日常の仏法
 
                 光徳寺前住職 藤 田(ふじた)  徹 文(てつぶん)
一九四一年、大阪市生まれ。龍谷大学大学院(真宗学専攻)修了。浄土真宗本願寺派基幹運動本部事務室部長、教学本部伝道院部長、主任講師等を経て、備後教区光徳寺住職。本願寺派布教使。著書に「わたしの浄土真宗」「人となれ、仏となれ」「蓮如上人に聞く」など。
                 き き て  金 光  寿 郎
 
ナレーター:  広島県三原市(みはらし)。古くから九州・四国と近畿を結ぶ瀬戸内海沿いの海上交通の要衝の一つとして栄え、三原城の城下町として発展してきました。今日お訪ねする光徳寺(こうとくじ)のある三原市久井町(くいちよう)は、二○○五年の町村合併で三原市に編入されました。中心部から車で三十分ほど北へ行った標高三六○メートルの農村地帯です。光徳寺の前住職藤田徹文さんは、昭和十六年の生まれ。龍谷大学時代には、ラグビー部で活躍し、僧侶になってからは、基幹運動本部の事務室長、伝道院の部長や主任講師なども務めた方です。藤田さんは、五十数年にわたるその歩みの間に、日常生活に活力を与える仏教本来の力を体感されました。住職の仕事を息子さんに譲った今も、本来の仏教伝道に尽力しておられます。
 

 
金光:  今日は、「日常の仏法」というようなテーマにさせて頂いているんですが、と言いますのは、今の日本の人たちの言葉使いを聞いていますと、日常用語の中に、仏教の言葉がいっぱい入っているんですけれども、概ね本来の意味とは違っていたり、それから時には、ずれて反対の意味に使われたりすることもあるようですし、一般の人の仏教に対する考え方というと、お葬式の時とか、法事の時だけしか関係しないというような方が割に多いように思いますけれども、本来の仏法というのは、仏教ではなくて、教えているとなんか文字になって、きちんと決まっている動きのないような印象があるもんですから、それに対して、昔から使われていた仏法というのは、掴まえどころがなかなか難しいところもあるんですけれども、そのかわり生きて働いている活力のある教えが仏法の方にあるような気がしまして、こちらの藤田さんのお宅では、そういう本来の仏法の生き生きしたところをみなさんにお伝えするために、いろいろ活動なさっている、ということを伺ったもんですから、日常に生かす仏法のことを伺いたいと思ってお邪魔しているわけでございますが、そういうふうに仏教の言葉が違った意味に使われるという聞法は、お釈迦様が、「私は一生の間にこれしか言わなかった」というようなことをおっしゃって頂いておれば、非常に事は簡単なんですけれども、どうも相手に応じて自由にお話なされて、随分いろいろなことをおっしゃっているようですが、その辺はどういうふうにお考えでございましょうか。
 
藤田:  もともと確かに「仏法」「仏道」と言ったって、「仏教」という言葉そのものは新しいと思うんです。古い本に出てきますけどね、やっぱり法に目覚める。「仏」というのは、「ブッダ」で、目覚めた人ですからね。だから法に目覚めていく。その「法」が難しいですが、人間何かする時に、全部自分一人でものやっているわけじゃなしに、大きな力に支えられてやっているわけです。私、いつも言うんですが、たくさんの人に、「みなさん、今そこへ座っておられますけれども、どうして座っておられますか?」「いや、今日は、お話があるんで、聞かせて貰おうと来ました。大体この辺の席がいつも来やすいから座りました」と言うからね、「あなたの意志だけでここへ来て、ここへ座れますか?」と言うと、キョトンとするんですよ。そうでしょう、だって、みな自分の意志で、自分の足で、自分の身体で来たと思っているけどね、これ重力がなかったら全く初めから成り立たない。物事というのは、そういう意味で自分でやっているつもりだけれども、自分の動きを支えている大きな力なり、働きがある。それを「法」と言うているわけですね。だからいろんなものには、いろんな形で「法」があるけども、私自身がここに生きているのは、己自身で生きているんじゃなしに、私を生かしてくださる大きな働きなり力が働いている。それをお釈迦様は、「法」と言われたんですね。それに目覚めていこう。それが「仏法」ということになると思うんですね。そこのところをお釈迦様は、相手を見て説かれた。相手を見て、というのは、悪い意味じゃなしに、ほんとに相手の持ち味を見ながら説かれた。で、「待機説法(たいきせつぽう)」とこう言いますけれども。またそれを言い換えて、ちょうどお医者さまが、その人の持っている病に応じて薬を与えていく(応病与薬)ようにしながら、その人の悩みなり苦しみなり、抱えている問題を治していくような、そういう説き方をなさった。
 
金光:  相手が苦しんでいるのに応じて、あなたはこういう生き方をなさるといいじゃないかということになるわけですね。
 
藤田:  そうですね。
 
金光:  ただなかなか簡単に治らん病気もあるわけでありますし、人間の苦しみもいろいろ人によってあるわけですね。
 
藤田:  だから病気と言ったって、怪我をするのも病気やし、黴菌が入ってくるとか、癌のように細胞が異常になっていくとか、という病気もあるし、またそうじゃなしに、いろんな出来事に出会うて滅入ってしまうというかね、どうにもならなくなって、自分で自分をほんまに苦しみまで追い込んでいってみたり、そういう病気もあります。またお釈迦様は、もう一つ、どうしても治し難い病気があるというんですね。だから大きく分けると、三つあります。どうしても治し難いのは、己を知らない人は、結局何かあると、他人(ひと)が悪い、世の中が悪い。だから他人を恨み、世の中を呪い、そしてどうにもならなくなると、私なんて生きておったって仕方がないという、ここへいってしまうわけです。そういう病気がありますわね。それを「難治の三病」というておられるんです。
 
金光:  ここに書いて頂いていますが、「難治の病」ということですね。
 
藤田:  治り難い病。一番治り難いのは、結局ほんとのことが見えないために苦しんでいる、という。「ほんとのこと」というのは、「法」と「自分自身」が見えない。だから何で私がこんな目に遭うんだろうか。何で私はこういう状況に追い込まれるんだろうか。それだけで終わればいいけど、「彼奴が悪い、あれがどう」言うて人を恨んだり、そねんだり、ねたんだり、いろいろします。また世の中を呪うてきますからね。
 
金光:  自分を正しいと思って、自分のことはわかっていると思っていらっしゃる。それは難治ですか―なかなか治り難い病。大体自分のことはわかっていると思っている人が多いんじゃないでしょうか。
 
藤田:  それが問題なんです。
 
金光:  それが問題である、と。
 
藤田:  仏教で一番不幸は、自分を知らない、ということが、一番不幸だ。だから私たちは人のことはよう知っています。
 
金光:  そうですね。よく見えますね。
 
藤田:  身体の構造が、眼が全部外向いていますからね。一つ内向いていればいいんだけど、両方見ているから、他人(ひと)のことはよう見えるんですよ。自分のことは見えない。普通一番見えないのは、人間でいうと、ものを見る眼を自分で見えない。
 
金光:  これは見えませんね。でもこれは鏡を通して―自分の眼では見えませんわ。
 
藤田:  眼に近いところが見えない。ほんとは見る機能が一番見えない。そうするとやっぱり鏡というのは、どうしても要りますね。だからそういう大きな働きである法に照らして、自分というものを確認していくしかない、と。
 
金光:  それが難治の病に対する治療の方法であると。その「法」のことを書いてくださっている色紙があるんですが、これを拝見すると、
法とは、私を私として、存在せしめる「はたらき」(力)
 
ということである。ということに気が付くということは、自分で生きているつもりですね、大体。
 
藤田:  そうです。
 
金光:  ところが、それが私を私として存在せしめているのは、自分だけの力ではなかった、ということに気が付くかどうかという、
 
藤田:  「力がほとんどない」といわないかん。ただ支えてもろうている中で、自分なりの頂いた能力を出しておるだけで、だから支えてくださるものがなかったらまったくない。僕は一番感じたのは、前来てもろうた時は、両眼悪かったでしょう。
 
金光:  そうですね。眼がご不自由だとおっしゃいましたね。
 
藤田:  ほとんど見えなくなりました。手術をして視力回復した。力を回復したわけです。けども、なんぼ視力が回復したって、光がなかったら何にも見えない。
 
金光:  それはそうですね。おっしゃる通りですね。
 
藤田:  それを私たちは、普段光のお蔭で見ているなんて思ったことないんです。「この眼で見た。お前は何を言おうと、儂はこの目で見た」というて頑張るから、それでおかしゅうなるんで。「あ、お前も光の中で、お互い眼働かせてもろうて見たか知らんけれども、あんまり儂は見た、と言えない。見せてもろうた。見せてもろうたけど、お互いに見損ないしているかわからんから、もう一遍考えよう」とかなんとか言わないと、「儂はこの眼で見ている」という。そこで頑張ると収まりが付かなくなるんですね。だからみんな眼の力は光であるし、身体が地球上におるのも重力の力だし、もっというと、全体的にいうと、私が私としていたっているのは、数限りないもの、その数限りないものを―インドの言葉で「アミダ」というている―数限りないものが繋がって、私というものを支えてくれる。
 
金光:  その「法」の細かい説明が後に書いてあるわけですが、「無量」と書いて、カタカナで「アミダ」と仮名をふってくださっていますね。要するに量り知れないという。
 
藤田:  量り知れない。これは英語やなんかと同じ語源なんです。量るは「メーター」とかいうでしょう。
 
金光:  そうですね。メートルですね。
 
藤田:  それに「ア」を付けると「量れない」、
 
金光:  否定で、
 
藤田:  もう量りようのない。時間・空間量りようのないたくさんの縁起ですから、繋がりですわ。繋がりが目に見えない大きな力となって。だから仏教では、人間は、網の目の中の一つの結び目みたいなもんでね。他の網の目なかったら、一つだけ結び目があったって網にならないんですね。だからその縁を、私が生きておる因、
 
金光:  原因の因ですね。
 
藤田:  因に気付いておるのが「恩」ですわ。因を心に受け止めている。そういうもの。昔は「親の七光り」とか、
 
金光:  言いましたね。
 
藤田:  この「七光り」が、「ご恩」のことです、「恩」のことです。たくさんの「七」―私も調べたんです。「七」というのは何かいなと、「七」というのは、たくさんのご恩です。だから私たちはたくさん因に支えられておるというか、たくさんご恩に支えられておる、というてもいいし、たくさんの光に照らされ育まれて生きておる。それが私が私として生きておる法則なんです。そういうふうに生きる時に、たくさんの恩に生かされておるのは、一体何をしておるかと言ったら、自分の好きなことばっかしして言うておるという、そういう己の姿が多少見えてくる。親鸞聖人は、それを「自然(じねん)の法則」というておる。
 
金光:  「自然(しぜん)」と書いて「じねん」というわけですね。
 
藤田:  もともと「自然(じねん)」という字ですけれども、英語が入ってきて、「nature」をこの漢字当て嵌めて「しぜん」と読んだわけですね。これは夏目漱石さんが、「この翻訳は違う」とこういうているんですよ。
金光:  「自然(しぜん)」という字を当てたらいかんと。「自然(じねん)」という字を当てて「しぜん」と読んだら違ってくると。
 
藤田:  違うと、概念がね。「自然(じねん)」というのは、自ずから私を私としておるもの。「然」というは、然らしめておるもの、働きですわね。単にそこにある木じゃなしに、木は木としてありながら、他のものを生かしておる。今頃の人は、木は木、あれはあれ。みんな生物に見ているけど、世の中にあるのは、生物じゃなしに、私の目にはジッとしているように見えているけども、みんな大きな働きをしている。そういう中で私は生かされて生きておるんだ、と。
 
金光:  なかなか日常はそこまで気配りできませんね。俺がしっかりせんと、俺がなんとかしなきゃ、自分がしなきゃと思いますね。
 
藤田:  そういうものに支えられて持てるものを出し切ったらいいんですよ。だからそれはそれなりに私は身をもっていろんな力をもろうていますし、また自分で努力して付けた力もあるでしょうからね。それを出さなければいけません。
 
金光:  その「身」についても、また書いて頂いている。その「身」については、どういうふうに考えたらよろしいんでしょう。
 
藤田:  これは極端ですけど、「身」―儂らの身を「凡夫」という言い方をします。
 
金光:  肉体だけのことではないわけですね。
 
藤田:  いのちの全体を。『観無量寿経(かんむりようじゆきよう)』に出てくる言葉なんです。これは他に出てきません、『浄土三部経』ではね。簡単にいうと、『観無量寿経』は、三点挙げて、「心相羸劣(しんそうるいれつ)」難しい言葉ですけども、意志が弱い。人間はそんなこというて、立派なこというているけど、その状況でどうしても変わります。それを「自分で変わった」と言わないんです。「あれがああしたから、儂はこうなったんだ」とか、「世の中がこうなるのに、こうせんわけにいかんやないか」。絶対「変わった」と言いません。でもほんとは意志が弱いです。だから意志が何するかわからんです。どっちでもいきます。それが一点ですね。二点は、「未だ天眼(てんげん)を得ず」というてね、
 
金光:  天の眼ですね。
 
藤田:  だから見えておるようで、先を見てない。ぶつかってみないとわからない。世の中にはぶつかってもわからんのがおりますけどね。大体ぶっつかってみないとわからん。そして三つ目に、「遠観(えんかん)あたわず」と。遠くを見ることあたわず。「遠くを見ることあたわず」ということは、人間はものをよう見ている割に、結局自分の中のことだけ見ておる、と書いてあるんですが、親鸞聖人は、そういうのを受けながら、わかりやすく書いてくださったんです。「凡夫とはどういうものですか?」と言ったら、
 
「無明煩悩われらが身にみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで―臨終というのは亡くなる手前ですね、臨命終時(りんみようじゆうじ)と言ってね、人が亡くなったら臨終というでしょう。人が亡くなったのは、命終です。命が終わりますからね。その終わりに臨む時まで―とどまらず、きえず、たえず
(一念多念証文)
 
金光:  まあたくさん挙げられましたね。みな考えてみれば当たりますね。欲も多く、怒り腹立ち、そねみ、ねたむ心、多くひまなくして臨終の一念に至るまで止まらず。消えず絶えず。いつまで経っても煩悩の塊であります、と。
 
藤田:  それを私らは、どう受け止めるかというたら、「それが人間や」と。「儂だけやない。みんなもそうや」というて、それをどっかで自己肯定するわけです。
 
金光:  開き直ったらちょっとおかしなことになりますけど。
 
藤田:  人間いつでもなんとなく自分を肯定しておかんと生きれないんですよね。儂はこれでようやっている方や、と。儂もこれで頑張っておる方や。儂もつまらんか知らんけども、あれよりましやとか、自己肯定しながら、ほんとにそうだろうかと。やっぱり恥ずかしいんやないか、悲しいんやないかな、ということに目が覚めないと、己に目が覚めたと言いませんわね。
 
金光:  その最後の恥ずかしい、悲しいと身を厭うという声が出てこないと、本当の姿が見えていないということでしょうね。
 
藤田:  そうですね。
 
金光:  今のようなお言葉を聞きましても、最初に「難治の病」治すのが難しい病だという言葉が出ましたけれども、自分の煩悩が見えてくるというのは、これは大変なことだと思うんですが、その自分の煩悩が見えてくると、自分というものと、それからそれまでの自分と、見えてからの自分というものの見方というのは、当然変わってくるわけでございましょ。どういうふうに変わってくるんでしょうか。
 
藤田:  今までは、ズーッとなんやかんや言いながら、自分で正当化したり、理屈付けて、自分を正しいという、それに終始しております。だから自分が正しいということは、いつでも誰かが悪いわけですね。そういう、見えないからね。私は正しい、私は問題ない、私はこうやった、私はどうやった、と。それが上手くいかないということは、あれが悪いとか、これが問題だと。それが上手く解決しない、あれがなかなかわからないと言って、人を責めるばっかしでね。反対に、あ、そうや、自分もつまらないんやということになってきたら、相手を許すこともできるし、またもっと言うと、考えたら、儂がおかしかったんやのに、よう辛抱してくれたとか、よう相手は私のようなものを大事にしてくれたなとか、見方が変わってくるわけですね。
 
金光:  その辺の関係を書いて頂いていますので、それを見ながらもう少し説明して頂きましょうか。
 
藤田:  初めから言うと、「自」というのは「私」。「私」というのがあるということは、私以外の人やらものがあるということですね。ここで私だけで、私がない。だからもっと言うと、他の人がおられる、誰々がおられるから私があると。この「自」というのは、自分ということです。自分がここにあるということは、私以外の人やらもの―「他」が、だから逆に言うと、他があって初めて私があると。だからここ切れないんですよね。切れないのを私たちは、都合のいい時は利用し、都合のいい時は便利道具にして、都合が悪いと他人だ、関係ない。酷い時になったら、兄弟も他人になっとるし、夫婦も他人になったり、大事な人もみな他人にしてしまうわけですね。そういう問題があります。次は、そうして他人にしておいて、他を「非」―おかしいと。他がおかしいという時は、自分がいい―知らん間に、これは無意識ですね。また「他人が悪い」と言った時には、「自分は是」なんですね。けども、自分の非なるものが見えた時に、他が是になりますから、善い人に囲まれているなとか、善い人に支えられておるな。また他人が善い人だなと見えたり、己って悪いやつだなとこうなる。だから自分が善いという時には、他人が悪いという。そういう非常に得手勝手な問題ですわね。私もこういうのがあって、「それはちょっと酷いよ」と言うたんは、四十五、六(歳)の相手になかなか田舎でしょ。お嫁さんが見えませんわ。ばあちゃんにしたら、息子さんが、「できたら都会へ来てくれ、と。仕事もあるし、家も建てるから」というけどね、「長年住んだ田舎離れたくない」と頑張ったわけです。息子さんが折れて帰って来た。けども、縁がないからね、四十半ばになっても一人ですね。ばあちゃん、年取ってくるわ、息子はいつまで経っても一人で、もの凄く悩んだんですね。でもどういうわけか善いご縁があったんです。ばあちゃん、喜びましてね。「どうしたことでしょうと。なんであんないい嫁が来てくれたんか」と。そのばあちゃんには、息子の上に娘がおるわけです。「あの娘なんて年に一遍も覗かんと。だから娘以上の者が来たから、儂はほんとに喜んでおる」ってね。人に会うと言うて歩いた。それが何年か経ってから、なんかあったんでしょうね、お嫁さんと。何と言うたかいうと、「先生、一軒の家も、他人が入ると難しいもんです」。
 
金光:  他人になりましたか。
 
藤田:  私はわかったけども、「泥棒でも入ったんですか?」いうたら、「泥棒じゃありませんがな。わかりませんか?」と。私はようわかっているんです。人間これほど極端な、娘以上や我が子以上やと言うたのに、一つ間違うたら、他人やったというでしょう。だから人間というのは、いい時だけ、これは利用するもんであって、人と見ていない。そしてまた何かあると、これが悪い、と。他を非で、「これが悪いからこうなった。彼がつまらんからこうなった」と言いながら、自分は、儂は善い方にいっている、正しいと。これは善悪でもないですね。何かがあったら、「彼奴がわるい。世の中が悪い」。ということは、儂を善いと。お互い善いところで座り込んでしまうからね。だから善人ばっかしが集まると喧嘩すると。昔からそういう話があるんですよね。有名な話ですが、隣同士に住んでおって、同じような家族構成なのに、隣がしょっちゅう喧嘩するわけです。ところが隣の家から喧嘩声が聞こえん。あるとき主人がたまりかねて聞きに行くわけですね。「同じような家族構成で、収入も変わるわけでもない、同じようなものなのに、お宅はどうして喧嘩せんのかと。家は喧嘩が絶えん」と言う。その時に相手の主人が、「あなたの家は善人ばかりですからね」と言った。「私のところはお粗末な者ばっかりだからね、喧嘩のしようがない」と。言われた時に、なかなかそれがまだようわかたなかった。ところが何日か経って、喧嘩せん家が朝から大騒ぎしておるんですよ。珍しいな。喧嘩せん家が何を、と思って見たら、昔だから飼っておった牛がおらなくなった、という。それを息子が、「儂が牛連れて帰る時に、なんか用があったもんだからね―きちっと牛を棒で止めるでしょう―留めなかった。それが悪かった。すまんと。儂の責任や」と。それならお嫁さんが、「いいえ、私が水を汲みに行くために、牛小屋の前を通った時に、あ、棒が外れているなと。これじゃいかんなと思ったのを、物持っているし、忙しいからそのままにしたと。私が悪かった」と。爺ちゃんが、「儂は夜中にトイレに行った時に、それ気付いておったんやけども、寒いやら何やらでトイレへ入って出てしまった。それが悪かった」。お互いに、「儂が悪い、儂が悪い」と言いながら手分けして捜しておった。「悪い悪い」と言って騒いでおったわけです。だから「儂のところは、つまらんものばっかりおるから喧嘩しようがない。お宅は善人ばっかし、善い人ばっかりだから喧嘩する」と。この世の中みなそうだと思うんですよ。戦争であろうと、何であろうと、争いごとは、自分がお粗末やと思えば喧嘩しません。
 
金光:  戦争はいつも「正義の戦い」ということで、両方とも「正義だ」と言っていますから。
 
藤田:  その正義ならいいけど、聖戦ですから清らかな。だからもう一遍お互い自分が見えないからそうなるんで、いつでも「己が悪い悪い」と言っていては生きられんやろうからね。けどもやっぱり時には己を見つめて、いつでも儂がいいわけじゃないという、そういうものが見えないと。人間は見えたって、すぐまた次の段階でそういうのが忘れますからね。忘れるから、また仏法に会うて、あ、そうやったな、と気付き、考え直し、また考え直したもとですぐ忘れるんですね、人間は。一遍聞いたからもう絶対ということはないんでね。だから教えを聞き続けるとか、仏法に会い続ける。だからお同行なんて、念仏喜んだ人は死ぬまで聞いていますね。学校の勉強みたいに、もう終わりました、卒業というわけじゃないんで、人間の勉強は、そういうふうに生きている間、同じことを繰り返しながら、気づきながら、「違うた、違うた」言いながら生きている。何で生きているんやって、生かされておると。違うたものが生かされているという、そういう喜びですわね。
 
金光:  そこのところが見えるか見えないかということが大きな問題で、だから例の「八正道(はつしようどう)」八つの正しい道の一番最初に正しく見る(正見(しようけん))という言葉が出ておりますけれども、その見るということについては、色紙に書いてくださっていますので、それを拝見しながらまた説明して頂きましょう。
 
藤田:  「見る」という、目は―視覚は不幸に不自由な方もあるけども―見る。見るだけに終わってしまうんじゃなしに、見ることによって見えてくるものがある。だから私なんかは初めここに来た時に―五十年も経ちますけどね―来た時に、毎日朝起きたら、稲を見ているお爺さんがいたんですね。お爺さんが同じように見ているわけです。僕らにしたら毎日毎日見んでもと思うけど、稲を見ていると、稲がものをいうのが聞こえてくるという。稲の思いが見えてくるというんです。もう少し水が欲しいと。だから私なんか見る目だけで終わるけど、ほんとは「見る目」も大事だけれど、ものが「見える目」にならないと。もっと言うたら目がご不自由になられた方がありまして、その人がお話聞きながら―私は目の不自由な方がおられるなと気付いたから、黒板使わなかったんです。そうすると、「先生、儂のことを気にして黒板使わんのなら使うてくれ」というから、気にしながら、黒板使うた。そうすると、後で質問するんですよ。「後から二番目に書かれたあの言葉がちょっとわかり難かったから、もう一遍説明してくれ」と。見えていないのにね。そうやけど、その方は「見る目」を失ったけども、「見える目」を逆に得られたんじゃないかと。だから声で、また感覚で見えるんですね。だから僕らなんかも話しに行くと、顔見ただけで―目が見えないんだから見える筈ないのにね―「今日は元気ですね」とか、「今日はちょっとなんか悪いんですか?」と、ビックリすることがあるんですよね。そういう意味で、目は見るのが仕事だけども、見ると同時に見える目にまでならないといかん。それがやっぱり気付くという。
 
金光:  禅の方で、「眼聴耳視(げんちようじし)」と言いますか、「眼で聴き、耳で視(み)る」という言葉があるようですけれども、今の方なんかはちゃんと耳で視(み)ていらっしゃるんですね。
 
藤田:  ちゃんと見えている。聞く方もそうですわね。聞く耳と、聞こえる耳と。これの方が説明し易いのは、私自身の体験ですが、私の母親も口喧しいというか、いろんなことを言いました。心配だから言うたんだろうと思うんですね。私は、母親の声を行く耳があるから聞きます。聞こえるたんびに何を思ったかというと、「あ、またか」って。「何遍言うのや」とかね、「儂は一遍言えばわかるわい」とか思っていました。
 
金光:  よくわかります、それは。
 
藤田:  親が亡くなってからですけどね、親のことを思い出しながら、あ、そうや、あの時親がこういうことが言いたかったんやなとか、こういう思いやったんやなと。声はないけど、聞こえてくるんですね。すると、すまんことしたなとか、申し訳なかったなと、そういうのでいっぱいですわ。だから私は、「母の声を聞く時、またかと思った。母の声が聞こえた時、涙がでた。申し訳なさとありがたさで」そういう詩になるかなんか創ってね。味会うて本に書こうと思っているんですけどね。人間というのは、聞く耳すら持たん人もおりますけどね。せめて聞く耳はないといかん。聞くことによって、聞こえる―特に聞こえるのは、ほんとは耳で聞こえるんじゃないんですね。聞こえるのは身で聞こえるんです。聞くのは耳という器官だけで聞くんです。聞こえる時は、耳じゃなしに身に聞こえるんです。だから昔の先輩方も、お話を聞く時に、善い話であった、悪い話であった、面白い話だった、悲しかった。それは聞く耳なんですね。昔の人たちは、「今日の話は身に応えた」「今日の話は身に沁みた」「今日は話は身につまされた」。これはみな身で聞こえているんですよ。だから聞く耳だけで終わると、なんか足らんと思うんですね。それが聞こえる耳になる。それが目覚めなんです。
 
金光:  そういうお話伺っていますと、聞こえるようになったり、見えるようになった人の方が、生きている世界が広くなっていますね。
 
藤田:  それはそうですね。
 
金光:  前の、見る時、聞く立場だと、切り捨ててしまっていますから、お母さんの注意も全部切り捨ててしまっている。
 
藤田:  聞いた、見ただけで終わりですね。
 
金光:  それが聞こえてくるともっと広い世界が見えてくる。やっぱり仏法の場合は、そういうところをいろいろな場面で相手に応じて話してくださり、それによっていわば病を治してくださるという、そういうことになると思うんですが、病を治す方法にもいろいろあるようでございますが、それもこう色紙に書いてくださっていますので、ちょっとその説明をして頂きましょう。
藤田:  えらい簡略に書いてあるわけですが、病を治す「対治(たいじ)」「同治(ぞうじ)」「聞治(もんじ)」とあるんですね。
 
金光:  聞き慣れない言葉もあるようですけど、どういう意味でしょうか?
 
藤田:  「聞治」というのは、これは『涅槃経』というお経の中に出てきます。普通はお医者さんの場合は、「対治」が中心でした。この頃盛んに言われるのが「同治」、それは「寄り添う」とか、「癒やす」とか、「傾聴」という言葉も、あれはまあほとんど「同治」です。
 
金光:  カウンセリングというのは、相手の人の話をずっと聞くという立場が多いですが、それは「同治」なんですね。お医者さんが向かい合って、傷を治したり、薬を渡したりと、
 
藤田:  薬を渡したり、それと向かい合うわけですね。
 
金光:  向かい会うのと同じ立場に立って話を聞くと、
 
藤田:  時には、切ったり、いろいろなことせんならん。
 
金光:  肉体や傷の場合はですね。
 
藤田:  貼ったりいろんな。こっち(同治)の場合も、薬品は多少用いますわね、精神安定の。用いるけども、どっちか言うと、それ以上大事なことは、相手と同じ立場に立つということにおいて、その人の病を少しでも治すと。そこまでは大体わかるんですがね、それで治らん病気があるわけです。それは何かというたら、人を恨んだり、呪うたりする病。そういう病は、やっぱり正しい法が聞こえるということ、聞くことによって聞こえることによって治っていくわけです。
 
金光:  「聞く」じゃなくて、「聞こえてくる」と治ってくると。
 
藤田:  先ず聞かないけませんけどね。「聞いて、聞こえて、治ってくる」という、そういう病気があると思うんです。これが仏教の問題ですけどね。なかなかそこまでいきませんわね。
 
金光:  この「難治の機」という「機」というのは?
 
藤田:  「機」というのは、「人間のこと」を「機」と仏教でいうんです。
 
金光:  治しにくい人間の場合に、それをどう治すかというと、仏法を聞くことによって、
 
藤田:  仏法を聞くことによって自分に目覚めることによって治るわけです。
 
金光:  「目覚める」ということは、「無明・煩悩の多い人間だったな」というところにいくわけですね。
 
藤田:  お粗末なもんやなと。そうしないと、世の中にはずっと人を恨み続けたり、呪い続けたり、また世の中を呪うたり恨んだり、これなかなか治らないんですよ。いろいろみんなが、「そうやない、こうやで」というと、かえって反発するからね。そういうことは、「ほんとやったな。確かに世の中もおかしいかも知らんけども、儂もおかしかったな」ということに気付いてこないと、それが「聞治」という。だからこの(同治)真ん中辺で、医学と宗教が分かれるんだろうと思う。「同治」の場合は、医学も関わるし、宗教も関わります。こっち(対治)は完全に医学の方ですね。こっち(聞治)は、あくまでも宗教の問題だろうと思います、そういうような。これは「五逆(ごぎやく)・謗法(ほうぼう)」と書いてあるのは、そういう自分が知らないと、一番恨みやすいというか、一番悪うし易いのは親なんですよね。親がつまらんから、親がどうしてくれたから、どうせんからとかね、「五逆」の一番は、殊更に父を殺す、殊更に母を殺す。そうなってくるでしょう。「殊更に」というのは、「殺す」というのは、何も刃物を持って殺すわけじゃなしに、親の尊厳なり、そういう尊さを打ち消していくのを殺します。そういうのも一つの病気です、そういうことをやるのはね。そういう問題が「聞治」の問題なんです。
 
金光:  お話を伺っていますと、自分では無意識のうちに、親のいうことに逆らったり、自分で自分の都合を中心にいろいろなことを考えてきているわけですけれども、それが仏法を聞く、聴聞することによって、そこのところが目覚めるというか、そこから違う世界に開けてくるという、それはどういうところにあるんでしょうか。次も用意して頂いておりますので色紙を見ながら。
 
藤田:  仏教は智慧の教えですからね。「智慧」というのは簡単にいうと「目覚め」です。何に目覚めるかというたら、私を生かしきってくださる働きである法に目覚めます。法に目覚めることによって、今ここに生かされておるということの喜びがわきます。私たちはなかなか喜びと言ったって、生かされておる喜びはあまり感じません。生きているのは当たり前。何か特別なことをして貰うとか、
 
金光:  なんか欲しいと思っているものを貰えたら喜ぶとか、そんなことはありますけれども。
 
藤田:  なんか自分の思いが叶うと喜びますけど、少なくとも私が私として、こうして今現に生きておるという、そのことが喜びですわ。その喜びをみんなに分け与えていこうと。喜びというのは黙っていられないんですね。面白い話があるんですね、私、大阪です、もともと生まれはね。吉本新喜劇の漫才ブームの頃ですが、ばあちゃん同士で誘い合うて吉本へ行くわけです。行くと、みんなそれを暫く地域で話すでしょ。店番頼まれておるばあちゃんがおりまして、若い者が勤めて、で、店の番はばあちゃんがしている。行きとうてかなわんのですよね。そうやけど、どうしても出れないでしょう。このばあちゃんがね、嘘を付くわけです。「この度老人会の役員になって、どうしても出んならん。出んならんから、この日は店番堪忍してくれ」と。嫁が仕事休んで店番する。実はそういうて吉本新喜劇を見に行った。面白かったんで、人間ですからね、面白いとか楽しいとか嬉しいことがあったら言いとうてかなわんのですよね。言えないでしょ。ところが次の週か、その次の週に、自分の見てきたのがテレビでやっていたわけです。するとおばあちゃん、それを見ながら「次にこうするよ」と、一言言ってしまった。若い人が、「ばあちゃん、何でそれ知っておるん」と。人間そういうもので、嬉しい喜びは人に伝え分かち合える。それが宗教でいうと、伝導になったり、布教になったりするわけです。そういう面と同時に、法に生かされておりながら、我が身というのは本当にどうなっているかと言ったら、自分のことしか考えていないと。お恥ずかしいもんだという。その恥ずかしいという面を知った時に、これではいけないな、こんなことをしておっちゃいかんな。「身をいとう、世をいとう」という形で自分自身の人生を考えていくことになっていく。だから人間は、法に目覚めると喜び、それの喜びを分かち合おうとするし、恥ずかしいとわかったら、このままでいかん、なんとかしようと、自分なりに改めていこうという、そういう行動になると思うんです。それが仏教だと思います。だから特に私は生き方で大事なこの慚愧(ざんぎ)という問題です。これが抜けると、人間は常に他人(ひと)を責め続けながら、他人(ひと)を呪いながらとか、世の中呪いながら、自分でもの凄く辛い惨めな人生を生きると思いますね。『涅槃経』には、
 
二つの白法あり。よく衆生を救く。一つには慙、二つには愧なり。慙は自ら罪を作らず。愧は他を教えて作さしめず。慙は内に自ら羞恥す。愧は発露して人に向かう。慙は人に羞ず。愧は天に羞ず。これを慙愧と名づく。
(これは顕浄土真実教行証文類序に引用されている涅槃経の一節です)
 
慚愧(ざんぎ)によって人間はほんとに救われていくんだと。
 
金光:  「慚(ざん)(慙)」と「愧(ぎ)」も両方とも難しい字ですけれども、「慚(ざん)(慙)」と「愧」は、意味は多少違うんでしょうか。
 
藤田:  いろいろ書いてあるんです。内に恥じるとか、外にはずるとか、天にはず、地にはずとか、そういうふうに分けてあるんですけどね。どっちにしても、
 
金光:  我が身がどっちへ向かっても恥ずかしいもんだ、ということになるわけですね。
 
藤田:  外向いても、内向いても恥ずかしい、と。人に向いても恥ずかしいと。そういう恥ずかしさ、なかなか続かないんですね。私ら自分の姿、気付くと同時に、またすぐ忘れてしまうからね。だから常に法に照らして我が身を見つめながら「慚愧」。「慚愧」思う時だけでも少しでも改めていこう、少しでも改めていこうという、いのちの歩みですよね。
 
金光:  そのことに気が付くということは、それで自覚するというか、目が目覚める。一度目が覚めたら、もう寝ないで、そのままされっぱなしということではなくて、人間ではそうはいかんですか。
 
藤田:  いかんですね。
 
金光:  その上の左の方にある「さとり(修行による)」と「信心(仏力による)」というのがありますけども、目が覚めた、自覚できたというのは一種のそれは悟りであります、ということも言えるんじゃないかと思いますが。
 
藤田:  だからこれを自らが自らに目覚めたり、法に目覚めるのを悟りとこういう。お釈迦様のように、ああしてご修行なさって、自ら法に目覚め、身に目覚められたのを悟りというている。それに対して「信心」というのは、自分ではなかなかやれないけども、そういう法の大きな働きに照らされながら、自分に目覚めていく、というのを「信心」というている。中身は同じです。目覚め方が、自分自身の努力によって、修行によって目覚めたら「悟った」と言います。もの凄く苦労なさって立派なものです。信心の場合は、聞かしてもらう。聞いていく中で仏様の教えに出会い、法の教えに出会うて、それによって気付いていく。目覚めるという。
 
金光:  そうしますと、「慚愧」要するに外に向かっても内に向かっても恥ずかしいという、そういう気持ちが出た時には、俺が俺がとか、自分がどうこうというのは、これは恥ずかしさによって消えてしまいますね。
 
藤田:  はい。
 
金光:  そうすると、外から周りからのいろんな縁によって、自分が生かされているということにも目が覚めて、
 
藤田:  それ同時ですからね。「慙愧」があって、「歓喜」があるんでね。
 
金光:  そうなると、それは自分が気が付いたことには間違いないんですけれども、自分の力というよりも、お働きによって気付かせて頂いたという感じが強くなるということでしょうか。
 
藤田:  だから「気付かせて頂いた」というのは「信心」の話、「気付いた」と言ったら「悟り」の話。だけど、人間というのは、我と自我と、これが鬩ぎ合いしていますからね、常に。
 
金光:  さっきの先ほど紹介した中には、臨終の一念に至るまで、
 
藤田:  出てくるんですよね。綺麗さっぱり消えればいいけど。
 
金光:  ただその時出てきても、一度そういう自覚、目覚めた人の場合は、処理の仕方が変わってきますでしょうね、以前よりは。
 
藤田:  一回気付いたら、また気付きます。そのことに気付くことのない人は、最後まで突っ走ります。一度気付いたら出てくるけども、あ、違うた。
 
金光:  ますます、俺はダメな人間、またこんなこともう一遍みたいな、そういうところにいくわけでしょうね。
 
藤田:  「あ、わかった」と言った筈なのに、こんなことやっているという。ほんとにつまらんなという、そういうことの繰り返しです。だからなかなか卒業というのはないんですよね。
 
金光:  親鸞聖人の有名なお言葉で、「地獄は一定すみかぞかし」地獄へ行くのは決まっている、というような言葉が、ああいう方から出るというのは、一体どういうことかと思っていたんですけれども、ああいう親鸞聖人のような方でも、そういう煩悩から綺麗に断ち切られたということではない、ということなんですね。
 
藤田:  そういうものを抱えておりますからね。だから救われようのない私という。救われようのない私だ、と言いながら、救われていることを喜んで生きているんですね。
 
金光:  そうしますと、またさっきの目とか耳の話になりますけれども、やっぱり正しくあるべき、ある筈の全体の姿が、ありのままに見えるかどうかというのが、やっぱり出発点ということになるわけですね。だから「八正道」の中で「正見」というのが、一番最初にあるということで、
 
藤田:  ものがほんとの意味で見えておるというか、聞こえておるということがないと、何をしておっても違(ちご)うておるんですよね。一番大事なのは、「聞く」のは身で聞くという。身で聞くためには、自分の今抱えておる問題を―みんなに見せんでもいいけど―自分の抱えている問題をもって話を聞いていくと辛いんですよ、人間は。何が辛いかというと、自分のことを言われていると思ったら一番辛いんです。身で聞いていく時に、もの凄くなんか自分に嫌み言われているみたいに思ってみたり、自分を責められているみたいに思いますから辛いんですよね。頭で聞いたり、人の上で聞くのはもの凄く楽なんです。だから自分というものが問題にならない話は聞きやすいです。漫才にしても、落語にしてもね。仏法は聞きにくいのは、身の問題だからです。でもそれを超えていかないといかんと思うんですよ。親鸞聖人に、
 
聞思(もんし)して遅慮(ちりよ)することなかれ
 
という言葉があるんです。
 
金光:  聞いて思って、「遅慮(ちりよ)」は?
 
藤田:  「遅慮(ちりよ)」は遅れないように。それはどういうことかといったら、聞いたことをその場でいかなんだら、聞いたことを後でもう一遍自分の生活に照らすか、自分の身に合わすとか、自分の生活のうえで味わう。そのことの繰り返し、ようやりなさいと。聞いた話は聞いた話、生活は生活としておいたら、永遠に知識で終わります。だからその場で身で聞くのが一番いいけども、その場で聞けなかったら、聞いた話をもって帰って、もう一遍自分で一人で、夜中であろうと、布団の中で、じっと味わって、あれは儂のことを言われたんだな、ああいうことを言われると、儂もほんとにそうやったなという。そういうものが繰り返しの中で身につくというか、身に沁みるというか、我が身のものになっていく。我が身のものになっていかないと、仏法はただの知識で終わりますね。
 
金光:  自分の問題として、それを聞いて考えてみると、自分の生傷に自分で触れていくということに、あんまりやりたくないことのようですけれども、やっぱりそこは通らないといかんということなんでしょうか。
 
藤田:  やっぱり自分が敗れるというか、自分が敗れないと、結局自分の殻の中におるだけです。だから聞いた話も殻を補強し、やったこと全部補強している、我を。だからそういう意味では、悲しいけども、一遍破らないかん。自分でなかなか自分破れませんから、突っついてもろうたり、話によって突っついてもろうたりしながら破ってもらうという。一皮剥けるというか、そういうことがないと救いにならないと思うんです。
 
金光:  そこのところを超えて自分の問題が、あ、こういうことだったな。自分はこういう人間だったな、ということに気が付くと、
 
藤田:  楽になります。破れたらね。頑張らなくても生かされておったんだと。だからそれでいいとあぐらをかいたらいかんのでね。頑張らなくても生かされておるんだから、そこでもうちょっと力抜いて生きようと。そうすると大分楽になります。
 
金光:  そういうお話をよくいろいろな方から聞かせて頂くんですけれども、実際問題として自分の問題を、そういうふうに解決した経験がないと、食べたことのないご馳走の話を聞いているような感じがしまして、でもやっぱり確かにそういう世界があるだろうなというふうに思えるわけですけれども、まあそういう話を聞かせて頂く度に、何か我が身に問題があって困ったなと思った時も、そこでもうへこたれないで、そこの問題というのは、自分をもう一度自分自身を知るためというか、自分の生きている姿がどうかというのを知るいいチャンスである、というふうに受け取ることができるんじゃないか、と思いながら伺いました。そういうことでこれから生活の中で味合わせて頂きたいと思います。どうもありがとうございました。
 
     これは、平成二十六年四月六日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである