました。平良さんたち若者にも、積極的に患者と会い、そこから学び交遊することを勧めました。南静園は、今医療施設として主にハンセン病の後遺障害の治療や介護などを行うと共に、一般外来でも皮膚科や内科の診察をしています。現在の入園者は七十五人。その中にかつて平良さんが訪ねていた頃からずっとここに暮らしてきた人がいます。平良さんが会うのは高校卒業し、宮古島を離れて以来のことでした。
 
平良:  何を持っておられたんですか?
 
小禄:  これ先生の姿。これ賛美歌。国中先生がよく歌われていた。好きな賛美歌。
平良:  (賛美歌歌う)
「罪の世びとらに」聖歌七一○
罪の世びとらに 血しおのいずみを
ひらきて救いを あらわししイエスよ
おりよりはなれて 迷いしわれをも
白くなしたまえ きみの血しおにて
雪よりも雪よりも白くなしたまえ
血しおにて血しおにて
 
この歌は一緒に歌った、よく歌いました。私もこの歌よく覚えていますよ。国中牧師さんてどんな人でしたか?
 
小禄: 綺麗な人だったの。好男子。話の上手い人だった。
 
ナレーター:  小禄(おろく)さんは、南静園の中で国中牧師から洗礼を受けました。南静園の片隅にある納骨堂。国中牧師は、墓を建てることを望まず、南静園で亡くなった人々と共に、ここで眠っています。肺結核の病を押して伝道を続けた国中牧師がこの世を去ったのは、四十歳の時でした。平良さんが、国中牧師に最後に会ったのは、大学進学のため宮古島を離れる直前でした。そこで交わした約束が牧師になる道を決めました。
 
平良:  出発前にお別れの挨拶に伺ったんですよ。そうしたら病床で痩せ細った手を伸ばして、私の手を握られて、「平良君、教会の後を頼む」とおっしゃったんです。私、その前の年の夏、洗礼を受けたばっかりの高校三年生で、卒業して、それこそ一週間前後のうちには宮古から離れるわけでしょう。だからその教会におれないわけですよ。それを「頼む」とおっしゃった。私はその時に、「いやぁ、先生、無理ですよ。私、宮古から離れるんですから。私みたいな高校卒業したばっかりの若造ですから」と言ったふうな、いくらでも理由が言えるようなことを口に出すことはできませんでしたね。「わかりました」というしかなかったですよ。できるできないは論外でしたね。何ができるかということもまったく計算外です。ただひたすらに「頼むぞ」と言ってくれた彼の心情を、私は少なくともあの場所では百パーセント受け止めることが、彼に対する誠実さだと、私は思いましたから、「わかりました」と答えたんですね。そういうことでもって、私は、激しいひたすらな信仰者であるところの国中牧師に出会うことでもって、その出会いを通してキリストに出会ったんです。私ね、キリストの言葉で言うんだったら、非常に決定的に大事だと思っているのは、キリストが、
 
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。
(「ヨハネによる福音書」第十五章)
 
という言葉があるんですよ。これは決定的なことですね。私の尊厳というものは、私の如何によらないんですよ。私がどんなに堕落しても、私の尊厳は消えないんですよ。神によって打ち込まれている尊厳なんですよ。私、こういう人間かは、クリスチャンになって初めて知りましたね。人間という見方がすっかり変わりました。人間観変わりました。勿論自分自身に対する自己理解が変わりましたよ。私はそういう人間なんだと。キリストが、私のために代わりに死んでくれたほどに値高い人間なんだということを、私はそれまで知らなかったですよ。値高さは、しかし私に限定されているわけではない。すべて人にそれは平等に保証されている値高さなんですね。神は同じだけの尊厳を、あの人にもこの人にも漏れなく例外無しに与えさせてるんだという人間理解ですよ。だったら人間を粗末にできないでしょう。神がその中に隠されているんですよ。キリストが重なっているんですよ、人が人というのは。単なる人間じゃないのね。キリストがその中に隠されているというか、存在している。命がかかっている存在なんですよ。
 
ナレーター:  一九五二年、平良さんは、米軍が統治する沖縄から渡航証明書を携えて日本の本土に留学。東京神学大学に入学しました。学費の多くは、米軍の教会によるものでした。大学院まで進んだ平良さんは、七年後、沖縄に戻り、嘉手納基地を抱える街コザ市(現在沖縄市)で牧師としての第一歩を踏み出します。学生時代に知り合った妻悦美(えつみ)さんと共に住んだ新居は、アメリか兵と沖縄女性が同棲する部屋の隣。穴の開いた床から朝日が差し込んでくるような家でした。教会は、自宅から徒歩三分、嘉手納基地のゲート近くにありました。学費を出してくれた米軍の教会に感謝しつつ始まった牧師生活。平良さんは、当時の自分や沖縄の教会が、米軍の統治に不安を抱きながら暮らす人々にしっかり目を向けていなかったと考えています。
 
平良:  奨学金をくださった米軍のチャペルに、数名の卒業生揃ってお礼に行ったんです。「あなたがたの献金を貰って神学校生活を終えて帰って来ました。牧師になりました」と言って報告に行ったわけです。そうしたら向こうのチャプレン(Chaplain)は凄く喜びましてね、当然喜ぶでしょうね。占領者、非占領者という政治的な違いを越えてね、キリストにある愛の行為として彼らの善意が寄せられている。それを感謝して貰って、それを使って、やっぱり教会の仕事にそれを返していくということ、それほど祝福された大事なことなのだという誇らしい気持もありましたね。神学校を出て牧師になって勤めた最初の場所が、嘉手納基地のすぐ側ですから、たくさんの米兵が出入りするわけですよ。そしておやっ!というような場面もたくさん見るわけですよ。例えば私の妻なんか時々「姉さん一緒に行こう」と言ってね、強引に誘われそうになったことがあるんですね。何度かありました。そういうことも覚悟しなければ生活できないような基地の街でしたね。コンセット(米軍払い下げ簡易兵舎)の上地(じょうち)教会にも時々米兵がやって来ましたからね、一緒に礼拝に参加したり、それからその米兵に誘われてゲートを通って基地の中の教会に案内されたこともあったし、普段は乗ることもできない大型の立派な軍のバスに唯(ただ)で乗せて貰って、しかも入れないゲートを通って基地の中へ入るわけでしょう。到着した場所は大きな建物で、コンセットのような生活しか普段見ていない者にとってはそれこそ立派な御殿ですよ、建物なんか。そして煌(きら)びやかな装飾があるし、華やかな集会があるし、しかもみんなクリスチャンの信仰でもって一致している集会だから、心がやっぱり一つじゃないですか。みんな満足感に浸(ひた)れるようなそういう雰囲気ですよね。だから一般の沖縄の仲間たちが入れないところに入って行って、乗れないバスに乗って、我々は参加した。それは何故か。クリスチャンだから、教会員だからということですよ。それ事実なんですよね。そういうことで経験を積み重ねていく中で、私個人だけじゃなしに、上地教会だけではなしに、沖縄の教会総体としてなんか定着してきたという姿勢ですね。米軍によって足を踏みつけられている一般の沖縄の住民たちからちょっと離れて、足を踏みつける側の米軍の側に身をすり寄せるような形で教会はあったわけです。クリスチャンなればこそ、これができるのだというね、なんか特権階級みたいな感じですよ、どっかで。アメリカ人の前に出たらグッと落ちますけどね、一般の沖縄市民からすると高いわけですよ。そういうどっか特権階級的な感覚をもつような教会になっていると思いますね。
 
ナレーター:  基地の前で牧師をしながら見失っていたもの、上地教会に赴任して六年後、それを突き付けられる転機が平良さんに訪れます。一九六五年、平良さんは、アメリカ南部テネシー州にあるジョージ・ピーボディ大学に留学しました。沖縄に在学したキリスト教学院短期大学の次期学長に推挙され、教育学を修めるための留学でした。ある日平良さんは、白人の友だちに誘われ、教会で開かれた黒人の集会に参加、衝撃を受けます。当時アメリカでは、人種差別の撤廃を訴える黒人の公民権運動が高まりを見せていました。平良さんが見たのは、運動の最中で犠牲となった仲間を偲び、黒人たちが霊歌「ゴスペル」を歌う姿でした。その歌声が平良さんの心に強く沖縄を呼び起こしていきます。
平良:  この歌は、「Nobody Knows the trouble I've Seen」(『賛美歌第二編』二一○番「わが悩み知りたもう」の原歌)という、この英語の歌は、「誰も知らない私の悩み」という黒人霊歌ですね。
 
誰も知らない私の悩み
誰も知らない私の悲しみ
誰も知らない私の悩み
主に栄光あれ
 
時には陽気に
時には落ち込み
時には倒れる寸前まで
ああそうです主よ
 
もし先に着いたのなら友だちに伝えておくれ
俺もすぐに主のもとへいくから
 
と激しい勢いでした。私ね、言葉にならない感動というか、ショックというか、それをまともに受けましたね。嵐のようにですね、私は圧倒されたんですよ。自分たちの悲しみは誰も知らないと。知ってくださるのはイエスさまだけだ。イエスさま、なんとかしてくれ!という訴えでしょう。私は、こういう自分の苦しみを知ってくれと訴えている激しい歌が、沖縄でも歌われていた。それは私の耳には届いていなかった。知ってはいるけども、届いていなかった。私の歌になっていなかった。私は、沖縄の教会の牧師として働いているわけでしょう。で、教育の仕事もしようとしているわけだけども、この沖縄の現実の激しい慟哭、悲しみ、嘆き、叫び、胸引き裂かれるような訴え、それが耳に届かない。自分の声にならない。自分の思いにならない、という状況で、ほんとに沖縄で牧師として働くことができるのか、という思いですね。つまりアメリカの体験によって、黒人体験を通して、沖縄というものに対する見方、沖縄にある自分というものに対する見方が、また教会というものに対する理解の仕方がほんとに様変わりしましたね。そのことは二回目のイエスキリストとの出会いだと思っているんです。さらに深いレベルで、私はイエスキリストに出会わせて貰ったと思っているんですね。ここで一つ、私、聖書の言葉を紹介したいんですけどね。それは『新約聖書』の「マタイによる福音書」二十五章にある言葉です。とても大事なところですね。
 
『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
 
つまり苦しんでいる者に対して助けて慰めの手を伸ばすということを、即それは私に対してくれている方なのだと。それをしないということは、私を突き放しているということなのだ、というふうに完全にそれをイコールで結んじゃうんですね。だからつまり彼らは苦しんでいる人たちは小さなキリストなんですよ。だから小さなキリストを大事にしないでいて、何でキリストを大事にしたと言えるのか、ということですね。私はやっぱり黒人霊歌を歌わざるを得なかった人たちは、そういう意味では小さなキリストなんですよ。沖縄の民衆もまたそうだと思いますよ。だから彼らが一緒にいて、彼らと一緒に汗を流し、一緒に歩き、一緒に飢え、一緒に渇き、一緒に食べて、一緒に喜ぶということをしなかったら、私は、キリストに随う者ではないということですね。私は、黒人との出会いでもって、沖縄の米軍支配の元で阻害されている者たちの側に、主イエスは立ち給う、という確信をしたんです。支配している余裕綽々の特権階級であるところの米軍の側ではなしに、彼らはよって苛まれている沖縄の痛める民衆の中にこそキリストがおられると。
 
ナレーター:  黒人たちとの出会いによって新たに開かれたイエスの道。小さな者と生きる牧師としての目覚めを得て沖縄に戻った平良さんを待っていたのは、新しい高等弁務官の就任でした。米軍統治下の沖縄で強大な権力を握り、帝王と恐れられていた高等弁務官。その就任式でアメリカ留学の経験をもつ平良さんは、祝福の祈りを捧げるよう求められたのです。
 
平良:  これが例の高等弁務官就任式の時のスクラップブックです。
 
ナレーター:  平良さんは、自分の立ち位置を明らかにした式典の顛末を大切に保管しています。
 
平良:  これがステージの写真です。この一番端っこにいるのが私です。私が頼まれて祈った祝福の祈りの英語のその時の原稿です。
ナレーター:  最初に演台に立った平良さんは、神に、「新高等弁務官が沖縄にとって最後の高等弁務官になりますように」と祈りました。「神よ、沖縄にはあなたの一人もイエスキリストが命をかけて愛しておられる百万の市民がおります。高等弁務官をして、これら市民の人権の尊厳の前に深く頭を垂れさせてください」。平良さんの祈りは、沖縄の人々に大きな共感を呼び起こした一方、アメリカの新聞は、牧師が政治と宗教の二股をかけたと報じました。さまざまな反響が渦巻くなか、平良さんは、祈りの意図を、「人が人を力で支配する世界ではなく、人間としての尊厳が大切にされる世界への訴えにあった」と語っています。
 
平良:  要するに、私は、はっきりとイエスキリストの道に自分を立つと。権力者の道には立たないと。私は仕えられるためではなく、仕えるために来たのだと。そういう精神に立って生きることを、私の今後の方針としてやりますから、軍事力をもって沖縄を統治しようとする権威のあり方に対しては、私ははっきりと否を称えますと。今後は米軍とは一切協力はしませんと。米軍支配、米軍統治は拒否します、というような宣言にもなるわけですね。そういう意味で、私は、ある意味では背水の陣を敷いたようなところがありました。でも物々しい宣告や宣言を突き付けるみたいな、そんな固い意識じゃありませんよ。柔らかく「いいかな? 聞いているかな? わかりますか?」という感じですよ。高等弁務官が支配をするという状況はよくないと、沖縄にとって。またアメリカにとってもよくないこと。私は沖縄にとってだけ善かれというんじゃなしに、沖縄を軍事支配をしているアメリカのためにもよくないから止めにしようと。もうせっかく来たんだから、任期だけは全うしなければならない。就任式だからね。退任式だったら、さようならすればいいけども、今日から始まるんだからね。「始まるについては、ちょっと注文があります」ということを言ったんですよ。「注文」なんて言いませんけどね、例えば「私の祈りをつとめてくださるイエスキリストは、人々の足を洗うという形において、自分の権威というものを行使した人だと。沖縄には、そのイエスキリストが命をかけた百万の大事な人たちがいると。彼らの尊厳の前に頭を垂れて、彼らの足を洗うつもりで高等弁務官たちは職権を果たせ」と、私は述べているんですよ。それで今一つ、私が問題にしているのは、この中で「新高等弁務官が最後の高等弁務官となり、沖縄が本来の正常な状態に回復されますように切に祈ります」と。「沖縄の正常な姿への回復」ということを祈っているわけですよ。その時考えた「正常な姿とは何か」と言ったら、「異常な米軍支配から解放されて、平和憲法の日本に戻る」ということだったんですよ。それが正常だったんです、あの時の私の感覚では。あの時には多くの沖縄の人と同じように、私も、正常な姿というのは、「沖縄県の回復だ」と、私は信じていました。しかしその後ズーッと沖縄県は回復してからも、現在に至る沖縄の状況を見ると、生々しく経験してきている中で、今のような状態は本当に沖縄にとって正常な姿なのか、ということを改めて私、問い直しています。
 
ナレーター:  高等弁務官の祈りから六年後、沖縄は日本に復帰しました。しかし果たして沖縄は正常な状態になったのか。平良さんは、伝道活動と共に、今も存続する基地に牧師の立場から反対してきました。米軍基地キャンプシュワブがある名護市(なごし)辺野古(へのこ)。普天間基地返還のため、海を埋め立てて新たな滑走路を造るとされた移設候補地です。平良さんは、現在妻の悦美さんと共に、週に三日、片道二時間あまりをかけて辺野古に通っています。
平良:  おはようございます。
 
ナレーター:  現在、日本政府は、辺野古の埋め立てを承認するよう、沖縄県への働きかけをますます強めています。新しい基地に反対する人々にとって、厳しい状況が押し寄せるなか、平良さんは、現実に向き合いながら牧師としてどのような抵抗すべきか考えています。妻の悦美さんは、工事に向けた海上での調査を食い止めるためカヌーを習い、四年前には小型船の操縦免許も取りました。
 
平良:  辺野古の新しい基地造りを食い止めようとする。基地を造ろうとする政府側の職員たちも出て来ているわけでしょう。「私たちは、あなたたちを新しい基地造りによる結果として、戦争による人殺しの手伝いをして欲しくないんだ、させたくないんだと。そういう思いで抵抗しているんだ」と、そういう対話を繰り返し繰り返し交わしたんですよ、ぶつかる中で。アメリか兵に対して、「私たちは、あなたたちはもう加害者になって欲しくないんですよ。互いに加害者になることを止めようと。みな同じ人間だから。同じ価値をもっているんだ。だからそういう価値をもつ人間として、私はあなたを尊重します。しかしあなたの行為に対して、私は反対します。あなたの尊厳に相応しくない行為だと私は思うから、それは止めて頂戴」ということですよ。聖書の中に、「マタイによる福音書」ですけども、ある人がキリストに対して、「神の戒めの中で一番何が大事ですか?」という質問をしたということがあるんですね。その時に、
 
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
(「マタイによる福音書」二十二章)
 
キリストは、全力投球をしてあなたの神を大切にしなさい。愛しなさい、ということだけども、砕いて言えば、大切にしなさい、ということでしょう。そして第二も、これと同じことであると。自分自身を大切にするように、あなたの隣人を大事にしなさいと。これが神の掟のすべてだと。それ以外はない。それ以上のものもないとおっしゃった、ということがあるんですね。目に見えない神を愛すると言っても、これ抽象的で、やっぱり人を大事にするということを通して神を大事にしているということを現すしかないと。例えばユダヤの社会では、安息日(あんそくにち)というのは絶対労働をしてはならない。神の前に静まる日であるというのが安息日なんですね。イエスキリストは安息日に病人を癒しなさったんですよ。これ医療行為ですよ。一種の労働ですよ。だから「彼奴は労働してはならない日に労働した」と言って、支配階級からは非難攻撃されたんです。その時に彼は言いましたね、
 
「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主である。」
(「マルコによる福音書」第二章)
 
「安息日は、人間のためにあるのであって、安息日のために人間があるのではない」と、彼は言い切りましたね。絶対しないんです。そういうものはすべて人間のためにあるのである。人間がそのためにあるのではない、とはっきりしていますよ。敢えて彼は、人間のためには伝統を破ったんですよ。習慣を超えたんです。法律を破ったんですよ。そういう意味で彼は、なんかそういう意味では、どっか彼は過激ですよね。要するに過激派なんだ、イエスキリストというのは、そう思いますよ。でも問題は、どこに向かっての過激派なのかということですよ。何のために過激だったのか。それはやっぱり人間を大事にするということなんですよ。そこに向かっての彼の過激な生き様があったんです。例えばキング牧師(Martin Luther King, Jr.:アメリカのプロテスタントバプテスト派の牧師である。キング牧師の名で知られ、アフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者として活動した。1968年、白人男性に銃撃され死亡:1929-1968)だって、バス・ボイコット運動(高校時代には討論大会で優勝したが帰り道にバスの中で白人から席を譲れと強制され、激しく怒った。これが後のバス・ボイコットにつながっていく)をやったんじゃないですか。あれなんか過激じゃないですか。何のために過激だったんですか。黒人の人権獲得、黒人の解放のためでしょう。ほんとに彼は命をかけ、命を奪われたんですよ。命を奪われるぐらい過激な行動をしたんです、彼は。でも破壊のための過激じゃないんですよ。建てるため、創るため、築くための愛するが故の過激な行動だったんです。まさに私はキング牧師は、イエスキリストに習ったんだと思いますね。要は、私たちは、常識的に波紋を起こさないような生き方が、必ずしも義に適っているわけじゃないんですね。時にはやっぱり抵抗しなければならないし、波紋を起こさなければならないし、「何であなたは牧師さんなのに、その労働組合の幹部みたいなことをやるんですか?」って、手紙をくれた人もいますよ。「もっと霊的なことだけ話をしてください。平和のことなんかは、牧師さんに相応しくない」という忠告をくれた人がいました。そういうなんか誤解を与えた教会の責任、教会の自己理解がやっぱり狭いわけですよ。私は、いつも思いますね。教会は、自分たちの信仰の狭さでもってキリストそのものを狭くしていると思うんです。平和は大事だと。戦争反対も大事だと。しかし他の団体がいっぱいあるんだから彼らに任せたらいい。彼らにできないことが伝道なんだから、教会が一生懸命それをやる。それはいわゆる「教会派」という名前でもって括ってしまう考え方があるんですよ。それに対して社会の人権問題、平和問題なんかも大事な教会の業(わざ)だと。そこに力を入れる教会のことを「社会派」というわけですよ。そして分けちゃうわけですよ。「教会派」と「社会派」で。私はとんでもないと思っているんですよ。何というせせこましいことをするんだと。だから私は、「もしあなたは何派か?」と言われたら、社会派でも教会派でもなくて、「イエスキリスト派だ」と、私は答えますね。人間も大事にするということが最大の使命なんですよ。私の信じるところによると。だから人間も大事にするからこそ、キリストをも伝えましょうという伝道ということが起こってくるんですよ。伝道ということが最高のレベルじゃないですよ。人間を大事にするということが最高のスタンダードなんですよ。だから大事なこととしてキリストを伝えるという業(わざ)を教会はしないとならないんだと。だから伝道するということだけが人間を大事にする業じゃないんですよ。殺されていこうとしている者たちを、「殺すな!」と叫んで戦争を食い止めることも、人間を大事にするとても大事な行動でしょう。だから「人間を大事にするということを抜きにしては、神を大事にするということはあり得ない」というのが、私の信仰です。キリストが苦しんでいるんですよ、沖縄では。沖縄市民だけが苦しんでいるんじゃありませんよ。キリストが苦しんでいるんですよ。私の主が。だから放置できませんよ。苦しんでいる人を抜きにして、キリストというものは存在しないんですから。沖縄というところは、私が生々しくキリストに出会いし続けていく場所ですね、沖縄という場所は。私はそういう意味では、これまでも沖縄外の私の人生や学びの時やらクリスチャン体験も、すべて今の沖縄、明日の沖縄に対する私の生き様に集約されていくための備えの時だったと思っています。だからあと何年生かして貰うかわからないけど、やっぱり沖縄を大事にしていくことでもって、全世界を大事にしていくことに繋げていくし、そのことによってイエスキリストを大事にしていくということが証を立て抜く、そういう自分の将来だぞと思っていますね。
 
ナレーター:  オスプレイなど、軍用機が夜間を飛び交うアメリカ軍普天間基地。野嵩(のだけ)ゲート前。毎週月曜日の午後六時、人々が「ゴスペル」を歌うために集まって来ます。およそ六十分、自らの意思をアメリカ兵にも伝えようと、賛美歌や黒人霊歌を歌え続けます。この日みなで歌った「We Shall Overcome(我々はうちかつ)」。それは平良さんが、かつてアメリカで出会った黒人たちが、公民権運動の場で互いに励まし合い、盛んに合唱していた歌でした。戦後、ハンセン病患者に寄り添った牧師の元で出会ったイエス。黒人の激しい歌声の中に見出したイエス。それは平良さんにとって、イエスと共に歩み続ける自らの沖縄の道に繋がっています。
 
 
 
 
 
     これは、平成二十五年十二月二十二日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである