ブッダの人と思想B法輪を転ず
 
                インド哲学者 中 村(なかむら)  元(はじめ)
                き き て  草 柳  隆 三
                語   り  石 澤  典 夫
 
石澤:  「こころの時代」では、毎月中村元「ブッダの人と思想」セレクションを放送しています。これは一九九五年に、十二回にわたって放送されたシリーズから、七本を選んで再編集したものです。お話は、インド哲学・仏教学がご専門の中村元さんです。中村さんは、原始仏典のみならず考古学的な資料にも幅広く目を向けて、歴史上の人物としてのブッダの生涯と思想を探りました。前回はこの「不死の門は開かれた」と題して、ブッダの悟りとはどのようなものだったのかをご紹介しました。今回はそれに続く「法輪(ほうりん)を転ず」をご覧頂きます。「法輪を転ず」とは、ブッダが教えを人々に説くことを意味します。悟りを開いたブッダが、初めて行った説法を中心にブッダの思想の根本にあったものは何だったのかをお伝えします。きき手は草柳隆三さんです。
 

 
草柳:  今日のテーマは、「法輪を転ず」。「法輪」つまり教えをこの後ブッダがどういうふうに説いていったのか、ということについて、今日はお話を伺っていくことに致します。いつものように東方学院院長の中村元さんにお話を伺い致します。先生、今日もよろしくお願い致します。
 
中村:  どうぞよろしく。
 
草柳:  前回までのところでは、ブッダが、自分が悟った真理は深淵で奥深いものであって、一体これを誰がわかってくれるだろうかということで、大分説法に出掛けることを逡巡(しゅんじゅん)するところまでだったんですね。
 
中村:  はい。けれど結局は、宇宙を支配する偉大な神である梵天(ぼんてん)が顕れて、「どうか此の世の人々のために法を、則をお説きください」とお願いした。そこで説法を始められると。そこまでお話が進みましたですね。
 
草柳:  しかし「躊躇(ためら)う」なんていうのは、如何にも人間臭くて、
 
中村:  やっぱりそれはブッダ当人としては、考えられたことだと思いますね。殊に古くからの伝統的な教えがズーッとインド一般に奉ぜられて根を張っておりましょう。それから仏教の興った都市でありますマガダというようなところも邪な教えが蔓延(はびこ)っているなんて書かれておりましたですから、それは当然だと思います。そこでどういう人々を相手に、どのように説いたらいいかということは、ブッダ釈尊自身にとっても大きな問題だったと思います。
 
草柳:  結局誰を相手に選ぶわけですか?
 
中村:  最初はですね、自分の師匠であり、実践上の指導者でありましたアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタという人に説こうかと思ったのですが、しかしもうその時にはこの二人は亡くなっていたということを聞き知ったものですから、そこでそれではそれよりももっと重要な意義あることとしましては、釈尊と一緒に苦行を続けてきました五人の比丘(びく)―修行者ですね―その人々に教えを説いてみようと思った。で、何故その五人が頭へ浮かんだかと申しますと、この五人はみな釈迦族の人なんですね。
 
草柳:  ということは、ブッダと同族、
 
中村:  同族ですね。同じ地方で育って、同じような教養を受けていて、そのうちの一流の人たちはバラモンであったということがはっきり書かれております。当時の知識人の代表的なものはバラモンでしたからね。それがインド全体の精神界を支配していました。そういう人々に先ず当たって説こうと思われたんです。それもいきなりその辺のバラモンのところへ行って議論をふっかけるというんじゃなくて、元一緒に修行していった五人―その五人というのは、釈尊が苦行を止めてしまったので、〈あ、堕落したな〉と思って、それで釈尊を捨てて、ベナレスの郊外のサールナートというところ、そこは仙人の集まるところで、「鹿の園(その)(鹿野園(ろくやおん)・鹿野苑)」と呼ばれている園ですが、そこにおられた。それで釈尊はそこへ出掛けて行って、自分の到達した境地を説くことにされたのですね。
 
草柳:  ただいずれにしても、その一番最初に選んだ相手の五人というのは、釈迦族、つまり一度「お前は苦行を捨てたのだ」と言って、五人に、ある意味では見限られたわけですね。しかし結局その五人を選んだということは、同じ釈迦族の仲間であるということがやっぱり大きな意味を持っているんですね。
 
中村:  大きな意味があると思いますね。そしてその五人の人々が、釈尊を捨てて、そしてベナレスの郊外にある鹿の園に行ったわけですね。それでベナレスというところは、昔から宗教上の神聖な都市と思われていました。そこは古来修行者、学者、行者の集まるところです。今日でもベナレスは尊ばれ尊敬されていますが、そこで新しい教えを説くということは、これは当時のインドの知識人のグループに対して、独自の教えを説くことであり、それを承認させ、納得させるということは、今日で譬えて申しますと、学会などで新しい説を述べ、それが承認されると、一般の人々にとっても定説となるわけですね。だからベナレスの郊外のサールナートで教えを説かれたということは、非常に大きな意味を持っております。
 
草柳:  先ず初めての説法の経緯からちょっと見てみたいと思うんですが、
 
そこでわたしはまた次のように考えた。
「さあ、わたしはまず最初に五人の修行者の群れに教えを説こう」と。・・・
わたしは清浄で超人的な天眼(てんげん)をもって五人の修行者の群れがヴァーラーナシー(ベナレス)の仙人の住処・鹿の園のうちに住んでいるのを見た。
そこでわたしはヴァーラーナシーに向かって遊歩の歩みを進めた。
(マッジマ・ニカーヤ)
 
今先生がおっしゃってくださったような、つまり五人のいるヴァーラーナシーへ出掛けたわけですね。
 
中村:  そうですね。ベナレスの郊外にございますが、今日でも美しい芝生がズーッと続いております。とてもいい場所です。そこでは仙人行者が集まっていたばかりじゃなくて、鹿もいたらしいんですね。だから「鹿の園」と言われています。私もそこへ行って見ましたが、戦後間もなくまいりました時には、鹿が見当たりませんでした。その次の時に行きましたら、そうしたら大人しい綺麗な鹿が飼育されているんで、「私がこの前来た時には、鹿がいなくて、今度来た時には鹿がいるのはどうしたのだ」と言ったら、「ここは鹿の園という昔からの伝統があるんだから、やっぱり観光客を喜ばすためには鹿がいなければならない。余所から鹿を連れて来たんだ」と、そう言っていました。それほど「鹿の園」という名前は知られていたわけなんでございます。
 
草柳:  そのヴァーラーナシー(ベナレス)で五人に会って、さっきお話がありましたけれども、その五人の昔の仲間というのは、ブッダに疑念みたいなものをもっていた?
 
中村:  そうですね。だから初めてブッダが訪ねて来ても、なかなか信用しなかったわけですね。けどだんだん話を聞いている間に、ブッダ釈尊に帰依するようになったというのでございます。
 
草柳:  その辺の経緯については、仏典ではこんなふうに言っておりますので、またそれをちょっと見てみたいんですが、
 
「尊い方ゴータマよ。あなたはその行い・その実践・その苦行によっても、完成した聖なる特別の知見に達しなかった。しかるにいまあなたは贅沢で、つとめはげむのを捨て、奢侈におもむいているのに、どうして完成したすぐれた特別の知見に達することができるでしょうか」
「修行者たちよ。修行を完成した人は尊敬されるべき人、正覚者である。耳を傾けよ。不死が得られた。」
(マッジマ・ニカーヤ)
 
というふうにゴータマ・釈迦は答えているわけですね。
 
中村:  はい。旧友が訪ねて来ても、釈尊・ゴータマブッダをすぐには受け入れようとしなかったわけなんです。殊に何故釈尊を見捨てたかというと、旧来の苦行者の習わしを捨てて、そして食物を食べたり、それから自分独自の道を進もうとしたから、それで旧友は受け入れようとしなかったわけなんです。そんなことをやっていたから、と言って本当に勝れた特別の精神的な境地には達し得ない筈だと。本当に修行のやった人は「アルハット」と申しまして、日本語では「阿羅漢(あらかん)」と申しますが、その究極の境地まで達した筈なんだ。どうも釈尊はまだそこまで達していないと。最初はそういうように思ったわけですが、しかし釈尊の教えを諄々と聞きまして、それで〈あ、なるほど。言われることはもっともだ〉と思って、五人の旧友のうちでも、アンニャー・コンダンニャという人と、アッサジという人が、最後に釈尊にすっかり感服して帰依するようになったと伝えられております。
 
草柳:  今ここでは「耳を傾けよ」というふうに、ブッダは言っていますけれども、何をここで五人に説いたんですか? 中身は?
 
中村:  これはいろいろ伝えられておりますが、一般に認められていることは、ここで「四諦(したい)の教え」ですね。「四諦(したい)」の「諦(たい)」というのは、真理という意味です。人間に関する四つの真理を説いた。その四つの真理の実践法というものは、結局のところ中道に帰するわけでありますが、それをこれからちょっと申し上げましょう。
 
草柳:  じゃ、その部分をまた仏典からお読みして、そしてお話を伺っていきます。
 
修行僧らよ。出家者が実践してはならない二つの極端がある。・・・
一つはもろもろの欲望において欲楽に耽(ふけ)ることであって、高尚ならず、ためにならぬものである。他の一つはみずから苦しめることであって、苦しみであり、高尚ならず、ためにならぬものである。真理の体現者はこの両極端に近づかないで中道(ちゅうどう)をさとったのである。
(サンユッタニカーヤ)
 
つまり中道(ちゅうどう)というのは、今このことですか?
 
中村:  そうでございますね。インド人と言ったって、昔からあのように複雑多義な大きな文明を成立させた人々ですから、いろんな人々がいるわけですね。そうするとやっぱり極端に奔る人がいたわけです。その極端な説というのは、大まかに分けますと、片一方は現世の快楽に耽(ふけ)ること。殊に男女間の歓楽に耽るというようなことは、ある一部のインド人、殊に世俗的な人々の楽しんだところであります。インドの彫刻なんかを見ましても、そういう歓楽の光景を浮き彫りにしたようなものがたくさんございます。これはやっぱりインド人のうちの一つの生き方であり、そしてどうかすると、それに溺れてしまうと。それを戒められたんですね。もう一つの生き方というのは、それと反対でして、何故人間が快楽に耽ったりして道を誤るかというと、これは人間は身体をもっているからだと。だから身体を苦しめて、そして内なる精神を清らかにすればいい。そういう目標を立てまして、それで自分の身体を苦しめるんですね。そこでインド人の、殊に宗教行者の間では、「苦行」ということが昔から非常に行われまして、インドの行者がとんでもない身を苦しめる苦行を行っているということは、アレキサンダーの旅行記なんかにもよく出てきますですね。ギリシャ人は驚いたんですよ。それくらい、例えばスパイク(spike)を立てておいて、その上に寝て、で、先が自分の身体に刺さって血が出ても、それに耐えるとか、そういう極端な苦行をする人もいました。けれども、ゴータマブッダ・釈尊は、それも極端で、どちらも極端な間違った教えである。本当の正しい人間の生き方というものは、これは仮に「中道(ちゅうどう)」と名付けられたらいいものであろうと。「中道」という言葉を聞きますと、世間でもいろんな意味に使われていますが、極端を離れた教えという、極端を離れた実践ということは確かですけど、どうかするとどっちつかずというような意味に取られることもございます。
 
草柳:  極端を足して二で割るという。
 
中村:  そうですね。けれど「中(ちゅう)」という言葉を、辞典で調べて見ますと、「あたる」と読むんですね。つまり人間の正しい生き方、それにちょうど適合している。当たっていると。だからただ二つのものを足して二で割ったからと言って、中道が出てくるものじゃない。本当の人間の生き方ですね。だから「中道」は同時に、「正道(しょうどう)」とも言われております。正しい道、正しい生き方ですね。
 
草柳:  ということは、つまり実践の中に明らかにしていくというか、顕わにしていくというところにやはり意味があるわけですね。
 
中村:  そうです。その精神を、それぞれの人が自分の実践の中に活かすというところに正しい生き方がある、ということをいうわけなんでございます。
 
草柳:  じゃ、正しい生き方というのは、一体何を実践していけばいい、というふうなことになるわけですか?
 
中村:  そうですね。今度具体的にそういう問題が起きてまいりますが、正しい生き方、それをいろいろに分けて説くこともございますけれども、特に有名なのは「八正道(はっしょうどう)」と言われるものです。八つの正しい生き方ですね。
 
草柳:  じゃ、それをまたちょっと見てみましょう。
 
修行僧らよ、真理の体現者のさとった中道とは・・・
それはじつに〈聖なる八支(はっし)よりなる道〉である。
すなわち、正しい見解、正しい思惟、正しいことば、
正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい念(おも)い、
正しい瞑想である。(八正道)
(サンユッタニカーヤ)
 
これが八正道の中身ということになるんですか。
 
中村:  一応区分して説きますと、そういうことになるんですね。先ず元には正しい見解がなければならない。心を正しくしていかなければない。正しい見解があって、それが今度頭で考える思いと、それから言葉と、それから外に現れる行いと、その三つにそれぞれ現れる。ここでは元の言葉から訳してお伝え致しましたが、正しい見解(正見(しょうけん))に基づいて正しい思惟(しい)(正思(しょうし))ですね。仏教の読み方をすれば、「しゆい」と申しますが。それから正しい言葉(正語(しょうご))、正しい行い(正業(しょうごう))と。仏教の言葉で「身口意(しんくい)」と申しますが、身と口と意(こころ)と。その三つをそれぞれ三つの局面を正しくするということですね。それに基づいて、今度は正しい生活(正命(しょうみょう))が実現される。そのためには正しい努力(正精進(しょうしょうじん))をしなければいけない。と同時に、また自分を振り返って正しい念(おも)い(正念(しょうねん))を抱く。そして正しい瞑想(正定(しょうじょう))をすると。これで八つになるわけでございますね。
 
草柳:  この「正しい」というのは、つまり正しさの絶対的な基準などというものが多分きっとないんでしょうから、どういうふうに理解すればいいんですか?
 
中村:  これは仏教の理解するところ、インド人の他の学派宗教とも共通な点がありますが、「正しい」ということは、「善(ぜん)」と、「善(よ)い」ということと相即するわけですが、しかし「善」というと「悪」と対立しますね。この善と悪の区別というものは、実際問題として、なかなか立てにくいことがあるわけです。それぞれの人間の置かれている場面において、今一番いい生き方をどうしたらいいか、と考えます。そうすると、それぞれの生活場面に相応したもっともよい生き方、もっとも適切な生き方、さらに言葉を換えますと、現在においてはもっとも完全であると考えられる生き方、それに則ろうというわけです。だから正しい実践ということは、また完全な実践ということに相即する。ピッタリ合うわけでございますね。いろいろな面から振り返って考えるということが、仏教的な考え方の一つの特徴であろうと思います。つまり狭く限って一つのことだけを無理押しして、これが正しい生き方だと言って、他の人に害を及ぼしたり、迷惑を掛けたり、そういうことを考えない協調主義ですね。これは現代社会でもその害毒が見られますが、それを避けて、今自分の置かれているのはこういう立場、そう思って、その立場でもっとも適切であるという生き方を実現する。それが「八正道」になるわけでございますね。そのように考えられるんです。具体的に何が正しく、何がまた完全な生き方であるか、ということについては、後代の仏教徒がまたその場合毎にいろいろ論じております。これは簡単に教条主義的にポツンと言い切ることはできないと思いますが、根本の精神としましては、やはり人の身になって考える。我も人なり、彼も人なりという立場で考えることになりますと、そうすると人に害が及ぶとかということもなくて、彼も我も共によきいのちを全うすることができるということになるんじゃないでしょうか。その点仏教の思惟は割合にフレキシブルであるということが言えるかと思います。これは文明の進歩と共に、文明の発展の度合いに応じて、あるいはその場面に即して、その我々が反省すべきことであり、つまり中道の精神というものは、たとい世の中がどうなろうとも失われてはいけない。やはり遵守(じゅんしゅ)し実行すべきことである、と言えるかと思います。
 
草柳:  そうした中道の実践の道が、一つ纏まった形というか、思想的に纏められて、「四諦八正道」という形になるわけですか。
 
中村:  そうでございますね。「四諦」というのは、一つひとつ申し上げますと、先ず我々の現実を見るわけですね。そして次に何故我々には思うようにならないか。あるいはどうかしたら人間は間違ったこともする。それは何故であるか、ということを、次に考えるわけです。第二の段階として、そう反省しますですね。じゃ、我々の奥に、執着があるからだと。何かにとらわれていて、欲望がある。その欲望が間違って現れると、正しい生き方を損なうことになる。それが第二の段階ですね。第三の段階として、その目標がある。正しい生き方を実現して、それで我も人も理想の境地を実現しようというわけですね。今度理想の境地を実現するのにはどうしたらいいかというと、八つの正しい道があるわけです。それが「八正道」ですね。その「八正道」を簡単に纏めてその精神を言えば、「中道」ということになりましょう。
 
草柳:  今の話を纏めた仏典・経典がありますので、それをご紹介致しましょう。
 
四つの聖なる真理がある。
その四つとはなんであるか?
いわく、苦という聖なる真理、
苦の集起(じゅうき)という聖なる真理、
苦の止滅という聖なる真理、
苦の止滅にみちびく道という
聖なる真理(八正道)である。
(雑阿含経)
 
中村:  これは経典に出ている通りを現代人にも分かり易いように訳されたものです。それをご紹介くださったわけですが、昔の言葉で言いますと、「苦集滅道(くじゅうめつどう)」と言うんですね。最初は「苦」ですね。人間の生活を考えてみると、なかなか思うようにならないですね。苦しみを伴う。こんなことはない方がいいんだがと思っても、ぶっつかることもございますしね。それが第一なんですね。「苦」でしょう。それから「苦」が起こるのは何故かというと、人間がどうかするといろいろな我欲をもっていて、ガヤガヤつまらんことをして騒ぎを起こすと。その原因が、起こる原因を「集起(じゅうき)」ということもあり、あるいは「集(あつまる)」という字で表すこともあるんです。「しゅう」と読みますが、これはつまりいろいろの原因が集まって個別的な現象が現れ出るわけですが、そのことをいうわけですね。今度その元の原因がなくなってしまえば、理想的な境地に達しうると。「苦集滅(くしゅうめつ)」となるわけですね。その理想的な境地に達するためには、我々は正しい生き方をしなければいけない。それが「八正道」ですね―「道(どう)」なんです。「苦集滅道(くじゅうめつどう)」と。これが四つの真理―「四諦(したい)」と昔から言われることでございます。
 
草柳:  前回お話頂いた、要するにこれが「縁起」なんですね。
 
中村:  そうです。「縁起」という時には、原因と、あるいは条件と申しますか、それとそれに基づいて現れ出た結果との関係、そちらに目を注ぐわけですね。それから今ここでご紹介致しました「四諦」四つの真理というものは、今後人間がどう生きたらいいかということについての反省を、四つの項目で簡単に纏めたものだ。だから趣旨としては別に変わりはない、同じものです。ただ説き方がちょっと違っているというだけでございます。
 
草柳:  そしてこういったことを、ブッダは五人の比丘、昔の仲間にヴァーラーナシー(ベナレス)で説いたわけですね。
 
中村:  そういうわけなんです。
 
草柳:  そしてその五人はどういうふうに受け取ったのか、ということを、次に話を進めて行きたいと思うんですが、これもまた経典から見てみますと、
 
五人の修行者の群れは歓喜し、世尊の説かれたことを喜んだ。
そして尊者コンダンニャに、塵なく汚れなき真理を見る眼が生じた。
―「およそ正起(しょうき)する性(せい)あるものは、すべて滅び去る性あるものである」と。・・・
そのとき世尊はこのような〈感歎のことば〉を発せられた。
「ああ、コンダンニャはさとったのだ!ああ、コンダンニャはさとったのだ!」と。
それゆえに尊者コンダンニャをば〈さとったコンダンニャ〉と名づけるようになった。
(サンユッタニカーヤ)
 
中村:  これはつまりコンダンニャという人は、アンニャータ・コンダンニャとも言われるんですね。「アンニャー」というのは、真理を知る智慧のことです。その智慧によって知ったということを「アンニャータ」という。ただそういう趣旨によって釈尊は、コンダンニャという五人の友だちの中で一番主だった人、それを、あ、コンダンニャは悟ったんだ。だから彼は悟ったコンダンニャと名づけましょうというわけで、こういう感歎の言葉を発せられたというわけなんでございます。
 
草柳:  「およそ正起する性あるものは、すべて滅び去る性あるものである」というふうに、コンダンニャは言うわけですね。このことは、つまりブッダがほんとに言わんとしたところを真から理解したということ、
 
中村:  そうですね。「縁起」というのも、趣旨は同じことですがね。感歎の言葉を発せられたその趣旨は、どなたでもその通りだと思われる。しかしまた我々はどうかすると忘れている恐れがありますね。つまりこの世に生まれたものは、やがていつかは滅びて無くなるものだということ。当たり前の道理です。道理に反することはできない筈ですが、しかし我々はどうかすると、その当たり前の道理を忘れて、つい詰まらないことに執着して争いを起こすというようなことが、世の中にはございますですわね。だからこの当たり前の道理、性あるものは必ず滅びるということですね。これをまた改めて味わって反省してみるということも、今の我々に必要じゃないでしょうか。
 
草柳:  この時の説法というか、教えの内容の「四諦八正道」といったものは、この後仏教の一番根本的・基本的な問題として、ずっといつも根底にある問題だったわけですね。ブッダは最初にそのことを説法するわけですが、「四諦八正道」の「中道」の、こういう言い方とは別の言い方をしたんだという説もあるんだそうですね。
 
中村:  「非我説」と申しますが、我々が執着する外的なもの、これは本当の自分ではないし、また本当の自分に属するものでもない。自分が所有しているわけでもないという。そういうことをいろいろな表現をもって述べられたことがございます。
 
草柳:  非、つまり我に非ず説、
 
中村:  そうなんですね。つまり世間の人は、自分というものをなんと考えているか。自分の、例えば与えられた地位とか、財産とか、権力、そういうものが自分だと思って得意になっている人もありましょう。けれども、それは本当の自分ではないんじゃないか。その点を考えろ、と言うんですね。これもやはり鹿の園で説かれた教えの中に、付随的に説かれていることですが、しかし仏教説としては非常に重要な思想でございます。
 
草柳:  じゃその部分をまた経典から見てみることに致します。
 
修行僧らよ、ありとあらゆる物質的なかたち、すなわち過去・現在・未来の、内であろうと外であろうと、粗大であろうと微細であろうと、すべての物質的なかたちは―「これはわがものではない。これはわれではない。
これはわれの我(が)(アートマン)ではない」と、このようにこれを如実に正しい叡知によって観察すべきである。
(サンユッタニカーヤ)
 
中村:  これも非常に抽象的な、また一般的な表現でもって説かれておりますが、具体的に個々のものについてお考え頂けば、なるほどな、と思ってご理解頂けると思うんです。例えばここに箱があるとします。これを私は自分のものだと考えますわね。ほんとにいつまでも自分のものだと言えるでしょうか。私が消えてしまったら、もうこれは私のものじゃないわけですね。いつまでも自分のものだとは言えないわけです。それからまた、これは我ではないと。例えば世間的な例で申しますと、地位とか、名誉とか、あるいは財産とか、そういうようなものがその人の本質を構成していると思われる場合もございますね。けれども、それも消えてしまえばそれっきりでしょう。私が死んでしまえば、そういうものは自分には残らないわけです。だからこれが自分であるということも言えないわけですね。
 
草柳:  自分の身体だって、
 
中村:  自分の身体だって自分のものとは言えないわけです。そうすると、我がものというものは、結局永遠に存するものではない。これが我であると言われるものも、永遠に存するわけではないですね。またこれが自分の我であると考えられるものだって、永久不滅とは言えないわけです。そうすると、どんなものでも自分のものではない。だから如何なるものも我ではない。そういうことを仏教では説くわけです。それが「非我説」です。
 
草柳:  先生、じゃ自分のしたいというのは、一体どこにあるのか、ということなんですが、よく仏教と言いますと、「無我説」つまり我無しという無我説。「仏教は無我説である」と言われますよね。その無我説ということと照らし合わせながら考えると、どういうことになるんでしょうか? 非我説とは。
 
中村:  今申し上げたことは、原始仏教聖典に説かれて、パーリ語なり、あるいはサンスクリット語で説かれていることを、その通りお伝えしたのですが、あまり抽象的に過ぎるかも知れない。そうすると今度は、今お読み頂いたように、ありとあらゆる物質的な形、即ち過去、現在、未来の内であろうと外であろうと、粗大であろうと、微細であろうと、すべて物質的な形というものは、これは我でもないし、我に属するものでもない。そこまで説いてきたわけですね。その趣旨を簡単にいうために、「無我説」という言い方もあるんですが、「無我」という意味は、「我執がない」という意味なんですよ。「我執を無くせよ」という意味です。我々が生きている限りはやっぱり我執というものをもっているわけですが、ただ「それにとらわれるな」ということです。それで「無我」という言葉がよく使われますのは、「諸法無我」という言い方があるんですね。「諸法」というのは、諸々の事物という意味です。何故それを法というかと申しますと、これは仏教特有の表現法ですが、如何なるものも何らかの本質、能力、あるいは属性を持っていると思われます。そうするとそれらによって表示されるもの、それを「諸法」と呼ぶんですね。つまりその場合の「法」というのは、もろもろの事物を特徴付ける本質、規定、そういうようなものですね。如何なるものでも、そういう本質とか規定とか、特徴とか、性質とか、持っているわけでしょう。そういうものは実体がないわけなんですよ。いつかは消えて過ぎ去っていくものでしょう。本質を持たない。だから実体がない。それを「無我」と呼んで、「諸法無我」という言葉で言い表した場合もあるのです。けど、「無我説」というのは、「我々がもっている我執を無くせよ」と。そういう「無我の態度をもって生きていけ」という意味なんです。ところがこれが後代になりますと、「無我」というのは、「我が無い」という意味にとってしまうんですね。それで「我執がない」という意味の「我がない」ならいいですけど、そうじゃなくて、行為の主体がないという意味に取られた場合もある。少なくとも仏教外の諸々の哲学・学派からは、仏教は行為の主体を認めない、あるいは因果応報の主体をも認めない、という意味に取られて攻撃されたこともございます。これはその趣旨を間違って取られた、あるいは間違って表現した、ということが言えると思います。だから「仏教が無我説だ」という時には、どういう趣旨かよく検討しながら、自分なりに理解して表現する必要があるかと思います。
 
草柳:  決して虚無(きょむ)主義というか、ニヒリズム(Nihilism:この世界、特に過去および現在における人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などがないと主張する哲学的な立場である)でもないですね。
 
中村:  ニヒリズムじゃないわけです。ニヒリズムというのは、何もかも否定するわけでしょう。ところが仏教の「我執を無くせよ」という意味は、内に潜んでいる我執というもがあって、それに誤られることがあるから、それに誤られないように気を付けましょうという、そういう趣旨なんですね。だからニヒリズムではございません。むしろ仏教では「慈悲(じひ)」を説くわけですが、ニヒリズムとは全然正反対でございます。
 
草柳:  むしろどうにもならない我執というか、ブッダが見つけ出した根元的な無知というか、無明(むみょう)というか、そういったものは、これはそこから出てくる我執というのは無くすものではなくて、それはコントロールをするという。
 
中村:  そういう形ですね。制するという意味ですね。主体説をご説明する時に、私、ついつい申し上げませんでしたけど、「苦集滅道(くしゅめつどう)」というでしょう。その「滅」という言葉の元の言葉は、インドの言葉で「ニロード(nirodha)」と言うんですが、これは「制する」という意味です。英語で言えば「コントロール(control)」なんていうのが一番近いかと思いますがね。ほっといたらどっちへ行くかわからないから、それを過ちのないように、我をも人をも損なうことのないように制する。統制する、支配する、そういう趣旨ですね。そこに仏教の実践の基本があると思います。
 
草柳:  ですから、何かが働き出すその倫理主体としての自己というのは、勿論これはないんじゃなくて、あるわけですよね。
 
中村:  そうです。
 
草柳:  今先生のお話を伺ってきたような「四諦八正道」の中身であるとか、「非我説」の中身であるとか、勿論当時は、今先生がお話頂いたような形で纏まったものではなかったかもわかりませんけれども、つまり仏教の教えというか、仏教の一番根本的な基本的な問題というのは、この時に既にブッダは五人の比丘たちにいろいろ話をしていたわけですね。
 
中村:  そうですね。根本的な精神的態度と言いますか、心の持ち方と申しますか、それは鹿の園で説かれた時に明らかにされていて、だからその時の説法の一部だとして伝えられております。
 
草柳:  そして五人の比丘たちは、教えを聞いて悟りを開いて、いよいよブッダと共に―まだ少人数ではありますけれども―伝道の旅に出るわけですね。
 
中村:  そうです。
 
草柳:  その部分を経典から次に見てみましょう。
 
修行者らよ、汝らもまた、一切の束縛から解脱した。
歩みを行え、衆人の利益のために、衆人の安楽のために、世人に対する同情のために、二人して一つの道を行くことなかれ。初めよく、中ごろよく、終わりもよく、理(ことわり)と文(あや)とそなわった教えを説け。・・・
われもまたウルヴェーラーなるセーナー村におもむこう、―教えを説くために。
(サンユッタニカーヤ)
 
と言って、この辺は決意表明みたいなところがありますけれども。
 
中村:  随分強い決意表明ですね。「二人して一つの道を行くなかれ」。これは寂しいからという具合に取られるかもしれない。そうとってもけっこうですけどね、むしろ教えを説く場合に、二人して行くと伝わるのが半分になってしまう。それを二人が別々のところへ行って、別々に教えを説けば、広く広がるという、人々のために説いて広げる必要がある、ということを厳しく言っているわけですね。
 
草柳:  そして言ってみれば、ここで一番小さな教団が漸くできたというふうに思っていいかもわかりませんけれども、ただ教団を広めていくという初期の歴史の中で、先生、もの凄く大きな出来事があったんだそうですね。
 
中村:  これはそれについて大きく問題になりますのは、火を祀るバラモンですね。いずれもカッサパという姓で呼ばれておりますが、大勢の弟子を連れていました。その人々を教化したということはやっぱり注目すべきじゃないですか。
 
草柳:  ブッダが伝道に出掛けた頃というのは、仏教というのは、まだ言ってみれば新興宗教教団だったわけですね。
 
中村:  そうです。小さな宗教グループだったわけです。
 
草柳:  今おっしゃった火の祭りを行う教団というのは、言ってみれば既成の宗教というふうに、もっと大きな既成教団というふうに思っていいわけですか。
 
中村:  そうです。仏教が最初に興った時には、大体釈迦族の親しい人々の間で承認賛成を得てだんだん広がっていた、というわけでございましょう。ところが当時の第一の強国マガダには、昔からのバラモンが火の祭を行っていまして、ヴェーダの宗教というのは、結局火に使える宗教なんですね。大勢の弟子を連れておりました。その人々を教化して、それで彼らがみな揃って仏教に帰依しました。集団改宗ですね。これはやっぱり教団の歴史の中では大きな事柄だったと思います。
 
草柳:  そうやって一つずつというか、一歩一歩教団がだんだん大きくなっていくと同時に、それは取りも直さずブッダの教えがそれだけ広まりを見せ始めたということですよね。
 
中村:  そういうことになります。ブッダは、前にも申し上げましたが、相手を見て教えを説くというか、だから頭ごなしにやっつけるとか、喧嘩を売るというふうな態度ではなくて、諄々と説いて、そして実質的に行いを改めさせるという、そういうやり方です。だから三人のカッサパという勢力のあるバラモンたちを教化するについても、バラモンというのは、ただ生まれが良いからと言って尊敬されるのではない。火を点して、そして神様を喜ばせるということによって、人間の正しい生き方がなされるのではない。そうじゃなくて、人間として正しい生き方をすること。それがバラモンたるものの本質であるぞよ、と、そういう説き方ですね。
 
草柳:  最後に大変興味深いというか、ブッダの言葉を経典からご紹介したいと思うんです。
 
そこで尊師は修行僧らに告げられた。修行僧らよ。
すべては燃えている。
すべては燃えているというのはどういうことなのか?
眼は燃えている。・・・
耳は燃えている。・・・
鼻は燃えている。・・・
舌は燃えている。・・・
身体は燃えている。・・・
(こころ)は燃えている。・・・
なにによって燃えているのであるか?
貧欲の火によって、嫌悪の火によって、
迷いの火によって燃えている。
誕生・老衰・死・憂い・悲しみ・苦痛・悩み・悶えによって燃えているのだ。
(マハーヴァツガ)
 
という言葉なんですが、先生、今まで比較的「四諦八正道」にしても、それから「縁起」の話にしても、理屈というか、思想っぽい話だったわけですけど、これを今みるとブッダがほんとにジッとこう見つめていたのは、人間の何だったのかということが実によく解るような気がするんですが。
 
中村:  ブッダの説き方は割合大人しい説き方でしょう、一般的には。ところがここでは人間性を見つめて、ここに生きている一人の人間がいる。これは苦しみ・悩み・悶え、いろいろなものに取り憑かれているわけです。それは「燃えているようなものだ」と非常に厳しい激しい言い方だと思いますね。言われてみると、ほんとにその通りですがね。私どもは、存在とか、生活というものは、眼に見えない何かしら不思議な力に衝動的に動かされて、そして生きている面が非常に多いです。それを人間の個々の生活場面に分けて、ここに説かれているわけです。
 
草柳:  貧欲の火によって、嫌悪の火によって、迷いの火によって燃えているのだ。あらゆる苦しみによって燃えているのだ、と。つまりこれは全部欲望なんですね。
 
中村:  全部欲望ですね。結局「貧瞋癡(とんじんち)の三毒(さんどく)」と申しますがね。分解してみると、ここに説かれているように、眼は燃えているとか、その対象も燃えているとかということになるんですが、しかしその根本を突き詰めてみますと、結局「貧瞋癡の三毒」と申しますが、つまり「貧欲(とんよく)」と「瞋(いかり)」と根元的な「迷い」と、それを衝動的に動かされている。そしてその日その日を送っているのが、凡夫の生活ではないかと言って反省を促されている、というわけでございましょうね。
 
草柳:  いわばどうにもならない、言ってみればドロドロした部分を、人間というのは誰もがもっていると思うんですが、そこのところをジッと凝視するところから何か、
 
中村:  そこから人間の反省というものが出てくるわけです。これは私どもも、日本の仏教史を見ましても、そういう反省は証明されているんで、今更ハッと驚くことございますが、例えば親鸞聖人(しんらんしょうにん)の『御和讃』というのがございますが、あの中でフッと出てくる言葉ですが、
 
悪性(あくしょう)さらにやめがたし
こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり
(親鸞和讃)
 
「悪性(あくしょう)」悪い性質ですね、悪い性(さが)ですね、これ止めようと思っても止められないんじゃないか。自分の心を見ると、先ず蛇やサソリみたいなものが内にはとぐろを巻いているじゃないか。
 
草柳:  それを誰もやっぱり凝視したわけですね。
 
中村:  凝視したわけですね。そこへ繋がると思います。
 
草柳:  今日はどうも有難うございました。
 
     これは、平成二十五年十二月十五日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである