筑豊に隣人≠りて
 
              伝道師(前日本キリスト教団福吉伝道所牧師) 犬 養(いぬかい)  光 博(みつひろ)
一九三九年大阪生まれ。同志社大学大学院修了。一九六一年に「筑豊の子どもを守る会」という学生キャラバン隊の一員として閉山炭鉱地区で子どもたちと過ごしたことをきっかけに一九六五年から福吉地区の閉山住宅に住み始め、今年の三月末まで四六年間日本キリスト教団福吉伝道所の牧師を務める。この間、在日コリアンの支援や、カネミ油症の問題にもかかわる。著書に『弔旗―筑豊の一隅から』『筑豊に生きて』ほか
 
ナレーター:  三月の第五日曜日。長崎県松浦市(まつうらし)にある自宅から片道およそ三十分をかけ、小さな伝道所に向かう人がいました。犬養光博さん。常駐している牧師がいないこの伝道所で、数少ない信者と共に礼拝を行っています。犬養さんが、長崎県に来たのは三年前のことでした。それまでの半世紀の間、犬養さんには伝道師としての人生を刻んだ心の故郷(ふるさと)があります。一九六五年、大阪に生まれ育った犬養さんは、自らの手で福岡県の筑豊(ちくほう)にあった炭鉱の集落に伝道所を開きました。日本が東京オリンピックに湧き、高度経済成長に直走っていた頃、筑豊の炭鉱は、石油産業に取って代わられ、次々と閉山していきます。犬養さんが設けた伝道所は、その最末端に置かれた零細炭鉱の谷間にありました。福吉(ふくよし)伝道所。およそ九十世帯が暮らす福吉では、八割が生活保護を受け、失業と貧困に喘(あえ)いでいました。犬養さんは、その後四十六年間、人々と生活を共にしました。今は息子夫婦が暮らす長崎に移り住むことになった犬養さん。改めて自分と筑豊の長い関わりの意味を問い直しています。家の倉庫に、犬養さんが、初めて筑豊を訪ねた時の写真が残されていました。福吉に伝道所を開く四年前、一九六一年に撮影された筑豊です。同志社大学神学部の学生だった犬養さんは、筑豊を訪ねる前、日米安保条約に反対する学生運動に参加。しかし当時の岸政権による強行採決で条約が延長されると、挫折感を抱き、新たな道を見出せずにいました。そんな中、同じキリスト教徒の友人に誘われ、貧しい子どもたちを支える学生の筑豊キャラバンに加わります。それが犬養さんと筑豊との最初の出会いになりました。
 
犬養:  僕は、筑豊に初めて関わるのが一九六一年の夏休みですけど、その学生が親から仕送りして貰ったり、ほんとに人のお金でというか、それでデモをしたりなんかしても、そんなに国は変わらなんと。「人が行って何かせんといかんのじゃないか」というんで、一番閑な学生が、「じゃ、とにかく夏休みだけでも行こう」というんでみんなで出掛ける。「犬養、それに参加せんか」というふうに呼び掛けられて、それがだから筑豊に触れた最初ですね。これは僕も行ってやっとわかったことですけども、「炭鉱」というふうに言うと、なんか特に大きな炭鉱みたいなイメージするんですけど、大手があって、それから中小炭鉱があって、それから零細炭鉱があって、需要がどんどん少なくなってくると炭鉱の数が減って、小さいところは潰されていって、大手だけ残って、なんかいつも小炭鉱、零細炭鉱というのは、安全弁みたいにされて、未払い賃金はあるわ、何はあるわというのを、全然払って貰わないでどうするかみたいなことが、そんな小さい炭鉱がいっぱいあったんですよね。子どもたちや婦人たちが、ボタ(炭鉱で、選炭した後に残る岩石や粗悪な石炭)山の裾の方に行って、まだ燃える炭を選り出して、それでそれを売って生活費にあてている。だから「守らんといかん」「筑豊の子どもを守らんといかん」という形で来たけども、どっこいもの凄い笑顔をもった子どもたちが、ほんとに生き生きとしていました。笑いは絶えんしですね、腹は空かしていましたけど。ほんとに食べ物がないと聞いていたもんですから、コッペパンを作って貰って、来た子どもたちにみんなに配ったわけですよね。今から思えば、ほんとにみんなお腹空かしている筈なのに、半分ぐらい子どもが食べなかって、「何でや、食べようや」というのに、「家へ帰ってから食べる」と言って。それで後でわかったことですけど、家に帰ればみんなお腹減らしていて、とにかく貰うたものはみんなで分けて食べるみたいなことが、もうそれは当たり前のことやみたいな形でやっていたんですよね。夏休みで僕らが作って来た貧しい紙芝居とか、いろんなゲームすると言ったら、子どもたちがわんさ集まって、ずらっと子どもたちがほんとにこんな食い入るような顔をしてね。その子どもたちのエネルギーというか、笑顔というか、力というか、それがやっぱり僕は、筑豊の大きなショックの一つでした。もう一つは、学生運動との絡みですけど、僕が考えていた日本の中に、筑豊のこの現実がなかったというのが、僕は凄いショックでした。つまり僕が考えた日本というのは、大阪で生まれて、大阪で育った―貧しい生活をしていたし、親父が結核で大変だったので、ほんとに貧しい生活してきましたから、でもその延長。小さい炭鉱の人たちのことが見えないし、わからないですね。これから自分がどんな生活をするにしても、ほんとにこの現実から出発せんと、ものが見えなくなるんやないかなという。その二つのことがやっぱりキャラバン隊に出掛けて筑豊に接した時に一番大きく響いたことだったと思いますね。
 
ナレーター:  犬養さんの筑豊での歩みの原点を記録したアルバム。炭鉱の町の暮らしや子どもたちの表情を捉えた写真の中に、聖書の一節を題材に描かれた絵が、一枚貼り込まれています。「ルカによる福音書」にある「善きサマリア人」という名で知られる物語です。「隣人を愛せ」と説いたイエス・キリストは、隣人とは誰かを問われ、喩え話を始めます。ある人が、旅の途中、強盗に服を剥ぎ取られ、瀕死の状態で倒れていました。その道にやって来た祭司とレビ人は、旅人の姿を見ると離れ、通り過ぎて行きます。しかしただ一人、当時のユダヤ人から蔑(さげす)まれていたサマリア人のみが旅人を労り、宿まで運んで介抱し、宿代も支払いました。イエスは、この話を終わると、こう問いかけます。「あなたは、この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」「行って、あなたも同じようにしなさい」犬養さんは、このイエスの言葉を、初めて筑豊を訪ねて以来、心に刻んできました。キャラバンの旅から大学に帰った犬養さんは、一年間の休学届けを出し、友人と二人で再び筑豊に戻ります。福吉の公民館に住み込み、日々人々と接しました。
 
犬養:  あのルカ伝の物語というのは、ほんとに今も自分の大きなテーマなんですけど、僕たちが学生で初めて筑豊に来た時も、ここにこんなに貧しい、こんなに苦しんでいる人たちがいる。その人たちにどういうふうに接することができるか。日本全体が経済成長でどんどん右上がりで、誰もというか、ほとんどの人がそれを通り過ぎていくというか、無関心な中で、気付いた人間がほんとに奉仕しなければならないという。それが一番強かったと。そういうものになれればいいなというのが、初期の頃というか、一生懸命奉仕をし、そういうことを通して「善きサマリア人の業(わざ)」というのはできるんじゃないかというふうに思っていましたね。
 
ナレーター:  隣人になるための奉仕。犬養さんたちは、全国に寄付を募り、福吉に養鶏場を立ち上げました。職を転々とする青年たちの自立を助けようとしたのです。炭鉱住宅の廃材を再利用し、手作りで始めた養鶏場。そんな中、犬養さんは、生涯の友を得てゆきます。子どもの頃から泥にまみれて炭鉱で働いてきた二人。余所者だった犬養さんを受け入れて理解し、地元の人々との橋渡しになったクンちゃん―大塚勳次(おおつかくんじ)さんとムッちゃん―川田六吉(かわたむつよし)さんです。彼らと汗を流す一方で、犬養さんは、じっくりと聖書の読み込みを進めようとしていました。そんな折、犬養さんは、偶然ある信者から借りた聖書講義の録音テープを聞きました。声の主は、高橋三郎(たかはしさぶろう)という内村鑑三(うちむらかんぞう)の流れを汲む無教会主義の伝道者でした。テープの講義に打たれた犬養さんは、人生の師と仰ぎ、交流を重ねてゆきます。
 
犬養:  聖書の言葉をこんなに権威をもって語る人に会ったのは初めてだったんですよね。ほんとに笑い話みたいなんだけど、ご飯を食べたら、洗わんで、テープを聴いていたんだけど、そうすることが申し訳なくなって、きちっと部屋掃除して、そしてテープレコーダー置いて、そして座り直して、ノート取りながらテープを聴き始めたのが、高橋先生のテープですけど、その出会いが、筑豊の一年休学している時に出会った。だから僕は、自分が現場と言われている筑豊のど真ん中で高橋三郎という人を通して、ほんとに導かれたなというふうに思うんですけどね。先生自身は、自分は伝道者として、無教会の伝道者として神学をできる人に話すんじゃなくて、ほんとに市井(しせい)の人々に語っていきたいという、それが生涯―やっぱり現場から学ぼうという、そういう姿勢が、先生は濃厚だったと思うんですね。そういう意味では、なんか聖書さえ勉強していれば、聖書で全部解決するということが、先生なかったんです。やっぱりほんとに人がそこに派遣され、人がそこに居て、なんか立派な行いをしたいというんじゃなくて、失敗やら挫折やらも含めて、その人がそこにおることを通して伝わっていくような。で、高橋先生は、犬養というのが、閉山炭住に出掛けて、そこでそういう働きをしているんだという、そのことを見守ってくださっていたというような気がしますよね。クッちゃん、ムッちゃんというんですけど、「犬養先生、先生があんまり高橋先生、高橋先生≠ニ言うから、僕も高橋先生の集会に出たい」というてね。彼らは、タバコは無茶苦茶吸うし、もうほんとにそうやから、「正座の練習から、三日間はタバコ吸わん。そんなことを全部訓練して、それからしか、よう連れて行かんで」と言うたら、「それする」というて、それでクンちゃんムッちゃんが、もうほんとになんぼか前からやり出したわけですよね。高橋先生に、「先生、青年が行きたいというから連れて行きますからよろしくお願い致します」というて、書いていたんです。そうしたら三日前だったか、高橋先生から電話掛かってきて、「犬養君、申し訳ないけど、クンちゃんムッちゃんがこっちへ来てくれることを断ってほしい」という電話ですよ。で、クンちゃんムッちゃん怒ってね。ほんとに僕もクンちゃんムッちゃんと一緒に行けると思っていたのに、そんなになったもんだから、飛んで行って、高橋先生に、「先生、どうしたんですか?」と聞いたら、「レビ記」だったんです。難しい旧約聖書のレビ記―法律のことがいっぱい書いてあるとこ。「レビ記」を学ぶ時だった、そのテーマがね。「犬養君、何とかクンちゃんムッちゃんに解る話をしたいと思って一生懸命準備したけども、どうしてもこの「レビ記」を、あの二人に話せるだけの自分は自信がない。ギリギリまで準備したけど、どうしても、申し訳ないけど、犬養君、君が聞いて帰って、君の言葉でクンちゃんムッちゃんに話してほしい」。僕は、やっぱりほんとに凄いなと思いましたね。教会の牧師でも、何でもわかってもわからんでも、とにかく話せばいい、というふうに思う人が多い中で、高橋先生は、クンちゃんムッちゃんのことを思いながら、一生懸命準備をして、でもできない、と。「もうほんとにはっきりできないから、君が帰って、ここで学んだことを君の言葉で伝えてくれ」というふうに言われて、クンちゃんムッちゃんに帰ってそういうことを話したら、ほんとに喜んでくれてというかね、たびたび来られるから一緒に食事をしたりするわけで、なんか僕にとって恐い先生だけど、クンちゃんムッちゃんにとったら凄く自分たちのことを認めて貰っているというか、覚えられているというか、そんなことがほんとにわかるような、そんな交わりを続けることができたわけですけどね。同じ閉山炭住で素晴らしい人もたくさんいたし、いろんな経験もさして貰ったけど、やっぱりそのことと聖書とがどう関わるのか、ということをほんとに根元的に問われたのは、高橋先生との出会いだったんじゃないかなというふうに、今も思っております。
 
ナレーター:  昭和の最盛期には、二百五十を越える炭鉱が犇(ひし)めいた筑豊地域。わずかに残ったボタ山も、今では緑に覆われています。炭鉱での労働は、危険と隣り合わせでした。犬養さんが筑豊を訪れる前年、福吉の近く同じ田川郡で、戦後最大の水害事故や爆発事故が相次いで起きています。これらの事故は、犬養さんが筑豊に深く関わっていく動機ともなりました。ガス爆発を起こした炭鉱では、事故当日まで労災保険を滞納、しわ寄せは残された家族に及んでいました。閉山した後も、炭鉱地域特有の別の災害が人々を苦しめてゆきます。それは「公害」と呼ばれる大規模な地盤沈下。隈無く掘られた地下は隙間だらけでした。特に筑豊では、戦時中に強行された増産により、農地や住宅地の地下までもが掘られ、地面の崩落など、激しい公害が起きていました。犬養さんが暮らした福吉集落の地下が描かれた地図です。大手炭鉱の最末端に置かれた零細炭鉱でありながら、地下には網の目のように坑道が広がっています。犬養さんは、一年間の休学期間を終えると、再び大阪に戻り結婚。今度は妻を伴い本格的に福吉に伝道所を開く決意を固め帰って来ました。一九六五年のことです。
 

 
ナレーター:   後を継ぐ牧師もなく、空き家になった伝道所。長崎から四時間をかけ、月に一度の割合で住み慣れた家に帰り、風を通します。今は、勉強会やボランティア活動の場として利用する一方、福島原発事故の被災地から避難した親子が、合宿などで自由に使えるよう提供しています。
 
犬養素子:  ビックリしましたけど。多分壁に亀裂が入っていたんですよ、公害で。この戸もなかなか開かなくて、こういうふうにだんだん空いてきたりするから、こういうふうに。上がっているのか下がっているのかわからないんだけど。
 
犬養:  いろんな梅を植えたり、桜植えたりして。梅もかなりたくさんなって、子供会で売ったり、そんなことしますね。子どもたちと一緒に植えた桜なんですよ。こっちへ来てから。
 

 
ナレーター:  生活保護世帯が八割を占める福吉で、信者の献金を糧とする伝道所を続けることは困難でした。犬養さんは、大型トラックの運転手や日雇いの土木作業員などをして働き、伝道所の収入を得ました。妻の素子(もとこ)さんも、子どもたちを集めて保育所を始め、地域に溶け込んでいきました。そんな生活の中で、犬養さんは、福吉の人たちに呼び掛け、日曜礼拝を続けました。犬養さんの意識は、子どもや地域への奉仕から伝道へと向けられていきました。
 
犬養:  あの頃は、「暗い谷間、暗い谷間」というふうに呼ばれていて、閉山炭住がボツボツとあちこっちにあったわけですけど、暗い。ほんとに色としても黒だったと思うんですよね。そこに伝道所ができて、僕の初めの思い出はそこにキリストがおられる。そのキリストにみんなが連なってくれて、あるいは来てくれれば、それは救いになるんじゃないか。だから暗い谷間に光をもたらすことができるんじゃないか。そういう今から思えば、驕りですけど、そういう思いがあったもんですから、できるだけ地域の人たちに「教会に来て欲しい、伝道所に来て欲しい」という、そういう願いがあって、それが一番根本的な救いというか、学生の頃は一生懸命子どもたちに奉仕したり、「奉仕、奉仕」というふうに言っていましたけど、やっぱり教会に来て欲しいという、伝道とか宣教とかですね。その頃は、だから高橋先生の影響非常に強いですけど、やっぱり最終的な解決というのは、福音や、というふうに、僕は思い込んでいました。なんか物資とかお金とかの力ではなくて、それは聖書が語っている福音じゃないか、と。その福音を筑豊の人たちに聞いて貰う、伝えるということを。それも福音というのをなんか語ったらいいというんじゃなくて、やっぱり人がいて、僕なら僕がいて、僕の生き様を通して語っていくということ。だからこそ筑豊に行って、福吉伝道所というのを立ち上げたわけですよね。
 
ナレーター:  福吉伝道所で、犬養さんが、日曜礼拝と共に力を注いでいたことがあります。ガリ版で始めた月刊紙の発行です。福吉の生活や人々との関わり、集団就職した子どもたちの手紙や近況などを盛り込み、「月刊福吉」と名付けました。信者に限らず、福吉の住民みんなに読んで貰おうと、聖書の言葉を伝えるページも作り、九十戸ほどの集落を一軒一軒配って歩きました。それはやがて一冊の本になります。『筑豊に生きて』。ところがこの本は、犬養さんが人々との関わり方を問い直す転機となりました。大阪の先輩牧師から、「君の文章では、何故筑豊の人までが、大阪の言葉でしゃべっているのか。読み直してみなさい」と、厳しく問われたのです。
 
犬養:  これ読んでみて、筑豊の人たちも確かに大阪弁でしゃべっていることになっているんですよ。もうショックでした。なんでこんなことになったんかなと思ったらば、僕は大阪弁で聞いていると思うんで、生活保護が、どんなことが問題で、どんなに苦しいかということを、彼らがいくら筑豊弁でしゃべっても、僕は大阪生まれの大学院まで出てきた男性の、そういう枠組みが、つまり大阪弁で、そういう枠組みを持っているぞ、ということを気付いていればいいんだけど、枠組みなんていうことを全然気付かずに、自分が聞いたことは、みんなこの人が言ったことのすべてだというふうに。何にもわからんままに、一生懸命作ったことは確かなんですよ。何とかという、一生懸命の思いがあったんだけど、キリスト教も含めて、自分の枠組みの中で、一生懸命聞こうとしたけれども、自分の枠組みを崩さないでほんとにこう歩んでいたんですね。イエス・キリストなんていう人は、そういう意味では、枠組みを持たないで、対話している人たちの枠組みの中に自分が空気とか水のように―空気とか水やったら自分の枠組み崩して、スーッとその人が持っている枠組みの中に入っていけるわけじゃないですか。だから伝道で一生懸命や、というけど、僕もやっぱり枠組みだと思うんですよ。その枠組みでしかみなければ、やっぱり生活保護を貰っている人たちが、ほんとにどんな痛みや苦しみや呻き持っていたかというのをね。それは大きな課題になると思うんですね。
 
ナレーター:  自分の枠組みを、どう乗り越えるのか。ある時、犬養さんは、知り合いの信者に一人の伝道者の生き方を教えられ、心を打たれました。野沢治作(のざわじさく)(1887-1975)さん。筑豊で結核患者に寄り添い続けた伝道者です。
 
犬養:  野沢先生、どんな伝道やったかというたら、重度の結核の人を訪ねて、まあ座敷牢みたいなところへ入れられたり、家族の人たちも食事は与えられるけど、なかなか交わらん―移るから。そこへ行って一緒に寝転んで賛美歌を歌ったり―聖書の話なんかほとんどされませんでしたよ。でもほんとにそこへ行って四方山(よもやま)話したり、賛美歌を歌ったりして、お祈りして帰られるという。野沢先生、ほんとにこう何にもされんのに、イエスが来られたように、みんな真似していたというんですよ。別にそんな大した話をされたわけでもないのにね。それで野沢先生がされた伝道というのは、教会の牧師さんが捻くったというか、嘲笑したらしいんだけど、「あんたの伝道はまったく残らないと。みんな死んでいく」というふうに言われたというんだけど、それを「よし」として、結核患者をズーッと回っておられた、という。確かに大きな教会作らなかったし、みんな死んでいった、と言われる。先生の名前を覚えている人だって筑豊にいないんだけど、なんかほんとに真清水(ましみず)のように、筑豊に野沢先生がされた働きというのは残っていて、いや、野沢先生と一緒にキリストが働いておられた。なんかそのことを、もう埋もれているかもわからんし、忘れているかも知れないけど、それとの繋がりの中で、僕も筑豊で歩まして貰っているんじゃないかなという。そんな思いが、偉そうに僕が筑豊に来て、「暗い谷間に光を」なんて思っていたけど、光がそもそもあったんじゃないかみたいな。だから僕もやっぱりそれに触れて歩まんといかんというふうに思うようになって、それで少しずつ変えられてきたなというふうに思うんですよね。
 
ナレーター:  自分の身の周りにいる人々は、どのような思いを飲み込み、どう生きてきたのか、犬養さんは、その一つひとつを訪ね、書き留めることにしました。
 
犬養:  とにかくもの凄いたくさんお葬式してきたんですよね。もうほんとに日本の資本主義社会は、それこそ無茶苦茶使った炭鉱爆発やなんや、無茶苦茶使った人たちがどんどんなくなっていく。でも誰も弔ってくれないという。だからその人が生まれた時と死んだ時、そしてわかる範囲でその人がどういう生き方をしたのか、ということを調べて、月刊記事に載せるようにしたんですよ。それがやっぱりこの高姿勢の自分自身をほんとに崩していく。ほんとに生活保護を貰っているアル中やとかなんとかいう中でしか見ていなかった自分自身の福吉の人たちに対する見方が、如何に高慢な姿かということを、その作業ですね。
 
ナレーター:  『弔旗(ちようき)』―犬養さんが人知れず死んでいった人々の人生を綴った本です。自分は隣人とどう関わってきたのか。犬養さんの心に強く残っている一人の老人がいます。おらびの丈吉さん。「おらぶ」とは、大声で叫ぶこと。彼は妻に先立たれ、子どもも去り、一人になってから、焼酎を飲んではさまざまな家や病院に、役場などの前に立ち、声をかぎりにおらびました。福吉炭鉱の鉱主だった矢頭(やがしら)の人々も標的とされました。
 
犬養:  矢頭さんというのは、ちょっと高いところにある立派な家なんです。その前に立って長野丈吉(なかのじようきち)というのがおらぶわけですよね。とにかく「やい、矢頭! 貴様出て来い!」というから始まって、ほんとにぐだぐだというか、ぐだぐだがぶつぶつじゃなくて、大声でわめく。一時間もやったら声も枯れてくるしあれなんで、そうしたら家に帰って焼酎を浴びて、また出て来て、また続きをおらぶみたいな生活が続くんですね。その頃僕の家も矢頭さんから帰りに寄って、二回かな、三回かな、おらばれたことがあるんですよ。「やい!犬養!貴様出て来い!」と言われて、で、出て行って、「おじさん、こんな真夜中にどうしたんですか。なんか話があるなら、上に上がってお茶でも一緒に話ししましょうや」と言ったんだけど、ほんとにここに唾いっぱい溜めてね、ペッペッと唾吐きながら、それこそ「何きさん(何だ、きさま)!」いうて、ブツブツ言いながらすごすご帰られた。二回くらい続いたかな。おじさんの奇行―おらびが、福吉だけで済んでいたら良かったんですけど、拡大して、町まで出掛けて。だんだん福吉の中でも、我々が恥ずかしい、と。ある人たちは、精神病院に手続きさえすれば措置として入院されるので、それで僕らも、「おじさんのことを考えても、それがいいんじゃないかな」と話していたら、ポイッとおじさんの姿が福吉からなくなって。ある日毎日新聞だったと思うんだけど、三面記事で直方(のおがた)の精神病院で長野丈吉が、手拭いで首つって死んだ、という。ほんとに記事が載って。でもビックリして僕は飛んで行ったんですけど。パッとね、何を一体おじさん恨んでいたんだろうか、と。それ以後おじさんが何しゃべっていたか、ということをズーッと調べ始めた。追跡調査です。警察にも、お医者さんの所にも出掛けて行って、「長野丈吉は長々と何をおらんでいたんですか」と聞きながら聞き取りをして、それでビックリしましたね。要するに一言でいえば恨み辛みですね。で、矢頭炭鉱の矢頭さんのところでは、「やい、矢頭! 貴様出て来い!」から始まって、「何番切羽(きりは)のどこそこで、何とかさんがボタに埋まった時に、俺たちはなんか助けようと思ったのに、お前はそれを許可せんで、そのままにしたじゃないか」と。「切羽」というのは、炭鉱を下って行って小さい所では手で掘りますから、その採炭現場を切羽というんです。もういっぱい亡くなっていったり、事故に遭ったりした者があるもんだから。おじさん、それこそメモ読んでいるわけじゃないんだけど、何時間もそのことを話していたんですよね。彼と一緒に炭鉱に加わっていた人たちはもう忘れようと、そんなことはみんなね。そんなこと今更言っても仕方がないから、早く―ちょうど坑道がみんな埋められたように―早くその上で新しい筑豊のイメージにならんといかんというのに、彼は忘れられんで、焼酎の力借りたもんだけど、死んで逝った人間に思いを馳せながら、焼酎を借りながら、自分を狂わせてまでおらんでいたというのはね、これはどっちが人間らしくて、どっちがほんとに人間なんだろうか。もう忘れてそんなこと言っていたら、これからの筑豊は新しくならないから、もう全部綺麗に新地にして、新しいもの建てて行きましょう、みたいなことが、キャンペーンとして言われるんだけど、「いや、あのA君、B君、C君、あの人のことを忘れ切れん」というふうに言っていた。で、結局考えてみたら、そういう長野のおじさんみたいな人がたくさんいるんだけど、みんな精神病院に入れられて、もう喋らなくていい、あるいはここで喋りなさい、勝手に」と言って、ほんとに聞かんといかん僕たちが、聞かんままになってしまっているんじゃないかなという。それがやっぱりこの長野丈吉という人を通して教えられたことですよね。それで最後に残ったのが、じゃ一体「犬養!貴様出て来い!」と言われて、僕は、おじさんにどんな恨みごと辛みごとを起こしたんやろうか、と。何か悪いことをしたんやろうかみたいなことを考え始めて、フッと気が付いたのは、今言ったことなんですよね。それこそ野沢先生みたいに、何でおじさんと一緒に転がって焼酎飲みながら、まあ一緒におらぶことができんでも、「おじさん、大変だったね。おじさんの友だちそうだったね」。なんで転がって聞けんかったのやろうかなと思うんです。やっぱり上へあがってお茶飲みながらゆっくり話す。とてもそんな高姿勢の犬養に話す思いもなかって、「犬養さん、牧師やろう。誰も俺の話を聞いてくれんけど、話を聞いてくれてもいいんじゃない」というふうに、やっぱりその聞いてくれない恨みをぶっつけたかったんじゃないかな、というふうにやっぱり思うんですよね。「あなたは聞くんですよ。あなたは聞くために来たんですよ」という。それは大きななんか言葉ではなくて、あの生き様、あの死に様を通して、やっぱり示されたんじゃないかな、というふうに思いますよね。なんか僕なんかが行くよりズッと前に、この人たちは自覚してないけど、キリストがここに働いてくださっていたんじゃないか。まあ野沢先生のこともそうなんですけど。ズッとほんとにキリストは、苦しんでいる人、悲しんでいる人、自覚をしていなくても、その人たちと一緒に歩んでいてくださったという。それに僕なんかはやっと触れさせて貰って、それが今の僕の思いですけど。奉仕の対象どころか、伝道の対象でもなくて、むしろ聞く方の方が主体なんじゃないか。貧しい人、苦しんでいる人の方が主体なんじゃないか、と。地域の人たち自体の中に、その「善きサマリア人」というか、逆に無関心なものに呼び掛ける「それでいいのですか」というふうに、強い力で呼び掛けてくれる。そういう意味では向こう側から近づいてくださったという。そういう経験というのは、ほんとにいくつかさせて貰ったなというふうに思います。
 
ナレーター:  傷ついた者が、自分に呼び掛け引き寄せる。犬養さんは、福吉伝道所を開いて三年経った頃にも、忘れ難い体験をしています。一九六八年、福岡県を中心とした西日本一帯に、国内最大級の食品公害が発生。「カネミ油症事件」と呼ばれます。北九州市小倉のカネミ倉庫が作った食用油に、PCBが混入。そこに含まれる猛毒のダイオキシンが、肌や心臓、腎臓、肝臓などの障害を引き起こすもので、病気のデパートと呼ばれました。被害を訴えた人は、一万四千人を越えました。そんな時、福吉伝道所を訪ねて来たのが、自分と家族がカネミ油症に冒(おか)された紙野柳蔵(かみのりゆうぞう)(1913-2001)というクリスチャンでした。
 
犬養:  紙野さん自身も、キリスト教者で、僕らと教派は違うんですけど、直方のある教派の教会に通っていた。役員もズッとされていた人なんですけど、「自分の教会で油症になったから、先生、一緒に闘ってください」と言って、その牧師さんに言ったら、「いや、紙野さん悪いけど、社会問題に、教会は関わるところじゃない。教会というのはほんとに魂というか、霊の救済にあずかる場所で」というふうに言われて、関わってくれなかった、と。それで紙野さんは、もう自分の教派だけでなくて、教派を越えて、とにかく教会一軒一軒回って「一緒に闘ってください」というふうに訴えておられた。それで車運転されんから、ほんとに靴で歩いてボロボロになって家へ来られたんですね。で、「犬養先生、一緒に闘ってください。公害は人間の問題ですよ。社会問題じゃない。これは人間の問題。ほんとに人間が苦しみ人間が悲しみ、人間が如何に生きているかと問うているのが公害だから、公害に関わってください」というふうに言われたんだけど、僕は紙野さんの教会の先生みたいに、「教会は社会問題を扱うところではありません」とは言わなかったんだけど、でも結果的には断ったんですよね。断った理由が、「いや、紙野さん、悪いけど、僕は筑豊の問題に関わろうと思って来た。特に筑豊の子どもたちと一緒に歩もうとしてね。人間の問題というのはわかるけども、よう一緒にやれません」と、断ったんですよ。でも紙野さんはすごすごと帰って行かれたんですけど。それから一ヶ月も経たないうちに、ほんとに油症のために入院されて、生死を彷徨うようなところを、紙野さん福岡の病院に入院されて、福岡の病院から犬養宛に手紙を書いてくださって、その手紙の中に、「犬養先生、無関心は公害殺人の加担者です」というふうに。僕は、この一言が凄い大きな衝撃で、「いや、カネミ油症というのは大変でしょう、というのは、わかっていますよ」というけど、何にもわからんままじゃないですか、紙野さんの話を聞いてもね。結局無関心のままここを通り過ぎる―さっきのサマリア人の話じゃないですけど―向こうの方から、「無関心は公害の殺人者の加担者だ」と、こう問いかけているのに、「お前、通り過ぎていいのか」という。そういう非常に具体的な呼び掛けを、その言葉で受けて、それで病院へ飛んで行って、こっちの方から、「紙野さん、一緒に歩ませてください」というふうに頼んで、早速紙野さんと一緒に、当時「水俣病(みなまたびよう)を告発する会」というのができていて、それで「カネミ油症告発する会」という会を―これもクリスチャンが多かったんですけどね、四、五人で結成して、それで動き始めるんですよね。
 
ナレーター:  犬養さんたちは、一九七○年からカネミ倉庫正門前で、毎月第四土曜日、十二時間の座り込みを続けました。紙野さん家族もまたそれと平行して、自らの座り込みを行いました。
 
犬養:  紙野さんが訴えたいのは、自分の苦しみや自分の死や自分の命を、お金に換算して欲しくない、と。民事訴訟というのは、結局お金の問題だ、と。それで何をされたかいうたら、カネミの前へ出掛けて行って、「命と命とで語り合おうじゃないか」。保証して欲しいとか、そんなもんじゃなという。カネミに人間になりましょう。人間として語り合いましょう、という、そういう呼び掛けをほんとにされたんですよね。一番忘れられないのは、紙野さんが座り込みをしていて、そこへ全国から被害者ができるだけ集まって、「元の身体を返せ! 元の家庭を返せ!」というシュプレヒコール。紙野さんも、ズッとその「元の身体を返せ! 元の家庭を返せ!」と叫んでおられたシュプレヒコールでした。一人ひとりの身体だけじゃなくて、家庭がほんとに破壊されていって、紙野さんの家庭だって、次女の人が婚約をしていたのに、油症になって婚約を破棄。それを悔やんで自殺未遂。おじさんおばさんは、また自殺未遂するんじゃないか、と夜も眠れんと、子どもを見張っていないかんみたいな時が続くんですね。だから油症になるというのは、病気も大変だけど、病気によってほんとに人間関係がズタズタにされてしまうというふうなね。みんな「元の家庭を返せ!」というのは、当たり前の―紙野さんもズッとそう叫んできたのに、「犬養先生、ちょっと」と呼ばれて、「いや、私、もう元の身体を返せ、元の家庭を返せ≠ニ言えなくなりました」って言われるんですよね。僕は、全然わからなくて、「どうしたんですか?」と聞いたら、「自分たちが油症になる前に、水俣はもう既に起こっていて、水俣の人たちの苦しみ悲しさが、新聞やテレビを通して我が家に入ってきていた。だからよく知っていた、自分たちもね。大変だなというふうに思っていたけど、自分たちやっと油症になって、自分たちが、苦しみは違うけど、同じような苦しみをするようになって、初めて、あ、水俣の人たちがこういう苦しみをして、こういう家庭破壊があって、こういうことだったのだと。やっと油症になってわかったという。犬養先生、油症になるような前の私の家庭を返して貰っても、また同じことするだけですよ」と言われる。また同じことというのは、つまり「水俣の人たちの痛みや苦しみが、テレビや新聞を通して家まで来ているのに、そのことを共感できない、共鳴できない家庭。そんな家庭返して貰っても、また同じことするだけですよ」というふうにね。だから自分たちも油症になって、ほんとに辛い目して崩れたけど、その崩れを通して、やっぱり自分の家庭が新しくされていく、変えられていく。それを通してやっと水俣の人たちの痛みや苦しみがわかるようになる。僕は、これを聞いた時は、僕は、「無関心は公害殺人の加害者や」という言葉でガツンと殴られたと同じくらい。だからもうはっきり紙野さんは、クリスチャンだから、「私の公害闘争は悔い改め闘争です」と言われた。「古い自分は死んで新しくなる」というのは、これ聖書のメッセージ(「エフェソの信徒への手紙」第四章)ですよ。「日々古い身体、古い自分は死んで、キリストに会って新しくなる」というのは、これは聖書のメッセージですね、まさに。それを紙野さんは、非常に世俗的な公害闘争という形の中で、「自分にとって日々死に、新しくなる、というのは、こういうことなんだ」という形で見せてくださった。これは僕ねなかなか今の公害闘争の中でも、なかなか認知されないことだと思うんだけど、3・11考えていても、やっぱりほんとに復興というけど、何が復興―元のままになることが、復興では決してないと思うんですよね。人間が元のままで、いや、道路が立派になりました。職業が帰ってきました、というんじゃなくて、紙野さんにとって復興というのを、もし言おうとしたら、やっぱり新しい身体にされること、新しい家庭にされること、そこをほんとに苦しみ苦しみながら、そういう闘いと、こういういわゆる社会問題と呼ばれている公害闘争は、紙野さんの場合、一つのこととしてだったんですよね。
 
ナレーター:  紙野さんは、三十年に及ぶ闘いの末、二○○一年に亡くなりました。その後も続けられた犬養さんらのよる座り込みは、四十二年間、五○○回に及びました。あるカネミ油症患者の葬儀をきっかけに、犬養さんにはまた新たな出会いが生まれました。在日朝鮮人の人々。筑豊は、日本人による植民地時代、朝鮮半島から連れて来られた数多くの人々が、過酷な労働を強いられ、命を落としたところです。
 
犬養:  ここ筑豊というところは、それこそ苦しみながら、ほんとに日本に住まざるを得なくなった、帰りたくても帰れなくて、在日として日本に残っている人がたくさんいるという。それでこんな話があるんですよね。李仁夏(イインハ)(1925(大正14年)年、韓国慶尚北道生まれ。1941年(昭和16)渡日。52年東京神学大卒。カナダ留学後、在日大韓基督教会川崎教会牧師となる一方、教団の総務、総会長を歴任。世界教会協議会人種優越主義と闘う委員会副委員長(1969?82)、日本キリスト教協議会議長(1982?85)として活躍する)先生―もう亡くなった牧師さんですけど、在日のほんとに大先輩ですけど、その人が、自分がアメリカに行った時に、小さい村に行って、「ここにも黒人がいますか?」と言うと、「いや、居ない」というふうに言ったんですね。こんなふうに言ったというんですね、「前は一人居たけれども、もう出て行ってしまった。で、自分たちはその人が大好きだった」。英語で書いてあるんですけどね。「I loved him very much,because he knew his place.」と言ったというんですね。「I loved him very much」とても彼が好きだった、大切にしていたよ。「because he knew his place.」彼が、彼の立場をわきまえている限り、というね。「his place」というふうに言った、と。それを聞いた李仁夏先生が、我々在日が日本に置かれているのも、今はこれだというふうに、という。つまり日本の国の利益になるなら、日本の為になるなら、つまり「his place」に留まっているなら、来ていいですよ、許しますよ、という。韓国人も一緒に住む社会を、一緒に住む場所にしていきたいと思って、自分たちの権利を主張し始めた時に、日本人はもの凄く反発して、「his place」へ帰れとか、ひょっとしたら、「no place」と言いかねませんよね。ほんとは日本の中で、うずくまってあわせて生きてきた在日の人たち一人ひとりの権利がほんとに日本の社会の中で認められていくということを通して、やっと他者というかな、に出会う、そんな経験がまだできていないんじゃないかなというふうに。またそれで労働者をどんどん要るから、役に立つなら入れますよ、みたいなことがとられていく。やっぱり僕は、在日の存在というのは、日本のほんとに一番大切な部分を受け持ってきたなと思うんですね。
 
ナレーター:  犬養さんが、人生のテーマとしてきた善きサマリア人の物語。在日朝鮮人との出会いは、犬養さんにとって、その読み直しを迫るものとなりました。そもそも旅人は、何故傷付き、倒れていたのか、という問題です。犬養さんは、国外への退去を迫られていたある在日朝鮮人の保証人となりました。金鐘甲(キムチヨンカブ)さん。太平洋戦争開戦の年、対馬に連れて来られ、飛行場建設現場での労働を経験。戦後は日本の国籍を剥奪され、大村収容所に入れられるなど、過酷な人生を歩みました。
 
犬養:  金鐘甲(キムチヨンカブ)という強制連行されて来た人が亡くなって、小さいパンフレット出したんですけど、最終的には脳溢血になって、半身不随になって、門司の労災病院で亡くなっていくんですけど、その主治医の先生が凄く良い先生。病院は外へ出したいわけですね。退院させたいんだけど、その先生がいるために病院はできなくて、その代わりその先生も未階位医として、自分は出世を諦めているというように、先生もある意味で出世も棒に振らんといかんかったけど、医者としての一生を、彼を守るために、この人のお葬式の時に、その先生も来られていて、泣きながら、「金鐘甲(キムチヨンカブ)さん、あなたが居ててくれたので、やっと私は人間らしく生きることができました」と言って、ほんとにボロボロ涙を流されたんですよ。僕は、同じ思いなんですよ。金鐘甲を見ていると、私たち「善きサマリア人の喩え話」というのは、そのサマリア人が、こう旅をしていて、強盗に遭って身包み剥がれた人が道端にいるのに、まあ宗教者であるレビ人や祭司が通って行くんだけど、そしてサマリア人とかという、そこが舞台みたいに思っているけど、そもそもそこで強盗に遭って倒れている人が、何でそこに倒れていたかというたら、聖書の前の方で、「一人の人が強盗に遭って身包み剥がれて命を奪われそうになってそこに倒れていた」と書いてあって、これってまさに金鐘甲(キムチヨンカブ)さんの姿じゃないか、と。強行連行されて来て、身包み剥がれて、もう自由にされないでいる命、そこへ倒れているという。僕だからほんとに「善きサマリア人の譬え」は、僕は、金鐘甲(キムチヨンカブ)さんという葬儀の時に、説教で喋ったんですけど、金鐘甲さんの姿を見ると、ほんとに日本は、レビ人でも祭司でも、ましてやサマリア人でもなくて、ほんとに強盗として、この人をこんな目に遭わせてここへ倒れさせていたんだ、というふうに、言うてからしかできないんじゃないかなというふうに、僕も金鐘甲さんに付き合わせて貰って、強盗だったんだけど、彼が引っ張ってくれたから、ほんとに人間らしいというか、人間が人間として考えていかんことをさせて貰ったなという、そういう思いなんですよね。だから僕は、あの時僕にとって金鐘甲さんというのは、キリストがそこに倒れてくださっていたからこそ、強盗の一味に過ぎない僕みたいな者も、サマリア人になったとは言わないけど、サマリア人の真似事ぐらいはさせて貰えるような関係を、彼の方がつくってくれたというふうに告白したいと思うんですよね。彼がつくってくれたんじゃないかな、という。
 
ナレーター:  筑豊には、いつ、どのように死を迎えたかわからない人々が眠っています。日向(ひゆうが)墓地。炭鉱で働いた名も知らぬ朝鮮人の埋葬地と伝えられる場所です。墓碑銘のないボタ山の石。近年では、韓国から歴史に埋もれた同胞を弔いに来る人もいます。犬養さんは、自分の命が尽きたら、筑豊のここの土に還して欲しいと家族に伝えています。
 
犬養:  僕は、ここへ来るたびに、僕は、骨を組んで、この場所に立っているかも知れないという。そしてその骨が一体誰かということ、あるいは何基あるかなんていうことも、全然調べないままにきたんですが、凄く申し訳なくて、『弔旗』に書いたように、筑豊の人たち一人ひとりに対して、誰も関心を持たない時に、ほんとにそれでいいのか、みたいに問われたことと、やっぱり同じじゃないかなと思うんですよね。ほんとにキリストは決して忘れられないで、ここに来られるみたいに。一番惨めな一番苦しい人のところへ来てくださるんだと。やっぱり来てくれるキリストに出会いたいという、まあ僕の信仰だと言えば、信仰だと思うんです。もし願いが叶ったら、僕は散骨はこの場所でして貰いたいなと思っています。
 
ナレーター:  四十六年間に及んだ筑豊での伝道生活。犬養さんは、今誰が隣人になったのかというイエスの問いを自らに向けています。
 
犬養:  隣人というのは、一人ひとりにとって、どこにでもある時居るし、ある時なるし、という。それをほんとに見付けられるかというと、なんかもの凄く人格者とか、愛情深い人が探していて、「あ、ここに居た。あ、ここに居た」と言うんじゃなくて、なんかこの人が憐れみ深かったのではなくて、こっち側の方が、彼を引き付けたんじゃないかなという、なんかそんな思いが。最終的には僕が到達した場所というのは、なんか言葉ではないな、というのですね。ですからほんとに人、僕自身がどんなふうに生きるかとか、どんなふうに死んでいくかとか、それをみんな見守っているというか、見つめているとかという。それで例えば僕の親友のクンちゃんなんていうのは、クンちゃん亡くなっていきましたけど、クンちゃんなんかでも、クンちゃんムッちゃんが、僕自身のことをほんとに見ていてくれて、自分の方がこの人たちに助けられているんじゃないかなという。彼らの苦しみや悲しみを共にしてくださっているキリストなり、神なりが居て、それがほんとに一見飛んでいると思える僕たちに対して、「あなたの生き様、それでいいんですか」という、問いかけをして貰っているんじゃないかな。僕は、だから「クンちゃんの隣人になったのか」と言われたら、「なれんかった」というふうに言いたいね。で、逆にクンちゃん一家というか、大塚のおばさんやら、亡くなったまさ子さんやらが、「僕に隣人になってくれた」ということは、大声で言いますよね。だからどうなんですかね。そんなにこうとても言いませんね。筑豊の人たちなんて十把一絡げでなくて、具体的なこの人、この人、という感じですよね。だから道はないと思いますよ。こっちから善きサマリア人になる道はない。ないけれども、出発として、誰と関わっているのかという。誰と関わるのかみたいなことを選択されながら、その道へと追い込まれていったり、導かれて行ったりするんじゃないですかね。こっち側からの道はないんだけども、こっち側の道、ない道を一生懸命歩むことができるのは、もうキリストが捉えてくださっているからです。自分は捉えていないけれども、もう捉えてくださっているからだ、というのは、神様の側からほんとに呼び掛けられるとか、用いてくださるとかということを抜きにして、人間がなんかこのことをやっていれば大丈夫だというふうなものはないと、それはないんじゃないかなという。伝道者とかというだけではなくて、ほんとにただ人として呼ばれる。あるいは端から見れば、アル中やとか生活保護を貰っている人とか、そういう人たちの中にもほんとに具体的に働いているんだという、そういうことを経験させられたのが福吉での経験だったと思うんで、やっぱり最終的には、人―それは立派な人と言うんじゃなくて、ただ人であったとしても、人を通して、そこにキリストであり、神様というのは、共に働いてくださるんじゃないかなという。それは確信として自分の中にほんとにあることだと思います。
 
ナレーター:  犬養さんは、今、全国各地の集会に招かれ、旅を続けています。語るのは、筑豊で出会った隣人の姿。隣人に導かれ自らが歩んで来た道です。
犬養:  本来、私たちが、掴み取ることができないイエス・キリスト、またあなたを求めて仰いで、歩む私たちの限界をさらしながらほんとに歩みきってくださったお一人お一人、こんな素晴らしい流れの中に、僕のような者も入れて頂き、守ってくださったことを感謝して主イエス・キリストの御子として、御前に捧げ致します。
 
     これは、平成二十六年五月四日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである