いのちの仕舞い≠支えたい
 
                 医 師 小笠原(おがさわら)  望(のぞみ)
一九五一年、高知県土佐市生まれ。七六年、弘前大学医学部卒。同年徳島大学第一内科入局。七七年、高松赤十字病院内科勤務。八八年、同病院神経内科部長。九七年、大野内科(四万十市:旧中村市)副院長を経て、二○○○年同院長。「かかりつけ医としての在宅医療、神経難病、こころのケア」に、「四万十のゲリラ医者」として活動中。○二年から朝日新聞高知版柳壇選者。著書に、「いのちばんざい」「いのちの仕舞い 四万十のゲリラ医者走る!」など。
                 ききて 品 田  公 明
 
ナレーター:  高知県の西部を流れる清流四万十川(しまんとがわ)。下降に近い鉄橋の脇に一軒の診療所があります。院長の小笠原望さん、六十二歳。小笠原さんは、大きな総合病院で二十年間勤務医を務めた後、平成九年からこの診療所で四万十川流域に暮らす人々に医療に取り組んでいます。小笠原さんが、力を入れているのは、自宅で療養している人たちを訪問して診察する在宅医療です。四万十川流域に暮らす人々は、人生の最期をいのちの仕舞い≠ニ呼んでいます。痛まず、苦しまず、住み慣れた我が家で人生の最期を迎えることがいい仕舞いとされているのです。今回の「こころの時代」は、医師小笠原望さんに日々見つめているいのちと生きることについて聞きます。
 

 
品川:  いのちの仕舞い≠ニいう言葉なんですけれども、これは具体的にどのようなことを表しているんでしょうか。
 
小笠原: 初めてこの言葉を聞いたのは、九十歳ちょっとの方だったんですが、訪問診療していて、明け方に調子が悪くなって、そして昼行って、夜行って、で、患者さんに「明日来るからね」と言ったら、患者さんは意識があって、「ちゃんと待っています」って答えてくれて、僕が夕食を食べていたら、電話が掛かってきて、調子が悪いということで行って、その時に前の日までちゃんとご飯も食べて、苦しむこともほとんどなく、半日の経過で患者さんが亡くなった。その時に、普通でいう「大往生」というか、そういうふうな感じのことを「いい仕舞い」と言うんでしょうね。その時初めて「ああ、いい仕舞いでした」って。「いい仕舞いをして頂いて有難うございました」と、家族の方に言われたのが、最初聞いた言葉でした。その方のご親戚の方が、外来診療に来られても、「先生、いい仕舞いを有難うございました」と言われて、〈ああ、こういう言葉があるんだな〉というのを、四万十に来て、そんなに時間経たない時に、その時に凄く新鮮な感じで、ああ、いのちの最後、いのちには終わりがある。その終わり方をどういうふうに、みなさんが感じているか。それが仕舞い―「いい仕舞い」という言葉だなというふうに思いましたね。特にお年寄りの場合に、病院へ行くと、いろんな処置があって、もう余計なことを、もう周囲の方はほんとにもう十分生きたからいいじゃないかと思っているんだけど、病院はやっぱり病院でしないといけないことがあるんで、という。そんな時の、それと対比する場所に、家で普段の生活があって、痛まないで苦しまないで、そういうのが「いい仕舞い」という言葉じゃないかなと、僕は思っています。
 
品川:  病院にないものが在宅だと、あると。
 
小笠原: あると思いますね。これは病院の中は、僕も四万十に来るまで病院で緩和ケア、たくさんの方を看取らせてもらったんですけど、中には癌の患者さんから、「癌で死ぬというのはこれほど苦しいものなんですね、先生」と言われたことがあって、凄く今でも胸に残っているんですけれども、そういう苦しさの中で、点滴を二十四時間しますし、ゴロゴロゴロゴロいうのを痰を吸引器で取りますし、いろんなことを―僕から言えば余計なことを、病院はやっぱりいっぱいしているのではないか。在宅で患者さんを診ていると、なるべく身体に合わせた、僕らとしては点滴をなるべく少なめにして、患者さんとのいろんなやり取りをしながら、家族の力があったら、もっと患者さんはゆったりになるし、患者さん自身も気持の上でも、身体の上でも楽な場面は作り出せる、そんなふうに思います。去年ですけれども、八十ちょっとの方が病院で入院していて、肺癌だったんですけれども、入院して、もう治療がなかなか上手くいかない。食べない、眠れないということで、もう病院から脱走するような感じで、「退院、今日しました」と言って、うちへすぐ帰りにお嫁さんと寄ったんですね。で、そうしたら、「僕が行くから」ということで、どうなるだろうかということで始まったんですけど、家に帰ったら、お嫁さんのお寿司を食べるし、夜は寝られるし、酸素も準備したんですけど、酸素も要らない。行ったら、座ってテレビで相撲見ているんですね。で、「しんどさはどうですか?」と言ったら、「いや、もうなんともない」っていう日が続いて、で、「お嫁さんの車で海を見て来た」とか、「ちょっとそこの玄関から外を散歩した」とか、病院ではもうほんとにやりようがないから、後は、という感じの方が、そこから三ヶ月、ほんとに家族とのやり取りの中で生活して、最後はお嫁さんと娘さんと息子さん、それからお孫さんとの中で、ほんとにこの方はほんの一日か二日でしょうか、ベッドで寝付いて、後意識がなくなって亡くなられたんですけど、その三ヶ月というのは、病院でいたらどうだっただろうかな、というふうに思うことがあるんです。しばしば家というか、その自然な流れの中で、いのちが最後が来るとしても、最後の来方(きかた)というのが、家というのは、あるいは家族というのはもの凄い大きな力かなと僕は思います。
 

 
ナレーター:  小笠原さんは、昭和二十六年、高知県土佐市に生まれました。幼い頃はプロ野球選手になることが夢だったと言います。高校三年生の夏、将来は学校の先生か医者になろうと漠然と考えていた小笠原さんに、医者になる決心をされた出来事が起こります。
 

 
品川:  医師になろうというきっかけは、お父さんの病気だったそうですね。
 
小笠原: 高校三年生の時にちょうど夏に、父が、潰瘍で手術後ショックになって、親戚が集められて、それから十一月まで入院したんですね。八月から十一月まで入院して、その時に父が、ほんとに生きる死ぬの世界を潜り抜けたところで、医者になろうかなという気持になります。ただ僕、気が弱いもんですから、血を見るのが嫌だったし、恐いことは嫌なんで、それは凄く不安で、ほんとに医者ができるんかなというのは、ずっと不安に思っています。
 
品川:  どういう医師になろうと思われていたんですか?
 
小笠原: 高校時代に、僕は大体のこんな医者をやりたいというのがありまして、この時は僕は自分の生まれた土佐市高岡町というところでここの公立病院の将来院長になりたい。院長になって外へ出向いていく在宅医療―今でいう在宅医療―往診をする医者をやりたい。それからいろんな公民館集会所でこう喋れる医者をやりたい。それからなんか広報的な、定期的な刊行物を出したい。川柳の編集長をしたい。こんなことを夢に思っていたんですね。
 
品川:  かなり具体的なイメージをお持ちだったんですね。
 
小笠原: もっていました。僕は徳島大学で八ヶ月研修して、高松赤十字病院に行って二十年なんですけど、この高松赤十字病院の二十年で、在宅へ病院から車を出して貰ってして、エッセイを新聞に書いて、公民館とかいろんなところへ院長先生が出て行って講演したらよろしいということでして、それでまあなんか高松で大体実現してきたんですね。父の病気がきっかけと言えばきっかけでしたね。
 

ナレーター:  大学の医学部を卒業した小笠原さんは、出身地高知のお隣、徳島大学の医学部で研修医として医師の道を歩み始めました。徳島大学病院の研修医を八ヶ月務めたのち赴いたのは、高松赤十字病院でした。この病院での経験が、小笠原さんにとって大きな財産になりました。それは病に苦しむ人たちが、自分たち医者に一番求めているのは何かを常に考えるようになったことです。
 

 
小笠原: 高松赤十字病院というのは、僕にとって凄く大きいのはケア。医者がケア―介護的な部分という発想が全然なかったんですね。僕は神経疾患―神経難病なんかを診ていましたので、神経疾患は、診断が付いた時から治療がないんでもう亡くなる。診断がついたら何年間したら亡くなるわけで、そこをずっとケアしていく。それは患者さんを、看護師さんたちと一緒にやっていくということで、高松赤十字病院の時に、看護師さんたちにケアを教えて頂きました。そこで鍛えられたのは凄く良かったと思うんですね。僕はもともと人間対人間というのは大好きだったんで、そこで看護師さんと一緒にいろんなことをしていくということの中に、神経疾患のケアと終末期、その患者さんが亡くなるケア。ここを徹底的に看護婦さんたちと一緒にやってきましたね。二年ちょっとだったかな、筋萎縮性側索硬化症(きんいしゆくせいそくさくこうかしよう)(ALS)という神経の難病の患者さんを、看護師さんたちと泥塗れになりながら支えて、人工呼吸器を付けて、食べられませんからチューブを僕朝行って入れて―どうしてもそのまま入れておくのが嫌な患者さんでしたので―朝行って入れて、看護婦さんがそのものが入ったら抜いて、昼僕が行って、また抜いて、夜僕が行って抜く。日に三回チューブを入れるのを半年、土日も全部。この人に何もできないから、僕のできることはチューブを入れて抜いて欲しいという気持に応えることだと思って、行って、もう毎日入れに行っていました。日曜日も入れに行っていました。その方の二年何ヶ月を、いろんなことを考えながら、みんなでケアを考えて、それを僕が中国四国内科学会で発表したんですね。「みんなでやった筋萎縮性側索硬化症のケア」という題で発表したんです。その時の座長の先生が、大学の教授だったんですけれども、その方が言ったのは、「この発表に何の意味があるんですか?」と言ったんですね。「この二年よりも長く生きているこの病気の方は、うちの大学でも何人もいますよ」と言われたんです。僕が言いたいのは、ケアの質―「いろんな工夫をしてきて、こういう工夫をして、やってきて、こんなことです」ということを言いたいんですけど、生きた長さを言っているんじゃない。それは大学の先生には伝わらないんだ。その時に、僕、土佐生まれですから土佐人の血が流れていますので、〈よし、わかった。私が医者をやっている間に神経疾患のケア、あるいはケアという部分を徹底的に大学の人のできん、大学にそういう視点がないんだったら、この分野で僕は医者をやっている間はとことんやってやろう〉というのを思いました。
 

 
ナレーター:  限りあるいのちに寄り添う。それは医者という仕事を超え、一人の人間として患者や家族と向き合うことでした。
 

 
小笠原: 看護師さんと一緒に最期を看取る。その最期を看取る時に、医者が一人で独善にならないで、看護師さんと一緒に、家族も一緒にということで、ホスピスはないんだけど、ホスピスと同じような空間を一般病棟の中に作ろうやないか。もうこの部屋はフリー。器械も入れない。もう家族の方どうぞ、家族の部屋にしてください。それからちょうど高松の仕事の最後の頃に、僕の先輩の看護師さんが、子宮癌で骨に転移があってかなり痛んだんですね。痛みがあって、別の病院へ入院していたんですけども、もう食べないで、「自分は餓死するんだ、と言っている」という話を聞いて、高松赤十字病院の看護部長さんが、僕に、「小笠原さん、行って、自分の病院へ帰って来るように説得して来い」と言うんですね。僕は代表で行ったんですけれども、「あ、先生!」と言って向こうを向いてしまって、「僕、迎えに来たんだけど」って一言だけ言ったんですけど、向こう向いたままなんですね。僕、そこでジッと―そうですね、四十分、一時間弱ですか―ジッと座っていました。そうしたらフッと振り向いて、「先生、まだ居たんだ」という話になって、そこから「みな心配しているから帰らないかな」って。そこで本人が、「主治医が小笠原さんだったら帰る」と。「その時の沈黙も会話だ」って、僕、よく若い看護師さんたちにいうんですけど、学生さんとか、若い看護師さんたち、いろいろ言われた時に喋れなくなる時があるんですね。僕、その時に、いつも「四十分、五十分の沈黙、というのは、これはその沈黙がなかったら、次帰るということにならない。それだけ患者さんのぎりぎりのところの心というのは、微妙だし、こちらがれに合わすというのは、沈黙でも会話―コミュニケーションだと、その時思った」というのを、よく若い看護師さんに話すんです。そこから病院の救急車を出して、次の日帰って来て、婦人科の個室を取って、そこで点滴を、大量のモルヒネを使って痛みを取ることにしたんですね。痛みを取って輸血をして、で元気が出てきたんですね。弟さんなんか来て団欒があって、三ヶ月ほとんど痛みを訴えないで、もうほんとにフリーのホスピスと同じような感じで、最期はほんとに呆気なく、日曜日に電話がきた時には、お宅でトイレに下りた途端に大出血が起こって、僕が行ったらもう呼吸が止まっていましたけども、一回も聴診器を使っていないんです。一回も婦人科の診察もご本人は、して欲しくないということで、僕はただひたすら話をして、僕の先輩の看護師さんですけれども、高松日赤(赤十字病院)の中で、そういう病院の中の看取りで、なるべく家族の中で、なるべくホスピスに似たような感じを、という流れの中で四万十に来たということですね。
 

 
ナレーター:  高松赤十字病院での勤務は二十年に及び、小笠原さんにとって人のいのちを見つめる医者の骨格を形作る貴重な時間となりました。平成八年、小笠原さんに大きな転機が訪れます。診療所の院長をしていた妻の父親に癌が見つかり、小笠原さんは、義理の父親の診療所を継ぐことにしたのです。大病院の勤務医とはまったく違う地域の診療所の医者としての歩みを四万十川の辺で始めたのです。
 

 
品川:  医療と言いますと、やはり最新の医療機器ですとか、あるいは明るくて綺麗で、そこで近代的な設備の中で、という印象が強いんですけれども、ちょっと違う世界。
 
小笠原: そうですね。在宅の医療というのは、病院の医療とはもう全然質の違う。それから視点が違う。患者さんを診ている視点が、もう心臓がどうのとか、肺がどうのとか、何々がどうのじゃなく、もうその人を丸ごと受け取っている、あるいはその家族を丸ごとケアしているというか、支えているという、そんな気持が一番ありますね。だから僕は、「宅医療は、科学を超えた文学だ」と思っているんですけど。
 
品川:  文学ですか?
 
小笠原: 文学だと思っています。その文学も、僕が中学三年生の頃からずっと親しんでいる川柳の世界ですね。高尚な表現とか、難解なものじゃなくって、伝わるものであり、それからその中にユーモアがあったり、切なさがあったり、悲しさがあったり、そういうほんとにワンフレーズの短詩の世界、それを僕は在宅医療と重ね合わせて感じている部分がありますね。
 

品川:  四万十の自然の中で、たくさんの家庭に行かれて診療されていらっしゃいますが、さまざまな方がいらっしゃるでしょうね。
 
小笠原: それぞれほんとに年齢が一緒でも、全然それぞれの個性とそれぞれの状態とが、ほんとに一人ひとり同じ人はいませんし、同じ病気はありませんし、そこが凄く一人ひとりに、一人ひとりの関わりをしていくということで、それがやっぱり一番自分にとっては長くやれている、一人にこういう、一人にはまた別の接し方、この人にはこういう、癌の患者さんにはこういう、そういう一つひとつが別個にあることというのは、面白いところだと思っています。面白いことしか続かないと、僕は思いますので、自分はそういう在宅の一人ひとりの違う患者さんに、違う接し方をしている。マニュアルではない。マニュアルではない部分を大事にしながらというのは、いつも思っています。みんなこうなんか人として接すると、なんか面白いところをもっているというか、深く接すると、川柳ではないですけど、ほんとに味のある部分が、それぞれの方にありますので、そういう関わりを楽しんでいる部分も確かにあります。それからあまり超高齢者の方とも深刻にならないで、癌の患者さんとも深刻な話ばかりしないで、もう普通の会話をしながら、その人がどんな方で、どんなふうに生きてきて、今どんなふうに思っていて、という、そこの深い話までできるかどうか、それを楽しんでいる―楽しんでいると言ったらおかしいけど―そういうところはありますね。
 

 
ナレーター:  小笠原さんは、四万十に来て以来、自宅で人生の最期を迎えたいと望む人々のために定期的な訪問診療を続けています。
 

 
患者: 最近はね、お蔭様で落ち着いていますけど。
 
小笠原: これから自分ではこんなふうにしたいとか、こんなだったらいいなとかいうのはありますか?
 
患者: その日その日を楽しく暮らすまででいいです。先生、お世話になって。死ぬるまで、
 
小笠原: 死ぬるまで(笑い)、死ぬるまで一緒にやりますか。
 
患者: はい。お願いします。
 

 
ナレーター:  住み慣れた我が家で最期をと思っても、さまざまな事情から実現が難しいと感じている人々を、小笠原さんは支えているのです。
 

 
小笠原: よくいろんな雑誌に、「最期はどこで迎えたいか」というのは、圧倒的に家が多いですよね。多いんだけれども、家族を思った時に、これは無理だろう。それから家族に迷惑を掛けるから、ということなんですけど、意外とその気持ちを、僕は患者さんに、「いのちの最期を覚悟したら、わがままをいう。やってみてダメだったらいつでも修正はするし、また病院に入るなら入ったらいいから、やれるところまでやってみたらどうだろうか」と相談があったらお話をします。で、遠慮をして、特に年齢の高い方は、「娘に迷惑を掛ける、嫁に迷惑を掛ける」というんですけど、いのちがかかっている場面ですから、僕はもっと我が儘でいい。介護力があればそれなりに、介護力がなければそれなりに、みんなで関わる人間が話し合いをしながらやっていったらいいから、そこのところはもっと生きること、逆に言うたら死ぬことにも我が儘であっていいんじゃないかなと。仕方なしに病院で最期を迎えるというのは、なんか勿体ないというか、寂しいというか、ただ日々が過ぎていくよりは、ほんとに家族の中で、その長さが少々短くなっても家族の中でいて、自分が生活した場所でいて、自然に接することができて、という方が、ほんとに生活の質という点では、生きている質という点では、全然違うんじゃないかな、と。病院でそういう医療をやってきた人間だからかも知れませんけど、僕はもっともっと我が儘になってもいいんじゃないか、というふうに思います。
 

 
小笠原: 時々「家で死にたいからお願いします」という言い方をされる時に、それはそれなりに僕はかかりつけ医なんですけれども、いろんなことをしているわけですけど、「最期を家でしたいから、小笠原さん、頼む」と言われるのは、何か意気に感じるところはありますね。
 
品川:  「最期までお願をいたい」とおっしゃるということは、もうご自身がそろそろと感じていらっしゃるからなんですか?
 
小笠原: そうですね。意外といのちの最期が来ますよ。それまでどういうことがあってもという、死ぬということをタブーにしないで、話ができるというのは病院とまた違うんじゃないかと思います。病院では死ぬことはタブーであり、死ぬことは、医療にとっては敗北感があります。在宅はそんなに悲愴でないし、意外と僕は患者さんのいのちの最期が近い時でも話をよくするんですけど、あんまり暗くならない話をします。いのちが最期迎えることも、これは自然な流れだから、その流れを壊さないこと、流れに乗っていくこと、ご本人が苦しくないように、辛くないように、家族と交流があり、僕といろんな話ができて、ちょっとでも笑って頂けるような話があったりとかいう、そんな時間を持ちながら、「最期はきますよ、最期はきますよ」という、そういう感覚というのは、何か病院の中の緩和ケアの部分とまたちょっと違う何か柔らかさというか、悲壮感のなさと、それから一つ僕感じるのは、最期を家で迎えた時に、病院の最期の時って、遠くから来た人が、わあっと取り囲んで、わぁっと泣くんですね。で、お爺ちゃんとか、お婆ちゃんとか、誰々さんと言うんですけど、在宅での最期というのは、意外とみなさん、もう亡くなることの前提がありますので、静かな感じの最期が多いですね。これはほんとにみなさんも覚悟している、本人も覚悟している。その死ぬということをこっちに置いておいて、闘ったり、あるいはなんかしていると、ほんとに感情が出てくるんでしょうけど、ほんとに在宅死は自然な流れだと思いますね。
 

 
ナレーター:  四季折々豊かな表情を見せる四万十川。地域の人々のいのちもこの四万十川に育まれ、人が亡くなるいのちの仕舞いも、また自然の営みにほかならないと、小笠原さんは受け止めています。
 

 
小笠原: 川を見ていると、僕は四万十に来て一番感じるのは、人のいのちも自然の中のものの一つで特別ではない。川を見ながらなんかだんだんそういう気持になってきた。自然に触れるというか、自然の中で一日一回とか、一週間に多くの時間を、こう自然の中で仕事をしているという感じが全然違いますね。
 

 
小笠原: 人のいのちだけが特別ではない。四万十の風景の中で、四万十川は多分たくさんの方の生まれて死んで、生まれて死んでいくのをたくさん見てきている。それでもズーッと変わらないで四万十川は流れていて、ほんの一瞬を―大きな流れから見ると一瞬を人間は生まれて、人間で死んでいく。その死というものをタブーとしないで、きちっと自分たちは生まれたら死ぬということがあって、その死をできるだけ自然に、辛くないように、痛くないように、家族の中で自然の中で、人間のいのちだけが病院の中でこうなんやかんやということでなく、というような気持になってきていますね。
 

 
ナレーター:  小笠原さんが、診療所の玄関に掲げた一枚の看板。そこには「ひとりひとりをいのちの存在として大切にします」と記されています。小笠原さんが、四万十に来て、さらに思いを深めた言葉です。
 

 
小笠原: 四万十に来て凄く印象的だったのは、こんな資料をいっぱい、フイルムを持ってにこにこしながら―七十ぐらいでしたでしょうかね、ご夫婦が診察に入って来たんです。資料を僕に手渡されて、診察室の上に置いたんですけど、「どうされましたか?」と聞いたら、「肝臓癌で科学療法をしたんだけれども、もう効きません。いろいろしたけど効きません。もう後は家で最期迎えます。自分の最期は毎々から決めています。先生、よろしくお願いします。経過はそこへ主治医に書いて貰いましたからよろしくお願いします」と本人が言うんですね。ぶ厚い凄い治療歴があって、いろんな薬を変えながら、でも肝臓には腫瘍がいっぱいあって、でも元気そうなんですね、非常に明るくて。で、「どうされますか?」と言ったら、「もう家でいるから、在宅医療でやってほしい」と言うんですね。僕、そこから訪問が始まったんですけど、徐々に徐々に黄疸がきつくなってきて、奥さんだけの介護力で―その奥さんがなかなか大変そうだったんですけれども、本人が「家で最期」と言うし、私も「できるだけのことはしようと思う」ということで、もう流れは自分が全部決めていたんですね。途中でちょっと肝性脳症と言って朦朧としてきたりしてたんですけど、トイレに行って、もうそこで動けなくなって、奥さんがシーツを持って行って、シーツにご主人さんを乗せて、それでズーッとシーツで引っ張って来てベッドに上げたとかということとか、いろいろあったんですけど、調子が悪くなって、日曜日の朝診察に行ったんですね。そうしたら大分調子が悪いんで、奥さんに、息子さんが高知におられたんで、「息子さんには会っておいた方がいいんじゃないかな」と言ったら、「息子に連絡しているんですけど、まだ帰って来ないんです」と言っていたんですね。川柳の会が昼にあって、会が終わって、ちょこっと覗いておこうかなと思って、その方を覗きに行ったんですね。奥さんと二人でこう話をしながら、もう意識がなかったですね。行っていたら、僕の目の前で呼吸がだんだん終わった。奥さんに聞いたら、息子さんは「午前中に一回帰って来て会った」と言うんですね。ここで奥さんが一つ凄い心配していた「一回会わせたい」というのは終わっていて、僕が行っている目の前で呼吸が止まった。ほとんど痛みは言わなかって、ちょっと朦朧とした言葉が出たりはあったんですけど、その最期に奥さんが言ったのは、「私が一人でない時に、最期というのは、この人らしい。いつも段取りして全部自分で、小笠原さんがいる前で最期を迎えたというのは、私を困らせないためにやっぱりこの人らしい段取り良さだ」と言っていたんですね。ちょっと巡り合わせとだけでは言えない何かほんとに意志が働いている。そういう世界が僕はあると思っています。
 
品川:  そういうことというのは、何かよくあることなんでしょうか?
 
小笠原: 意外と家族も疲れ、訪問看護も疲れ、僕もくたくたに疲れ、わぁっ、これ以上続いたらどうかな、と思う時に、患者さんって亡くなるんですね。ちゃんと家族の限界もご本人はわかって、何かいのちの最期が来るように思います。僕も、もういっぱいいっぱいなって、もうこれ以上になると、朝晩朝晩診せて貰えに行っているけど、これはちょっと大変だなと思っている。家族もへとへとに疲れてきた。「さあ、どうしましょう、これから」というと、患者さんが最期を迎えることというのは、偶然でなくあるように思います。そこら辺がなんかほんとに人間と人間の関係の中の不思議な部分で、決して稀なことではないですね。
 

 
ナレーター:  自宅で療養している人たちを、定期的に訪問している小笠原さん。患者の状態によっては、一日に何度か訪問することもあると言います。
 

 
小笠原: 失礼します、こんにちわ。
 
患者の妻: お出でなさいませ。
 
小笠原: どうですか?
 
患者: まあまあご飯食べれます。それから先生に話した通り、ここで死ぬますけん、どこっちゃ行きません。
 
小笠原: そう言ったね。どこっちゃ行かんと。ここで死ぬまで生きますか。
 
患者: お願いします。
 

ナレーター:  小笠原さんにとって、在宅医療は自然の中のいのちを見つめる重要な場なのです。
 

 
品川:  小笠原さんは、在宅医療している中で、祈りたくなる場面がたくさんあるそうですね。
 
小笠原: はい。僕は信仰がないんですけれども、「僕の神様」という文章を書いたことがあるんですけど、僕の中には神様がいると。僕の神様に祈っている場面というのは、珍しくないですね。見通しを立てるとか、なんとかというのは、科学的な部分もありますけども、なんか人対人、あるいは僕らの仕事の中で、祈るという気持がやっぱり自然じゃないかなという気がします。上手くいろいろ起こりませんように。それは診察した人が帰る時にも思います。在宅の方が今晩いろんなことが起こりませんように、一日上手くいきますように、痛まないように、辛くないように、その患者さんが最期を迎えるまでに、いろんなことが起こりませんように。それは自分のできることと、できないことがありますので、できることは精一杯さして頂くんですけど、それを超えることが起こりませんように。それはほんとに祈りだと思います。それも高松時代病院で働いていた頃も、そういう気持はありましたけれども、四万十に来てもっと強くなりましたですね。なんか自然の中で祈っている感じというのは、もうほんとに川の風景を見ながらなんか祈っているような、車で走っている、往診車で走って川を見ながら、なんか自分で祈っているような感じがしたり、夕日にほんとに涙する時というのは、祈りの世界かなという気がします。それは人に対しての気持もあるし、すべて生活が平穏でいきますようにという、自分が歳をとってきたこともあるんでしょうけど、医療というのは、決して科学、特に在宅医療は科学だけではない。科学を超えるものがある。人が生きるということは、科学的なものではないという。科学は限界があって、人を全部コントロールできないし、もうそこから向こうはほんとに祈りの世界かなという気がします。
 
品川:  「四万十に来てから祈ることが多くなった」とおっしゃいましたけれども。
 
小笠原: これは心の変化としては、けっこう大きいものがありますね。やっぱり病院の現場でズーッと立ち続けている時というのは、疲れていましたし、もうくたくたになりながら、いのちと向かい合っているという場面が多かったですね。今四万十に来て、毎日の診療も確かに疲れますけど、往診車で出て行く、患者さんを家で診る、帰って来る。超高齢者の方―九十を超えた方とか、そういう方とお話をして元気を貰うし、その往き来に四万十の風景を見て、そこに自然があることというのは、なんか自然の風景を見ている時の気持というのは祈りに似ているような感じがします。四万十に来てからは、そういう意味で、自分の中の自然さや、もう科学的なことには、ここまでの限界があって、それ以上は祈りなんだというのは、もう自然の中でかなりきっちりしてきたような感じがします。
 

 
小笠原: 今僕を一番変えたのは、四万十の自然だと思いますね。僕はここへ来て目から鱗だったのが、この堤防に沿って診療所に夕方戻って来る時に、ちょうど夕日が沈むんですけど、この夕焼けを見ていると、ほんとに涙が出るんですね。患者さんも自然の中に、医療者も自然の中に、医療者も自然を感じたら、もっと違う感性で患者さんに接することができるかも知れない。凄く口幅ったいんですけれども、僕は高知で緩和ケアの研究会があったら、行って喋らせて頂く時に、「医療者も煮詰まらないように自然を感じてください。病院の中だけが医療じゃないですから、感性が鈍らないように、感性が固くならないように、どうぞ自然の中に自分を置いてください。患者さんは自然の中にあるとほんとに柔らかくなりますけど、医療者も自然を感じたら、風に吹かれて、外の空気を吸ったら、四万十の風の中で、僕は目から鱗です」という話をするんです。高松日赤で一生懸命いろんなことをしてきたけど、なんかどっかで切り取っていた。人を切り取っている、あるいは人の心の一部分を切り取っていたんではないか。これは妻もいうんですけど、「人間縺(もつ)れになるのが大好きでやってきたわけですけど、夕焼けに涙する亭主になるとは思わなかった」というんですね。それだけ僕は目の前の人間のことで縺れていたんでしょうね。だからやっぱり自然の力というのは凄いと思うし、その中の人間の方が、ほんとは普通じゃないかなと思うし、癌であろうと、認知性であろうと、不自由になろうと、なんか自然の中で地域の中で、ということが田舎で成り立てばいいなと、最近ほんとに強く思っています。
 
品川:  患者さんのお家に診察に行かれて、患者さんも自然に包まれているんだなと感じることはありますか?
 
小笠原: これは高齢者の方の四万十川の側にあるお家のベッドは、みなさん川向にあるんですね。起こしたら堤防が見えるようになっている。大体そういうふうになっている。みなさんやっぱり意識していますね。それからやっぱり九十越えた方が堤防に出て川の様子を一日に一回は見ないと気がすまないという方がいたり、それから「車でどっかへ連れて行ってほしい」と言ったら、やっぱり川か下降に行って太平洋見たいというような話はよく聞きますね。ほんとに膝が痛い、腰が痛いと言いながら、お年寄りがいうには、海苔を取ったりとか、それからシラス漁に出たりとか、もうほんとにこの人ほんとにできないのかなと思うような方が、川とやっぱり関わりながら、という生活の中に四万十川があるというのは強く感じますね。
 
 
ナレーター:  大きな総合病院の勤務医から四万十の小さな診療所の院長になって十七年。小笠原さんは、一人ひとりのいのちの重さは計り知れないと感じるようになったと言います。
 

 
小笠原: 訪問するお家の庭の花というのが凄く目に入りますね。みさなん、独りで暮らしていたりとか、超高齢者の方―もう九十いくつの方が独りで暮らしていても、庭には花を植えていたり、それからほんとに長く寝付いている方の枕元に一輪挿しがあったり、それから走っているところのいろんな道端の花とか、そういうものが全然人間縺れになっている時って、目に入らなかったというか、見なかったんですけど、ほんとに〈わぁっ、綺麗だな〉と思ったり、〈いやぁ、こういうところにこういうのがあるな〉とか、その四季折々の花に目が向いてきたというのが、いのち―人のいのちもなんかゆったり見れるようになってきた自分の変化かなという気がしますし、その自然の中に自分がいるからそういうふうにいのちに接することができるようになってきたんじゃないかな。こうしないといけないとか、こうであるべきだというのは、僕の中でほとんどなくなってきましたね。自然について、流れについて、四季があって―この間十二月三十一日に九十八歳の方のところに、ちょっと気になって往診というか、訪問しに行ったんですけど、その方が花が大好きなんで、その時ちょうど家の庭のサザンカを三つ四つ枝を折って、往診車で行ってお渡ししたんですけど、まあ昔の僕だったら絶対しないというか、初めて女性に花をこう折って持って行ったんですけど、絶対そういう感覚はなかったでしょうね。それでそういう気持になるというのは、凄くなんか自然な感じが自分自身嬉しかったですね。ちょっと照れはありましたけど。お婆ちゃん喜んでくれたんです。そういうなんかちょっとしたことですけど、ほんとに人間対人間が普通の感性で、普通にこういのちの最期に向けての日々を過ごしている方と関わるというのは、今の僕は無理なくやれているのではないかなという気がします。
 

 
小笠原: 僕は四万十で思うのは、ほんとに四万十に「いい仕舞い」という言葉があるというのは、いろんな自然の中でこうきっぱりといのちの最期があるというのを頭において、今を生きているということにも繋がるのかなという気がするんですね。僕自身も、ほんとに今もそうですけれども、これからもほんとに自分自身の気持ちの不安とか、いろんなものを少なくするために、患者さんと接している部分とか、患者さんに教えて頂いている部分とかがあるような気がするんですけども、ほんとにいのちを大事に、いのちの最期が来るとしたら、それが「いい仕舞いだ」と言われる、ご本人がそう思うように、残された周囲の方がそう思って頂けるようないのちに、ほんとに近くで寄り添いながら、主人公は患者さんだし、家族だし、それに自分ができることをしていって、それで最期を迎える。そのいのちの仕舞い方、そこにいのちに生きている間寄り添う。特に高齢者の方とお話するのは、「死ぬまで一緒にやりましょう」という言葉を、僕はよく使うんですけれども、死ぬまではいのちに寄り添う。それからそのいのちがなくなったら、そのいのちとやりとりしたことを、僕は自分の中で覚えていて、折に触れてそれを思い出しながら、こんな人がいて、こんな言葉があってという、それを大事にしながら、これからも四万十のこの自然の中でやっていきたいなと思っています。
 
 
     これは平成二十六年二月二日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである