維摩経に今≠学ぶ
 
                興福寺執事長 森 谷(もりや)  英 俊(えいしゆん)
一九四九年、神奈川県生まれ。一九七三年(昭和四八年)に法政大学法学部を卒業。一九八九年(平成元年)に興福寺責任役員、執事に就任する。一九九一年(平成三年)、慈恩会堅義加業を成満し、興福寺寺子院大聖院住職に就任。二○○一年(平成一三年)、興福寺執事長に就任し、二○○四年(平成一六年)から山田寺住職を兼務する。
                き き て  住 田  功 一
 
ナレーター:  奈良の興福寺(こうふくじ)。国宝阿修羅像(あしゆらぞう)で広く知られています。あまたある興福寺の国宝の中で異彩を放っているのが、この維摩詰(ゆいまきつ)の像です。維摩詰は仏や僧侶ではありません。しかし維摩詰を主人公とした経典が今に残り、興福寺でもこの経典の教えを大切に守っています。執事長の森谷英俊さん。森谷さんは、寺の生まれではありませんが、サラリーマン生活を経て僧侶になりました。現在『維摩経(ゆいまきよう)』の教えを人々に広く知って貰おうと、講座などを開いています。
 

 
住田:  この『維摩経』というのは、どういう内容なんでしょうか?
 
森谷:  『維摩経』は、ちょうどインドに起きまして、紀元前後に、商人・王侯貴族が勃興してきた。そうした非常に活発なエネルギーが満ち溢れていた。そして市井(しせい)の主人公は、この商人たち、また王侯貴族たち。そうしたその中の在俗の長者を主人公にしたお経なんですね。
 
住田:  維摩居士(ゆいまこじ)と言いますから、市井(しせい)の人なんですね。
 
森谷:  そうです。
 
住田:  仏教の中では、どういう流れにあると考えたらよろしいんでしょうか?
 
森谷:  仏教の目的は、我々生きとし生けるものの救済になるわけですね。そして当時の社会は、非常に貨幣経済に突入していったインドでありますので―まだ日本が縄文時代ぐらいの頃ですね―そしてそれまでの社会の大変革を迎えた中で、人々の人心も、またいろいろな価値基準も大きく変わっていた時代。まさに現代の日本と同じ状況に、また世界の同じ状況に近いんですね。そうした中で、人は生活をしていたわけで、今も同じ生活が続いているわけですね。そして人はやはり欲望があります。そして社会的な生き物ですから、いろいろな規則制約があります。そういうものにどうしても縛られてしまう。そうした欲望とか制約から解放されるには、やはりこの仏教の世界というのがあるわけですね。それを維摩居士は、在俗にありながら、そうした制約を離れて、そして心の束縛から解放されて、自由な世界というものを示している。そうした経典なんですね。
 
住田:  しかもそのお経は、何かを説いていくだけではなくて、やりとり、問答があって、ストーリーがあって、
 
森谷:  そうなんです。普通はお釈迦様が、または弥勒(みろく)菩薩様が、または観音様が、いろいろな救いとか、そういうふうな内容だけを強調して説く部分が多いんですが、これは智慧の文殊様との問答を通していくわけです。しかしその智慧の文殊様ももう尻込みするぐらいの、出家者でない維摩長者との会話が、非常にもうわくわくするような感じで展開されていくんですね。
 
住田:  数々のブッダの弟子が論破されながら、スリリングな経典でございますね。
 
森谷:  そうです。
 
住田:  今に生きる私たちは、いろんな悩みを抱えていますが、私たちのヒントになることも、
 
森谷:  それはもうたくさんあると思うんですね。
 
住田:  じゃ、その世界をいろいろ伺っていきたいと思います。よろしくお願い致します。
 
森谷:  よろしくお願い致します。
 

 
ナレーター:  興福寺の歴史は、七世紀の中頃にまで遡ります。藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の病気平癒を願って創建された山階寺(やましなでら)(現京都府京都市山科区)がその起源とされます。西暦七一○年の平城遷都に際し、鎌足の子・不比等(ふひと)によって現在の地に移され、興福寺と名付けられます。平安時代には、摂政関白にまで上り詰めた藤原家の氏寺として栄えました。その古刹で維摩詰の物語として知らされた『維摩経』の教えは、千年の時を越えても伝え続けられています。
 

 
住田:  『維摩経』というのに、こちらの興福寺の名前の由来というのもあるんですね。
森谷:  そうなんです。これは『維摩経』の中の第二章「方便品(ほうべんぼん)」というところにございます。そこでは「令興福力(りようこうふくりき)」―漢訳されてそういうふうに書かれておりますが、読み下しますと「福力(ふくりき)を興(おこ)さ令(し)む」と書いてありまして、これはインドの古代言語でありますサンスクリットの訳から言いますと、「すべての人のリーダーとして維摩長者は、共通の福を人々が求めるように、常に我々衆生に付き従う」と、こういう意味でありまして、その中の「共通の福、それを追い求める力を付けて貰う」ということで、「福力」という言葉が出てくるわけです。それが「興福寺」の「興福」福力を興さしむの意味になっています。
 
住田:  森谷さんも、この『維摩経』を今多くの方に説いていらっしゃいますけれども、現代語訳を読んでみますと、シナリオ形式で、そして問答形式になっていて、「ブッダの教えを間違って解釈すると、こうなるよ」という事例集というか、ドリルのようにもなっています。大変興味深いですね。
 
森谷:  これは智慧第一をうたわれた文殊菩薩。しかしそれに対して在俗の長者でありながら、その文殊さんも舌を巻くような仏教の奥義について、そして本来の仏教の悟りへの道はこういうところを歩いていった方がいいんだよ、ということを、おもしろおかしく、しかもあたかも演劇を見るような形で展開されていく物語です。
 
住田:  そういった意味では、非常に読みやすい、人々に親しみやすい作りにもなっているんですね。
 
森谷:  読んで頂きますと、抹香臭いというよりも、何か小説を読んでいる、そうした読み方でお受け取りできると思いますね。
 
住田:  この『維摩経』全体のテーマとしては、こういうものなんだというのは?
 
森谷:  これははっきりしておりまして、初期大乗経典でありますので、それまでの部派仏教の教え―部派仏教というのは、出家至上主義なんですね。ともかくは先ず自分が悟りを開かないことには、人を救うこともなかなか容易にできないだろうということで、まあ出家至上主義―悟りだけを求めていく。ところが初期大乗経典というものは、いや、それだけが仏教のあり方ではないでしょう、と。この修行に明け暮れる毎日を送れる人は、それでもいいかも知れないけど、しかしこの坐禅を組めない日常の忙しさに追い回される私たちは、どうなの? ましてや、例えば手の不自由な方、足の不自由な方、坐禅というものはできないでしょう。要するに禅定(ぜんじよう)というものができないでしょう。そうした人たちは、じゃ、悟りは開けないのか、というふうな話にもなっていくわけですね。だからそれは違う、と言って、誰もが平等に悟りの世界にいこうというのが、大乗の運動であると。宗教改革ですが、その最初の頃の経典が、この『維摩経』であるわけですね。
 

 
ナレーター:  『維摩経』は、西暦百年頃にインドで成立したと考えられています。「生老病死」と言った仏教の基本テーマだけでなく、政治や経済、平等や差別といった人間社会が抱えるさまざまな問題が、維摩詰によって提起されていきます。
 

 
住田:  これはやはり平等を追求すること、そして誰でも等しく悟りへ到達することができること、この二点。そしてそれは思想的には、「空(くう)」と。そしてまたその「空」の考えを導きだす仏教でいうところの「縁(えん)」と、こうしたところから成り立っている非常に私たち在家の者―私は在家から入ったわけですが―そうしたところに、先ず興味を持たしてくれている。そしてこの真実の道に導いてくれるような、そうした意味合いの経典だろうと思います。
 
住田:  維摩居士、つまり在家の人、一般の市井の人なんだ。ここが大きな土台ですね。
 
森谷:  そうですね。ですので、この『維摩経』の中では、やはり「弟子品(でしぼん)」という中に、お釈迦様の高弟たちがたくさん出てこられます。その高弟たちは、自分の悟りを求める。これが第一義なんですね。次に「菩薩品(ぼさつぼん)」というのがございまして、これは弥勒菩薩様とか、いろいろな力のある菩薩様が出てくるんですが、彼らもその悟りへの道についての思い違いを維摩居士に正される、というところがあります。
 
住田:  そのブッダの、それぞれの分野の一番弟子みたいな人たち、あるいはもう悟りをもう開いた人たちが、次々にその「いや、それは違うんだ」と論破されてしまうというところは、大変刺激的と言いますか、目を開かれる思いですね。
 
森谷:  そうですね。実は維摩居士は大力の菩薩であるわけなんですが、しかし在俗のところに身を現じている、現しているわけですね。ですので、自分自身ということを、よくいろいろな卑下とか、また自慢とか、高慢な気持ちにもなることなく、冷静に自分を見ることができるわけです。その見るというのは、目で見るんじゃないんですね。要するに「観察」の「観」を書きまして、「観る」と漢字では書きます。これはどういうふうな見方かというと、この目のこうした組織を通して見るのではなくて、「観応力(かんのうりよく)」なんですね。心で観る。ですので仏様というのは、何も今、目の前にはいらっしゃいません。しかしお釈迦様は過去におられました。弥勒様は、五十六億七千万年の後―この数字には、いろいろな意見があるんですが―ともかく五十六億七千万年の後に未来に現れるという仏様です。ですので、そういう仏様を目で見ることはできない。何で見るかというと、鍛えられた心の目で観るわけですね。ですので、過去・現在・未来という三つの世界―これを「三世(さんぜ)」と申しますが、これを離れています。三世を離れているということは、要するに形而上の仏様―形・色で見る仏様ではない。自由に見られるということなんですね。そういうものに縛られないということです。縛られると真実がなかなか見えてこないんですけど、その真実の仏を観ることができる、ということを、『維摩経』では言っているわけですね。そしてその御仏を観ること―三世を離れた御仏を観ることができた時―それは悟りを開いた時なんですが、その時初めて実は御仏というものが、私たちを常に見つめていて下さった、ということもまたわかるわけです。ズーッと導いてくれていた、ということもわかるんですね。
 

 
ナレーター:  森谷さんが、『維摩経』に出会ったのは、高校生の時でした。仏教そのものは幼い頃から身近に感じていましたが、経典と正面から向き合ったのは、この時が初めてでした。
 

 
森谷:  自分でいうのもなんですが、多感な高校時代の時、人間誰でも初恋というものを通過すると思うんですね。私もご多分に漏れずそういう経験ありました。そうした中でやはり最初は失恋から入っていくわけですね。そうしますと、経験の少ない中で失恋というのは非常に大きな最初の挫折ですね。その時何かそれを乗り越えるもの、またはそれを忘れさしてくれるようなものということで、図書館で何か面白い本ないかなと見た時、たまたま筑摩書房『世界古典体系』という現代語訳でございますけど、あったんですね。隣には聖書が並んでおりました。たまたまこちらに仏典というのがありました。これどちらを見たら、読んだら面白いのかなと思って。キリストの世界というのも非常に素晴らしいものがあるという予感はしていたわけです。でも仏典というのは日常の中にあるけどよくわからないな、ちょっと読んで見ようかなと思って読んだ中に、『維摩経』があったんですね。ご縁でございますね。
 
住田:  隣の聖書を取っていたら違う道だったかもわかりませんね。
 
森谷:  そうですね。
 
住田:  でも、若い頃失恋で傷ついて挫折した中で読んだ『維摩経』というのは、どういうふうに心に沁みてまいりましたか。
 
森谷:  全然失恋の痛みは癒やしてくれなかったわけですけど(笑い)。でも、ただこうした道を歩んでいくと、自分というものが鍛えられるな、というふうに、その時は思いましたですね。
 
住田:  たくさんのエピソードがある中で、その時に思い出に残ったエピソード、どこの章というか、どこの一節でしたか?
 
森谷:  これはやはり「弟子品」の中で、お釈迦様が自分のお弟子たちに、「維摩居士が病気になっておられる。だから長者のお見舞いに、お前たち、行っておくれ」という、そういうふうな章でありますが。
 
住田:  次々に弟子にお見舞いに行っておくれ、というわけですね。
 
森谷:  ところがお弟子たちは、みな維摩居士との出会いの中で、こういうふうにいろいろな仏道の道での誤りを諭(さと)されて、とても顔向けできませんということで、お断りしていく章んでございますが、その中に須菩提(しゆぼだい)(釈迦十大弟子の一人)というお弟子の章があります。この須菩提(しゆぼだい)尊者―歴史的に実在の方でございます―この方が維摩居士のところに托鉢に行くわけですね。托鉢に行ったところ、維摩居士から、「お前はお釈迦様のお弟子として崇(あが)められて、こういうふうなお布施を受けている。でもお前の信じているお釈迦様は、非常に悪魔の道を教えている。そういうふうな人でも、お前は付いていくことができるのか」というふうな、突き詰めた質問をされるんですね。そしてどこまでも、どんな国にでも―勿論善い人はともかく誰でも付いて行ってくれるわけですけど―どんな国でも付いて行くことができるのかというぎりぎりの選択を迫ってきますね。それを心に深く留め置いた須菩提(しゆぼだい)は、真実の悟りに目覚めていく、ということを暗示して、その段落は終わるんですけどね。そういうふうなところは、非常に自分が奈落の底に一人取り残されても、きっとそうした御仏とか菩薩というものは、常に傍に付き従ってくれるものだろうな、というふうなところですね。
 

 
ナレーター:  高校生で仏教の世界を垣間見た森谷さんですが、大学を卒業すると、最初は出版社、次に市役所でサラリーマン生活を送ることになります。いわばごく普通の人生を歩んでいたある日、仏教の道に進むきっかけとなる出来事が森谷さんに訪れます。
 

 
森谷:  それまでのいろいろな経験をしてきた生活。ここはもう何の怖れもない―何の怖れもないというのは、例えば人間の一番の怖れというのは、勿論貧乏もあるだろうし、いろんな社会から落伍(らくご)していく怖れもあるだろう。でもそうじゃなくてやはり死ぬのが恐いんですよね。でもそんなことは日常全然考えないわけです。
 
住田:  まだ若いですからね。
 
森谷:  そうです。いずれ死ぬだろう、と。どっかではわかっているんだけど、しかしそれは現実問題じゃないですね。でもそれがたまたま友人たちと海外に旅行した時に、なんか原因がわからず、病に伏してしまったんですね。
 
住田:  どんな具合になったんですか?
 
森谷:  それはもう気が付いた時は病院に運ばれていたという。病院で調べて貰っても、何がなんだかよくわからんと。そうしますと、このまま薄れ行く意識の中で、もう終わりなのか、というふうな気持ちがあったわけですね。
 
住田:  海外旅行で倒れてしまったわけですね。
 
森谷:  そうです。ですからその死を自分で実感した、ということなんでしょうね。
 
住田:  確かに若い時に、もしかすると死はすぐ隣にあるのかも知れないという経験をされる方は、例えば事故や災害、いろいろあると思いますが、そこで仏の道に進もうという、もう一つステップがありますね。
 
森谷:  そうですね。ですので、その時何も仏の道にいきなり入ろうと思ったわけじゃないんですね。やはり友人たちとか、またお付き合いの人たちが励ましてくれる中、モチベーションが足らないんですね。一度またこういうふうな死と直面する場面が生じてきたらどうしよう、というのがどこかに、意識下じゃなくて、もう意識の上に浮かんでいるわけですね。
 
住田:  突然倒れるかも知れないと?
 
森谷:  そうなんですね。原因がわかればいいんですけどね。
 
住田:  結局原因はわからずじまい?
 
森谷:  そうですね。未だわからずじまいですね。
 
住田:  そのように倒れるということから死への恐怖、怖れというのがあって、
 
森谷:  そういうものがあるんだ、ということを感じたわけです。
 

 
ナレーター:  死を間近に感じた森谷さんは、仏門に入ることを決意。いくつかの寺を訪ねるうち、現在の興福寺の貫首(かんす)多川俊英(たがわしゆんえい)さんと出会います。多川さんの説く仏教の合理的な考え方に引かれて興福寺へ入ったのです。森谷英俊さん、三十二歳の時でした。興福寺では、創建以来『維摩経』の教えを護り続けています。勅使を迎えて執り行う維摩会(ゆいまえ)(興福寺において毎年 十月十日より七日間、《維摩経》を講説する大会)という大法要が、明治維新まで千年以上続けられていたほどです。興福寺に入り、『維摩経』の教えを本格的に学ぶことになった森谷さんは、経典に記された物語が、現在社会にも通じていることに気付いたと言います。
 

 
森谷:  やはり今日的な問題、現代的な問題と言いますか、その一つ、例えば性差別にしろ、要するに弱者の虐待にしろ、そうしたことが社会現象の中でもたくさん見られておりますね。しかしお経全体にも共通するところなんですが、平等性を追求していく。これがお経のテーマの一つでもあるわけですね。それで特にこの大乗経典、そして『維摩経』は、その平等性を徹底的に追求していきます。その「観衆生品(かんしゆじようぼん)」そのところに天女が出てくるんですね。そしてその天女が素晴らしい神通力を発揮するもんですので、お釈迦様の直弟子の智慧第一と言われている舎利弗(しやりほつ)尊者が、「何故その悟りにも等しき教えを説かれるのに、女性の―要するに女神ですからね―女性なんですか、と聞くんです。
 
住田:  ポロッと思わず、悪気なく女性なのか?と。
 
森谷:  聞かれたわけですね。そうしましたところ、天女は、「あなたの言っている、要するに女性という変わらぬものが、この世の中にあるんですか」というわけですね。もし女性という絶対のものがあれば、ズーッと変わらないわけですね。仏教ではそういうのは認めないわけですね。必ず変化していくと。またいろいろな「縁」―「縁」というのは条件ですね。そういうものによって、仮に成り立っている。だから言葉で言っている女性、そうした概念的なものはないんだ、ということをいうわけですね。そしていきなりその神通力で舎利弗さんを女性に変えてしまう。それで「女性というものはどっかあるのか?」というわけですね。男性だったものが、女性にいきなり変わっちゃいますんで、確固たる女性であるというものは、どこにもない、ということに初めて舎利弗は気が付くという。だからもうまさに今の性差別を乗り越えていくような、そんな考え方または見方というものが、この「観衆生品」のところに出て来るわけですね。
 
住田:  そういう意味では、きわめて現代的な「女性をこうあるべきだ、男性はこうあるべき」というような、それでいいのかという問いがありますけれども、それがまさに『維摩経』の中に書かれているわけですね。
 
森谷:  そうですね。
 
住田:  もう一つ、維摩詰(維摩居士)が病に伏せっているという形で登場するわけですけれども、その病ということについても非常に大きな何か提示があるということですね。
 
森谷:  このお経の導入部のところですので、その中でどうして維摩居士が病になるかというと、これは菩薩様とか仏様は、「金剛心」と言いまして、ダイヤモンドのような堅固な信心をもっておられますので、病気になることもない、と言われています。衆生を導くためには病気になるんですね。維摩居士もそれと同じで、自分が病気になるということは、より我々と同じレベルまでその神通力を弱めて、そして病の身を見せるわけですね。そして同じレベルで、水平のレベルで一緒に物事を成し遂げていこうという、こうしたことが維摩居士の「衆生みな病む、ゆえに我病む」という言葉の中に示されてくるんですね。
 
住田:  雲の上の存在から私たちと同じところまで降りて来て、そして心寄せて語り掛ける、ということですね。
 
森谷:  そうだと思います。
 

 
ナレーター:  『維摩経』では、「己(おのれ)の疾(やまい)を以(もつ)て彼(かれ)の疾(やまい)を愍(あわれ)め」と続きます。自分が病で苦しむことで初めて他人の苦しみを共有できると説くのです。
 

 
森谷:  病の菩薩。これは我々のことをさしているんですね。そうしたものが心病む時、あるいは身体が実際に病気で病んで、そして心細くなった時、そうした我々を見舞うにはどうしたらいいか、というふうなところにも、同じような表現が出てきます。
 
住田:  私たちは、大変辛い立場にある人、弱い立場にある人に、どう接するのか。どう思いを寄せればいいのかという、日々迷い、悩むところですけれども、そういったところの原点と言いますか、が書かれているわけですね。
 
森谷:  そうです。当時のインド、今の日本も目には見えないけど、多分いろいろな差別というものがあると思うんです。でも今大分日本の社会もどんどん進歩していて、身体の不自由な人たちにも快適な生活を送れる、そうした環境も整える、というようないろんな政策もなされていますけど、しかし私たち個人個人がそうした方々に対して、どこまで同じ心根―心情を共有できるか、というのはなかなか難しい問題だと思いますね。
 

 
ナレーター:  苦しみを共有することで、平等な社会が実現すると『維摩経』が説く。人々を悟りへと導く道筋。森谷さんは、この悟りの道筋では、「縁」という思想が鍵になると言います。
 

 
森谷:  私たちは、よく「ご縁がある」と申しますね。この「縁」というものは、なんか非常に抹香臭いように思われるかも知れませんけど、実は現代語でなくて、訳せば「物事を成立させる条件」と言ったらいいと思います。どういうことかと言いますと、例えば今私は、ここでお話さして貰っています。そして住田さんも、今日こちらに来て頂くに、いろいろな交通手段を使って来られたと思います。でも、例えば来る途中のバス、または車、または電車は、何か事故等であれば、今また違う状況になっているわけですね。
 
住田:  ここでの出会いがなかったかも知れませんね。
 
森谷:  そうです。それをまた大きく世界に広げれば、例えば地球の裏側の南アメリカのところでは、もしかして夜のとばりが降りてピューマが何か獲物を狙っているかも知れない。またチベットの方ではもしかしてブルーポピー(ケシ科メコノプシス属のチベット自治区、中国雲南省原産の多年草。標高3000m付近から自生する高山植物で、ヒマラヤに咲く青色のケシとして有名)が咲いているかも知れない。もっと大きく考えると、この宇宙の隣の二五○万光年の彼方にあるアンドロメダ星雲(地球から約239万光年の距離に位置し、およそ1兆個の恒星から成る渦巻銀河である)のところで、人間と同じような生命体があって、もしかして地球の方をこうやって見ているかも知れない。これはみな時空は違うけど、一瞬を共有しているわけですね。その中の一つが欠けても、今のこの世界は成り立たない。だからこの「縁」というものは、非常に大きく、ミクロからマクロまでこの世界を形作る条件として、こうやって有機的に絡み合っている。そしていろいろな原因があって、結果が生まれ、そしてまたそれがまた原因となって結果が生まれるという、こういう世界を、仏教では「縁」というわけですね。だからそうした縁によって成り立っている私というものは、常に変化せざるを得ないわけですので、だからこの私というものは、今を動くことはできないんですね。常に今なんですね。未来はまだ来ない。過去というのは過ぎていますからね。人間はみなこの今しか生きられない。「不動の今」というんですね。ですからここをどのように理解していくかというのが、悟りへの道の入り口だろうと思いますね。
 

 
ナレーター:  人々に広く知られている「般若心経(はんにやしんぎよう)」。「色即是空(しきそくぜくう) 空即是色(くうそくぜしき)」と説く「空(くう)の思想」は、『維摩経』にも記されています。
 

 
森谷:  「空(くう)」というものは、やはり仏教の基本的な考え方、これも非常に大事なもんでありまして、先ほどお話さして頂いたように、どこまでも変わらない自分があるということは、仏教では考えないんだ、と言いました。それを「アートマン=我」と言いますけどね。そういうことを「自性(じしよう)」言うんですね。出家至上主義の人たちは、「任時自性(にんじじしよう)軌生物解(きせいもつげ)」という難しい言葉を使って言いました。これはこの世の中ですべて変わらないものはない。「諸行無常(しよぎようむじよう)」というのは、仏教の一つのテーゼ(These:命題、定立)であるんですが、そうしたものの中でも物事を成り立たせる要素はある、というんですね。物事は全部変化していく。変化していくけど、物事を成り立たせる―例えば時計というのがございますが、その時計というもの、そのものがあるわけじゃないんですね。いろいろなゼンマイとかネジとか針とか、あるいはフレームとか、そういうもので成り立っているんですが、それをばらしたら何も時計というものはないんですね。私たちが概念として認識する時計はないわけですね。だから時計という絶対のものはない。しかしその時計を成り立たせる、そうした要素はある。これが出家至上主義の人たちが考えた考え方で、「我空(がくう)」―「我」というのは「アートマン」ですね―「我空法有(がくうほうう)」と言いました。「法」というのは、いろいろな物事の存在のありようですが、それに対してこの『維摩経』の大乗仏教に思想的な進歩をしていきますと、そうでないでしょう、と。例えば「任時自性(にんじじしよう)軌生物解(きせいもつげ)」という、そういうふうなことを、出家至上主義の人たちはいうけど、やはりその部品も、いろんな原子とかいうもので一時的に成り立ったもので、その本(もと)を質せばいろいろなメタルの銅とか、そういうものを溶かす。またいろいろなその過程においてもいろいろなことがあって、そしてたまたま部品というものに成り立つだけの話であって、そのものさえもほんとにないんだ、と。部品さえもないんだ、と。そういうふうな形で物事を見ないと、真理というものには到達できないと考えたわけですね。それを今度は、「我空」、それから「法空(ほつくう)」と言ったんですね。物事は成り立たせるそうした時計、時計を成り立たせる部品なども、それすらないんだということで、「我空法空」と。そういうふうな思想的な進化を遂げたんですね。「空」というのは、じゃ実際どういうふうに理解するかと言いますと、「自性(じしよう)」と申しまして、物事を常に永遠にあらしめる変わらない本体、それを「自性」というんですね。その「自性」がない状態、それを「空」というわけです。ですので、私たちが物事を見て認識するに、先ず「色」―「般若心経」では、「色即是空」と言いますけど、その「色」というものは、これはその物事をすべて物質と言っても、物の形と色であって、そして物事すべてを私たちは理解しているわけじゃないんですね。これは本(ほん)だと言っても、この本という形だけを見ているだけで、本というだけであって、
 
住田:  材料や中身を全部知っているわけじゃないですね。
 
森谷:  そうですね。それでそうしたものを乗り越えたところに、そうしたこういう本というものが実際にズーッとあるんだ。どこまでも概念として、言葉として表したものがあるんだという、私たちは錯覚に常に陥っているわけですね。だから変わらない自分があると思っているし、また「あの人は善い人だ」と言った時、「善い人」という何か絶対の人がいるような感じがする。だから現実の中で、例えば付き合っているAさんという人、「あの人は善い人なんですよ」と。ところがそのAさんが、ある時善い人という絶対のものだと思っているんですね。ところがそのAさんが、何かいろいろ縁―条件によって殺人を犯してしまうことも無きにしも非ずですし、また何か魔がさして、何か物を盗ってしまうこともあるわけですね。その時途端に、今度はAさんは、善い人という絶対の自性(じしよう)というものがあるんであれば、ズーッと善い人であるわけなんですが、悪いこともしてしまう。今度はその人は、Aさんは悪人になるわけですね。そうすると、人間は、Aさんは悪い人だという、今度はまたそういう固定観念をもって見てしまうわけですね。そのAさんというもの、そのものを理解しているわけじゃないんですね。そういうものを乗り越えないと、なかなか人間関係も、また物事の本質も見えてこない。つまりだから悟りというものは、真理の世界を見るわけですから、そういうふうな固定観念を乗り越えていかなくちゃいけないよということ、それを「自性」と言っているわけですね。その「自性」がない、物事すべてに自性がないんだ、ということが「空」なんですね。
 
住田:  私たちは、何か見ているようで、実はそういうものが、永遠のものがあるわけではないんだ、ということなんですね。
 
森谷:  そうなんです。常に私たちはなんか周りの人がお亡くなりになっても、私だけはどこまでも生きているような思いというものをもっているんですね。それはですから「自性」がないということを認識していないわけですね。常に変わる。諸行無常ですからね。すべては移り変わっていく、変化していくということですね。
 

 
ナレーター:  人は、生と死、善と悪というような相反する事柄をどう捉えるのか。常に悩みますね。『維摩経』では、対立する二つの事柄でも一つと捉えることで、真の悟りに到達できることが示されています。文殊菩薩たちとの問答を通して明らかにされる悟りの境地。『維摩経』の神髄がここにある、と、森谷さんはみています。
 

 
森谷:  これはいろいろなご意見をお持ちの方がたくさんいられると思うんですが、多分物語的な中では、「入不二法門品(にゆうふにほうもんぼん)」というところが、やはりクライマックスであると思うんです。内容的には、維摩長者が、見(まみ)える大菩薩たちに、「あなたたちは悟りも間近なんだから、その悟りに入る。ではその門をどういうふうに表現するか」ということを説いていくわけですね。それはこの世の中というものは、「あなたと私」とか、「正しいとか間違っているとか」という。自分から離して、自分と対比さして認識の世界が成り立っているわけですから、そこをどういうふうに菩薩たちは乗り越えているのか、というお話の内容にもなっているんですね。
 
住田:  いろいろな例を、対になる例を次々に挙げていくわけですね。
 
森谷:  そうなんです。ここがやはりこの経典の面白いところなんでしょうけど、そしてズーッと三十人以上の菩薩が、自分の意見をこう開陳していくんですね。例えばこれはその中の一例なんでございますけど、獅子(しし)菩薩という方が出て来て、「福と罪」というものは、これは本来私たちが見ると、別々のもんなんだけど、しかしそれがほんとは一緒なんだ」ということを言っております。これは「福」というのは、「善いこと」という意味ですね、善行ですね。そして「罪」というのは、悪行なんですね。この二つはどうして一緒なの、ということになるんですね。
 
住田:  相反するものですね。
 
森谷:  そうです。何故一緒なの、というふうな話になってくるんですが、例えば仏教では、先ほどから申しておりますように、すべて平等追求するのが基本ですから、じゃ私たちの世界で、いろいろな縁―条件によって現象を起こしますね。例えばちょっと出来心ができて、何か盗ってしまったら、それは現行の法律でも罰せられるし、世間からもあの人は悪い人だ、という目で見る。仏教的にみたら、その人は悟りにいけないのか、という話になってくるわけですね。いや、そうじゃないだろう、と。そういうふうな悪い人でも救われるだろうというのが、仏教の考え方です。そうでなければ、だって我々悟れていない人間が何故悟るかということになりますね。じゃ、その悪人はどこまでいっても救われないのか、という話にもなってきますね。回心して、または道を正しい方向に定めた時、その人は聖(ひじり)なる世界にいけないのか、という話になってしまうわけですから、ですからそこのところにおいて、そうしたものが一つとして考えるところに、罪もまた善行も、これも同じ土俵の中で、そしていろいろな縁によって、たまたまできたそうした現象を、私たちは固定的に捉えてしまうことはなくそうよ、ということなんですね。
 
住田:  そういった意味では、いろんな掛け合いの中で、汚れと清らかなこととか、悩みと悟りとか、私たちはどっちかだ、という対局だと思っておりましたが、そうじゃないんだ、と、そういう意味なんですね。
 
森谷:  そうです。そこら辺のところをもう少し深めていく考え方が、その大乗仏教の「空」の後に出てくる―興福寺、薬師寺さんなどの教学なんですが、唯識(ゆいしき)という教えがあります。これは悟りへ至る実践行の中での心の動きを分析したものです。例えば我々が満月を見たとします。その満月というものは、人それぞれの大きさというものが、まあ認識は変わっていくと思うんですが、例えば住田さん、満月の大きさをどのように考えられますか?
 
住田:  そうですね。なにか心の中でクローズアップして見ると、大きくまん丸というふうに思いますね。
 
森谷:  そうですね。我々も普通満月というと、このぐらいの大きさとか、お盆のような月だとか言いますけど、実際の見かけの月というものは、五円玉の真ん中の穴の大きさに等しいわけですね。それは、でもどうしてそれだけ大きく見えてしまうかというと、自分の、例えば今まで忘れ去っていたいろんな知識というものがあります。それは宇宙に対する知識などもあるわけですね。中学の時に、この地球から月までの距離は、三十六万キロ。地球の体積に比べて、月はその六分の一しかない、とかというふうな学習した記憶というものは、人間は忘れたと思っています。でもそれは忘れていないんですね。すべて自分の深層の心の働きの中―仏教用語では「阿頼耶識(あらやしき)」と言いますけど、そこに溜め込まれている。そして月を見るという行為を起こした時に、その月が、実際の月を見ている目の中に入るわけなんですから―自分の脳裏の中に、その眼の器官を通して脳裏に月を描くわけですね。その時にそうした深層心に蓄えたものが、そこに一挙に負荷されて、実際の月の大きさというものを大きく見せてしまう。これはつまり離れたもの、そして自分の月という、この二つのものが一つに認識できていないわけですね。自分の認識するものと、つまり住田さんですね、そして私ですよね。これは私が、住田さんというものを、外のものとして認識しているわけです。しかしそれが仏教的には、一つなんだ、ということです。つまり私の認識がなければ、住田さんも居ない。こうした考え方を、仏教では非常に大事にするんですね。あなたと私というものが一つである。これは常識では考えられないんですけどね。唯識の世界では、認識するものと、認識されるものが一つの中にある、という考え方。ここに至らないと、なかなか悟りというものが見えてこない、と言われていますね。
 
住田:  しかし私たち日々暮らしていますと、どうしても私と相手、そこの間には対立があったり、あるいはどうしても比較をしてしまって、どうして私はそうでないのか。どうしてあの人はそうなのか。そこにいろいろな思い、羨みとか、そういったものも出てくる。どうしてもそういう中に私たちは悩み苦しむ日々ですよね。どのようにこの経典の中の考え方を、私たちは組み込んでいけばいいのかなと思うんですがね。
 
森谷:  やはりこの「入不二法門品(にゆうふにほうもんぼん)」のところでも見られますように、私たちが概念化して見ているものというのは、すべては真実に何かが覆い被さって見せている、ということですね。つまりそこにずれがあるわけです。ですからいろいろなこうした「入不二法門品」でいうようなところの、これが悪いことだ、これが善いことだ、というものを対比させていては、そこのところには認識のずれがあるだろうということを教えているわけですね。そしてまたそれは固定的なことではないだろうということも教えているわけですね。ですからこれが「入不二法門品」の本来の意味なんですね。
 
住田:  確かに、今は人と私を比較して、たとえば富める者、そうでない者という差があるかも知れないし、あるいは幸せ、こちらは幸せでないというような違いで線を引きますよね。もしかすると、その生きていく過程で、瞬間瞬間に私たちが変わっていくのであれば、長い人生の中で見ていくと、それは一瞬の違いだけなのかも知れないですね。
 
森谷:  そうですね。だから仏教的に考えれば、富める者もまた貧しき者も、富める者はやはり喜んで分かち与える。そしてまたこの貧しき者は卑下することなく、より自分を向上さして、より社会の中で自分を高めていくというふうなところのよい循環というものが、仏教の中では求められるわけですね。だからそこに繋げられるということが、『維摩経』などの教えているところだろうと思いますですね。
 

 
ナレーター:  『維摩経』の、出家者でなくとも悟りを開くことができるという教え、そして説くすべての平等。『維摩経』の世界を、今のものとして、もっと身近に受け取ってほしいと、森谷さんは願っています。
 

 
森谷:  私たちは、さまざまな縁でこの一瞬を生きているわけですね。だからその一つが欠けても、今現在生きている自分の一瞬はないわけですから、やはり生きとし生けるものというものは、いのちというものは等しく大事なんですね。勿論人類の等しさ大事も認識のうえに成り立っているわけですけど、仏教の場合は、もう少し幅を広げて、まあ蟻でもバイ菌でも、そこら辺の広さというものを求めていきますので、何かもう遙か遠くのところに何か目標があって、その目標さえも、ゴールさえも見えないように思うんですが、着実にその時というものは一歩一歩近づいていくんですね。何億年であろうと、何十億年であろうと、そういうふうなものは必ずきますのでね。だから今の一瞬というものを、すべて共に等しく、前に向いて進んでいこうというふうなことを、この経典から汲み取って頂ければいいかな、と思っております。
 
住田:  旅先で倒れて、まあ死がいつかくるかわからないという思いを持たれた森谷さんんでしたけれども、その後森谷さんの生―生きるということを続いてきたわけですよね。
 
森谷:  はい。ほんとに自分が生きているわけですけど、いろいろな条件があって、初めて自分が生きているんだ、という自覚を持てるわけでして、まあそうした条件からみたら、まさに生かされているわけですね。憎たらしい人も、ほんとに会いたくないような人もたくさんいるわけですけど、でもやはりそういう人たちが居て、初めて今自分がここにいるわけですのでね。今現在そういうふうに思っているんですけどね、また次の瞬間人間というのは変化してしまいますので、そこを戒めないといけないわけですね。
 
住田:  今日はどうもありがとうございました。
 
     これは、平成二十六年四月十三日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである