文殊様のたなごころ
 
                  安倍文殊院執事長 (あずま)  快 應(かいおう)
昭和一九年、福井県福井市生まれ。昭和四二年、関西大学商学部卒業後企業に就職、その後独立して友人と共に商事会社を設立。昭和五○年、養父の他界を契機に仏門に入ることを発心し、安倍文殊院入寺。安倍文殊院第五十一世住職植田隆應師に師事。現在安倍文殊院執事長。
                  き き て    住 田  功
 
ナレーター:  奈良県桜井市にある安倍文殊院(あべもんじゅいん)。大化元年六四五年創建の古刹(こさつ)です。この寺で執事長を務めているのが東快應さんです。訪れる人々の悩みを聞き、文殊の知恵を授けている東さんですが、仏門に入ったのは四十歳になってから。幼い頃両親が亡くなり、苦労の末に会社を興して、三十歳を過ぎた頃、人生に行き詰まります。縁あって安倍文殊院を訪ね、そこから人生が一八○度変わったと言います。
 

 
住田:  こちらがご本尊ですね。
 
東:  そうです。このお方が、このお寺のご本尊文殊菩薩という仏さまですね。
 
住田:  獅子の上にお坐りになっている背丈の高い像ですね。
 
東:  そうなんです。もうこの文殊様は、なんと七メートルという、日本一大きな文殊様でもあるわけですね。
 
住田:  そして国宝に指定された。
 
東:  そうなんです。去年の春に、私ども歴代住職の悲願でもありましたんです。私自身も大きな悲願でした「国宝」という名誉を頂戴致しました。
 
住田:  最初に東さんがこの像に向き合われたのが?
 
東:  かれこれ三十五年ぐらい前になりましょうかね。
 
住田:  その時大きな転機になった?
 
東:  そうです。私にとっても、僧侶という立場の中で、このお寺へご縁を頂いた大きな転機でありますですね。
 
住田:  その辺りゆっくりお話を伺いたいと思います。お願い致します。
 
東:  はい。わかりました。よろしくお願い致します。
 

 
ナレーター:  東さんが、執事長を務める安倍文殊院は、大化の改新の時に、左大臣となった安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が、一族の氏寺として建立しました。留学生として唐に渡り、歴代の皇帝に伝えて彼の地で亡くなった安倍仲麻呂(あべのなかまろ)や陰陽師(おんみょうじ)として名を馳せた安倍晴明(あべのせいめい)とも縁の深い寺院です。
 

 
住田:  ご両親とは幼い頃に死別されたということですね。
 
東:   そうでございますね。私は、昭和十九年十二月五日という生まれでございますので、ちょうど折しも太平洋戦争末期というんでしょうか、その当時私が生まれた頃は、既に各地で空襲が始まっているような時代背景でもありましたが、私の親のうち父親の方は、実は南洋諸島に出征を致しておりまして、ここで玉砕なんですよね。ですから私が御袋の腹の中におる間に、結局出征をして、結果としては、私は親父の顔を見ずのままで、この世に生を受けたということですし、そしてまた御袋に対しては、私は四男坊でございますから、兄弟四人なんですよね。ですから父親が戦争で玉砕して亡くなった。その後が福井―私は、福井という街で生まれましたけれども、昭和二十三年六月でございますけれども、忘れもしない―幼心に忘れもしないと言った方が正しいかなもわかりません。私がまだ四つになるかならないかの年ですから、福井大震災(昭和二三(1948)年六月二八日、九頭竜川下流域が震源、約四万戸が壊れ、四千人近くが亡くなった)という凄い地震がありました。私自身もあんな小さな頃のその記憶―地震がパッときた時の記憶というのは、何か身体で今でも覚えておりますけれども、その時ですね、他の兄・姉の方は外へ飛び出した時、勿論助かっていたわけですが、私がたまたま逃げ遅れたというか、わからない状況で、まだ家の中におったんですよ。それを察知した母親の方が、すぐにまた家へ飛び込んで来て、私を抱き上げて外へ連れ出すも、まさにその寸前というんでしょうか。その時、私をドンと放り投げる形で、母親が倒れてきた柱の下敷きになった。こういうような形で、母親との死の別れが待っていたわけですね。ですから私は、三つ半ぐらいの時には、両親が亡くなった。いわゆる戦災孤児、震災孤児というんでしょうかね、そういう状況であったわけですね。
 
 
ナレーター:  両親を亡くした東さんたち兄弟四人を、一緒に引き受けてくれるところはありませんでした。兄弟は、別々の親戚に引き取られます。まだ幼かった東さんは、両親や兄弟の存在を知らずに育つのです。
 

 
住田:  親戚に引き取られる。しかし多感な少年時代ですから、いろいろ辛い思いもあったんじゃないですか。
 
東:  そうですね。私は、実は「東(あずま)」という姓なんですよね。引き取られた家は、尾崎という家ですから、本来なれば養子というような形で、私の東を尾崎という名前に切り換えて引き取るというのが、普通の形だったのかもわかりませんが、当時そういう時代背景の中で、私はそのまま「東(あずま)」のままで、そこの尾崎の家に引き取られると、そういうような立場で少年時代を過ごしました。そうしますと、幼心に、〈何でなの〉と。〈何で僕は東というの〉と。〈何で尾崎と言わないの〉という。そういう思いが、友だちのガキ大将みなと遊んでいても、いつも違うわけですよ、私だけが。何となく〈おかしいな、おかしいな〉という思いを持ちながら大きくなっていったんですが、小学校へ入りました。「お父さんのお名前は?」「お母さんのお名前は?」というようなことを、先生から確認をされるケースがありましたんですが、その時に私は東ですから、尾崎の家に行った東、と。普通他の子ども方を向いたり聞いたりすると、「父」とか「母」とか、「長男」とか「次男」というような書き方ですから、私も当然そうだという、もうわからんなりに、そういう意識。わかっていないだけにそう思っていたんですが、僕は、「違うんですか?」と聞いたら、「あんたの場合は、ちょっとね」と、先生も口を濁される。で、「僕はどうしたらいいんでしょう?」と言ったら、「あんたは、同居人という形で、これからは何にでも聞かれたら、そういうふうに書いたり届けをしたらいいですよ」と言って、その先生が私におっしゃられて。「同居人」まったく意味がわからないんですよ、その当時のことですから。しかし、〈あぁ、やっぱりクラスのみんなとは違う人間なんだな〉というような、そういう思いをもの凄くこう―普通の子なら何も考えないことなのかも知りませんけれども、私にすればもの凄いショックだったんですよね。同居人と〈あ、僕は違うんだ〉と。それを強烈に印象づけたというか、自分自身が認識したというんでしょうかね。これは幼心にそれを深く自分の心の隅へしまい込む形で記憶したことを覚えています。
 
住田:  そんな中でお婆さまと再会されることになるんですね。
 
東:  そうなんですね。それが私の想い出では、大体五歳ぐらいの時だったと思いますね。養父母に引き取られて、私がまだ小学校へ入る前の頃の話なんですが、ちょうどガキ大将で近所でこう遊びを友だちとやっていましたら、ちょうど杖をついたお婆ちゃんが遊んでいるとこへ来るんですよ。で、遊んでいる子どもの中から私を捜し出して、「きよし!きよし!」と。私の本名は、「東清」と言うんですが、「きよし!きよし!」と指差すわけですよ。それで私は自分の名前を呼ばれるから「何!」と行くと、そのお婆ちゃんが―昔のことですから、飴玉ってありましたよね―こういう丸い飴玉を五つほど紙にぴっとくるんだね、それを「はい、これ!」ってくれるんですよ。私にすると、飴玉に釣られて、「飴玉くれるお婆ちゃん」という、そのお婆ちゃんが、忘れた頃にポツポツと訪ねてくれるんですね。そのお婆ちゃんが来るたびに飴玉をくれるもんですから、「飴玉くれるお婆ちゃん」と。これぐらいの記憶で、私はずっとそのお婆ちゃんのことを頭のどっかへ幼心で収めていたんですが、あれも小学校へ入る前に、家を引っ越したりなんかして、結局はそれ以降お婆ちゃんと出会うことはなかったんですけどね。
 
住田:  中学の時に、お婆ちゃんと再会した。
 
東:  そうなんですよ。私が中学校の二年生の時だったんですけれども、思春期というのは、やっぱりいろんなことを思うんですね。そして自分が一番痛烈に感じ思うことというのは、自分には親がいない、親が死んでしまった、親と別れてしまった、という思いが、もの凄い強いわけですから、その御袋になんか慕情があるんですね。御袋に会いたい。御袋ってどんな人だったのか。顔も知りませんからね。私、その時に、養父母に、親父さんの方へ、それもおおっぴらな話じゃなしに、「俺の死んだ御袋の、お母さんの家が田舎にあると聞いたけど」というようなことを尋ねたら、「ある」と。「福井の南居(なご)という、ここから大分離れているけれども、村に横山さんという家があってな、その家にお前のお母さんが住んでいたんだよ」という。「多分そのお寺にはお墓もあるんじゃないかな」ということをいわれまして、それで早速南居の村へ自転車に乗って一時間ぐらいかけて、捜して捜してその南居という村へ行ったんですよ。そうしましたら、横山という家が聞きもってわかりましたので、「ごめんください」と訪ねて行ったら、ちょっと腰が曲がり掛けているお婆ちゃんが出て来て、パッと私を見たもんですから、私のその時に〈あ、このお婆ちゃん〉と思いました。それがなんとその小学校へ入る前の飴玉をくれたお婆ちゃんだったんですよ。
 
東:  時々訪ねて飴をくれたお婆ちゃんが、
 
住田:  そうそう。そのお婆ちゃんが目の前におるんですよ。私ね、〈あぁ!お婆ちゃんや!〉と、私はそれだけだった。「僕、清です」と言うて、思わず言ったら、そのお婆ちゃんが、ジッと私の顔を見て「清か!」と言うんですよ。「よう生きておったな!」というてね、私にわぁっと抱きついてくれたんですよ。私ね、その時に、〈わぁぁ・・〉と、わけわからんのですけど、嬉しくて泣いたのを覚えています。「そんなら上がり!上がり!」というて、その当時は田舎ですから、囲炉裏が切ってあって、その囲炉裏のところへ坐っていろいろ話をしてくれましてね。それで引っ張り出してくれたのが、「これ一つや!」と言うて、御袋の写真を私に見せてくれて、「これお前、持っておき」というて、ほんまに古びた写真だったんです。それが私にとっては、生まれて初めて見る御袋の顔なんです。それから私の人生観変わりました。嬉しかったですよ。死んだ御袋のお婆ちゃん―俺のお婆ちゃんがいるんだ、というもの凄く嬉しかったですね。それがもとで、あとなんと私の兄と姉とのことも、お婆ちゃんから状況を教えられて、「元気で生きている」ということも聞いて嬉しくて、とにかく自分の兄弟が、兄がおり、姉がおるという、この嬉しさは譬えようがなかったですよ。そうしましたら、二月の末だったと思うんですが、なんとお婆ちゃんから電話掛かってきました。「お前な、陸男(りくお)がな―一番上の兄貴だったですが―陸男がな、大学に通ったからと言うて、初めて帰って来ると電話あったが、来いや!」というてね、私にすればその出会いを聞いて、その日がそれこそ指折り数えるという楽しみの中でズーッと待ちこがれて、まあ前の日は勿論寝れんぐらい―実際寝れなかったですが―それで、〈おぉ、どうしょう。あのテレビで見ているドラマのように兄ちゃん≠「うて抱きつくのかいいのか。もうここで泣いてしまっちゃうんだな〉とか、いろいろ考えて、実際に南居の家に行って、兄が帰って来て、初めて出会ったら、その時どうしたらと言ったらね、私、ジッと下を向いてしまったんです。もうなんか恥ずかしさと照れくささというか、なかなかドラマみたいにはいかんもんやなと、自分で思いましたがね。そういう想い出がありますね。この兄が、私を見て、「清か!」と。兄は覚えているんですよ、まだ私より四つぐらい上でしたから。私は全然記憶はないんですよね。
 
住田:  三つ四つ頃ですからね。
 
東:  そうなんです。三つぐらいですからね。「清、大きなったな」と言いながら、私をしげしげと見てくれて、声を掛けてくれるのが嬉しくて、自分に兄がおるという、この自分自身の感動がね。もうそれから兄との文通が始まったんですよ。とにかくなんか兄が、私にすれば神様みたいに思ったんですね。それこそ仏様じゃないけど、なんか兄がおることで、僕の人生というのは、これからバラ色なんだと。絶対力強く生きれるんだという、なんかそんな信念みたいなものを覚えました。兄と文通をするんですが、あの当時はこんなメールも何もないですから、手紙ですよ。その手紙を、兄はまた頻繁に送り返してくれて、「しっかり頑張るんやぞ。今まで君の兄弟こうして来たけれど、しっかりこれからも頑張らないかん」という話をどんどん手紙に書いてくれるじゃないですか。もうそれが私のバイブルみたいな、いつでも僕、この鞄の中に入れて、何かあったら兄の手紙を見て、〈こう言うてくれてる〉という、そういう中で自分の青春というのを過ごしたことを覚えていますよ。
 

 
ナレーター:  その後、兄の励ましもあり、東さんは努力して大阪の大学に進学。大阪では、第三の母と慕う叔母の世話になります。大学では生涯の友との出会いが待っていました。福井忠成(ふくいただなり)さんと堤建雄(つつみたてお)さんです。三人は、将来一緒に会社を興そうと約束します。そして卒業から五年後、その夢を叶え、印刷の仲介を仕事とする会社を創業します。
 

 
東:  それぞれがやっぱり大きな能力を持って五年目に臨んだんですよ。ですから三人が会社を作った時は、もうこれは天下取ったような気分でした。初めスタートするのに夢いっぱいという思いの中で、それは勿論軍資金も少ない中でやるわけですから、私ども三人が大阪の西区で事務所を借りて、そしてそこへ私どもの家内三人が、事務員で無報酬で、そして初めは給料も取れんかってもかまへん。とにかく食えたらいい。とにかく会社を立派にしますと。その意気に燃えて会社を立ち上げて、実際に営業をどんどん展開していきました。私は私なりの営業展開をして、福井は福井なりに―福井が社長になり、私と堤が専務です。三人しかいない、社長と専務の会社だった。その中で三人とも営業を―実際は営業マンですね―どんどん展開しながら、苦労しながら、とにかく会社はそれなりに形が整ってきました。形が整ってきたその頃からですよ、私の気持ちの影の中で―表じゃないんですよ。外に出ているんじゃないですけれども、心の中に慢心の心というか、もうこれ俺が専務で彼奴が社長か。されど俺のやっていること、彼奴とどうやろうという、仲間であるにもかかわらず、一心同体であると思い込んでやってきているにもかかわらず、そういうような疑念というか、悩みというか、そういうものがどんどん芽生えてきたんですよ。親友であるが故にその言葉も勿論言えませんし、やっぱり底の心のどっかにそれがあるんでしょうね。〈俺やったら、俺だから〉とか、例えば大きな仕事を取ってくるじゃないですか。〈俺が取ってきたから〉という、やっぱりそういうね。それを本来は三人でとってきた仕事ですよね。私がとってきたにせよ、そういう目的で作った会社ですから。しかしその思いを引きずるんですよ。〈これだけの大きな商談を俺が纏めたから〉という、そういう思いが心の片隅というか、半分ぐらい占める時期というのが、当然ますます出てくるんですよ。成果が上がるほどね。そういう思いというのはありましたね。
 
住田:  人間というのは不思議ですね。
 
東:  そうですね。
 
住田:  上手くいっているのになんかストレスを感じる。
 
東:  そうなんです。そういう思いに駆られる自分という。自分に嫌気がさした時も勿論あります。そういうふうに考える自分に、〈違うだろう〉と、自分に問い掛けをするんですよ。しかしまた違う自分がまた顔を覗かせるんですね。〈いや、お前が頑張っているから、こんだけの会社になったじゃないか〉という。
 
住田:  俺が引っ張っているんだという。
 
東:  そうそう。
 
住田:  でも社長がいて、もう一人専務がいて、その一つの駒でいていいのかという思いですか?
 
東:  そうなんですよ。そこへ加えて、私の養父がそのタイミングの中で亡くなるんですよね。これはショックでした。私が引き取られて、いわば半生をその親によってこれまで来れた大きな礎(いしずえ)だったんですね。その親父御袋―私の養父母が立て続けの形で亡くなりましてね、泣きました、その時はやっぱりね。別れの辛さというのを痛感しましたよ。それがやっぱり今申し上げた仕事の中で、そういう気持の葛藤がある中へ、なんか打撃的にそういう養父母の亡くなるという出来事が重なりましてね。なんか心が一遍に疲れたような。今までの自分の、卒業してからの自分の生活との差ですかね、これが極端過ぎて、気持の中で。もの凄く疲れたという思いを持ったことを、自分で思いました。これからの自分は、どうやっていくのがいいんだろうかなという思いを、もの凄く真剣に考えるという、そういう局面に自分が立ちましたね。
 

 
ナレーター:  誰にも相談できない会社での悩みと、育ての親を相次いで亡くした喪失感。心に開いた穴を埋める術が見つからない東さんは、縋る思いで安倍文殊院を訪ねたのです。
 

 
東:  それは私の養父母のうちの親父の方が卯(うさぎ)年なんです。大正四年なんですね。 卯年の生まれで、卯年の守り本尊さんというのは、実はこのうちの文殊様なんです、もともと仏教では。それは親父が生きている時から、「文殊さんが、儂の守り本尊だ」と言っていることを、いつも覚えていたんですが、たまたま一緒に起業した堤という私の親友が、なんとここのご住職の奥さんの弟に当たる人間なんですよ。それが縁で、私はこのお寺をお訪ねした。そこへ文殊さんということを聞いていましたから、亡くなった親父に会えるような気がしましてね。とにかく一遍文殊さんへ行って、文殊さんに会いたいなと思って、ここをお訪ねさして頂いた。で、ぶっちあげて、なんか文殊さんにお詣りをして、「親父、会いに来たよ」と言って、私はその時文殊さんに向こうてそんな言葉を発したことを、今でも覚えております。
 
 
ナレーター:  その時、東さんに声を掛けてくれたのが、当時の住職植田隆應(うえだりゅうおう)さんでした。
 

 
東:  隆應住職が、「まあ部屋へ来い」というので、部屋へ呼ばれて、「どうや」というような話をされた時に、なんか素直に私が、今お話した仕事上の心の葛藤、そして親父御袋―養父母がそうやって亡くなった時の重なりで、これからどういうふうにご恩返しを―「親に対する恩返しというのは、どういうふうにするのが本当なんですか」というような話をぶっちあけて、素直にその住職にご相談をしたんですよ。「私はどうしたらいいんでしょう」ということを尋ねたんですね。そうしたらうちの隆應住職が、「お前はな、分(ぶん)をわきまえるということを、もう少し改めて考えるべきじゃないのか」ということをおっしゃられたんですね。初め意味がわかりませんでね。「分をわきまえるということは、お前わかるやろう。自分て、お前自分のことや、分やろう」と、こういうんですよね。「普通、分というのはな、普通は縦社会の、昔のいわゆる一番偉い人から下に対するそれぞれの立場立場の中で、分をよきまえるということをするのが、本来の一般の人の取り方かも知れんけど、儂の言うのは違うんで、それは確かに縦社会の中の立場立場というのは当然あるだろう。それも一つの分ではあるけれども、その分の、自分の立場に立った時に、如何にその立場を、自分が力いっぱいの形で自分のなせることを為しきれるか、ということの方が、先ず第一なんだ。それに偉いとか偉くないとかというようなことは関係ないんだ。先ずお前自分自身が今おる立場で、どういうことを絶対為すべきなのか、ということを、よくよく考えて、自分の人生観というものをもう一遍見つめ直すべきだ」ということを、先代は申されたんです。
 
住田:  言われてどうでした?
 
東:  私なんか目から鱗(うろこ)というんでしょうかね、〈あ、そうか〉と。もし俺があの会社で、俺が社長やったら、なんで俺は専務かな、と考えた自分がおかしいんかな。やっぱりおかしいな。そういう思いに至ること自身よりも、先ず今自分の専務という立場の中でそれだけの実績を上げ、どれだけこれからあげることが、みんなのため、それが自分のために跳ね返ってくることなんだから、もっと考え方を変えないかんなと。やっぱり自分をもう一遍見つめ直さなければいかんな、と思いました、私ね。その時、住職が、「お前、そんだけ悩んでいるなら、どうや、もううち来るか!」とおっしゃられたんですよ。それで私にすれば思わぬお声掛けですから、大分悩みました。そうやけども、先代がいうには、「このままお前なぁ、今の会社におれば、いずれなんか仲違いのような―気持のうえのね―親友であるかもかかわらず、そういうような状況に追い込まれる可能性があるぞ。今のお前だったら。だからなんやったらうちへ来てみるか」という話をされましてね。私、正直いうて、その時大分考えました。帰ってね。勿論家内にも話しできませんしね、そういう相談は。自分なりに大分考えたんですがね。これも一つの―隆應住職自身が、豪放磊落(ごうほうらいらく)な、いわばなんかオーラをもっていたんですね。オーラがあるんですよ。なんかこの人やったらなんか自分を連れて行ってくれる、導いてくれるんじゃないかなという、なんかそれに仏教であるとか、信仰の力とか、そんなことじゃないんですよ、私の感じたのは。なんかこの人について行ったらという、そういう思いがもの凄くありましたね。そこで決断をして、「それじゃ、師匠頼みます。一遍勉強さしてください」と言って、まあこの寺へ入らして頂いた。
 
住田:  このお寺に入ることになって、どういう生活が待っていましたか?
 
東:  その時はその思いで入りましたよ。ところが入ってから、先ず思わず間違いましたね、私は。まさに俗っぽい人間ですから、「このお寺へ来るか」と言われて、こさして頂いて、この寺へ来たら、また違うし、〈なんか自分でできる大きな仕事があるんじゃないか〉と思って来たんですよ。ところがうちの師匠は、どういう命令をくだしたか、私に言われたかというたら、「わかった。お前、今日からこの寺へ来たんやな。それなら先ず掃除せ!」と、こう言うわけですよ。「うちの寺、もう掃除するとこ腐るほどある。本堂の拭き掃除から庭掃除から、何もかもすることはな、毎日しても飽きんほどあるから、取り敢えず掃除せ」というて、初めは私、何にもわからず、「はい。わかりました」と言っては、とにかく教えられるままに、お掃除、お掃除・・・の繰り返しをやり出しました。もう正直いうてね、もう一ヶ月、それが二ヶ月、そんなことばかりやっていましたんで、またこれはこれで悩み出しましたね、正直いうて。やっぱり自分なりには苦労して大学まで出て、曲がりなりに会社へ入って、そこで営業成績の上位の成績を取って、そして会社を興して、というなんか自負心があるじゃないですか、自分の気持では。それで行き詰まって、師匠に言われて、「まあ来てみるか」と言われて来てみたら、もっと違うことがあるんと違うか。素直に考え考えてこの寺に入れて頂いたにも拘わらず、自分の心の甘さがあったんですね。かなりあったんですね。来ればまた違う形でのやるべきもっと大きな仕事という、なんかそういう気持がもの凄くありましたから。ですから〈掃除、掃除って、何やねんと。こんなのおかしいで〉という思いが、もの凄く湧き上がったこと、いわゆる煩悩が渦を巻いたというのが正直本音です。私が、そういう悩みをもっているな、と見抜いたのは、実は私の先代じゃないんですよ。先代のお母さん、お婆ちゃんがおられた。そのおばあちゃんが、「東さん、人はな、石の上に三年というのは、諺だけじゃないのよ。何でも辛抱して、やはり耐えるということを覚えなダメよ。わかっているね」と言って、私におっしゃられた。その言葉で、今まだ二ヶ月じゃないか。二ヶ月や三ヶ月で穴(けつ)割ったら、もうこれは男として笑われるだけや。自分に今度鏡に向こうて、その話を自分にしたんですよ。〈よし、わかった。よし、これならとことん、もう師匠が、「よし!」というまで一遍やれるだけはやろう〉と。一年かかりました。
 

 
ナレーター:  来る日も来る日も掃除に励みながら、自分は何をすればよいのかを考え続ける東さん。やがてその答えの糸口となる出来事が起こります。
 

 
東:  ある日私が住まいする橿原(かしはら)に私は住まいしているんですが、そこの町内会の役員を、私がたまたま担当することになって、その会合に出て、食事会をしている時に、役員さんから、「東さん、どこへお仕事をしていらっしゃるの?」というようなことを聞かれた時に、「安倍文殊院さんにお世話になっているんですわ」ということで、「安倍文殊院さんというと、何処にあるのかな?」という、そういう質問をされたことがあるんですよ。
 
住田:  地元でもあまり知られてなかった。
 
東:  そうすると、私にすれば、これはもの凄いショックでした。みんなが知っていると思っていたうちのお寺の御仏を、まだご存じない方がたくさんいらっしゃるんだな、という思いをハッと感じた時に、〈あ、これは何とかうちのこんな立派な文殊様を、世間の人、みなさんに知って頂いて、そしてまた手を合わせて頂ける。そういうことを私自身が何かお手伝いできることがあるんじゃないか。そういうような自分の分というものをね〉というふうに考えたんですよ。
 
住田:  つまり先代住職が、「分をわきまえろと。あなたの分は何なんだ」という問いの答えが、
 
東:  そうなんです。それをやっぱり自分がそのお手伝いをすることが、これが今自分にとっての一番の分ではなかろうか、こういうふうに思いましてね。それで住職に、実はご相談したんですよ。「もう一年近く勉強さして頂いたけれども、何とかもう少し自分としてやれることを、もう少し広げさして頂きたい。いろんな関係先へ―例えば鉄道会社とか、そういったところへも含めていろんな―今でいう宣伝というんでしょうか、PRというんでしょうか―というようなことなら、私としてもある程度それなりに自分としての自信があるので、少しそういう方面へ働きかけをさして頂くような仕事をさして頂けないでしょうか」ということをお願いしたんですよ。そうしたら先代は、「まあそれはお前のいうのもよくわかる。しかしこれだけは心せよ」と言われたことは、「お寺というものは、やはり信仰の場であるから、品格というものが一番大事なんだ。闇雲にただ宣伝したらいいとか、広告したらいいとか、知って貰うたらいいというだけのもんじゃ決してないんだぞ。やっぱり心の中に染み込み、信仰というものが一番基本なんだから、それをわきまえた上での、そういう活動をお前がするというんであれば、一遍勉強だと思ってやってみい」という指示を与えてくださったんですね。それからいろいろと各方面への働きかけという形でどんどん外へ出さして頂くというような形、先ずやっぱり知って頂くというところからスタートしようという努力を、自分なりにはさせて頂いたつもりなんです。
 

東:  私どもこの文殊さまは、実はこういうふうに四人の脇侍、いわゆる家来をお供に連れていらっしゃるお姿、この全体のお姿を仏教の世界では、「渡海文殊(とかいもんじゅ)」というんですよ。「渡海文殊」と言いますのは、衆生に知恵を授けるために説法の旅をするために雲海をお渡りになっていらっしゃる。こういうお姿を表したのが渡海文殊という。
 
ナレーター:  東さんは、早速会社時代の手腕を発揮。さまざまな方面へ働きかけて、寺を訪れる人は、徐々に多くなりました。自分のためではなく、寺のために動くようになった東さんは、さらに多くの人の役に立ちたいと、僧侶になる決心をします。
 

 
東:  私どもお寺にお詣りをして頂く方が、ある程度増えてこられる。そうすると、お詣りされる方の中には、やはりいろんな人生の悩みをもって、心の慰めというか、その切り換えをしたいという思いで、うちのお寺へ訪ねられ、文殊さまにお詣りされて、そして私どもにちょっとお声をおかけになって、相談に載ってほしいというようなことが多々あったんですよ。その時勿論私はまだ僧侶でなかったですから、それでもやはりどうしても寺内のそういう業務で常にここにおりますと、どうしてもご住職がお忙しい時は、私がやっぱりどうしても対応させて頂くというケースが多々増えますですよね。そうした場合にご相談を持ちかけられて、そうするとやっぱり真剣なんですよね。やっぱり真剣にご相談されますから、どうしても私としても真剣に、自分なりに真剣にそのお話に入っていくということになるわけです。そういう機会が増えれば増えるほど、これは自分自身がこれではダメなんじゃないかなと。こういう形で相手の方に対応させて頂くこと自身が、これはなんか偽善的な、そういう自虐的な思いがどうしても湧いてきましてね。それならやはりそういった方と対座してお話をさして頂くんであれば、曲がりなりにも自分がやはり勉強さして頂いて、修行の道を入れさして頂いて、そしてそういう形の中で一つの相手に対する思いというものを、私は述べさして頂くのが、正道だ、こういうふうに感じたんですね。それをご住職に私が申し上げたところ、「よし。お前もここまでこの寺に入っていろんなことをしてきたんだから、僧籍を取る形で一遍やってみろ」というようなことで、私どもの本山の東大寺の方へお話を通して頂いた。東大寺の方でも僧籍をお許し頂いたという、こういうことでございます。
 
住田:  僧侶になられて向き合うと、またそれまでとは違う心持ちでいらっしゃいますね。
 
東:  そうなんですね。やはりこの僧侶の世界、仏様にお仕えをするという。私は正直いってまったく修行の足らない、正直いうて僧侶としては末席を汚す立場の人間でしかないので、大きいことは決しておこがましくて言えませんけれども、やはりその信仰というものは、やはり私たちが生きるうえで、何か勇気というんでしょうか、生きる勇気を与えてくれるものが、私は信仰だと思っています。だからその心の支えという、辛い時に支えてくれるものが信仰だ。これが一番の柱で、その中で自分の生き様というものを見つめ直す。そのために御仏がおられ、そしてまたこういう寺があちこちにこうあるわけで、人間生きていくのに気楽で、何でもそのまま思い通りすべてが終わって、死を迎えるというんであれば、こんなけっこうなことはないんですけれども、やはり現実は決してそうじゃないですよね。苦しいことの方が多いわけですから、そういう心の対話というんでしょうか、それと人間というのは、やっぱり一人では生きられませんよ。常に仲間がおり、そして心を分かち合う友がおって、そしてまたそれを守ってくださるこういう神仏がおられることによって、私たちはそれが一つの大きな支えとなって、また自分自身もそこで伸びていけるんだと思います。だから宗教というのは、私、何も仏教に拘る必要は決してないと思うんですよね。信仰というものについては、自分の心にある、なんか心の支えになるものであれば、どういうものでも私はいいと思うんですけれども、たまたま私はこの世界に足を踏み入れさせて頂いて、しかも先代住職にこういったご縁を頂いて、こういう立場におらせて頂けるということですから、とにかく前向きのそういう思いというものを、お見えになって悩みをもっていらっしゃる方には、できるだけ接して頂きたいなというふうには考えております。
 
住田:  東さんが日々文殊様に向き合って対面して、何を語り合っていらっしゃるんですか?
 
東:  そうですね。私は初めてここへ訪れて、養父母が亡くなったのを機に、そういう仕事の思いも絡めながらここへまいりました。その時に文殊様とこうしてパッとご対面した時に、思わず、「親父!」という言葉が出たんですよ。何か自分の育ててくれた親父が目の前にふわぁっと浮かんできたんですよ。その後の御袋―養父母であり、私の大阪で育ててくれた叔母が、今でもその文殊様の前で手を合わせると、必ずこう出てくるんです。そこで私はいつも喋るんですけれども、私にすれば文殊さんというのは、まさに私の親のような思いなんですよね。この仏さんにこうやって手を合わせると、なんか自分の気持が、「一からもう一遍やり直してでもいいよ。無理して頑張りすぎなくてもいいんだよ」というてくれるような、そういうなんか優しく包んでくれる思いというのを感じますよね。
 
住田:  昭和二十三年の福井の大地震の時に、もうお母さまが命を懸けて守ってくださった。
 
東:  そうなんですね。
 
住田:  あの時、もし一緒に東さんが柱の下敷きになっていたら、命はそこで終わっていたかも知れませんね。
 
東:  そうなんですね。
 
住田:  あれ以来、ほんとに実に多くの人に支えられて、東さん自身命を繋いでこられたわけですね。
 
東:  そうですね。まあ正直言って、この命という大きな命題というんでしょうか、これについてはこのお寺に入れて頂いて、先代の住職からいろんなお話を教えて頂きながら、つくづく思うことがあるのは、お釈迦さまのお話の中で、「無我因縁(むがいんねん)」の法という形で説かれるお話かも知れませんけれども、例えば「私」というこの「東快應」という、今人間が、今この歳まで、今現在生きているじゃないですか。つい私を含めて、我々みなそれぞれの人は、自分が自分の人生において、例えばいい時、恵まれた時、そういうような時には、おうおうにして「俺が、俺が」と。何でも自分の力で、自分がやったからこんだけある。私が起業した時の思いが同じことですよね。その慢心がどうしても出るんですよ。しかしこれはやっぱり考え方が完全に間違っていると、私は思うんです。というのは、私が今ここにこうして元気に生きて毎日を過ごせているという、この証は一体どこにあるのかというと、これは私の力ではどうにもならない命なんですよね。この命はどっから貰ったかというと、例えば私の生まれる大本(おおもと)は、親ですよね。父と母がおって、私が初めて生まれてまいりました。これを例えば、正三角形を思い浮かべて頂きたい。正三角形の頂点に、私たち自分が今立っている。
 
住田:  今生きている一人一人が、
 
東:  私ですよ。そうすると、私はどうやって今ここにいるの、ということを考えてみると、必ず私には父と母がいるわけじゃないですか。そしてその父と母によって私という命を頂いたわけですよ。そうすると、その父と母はそれじゃどうやっているの、というと、またこの父と母にも父と母がいるわけですよね。私にすればお爺ちゃんお婆ちゃんということになるんじゃないですか。で、またそのお爺ちゃんお婆ちゃんも父と母という形で、考えてみると、この私を正三角形の頂点とすれば無限大に下にずっと広がっていくわけです。
 
住田:  支える人たちがいたわけですね。
 
東:  ということは、逆にその父と母のこれだけ無限大に広がる、そのたった一人ですよ。たった一人がおらなかったら、なんと今の私は絶対にこの世に生まれていなかった。
 
住田:  だれかが欠けていたら、
 
住田:  そうそう。それも誰一人もです。そうすると、自分というものは、さっき申し上げたように、自分は「俺が俺が」と、大きい顔をしてこうやってみな生きていますけれども、実はなんと儚い生かされて、やっぱり自分というものは今ここにあるんだ。これを私たちはやっぱり当然考えないかんと思うんですね。生かされているいのちだった。人それぞれの大きな力によって今の自分というものはあるんだ。だから決して自分の力で今があるのではない、とこういうことを、まず念頭におくべきだと思うんですね。そしてまたそれじゃ三角形の頂点にある私は、そんな儚い小さな生かされている命ではあるけれども、しかしこれを逆に、今度逆三角形で考えてみますと、この私が三角形の頂点から逆三角形でこう広がる形を考えてみますと、なんとこの私に今子どもが二人おります。そうするとその子どもは二人今結婚しました。そして結婚した中に子どもがまた、私の孫が生まれておりますが、こうみると、私の次の時代、息子は結婚をして子どもを授かる。そしてまたそこから次の子どもが結婚して、また子どもを授かる、ということに考えてみると、今度はどんどん末広がりでこう上へ伸びていきますよね。天に向かって伸びていきます。ところが今度はこの未来―未来の家族と言いましょうか、子孫というんでしょうか、という考え方にいけば、その私の子どものそのいずれの人、生まれてくるいずれの人にとって、私の存在というのは、如何に大きいか、ということですよ。私がおらなければ、少なくとも私の子孫というのは、絶対生まれてこないわけですから。となれば、私たちは過去からの自分を見れば、これは本当に生かされている儚い小さな命かも知れないけれども、その自分の未来の自分を見つめるか。その自分が今行っている行為、自分が生活をしているこの態度、これはすべての子孫に絶大なる影響を与える。それだけの大きな力を与える自分なんだ、と、私はそういうふうに教えられました。だからこそ自分の生き様、今を生きる生き様、もうこの壁にぶち当たって、こんなに辛いからもういいんだ、もういい、後のことは野となれ山となれじゃ決してないんだよ。今たとい苦しくとも、ここでしっかりと生きることが、自分の将来に大きく、あぁ、あの人がこれだけ頑張ったから、今の自分がおる。これを子孫はみな感謝もし、またそれを認識をする。そういうことになると、私はそういうふうに考えています。お釈迦様の教えはそれだと思っております。だからそういう点で、自分自身を如何に大事な自分であるか、ということを、決して自棄(やけ)にならず、たとい辛い時があっても、やっぱりそれを乗りきって、前を向いて頑張っていこうという勇気をもって頂くことが、一番大切なことではないかな。それがまた縁でもあると思いますね。私はそう思っています。
 
住田:  今また大きな震災が日本を襲って、悲しみにくれている人、立ち止まっている人がいらっしゃいます。自分の意思で生きていこうと思っても、生きていけなかった方もいるんですね。取りも直さず東さまのお母さまもそうですし、亡くなった。
 
東:  おっしゃる通りですね。東日本大震災、あの凄いあの出来事。あれはまさに自然の脅威というんでしょうか、恐さ凄さというものを、私たちにまざまざと見せつけました。その被災された方というのは、もう本当に言葉には尽くせない、筆舌に尽くせないという表現がピッタリだと思うような辛い思いをなさいました。実際にそうだと思います。特に愛する家族との別れというこの苦しみですね。ましてや死という、その絶対的な人生の中の最大の悲しみと言われるこの死をもって別れるというその苦しみを背負われた方が、この東北大震災ではたくさんいらっしゃいます。そうした思いの中で私なんかも、あの福井大震災で御袋と別れねばならんという体験をしただけに、その被災された方々の思いというのは、如何ほどばかりと、正直いうて痛いほどわかりますわ、その気持ちというものがね。私の師匠であった植田隆應住職という方は、実は大変重い心臓疾患の病気を患われましてね、何と六十四歳、もう既に私の歳にはお亡くなりになっていた。六十四歳でお亡くなりになりました。その時、お医者さまから、あと余命幾ばくというような告知を受けられて、お師匠さんはどうおっしゃられたか。入退院をずっと繰り返されたんですけども、その初めの頃に私に向かっておっしゃったんですよね。「自分はこれからは、病人は病人としての人生を送る。これからはこの病気と闘う。そしてそれがたとい勝ち目がないとしても、前向きに力いっぱいこの病気と闘って、私は人生を過ごしたい」とおっしゃったんですね。そういう時に、「この病気と闘う時に、自分を支えてくれる一番大きなものが仏教なんだよ。うちの文殊様は、いつでも私を温かく見守ってくれているから、無為な人生は過ごしたくない」こうおっしゃいましてね。そしてその後も、闘病生活をしながら寺の行く末を考え、様々な指示を与えられて、最期まで前向きの姿勢を貫き通して頑張られた。お釈迦様自身もお教えの中に、「私たち人間は苦の世界。いわゆる苦しみの世界。言葉でいえば、「四苦八苦」の世界に生きているんだよ」と、お釈迦様は説かれていらっしゃる。そしてまたそれは取りも返さずそのことは、私たち人間というのは、すべての人が公平にこの苦しみの世界に生きねばならないという宿命を背負っていると、お釈迦様は悟っていらっしゃるんです、実際には。しかしながら、それであっても私たちは生きないかんのですわ。みな生きているんですよね。それでも生きていく。思えば、あの震災からもう間もなく三年という月日が流れようとしていますけれども、その三年経った今でも、遠く被災者住宅で辛い苦しい思いをしながら生きていらっしゃる方がたくさんいらっしゃいます。それでも頑張って生きていらっしゃるんですよね。私の師匠の隆應住職が、あの病気の時におっしゃった言葉に、「この病気と闘う時の精神的に支えてくれるのが、仏教なんだ」という言葉にもあるように、本当に人生の大変な困難に立ち向かう時に、これを支えてくれるのが、御仏のご加護であると信じて、私たちは前向きに勇気をもって生きるということが大切だと思いますね。そしてまた仏教に限らず、信仰というものが、そういった弱りかける、弱くなる心の、それこそ折れ掛かってしまう心を支えてくれる大きな力になる。それぞれのその人の心の支えになると、私はいつもそういうふうに確信をしております。仏教の言葉に、「無常」という言葉がありますけれども、常ならずなんですよね。決してズーッと同じことが続くことはないんだ、という教えをされていらっしゃいます。私たちは、今がどれほど辛く苦しい時であっても、常ならずの世界に生きているんだから、必ずやまた違う新しい面ができてくるということを信じて、前向きで生きていくということが大事だと思いますですね。
 
住田:  それは最期の最期までいろんな人との関係の中で、繋がりの中で、縁の中で、やはり私たちは生きているということですね。
 
東:  そうですね。その面ではほんとに人と人の心の繋がりというものを、それぞれの人が大事にして、出来る出来ないというよりも、慈悲の心というその思いを胸に抱いて相手に接するという、その心ですね。これが自分自身のために幸せの一番の大本だというような、ほんとにその思いをもって頂けたらと、私は思い願っています。
 
住田:  文殊様が、私たちにどのように生きよ、というふうに、あの眼差しで思っていらっしゃるんですかね。
 
東:  「前へ向け、後ろを向くな」ということだと思いますね。しっかりと足下を見つめて、自分ができることをしっかりやれ。それが先ず基本だということを、文殊さまは私たちに教えていらっしゃるかもわかりませんね。「文殊の智慧」というのは、決して試験に受かるとか、勉強がよくできるとか、賢くなるというようなことをもって、本来「文殊の智慧」と言うんじゃないんですね。「もともと私たちが人生の困難な壁にぶち当たった時に、その壁をどうやって乗り越えたら、それが正しい人としての生き方か。それを自分がわかることが智慧だ」とこうおっしゃるんですよね。ですから例えば試験に受かりたいとおっしゃって、うちのお寺の文殊さんに手を合わせにお見えになられるけれども、本来の文殊様が私たちに与えてくださるお智慧というのは、〈そうか、試験をするために、自分は例えば一年間一生懸命頑張ってきた。やっぱり勉強して頑張らないと試験というものは受からないんだな〉ということを、自分自身が実感できること。そのことがお智慧だと、こういうふうに本来はわかって頂けるのが、文殊の智慧なんですよね。
 
住田:  自分を見つめて乗り越える力を付けると。
 
東:  そうなんです。乗り越え方にもいろいろあるじゃないですか。人によって間違った道を進もうとする人もおるんでしょうし、一つの大きな壁にぶち当たったその壁は、高い壁だと思いますから、その人にとっては、力のある人は飛び越える人もいるかも知れない。しかし人によったらトンネル掘って越える人もいるでしょうし、しかし人によってはそれもできない人は、塀伝えにずっと遠回りをして、どこかに入り口があるのを捜して越えるかも知れない。やはりこの越え方というのは、人それぞれですから、画一的にこうでなければならない、ということは決してないんですね。文殊様は、私たちにそういう生き方を教えてくださる、諭してくださるのが「文殊のお智慧だ」と、こう思って頂けると一番有り難いですね。
 
住田:  今日はどうも有難うございました。
 
     これは、平成二十六年一月十二日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである