ブッダの人と思想F自らを灯とせよ
 
                インド哲学者 中 村(なかむら)  元(はじめ)
                き き て  草 柳  隆 三
                語   り  石 澤  典 夫
 
石澤:  「こころの時代」、中村元「ブッダの人と思想」セレクションです。これは一九九五年に、十二回にわたって放送されたシリーズから、七本を選んで再編集したものです。お話は、インド哲学・仏教学がご専門の中村元さんです。中村さんは、たびたびインドを訪れ、ブッダの旅の足跡を辿り、風土や人々の暮らしに、今も息づく思想としてブッダの言葉を受け取ろうとしました。また中村さんは、難解な原始仏典を誰もが読める易しい日本語で翻訳し、現代に生きる私たちの生活の中にブッダの思想を生かそうと努めてこられました。こちらをご覧頂きましょう。今回のセレクションでお送りする内容です。前回は「空飛ぶ鳥に迹なし」と題しまして、ブッダが理想の境地として説いた解脱とはどのようなものであったのかをお伝え致しました。元のシリーズでは、この後に「仏に帰依す」「安らぎの境地」という回が続いています。「仏に帰依す」の回で、中村さんは、ブッダから直接教えを受けた何人かの弟子の生き方を辿って、ブッダその人の人柄、あるいは思想を改めて見つめています。またこれに続く「安らぎの境地」では、煩悩の火が消えた安らかな世界、いわゆるニルヴァ-ナ―涅槃の境地とはどのようなものなのか、ということについて語っていらっしゃいます。今回はこれに続くシリーズの最終回です。「自らを灯とせよ」と題して、死を目前にしたブッダの言葉がどうようなものであったのか。また私たちが、ブッダの教えをどのように実践し、日々の生活に生かしていけばよいのかをお伝え致します。聞き手は草柳隆三さんです。
 

 
草柳:  「ブッダの人と思想」の最終回になりました。今回はブッダの最晩年の様子を見ていくことに致します。現在のスリランカにパーリ語で書かれました『大パリニッバーナ経』経典が残されているんですが、この経典には、ブッダが入滅に至るまでの最後の旅路の様子が実に詳しく述べられているということだそうです。今日はこの経典を中心にして、お話を進めていくことにしたいと思っています。お話を伺いますのは、いつものように東方学院院長の中村元さんです。先生、よろしくお願い致します。
 
中村:  お願い致します。
 
草柳:  とうとう今日最終回ということになって、今ご紹介した『大パリニッバーナ経』という経典に中心にお話を進めていきたいと思っているんですが、このお経というのは、他の仏典、経典とは何か一味違う内容をもっているんですか。
 
中村:  非常に最晩年の釈尊の人柄がよく出ている。多分に歴史的確実性をもって述べられていると思われるんでございますが、「マハ-パリニルヴァ-ナ・スッタンタ(大般涅槃経)」と申しますが、「マハー」というのは、「大きい」という意味ですね。「パリニルヴァ-ナ」というのは、究極の境地である「ニルヴァーナ(涅槃)」のことを言うんですが、しかしここでは、「無くなること、つまり釈尊が修行を完成されて、もう如何なるものにも悩まされない。すっかり解脱の境地に達せられた。最晩年には理想の境地を達成して、それでいろいろ教えを説かれたわけですが、それで「パリニルヴァ-ナ」という言葉を使っています。それから「スッタンタ」と申しますのは、割合に長い大きな経典のことをいうんですね。南アジアでは非常に重んぜられましたけれども、近年中央アジアでこの経典に相当するサンスクリット本が、これが断片ですけど見つかりまして、発掘したら見つかったんですね。それでドイツのゲッティンゲン大学の教授のワルトシュミットという学者が、この断片を丁寧に繋ぎまして、意味が繋がるにして、それで世間へ発表したもんですから、また人々の注意を受けるようになりました。これはそれに相当する部分が漢訳、あるいはチベット蔵経中の律蔵の中にもあるので、余計注目された次第でございます。
 
草柳:  ブッダの凝縮された教えと、それから何よりブッダの人間像と言いますか、人間そのものがとってもリアルに描かれているんだそうですね。
 
中村:  そうでございます。ほんとにリアルにね。事実に則していますから。
 
草柳:  さてそれではそのブッダが最後の旅に出たそのルートは一体どういう道程だったのか、ということを、ちょっとこの地図を見ながらお話をしてくださいますか。先ず出発点はどこだったんですか?
 
中村:  出発点がマガダの国の王舎城(おうしゃじょう)という、ナーランダの下の方に見えますね。これが当時インドで最大の強国であったマガダの国の王国なんです。首都です。その周りが一連の山で囲まれていまして、元は火山の噴火口だったと思うんです。今日でもその周りの門の出口の辺りには、温泉が噴き出ておりまして、それでインド人はそこへ入って、ポチャポチャやっていますね。とても良いとこなんですわ。それで今度ナーランダ―に行く。ナーランダーは後代有名になるんですね。おそらく当時としては世界第一と言ってもいいであろうところの大学がそこに置かれていたんです。だけど釈尊の時代にはまだそういうものがありませんから、当時の注目すべき土地ということです。そこを通りましてガンジス河の岸辺へ行きます。そしてパトナというのは、今日でも大都会ですがね、いくつかの河川が合流する地点だから、交通に便利なんですね。そこから次にガンジス河―現在はそこに大きな橋が架かっていますけど、その当時には橋はございませんで。
 
草柳:  渡しか何かで、
 
中村:  そう。渡しで向こう岸へ渡りまして、それからまた北の方へ向かって、釈尊は旅を続けるという筋書きになっているんです。
 
草柳:  ヴェーサーリーへ入って、ヴェーサーリーからさらにまた北の方への旅でございますか。
 
中村:  そうです。ヴェーサーリーというのは、当時の商業都市で有名なんですね。ある意味で民主主義が行われていた。だからヴェーサーリー市のことを、神々が批評して、「あそこでは住民がみんな、俺が王様だ、俺が王様だ≠ニ言い合っていると。鼻っぱしが強いからなんていうような、そういう記事も後に出ておりますが、当時の商業都市です。釈尊はヴェーサーリーへ入って、そこでちょっと雨期を過ごされたりして、それから雨期が済んでから、また北の方へ向かって旅をされた。何故北の方へ向かったかということが問題なんですがね、やっぱり一般の凡人の気持を持ち込んで想像するのはよくないのかも知れませんけども、人間やっぱり歳を取ってきますと、生まれ故郷のことを思うようになりますね。釈尊の誕生地はネパールのルンビニーというところですが、なんかその近くへ帰りたいと思われたんじゃないでしょうか。当時のハイウエー(highway)を通ってずっと旅を続けられたわけです。
 
草柳:  ただ生まれ故郷のルンビニーには辿り着けずに、その手前のクシナーラーというところで亡くなられたというわけですね。
 
中村:  そうです。
 
草柳:  その年齢も八十、あるいは八十に近くなって、ブッダ釈尊にしてみれば、おそらくもうかなり覚悟の旅だったんでしょうか。
 
中村:  おそらく覚悟の旅だったんじゃないですかね。やっぱり偉い方だったから、自分の運命を見通しておられたような気がしますです。
 
草柳:  そしてこの最後の旅路の間に、その都度その都度また大変後代に残る有名な説法がいくつかなされたということですが。
 
中村:  そうです。それぞれの通過した都市で説法されて、それが伝えられているというのはまた大したことだと思いますね。二千数百年の後世にまでもですね。その通りでないとしても、説法の内容がいろいろ伝えられているのは大したことだと思います。
 
草柳:  しかもこの経典の場合には、かなり忠実にそれが伝えられてきているのだというふうに、かなり言えるんですね。
 
中村:  言えると思いますね。それはその事実に反することを無理にでっち上げたというようなところはありませんし、それからいろいろ異本がございましょう。それが違った言語で書かれた異本が、みんな中身がほとんど対応するんですね。だから多分に歴史性があると学者は考えています。
 
草柳:  ただそれにしても、相当な道程で、当時の道路事情を考えると、特に老齢の身にとっては、並大抵の旅ではなかったかと思うんですけれども、ちょうど旅に出始めて、暫くしてインドの得意の雨期の季節に入ったそうですね。
 
中村:  そうです。雨期に入りますと一面は水浸しになるもんですから、歩くことができないんです。で、普通修行者は托鉢によって暮らしていました。つまり世俗の信者の家へ行って食物を頂くわけです。けれどもそれもできませんで、雨期にはどこかでジッと住んでいるというのが慣わしでした。一つには雨期に出歩くと、水の中に棲んでいる生き物を踏みつける懼れがある。自分だって害を受けることがあるでしょう。ところがジッとしていれば、そういう妨げに遭わないということで、仏教以前から習俗となっていたわけでございます。
 
草柳:  インドの雨期と言いますと、もう四月、五月ぐらいには始まるわけですね。
 
中村:  そうですね。
 
草柳:  これは大変な猛烈な暑さと湿気の中で暮らさなければいけない。
 
中村:  そうです。両方から攻められるからなかなか大変なんですね。
 
草柳:  もうこの頃には当然お弟子さんたちというか、信者もかなり数はいたわけですか?
 
中村:  おそらく釈尊について旅を共にしていた人々は相当いたと思うんです。けれども雨期になりますと、一緒に暮らすことが難しいですから、それで釈尊はみな都合のいいように雨期の安居(あんご)と申しますが、安住する生活ですね、それを過ごすようにということを言われました。
 
草柳:  ということは、つまり一定のところに定住して、暫くというか、雨期を過ごす。
 
中村:  雨期の定住生活ですね。
 
草柳:  その辺のところを書いた下りがあります。それを見てみたいと思うんですが、
 
「さあ、おまえたち修行僧らよ。ヴェーサーリーのあたりで、友人をたより、知人をたより、親友をたよって、雨季の定住(雨安居(うあんご)」に入れ。わたしもまたここの〈ベールヴァ村〉で雨季の定住に入ろう」
(大パリニッバーナ経)
 
つまり先生がおっしゃったことが、こういう形で行われたわけですね。
 
中村:  そうです。なにかしら縁を見付けて、殊に親戚であるとか、あるいは当時はまだカーストの観念が一般に残っていましたからね。だから同じカーストの者だと余計快く受け入れられる。あるいはその旅に出ている人ですと、同じ村の出身だなというと親しんで受け入れられるというわけです。
 
草柳:  当然同じ出身者もいたでしょうし、
 
中村:  おそらくいたと思うんです。殊に釈尊の旅路というのが、大体当時の大きなハイウエーに沿ってでしたからね。いろいろ伝(つて)があったと思います。
 
草柳:  ただ勿論荘園というふうなものはまだなかった時代。
 
中村:  大きな荘園というのは、この時代にはまだなかったと思います。
 
草柳:  だから今のように三々五々伝(つて)を頼って雨安居を過ごした。
 
中村:  そういうわけであります。
 
草柳:  ただブッダは、この時に経典の中にあるように、もう大変な病に襲われた。
 
中村:  そうなんですね。やっぱり歳ですから。八十出ての方ですから、それが旅を続けるというのは容易じゃないんです。それで非常におそらく消化器の病気だと思うんですけど、病に苦しめられたと、そういうことが書いてございます。
 
草柳:  ただそれは取り敢えずは回復をして、旅をまださらに続けるわけなんですが、この後もう一つ、これはアーナンダに対して、アーナンダが質問したことに対して答えている部分なんでしょうか。それを先ず見てみたいと思うんですが、
 
中村:  釈尊は、アーナンダは自分の身内のものでもあったし、まあ弟子として話しかけも良かったんだと思いますね。
 
草柳:  そのアーナンダに対するブッダの答えなんですが、
 
「アーナンダよ。修行僧たちはわたしになにを期待するのであるか? わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。全き人の教えには、なにものかを弟子に隠すような教師の握拳(にぎりこぶし)は存在しない。「わたくしは修行僧の仲間を導くであろう」とか、あるいは『修行僧の仲間はわたくしにたよっている』とこのように思う者こそ、修行僧の集いに関してなにごとかを語るであろう。しかし向上につとめた人は、『わたくしは修行僧の仲間を導くであろう』とか、あるいは『修行僧の仲間はわたくしにたよっている』とか思うことがない。
 
中村:  ここに釈尊の教えの基本的な立場が表明されていると思うんです。釈尊以前には、大体バラモンたちの司るヴェーダの学門が主でしたけれども、それも内弟子で、そして十分に信頼されている。そして高いカーストの者でなければヴェーダを教えてはならないというようなことが言われていたんでございますけど、釈尊の教えは万人のものだ。だから自分は教えを隠すということがない、というんですね。特別に選ばれて、自分の所へ入ってきた人々―俗な表現をすれば、入学試験を許されて、それを通過した人だけしか聞けないというのではない。道を求める者、誰でも、もし求道―道を求める心があるならば、それに釈尊は教えを説いてやった。だから隠すことがないという。つまり釈尊の教えというものが、普遍的なものである、ということが言える。そこでまた特別な立場が表明されているんですが、世の宗教家という者は、どうしても自己中心に考え、「俺から教えを受けるんでなければダメだ」と言って、特に師匠としての権威をかざすことがございました。けれど釈尊の場合には、自分が仲間を導くんだとか、あるいはみなが自分に頼っているんだと、そうやって思い上がるようなことがない、というんです。これはインド精神史においても非常に珍しいことでしてね、自分が神の命を受けているんだとか、カリスマ(超能力、大衆を心腹させる非凡な才能)性を発揮することがないわけです。そこにまた仏教が民族の違いを超えて広くアジアの国に広がり、さらに西洋にも部分的に広がっていったということを示す証拠も見つかっておりますが、これはやっぱり釈尊の立場というものがどこまでも普遍的な教えであったと。それを目指していた、ということが言えると思いますんでございます。
 
草柳:  ここでブッダがこういう言い方をしたということは、例えば前の方にあった「教師の握拳は存在しない」これはその当時さっき先生がおっしゃっていたように、ある偉い教師、あるいは教祖から秘伝の如くして、「お前にだけ伝える」というふうなことがあったということが、
 
中村:  どこの国でも昔はあったわけでしょう。特別な偉い先生から教えを受ける。それからまたここに書いてある「秘密の教えは、自分の実子か、あるいは信頼する弟子にしか伝えてはいかん」そういうことが写本の表に書かれていることがあります。釈尊はそれを乗り越えているわけですね。
 
草柳:  それと何よりもここで釈尊が、今のような言い方をしたということは、釈尊の教えた教えの内容というのがまさに普遍的なことであって、これは万人誰でもが受けることのできるものであるという、万人誰もがそのことについて考えていかなければいけないことなんだ。つまり平等なんですね。
 
中村:  平等ですね。だから釈尊は、如何なる人でも、もし真に道を求める者であるならば、それを受け入れて教えを授けておりますですね。誰にでも広めるものであるから、だから教師の握り拳というものが―握り拳の中に秘密の教えを隠しておくということがないというんですね。それからある場合には、日月のように釈尊の教えは輝くとも言われています。つまり太陽とか月のようにですね。太陽とか月というものは、照らす時にはすべての人を一様に照らしますでしょう。そこに差別がないわけです。願わくばそういうものでありたいということを、釈尊は亡くなる時まで考えておられた、ということが言えると思いますんでございます。
 
草柳:  釈尊の言っている「法」というのは、「ダンマ」「ダルマ」と。これは釈尊だけのものではない。もうすべて万人が、その法の下で、法を尊んで暮らしていかなければ、生活していかなければいけないということなんですね。
 
中村:  そういうことに帰着すると思うんでございますね、簡単に申しますと。
 
草柳:  だから余計に教師がじっと握りしめているようなものではない、ということも余計ここでは強く言っているわけですね。
 
中村:  そう思いますね。殊に珍しい発言だと思いますね。どこの国の宗教史を見ましても、宗教的指導者というものは、「俺は偉いんだ、俺が導いてやるんだ」と、そういう態度で人々、信者に向かう方がいろいろございましょう。それとは全然異なるわけです。
 
草柳:  まさにこれはこの後になるのでしょうか、ブッダがアーナンダに向かって言っている次のような言葉も、これもこう身に迫るというか、心に迫るものがあるんですが、これをまた見てみます。
 
「アーナンダよ。わたしはもう老い朽ち、齢(よわい)をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった。たとえば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いていくように、おそらくわたしの身体も革紐の助けによってもっているのだ。」
しかし、向上につとめた人は一切の相を心にとどめることなく、若干の感受を滅ぼしたことによって、相のない心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、かれの身体は健全(快適)なのである。それゆえに、この世でみずからを島として、みずからをたよりとして、他のものをたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」
 
中村:  釈尊の感懐ですね。これは私も年齢だけについて言えば、もう釈尊のこの世における歳を過ぎたこの身にこたえるものがあるんでございます。例えば「自分はもう老齢に達した。我が齢は八十となった。ちょうど古ぼけた車が革紐の助けによって、やっとこう動いていくように、自分の身体ももうまるで革紐で結わえられて、のっそりのっそり動いていくようなもんだ」と。その譬えが如何にもピンときますですね。殊になんかあるとすぐ薬を飲むなんていうことを致しますが、我が身の哀れさを託(かこ)つにつけられましても、この言葉を訴えるものがございます。けれども、釈尊は体の不自由を託(かこ)っていても、はっきりとした態度を表明しておられます。つまり自分は修行にずっと努めてきた人であった。けれど最後に心の乱れることがないように、一切の相を心に留めることのない、そういう精神統一の境地に達した。「無相三昧(むそうざんまい)」とでも申しますかね。そうなると、もう身体が自分を悩ますということもないから、自分は健全快適であると。
 
草柳:  つまりこの辺のところは、一切の執着といったようなものを滅し去るというか、滅ぼすというか、そしてその欲望のコントロールができた状態ということなんですか。
 
中村:  そういうことになると思いますね。それでその場合に何を頼りにするかということですが、今読んで頂きましたように、「この世でみずからを島として、みずからをたよりとして、他のものをたよりとせず」と。「島」という言葉が使われていますが、これはインドでは洪水の時に一面水浸しになるわけです。そうすると、水のこない水面上に現れているところへみんな避難して、日を送って、それで水が退くのを待つわけなんですが、そこだけ水面上に浮かんでいますから、それを「島」と呼ぶ。あるいは漢訳仏典では、「州(す)」と訳していることもございます。元の言葉ですと、「ディーパ」と言うんですね。「ディーパ」というのは、「島」とか「州」とかいう意味です。この「ディーパ」という言葉には、「ともしび」という意味もあるんです。それを俗語では、「ビーバ」になるわけですね。その「ビーバ」という読み方をとりますと、「お灯明」灯(ともしび)という意味になります。世の中は闇黒になると、我々何を頼りとしていいかわからない。余分なものに頼りにしないで、本当の人間の理法というものがある。それを頼りにして、考え行動せよ、という意味なんでございますね。それで先ず自分を頼りにせよ。州とせよ。島とせよ。それからまた殊に漢訳の仏典には、東アジアの仏教では、「自己を灯明、自己を灯とせよ」と。自分で反省してみて、その結果得られた確信に導いて貰うと。それで「自灯明(じとうみょう)」「法灯明(ほうとうみょう)」ということが言い癖になっているんでございますね。
 
草柳:  「自灯明」「法灯明」の方はなんとなく分かり易い、
 
中村:  ええ。日本では、そっちの方がよく言われますね。日本だって洪水がないことはないけど、しかし日本は島国でしょう。だから一面に大海原になるという洪水がないわけですね。一つの村が被害を受けても、周りはひょっと丘があれば、そこで助かるというものでございましょう。ところがインドのようなところでは、田も畑もみんな洪水の水に浸されるから、この州とか島という譬えが非常にあちらの人にピンとくるわけです。ところが漢訳仏典になりますと、「ビーパ」という読み方をとる。それは「頼りとする」と。我々日本人にとっては、灯として頼るという方がピンとくるような気がしますが、親鸞聖人の御和讃にも、「無明(むみょう)長夜(じょうや)の燈炬(とうこ)なり 智眼(ちげん)くらしとかなしむな 生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ」と言われている。つまり我々は無明の迷いの中に閉じ込められているんだけれども、しかし仏様の御光によって導いて頂く。だからそれを自分のものとして、そしてかえりとして好き日を送れ、という意味でございます。
 
草柳:  とにかく先生、灯明というのは、勿論目に見えるし、触ればわかるんですけれども、法(ダンマ)というのは、これは手で触って確かめることもできませんし、勿論目で見ることもできませんよね。
 
中村:  これは人間が各自が実践し行い明らかにするものである、ということが言えましょう。ですから「自灯明」と「法灯明」と二つ並んで出てくるというのは、どうかと申しますと、何に頼るか。自分でよく考えて反省してみる。自分を頼りにするわけですが、その場合にも、強い確信をもって行動する人は、百万人と雖もわれ行かん、という気がしましょう。何故そういう確信が出てくるか。これは人間として生きるべき理法があるわけですね。それを「ダルマ」―「仏」と呼ぶわけです。それに基づいて言えば、自分の反省というものが意義をもってくる、ということになるわけでございます。ただ「自分に頼れ」と言ったって、これは自分の勝手気儘な気分なんかに頼れという意味ではなくて、自分が進もうという道が、ほんとに人間としての道に合しているものであれかしと。そう思いますと、それに頼るようになる。だから法を求めて得られた確信とか結論というものは、人類全体に通ずるものでなければならない。もし如何なる人でも実行すべきものであるということになりますと、百万人と雖も我行かん。百万人の人が反対しても、自分は正しいと思う、この道を行く、というわけですね。この確信というのは、高度に文明の進んだ現代社会でもやっぱり重要なことだと思いますね。つまり如何なる人も、社会的なある持ち場において生きて活動しているわけですね。その人にとっては、正しい道というものがあるわけです。それを頼りにし、それに則れ、というわけです。自己に頼るということは、また世の中の人すべてに頼るということにピッタリ合うわけです。時代は違いますけど、近年になっての話で、私、聞いてちょっと心を動かされて感動した話がございますが、この頃いろんな薬が発明されまして、そのために人が薬に頼って害を受けるということがあります。薬害の問題がございますね。ところが聞きました話ですけど、ある特殊な薬害については、ドイツとアメリカにはその例がない、というんですね。何故かと言いますと、薬屋さんが新しい薬を作って申請しますね。その時にみんなが要るからと言うんでいい加減に許可を出すことをしないで、それを扱ったドイツの女医さんですが、同時に検査官の方、あるいはアメリカでもそういう人がおられたわけです。それが「まだ実験が十分にできていないから、これは売りに出してはいかん」と言って止められたんですね。みんなが言っていることと反対のことをやったわけです。けれど、すべての人の幸せを望んで、自分の確信を貫かれたわけですね。だからある特殊な薬害というものは、ドイツとアメリカでは起こらなかった、と言っていました。これは大したことだと思いました。
 
草柳:  今のお話は、大変今の日本の状況に照らして、とても示唆に富んでいますね。
 
中村:  示唆に富んでいます。自分が確信をもって、これは人間の道として斯くあるべきだという、それを実行されたわけです。だからそういう意味の勇気というものはやっぱり今後も要るんじゃないですか。
 
草柳:  我々はその場合、自分に頼るということは、つまりそれは法に頼るということと同じこと?
 
中村:  同じことですね。表裏の関係ですね。決して矛盾しないわけでして。だから自己に頼るということは、自己の良心に頼るということですね。また古典の言葉によりますと、「良心」ということは、インドでは何と言うかというと、「アートマン」という言葉を使っています。つまり自分の内なる魂、心に基づいて批判し考え行動しろ、ということですね。そう思いますと、「自灯明・法灯明」ってこれ同じことになるわけですね。「自帰依・法帰依」というのも同じことですね。
 
中村:  さてそれでは、釈尊の旅路の跡をもう少し先へ辿っていきたいと思うんですが、ヴェーサーリーという今度は街へ入って行くわけですね。ブッダにとっては大変懐かしの地というか、思い出の地というか、非常にこう因縁の深いところなんですね、ヴェーサーリーというのは。
 
中村:  ヴェーサーリーと申しますと、当時商業都市でございますね。非常に栄えたんです。だから政治形体もむしろ共和制だったわけですね。それが栄えるからこそ、人々はまた何か仕事を求めて、あるいは利益を求めてやって来たんだろうと思います。釈尊はそこを通って行かれたわけですね。
 
草柳:  仏典によりますと、ある朝ヴェーサーリー市に托鉢に出掛けると、そのブッダは昼休みにあちらこちらを見渡して、こんなふうなことを言ったというのが経典にあります。
 
「アーナンダよ。ヴェーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。バフプッタの霊樹の地は楽しい。サーランダダ霊樹の地は楽しい。チャーパーラ霊樹の地は楽しい」「世界は美しいもので、人間の生命(いのち)は、甘美なものだ」
 
という言葉で結んでいるんですが。
 
中村:  これは暫くヴェーサーリーに釈尊が滞在されたわけですが、釈尊としては非常に懐かしい思い出の土地だったと思うんですね。何遍も通ったでしょうし、そしてこのいろいろな霊樹の木というのが、そこに出ておりますが、インドでは植物を単なる植物としてではなくて、まるで自分の仲間である聖あるものと、そう見なす傾向がございまして、従って大きな樹がありますと、その一つひとつに名前を付けて、そして樹木を愛しているんですね。これ日本、あるいは西洋で申しますと、ペットを可愛がるでしょう。ペットに名前を付けますね。それ以上にインドは進みまして、立派な樹があると、そうするとそれに名前を付ける。そして「これは特別な樹だから」と言って土盛りをしまして塚を作るんです。そしてそこに神様が宿るというふうに設えて、みながお詣りに行く。それは観光の気晴らしということも兼ねてかも知れませんけどね。とにかく大きな樹があると、そこに祠が作られている。これはインドのあちこちに見受けます。釈尊は、一つひとつを、ああ、懐かしいなと思って眺めて、そして別れを告げられるんですね。それを「madhura(甘美)」と呼んでおるんですがね。それを見ていると楽しいと言うんですね。心が悦ばしくなると言うんです。日本語で何と申しますかね、晩年の釈尊の気持を思いやると「懐かしい」というのが当たるかも知れません。けれど、この「懐かしい」というのは、我々日本人にはピンとくる言葉ですわね。これを外国語に訳すことはなかなか難しいそうですよ。それで私、前にドイツの宗教学の先生に聞いたことがあるんです。「〈懐かしいな〉というのを、それをドイツ語で何と言いますか?」と言ったら、そういう場合には、「美しき思い出」と言うんですが、日本人の「懐かしい」とちょっとずれているような気もしますけどね。しかしそういうものを、〈ああ、懐かしいな、いいな〉と思って見るという気持は、どの民族にだってあると思うんです。釈尊の場合もそうだったと思うんですよ。
 
草柳:  これ見ていますと、来し方を振り返ってもう一遍ここのところで釈尊の思いが迸り出た、というふうな感じがするんですが、特に最後の「世界は美しいもので人間のいのちは甘美なものだ」という言葉というのは。
 
中村:  これはやはり注目すべきもの。殊に仏教という宗教の開祖の方が、こういうことを言われたというのは、これは注目すべきだと思いまして、私は敢えてここへご紹介を願ったわけです。これはサンスクリット本が中央アジアで見つかりまして、トルファン(吐魯蕃:中国北西部、新疆(しんきょう)ウイグル自治区中東部、天山南路の東北部のオアシス都市)辺りで見つかった。それをドイツの学者が整えて出した、そこに出てくる言葉なんです。で、それを漢訳、それからチベット訳にもほぼそれに対応する感想が出ておりますが、世界は美しいものだと思って見られる。これは本当の宗教者である釈尊が、この世をジッと見渡して、「ああ、世界は美しいな」と言って別れを惜しまれた、その気持が出ているような気がするんでございます。「人間の生命は甘美なもの」お互い人間として生まれていますが、いのちをもっているということが有り難いことだ、いいことだ、と、その感想が出ているんですね。だから後のいろんな宗教に出てくる世捨て人の感じとはまたちょっと違いますね。そうすると、これは窮屈な教義学者に言わせますと、「なんだ。今はの際になって世を惜しむなんていうのは悟っておられん」なんていう人がいるかも知れませんけどね。釈尊の言葉としてこう言われているというのは、深い意味があって、これからの方が味わって頂きたいと思う、そういう句でございます。
 
草柳:  この辺のところも如何にも人間ブッダという感じが伝わってくるような言い回しだと思うんですが、そしていよいよヴェーサーリーを去る日がくるわけですけれども、そこのところの経典をまたご紹介していきたいと思います。
 
そこで世尊は早朝に下衣をつけ、衣鉢をとって、托鉢のためにヴェーサーリーに入って行った。托鉢から帰って食を終り、世尊は象の眺めるようにヴェーサーチーを眺めて尊者
アーナンダに告げた。「アーナンダよ。これはわたくしがヴェーサーリーを見る最後の眺めであろう。さあ、アーナンダよ、バンダ村へ行こう」と。
 
そして思い出のヴェーサーリーをゆっくり眺めて去っていくわけですが、この後途中のある村で、その経典によりますと、鍛冶工のチュンダという青年に饗応を受けるわけですね。
 
中村:  そうです。
 
草柳:  ところがそこで大変なことが実は起こってしまったという。続けてそこのところを見てみたいと思います。
 
さて、世尊が鍛冶工の子チュンダの食べ物を食べられたとき、激しい病いが起こり、赤い血が迸り出る、死にいたらんとする激しい苦痛が生じた。尊師はじつに正しく念い、よく気をおちつけて、なやまされることなく、その苦痛を耐え忍んでいた。さて、尊師は若き人アーナンダに告げられた。「さあ、アーナンダよ、われらはクシナーラーにおもむこう」と。」
 
これはもう八十のブッダにとっては大変な苦痛だったでしょうね。これだけの症状が出る病気に罹ってしまったというのは。
 
中村:  この話はいろいろのことを我々に教えてくれるわけですよ。先ず釈尊が来られたということをチュンダが聞いて、それじゃおもてなしをしようと、そう決意したわけです。釈尊はそれを快く受けたというんですね。それで鍛冶工は、カーストシステムによりますと、低い方の職業なんですね。だからバラモンなんかは威張って、なかなか側へ寄せつけない。釈尊は上下の隔てないわけです。誰でも来たい者、道を求めたい者は救ってやるという立場ですから、おもてなしをするという申し出があった場合に、それを気楽に受けられたわけなんですね。ただその食物にあたったというんですがね。
 
草柳:  今でいうと、なんか赤痢なんかにあたったというふうな症状みたいですが、ただ食事を出した方のチュンダとしては、随分後悔しましたでしょうね。
 
中村:  後悔したんですね。自分が差し上げたご馳走が、なんか病気のもとになったんでは、というので、慌てまして、「あ、これ悪いことをしたな」と言って、自責の念に駆られたわけです。けれども、釈尊はずっとそこからまたヴェーサーリー市を出てずっと旅を続けられるんですが、ただその後で今度チュンダの供養―もてなしについて、こういう反省を述べておられます。チュンダが自分をもてなしてくれた。これはほんとに心からなる行為であって、自分の受けたもてなしを、チュンダは自らを責めているかも知れない。そうじゃない。チュンダが供養してくれたその食物は、またとない比類のないほど功徳のあるものだ。自分の生涯を振り返ってみると、ブッダガヤの近くで悟りを開いた。自分がじっと瞑想に耽っていますね。そうすると二人の商人がやって来た。タプッサという人と、それからバッリカという、その二人がお団子を捧げたんですね。それを頂いて元気回復された。その時のお団子の功徳と、それからこのたびチュンダが捧げてくれたご馳走の功徳と、この二つは特に意義深いものであったと言われた。それが今の経典に出ているんですね。それはどこまでもチュンダが後悔して自らを責めるということのないようにという思いやりがあるんですね。なかなかそこまで思いやりを及ぼされるというのは素晴らしいことだと思いますね。
 
草柳:  そういうこともあって釈尊としてはすっかり衰弱して、実はこの後こういう言い方で、アーナンダに話をしているところがあるんですね。
 
「さあ、アーナンダよ。おまえはわたくしのために外衣を四つ折りにして敷いてくれ。わたくしは疲れた。わたくしはすわりたい」「かしこまりました」と、アーナンダは尊師に答えて、外衣を四つ折りにして敷いた。尊師は設けられた座に坐った。坐ってから、尊師は若き人アーナンダにいった。「さあ、アーナンダよ。わたくしに水をもってきてくれ。
わたくしは、のどが渇いている。アーナンダよ。わたくしは飲みたいのだ」
 
これは、「もう私は疲れた。私は座りたい。喉が渇いたから水を持って来てくれ」というのは、この辺のところを読むとブッダも普通の人間として、ある意味では歳を取った人だなという。
 
中村:  それは老齢の方ばかりでなくて、若い人だって運動して、喉が渇きますと、もうとにかくなんか飲み物があったら飛び付いて飲みますですね。だから非常に人間的な姿が現れているわけなんでございますね。そして大体当時の修行者、殊に仏教修行僧の場合には、三衣一鉢を持って歩くというんですね。三種類の衣を身に纏う。それから鉢に飲み物だの、おかずを頂くから一つの鉢を持つ。それで一番外側にある纏っているのが大きな衣です。「外衣(がいえ)」であり、「大衣(だいえ)」とも申しますが、大きな衣ですが、それをそこへ敷いて、ちょっと布団の代わりにするんですが、自分は疲れたからちょっと休みたいと言うんですね。そして次に水を持って来てくれと。釈尊の病床で―病床とも言えないのかも知れんけど―病気に悩まされておられた、その時の様子。それから愛弟子のアーナンダがお世話をした。その状景がよく出ていると思うんでございます。
 
草柳:  その辺はまさに人間ブッダという感じが実によく現れていますね。
 
中村:  お釈迦様でも、そういう具合に苦しまれたんだから、だから後世の我々もやっぱり苦しいことがあったって、これ仕方がない。ただその苦しみに処して正しい道を求めていくということを心掛けたらいいんじゃございませんかしら。
 
草柳:  そしていよいよ遠い道程を辿って行って、結局生まれ故郷には辿り着けずに、その手前のクシナーラーというところで亡くなられるわけですが、そのクシナーラーに到着したブッダはこんなことを言っているんですね。
 
「さあ、アーナンダよ。わたくしのために、二本並んだサーラ樹(沙羅双樹)のあいだに、頭を北に向けて床を用意してくれ。アーナンダよ。わたくしは疲れた。横になりたい」と。
 
中村:  クシナーラーと申しますのは、お釈迦様の亡くなった土地ですね。現代のインド人、ネパール人は「クシーナガル」と記している。「クシナガラ」というのは、学者のつくった人造語である。パーリ語では「クシナーラー」と言うんでございますが、お亡くなりになった土地―ここには今でも涅槃道がありまして、大きな釈尊の臥せられた、横臥されているその像が金属で作られているのがございます。みんな拝んでおりますがね。
 
草柳:  これを聞いたアーナンダとしては、「もうブッダ釈尊の入滅が近いのではないか」と言って、多分きっとアーナンダと釈尊というのは特別な間柄にあったんでしょうから、相当悲しまれたと思うんですね。その悲嘆にくれるというか、むしろ元気なアーナンダの方が悲嘆にくれているような様子があるんですが、そのアーナンダに向かって釈尊が言っている言葉にこういうのがあるんです。
 
「やめよ、アーナンダよ、悲しむな。嘆くな。わたくしは、あらかじめこのように説いたではないか、―
すべての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、異なるにいたるということを。およそ生じ、存在し、つくられ、破壊されるべきものであるのに、それが破滅しないように、ということが、どうしてあり得ようか。そのようなことわりは存在しない」
 
と言って、アーナンダを諭(さと)していますね。
 
中村:  そうかも知れませんね。これはまた貴重な教えで、もう今生きている私どもがそのままお受けすべき教えじゃないかと思いますです。親しい人、あるいは親族が亡くなったということになりますと、もう自分でどうしていいかわからないことがございますね。これはやっぱり人間の定めなんだから、人として生まれた以上は、こういう運命が待っているんだから、それを素直に受けて、人の道を見出して進んで行ったらいいんではないかという教えになるかと思うんです。これに説かれていることは、世間で知られている聖句「諸行無常(しょぎょうむじょう)」ということですね。平家物語の最初に引かれた「諸行」というのは、諸々の作られたものと言うんです。それらはみんな無常である。いつまでも続くものではない。平家物語の場合には、あんまり権勢を握った家だって長く続くもんではない。いつかは滅びるぞよ、という、そういう教えが含まれていますが、しかしそれとは別に、親しい人、仲の良い人とは、いつまでも会っていたいもんだと思いますけど、それが思うようにいかない。これはやっぱり人間としてもう定めなんだからと。素直に受けろ、という教えがここに含まれていると思うんでございます。
 
草柳:  そしていよいよ言ってみれば最後の遺言ということになるわけですが、ブッダは八十で入滅するまで、ほんとにギリギリのところまで仲間や弟子たちを叱咤激励するというか、そういうことをあの大変な、もう多分きっと苦痛の連続じゃなかったんじゃないかと思う最中でやっているわけですね。それから最後にご紹介したいと思うんですが、
 
「アーナンダよ。あるいは後におまえたちはこのように思うかもしれない。『教えを説かれた師はましまさぬ。もはやわれらの師はおられないのだ』と、しかしそのように見なしてはならない。おまえたちのためにわたくしが説いた教えと、わたくしの制定した戒律とが、わたくしの死後におまえたち」の師となるのである」
(「大パリニッバーナ経」)
 
 
これはアーナンダが、「この後どうしたらいいでしょうか?」というふうな問いに対して答えたんですね。
 
中村:  そうなんですね。遺言に当たるわけです。「自分のために何してくれ」というふうな意味の遺言ではなくて、人々はこういう具合にすれば自分が居なくても、教えを自分が説いているのと同じことになるという、そういう教えでございますね。
 
草柳:  先ほどもちょっと出ましたけども、つまり教師というものはないのだと。もしそれがあるとすればそれは法なんだと。自分が今まで言ってきた法こそ大事なんだ、ということを最後にこう念を押して言っているみたいな感じがしますね。
 
中村:  そうですね。
 
草柳:  さて先生、一年間にわたって「ブッダと人と思想」ということで、お話をいろいろな側面から伺ってきたわけですが、そのブッダの教えの今日的な意味と言いますか、一年間先生お話をしてくださって、今最後に纏めと言いますか、どんなことをお考えでいらっしゃいますか。
 
中村:  一年間にわたって釈尊の教えなり、あるいは実践なりをご紹介するという、非常に貴重な機会を与えて頂きまして、それに感謝しております。ただ私が十分にその務めを果たし得なかったことを怖れているわけでございますが、しかしこの十二回にわたって釈尊の生涯、あるいは思想のいろいろな面をお伝えしたわけでございますね。これは時間・空間の差を超えて、あるいは民族の差を超えて、あるいはさらに宗教の差を超えて、如何なる方でも耳を傾けて味合われますと、〈ああ、こうだな〉と思い当たられることがあると思うんです。そうすれば釈尊はこの世におられなくとも、やはり生きておられると同じことになる、そういうことが言えるかと思うんでございます。
 
草柳:  一年間のお話の中で紹介してくださった釈尊の生き方から、今私たちが一番学ばなければいけない、受けなければいけないというのは、結局どういうことになるんでしょうか。
 
中村:  これは簡単に申しますと、いろいろ学ぶべきこと、たくさんございますけれども、やはり「人に対して慈しみの心をもって、思いやりの心で、そしてお互いに協力していくということ」これは今の世の中でそのまま実現できることじゃないでしょうか。
 
草柳:  そうですね。確かに今だからこそ、こうした状況の世の中だからこそ余計にということがあるような気がしますね。
 
中村:  そうですね。機械文明がどんどん進歩しましたけど、精神面ではなんか荒れているということを感じますので、この際にこの釈尊の教えを繰り返し受けるということは深い意義があることだと思います。
 
草柳:  この一年間いろいろとお話を有難うございました。
 
     これは、平成二十六年三月二十三日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである