ブッダの人と思想C一切にわがものなし
 
                インド哲学者 中 村(なかむら)  元(はじめ)
                き き て  草 柳  隆 三
                語   り  石 澤  典 夫
 
石澤:  「こころの時代」では、毎月中村元「ブッダの人と思想」セレクションを放送しています。これは一九九五年に、十二回にわたって放送されたシリーズから、七本を選んで再編集したものです。お話は、インド哲学・仏教学がご専門の中村元さんです。中村さんは、非凡な語学力を活かしてパーリ語やサンスクリット語で書かれた原始仏典を数多く翻訳されました。学術的にも正確で、しかも誰にでも分かる易しい表現でブッダの言葉を紹介しました。こちらをご覧頂きましょう。今回のセレクションでお送りする内容です。前回は「法輪を転ず」と題して、ブッダが初めて行った説法を中心に、ブッダの思想の根幹にあったものとは何だったのかをお伝えしました。今回は、セレクションの四回目です。元のシリーズでは、この後に「この身は泡沫(うたかた)のごとし」という回が続いています。この中で中村さんは、ブッダの人間観について語っています。ブッダは、人間の本質を「煩悩の火に焼かれている存在だ」と考えて、物事への執着を断ちきることで安らぎの境地が得られると説きました。今回四回目は、これに続く「一切にわがものなし」をご覧頂きます。私たちが所有し、自分の証であると考えている財産ですとか、地位ですとか、あるいは家族。しかしどれ一つとして永遠のものはありません。でも本当の自己とは何なのか。ブッダの教えをご紹介致します。きき手は草柳隆三さんです。
 

 
草柳:  今日のテーマは、「一切にわがものなし」ということです。私たちは、自己というのは、「われ」とか、「我がもの」という思いで成り立っているのではないか、というふうに考えるわけですが、じゃ、それが「本来の自己なのか。本当の自己なのか」ということを問いつめていきますと、これはなかなか一筋縄ではいかない問題を含んでいるのではないか、という気が致します。ブッダは、自己というものをどういうふうにみていたのか。これが今日のお話の内容です。いつものように、東方学院院長の中村元さんにいろいろとお話を伺っていくことに致します。先生、今日もよろしくお願い致します。
前回五回目には、人間存在のありようということでお話を伺ったわけですが、今回はもう少し個人というところに焦点を当てて、ブッダがどういうふうに考えていたのか、というふうに伺っていきたいと思っているんですが、先生、仏教では、よく「無我」という言葉を使いますよね。これは文字通り「われなし」ということでは勿論ないだろうと思うんですが、この「無我」というのは、どういうふうな意味合いで使っていたわけですか。
 
中村:  仏教では、「無我」ということを説くと、世間一般に理解されていますし、それから昔からインドの哲学的な諸学派から、仏教を批判する場合に、「我が無いということを説いている。それはおかしいではないか」というような批判が出ているんでございます。けど、仏教の本当の趣旨は、「我執をなくする」ということですね。我々は、日常の生活を見ましても、始終自分の欲望とか利益とか、そういうことにとらわれて行動する場合が非常に多いですね。けれど、それは我執にとらわれているものだから。そうではなくて、本当の自己を実現すべきである、ということを、仏教では最初から説いていたわけなんでございます。「本当の自己を実現するためには、我執を離れよ」ということを、古い時代から長い歴史を通じて、仏教では説いているわけでございます。それを多くの人が、「無我」と説いているわけです。それからまたこういう解釈もあるわけです。仏教では、「無常の教え」を説いておりますね。そうすると、「如何なるものにも本体はない」という、それを「無我」という言葉で表明している場合もございます。けど、趣旨としては、我々がしょっちゅう煩悩に悩まされていますが、それに支配されないで、「本当の自己を実現せよ」というのが、仏教の建前でございました。
 
草柳:  「無我」と言いますと、これは文字通り読んでしまえば、「我が無い」ということになってしまうんですが、勿論そんなことはある筈はないわけで、自己というのは当然あるわけで、今先生がおっしゃいましたように、仏教で使っている「無我」というのは、人間は欲望の固まりみたいなものですから、そういう我執をともかく解き放っていくと。
 
中村:  そうです。「本当の自己を実現する」ということを目指したわけでございますね。「無我」ということから連想されますのは、「我」というのは、「アートマン(ヴェーダの宗教で使われる用語で、意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。真我とも訳される)」というインドで昔から考えられた哲学的な原理で、人間の内にあって、それを司宰(しさい)するものと、そう見られておりますが。そのアートマンというもの、その言葉にはいろいろ長い歴史がございましてね、元は「息、呼吸」。人間の持っている「息、呼吸」ですね。そういうものを意味して、で、英語でも「atmosphere」という言葉がございましょう。
 
草柳:  雰囲気とか、
 
中村:  そうです。その「atmosphere」と語原的にも関係するわけなんですね。元は同じなんです。ですから人間のもっている「息、呼吸」を意味することがございます。それからさらにそれが転じて人間のもっている「肉体」ですね、この「身体(からだ)」をも意味致します。さらに哲学的に思いを馳せまして、人間の「自己」というものですね、それをアートマンと呼ぶこともございます。それで本当の自己を考える場合に、我々は誤って理解している。世間の人は、いろいろなものを人間の本当の自己と思っているけれども、それは「本当の人間の自己ではない」ということを言うんですね。例えば自己として、世間の人が何を考えるか。「自分の肉体、この身体が自己だ」と理解される場合も非常にございますね。それでなくて、例えば自分のもっている財産であるとか、権力であるとか、地位であるとか、そういうものを自己だ、と思う人もございます。またそう思われる場合もございます。しかしそれは本当の自己ではない。何故かというと、いつかはそういう社会的な地位とか、あるいは権力とか、そういうものは自分から離れていくわけです。人間が死ぬ時には、それからも離れてしまうわけですから。あるいは人間が非常に親しい友情をもって付き合っている方々がございますね。親しき友人、これは本当にこちらの思うことを理解してくださって、有り難いなと思いますが、しかしいつまでも一緒に生きていることはできないので、人間が死ぬ時には一人で死ぬわけですね。殊に私のような年輩になりますと、昔から仲良くきた親友が亡くなるということは、これは非常な打撃でしてね、改めて自己の孤独ということを思い知らされるんでございます。
 
草柳:  先生、今日のテーマである「自己」と、さっき出てきた「アートマン」という言葉の関連で考えると、例えば今回今使っている「アートマン」というのは、「本来の自己」というふうに考えていいんですか。
 
中村:  いや、「アートマン」は、いろいろな意味がございます。インドの典籍ではいろいろな意味で使われておりますが、これらのものは「本当の自己ではない」ということを仏教では説くわけですね。今申しました社会的な地位であるとか、財産であるとか、そういうようなものは、その人の自己だと見なされる場合が多いですけれども、しかし本当の自己ではない。死ぬ時はそういうものから離れるわけです。あるいは自分の最愛の家族、これはもう誰でも自分の自己以上に愛している場合が多いですが、しかし人間が死ぬ時は一人ですわね。そうすると、それも本当の自己ではない、と。そこで「本当の自己とはどういうものか、ということを考える直せ」という教えが迫ってくるわけでございます。
 
草柳:  そうすると、「これもそうではない、あれもそうではない。これもアートマンではない、あれも違うのだ」というふうに消していったわけですか。
 
中村:  そうです。消去法によってどんどん消していって、そして結局じゃ本当の自己を求めよ、ということを説いたわけです。本当の自己を求めるためには、誤って理解しているこの人間のいろいろな煩悩とか欲望とかございますね。そういうものにとらわれるな、と。如何なるものでも、我にあらずと、本当の我に非ず、と。だから「無我」というより「非我」という言葉の方が、古い漢訳仏典には使われているんでございます。けれども、「非我」というのは、どっちかというと哲学的な議論でしてね、やっぱり人々にその気持ちを理解させるためには、「我執を無くす」という意味で、つまり「煩悩に引っ張り回されるな」という意味で「我執を無くす」。それを簡単に「無我」と説くわけですね。
 
草柳:  「非我」我に非ずというか、その「非我」という言葉の方が、何となく分析的で分かり易い気がするんですが。
 
中村:  哲学的には、その方が分かり易いですね。合理的でございますね。けれど、昔から日本人一般に対する教えとしては、「詰まらぬ欲望だの、情欲に満たされるな」という意味で「無我」という教えの方がピンとくるというんで多く使われています。しかしその意味は、「我執を無くせよ」というわけでございます。
 
草柳:  その「我執」とらわれの最たるものというのは、多分「わがもの、これは自分のものだ」というところだろうと思うんですね。その辺のところをまた仏典からちょっと見てみたいと思うんですが、
 
子ある者は子について憂い、また牛ある者は牛について憂う。執着するよりどころによって、人間に憂いが起こる。じつに、執着するよりどころのない人は、憂うることがない。
(サンユッタニカーヤ)
 
これはまさに今のことを言っているわけですね。
 
中村:  そうですね。どの時代でも自分にとって一番親しいものは、また大切なものは家族、子どもたちでしょうから。だから真っ先に「子」が出てくるわけですね。それから当時はまだ貨幣経済が十分に発達していませんでした。それでものの値段や価値を定めるには牛何頭でやったものです。牛というものが非常に重要な財産だった。だからまた牛を持っている人は、牛について憂えていると。無くしちゃ困ると思って。けれど、もっと大事なことを忘れていないかという教えが裏に潜んでいるわけでございます。
 
草柳:  何故こうした所有であるとか、わがものであるという考えを捨てなければならないのか、と。ということは、つまりそういうものはおっしゃるように、決して永遠のものではない。
 
中村:  永遠のものではないわけですね。それは我々は、大切なものは何時までも続いて残っていると、そう思いがちですけれども、よく考えてみますと、決して永遠に存するものではない。その道理を心に留めて、そしてそれぞれの人にとって本当に大切な自己、それを生かせ、ということでございます。
 
草柳:  今の続きをまた読んでみたいと思うんですが、
 
わたしには子供がいる。わたしには財産があると、愚者は悩まされる。じつに、自己は自己のものではない。どうして子供が、どうして財産が、自己のものであるか。
(ダンマパダ)
 
中村:  これは、今から二千五百年前に説かれた教えですけれども、現代の方にも非常にピンとくるものがあるんじゃないですか。と申しますのは、昔は家族制度というものが確立しておりましてね。ところが今日では崩れました。そうすると、昔のように子供に頼りになるということにはならない。子どもにばかり当てにされると、子どもの方でも迷惑だと、そういうことを申してまいりましょう。それから財産があると言うんですね。戦後はすっかり財産相続の制度も変わりました。そこで古い意味の家柄とかというようなものは重んぜられなくなりましたですね。それから最近になりましても、じゃ、銀行預金なんか安定して、大丈夫だ、とみな理解していたわけですが、とんでもない。自分のお金なのに使えなくなるというようなことも、最近起きておりましょう。こうなりますと、我々何を頼りにし、何を目当てにしたらいいか、ということを考えよう、というわけでございます。
 
草柳:  ただここでは、「自分でさえ自分のものではない」というふうに言っていますね。「自己は自己のものではない」と。
 
中村:  この場合は、自分というのは、現に生きている自分。そうすると、やはり複雑な人間関係の中に置かれていますから、だから煩悩・欲望に悩まされることもあります。損得の世界で考えなければならない問題でもありましょう。そこで自分を抑えて理想を追求したいわけですけれども、しかしこの自分の身が思うようにならないではないか。そういう場合もあると。じゃ、本当の自己というのは何だろう、と、そこまで追求していくわけでございます。
 
草柳:  しかし「自己さえ自己の所有物でない」という言い方というのは、これは二千五百年前のブッダがおっしゃったことですよね。だけど、現代の我々にとっても、実に痛烈なというか、凄く透徹した人間の見方というと感じがしますね。
 
中村:  そうですね。痛烈な寸言でございますね。
 
草柳:  そうなんですね。
 
中村:  それで「何を頼りにしたらいいか」ということでありますが、世の中で頼りになるものというのは無い、というわけですね。無常説にもその趣意が含まれておりましたが、本当に我々の目指すべきものは何であったか。それは真の自己であると。つまり他のものをただ当てにしているんじゃダメだ。じゃ、本当の自己というのは何か、ということでありますが、これがまた初期の仏典によく出てくるんでございます。
 
草柳:  じゃもう少し先を見てみましょう。
 
なにものかをわがものであると執着して、動揺している人々を見よ。(かれらのありさまは)ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。これを見て、「わがもの」という思いを離れて行うべきである。
(スッタニパータ)
 
中村:  これも人間に対する痛烈な反省でございますね。我々は詰まらぬことに煩わされてばたばたしておりますね。その様子は、ちょうど魚が川から離れて、水の少ないところへ行かれるとばたばたします。そのようなものじゃないか、と言うんでございますね。そう言われてみると、確かにそうだと思いますですね。
 
草柳:  ブッダが言おうとしたことというのは、先生がお話くださったように、ともかく執着を離れなさい、と。執着を離れて自由に生きなさい、ということだと思うんですけれども。
 
中村:  その「自由に」というのも、得手勝手をしていいという意味じゃないんですね。ただ放っておきますと、人間は得手勝手をしたがる。それだから法律だとか、あるいは世間の掟なんていうものができるわけですが、仏典の中に説かれているところですね、「自己に頼れ」というんですね。「真実の自己に頼れ」と。それは同時に、「ダルマ(法)に頼れ」と言われるんですね。「ダルマ」と申しますのは、「人間の生きていく則、規範、規則、人間が生きるための道」そういうものが、人間には必要であると。つまりそういうものがあるからこそ、我々は生きていくことができるんでありまして、それで我々の頼るべき究極のものは、そういう道である、と。だから「真の自己を追求するということは、人間としての真の道を追求する」ということなんですね。
 
草柳:  法を、
 
中村:  「法」です。元の言葉では「ダルマ」と申しますが、これは仏典では「法」と訳します。法律の法もそこへ入るわけですけど、それだけじゃなくて、「人間の生きるための規範」それを「法(ダルマ)」と呼んでいるわけでございます。
 
草柳:  それも人間の手によって作られたものというよりも、もっとつまり根元的なというか、基本的なというか、仮に釈尊・ブッダが、この世に現れなくても、現前としてあるものだ、というふうに捉えていいわけでございますね、おっしゃる法というのは。
 
中村:  そうでございます。ブッダが世に現れようと、現れまいと、人間の生きるべき道―規範―道は永遠に存すると言うんですね。だから昔の人も守ったであろうが、今の我々もやはり守るべき道がある。生きている社会が違いますから、その道を守る仕方は、時代によって違うでしょうけど、しかし人間の道という意味ではいつまでも続くものであり、また民族の差を超えて、あるいは国々の差を超えてでも人間として守るべきもの、
 
草柳:  「自由に」と言ったって、「勝手に」という意味ではない、ということだと思うんですが、
 
中村:  「自由」という言葉も、仏典に出てまいります。自己に由るんです。「本来の自己に由る」という意味なんです。だから人間のこせこせした詰まらない欲望だとか、煩悩に迷わされないで、という意味でございます。その意味の本来の自己というものを、仏教は説いている。だから本来の自己に頼る道を「仏道」と呼ぶわけですね、あるいは「仏法」と言っても同じことです。また「仏法」とか、「仏道」なんていう名前もなくていいわけですね。普遍的なものですから。
 
草柳:  それと「自己」ということで言えば、確かにとらえどころのないものかもわかりませんけれど、身体というのがあるわけですね。それぞれ持っているわけです。そうすると自己の身体に対する考え方というのは、これはどうだったんでしょうか。
 
中村:  ここに我々人間として生きていますと、現に身体持っておりますね。と同時に、そこに精神作用が働いているわけですね。心があるわけです。そうすると、身心(しんしん)ですね。身心(しんじん)とも申しますが。その二つを対立して考えるということがなされます。それで仏教が人間自身を反省するということを行うようになりますと、ただ身心(しんしん)だけではなくて、もう少し細かに分けるということも致しました。
 
草柳:  どんなふうにですか?
 
中村:  そうすると、大体我々個人の存在を分けて、五つの構成様子を考えたわけです。それは玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)なんかの訳語によりますと、「色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)」というんですがね。「色」というのは「体」です―物質です。だから人間について言えば、体ですね。それから「受」というのは「感覚」です。外からくる刺激を受けますね。その精神の働きです。その感覚などに基づいて、我々がいろいろなことを考えます。表象作用が働きます。それが「想」です。それからその奥に、また人間の精神作用がいろいろに動きますが、それを作り出す力がある。それを「サンスカーラ」と言うんですが、それを仮に仏典では「行(ぎょう)」と訳すわけでございます。それからそれらを分別する能力があるわけでございますね。これを「識」と言います。これが人間の個人存在を構成する構成要素だというんですね。
 
草柳:  最初の「色」が身体、後の「受想行識」というのは、いわば心の働きと捉えればいいわけですね。
 
中村:  そうでございます。
 
草柳:  そういうものによって人間というのは成り立っている。それぞれの「色受想行識」の一つひとつについても、これはつまり自己ではない。
 
中村:  自己ではない。
 
草柳:  人間というのは、「五つの要素から成り立っている」というふうに分析をしたわけですね。
 
中村:  原始仏教の思想家は、そのように分析したわけでございます。
 
草柳:  しかもその一つひとつが、それぞれ「これは自己ではない」というふうに言ったわけですね。
 
中村:  そうなんです。「これが自己ではない」と。その中にも、それぞれの中にも自己があるわけではないと、そういうような説き方もございます。
 
草柳:  ですから、人間というのは、今おっしゃるような五つの構成要素からただ成り立っているものに過ぎないと。
 
中村:  そういうわけでございますね。だけど五つの構成要素から成り立っていると申しましても、これもまた偶然そういう合成物ができあがっているわけではなくて、そこにまでに人間が到達するためには、生まれてから長い時間に亘って周りの無数の事物から影響を受けているわけですね。まあ因縁の作りだしたものであると、そう言えるかと思うんでございますね。区別して申しますと、「因」が主たる原因、「縁」は、副次的な原因でございますが、そういうものの無数の力が集まって、そして五大が創り出された。今度それを創り出した無数の事物、あるいは力と申しましても、その奥にまた無数の力があったわけでございましょう。だから一個の個人を取り上げて考えましても、個人存在というものも宇宙全体の不可思議な無数に多くの力がそこに働いてできあがっているわけなんですね。
 
草柳:  この辺のところをもう少し仏典から見てみたいと思うんですが、
 
刀が体に刺さっている場合に刀を抜き去るように、ターバンを巻いた頭髪に火がついている場合に急いで火を消そうと努めるように、〈自身ありという見解〉を捨て去るために、修行僧は気をつけながら遍歴すべきである。
(サンユッタニカーヤ)
 
中村:  ここに個人存在があると。それを身体だけで捉える生き方もございますが、あるいは身体と精神作用の合したものと捉える見方もあるわけですが、いずれにしましても、それでは人間の本質、あるいは個人の本質を構成していると思ってはいけない。それに制約されないようになさいと。刀が体に刺さっている。その場合には大急ぎで刀を抜き去りますね。そういうような覚悟で進みなさい。あるいは頭髪に火がついている場合、これはインド人は古くからターバン巻いておりますね。それから女性でしたらサーリーを纏う。火が点きやすいんですね。火をキャッチし易いのです。そういう場合に、危ないから誰でもサッと燃えているものを取り去って、それで本気になるだろう。仏典では頭が燃えると書きまして、「頭燃(ずねん)を払う」ということを申しますですね。そういうような非常に緊張した気持で心の実践に励みなさいと。それが真の自己を実現する所以であると。そういうことを説くために、こういう非常に厳しい譬えをもってきているんでございます。
 
草柳:  ですから「無我」ということは、単にそれは自己の分析というふうなことではまったくなくて、まさに執着を解き放つことであるとか、我執を捨てなければいけないということで言えば、つまりそれは実践なんですね。
 
中村:  実践でございますね。人間のもっている煩悩を払う、あるいは欲望を抑えるというようなことも、大きな実践であり、それによって真の自己が現れ出てくる。めいめいの人のそれぞれの生きるべき道があるわけですね。それを具現するのが大いなる自己を生かす所以であると。後世になりますと、「大我(だいが)」という言い方もございます。単に小さな我ではなくて、その奥にある大我を生かすと。そういう説き方もございますが、いずれにしましても、この小さな個人存在の中に考えてみれば、過去からの限りない偉大な事物・現象・力がそこに及んでいるわけでございましょう。そういうことを考える自分の体も、実は自分個人のものではないわけですね。祖先から、人様からの恩を受けて、今までも生きているわけです。さらに先のことを考える、つまり人々のためにこの身を生かすということもやはり考えなければならないわけでございます。それでこそ本当の自己を生かすことになる。
 
草柳:  自己とは何であるか、ということについて、お弟子さんと悪魔との大変分かり易い対話のエピソードが仏典の中にはありますので、それからまたちょっと見てみたいと思うんですが、悪魔がこんなふうに語り掛けた。
 
〔悪魔が語りかけた〕「この生ける者は、だれが作ったのか?
生ける者の作者(つくりて)はどこにいるのか?
生ける者はどこから生じるのか?
生ける者はどこに滅びるのか?」
 
と悪魔に語り掛けたわけですね。そうすると、「ヴァジラー尼」というのは、これはお弟子さんになるわけですね。
 
中村:  お弟子さんですね。
 
草柳:  そのお弟子さんのヴァジラー尼がこんなふううに答えています。
 
〔ヴァジラー尼は答えた〕「そなたはなにゆえに〈生ける者〉というものを認めるのか? 悪魔よ。汝は悪しき見解をいただいている。この〈生ける者〉はただもろもろの形成されたものの集合である。例えばじつにもろもろの部分が集まったならば〈車〉という名称が起こるように、それと同じく、五つの構成要素(五蘊(ごうん))が存在するのに対して〈生ける者〉という仮りの想いが起こるのである。」
(サンユッタニカーヤ)
 
分かり易いですね。
 
中村:  そうですね。
 
草柳:  分かり易いけれども、大変深淵(しんえん)なというか、深い問題を表しているというか、
 
中村:  これはヴァジラーという尼さんが、大変な問題提起をしているわけですね。今ここで最初にお読み頂きましたパッセージ(一節、ひとくだり)ですね。ここに私は生きている。個人としております。他の方もそうです。それは誰が作ったのか。それの作り手は何かといったら、これは東西の哲学を通じての大問題でしょう。その問題提起をここにしているわけですね。悪魔が呼びかけたんだとか、ここではなっておりますが。それから考えてみれば、我々はここにどこから生まれてきたのかわかりませんけど、とにかく生きた存在としているわけでございます。そしていつかは消え失せるわけですね。それが消え失せてどこへいくのかと。これも哲学・宗教の大問題ですね。その問題提起を尼さんがしたということは、これは大きなことだと思います。
 
草柳:  それに対して、答えの方をもう一度ちょっと見てみたいと思うんですけれども、ここで先生、途中で「この〈生きる者〉はただもろもろの形成されたものの集合である」というのは、先ほどの五蘊のこと、
 
中村:  五蘊ですね。それは目に見えない隠れた力によって創り出されたものである。それが集合して、ここに各個人が成立しているというんですね。
 
草柳:  最後の「〈生ける者〉という仮りの想いが起こるのである」というのは?
 
中村:  これは、ここに私なら私という生きる者がいるけれども、実はこれは仮の存在に過ぎない。いつかは構成要素が分解して消えて無くなる筈だと、そこまでついているわけでございます。
 
草柳:  ですから常住不変の存在として、その実体としてはあるのではない、ということをきちんと知らなければいけないということを言っているわけですね。
 
中村:  これは仏教の立場からそのように理解しているわけです。それで仏教が興る前には、正統バラモンの方では、ウパニシャッドの哲学というのがございますね。アートマン(ヴェーダの宗教で使われる用語で、意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。真我とも訳される)を追求したわけです。そのアートマンというものを何かこう実体的なものとして捉えようとした。それに対して仏教は反対したわけです。例えばここに机がございますね。ここに確かに見えるものがあり、触れれば感触が起こります。けれど真実の自己というのは、そういうようなものではないということを、仏教では言いたいわけなんでございます。
 
草柳:  じゃ、真実の自己というのは一体何なのか、というふうに説いているんですか?
 
中村:  これはこういう具体的な、あるいは具象的なものとして、物体として、あるいは実体として示すことはできない。けれども、我々人間が、人間として自覚して道を追求し生きていく。その生きていく実践の中に真の自己が現れるというんですね。具体的にどれだけの大きさをもったものであるとか、どれだけの重量を持ったものであると、そういう具合に表すことはできない。けれど、我々人間がこのように世に現れ出たその所以、わけを理解し、思いを馳せまして、そして実践していく。その中に真の自己が現れる。だから真の自己を追求することは、「ダルマ(法)」―人間の生きる道ですね―それを追求することと結局同じことに帰するわけです。それは釈尊の最期の説法の中にも出てきます。つまり真の実践をなすということが、自己すなわちアートマンに頼る所以であるという、そういう教えも出てまいります。そこに自己、アートマンが出てくると。「アートマン」というのは、こういう大きさをもったものだといって示すことはできない。人々が人としての自覚をもって実践する。その中に自ずから働きが現れてくる。そういう性格のものである、と説いていたと考えられるんでございます。
 
草柳:  勿論私たちは、私どもの社会生活の場面に引き下ろして今のことを考えても、当然毎日生活をしているわけです。その生活の中でいろいろなことを考えたり、行動したりしているわけですから、そういう行為の主体としての自分―自己というものは、これは紛れもなくあるわけですね。
 
中村:  あるわけでございますね。日常生活のその場面においては否定することができないわけですね。だから「自己に頼る」ということが、釈尊の最期の説法にも出てきます。それからまた他の場合にも説かれていますが、それは人間としての生きる道、つまり「法に頼る」ことである。だけど「自己に頼る」ということと、「法に頼る」ということが同じ事柄として並べて説かれております。
 
草柳:  ですから我執を解き放たなければいけない、捨て去らなければいけない自己と、それからよりよい自己と言いますか、本当の自己を求めるその自己と、まあ言ってみれば、二つの自己がある、自分の中にあるという。
 
中村:  そういうわけです。現れる場面が違うということが言いましょう。つまり我々存在しているものは、偉大な宇宙に育まれたものであるということを自覚して生きるならば、それは真の自己を追求したことになりますし、また真の生きる道を追求したことになるわけでございます。しかしそういうことを自覚しないで、多くの場合はただ漫然と生きているわけですね。その場合には自分の欲望であるとか、煩悩に支配されがちになる。だからそういう自己という面もあるということ、つまり両面あるということですね、砕いて申しますと。
 
草柳:  本当のというか、真実の自己とは何か、ということを探し求めることが、何より大切なのだという、面白いエピソードがあるんだそうですね。
 
中村:  それはごく通俗的な面白いエピソードですがね。この機会に申しますと、お釈迦様が悟りを開かれて、それからヴァーラーナシーの方へ行かれますね。そのヴァーラーナシーの商業指導者たちと交渉もある。そうすると仲間へ子どもたちがお弟子になったわけです。そこで釈尊はまた元の悟りを開かれた方のウルヴェーラの町に戻って教えを述べられておったんです。それで当時の修行者の形をして貰ったわけですから歩いて行かれた。大道を歩いて行くと、向こうから若い男が一人血相を変えて慌てふためいて飛んでやって来た。釈尊が、「お前さん、どうしてそんなに慌てふためいているのか?」と聞かれましたら、その男が言うには、「実は私たち仲間の友人たちと三十人グループを作ってこの美しい森のところまで楽しみに来ていた」というんですね。その時、「皆はそれぞれ奥さんを連れて来た」というんですよ。「ところが自分だけはパートナーがいなかった」というんです。そこで他の人が気の毒に思って、なんか遊女を連れて来て、「これが相手だから楽しくやろうや」ということになった。みんな酒なんか飲んだりして楽しくやっていたんでしょう。寝てしまったんですね。フッと気が付いてみたら、そこへ連れて来られて、自分にあてがわれた遊女が、仲間の持っている高価な貴重品―金目のものを全部持って逃げてしまった。それで私は相手が居ない。その女性をとにかく捜し出して、何とか決着をつけないかんというで、慌てふためいていた」というんですね。そうすると、釈尊がそこで質問した。「お前さん、遊女が急に雲隠れしたからと言って、そんなに慌てているけれども、女を求めるのと自己を求めるのと、どちらが大事か」と言われた。痛いところを突かれたんですね。そこでそう言われてみると、自分は自分の自己を反省して求めるなんていうことは、考えてもいなかった。そこで若い男は釈尊のお弟子になった、と、そういう物語があるんです。ですからそこで自己を求めるということが、一つのテーマになっているんですね。
 
草柳:  欲望に打ち克って自己を求めなさい、という教えなんですね。
 
中村:  はい。それを忘れていたわけです、その若い男は。
 
草柳:  自分に打ち克つということが如何に大変であると同時に、そのことが大切なのかという下りを、また仏典から見てみたいと思うんですが、
 
自己に打ち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。つねに行いをつつしみ、自己をととのえている人、―このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、神も、ガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなすことができない。
(ダンマパダ)
 
というふうに言っているんですが、自己を調えるということがポイントみたいですね。
 
中村:  自己を制すること、自己をコントロールすることですね。それは分かり切ったことですけど、しかし実際問題ですね、なかなか難しいことでして、それで自己に打ち克った者が本当の勝利者であるという説き方があるんです。これはジャイナ教の方でも申しますが、仏教でも同様に自己に打ち克った者が本当の勝利者であると。それを目指そうということを説くわけなんでございます。戦いにおいて敵に打ち勝つのはこれは難しいことのように人も思うけど、まだそれほどではない。自分の自己に打ち克つということが非常に難しいことであるから、その人を仰ぎ讃えようではないか、ということが、仏典の中にはよく説かれております。
 
草柳:  確かに何か物事に執着をしたり、どうしてもあれが欲しいと思って、なかなかそれが手に入らない苛立たしさとか、そういったことに人間の生き方というのは雁字搦めに縛られているわけですね。これに打ち克っていくということは、これは大変なことですね。
 
中村:  ですからこれジャイナ教の聖典でもそう説かれておることですけど、仏典では本当に修行を達成した人は勝利者と呼ばれております。戦場で千人の敵に打ち勝つことよりももっと難しい。考えてみれば、そうでしょう。自分の本能に打ち克つということが大事だというわけでございます。
 
草柳:  またもう少し続きを見ながらお話を進めていきたいと思うんですけども、今度はこういう内容です。
 
自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして〔自分の〕主であろうか。自己をよくととのえたならば、得がたき主を得る。
(ダンマパダ)
 
これは短い文章なんですけれども。
 
中村:  これは『ダンマパダ』に出てくるんでございますが、つまり自分がどうも自分の思うようにならない、情けなく思うという反省をなさる方もいろいろおられるかと思いますけど、それを制し、導くのはやっぱり自己であると。自己こそ自分の主であると。他人は、結局自分とは別の存在であるから、だから他人の教えを受けるとか、あるいは他人を仰いで、それに習うとかということはできますけれども、本当の勝利者、自由なる者の境地に達するということは、その当人がしなければならないことである。だから自分をよく調えるということを達成したならば、そこで本当に自己が自己の主となることができるというんですね。「自己」という言葉が多義的に使われていますから、ちょっと理解し難い点もございますけど、しかしこの自己というものを反省すると、清らかなこともあれば、あるいは煩悩に汚れていることもありますですね。そういうことを反省すれば、この言葉の意味するところもご理解頂けるかと思うんでございますが。
 
草柳:  我執、つまりそういうとらわれた自己が自己ではない。さっき先生のお話になりましたけれども、仮に勿論それだって自己には違いないだろうと思うんですが、それが例えば小我―小さな我ということで言えば、その目指す自己というのは大我、
 
中村:  そう言ってもいいと思うんですね。それは他の表現もいろいろございますけれどもね。
 
草柳:  「大我(だいが)」という言い方もあるようですね。
 
中村:  ございますよ。後代になりまして、大乗仏教が興りまして、そしてインドの他の学派の思想と対決しなければならない場合が起きてくるんです。その自己とか、アートマンという言葉は、さっきから申し上げましたように、その場合場合で意味合いがちょっと違いますでしょう。そうすると、混雑を防ぐために、自分が日常陥っている状況にある自己、これは「小我(しょうが)」である、小さな我である。ところが人間の生きるべき道を自覚して理想を目指して進んでいく。目指されている、実現されるべき自己というものは、これは「大我」であるということです。小我と大我と分けて、また他の表現もございますけど、理想をはっきり表しだしたということは言えるかと思うんでございます。
 
草柳:  「無我」ということなんですけども、何ものかにとらわれた自分、「我執」という言葉が何回も出てまいりましたけれども、そうした煩悩の虜になっている自分ではなくて、そういうものをコントロールしていかなければいけない。煩悩のコントロール、自己のコントロール、自己を調えるということが大切なんだと。それも実践の中にしか現れてこない、というお話がさっきありましたね。まさにそれこそが実践だと。それは例えば、仏教を修行している僧たちにとっては、そのことを目指して修行するということの中にきっと現れてこなければいけないことだと思うんですが、実生活の中で、私どもがそのブッダが言っている「無我」ということが、どういうふうな形で現れてくるというのか、見ていけばいいのか、その辺はどうなんでしょう。
 
中村:  その当時は、出家者がいろいろ仲間を作って教団を形成しておりました。だからそれに従って、自己を清めるという修行が重んぜられるわけです。けど、現実には実際社会において、いろいろの職業に従事している人々の方が圧倒的に多かったわけですが、そういう人々が、どのように自己を調えたらいいか、ということが問題になるわけです。そこで当然反省が起こります。生きている自己というものは、多くの人々との交渉において、目に見えないいろいろの恩恵を受けてここまで生きてきたわけでしょう。そして将来も人々が現れてくる。その人々に対しても心を向けなければいけない。そのことを自覚して人々に対して思いやりをもつ。つまり人々から恩恵を受けていることを改めて自覚して、そして人々のためにも尽くすという、そういう道ですね、それを追求することが時代と共にますます説かれるようになりました。殊に日本へきますと、現実生活の中に仏教の精神を生かすということが、特に強調されるようになりました。それで今日に至っているわけであります。その道は決して単純な一本道ではございません。その間やっぱり揺れたこともございますけど、でも人から受けた恩を自覚して、そして本当の自己を実現するということ、それは人々との共なる実践の中に実現されるものであると。そういう自覚的実践の中に将来の明るい道が開かれることになるかと思うんでございます。
 
草柳:  勿論自分は自分一人で生きているわけではなくて、きっと大きな凄い広がりをもった因縁の中に存在しているというふうに考えないといけないんでしょうね。
 
中村:  そうでございますね。個人個人はこれだけの人間なんですよ。けれど、どなたについてみても、ここまで到達されるためには、無数に多くの方々の恩恵を受けておられるわけでしょう。これは有り難いことだと思いますですね。
 
草柳:  最後にそれではもう一つ仏典から紹介をして終わりにしたいと思うんですが、
 
修行僧よ、この舟から水を汲み出せ。汝が水を汲み出したならば、舟は軽やかにやすやすと進むであろう。貪りと怒りとを断ったならば、汝は安らぎ(ニルヴァーナ)におもむくであろう。
(ダンマパダ)
 
中村:  目指す理想の境地ですね。それは煩悩の汚れの離脱したもので、あるいはそれをコントロール(支配)したものでありますから、そこで安らぎの境地である。当時の使われておりました言葉で、「ニルヴァーナ(涅槃)」という言葉をもってきまして、そして理想の境地を表現しているわけでございます。
 
草柳:  どうも有難うございました。
 
   これは、平成二十六年一月十九日に、NHK教育テレビの
   「こころの時代」で放映されたものである