ひたむきに祈る
 
                 浅草寺貫主 壬 生(みぶ)  台 舜(たいしゆん)
一九一三年、東京都生まれ。仏教学者、浅草寺第26世貫首。大正大学仏教学部卒業、文学博士。大正大学教授等を務めた。専門は天台教学、仏教学。二○○二年逝去。
                 き き て 白 鳥  元 雄
 
ナレーター:  東京浅草雷門(かみなりもん)。秋の陽をいっぱいに浴びて金龍山(きんりゆうざん)浅草寺(せんそうじ)の門前は、全国から訪れる参拝客で賑わっています。雷門を潜ると、参道の両側を中心に広がる仲見世にはおよそ百五十軒の店が軒を連ね、江戸時代から続く老舗も混じって色取りどりの品物を並べています。東京でもっとも古い寺の一つとされる浅草寺は、鎌倉時代既に大きな伽藍を持ち、江戸時代には幕府の祈願所となって大いに栄えました。一年を通じて、仏教行事・民族行事が一体となったさまざまな行事が繰り広げられ、参拝客の途絶える時がありません。仲見世が尽きたところ宝蔵門(ほうぞうもん)の右側に二尊仏(にそんぶつ)と呼ばれる二体の仏像が見えます。向かって左は、合掌した姿の勢至(せいし)菩薩。仏の智慧を表す菩薩です。向かって右に観世音(かんぜおん)菩薩。慈悲をもって衆生を済度する菩薩です。観音・勢至両菩薩ともに、貞享(じようきよう)四年(1687年)に建立されたものです。浅草寺の本堂である観音堂の建物は、昭和二十年三月の空襲によって焼失し、昭和三十三年に再建されました。いわゆる浅草の観音さんとして親しまれる浅草寺を訪れる人の数は、年間三千万人に及ぶと言われます。浅草寺は、板東(ばんどう)三十三観音霊場第十三番札所に当たります。今年は板東観音霊場開創八百年にあたり、その記念行事も行われています。浅草寺の起源は、推古天皇の三十六年(628年)、隅田川の下流で発見された小さな観音像を祀ったことに始まると言われます。以来浅草の地は、観音参拝の信仰とともに発展し、東日本の観音信仰の中心地となりました。五重塔が見下ろす浅草寺本坊伝法院(でんぼういん)の庭園、小堀遠州(こぼりえんしゆう)の作とされる回遊式庭園です。浅草寺第二十六世貫主(かんす)壬生台舜さんは、浅草生まれの浅草育ち、今年七十七歳。大正大学で教鞭を執った後、昨年十二月浅草寺貫主に就任、今年十月に晋山式(しんざんしき)を済ませたばかりです。秋が深まる十一月のある日、居間に寛いでおられる壬生さんをお訪ねしてお話を伺いました。
 

 
白鳥:  今日も秋の青空の中で香煙がたなびきましてね、ほんとにあぁ懐かしき浅草の観音様に詣ったという、こういう思いでまいりました。私は、東京の下町の日本橋の生まれのもんですから。
 
壬生:  江戸っ子中の江戸っ子ですね。
 
白鳥:  小さい時によく隅田川、永代橋(えいたいばし)のたもとから、あの当時ポンポン蒸気がございましてね、あれで両国橋の下を潜って、浅草に近づいた。憧れのプレーランドでございます。
壬生:  そうですか。それは不思議なご縁で。
 
白鳥:  よろしくどうぞ。そう言えば壬生さんも浅草のお生まれだそうですね。
 
壬生:  そうです。私は浅草のちょっとここから―このお寺から北の方になりますが、富士横町という、今浅草警察がある、そこで生まれたんです。ですからまったくの、しかも私は生まれの三代浅草育ち。お爺さん、父親、私と。だから私の言葉は、三代伝統の江戸っ子弁なんですね。だから本当は貫主になっているからべらんめい調で話していた方が似合うのかも知れないんですけどね。でも運命の悪戯というのは不思議なもんで、今貫主ということで、このお寺をお預かりしています。
 
白鳥:  もう小さい時からこの浅草寺の境内で遊び学びというような、
 
壬生:  学びはしませんけどね。遊び専門ですけどね。これは自分の家の庭みたいなもんで、池もありますし、自由自在にこの中を飛び跳ねていた。但し私は非常に子どもの時身体が弱かったために、小学校は上がる前に多分肺炎を二度ぐらいした覚えがあり、死に損なっていますし、小学校上がってからも肺炎したりなんかして、小学校あまり行かなくてね、家の中で遊んでいた。女の子とお手玉をしたり、おはじきをしたり、そういう非常に女性的な遊びをしていたんですけれども、でも元気な時は自分の庭である浅草寺の庭の方に来てトンボを捕ったり、亀取ったりなんかしていたんですね。だから私にとっては、ここは自分の故郷でもあるし、遊び場でもあるし、但し学びの場ではないんですよ(笑い)。
 
白鳥:  大正二年のお生まれ。そうすると、そして浅草で生まれて、ということになりますと、ほんとに七十年余、この浅草の興亡と言いますかね、関東大震災で焼かれ、そして復興し、また太平洋戦争の最中―二十年の三月十日でございましょう、東京大空襲で焼かれ、そしてその後の復興。今、人の流れなんか見ていますと、老若男女、本当にまたまた下町ブームに乗ってという感じもしますし、そういった浅草の興亡は、目の前でご覧になっていたんですね。
 
壬生:  ええ。目の前で、身体で体験してきたわけですけれども、なんと言ってもやっぱり時の流れというのは早いものでしてね。昔の浅草というのは、今部分的に残っているところだって、観音様のすぐ左側の阿修羅様の辺がやや残っている思うぐらいで、あと全部変わりましたからね。やっぱり時の流れは速いですよ。これを考えても、我々うっかりしていると置いていかれるぐらい時の流れは速いと思いますね。今の関東震災の前に、大正十年四月に浅草の大火というのがありまして、これは何千戸か焼けたんですよ。それから大正十二年に関東震災ですからね。もう私は子どもの時に、二度火事に遭っていますからね、半鐘が鳴るとぶるぶるするぐらい火事というと恐い思いがしますね。足が震えてくるんですから。関東震災の時は、あれはちょうど四年生ですけどね、もうちょうどお昼ですよ。十一時五十八分、ガラガラと来て、もう何も持たないで、ここからそうですね、千メートルぐらいあるところの伝法院の山まで逃げて来ましてね。この伝法院の庭の築山のところで二晩夜明かししたんですね。それでまあその時のことを思うと、もうこの世の地獄というんですかね、その後で戦災ですからね。戦災があり、震災があり、浅草の大火があって、浅草もほんとに変わってきましたね。もうその話をすれば語り尽くせないぐらい、長いぐらいですね。
 
白鳥:  お小さい時からこの仏の道は、志していらっしゃったんですか。
 
壬生:  私の父というか、私はお寺の息子ですから、お寺を継ぐもんだと、こういうふうに決められていたんですね。今みたいに自由平等とか、人間の意志の自由なんていうことないよ。もう決まっていた。お前はお寺を継ぐもんだと。お爺さんやお婆さん、父親に言われたら、そういうふうに思い信じ込まされていますからね。他の道もちょっとそっちへいきたかったこともあったんですけどね、そんなことはとてもお呼びのないことで。それで関東震災の時に、九月一日焼けて、それからとにかく全部焼けちゃったもんですから、逃げて行ったんですね。それが埼玉県の川越のはずれなんですよ。逃げて行ったはいいけど、逃げて行って、初めはそこのお寺だったんだけども、初めの半月ぐらいはお客さんの扱いだったんですがね、いつの間にかお客様転じて小僧ですよ。その時に言われたのは、「お前はお寺の息子なんだ。みんな小僧の生活をするんだから、小僧の生活をしなければいけない。一年か二年小僧の生活をしろ」と、ウンもスンもないですよ。
 
白鳥:  小学校四年生、
 
壬生:  四年生。それで私は反抗するわけにもいかないですよ。半月ぐらいはお客さんみたいな生活をしたんだが、後は小僧でね。その時分はみんな誰も彼もそういう生活をしたんですが、今はお寺の息子は「お坊ちゃん、お坊ちゃん」でね、お小僧さんの生活をしない人もあるけど、その時分はみんなしたから。その時分というのは、私ぐらいの歳は、みんなそういう生活をして今日にきているんですね。
 
白鳥:  しかし十歳の坊やにとってはなかなか辛いことでございましょう。
 
壬生:  辛いなんてもんじゃないですよ。朝六時にお勤めでしょう。そこから始まるんですから。それでお経を読んで、しびれがきれて。夜になると、お経を教わるんですけどね。その間に学校へ行って、帰って来ると、水汲み、薪取り、それからお寺の雑用、学校で―小学校で遊びたい仲間がいるんだけど遊べないわけですよ。それで私も少し遊びたいと思って、なんか二、三度、一時間ぐらい遊んで帰って来たら、帰って来てから拳骨で殴られたりなんかしてね。それで三度ぐらいやると、三度目やると懲りますからね。要領というか、懲りた方が早くて、もうほんとに小学校から真っ直ぐに帰って来て、水汲みでしょ、薪取りでしょ、お風呂は沸かす。醤油は作る。味噌は作る。それから一番辛かったのは、小僧が五人ぐらいいましてね、交代でご飯を炊くんですよ。夜になるとお米を研(と)いで、初めちょろちょろ中ぱっぱという火を燃してご飯炊くわけですよ。それで暗い二燭の電気なんですね。そういうところで研ぎますから、お米粒がこぼれるんですよ。暗くてわからない。朝になるとわかるわけです。朝になってわかって大僧が出て来て、お米粒が落っこちていると、「誰だ! 昨日この舎利をやったは! 出て来い!」。なんだかわからないから出ていく。「なんだこのお米粒子!」。二つ落っこちているんですよ。「お米粒っ子落っこちている、何事だ!」とポカッとやられるんですね。だから馬鹿げた話というと馬鹿げた話だけどね、理屈を越えて身体でもって教えてくれたんだと、私は思っていますしね。それからもう一つ辛かったのは、朝冬になると雑巾掛けするんです。バリバリ雑巾が凍っているんです。生温のお湯で絞ってザーッと拭くわけです。そうすると今度は手の方が、ひびわれ、あかぎれ、しもやけで、ここが何とも言えないんですね。これが痛くてしょうがないけどね。何しろ雑巾を絞らなくちゃならない。碌なご馳走があるわけでもないし、しかも学校へ行くにはお弁当自分で持って行くんです。今でも覚えていますが、何でも初めはお寺の賄いのおばさんみたいなのが、芋を煮てくれたんですよ。芋というのは糸と引くんですね。足が早いから、それはダメだというんでね。よく炒り卵を煎って持って行って、海苔ご飯で。
 
白鳥:  ほんとに庶民の生活も貧しかったけれども、仏に仕える身、そういう中でものの大切さというのは、随分強調されたんでしょうね。
 
壬生:  もう理屈でなしに。お経も教わるたって、暗記なんですね。うっかりしていると、精神が集中していないと間違いちゃうんですよ。跳ぶんですよ。同じような場所なんですよ。「念彼観音力、念被観音力、念被観音力」なんて繰り返しみたいなところがうっかりしていると跳ぶんですよ。そうすると煙管でビーンと叩かれる。間違っていると、何とも言わないで、ただ煙管で引っぱたくという。まあこの世の沙汰でないと言えばこの世の沙汰でないんだけども、しかし私はそういう生活をこの寺の中でも、こういう話をしたことはないんですよ、こういう話は。そういう生活をしたから、自分が人の痛さがわかるとか、人にはなるべくできる時になんかしておくべきだというのを、身体でもって感じますね。有り難いことだと思っていますよ。
 
白鳥:  その頃にはお父さまは、この浅草寺の役員をしていらっしゃったわけでしょう。
 
壬生:  執事長なんかされていましたね。
 
白鳥:  そのお子さんでもそれだけ厳しい躾、それだからこそなんですかね。
 
壬生:  いや、昔はみんなお寺の親父さんが、親父である師匠なんですよ。親父が師匠という方が強いですね。だからあんまり親子関係というのはなくて、お師匠さんに仕えるように、学校から帰って「只今戻りました」こういう挨拶です。お出掛けの時には、全部下駄を直すとかね。お帰りの前には庭水を全部水打っておくという。そんな子ども、今居ますか? だから私はそういう生活をさして貰ったということは、今日の自分の体験に非常に良いと思って。初めは、〈はてな? 私はもしかしたら親が違うんじゃないか。貰われてきて、母親が違うんじゃないか〉と思う。僻(ひが)んだというところまでいかないんですけどね。〈子ども心にどうも違うんじゃないか?〉と思ったこともありますけども。
 
白鳥:  お母さまも厳しかった?
 
壬生:  母親はまた厳しいです。でも厳しいけど、やっぱり女親ですね。なんか五年の頃かな、塩原の温泉に連れて行ってくれた時は、やっぱり親だと思いましたよ。そんなもんですよ。
 
白鳥:  やはり将来仏に仕える身であったならば、この修行には堪えなければいかんと、お父さまお母さまはきっと心を鬼にして、
 
壬生:  鬼というか、本気になってやっていたんでしょう。
 
白鳥:  そうですか。
 
壬生:  本気になったら恐いですよ。六年卒業する時に、「府立受けろ」というわけでしょう。だから一年間はね、向こうは一年半ほど一生懸命になって、掃除、洗濯、庭掃除からなんかやって、こっちへ帰って来てから、ほんとに一年間遅れを取り戻すんで、勉強した記憶があるんです。それだってこんな机じゃないですよ、ミカン箱ですよ。ミカン箱で字を書いたり、本を読んだりね、それで算数をやったり、今の自分の部屋があるなんていうのは、全然そんなことは信用できない生活で。だから勉強というのは、机でもないですよ。やる気持があればできるということをなんか教えられたような気がしますね。でもどうかと思ったんだけど入っちゃったんですね。入ったことは入ったけれども、やっぱり相当一年間無理したせいか、中学へ入るなり、今度は一学期が終わったら、二学期三学期は、中間試験が全部病気でダメなんです。二学期の中間試験が肋膜、三学期が中耳炎、試験を受けられない。それで二学期三学期中間試験を受けないから学校へ呼び出されて、「お前は、試験受けない。ほんとは落第だけど、病気だから仮級にしてやる―いわゆる仮免ですよ―仮級にしてやる」って。僕は今でも仮免の一年生の成績通信簿というのを持っていますけどね。涙がでますね、あれは。
 
白鳥:  そんなに身体がひ弱かったんですか。
 
壬生:  弱かったんですね。だから小学生の私を知っている人が、今の私を見ると、信用できない。身体が弱くってね。当然死んでいると思ってね。その代わり中学へ入ってから勉強止めて、身体を丈夫にしようというんで、柔道、剣道、野球、テニス、とにかく勉強は全然ダメ。そっちの身体を作る方で、柔道も三級かそこらかな、剣道は五年の時に初段貰った。とにかく今は忘れましたけど。なんか一生懸命直向きにやろうという気持が子どもの時からどうもあったみたいですね。これ直向きに遊ぶと逸れちゃうんですけどね、直向きに遊ばなかったから良かったんです(笑い)。
 
白鳥:  やはりお父さまの後ろ姿を見て、というところがあるんじゃないでしょうかね。
 
壬生:  それととにかく坊さんのタイプというのは、三つぐらいあるんですけどね。難行苦行するという「行者タイプ」というのと、「学者タイプ」という坊さんと、「布教師タイプ」という坊さん。実際にはいろんな要素が噛み合っているんですけどね。そのうちの私は、どういうんだか研究の道を選ぶようになったんですけども、それは中学二年の時に二ヶ月の行があったんですね。それはお不動様を二ヶ月拝むんですよ。加行(けぎよう)と言いましてね。浅草寺でお不動様があって、ここで行をしておったんですが、朝三時半に起きてこの浅草寺の前の十何カ所ずっとお詣りして、五時からお不動堂で行(ぎよう)をするんですけど、それ二ヶ月やるわけですよ。それが坊さんの入門の最初の行なんですけど、その行で朝三時半というと、夏でもまだ薄暗いですよ。ずっと観音様の脇の淡島堂というこんもり茂ったところに、ある朝お詣りに行って、行った一箇所一箇所で般若心経を読むんですよ。そうしたら向こうの方に女の人が黒髪をさんばら髪にして立っているんですよ。恐々(こわごわ)行ってみたんですよ。そうしたらそれはいわゆる丑三つ(うしみつ)前(今の午前二時から二時半)です、形相もの凄く。それで思わず「恐い!」と口の中には言ったらしいんですけどね、足が竦(すく)んじゃってね。それであんな恐い思いしたことないんだけども、その日は逃げ帰ったようなものですよ。翌日今度は朝三時半に起きて恐くてしょうがない。「いやぁ、昨日こういうのがあった」と言ったら、「何だ、行者が怖がっていたらいけない」と、それで私は行者失格かと思ったけどね。途中六十日もやるのに三週間かそこらで失格じゃしようがないから、その次の日は恐かったけど、ぶるぶる足を震えながら廻った。そんなようなこともあって、どうも行専門というわけにもいかなかったんでしょうけども、何か知らない因縁の赴くところ、赤面症で話もろくにできないし、行者が丑三つ前ぐらいにビックリしているような行者ではしようがないから、結局勉強の道を選んだというか進んだんですね。
 
白鳥:  研究者としてスタートされたと。しかし同時に浅草寺のご住職も若くして引き受けた。
 
壬生:  そうですね。三十ぐらいからです。二足の草鞋を履いちゃったみたいなものですね。
 
白鳥:  こういう浅草寺―我々は浅草の観音様と申し上げておりますけれども、こういう街の中にある寺院、あるいはその中での仏教者として生きる、これについては、どういうふうにお考えになりましたですか。
 
壬生:  これは私どもは街の古老と言うんですが、お年寄りはみな先輩なんですよね。だからみな名前も知っているし、「よく拝んでいる」とか、「手を抜いている」とか、みんな言うわけですよ。ここでは三十人ほど坊さんが居てね、全部朝お皆勤に出ても多いから、四組に分けたんですよ。四日に一遍出るわけです。そうするときちんきちんと出ていればいいけど、前の日飲んで遅くなってとかね、寝坊してとかいうのが居てね、出ない人がいると、信者の方が知っているわけですよ。毎朝お詣りに四十年間来る人もいるんですからね。口では言わないけど、「今日は誰が休んだ」と。「今日は誰が出て来た」と、こういうわけですよ。だからかなり信者の評価というのはきつかったですね。まさにその反面、自分たちの知っている坊やが、「坊さんだって一生懸命やっているんだから」と言って、中にはお菓子をわざわざ届けてくれたり、なんかリンゴを届けてくれたりという、いわゆる下町の良さをいうのもあるんですけどね。しかしそれにしても、観音様は何とも言わないが、信者は怠けると言うんですよ、怖いですよ。それとこの頃の信者は特にそうなんですよ。普通は仏様と在家の真ん中に坊さんがいるんだけど、ここは観音様と直取引(じかとりひき)なんですね。直に観音様にお願いをして願をかけて、中には勝手にお籠もりをして病気を治してくれとか、そういうことで治った人もいるんですよ。そういう人もいるし、それから名前を出していいかどうか分からぬけど、マニラのゲリラに捕まった若王子信行(わかおうじのぶゆき)(三井物産マニラ支店長(故人)、1986年に起きた誘拐事件)さんというのは、猛烈な信者で、マニラに捕まっている時に、毎日観音経を称えていて、「大変助けてくださる」と思っていた、と。しかしそんなに熱心な信者がいるんだけど、お寺の我々が知らないんですよ。そういう人が東京へ帰って来てから、また来られたりしているんですけど、ここのお観音様は「普門示現(ふもんじげん)」というんですがね、広く門を開いていましてね、観音様と信者が直取引になっちゃう。坊さんうかうかしていられないんですよ。しかもちゃんと評価をしているんですからね。「今日休んだ」とか、「彼奴はどっかへ飲みに行ったんだ」と思ったんかどうか知れませんけどね。だから私も冗談を言いながら話しているけどね、なかなか真剣なんですよ。だから私ども街を通っても、誰彼と名前を一々言わないけども、会うと私の方にお辞儀をするんですよ。特にお爺さんお婆さんに、「どうだい。今日元気かい。この頃どうしている」というと、とても喜ぶんですね。観音様に声かけされたように。 
 
白鳥:  観音様と直取引という話がありましたが、なかなか面白い話ですね。その観音様の願なんですが、ほんとに信仰というのは日本の、きっと仏教伝わった全世界に観音信仰というのは多いと思うんですね。ほんとに庶民の願いを叶えて、すべての願いを叶えてくださるという観音様という、この思いというのがあると思うんですが。
 
壬生:  これはいわゆる『観音経』というお経がありまして、これは『妙法蓮華経(みようほうれんげきよう)』というお経の中の第二十五に「観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん)」というのがあって、そこにずっと書いてあるんですけどね。そこには観音様を一心に称名―一心に称えるというと、必ず御利益をくださると。一心にひたすらに供養する、一心に念仏を祈る、一心に礼拝する、一心に合掌する、一心に観仏する、一心にひたすらに観音様を拝むと必ず観音様は衆生の言うことを聞いてくださるということがお経に書いてあるんですね。ただ書いてあるけど、私はその通りだと思いますけどね、ギブ・アンド・テイク(give and take)ということがあって、先ずギブ・アンド・テイクじゃない、自分は観音様から貰ってばかりいないで、こっちから自分も他の人にご功徳を積んで、ご功徳を積んだことによって回りまわって観音様からご功徳を頂くという気持がないと、全部得はして、損はしないように、という競馬の大穴を狙っているような人生はやっぱり拙いと思うんですけどね。今の「ひたすらに観音様を祈る」ということは、『観音経』に書いてあるんですけども、これは鳩摩羅什(くまらじゆう)という人が『観音経』を訳したわけですけどね。梵語にはただ一箇所しかないんですよ。そこが『観音経』をみると、二十箇所ぐらい「一心称名」とか、「一心供養」とか、「一心念仏」とか、「一心礼拝」、つまりひたすらに拝まなければいけない。ひたすらに拝む。ただ拝むんじゃない。ただ祈るんじゃない。「ただひたすらに」という、これは私は名訳だと思うんですね。大変立派な訳だと思うんですけどね。だけど『観音経』のことを奇跡の経典なんていう人もあるけど、やっぱり拝むことも大事だけども、ご功徳を積んだ人が拝まないといけないと思うんですね。拝み方があると思うんですね。
 
白鳥:  「南無観世音菩薩」と言う、あっさりやってはいけないわけですね。
 
壬生:  一心でなければいけない。昔大変面白い話がありましてね、「念仏婆さんの話」というのがあります。これは徳川時代のある本から取ったらしいんですがね、ある村にお婆さんが居て、このお婆さんが「ナンマイダ(南無阿弥陀仏)」と朝から晩まで念仏ばかり称えていた。人呼んで「念仏婆さん」という渾名が付いたぐらい念仏称える。そのお婆さんも「自分は念仏婆さんだ」と。他の人も「念仏婆さんだ」と。だからあの人は亡くなった時に必ず極楽浄土へ、阿弥陀様のところへいけるんだと。本人も思い、他人も思い込んでいた。ところが、思い込まれていたこのお婆さんが、ある日急に亡くなってしまって、目開いてみたら閻魔様の前へ連れて行かれたというんですよ。地獄ですね。そして青鬼と赤鬼がいたと言うんですよ。これ、私がお婆さんに会って聞いた直(じか)の話じゃないですよ。直の話じゃありませんけど、ものの本によればそう書いてある。閻魔さんに食ってかかった。「私は、念仏婆さんと言われるぐらいの人なのに、なんだ地獄へ来るとは。私は念仏婆さんで称えた念仏は数知れない。だから私は極楽へいく」と。そうしたら閻魔さんが、「お前さんはダメだ」と。閻魔帳というのがあるんですね。閻魔帳をずっと見て、そうするとこのお婆さんは、嫁を虐めたとか、隣の人の悪口を言ったとか、えらい悪いことはしないんですよ。えらい悪いことはしないけど、かなりちょこちょこ悪いことをしている。「意地悪をした人は極楽へやれない。だからお前はダメだ」と。「だけど、あんなに一生懸命念仏称えたんだから、私だって本気になって称えた念仏がある筈だ。本気になった念仏が一つでもあれば極楽へ連れて行ってくれるとお経に書いてあるんだから、私の称えた念仏札をここへ持ってきて火の中へくべてください。一つでも焼けない念仏札があったら、それが本当の念仏なんだから試してください」と言った。それで閻魔様も婆さんにかけあわされて困っていたけど、しょうがない。青鬼赤鬼に言い付けて、車にいっぱい念仏札を持って来て、婆さんが称えた念仏を油壺の中の油の火の中に燃やした。パッと燃やすとピュッとみんな紙ですから燃える。たくさん持って来てみんな燃すんだけど、念仏婆さんがたくさん称えた念仏札がみんな灰になっちゃった。だから「お前さん、空念仏だ。空念仏だからダメだ」と。ところがそのお婆さんは―人間というのは、ああいうもんなんでしょうかね、いや、一枚ぐらい本当のがあるだろうと思い込んでいるんですよ。だからそう言われたって、灰の中を一生懸命になって捜して一枚でも紙が残っていないかと。そのうちにどっか向こうの灰の中に燃えない一枚念仏札が残ってのを見付けるんです。鬼の首を取ったように「閻魔さん、ここに残っています」って。閻魔さんは、「それは間違って残ったんだから、火の中にくべてみろ」と。またそれだけひゅっと燃え残った。念仏お婆さんはほんとに鬼の首を取ったように、「これが本当だ!」と。そこで閻魔帳を見た。いつの念仏かといってみるというと、そのお婆さんが若い時に隣村から夜帰って来る時に、山の中で乞食だか若い者に追っかけられて寸前に辱(はずかし)めを受けるような時に「ナンマイダ!ナンマイダ!」と言った。それはそうでしょうね。殺されるか辱めを受けるんで、もう叫(わめ)くように念仏を称えた。それが本当に困った時の念仏が本当の念仏だったんだと。それでその念仏婆さんは極楽へ行って、めでたし、めでたし、というお話があるんですけれども、いや本当にそうだと思う。
 
白鳥:  まさにほんとに一心称名の転機みたいなものですね。
 
壬生:  なんか昔日本のどなたか作った「心だに まことの道に かなひなば いのらずとても 神や守らむ」という歌がありますけどね。「心だに まことの道に かなひなば いのらずとても 神や守らむ」確かに真(まこと)の道に適(かな)っていれば、神様も祈らなくたって守ってくださるということは本当だろうと思うし、また人間として真の道に外れることは恥ずかしいことだとは思うけれども、しかし百人が百人、千人が千人完全な立派な人間というわけにはいかないし、人間って弱いものだし、案外汚い部分がありますからね。そういう真の道に心ならずも逸(そ)れることがあるんですよね。そういう時にこそ祈りというか、宗教の祈りというのがあるんで、「心だに まことの道に かなひなば いのらずとても 神や守らむ」というのは、いわゆる道徳の倫理の世界の話であって、ひたすらに祈るという宗教があるんですね。この歌がいわゆる道徳と宗教の境を示している。この通りの歌だと思うんですけどね。宗教と道徳の違いはずばり表しているものだと私は思っていますがね。
 
白鳥:  やはり先ほどの念仏婆さんの話に戻れば、暗闇の中を必死になって走った時に、「ナムアミダブツ」というその称名を称えられる時の仏様にほんとに一身をあずけるその祈りなんですね。
 
壬生:  そうですね。仏様にご自分を委(まか)せちゃうんですね。無我と言えば無我だけど、無我というよりはもっと違う自分を仏様に委せちゃう。だけどなかなか人間は自我意識が強いから、委せきれませんけどね。もういよいよとなれば委せるよりしょうがないと思いますがね。私なんか普段の場から、どうでもない人間だから観音様にお委せしているよりしょうがないと思っていますけどね。
 
白鳥:  なるほど。一心というのは、そういう意味なんですか。
 
壬生:  ひたすらに、と言いますか。
白鳥:  壬生さんがよくお書きになる言葉に「施無畏(せむい)」無畏(むい)を施(ほどこ)す、というんですか、この言葉がございますよね。これを本堂には額になってございましたけども、これはどういう意味なんですか。
 
壬生:  これは、『観音経』の中に出てくるんですが、「観世音菩薩はよく無畏を施す」というんです。観音菩薩を拝む人によく無畏を施す、つまり人間というのは不安の連続なんですよね。人間弱いし、いろんな天変地異もあるし、まあ人生考えてみると良いこともあるけど、悪いことが多いくらいなものでね、そういうことで不安の連続だからビクビクしているわけですよ。それからまたこれはあそこに本堂にあるのは山岡鉄舟(幕末の幕臣、明治時代の政治家、思想家。剣・禅・書の達人としても知られる)と言って、明治の剣豪がいましてね。一刀流の達人だったんですけど、のちに四十七歳かな、無刀流―刀が無い―無刀流というのは剣禅一致だというんですがね。その山岡鉄舟が、「無刀流の極意は何だ」と言ったら、「観音様のあの額だ」というんですよ。お賽銭箱の上にある額の「施無畏が無刀流の極意だ」と。それは言ってみれば、無畏を施す。相手に勝とう勝とうと思って剣道やってもダメだと。ホームランを打とう打とうと思ったってなかなか打てるもんじゃないと。無心になってやらなければならないとダメだと。野球でもそうでしょうけど、剣道でもそうでしょう。何事もそうで、あんまり意識がうわずっちゃっても上手くいかないんで、でも無心になって何でもできるようになれば立派な人間だと思いますがね。そこまでいかなければいけないというんで、「施無畏」というのは、非常に有名な山岡鉄舟が、「剣道の極意だ」という額なんですけど、上の方にあって、お賽銭箱が気に取られますから案外上は見ないんですけどね。
 
白鳥:  また筆太の良い字でございますね。
 
壬生:  そうですね。あれは立派な字ですね。無畏を施す。観音様は無畏を施す。観音様を信心すればビクビクしないで生活できるということですね。分かり易く言うと。しかしこれもよほど信用しないとそこまでいかないかも知れませんがね。
 
白鳥:  ちょっとお話が変わりますが、先ほど伺いますと、仏典の研究者として壬生さんはスタートされたわけですが、このきっかけというのは、先ほど伺いますと、消去法でやったらば研究者になってしまったんだみたいなお話だったんですけど、これはご謙遜でございましょう。やはり仏典への深い、特に原典から読みたいという思いが強かったんですね。
 
壬生:  そうなんです。大体お経というのは漢文で書いてありますけどね、漢文というのは訳文ですからね、もう訳した時にさっきの一心称名じゃないけどね、訳者の意図が入るわけですよ。かえって訳文の方がいい場合もあるし、訳文がよく分からない場合もある。だから原典から読まないとどうも納得できないような気がしましてね、それでサンスクリットやる。サンスクリットをやると言えば、サンスクリットの経典がなくてもチベット語に全部翻訳されたものがありまして、チベット語をやらないといけないと。
 
白鳥:  それでチベットを研究されたわけですか。
 
壬生:  ええ。サンスクリット語からチベット語に訳された経文は、文法の上からも意味の上からも漢訳よりはよほど確かに訳していますからね。それでやるようになったのと、椎尾弁匡(しいおべんきよう)(仏教学者・浄土宗僧侶・政治家。大正大学学長や大本山増上寺法主などを歴任:1876-1971)という先生がいたんですね。その椎尾弁匡(しいおべんきよう)先生がある時、「壬生君、仏教を勉強するんなら、仏教やるんならチベット語やサンスクリット語、パーリ語をやらなければダメだ。原典からちゃんとやらなければダメだ」というふうに言われて、私も割合に素直ですからね、「あ、そうですか」というのでやったわけですけどね。特にその中で河口慧海(かわぐちえかい)(仏教学者、探検家。黄檗宗(おうばくしゆう)の五百羅漢寺で得度。明治33年仏教の原典研究のためインドからチベットに密入国、日本人としてはじめてラサに到達。38年再渡航し、ナルタン版大蔵経などの仏典を入手して帰国。チベットの文化と仏教の研究・紹介をおこなう。また僧籍を返上して在家仏教をとなえた:1866-1945)先生はご縁があったんでしょうね。
 
白鳥:  河口慧海と言いますと、日本人で最初にチベットへ入ってヒマラヤなんか踏破したという、あの方ですか。
 
壬生:  そうなんです。これは黄檗宗の坊さんなんですけど、ここにこういう字を書かれているんですよ。これはチベット語なんですが、「一切万事吉祥なり」。
 
白鳥:  「一切万事吉祥なり 昭和十六年雪山(せつさん)道人慧海
 
壬生:  「雪山(せつさん)」というのはヒマラヤ。ヒマラヤで坐禅をしたから、
 
白鳥:  「慧海」と書いてありますね。これも面白い良い字でございますね。
 
壬生:  私が、この河口慧海先生とご縁ができたのは―人間というのは縁があるんですね―ちょうど昭和十六年に、河口慧海さんの『チベット旅行記』の再版が出たんですよ。それを私は頂いたわけですよ。その時『チベット旅行記』をスラッと読んで〈面白いな〉と思ったんだけど、その『チベット旅行記』を後で、昭和四十二年にいわゆる校訂本で出すようになってご縁になったんですけども、しかし河口さんというのは昔ながらの人で、喧しいお爺さんで、ここに写真があるように鬚はやして、慧海さんは朝と昼の二回しかご飯を食べない。独身でしょう。お酒は飲まない。うるさくてうるさくてしょうがないですね。「勉強しろ勉強しろ」って。私、東洋文庫へ行っていて、昼間になるとテニスやりたくてしょうがない。十二時になるとおっぽり出してテニスやっているわけですよ。一時になっても帰って来ないと怒るんですね。「研究室へ帰って来い。なにやっているんだ」と。五時までやる。五時になるとまた河口さんが帰っちゃうとすぐテニスに行っちゃってね。あんまり良い弟子ではなかったんだけどね、なんか非常に河口さんの方では、私が好きだというのかいろいろ面倒みて頂きましたね。
 
白鳥:  河口慧海さんの晩年でございますね。
 
壬生:  晩年の五年間は、私が一番詳しいことになっているんですけどね。初めは旅行記スーッと読んで気が付かなかったんだけど、先生亡くなってからもう一遍読み直したんですよ。そうしたらその一番最初にチベットへ行く時に、自分の信者から餞別を貰う。その餞別は、「禁酒禁煙」、それから「殺生戒をやる」というのがありましてね、私はそれを河口先生が亡くなってから読んだ時に、非常に感激したんですね。もっと早く気が付けば良かったと思ってね。初め読んでいたんだけど、そんなところは目に入らなかった。
 
白鳥:  ちょっと読んでみましょう。これは壬生さんが編集された文庫ですが、
 
東京に帰って来たが、日本にいてもとうていチベットの事情がわからないからぼつぼつインドのほうへ出かけたほうがよかろうと考え、東京の友人や信者らに別れに行った。ところがその中には何か餞別したいということで、いろいろ尋ねがあったので、私は大酒家には酒を飲まぬことを餞別にしてくれるよう、またタバコをのんで脳病を起こすような先生には、禁煙を餞別にしてくれるよう頼んだ。そういうことを餞別にしてくれた人が四十名ばかりあった。そのときから今日までその餞別を守っている人もいない人もあるが、とにかくこれらの餞別は確かに私にとってよい餞別であった。
 
その後があるんですね。東京の本所の方は非常に網打ちの名人であったが、魚類に対しても不殺生を誓わせたり、それから銃猟する人―鉄砲撃ちの方には不殺生の大切さを説いたり、中にはそういう不殺生のために商売を変えさせた方もいるという、こういうエピソードが書かれていますね。こういう餞別というのは珍しいですね。
 
壬生:  『チベット旅行記』ですね。旅行記の冒頭にそれが書いてあるでしょう。初めはこんなことは旅行記に関係ないと思ってスーッと読んじゃった。ところが河口先生が亡くなってからこの旅行記を読んでみると、〈ああ、偉いんだな〉と。普通の旅行記じゃないですね、これだけで。私はほんとに迂闊な人間で、人が死んでからその人の偉さがわかるという迂闊な人間だけど、最初あの時だけは〈いやぁ申し訳ないことをしたな。もっと早くわかっていれば〉と思った気がしましたね。ここにあります額の「無明一元(むみよういちげん)」は、明も無明―迷いの悟りの元は一つだ、という意味なんですね。
 
白鳥:  これは河口慧海さんの字でございますか。
 
壬生:  ええ。なかなか一風変わった人で、ちょっと何年に一遍出るという人でしょうね。そういう方の人格に触れただけでも幸福だと思うんだけども、初めは嫌なお爺さんで何とか避けていた。今としては偉い方だったと思いますね。
 
白鳥:  考えてみれば河口慧海さんという人もチベットへ入られたというのは、まさに壬生さんと同じように経典の原典を探りたいという思いで入られたようですね。私は探検家だと思っていましたが、河口さんの場合には、一遍僧籍を離れて晩年は在家の仏教徒だったという話ですね。
 
壬生:  ええ。満六十歳の時に、いわゆる二百五十戒という戒律を全部止めて、これから自分は在家になると言って、俗服を着ましてね、二百五十戒を止めたんですけども、ご飯だけは朝と昼二食だけ。但しどか弁という大きな弁当を持って来て、これが楽しそうに美味しそうに食べるんですよ。全部精進料理。それが私は今でも覚えているけど、食事はあれくらい美味しく食べたら良いじゃないと思って。白い鬚を生やしまして髭のところご飯粒を付けながら美味しそうに食べるんですね。でも人間というのは、あれ見ていると、食欲が最大の喜びだというふうに感じていますね。無邪気に食べている姿を見ると。
 
白鳥:  正直言いまして、やはり浅草寺―浅草というほんとに東京の、しかも下町の人々の渦の中にいる人々、浅草寺に額づく人の大部分はやはり無病息災、家内円満、そしてできるならばお金も少しというような非常に現世利益を頭において額ずく方も多いと言いますか、ほとんどではないかと思うんですが、こういった点についてはどういうふうに?
 
壬生:  これは私も同じですよ。病気になりたくないし、できればお金も欲しいし、美味しいご馳走も欲しいと。これは人間だれでもそうだと思うんですね。ただ「欲には目なし」と言ってね、欲はエスカレートしますからね。どんどん欲望というのはエスカレートしちゃう。しかし人間の生きていくバイタリティは欲だと思うんですよ。やっぱり欲がなければ、だって病気で食欲がないと医者が心配するでしょう。やっぱり食欲というのは生きている素みたいなもんですからね。まあ性欲もそうだけども、やっぱり欲というのは人間の生きていくバイタリティ。しかし欲には目がないというんですからね。これをコントロールしないといけないんですね。仏教の中には、「少欲知足(しようよくちそく)」という、少ない欲で満足すると。つまり少ない欲望というのは、人間というのは欲望は切りが無いから、百円儲かれば千円儲かりたい一万円欲しい。どんどんエスカレートしちゃう。そうじゃなしにほどほどで自分でブレーキをかけて、「これで自分はいいんだ」というふうに満足を感じなければいけないというんですね。
 
白鳥:  それは無欲ではない。
 
壬生:  無欲じゃないんですね。その欲というのがやっぱり人間である以上はあるのが当たり前で、ただエスカレートしないようにコントロールしなければいけない。特に今地球の汚染とか環境問題とか格差問題とか、世界の大きな問題はやっぱりもう一遍欲望論をもう一遍考え直さなければいけない。本当に経済家も宗教家も思想家も、と私は思っているんだけども。そういう意味で欲望の問題というのは、よほど人間は考えなければいけない。蝶よ花よというふうに育った人は、自分が思うようなことをしていますからね、人の痛さがわからないですよ。自分が苦しんだり、自分がいろいろ悩んだりすることによって、つまりあんまり完全な状態でないことによって人間らしさというのも出てくるんで、私は、やっぱり人間というのは不完全な状態を続けることが、ある意味では人間らしさを取り戻すんで、今ボランティア活動をもっと学校でも何でも取り入れてホームルームを止めてボランティア活動を取り入れた方がいいんじゃないかというぐらいね、つまり人の痛さを考えると。人の不幸を知ることによって自分が如何に幸福だと感じるという、そういうのは少欲思想なんですね。これは儒教では「寡慾(かよく)」と言っています。仏教では「少欲」と言います。言い方は違いますけど、中国でもインドでも言っているんですけど、多少表現は違いますけど、目指すものは大体同じですね。
 
白鳥:  確かに無欲にはなりきれるものではありませんからね。
 
壬生:  無欲になったらお終いですよ。無欲になったら人間はお終い。だから有欲(うよく)でいいんだけどね。だけど人間の場合、コントロールできるか、できないかということが大事だと思うんですよ。後は精神統一ができるかできないかという、この二点で人間の価値が変わってくると思うんですね。「コントロール」「精神統一」、この二つだと思いますね。鎌倉時代に、十四世紀の初め頃でしょうかね。無住一円(むじゆういちえん)という人がいまして、この人が『妻鏡(つまかがみ)』(13世紀末ごろの成立。鎌倉の武士の家に生まれた無住は、諸宗の教えを学んだ後、30代の半ばに尾張の長母寺に住みついて庶民教化につとめた。本書は晩年の無住が、仏教の基本を平易な仮名交り文で説き明かしたもので、民間の布教者無住の、一宗一派にとらわれない立場と主張が簡潔に述べられている)という本の中に、こういう「大欲不足可名貧(大欲不足(だいよくふそく)貧(ひん)と名づくべし)」というのがあるんです。これはなかなか面白い言葉で、これは実はさっきの「少欲知足可名福(少欲知足(しようよくちそく)福と名づくべし)」という言葉と対句になっているんです。少欲知足は福であると。「大欲」というのは大小の大でなしに、欲張りでたくさんしょうがない。大金持ちとあるでしょう。大金持ちというのは、金が大きいんじゃなしにたくさん金を持っているという意味で、欲望が次から次へと湧き出てきて止まるところを知らない。満足をすることを知らないものは、これは貧だと。心が貧しいんだと。
少欲知足可名福(少欲知足(しようよくちそく)福と名づくべし)
大欲不足可名貧(大欲不足(だいよくふそく)(ひん)と名づくべし)
と対句になっているんですけどね。これはまさに現代の心の時代に、「大欲不足貧と名づくべし」ということを考えなければいけない。ということは、今特に日本は経済的に裕福でもあるし、世界中で一番政治も安定しているし、幸福な国ではあるけれども、実は紙にしても何にしてもみんな余所の国からパルプを持ってきて、地球上の資源を勝手に使ってお金があるんで勝手に使って、金で買ってきたからいいよ、と言うんだけどね、相当使い捨てが酷いわけで、環境汚染とか地球汚染とか格差という問題もあるし、しかしこれはもっと日本人はグローバルにものを見て、日本だけ「我々が稼いだ金だから何でも使っていい」というんじゃなしに、我々の生活物資がどこから来てどうなっているというグローバルに見てね、それでやっぱり少欲知足の生活というものをもう一遍考えないと、二十一世紀生き残れなくなっちゃうと思うんです。これは心配でしょうがない。だけどそういうことをいう方もいるかも知れないけれども、私は機会ある毎にそういうことを二十一世紀に残るためには少欲知足であって、大欲不足では心が貧しくなっちゃうと。これを本当に声を大にして言いたいんで、これは私が言ったんじゃないんですから、無住一円(むじゆういちえん)という方が言ったのを請け売りしているだけですけど、これはやっぱり現代に生きている言葉じゃないかと、私はそう思っているんですけどね。
 
白鳥:  ほんとに江戸の初めからこの浅草の観音様には、たくさんの方が額ずいた思うんですけど、今から考えればその頃の庶民のみなさんの祈りというのは慎ましいものだったんでしょうね。
 
壬生:  だから今の人の庶民の生活は昔の大名でしょう。だけどそれでもまだ飽き足らないんだから。
 
白鳥:  そうなんですね。
 
壬生:  欲は怖いですね、と思いますね。それだけ昔の人よりは幸福なんだけどね。やっぱり自分は幸福であるということを考え、認識をして自分の幸福感を味合わないと、「まだ不足だ不足だ」と言っていれば、まさしく心貧しい人になっちゃうと思うんですね。と私は声を大にして言いたいんだけどね。
 
白鳥:  今日はお訪ね致しましてお話をいろいろ伺いましたが、この伝法院も随分歴史ある建物だそうですね。
 
壬生:  ええ。二百五十年ぐらい。これは戦災の時にここに井戸がいくつかありましてね、この井戸の水で助かったんですよ。ああいう時になると食べ物じゃなくて水なんです。だからここでも井戸水を検査して、水質検査をして、なんかあった時にすぐ水が近所の人が来て飲めるようにやっているんですよ。だからなかなかお経だけ読んでいればいいというわけにもいかない。井戸水は検査して貰わなければいけないしね。
 
白鳥:  大池も湧き水でございますか。
 
壬生:  ええ。湧き水ですよ。
 
白鳥:  秋深くなってきたせいか小鳥たちが、モズとか尾長(おなが)とか飛んでいますですね。
 
壬生:  冬は白鷺がくるんですね。一面の銀世界に白鷺が来るんですけどね。
 
白鳥:  とても浅草とは思えないいい気分になっていますですね。今日はそういう素晴らしいところにお邪魔さして頂きまして、どうも有難うございました。
 
     これは、平成二年十一月十八日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである