ブッダの人と思想E空飛ぶ鳥に迹なし
 
                インド哲学者 中 村(なかむら)  元(はじめ)
                き き て  草 柳  隆 三
                語   り  石 澤  典 夫
 
石澤:  「こころの時代」では、毎月中村元「ブッダの人と思想」セレクションを放送しています。これは一九九五年に、十二回にわたって放送されたシリーズから、七本を選んで再編集したものです。お話は、インド哲学・仏教学がご専門の中村元さんです。中村さんは、インド哲学を出発点として、古代から現代に至るまで東洋と西洋の思想を比較し、人類共通の普遍的な思想とは何かを解明する研究を続けてこられました。その普遍的な思想を知る手がかりとして、中村さんが特に力を注いだのが、ブッダの研究でした。こちらをご覧ください。今回のセレクションでお送りする内容です。前回は「善き友とともに」と題しまして、初期の仏教教団がどのようなものであったのか、またそこで生まれた戒律の意味についてご紹介を致しました。今回はそれに続くセレクションの六回目「空飛ぶ鳥に迹なし」をご覧頂きます。ブッダが目指すべき理想の境地として説いた解脱とはどのようなものであったのか。執着を放れて、私たちは如何に生きるべきなのか、これについてお伝えをします。きき手は草柳隆三さんです。
 

 
草柳:  先生、今日もよろしくお願い致します。
 
中村:  どうぞよろしく。
 
草柳:  「空飛ぶ鳥に迹なし」、つまり飛ぶ鳥は迹に痕跡(こんせき)を何も残さない。つまり生き方の問題として、つまり執着から如何に離れるか、ということだと思うんですけれども、その言葉として、例えば「足(た)るを知って生きる」とか、あるいは「中庸(ちゅうよう)に生きる」という言葉がありますよね。仏教では、「中道の教え」ということで、それは言われているわけですか、一つには。
中村:  そうですね。空飛ぶ鳥の譬えは、これは分かり易いものですから、よく引かれますが、いくらか抽象的な表現を用いますならば、「仏教の実践の教えというものは、中道である」とよく言われるんでございますね。
 
草柳:  「中の道」と書きますね。
 
中村:  ええ。それでそういう表現は、普く人類の思想史に見られるところでございまして、例えばお隣の中国では、『中庸(ちゅうよう)』という書物がございますでしょう。四書の一つになっております。朱子学では非常に尊んだわけですが、それをみな重要視したわけであります。それは西洋でも似たことがございまして、ギリシャ人は、「中庸とか、あるいは調和の徳を重んずる」ということが言われておりまして、殊にアリストテレス(古代ギリシャの哲学者:前384-前322)はその問題について非常に詳しく述べておりますね。ただこの点については、また誤解もまたあるわけでございまして、殊にアリストテレスも中庸の思想につきまして、イギリスの哲学者として有名なバーランド・ラッセル(1872-1970)はこういうことを言うんですね。「二つの対立した徳目があると。例えば人間は勇気を持たなければならない。それからまた用心深く、時には臆病になるまでも用心する、と。どちらも必要なんだけど、端の方をとって真ん中ということになりますと、結局何事も意味しないことになるんじゃないか。つまり両方の反対の徳目を合わせてチャンポンにしたら、何にも意味をなさないことになる」と、そういう非難をするんですね。そういう誤解は何となく日本人の間にも行われていると思うんでございます。「中道」という言葉は、「中の道」と書きますが、一般日本人の間では理解されておりますけれども、しかしそれはどっちつかずと取られるおそれなきにしもあらずでして、結局何ものをも意味しないんじゃないか、と、そう解される場合もなきにしもあらずでございますが、しかし「中道」という場合の「中(ちゅう)」というのは、これは「あたる」という意味なんですね。的にちょうど当たる。だから「適正だ」という意味ですね。だから「中道の生き方」というものは、また「適正なる生き方」ということでございまして、元の言葉で申しますと、「majjhim? patipad?と言うんですが、ちょうど的(まと)を得た、その生き方ということですね。それで漢訳仏典では、この「中道」を別の訳語としまして、「至要(しよう)の道」と言っているんです。つまりちょうどそこに当たっている適当な生き方ということですね。それが中道の意味するところなんでございます。
 
草柳:  「ほどほどに」ということではないんですね。
 
中村:  ちょっとずれますですね。西洋の考え方は、どうかするといろいろな徳目がございましょう。それを同じ場面の上に置いて、「一致するか、矛盾した概念であるか」というようなことを論じますんですが、ところが東洋の人ほど、仏教の場合には、ただ概念として考えるのではなくて、具体的な人間の生活の場面のどこにおいて、どう生かすべきかということを考えるんですね。だからある場合には、「ほどほどに」ということにもなるわけですが、インド思想には昔からございまして、見方の考え方というのがあるんです。元の言葉で「ナヤ(見方)」と申しますがね、人間にはいろいろな面がございましょう。それを見るのにこういう面から見るとこうである。また他の面から見るとこうである。それぞれの場面に応じて適当な生き方を求める、生かす。
 
草柳:  つまりその場に相応しい生き方、
 
中村:  そうです。相応しい生き方ですね。あるいは人間の場面と言ってもいいですが、人間のいろいろな相がございますね。この見方から見るとこういうことになるんだ、と言って適正な生き方を求めるという、それが中道でございます。ですから誤解されているものとは区別しなければならないと思います。
 
草柳:  しかも消極的な姿勢ということではなくて、むしろ積極的な姿勢なんですね。
 
中村:  そうです。至要の的にピッタリ合う、それを求めよ、と言うんですから、相当苦労があるわけでございますね。
 
草柳:  その「中道」というのは、今お話頂きましたけれども、どういうことなのかと、例えば仏典の中にブッダとお弟子さんの対話で、それがよくわかるところがありますね。そこから一つご紹介をして、またお話を進めたいと思うんですが、これからご紹介するのは、これはブッダのお弟子さんなんですね。
 
中村:  そうです。ソーナ(ソーナ・コーリヴィーサの略称)という人ですがね。
 
草柳:  「それと同様に、あまりに緊張して努力しすぎるならば、心が昴(たか)ぶることになり、また努力しないであまりにもだらけているならば怠惰となる。それゆえに汝は釣合いのとれた努力をせよ。もろもろの器官の平等なありさまに達せよ」
(「律蔵」)
 
ちょっと前段のお話がないとわかりにくいかもわかりませんけれども、これはよく「弾琴の譬え」ということで知られたお話ですね。
 
中村:  そうです。適切な譬えでして、よく知られています。
 
草柳:  これはどういうふうな状況の時に、ブッダがソーナに向かって言ったわけですか。
 
中村:  ソーナという人は、東インドの方のアンガという国の長者、お金持ちの子どもだったんですね。それで音楽に長じていた、通じていた。それで釈尊は、彼に適切な生き方を知らせるには、弾琴―琴を弾くという譬えを示したならば、一番適切であると。釈尊はそう思われたわけですね。それで琴を弾きます場合に、弦があまり緊張し過ぎていると、そうするといい音(ね)が出ない。それからあまり弦が弛められていますと、だらけてしまって、やはりいい音(ね)が出ない。だから適切な音(ね)というものがちゃんとある筈だ。それを心掛けて弾琴を習う。人生においても、それと同じような心構えがいるということで、ソーナに向かって説かれたこの譬えというものは非常によく知られておりますんですが、殊に音楽にたしなみを持たれる方は、非常に思い当たるところが多いと思うんでございますが。
 
草柳:  ピンときますでしょうね。やり過ぎてもいけない。勿論その反対の極にある怠けすぎるのは勿論当然のことながらよくない。それを今琴の弦の張り具合に譬えて言ったわけですね。
 
中村:  そういうわけであります。つまり人間が生きていくうえで、守らなければいけない、実践しなければならない徳というものがある―美徳。それは誰でももっておられるわけですが、その一つの徳目を捉えて、それに夢中になると、そうするとどうも窮屈になると。反対の徳目に夢中になっても、これは具合が悪いということなんでございます。人生をこう考えてみますと、人間の生活にはいろいろな面があるわけですけれども、なんかいいことをしようと思っても、それに夢中になって緊張し過ぎると、ストレスが溜まりまして―この頃の言葉でよりますと―そうするとどうも具合が悪いと。じゃ弛めようということになりますと、そうするとまたどうもだらけてしまうこともなきにしもあらず。つまりちょうど適切な具合に、美徳を実践するということが大事ではないか。さっきおっしゃいました「ほどほどに」というのも、そこに通じるかと思うんでございますがね。
 
草柳:  つまり両方の極の、つまり両極端ではあってはいけないわけですね。どっちかに偏ってもいけない。
 
中村:  そればっかりやっていると具合悪いわけですね。人間の生活にはいろいろな面がありまして、それぞれ生かすべきですけど、例えば悲しんでばかりいてもいけない。例えばお葬式の時にこれは悲しむけれども、他の場合にも悲しんで滅入っているというようなことでも困るわけでしょう。それからまた人間は、少し気楽に箍(たが)を緩(ゆる)めるということだってございましょう。けど、ただ箍(たが)を緩めて気楽にやるというだけやっているんでも困る。例えば結婚式の場合なんて、みんなが楽しんでいますね。そういう時には一緒に楽しいだらいいわけです。けれど、その場面が過ぎれば、また自分を引き締めるということだって必要になってまいりましょう。どういう場合にはどういう徳を生かし、また他の場合にはどういう具合になるかという、その反省が必要であり、それが「中道」ということでございますね。「majjhim? patipad?と元の言葉で申しますが、ちょうど的を得ている生き方ですね。
 
草柳:  「場面に応じて相応しい生き方をしなさい」というのは、生き方の基本的な仏教の指針ということでございましょうか。
 
中村:  そういうわけでございます。一方的に後生大事も守り続けて、他の場面を全然考慮しないというのであってはいけない。その点で仏教の倫理というものは、我々にフレキシブルで、それぞれの場面に応じて、それぞれの美徳を生かすと、そういうことに帰着するかと思うんでございます。
 
草柳:  この中道の教えというのは、仏教のかなり原始仏教の初期の頃から説かれていた教えなんですか。
 
中村:  初期―かなり古い初めの時代から説かれておりまして、ソーナに関する詩集がございますが、「長老の詩」という『テーラーガーター』という詩集がありまして、その中にソーナに関する詩がかなり長く述べられております。ここにこの譬えが出ております。後の人は、「ソーナの弾琴の譬え(管篌(くご)のたとえ)」というだけですぐわかったわけですが、最初に説いた時には、いくらか狂っても、じっくりと教えを説いたというわけでございます。『テーラーガーター』という詩集の中に出ております。さらに戒律の書物の中にも出ております。
 
草柳:  『サンユッタニカーヤ』という古い経典がございますね。その中にも勿論そこからまた一節を取り出してご紹介したいと思うんですが、
 
修行僧らよ。出家者が実践してはならない二つの極端がある・・・一つはもろもろの欲望において欲楽に耽(ふけ)ることであって、高尚ならず、ためにならぬものである。他の一つはみずから苦しめることであって、苦しみであり、高尚ならず、ためにならぬものである。真理の体現者はこの両極端に近づかないで、中道をさとったのである。
(「サンユッタニカーヤ」)
 
中村:  当時いろんな宗教がありまして、それを実践する人々もいたわけですが、当時の宗教情勢を見ますと、この教えがよくわかるわけなんです。まず一つの生き方というのは、欲楽に耽る。つまり快楽を楽しむということですね。インド人は、昔から快楽を楽しむ道というようなことを重んじまして、人生の目的の一つとみなした人もいたわけです。その方面の書物も著されて後に伝えられております。けれどそればっかりやっているというのはやっぱり一面的なんですね。一つの極端だというんです。それからそれと反対に、今度我が身を苦しめるという苦行の生活ですね。苦行者の実践、これも昔からインドでは見られることでございまして、今日に至ってもまだなくなっていないですね。例えば私は、ベナレスで見たことがあるんですが、あそこでは人間の遺骸を薪で焼いて、遺骨をガンジス川へ投げ捨てる。ガンジス川は神聖なる川だから、やがては魂は天に運ばれるという、そういう俗信があるわけですが、〈あ、その場面だな〉と、私は思ったことなんですよ。荊がずっと積んであって、中に黒い遺骸らしきものが横たわっているんですね。そうしたらそれを見ましたら、遺骸がピクピクと動くじゃないですか。それは苦行者が横になっているんですね。荊の堆積の中に。それで他のインド人が説明してくれましたが、「あの苦行者は偽物だ。ああやって人に見せてお金を貰っているんです。お金を稼ぐ方法だ」というんですよ。「本当の修行者はどこにいるんですか?」と聞きましたら、「それはヒマラヤのなんとかというところにいるんだ」というんですが、とにかく商売になるぐらいに苦行を行う行者さんもいるわけなんですね。けど、それはどっちも間違いだというんですね。そればかりやっているというのは。どちらでもない。自ら身を苦しめるのでもない。またわざわざ欲望に身を委ねるのでもない。本当の生き方を求めよというわけなんでございます。
 
草柳:  この辺のくだりというのは、ブッダ自身が六年間か大変な苦行をしてこられてきたわけですね。
 
中村:  そうです。ブッダ自身の体験に基づいているということも言えるんですね。若い時は王宮に坐って、もう快楽の生活を送ったわけですね。ところが後に出家して、そして行者と一緒になりまして、そして苦行を行ったわけです。けれど本当の解脱というものは苦行によっては得られないということを悟って、それでガンジス河の支流のナイランジャナー(尼連禅河)という河で身を浄めまして、そして瞑想に耽って本当の自分の進む道を求めて体得した、と言われているんでございます。だからブッダ自身の生涯の中に両方インド人がやっているように両方経験したというわけでございますね。
 
草柳:  この辺のところは説得力がありますね。
 
中村:  そうですね。自分がされたことですから。
 
草柳:  そして中道の教えが説かれた教えの目的とするところ、つまり中道は一体何を目的として説かれたのか。その辺はどうなんでしょうか。
 
中村:  この「中道の実践」ということは、結局根本の思想であります仏教の「無常」とか、あるいは「無」「空」とか、そういうようなものを生活の中に、今後生きていく中に活かすというところに要点があったと思います。
 
草柳:  生活の中に活かしていく。
 
中村:  そうです。ブッダの場合には、修行者として、伝統的な修行者の姿で、その生活を続けたわけですが、ただ苦行と快楽のどっちにも耽ることはなかった。それから世俗の人々がいたわけですから、信者さんなんか大勢いたわけですが、そういう人々に対しては、偏ることなしに、とらわれることなしに、本当の正しい生き方を求めよと、そういうことを教えられたわけです。基本の立場というものは、今お読み頂いた文句の中に出ているわけでございます。
 
草柳:  しかもこれは先ほどから先生おっしゃっておられるように、両方の極端を足して二で割るようなものではなくて、むしろ言ってみれば第三の積極的な立場に立たなければいけない。そういう立場で生きていかなければいけないというふうに言っているわけですね。
 
中村:  そういうわけです。つまりどっちかに偏って埋もれてしまうんじゃなくて、それらを超えて―人間にはいろいろな面もあり、いろんな生き方もありますが、それを適切に生かすということですね。ですから「中道」というのも、言葉を換えて言いますと、「正しい道―正道(しょうどう)」とも申します。少し分けて学者が区分けして説いたところでは、「八正道(はっしょうどう)」とも申しますが、つまり八つの正しい道。人間が正しく生きるには、いろんな面があるわけでございます。それを八つに述べるということですね。「八正道」というんでございますが、これ漢訳の仏典では昔から決まり文句の訳語がございまして、「正見(しょうけん)、正思(しょうし)、正語(しょうご)、正業(しょうごう)、正命(しょうみょう)、正精進(しょうしょうじん)、正念(しょうねん)および正定(しょうじょう)」というんです。これで八つなんです。これを聞いただけでは何のことだかおわかりにくいと思いますから、元の言語に基づいて、今の言葉で翻訳してお伝え致しますと、
第一に、正しい見解をもつ。
第二に、正しい思惟(しい)、考えですね、それを実現する。
第三に、正しい言葉を使う。嘘なんか言っちゃあいかんということですね。
第四に、正しい行い。行いと言ったって、いろんな面があるわけですが、それを正しくせよと。
第五に、生活全体、殊に職業の面についても正しいことを行いと。正しい生活。
第六に、正しい努力をせよと。目的を目指して努力するというのは当然のことですが、そのやり方が正しくなければいけない。
第七に、正しい念(おもい)。心の中で始終正しいことを思っていなければならない。邪念を持つなということですね。
第八に、正しい瞑想ですね。心を静かにして落ち着けるということですね。
この八つでして、それを「八正道」八つの正しい道と申します。それは項目的に述べただけでして、さらにじゃ具体的にどうするかということになりますと、昔の人がいろいろ苦労して説いておりますが、今入り口として、原理的なことだけ申し上げたわけでございます。
 
草柳:  今おっしゃったようなことを実践していく過程において、最終的にはブッダという人は、どうにもならない現実の人間苦みたいなものを如何に克服するか。それはまさに中道の目的であった、というふうに見ていいわけですか。
 
中村:  それが「中道の目的だった」と言えるわけでございますね。だから「要(かなめ)の道」ですね。
 
草柳:  その辺のところについて、『マッジマ・ニカーヤ』という経典ですが、そこからまたご紹介をしていきたいと思います。
 
世界は常住なるものであるという見解があっても、また世界は常住ならざるものであるという見解があっても、しかも生あり、老いることあり、死あり、憂い、苦痛、嘆き、悩み、悶えがある。われはいま目のあたりに、これらを制圧することを説くのである。
(「マッジマ・ニカーヤ」)
 
「世界は常住なるものであるという見解」とか、「常住ならざるものであるという見解があっても」これは何かいつかお話お聞きしたような気がするんですけれども。
 
中村:  当時いろいろな哲学説を述べる人々がいまして、自分を含む世界というものを、これは物理的な自然環境を意味することもございますが、また広く人間の世の中を考えてもいいわけです。それはいつまで続くものか、と。ある哲人たちは、「常住に続くものである、永遠なる存在である」と考える。それから他の哲学者たちは、「いや、いつかは消えてなくなる」と言うんですね。こういう両方の見解の対立があったわけです。今お読み頂きましたのは、釈尊が、カーティヤーナという人に説いた教えに付随して述べられていることですが、外の世界とか、人間社会というものについて、このように分けて考えるということは、当時としてはもっともなことだったと思います。今日でも天文学、自然科学がこれだけ進んだのに、やっぱり我々の住んでいる宇宙はどういうものかという見解が分かれているじゃないですか。星の世界はずっと続くこともあれば、いや、宇宙はある時期にはビッグバン((Big Bang:「この宇宙には始まりがあって、爆発のように膨張して現在のようになった。」とする説:狭義では宇宙の(ハッブルの法則に従う)膨張が始まった時点を指す。その時刻は今から138億年前と計算されている)で現れる。そしてやがてブラックホール(black hole:極めて高密度かつ大質量で、強い重力のために物質だけでなく光さえ脱出することができない天体である)に吸い込まれていくとか、学者はいろいろ申しましょう。それはどっちがいいのか素人にはわかりませんけれども、けど、そういうような考え方があると。それに対して、一応そういう考え方があるということを認める。人間は、どう生きたらいいか。そうすると今お読み頂きましたように、人間の生存というものを見ると、最後には死があるわけですね。その前に老いるということがございましょう。それから生きている間に憂いもあり、苦痛もあり、嘆き、悩み、悶えがある。これは逃れることができないですね、我々生きている限りは。それに対してこっちも悶えているんじゃ意味がないので、自分はそれに対してどういう心構えをもつかということ、それをブッダは教えられたわけです。だからどうにもしようのない事柄に対しては、それに対する我らの心構えをどうするか。結局心に対するコントロールと申しますかね、心をしっかりと打ち立てるということが必要だと。だから現実にこれらを制圧する、コントロールすることを説くのであると、経典には説かれているんでございます。
 
草柳:  また別の経典から、そういうふうにして中道の実践をしていくと、どういうふうになっていくのか、というところなんですが、
 
〈快楽〉と〈不快〉とを捨て、清らかに涼しく、とらわれることなく、全世界にうち勝った健(たけ)き人―かれをわたしは〈バラモン〉と呼ぶ。
(「スッタニパータ」)
 
これはまさに「中道」、その場その場で相応しい生き方をきちんとしていくと、清らかで涼しげな境涯に辿り着くということを言っているんでしょうか。
 
中村:  そうですね。願わしい境地を、当時のインド人なりに理解したと思うんですね。とにかく暑い国ですから、やっぱり涼しげな境地というものは願ったわけです。だから清らかに涼しい境地と理想のあり方をそのような表現でもって示したわけでございます。そしてそこであれば心がとらわれることがないと。全世界がどのようなものとして自分に向かって来ようとも、それに打ち克つ。そして「健(たけ)き人」と―これは元の言葉でビーラ(v?ra)と言うんですが、「英雄」のことを言うんです。「英雄」というのは、戦争に打ち勝つだけのものじゃなくて、自分の心に打ち克つということ。これはなかなか難しいことですが、しかしそれが願わしいと。だから「健(たけ)き人」という言い方をしています。そしてそれが「バラモンと呼ぶ」と言うんですね。つまり当時の社会は、まだバラモン教が勢力をもっていて、それで指導的な宗教者は「バラモン」と呼ばれていたんですね。けど本当のバラモンというのは、ただ儀式を行ったり、ヴェーダの聖典を唱えるというだけのことではないんです。自分の心に打ち克ち、心を導くような、そして清らかな涼しい境地にある人、それが本当のバラモンだ、というんですね。だから当時のインド人が、バラモンを尊敬していたのを受けまして、いや、本当のバラモンというのはちょっと違いますよと。ただ火の祭―火を点す祭ですね、あるいは神様にいろいろな獣の肉を捧げたりする。そんなものが本当の宗教の生き方じゃございませんよ、ということをここで言おうとしているわけです。
 
草柳:  ですからここで「バラモン」というのは、理想を追求し得た人という意味にとればいいわけですね。
 
中村:  そうです。だからブッダのことを「バラモン」と呼んでいます、古い聖典では。後になるとそういう言い方をしなくなりますけどね。バラモンなんかより仏教の権威の方が、もっと上になりますからね。けれど仏教が興起した時代には、まだ仏教の権威は確立していませんし、バラモンの方が一般に尊敬されていましたから、それで釈尊の立場として、バラモンを尊敬するのはいいけれども、しかしただ儀式を行って、火の祭を行っている。それがバラモンじゃないよ。あるいはバラモンの家に生まれたというだけで、資格ができる筈がないと、そういうわけですね。
 
草柳:  多少旧世代に対する批判の意味も含まれた言い方ですね。
 
中村:  そうですよ。旧世代に対する批判というのは非常に強いですね。
 
草柳:  今見てきたように、清らかで涼しげな境涯。つまりそれは要するに執着というものから離れたというか、執着にとらわれない生き方ということなんですね。
 
中村:  そういうことでございますね、別の言い方をしますと。我々はやっぱりいろいろ執着に悩まされますから、それにとらわれるなということを教えるわけですが、それを端的に一つの言葉でいうと、「中道」ということになるわけでございますね。だからとらわれるな。空の境地を体得せよ、というのと同じことなんです。執着を離れた境地にいかなければ空にはなれませんでしょう。あるいは逆に申しますと、我々は求めているものもいつかは消えて無くなるものだと思って行動すればこそ、理想の生き方ができるんじゃないですか。例えば私どもは、社会的にみなさん活動していらっしゃるわけですが、誰だってお金は多い方がいい。そうすると、それに執着しますわね。けれど、そのお金なんていうのもあんまりあてにならない。殊にこの頃はお金は政府の保証するところへ持って行っても、いつまで続くんだかわからない。そんなものに執着しないで、本当に人々のためになることに生かそうじゃないかと、そう思っていらっしゃる方も随分多いですよね。それはやっぱり固定した執着を離れて、本当に人々のために生かそうという空の境地に立つから、それがなされ得るというわけじゃございませんか。
 
草柳:  その「空」ということを考える手掛かりとして、お弟子さんの一人が対話をしている場面がありますね。そこをまたご紹介してみたいと思うんですが、サーリプッタ(舎利弗(しゃりほつ)・シャーリプトラ)というのはお弟子さんの名前ですね。
 
中村:  ええ。一番偉いお弟子さんです。
 
草柳: 
サーリプッタよ。そなたの身心は浄く明るく見える。そなたは今日いかなる境地に安住していたのか」
「世尊よ。わたしは、いままで空の境地に住していました」
「サーリプッタよ。みごとだ、みごとだ。そなたは今日はおおいに偉大な人の境地に住していたわけだ。この〈偉大な人の境地に住する〉とは、すなわち空に住することなのである」
(「マッジマ・ニカーヤ」)
 
という言い方をしていますね。
 
中村:  サーリプッタというのは、お釈迦様の弟子の中で一番智慧の勝れた人と。一番偉いお弟子だと、そう思われていた人でございます。対話の中に出てくるわけですが、「無常」を仏教で説いたということはよく知られておりますが、その「無常」ということは、別の言葉でいうと、「空」ということになるんですね。つまり如何なるものをも永久に存在する本質というものをもっているわけじゃないと。常にあらざるものですね。これは我々の人生は長かったと言えば長かったと思いますけど、顧みましても戦争を経験し、戦後の混乱―またこの頃は別の混乱が起きていますが―そういうものを見ますと、恒常的なもの、恒久的なものというのは、結局ないわけでございましょう。空ですね。だからその空の境地を体得して、しかもこの空の身体を持ちながら本当に生き甲斐のあるいい暮らしをしよう。ああ、自分はこれだけ生きてきたけど、よかったなと思うような、そういう暮らしを実践しろということ。これは多くの方がお考えになっていることでしょうけど、無常の、あるいは空の理(ことわり)からここへ実践を導いていくというわけでございます。
 
草柳:  今サーリプッタは、「空に住する」という言い方をしていますよね。「空に住する」というのは、つまりどういう境涯なんでしょうか。
 
中村:  「空を楽しむ」と言ってもいいかと思いますがね。「住する」というのは、ビハーラ(サンスクリット語で僧院、寺院あるいは安住・休養の場所を意味し、現代では末期患者に対する仏教ホスピス、または苦痛緩和と癒しの支援活動を差す)というインドの言葉を訳したわけですが、インド人がレジャーセンターなんかで楽しむ場合にも「ビハーラ」と言うんですね。だから自分がそういう気持になって、その原則に基づいて行動して、それを楽しんでいるということ。それは結構なことだというんですね。ですから後になりますと、般若経典なんていうのが出てきますが、説法して、お釈迦様が空を説くその相手はサーリプッタですね。つまりサーリプッタというのは、智慧の勝れた人、それで伝統的保守的な仏教教学を作りあげた人と、そう見られております。ここではそういう議論は出てきませんけれども、智慧第一の学者に向かって、釈尊が、「よく考えてみると頼りになるものは何もないんだよ」ということを言われるわけでございますね。それで「偉大な人の境地」となっていますが、言い方はいろいろですが、「大いなる人の境地」と言ってもいいでしょう。「偉大なる人・大いなる人」というのは、「mah?purusaという原語があるんですが、立派な人をいうわけです。ブッダのことですよ。ブッダは人なんですから。その偉大なる境地―釈尊でも修養し体得されたその境地ですね。そこへお前も到達したことになるんだよ、と、そういって賛成し励まされた、ということができるかと思うんでございますが。
 
草柳:  つまり空に住していた。「空に住する」というのは、その前のお話からズーッと受けてきて考えてみると、要するに「清らかな涼しげな境涯」ということになるんでしょうか。
 
中村:  そう思います。殊にインド人にとっては、「清らかな涼しげな境地」というのは、ピッタリすると思うんですね。暑い国でございましょう。誰でも暑熱を避けて、安らかな境地を楽しみたいと思っておりますから。
 
草柳:  とらわれのない。
 
中村:  そうです。
 
草柳:  つまり執着から離れる。しかしだけど煩悩だとか、そういう欲望だとかというものが、もう人間に纏(まつ)わりついているわけですね。
 
中村:  そうです。人間に纏(まと)い付いているというか、人間そのものみたいになっておりますわね。だからそれとどう対決するかということが、生きている我々の問題ですね。釈尊は、「無常の教え」によってそれを説かれた。それはあるいは現実的に理解させるためには、中道という教えも説いたというわけでございます。それぞれの言葉は違いますけど、目指すところは同じである、ということが言えると思うんでございます。
 
草柳:  そういうブッダの教えのバックボーンというか、根底にあるというものなのか。これは先生のお話を伺わないとわからないんですけども、ブッダが、どういうふうに世間というか、世の中を見るべきだ、と言っている仏典がありますね。これは実に凄いショッキングな言い方だなという気がするんですが、それをちょっと見てみたいと思うんですが、
 
世の中はうたかたのごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。
世の中をこのように観じる人は、死王もかれを見ることがない。
(「ダンマパダ」)
 
というふうに、ブッダは、世の中をみなさい、とここで言っているわけですね。
 
中村:  そういうわけですね。
 
草柳:  「かげろうのごとし」「うたかたのごとし」というのは、これはいったい何ですか?
 
中村:  儚い存在を譬えて言うわけですね。「世は無常である」ということを譬える比喩はいろいろございますけれども、殊にここでは一番ショッキングな表現をもってきていると思うんですね。「うたかたのごとし」「かげろうのごとし」あるいは「夢のごとし」というようなこともよく申しますがね。
 
草柳:  泡沫ですよね。
 
中村:  泡沫ですね。「世の中のことは泡沫のごとし」ということは、これはある意味では私どもみな経験したことではございませんか。戦前の偉大なりしものというのは、これは否定されてしまいましたでしょう。それから戦後になって、また偉大なものが現れましたけども、それは今はうたかたのごとく消え去ってしまっているじゃございませんか。我々は何に頼ったらいいかということです。自ずから人としての生きる道がある。その理想を実現すれば、あ、生きていてよかったと、みなさんも思ってくださる。ご自分でもそう思われるでしょう。それが偉大なる人、大いなる人の境地であると。そうすると、そういう人は、身体は死んでも、しかし理想は生きているわけでしょう、なんかの形で。だから死王もみることがない。死の王様ですね。死というものは王様だ、と言うんですが、誰だって死の運命から逃れることはできないんですから、だから「死王」と、仏典では言うんです。死の王様、それが人間をとらえるわけです。けれども、それは身体がそうなってしまうのは、これは仕方がないんですけれども、しかし人が何らかの願わしい理想を追求して、それを実現したならば、それは理想はいつまでも生きるわけですから、だから死の王様と言えども如何ともし難いと。これはまた逆説的ですけど、随分強いことを言っているわけです。
 
草柳:  世の中はうたかたのごとく、あるいはかげろうのごとく見る人には、つまりそれはそういうふうに見ることができるならば死を超えている。
 
中村:  そういうことですね。不死ですね。中道の実践とでも申しますか、あるいは人間の理(ことわり)を実践している人は不死であるということを、『ダンマパダ』なんかで言っていますがね。肉体はほんとはいつかは消え失せるでしょう。けれどもそのそこに現れ出た理想というものは、その人を通じて、また後の人に受け継がれるわけでしょう。その意味だと思うんです。だから「努め励むのは不死の道である」ということも言えます。「努め励む」というのは、お金儲けのために努め励むというばかりにとらなくてもいいと思うんですが、この人で願わしい、こう生きていたいと思う。それに努め励んだならば、それはそこに不死を実現しているという意味だと思いますが、『ダンマパダ』に出ております。
 
草柳:  うたかたのごとく、かげろうのごとし、つまりそれは空に生きるという。
 
中村:  そうですね。「空に生きる」ということですね。
 
草柳:  しかしそういう境涯に果たしてなれるものなんでしょうか。
 
中村:  これはやはり人間がそこまで至れないから、だから仏典では繰り返し説いているんだと思いますが。
 
草柳:  そういう境涯に向かって努力するというか、生きる、その過程が大事なんだって、仏教の場合には随分過程が大事だというふうに確かおっしゃっていますね。
 
中村:  そうです。プロセスの中に理想が生きていきますから。その空の実践というのも、これはなかなか体得し難い、理解し難いことですけど、比喩でもって言えば案外おわかり頂けるんじゃないかということで、それで「空飛ぶ鳥が迹を残さないようなものである」という、この譬えが原始仏典にも出ていますし、あるいは大乗経典にもございますですね。
 
草柳: 
その人の汚れは消え失せ、食べ物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの足跡は知りがたい。─空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。
(「ダンマパタ」)
 
これですね。
 
中村:  はい。「かれの足跡が知りがたい」と。物理的には足跡を辿ることはできるだろうと思うんですが、しかしこの人は清らかな境地を目指して生きてきた、その足跡はとても物理的に量ることのできないものであると。ちょうど空飛ぶ鳥が自由自在に飛んで、迹を残さないようなものであると、こういうことをいうわけでございますね。
 
草柳:  「空飛ぶ鳥がその迹を知りがたいように」ということは、これは譬えとしてとても解りやすい、なんとなくわかるような気が致しますね。
 
中村:  そうでございますね。ですから諸国を通じて仏教文化圏ではよく説かれていることでございます。
 
草柳:  日本の場合でも、例えば道元がこの譬えを引きながら詠っている歌がありますね。
 
水鳥の行くもかえるも跡たえて
  されども道は忘れざりけり
(道元「傘松道詠」)
 
これは、「水鳥の行くもかえるも跡たえて」ということを受けて、その後の「されども道は忘れざりけり」というところがこの辺が味噌ですね。
 
中村:  肝要の道ですね。どこをどう飛んでいたってよさそうに思うけど、ちゃんと道を忘れない。空の境地に達した人であれば、どのように実践するのが、空、あるいは中道の実践であるかということを忘れない、ということが含まれていると思うんでございますね。
 
草柳:  もう一つ続けて『スッタニパータ』という経典の中から、一つご紹介して話を進めさせて貰えたんですが、
 
安らぎは虚妄(こもう)ならざるものである。もろもろの聖者はそれを真理であると知る。かれらはじつに真理をさとるがゆえに、快(かい)を貪(むさぼ)ることなく平安に帰しているのである。
(「スッタニパータ」)
 
中村:  この心境が安らぎに帰して、それで悩まされないと。それは実現し難いことであるから、嘘じゃないかと思う方があるかも知れないけど、しかしそれを実現し得たならば、その限りにおいては真実が具現されているわけですね。その意味の真実というもの、これを生きている我々の間で具現したいというのが、ここの趣意だろうと思います。
 
草柳:  先生、先ほどの経典の中では、人生というのは人の世の中というのは、量り知れないものだ、というふうな言い方がありましたですね。しかもうたかたのごとく、泡沫のごとくみなさい、見るべきだ。つまりそれはどうも私には実体がないものだというふうに受け取れるんですね。
 
中村:  実体のないものが空であると。
 
草柳:  ただ今ご紹介したここでは「安らぎ」というのは、これは虚妄ではない。つまり虚しいものではなくて、つまりここでは逆に今度は「有る」というふうに言っているわけですね。
 
中村:  そうですね。
 
草柳:  この辺はどういうふうに考えたらいいんですか。
 
中村:  これはあらゆるものは実体がない。うたかたの如し。けれども、そう悟って、人が清らかな気持になって、なんらかを実行するならば、それは清らかなものとして人々の心を和やかにしてくれる。これは有り難いことである。そういう喜びの気持が出ていると思うんでございますね。空飛ぶ鳥の譬えをここにご紹介頂いたわけですが、「空飛ぶ鳥」というのは、どこにねぐらを作ろうか、あるいは食物をどこに溜めておこうかとか、そういうことに煩わされないで、空を自由に飛んでいる。「飛ぶ鳥迹を濁さず」ということをよく申しますですね。これは我々東洋人の間では、やはり人の生涯の理想と見なしたんじゃないでしょうか。それは人が努力してお金を儲けたり、地位を築いたりする。それは立派なことですけれども、けれどそれにとらわれないで、この世を去っていくというのも、まことに清らかな有り難い心境だろうと思います。世間で見ましても、事業に成功した人は、これは俺の作った会社だとか、これは俺の土地だとかよく言いますね。それは確かにそうなんですが、それにとらわれないということも清々しいいいことじゃないですかね。
 
草柳:  辞めた後でコントロールしない。
 
中村:  そうなんです。辞めた後でもリモートコントロールするとかね、そういう例がございましょう。
 
草柳:  多いですね。
 
中村:  そうですか。私は、学究ですから、つい身近なことからご紹介致しますが、東京大学にインド学・仏教学の礎を作られました高楠順次郎(たかくすじゅんじろう)(1866-1945)博士なんかは、辞められた後から元へ来ないんですね。そしてお弟子さんたちにパッと何年か後に会うと、「あ、東大はまだ本郷にあるかね」とおっしゃった。その話を伝え聞いた人が、「あ、ご立派ですね」と言われました。私、直に教えて頂きました宇井伯壽(インド哲学者・仏教学者:1882-1963)先生なんかも、辞められた後は来られなかったし、口出しをされなかったですね。それはそのいくら功績のある人でも、やはりもっと高いものを目指していらっしゃるから、わずかな執着はないということです。やはり西洋でもやはり重んじられている徳だと思います。
 
草柳:  次回は今度はブッダのお弟子さんたちについてのお話を伺うことになっております。今日はどうもありがとうございました。
 
     これは、平成二十六年三月十六日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放送されたものである