坐禅は国境を越えて
 
                  曹源寺住職 原 田(はらだ)  正 道(しようどう)
昭和十五年、奈良県生まれ。花園大学卒業後、神戸市の祥福寺で修業したのち、昭和五七年、岡山市の臨済宗・曹源寺に入寺住職に。外国人にも門戸を開き、十五年間二百五十人以上が入門。その後欧米各地に弟子による禅道場ができ、地元でボランティアの日本語を教える会が作られるまでに発展。年三回、欧米各地で禅を指導する傍ら、年四回、海外の弟子向けに新聞も発行。一方、平成七年の阪神淡路大震災時には、修行者とともに炊き出しや風呂焚きのボランティア活動に従事。年一回バザーを開き、収益でネパールやインドの民間医療活動を支援する。
                  き き て 住 田  功 一
 
ナレーター:  岡山市にある曹源寺(そうげんじ)。江戸時代の藩士池田家の菩提寺として知られています。曹源寺は禅寺で、常に三十人ほどが住み込んで修行に励んでいますが、その多くが外国人です。この寺は、坐禅の道を志して世界中からやって来る人たちを積極的に受け入れていることで知られているのです。
 

修行者A: (平成二三年にアメリカより来日、六十五歳)私は心のよりどころを探していました。ここで修行することで真のよりどころをみつけたいです。
 
修行者B: アモス二十九歳です。二○一一年にイスラエルから来ました。
 
修行者C: 耕山(二十九歳)です。二○一○年にアメリカから来ました。
 
修行者D: (平成一九年にロシアより来日、三十四歳)自分の命、一番いい生き方はどう。この疑問とか質問があって、日本に来て曹源寺を見付けました。
 
修行者E: 夢は母国のポーランドで禅を教えることです。
 

 
ナレーター:  曹源寺の住職原田正道さんです。原田さんは、三十年ほど前にこの寺の住職となりました。外国に出掛けて坐禅の道を説くことを始めて四半世紀になります。自ら外国へ赴くだけでなく、外国の人たちも受け入れることで、坐禅の世界はどのように深まったのでしょうか。曹源寺の住職原田正道さんに聞きます。
 

 
住田:  境内を歩いていますと、外国人の方が行き交っていますが、今修行されている外国の方は何人ぐらいいらっしゃるんですか?
 
原田:  二十七、八人だと思います。
 
住田:  お国は何カ国ぐらい?
 
原田:  大体十六、七カ国ぐらいでしょうね。
 
住田:  境内の中では英語でみなさん話されているようですね。
 
原田:  そうですね。お互いそれぞれの母国語がありますので、専門的にすると、二重通訳という形になることもあります。
 
住田:  そうですか。海外から海を渡って日本に修行に来られる。これはみなさん相当の決意がおありなんでしょうね。
 
原田:  今は飛行機で簡単に往来できますので、今の人たちには、思えばすぐに行動ができるそういう時代になったわけですけど、昔は求めようとすれば、船で何日もかかって行かなければならんという時代においては、特に海を越えるということは、それだけ自分の人生のもっとも重要なことをするということになりますからね、そういう意味で決意はあったと思います。
 
住田:  それにしてもこちらでの生活は、みなさん裸足ですし、朝からきちっと規律があって、そして冬は寒い、夏は暑いという中での修行ですから、それはそれはその世界に飛び込むというのは、みなさん強い思いがあるんでしょうね。
 
原田:  外国の人にとっては、ここへわざわざ来るわけですからね、来る人にとっては、肉体的な忍耐はどちらかと言ったらある程度仕方がないというところはあります。ですけども、もっと問題は、自分というものに対しての思いが、自分の国で思っていたことと、実際飛び込んでみたら、こんなことまでするのかというね。何故かと言ったら、国では自分を表現することが生活の基本ですから、ところがここへ来たら「それを捨てよ」というんですからまったく違いますわね。ですからここへ来る過程においても、認識して、理解して、何かを得よう、と思って来るわけでしょ。ところがここへ来たら「捨てよ」と言われる。だからまったく戸惑いますわね。外国の人にとって、特に問題は、「自分を捨てる」ということの難しさです。日本人にとって、案外これは日本人の特性でしょうかね―今日の人はどうかわかりませんけれども―日本人にとっては「自分を捨てる」ということは、別に大きな問題ではなくて、共同社会、いわゆる皆とどう同調していくかということが、日本人の基本ですから、ですから自分を捨てなければ共同できませんからね、日本人にとってそう大きい負担ではないけれども、外国の人にとっては、個人の自由を踏みにじられるというか、「捨てろ」というんですから、これは大変ですね。
 
住田:  日本人と外国の生活の文化の違いを先ず埋めてから踏み出さないといけないわけですね。
 
原田:  そうですね。ここのところは一遍にはいきはしません。ですけども、自分というものが邪魔して、見えるものが見えない。当然私たちが、こんなに大きな自然界があるのに、自分の考えばっかりで頭の中いっぱいだったら、もの見えやしません。ですから自分があるということの大切さはわかります。それは人間生きるのに、個人―自分というものの責任と主張、それがなければこの世の中生きられませんから、ですから当たり前なんですけれども、しかし自分でいっぱいになってしまったら、この広い世界が見えやしません。で、相手が悩んでいても、迷うていても、自分の方で精一杯ですからね。ですから「それでは君は、本当の目は開かんよ」というて、時に教えてあげるんですがね。ですけども、私ら言ったところで、やはり当人にとっては大きな問題ですわね。壁にぶつかったみたいに、どうしたらいいんだ、ということでしょ。小さい時からの習慣性、自己主張してきたそういう生活態度を改めるということは、そう簡単ではありません。
 
住田:  じゃ、海外の人は、そういうステップの段差を埋めながら、こちらでの生活をスタートさせる?
 
原田:  私の弟子は、ここは大体二十年、二十五年、三十年と長くいますね。普通日本の道場では、二、三年で帰ってしまうわけなんですが、ところがここでは大体二十年当たり前です。ですから外国の人でも、二十年という年数を経れば、やはりものの考え方というものは、本来の自分の自我の主張ではなくって、寛容性というんですかね、受け入れていくという姿勢、そしてまたそこから開かれてくるものの捉え方、そういうものが日本人のようなものの見方がやっぱり備わってきますね。ですから長くおる人は、そういう姿勢をちゃんともっているので、ものの見方が広くなってきます。ということになると、そこに国の違いだとか、民族の違い、歴史の違い、そんなものではなくて、時間さえ経てば、人間には見えるもの、そしてまた気が付かなかったものが感じられるようになる。これは国やそんなものにはまったく変わらないものです。というのは、私たちは、外から取り入れる知識と、それから自分の本来持っている心のありようというものと、それによって私たちは生きているので、知識ばかりに頼り過ぎると、私たちの内容が見えない。しかしその知識にとらわれることが次第に少なくなってくると、それぞれの国の違いはあっても、同じようなものの捉え方がちゃんとできるようになる。これはよく感じますね。ですから長くおる人は、とっても当たり障りが柔らかくなってくる。初めは刺々しい感じですがね、自己主張ですから。ですけども、そこにそういうゆとりがちゃんと現れてくる。よく言うんですよ、「外国の人が電話に出て、どうもどうも≠ニ頭下げるようになったらもう早う帰った方がいい」って。日本人は知らずにやるわけですよね。それと同じようになって、それくらいに馴染んでくる。ということは、日本に馴染む為ではなくって、そこに自分というものの主張、立場だけじゃなくって、相手ともう交流している。たとい電話でも、ほんとの意味で往来している。目の前におるようにね。そんな人間性が次第に現れてくる。ですから相手の思いやりもちゃんとわかっているし、だからやはり人間が、世界社会の情報に頼らずに、自分というものを見つめ続けていれば、自ずからそんな心境になってくる。そういう人が海外の道場指導者として育ってくれるんです。
 
ナレーター:  曹源寺の一日は、日の出前から行われる朝のお勤めで始まります。坐禅の基本となるのは、正しく坐ること。早朝から姿勢を正して坐り、一心にお経を唱えることが求められます。坐禅においては、この坐るということに大きな意味があると、原田さんは言います。
 

 
原田:  例えば、「すわる」という字を見ましょう。「すわる」という字は、漢字で「座」と「坐」という字があります。この二つは別々の内容をもっていたんです。「座」という字は、「座席」「座布団」と、いわゆる名詞なんですね。そして「坐(すわる)」という字は、動詞なんですね。動詞ということは、坐ったらどうなるのか、ということの自分の心の内容のことですね、それが動詞の意味です。だから「坐禅」と書く場合は、「广」を必ず取って、「土の上に、人二人」を書く。これが「坐(すわる)」という字です。この字は、何故こんな字をあてたのか。ということは、人間というものは、幸せを求めるならば、天に向かって伸びなければいかんのに、土の上に人が二人坐っているというのは、地面ははっきりいうと、穢(けが)れた土地だと、西洋の人たちは思っている筈です。だから遊牧民族にとっては、土に身を置くということは破れることですよ、負けることですよ。だからそんなことは幸せになる筈はないのですね。漢字からいうとそうなるんです。だけども、漢字は東洋で生まれたものだし、坐禅は東洋の文化から生まれたものだと思います。だからやはり土というものは、母なる大地であり、この大地からあらゆる植物が発生するが如く、私たちのいのちもこの大地にしっかりと根付いて生まれ、そして育つ。生きている間は大地を踏みしめて生きる。そして、私たちが人生終わると、この大地に抱き取られる。これが農耕民族のものの見方だろうと思うんですね。ですからこの大地と密着しているいのちの姿が、私たちは坐るという一つの姿勢を表しているのであって、決して坐るという形ではないのですね。私たちは、今生きているこの環境、自然のあり方に、私たちは密着して生きていることが大切でしょう。しかも「人」は、一つ書けばいいのに、二つ何で書いてあるのか。これがまた問題ですね。私たちは、「見る私」と「見られる世界」。ということは、「主観」と「客観」。これによって私たちはこの世界が成り立つ。だから主観が迷っていると、多分客観も迷っている。自分の迷った心でこの世界を見るならば、この世界は迷っているのは当たり前。悲しい心でこの世界見れば、この世界は悲しくなる。嬉しい心でこの世界を見れば、この世界は嬉しく見える。だから私たちは、主観のあり方、そして客観は常に相対して一体化して生きている。ということは、「世界と我」「社会と我」私とこの世界というものは一体になって常に生きているのが真実でしょう。それが今の時代は、自分の世界しか見ないから分離しておりますよね。それでは私たちこの世界は正しく見える筈はない。だから私たちは坐るということは、私たち自身がこの世界と一体のいのちをもって生きている。ちょうど鏡がゼロであるならば、この世界がそのまま鏡になってしまえる、そのようなもので、自分の主張があるということは、鏡そのものに自分の意見をいっぱいもっている。そうなれば、この世界は映るにも映りはしませんわね。ですから、私たちは、自分を空っぽにするということは、何かしら虚しいように思うけども、この世界がそのまま受け入れられる。その偉大さを自分の中に発見していく。これが坐禅の真実だと思うんですね。
 

 
ナレーター:  原田さんは、昭和十五年、奈良の禅寺に生まれました。幼い頃は、寺の子どもが特別なものとして周囲から見られることに、大きな抵抗があったと言います。
 

 
原田:  「羅子(らご)」と言うんですよ。「羅子(らご)」というのは、「お寺の子」という意味なんですけども、お釈迦様の子ども、これを「羅?羅(らごら)尊者」(釈迦の実子であり、またその弟子の一人)と言うんです。ですから「羅子(らご)」というんです。寺の子どものことをね。ところが世の中でもそうだと思うんですね、世の中でも、お父さんのやっていること、親のやっていることに、一時は抵抗し反抗する、そういう時期があると思うんですよ。どんな立場でもね。ですけども、お寺の場合は、まったく環境が友だちとは違うもんですからね。自分では友だちといつも一緒、同じものの考え方、立場でなければ、やはり納得しないというか、我慢できないというか。だからお寺へ―家に帰ると衣(ころも)着るわけですよ。そしてお経に連れて行って貰うのはいいんですけども、しかし友だちが来ると、パッと衣脱いじゃって、そして知らん顔する。そういうふうな思いがやっぱりあるのと、それだけじゃなくて、お寺というものが、ご先祖さまやいろんなお経を読んでお布施を頂いて生活が成り立っている。自分はお寺に住んでいるから、そういう中で抵抗があるんですよね。子どもが育ってくると、やはり自分の力、自分の意欲でこれから先の人生というものは自分で開いていかなければいかん。そういう気持ちのあるもんだから、やはり親のやっていることが、これでいいのかな、と絶えず思いを抱く。こういうことが当然あるわけなんですね。そういう中で葛藤しておりましたね。
 
住田:  どんな道に進もうと思っていらっしゃったんですか?
 
原田:  私は、特にということはないけども、私は、もしなることなら飛行機のパイロットにでもなれたらなあなんてね、そんなふうに思うて、そうなれば科学―機械工学、あらゆるものを勉強しなければならん。だからこんなところにおったらだめだ、と、そんなふうに思っていましたね。
 
住田:  ところが仏の道に進むあるきっかけが偶然の出会いですけれどもあったそうですね。
 
原田:  私は、山田無文(やまだむもん)老師師匠(愛知県出身。学生時代、川口慧海に師事し、静岡県細江町金胤地院の河野大圭和尚につき得度。妙心寺僧堂を経て天竜寺僧堂にて関精拙老師に嗣法する。妙心寺山内霊雲院住職、神戸祥福寺僧堂師家を勤め、花園大学学長勇退後、昭和五三年、臨済宗、京都五山、妙心寺派26代官長となる。通仙洞と号した:1900-1988)にお会いできたということが、自分の人生の転換というか、人生に大きなきっかけを作って頂いた。これは私自身、今も思っていますが、人生に人に会うということの大切さ、それが私自身にあったということは、私の人生がほんとに今日あるのはそのお蔭ですね。
 

 
ナレーター:  原田さんの人生を大きく変えることになった山田無文さんとの出会い。それは父親の代理として本山の妙心寺(みようしんじ)へ向かう満員のバスの中のこと。原田正道さん、十七歳の時でした。
 

 
原田:  バスの中の方の座席で静かに本を読んでおられる一人の老僧がおられた。その人が―私は坊主嫌いというよりも止めようと思っているんで、そんなところになりたくないと思っている、やるつもりはまったくない。ところがその人は衣を着ている。しかも私が見るには、なんとなくその人がもっている明朗さと堂々とした風格ですね。その雑踏の中で静かに本を読んでおられるんだけども、その存在感はとっても明るく大きく見えたんですよ。私にとっては、〈おぉー、これはどういう人なんだろうか〉と思って、その人が、降りるなら、その人の後を付いて行こうと思って。行こうと思ったら、私が、「降りよ」と言われたそのバスの停留所で降りられる。付いて行ったら霊雲院(れいうんいん)(妙心寺の塔頭(たつちゆう))というお寺に入って行かれた。で、本山の仕事があるので、本山へ行って、「あの人どなたですかね。霊雲というお寺に入られた黄色い茶色の衣を着た和尚さん、どなたですか?」とお聞きしたら、「お前、知らんのか。あれは花園大学の学長じゃ」と言って教えられたんです。
 
住田:  その人が山田無文老師という人ですか?
 
原田:  そうです。私の行くのは決まりました、それで終わり。
 
住田:  その道だ、と。
 
原田:  そう。私にとっては、何おいてもこれしかないと、そう思いましたね。
 
ナレーター:  仏道を歩む決心をした原田さんは、山田無文さんが、学長を務める大学へ進学。卒業すると、すぐ神戸にある専門道場に入り、坐禅の修行を始めます。
 

 
原田:  大学では、禅学と言うて、その無文老師が教えられる、それを四年間聞かせて頂き、そして神戸の祥福寺(しようふくじ)僧堂の師家(しけ)をしておられたんで、そこにもう迷うことなく入りました。
 
住田:  しかしその神戸の道場に入られて、そこでも実はいろいろ悩みがあったそうですね。
 
原田:  そうですね。いや、これは人間には一筋の道を願っても、自分の思うようになるわけではないんですね。「臘八(ろうはつ)を迎えて―臘八(ろうはつ)というのは、お釈迦様が成道(じようどう)―お悟りを開かれたお釈迦さんの悟りにあやかって、みなが共に人間の真実に目覚める、自己に目覚める。そのために臘八(ろうはつ)というのは、臘月(陰暦十二月の異称)八日―十二月の八日にお釈迦さんがお悟りになった、その因縁に自らもあやかろうというわけで、みなが熱意をもって修行するんです。だから臘八を迎えた者は、初めて真の本当の修行者として認められるんだという、そういうものの見方が当然あったわけです。だから私も臘八になればもう真実の目が開けるんだ、と。開けて当たり前なんだ、と、そう信じておりましたね。だからそうしてやってきたんですから、道場に入ればもうその熱意で必ず徹するんだと、そう思っておりました。臘八の「成道会(じようどうえ)」というて、八日の朝成道会(じようどうえ)の法要があるんですけども、その時に何にも自分の開かれるものがない、そういう自分というものの悲しさですね、虚しさですね。その思いが大きかった。自分の挫折とまではいかないけれども、徹しなかった自分の虚しさというものが、どうにもならんで悔しくて悔しくて、今でも覚えていますね。
 
住田:  その法要の時に、道が開けるのではないかということを、
 
原田:  開けて当たり前だと思っていました。
 
住田:  開けるというのはどういうことですか?
 
原田:  いやぁ、自分の心境がね、自分というものに閉じ込められている自分が、パアッと開くんだと、そう思っておりましたからね。だからそうなれなかった自分というものの至らなさ、その虚しさですね。それでボロボロ涙が出て、今でも思い出しますですね。あんな悲しい成道会って、後にも先にもそれしかありませんけども、そんな思いでした。そう思って、無文老師のところへ行って、「私は独りで坐ります」。「独りで坐ります」と言ったら、「お前、独りで坐って徹しなかったらどうするんじゃ」「それはやってみなければわかりません」。師匠にそんなことをいうのは、そういう若い時代だからそんなことが言えたんですがね。
 

 
ナレーター:  原田さんが、先ず修行の場所に選んだのは、故郷奈良にある大峰山でした。しかし人里離れた山中に籠もって坐禅をしても、悟りに至ることができません。原田さんは、新たな修行の場所として中国山中を選びました。そこである出会いが訪れたのです。
 

 
原田:  今でも覚えています。広島と山口の県境に羅漢山(らかんざん)というのがあるんです。そこへ行きましてね、そこで山に籠もって、もう明けても暮れても坐禅をしましたがね。そうしたら、もう一週間、二週間近く経ったんでしょうね―坐禅していると、長いこと見ていたんでしょうね、ある青年が、「あなた、修行の方ですな」と言うて声をかけてくるんです。
 
住田:  それは登山の人ですか?
 
原田:  登山者じゃなくて、その人は実のところ念仏の行者さんだったんです。まだ若いですよ。私とそんなに歳は変わらなかった、その時はね。その青年が声をかけて「いいですね。あなたは修行だけに、そうして打ち込めるんだから。私なんかは、月曜から金曜まで働いて、土日になってやっと時間をつくって、こうして山に籠もるんです。それを続けているんです。いいですね、あなたはそれだけでおれるんだから」。私は、自分はしたくてやっておるわけではなくて、自分でどうしようもないからやっておるわけなんですが、それをそう言われたもんですから、何か鉄の棒でガツンとぶち殴られたみたいなそんな心境がしましたね。そうして自分が、なんと〈そうだな、そう言えばそうだな〉と思ってね。人間って不思議ですね。その言葉で―何であの言葉で、自分の蟠(わだかま)りが吹き飛んだのか、ようわかりもしません。だけども、自分の意外性でしょうかね。自分は心に自分というものを何とかしたいと思っている。それを向こうは、「いいですね」なんて言うんですからね。その思いで、〈自分の持っておるものは、何も用がなくなった〉みたいな、そんな気がしましたね。言葉を添えてみたら〈思い上がっている〉んですよね。〈自分というものに思い上がっている自分〉というものに初めて気が付いたんですよね。要は、自分がそんなに知恵があるわけでもない。その〈知恵のない自分が、そんなに拘り思い上がったってしょうがない。それよりも大いなる知恵のある人がおられるのに、その知恵を何で頂こうとせんのじゃ〉ということに気が付いたんですね。もうそうなったら、帰るしかない。道場に帰って来て、で、無文老師にご挨拶して、「帰ってきました」と。「わかったのかい」と言われました、皮肉られましたがね(笑い)。「帰るべくして帰りました」と言って。そして帰って来て、それから不思議なことに、もうすべて任せた気持ちでしたんで、二度と迷わなくなりました。
 
 
ナレーター:  神戸の道場に戻った原田さんは、山田無文さんの指導を受けながら、いっそう坐禅の修行に打ち込みました。当時、山田さんは、坐禅を世界に広める活動に精力を傾けていました。昭和五十一年(1976年)には、建国二百年を迎えたアメリカを、原田さんたち大勢の弟子と共に訪れます。
 

 
原田:  私は、アメリカの建国二百年の時に、ニューヨークの飛行場に降りましたら、雲水六十人と一緒に無文老師は降りられて、そうしたらカメラの放列です、ズラッと。それこそ何十台という―二、三十台あったと思いますよ。そうしてアメリカの建国二百年に坐禅堂で坐禅をなさる。「もうアメリカに禅が根付いたんでしょうね」と言いますと、「あぁ、あと二百年かな」と言われた。ということは、やはり生活がそこに根付かないと、それは伝わった、ということにはならんよ、という意味ですわね。ですから、なんか難しいという意味ではなくって、やはり繰り返し繰り返しみなが努力しながら、社会のあり方、人間のあり方を努力して平和を築いていく。そういう社会が自然に生まれてきて、初めて坐禅が行き届いてきたかな、ということができるであろう、という意味だと思いますね。
 
ナレーター:  原田さんの修行が二十年に及んだ昭和五十七年四月、大きな転機が訪れます。山田無文さんの計らいで、岡山にある曹源寺の住職に就いたのです。曹源寺には、檀家がいません。坐禅を広める活動には思う随分取り組めます。山田さんの狙いはそこにあったようです。
 

 
原田:  これだけ広い土地とそれぞれの諸堂伽藍があるのに、まったく使われていない。これは勿体ない。これをみなで使おうじゃないか、とそう思ってね、多くの人たちに呼び掛ける。そしてやはり日本社会の場合には―日本人という社会がある、その中に海外の人が入る。要は、垣根を越えて中に入る。これは簡単なようで、ちょっと難しいんですね。日本人社会の中というのは、日本人は海外の人と違って、民族的にはそんなに異質文化と関わっていない。そういう中でみなが難しいことを言わずに、ウンウンで済むんですよね。そういう中に入ると、まったく弾き返されるような感じでしょう。私にも努力しなければいかんのは、漢字文化とアルファベットの文化、その交流を、置き換えをどうしていくかというのが、最先端におる人はみな感じるわけですね。というのは、同じように言葉を訳したから、相手にわかるのではなくって、その相手にわかるように訳し直さないといかん。こういう中に翻訳の難しさというものがあると思うんですけど、修行も同じです。修行もやっぱり坐っておればいいということではなくて、その坐るということから、やはり禅の文化、長い間祖師方が育てられたことをやはり海外から来た人たちに体験して頂く。そのためには、やはりある程度訳さなければいかん。訳すだけでは届かない。その人がそういう心境になって頂かなければいかん。こういうようにして時間をかけて―だからここでは二十年の人が多いというのは、そういう意味です。ですからやっぱり時間をかければ、通じないものが通じる。届かないものが届く。だから文化は違っても、やはり時間というものの大切さ、その中で絶えず自分たちが学びとっていく。こちらも学ばして頂く。修行者も学ぶ。お互いが学び合うことがやっぱり必要になってきます。
 
住田:  そういう場として、こちらのお寺が大きな拠点になるわけですけれども、平成元年から、今度は海外各地の道場で禅を広めようと、こういう動きとられますね。
 
原田:  自然にそうなったんです。だから先ほど申しましたように、海外から来ている人が、ここで十年、十五年と修行すると、次第に〈あ、この人は、もう向こうへ行って、自分の国で指導することの方がもっと大きな意味をもつ〉と感じます。だからその場所に帰らせてあげるんですけども、それだけじゃ足らんわな、と。やはり行ってあげなければ、そしてその場所に縁をつくってあげなければ根付かないわなと思って、それで行くようになったんです。ですから今年はもう初めて海外に渡ってから二十五年―ちょうど一世紀の四分の一ということになります。
 
住田:  こちらのお寺の場合は、日本文化の中に海外の方が集(つど)う拠点という位置づけですけれども、海外の道場の場合は、海外の文化の中に禅の心の拠点を作る、これ逆ですよね。
 
原田:  そうですね。逆なんですけれども、やはり禅というその基本は、やはり坐るということですから。坐るということになると、みなが日頃バタバタして外のことばかり関わっている自分が、坐ってみると、こういう視点があったのかな、と。自分がものを見る視点、位置―それが気が付かなかったものに気が付いてくる。こういうところが大切ですね。ですからその人に、「これ、わかれ」というわけじゃなくって、自分がやってみて、自分の中にそういう落ち着いた雰囲気があったんだな、と気が付いて頂く。それに気が付くのには、坐禅が一番適しているなということを感じます。
 
住田:  ここの文化の土壌では、これは難しかった、これは壁があったな、と感じられたことはないですか?
 
原田:  それは当然どこへ行ってもあるんです。どこへ行ってもあるんですけれども、やはりそれを壁としてできないのではなくって、その中でお互いが少しでも近づける、学べあえる、そういうことを大切にしなければいかんと努力してきました。そういうと、私がよく関わるのは、もともとソ連連邦が崩壊した後、力で押さえていましたが、その力が外されて、それぞれの国が自由になり、独立するようになる―独立というか、自分たちの主張は通るようになると、人間というものは、自分のもっている自我・思い、それの中で混乱をするわけですね。そういう中で一番問題は、各家庭の家族の構成や信頼、そういう中で道徳的な混乱がやっぱり起こっている。家庭の道徳や地域の関わり合い、これに混乱する人たちが多いんです。そういう人たちが坐禅に来るんです。ですからそこでやるのは坐禅―やっぱり自己を見つめ、そして周りの環境を調えていく努力を共にする。その場をそこに生み出していかなければいかんと思います。ですから熱烈な坐禅しますね。ですからほんとに真剣にかえって来ます。残念ながら自分をどうしたらわからんのですから。自分をどうしたらいいかわからん人たちを、「一緒に坐りましょう」と言って坐りながら、徐々に徐々にいろんな人間の信頼、自己の目覚めというものを説いてあげる。そして共有するように努力するんですけれども、やはりそういう経験をもっておられる人に出会ってみて初めてわかることがありますね。
 
住田:  それぞれの政治ですとか、社会の枠組みが時代によって変わっていく。その中で自分は何なのかを見失った方が世界各地にいらっしゃるということですね。
 
原田:  そうです。だからそういう人たちに人間のあり方をもう一度見直し、そして自分たちがどうあればいいのか、ということを、より所にして頂く。そのためにやるべきことはいっぱいあるなと思いますね。
 

 
ナレーター:  世界中から寺に集まった修行者たちが、坐禅を通して、見つめようとしているのは、生きることの本質です。釈迦が、仏教を開いた原点は、生まれた人間が、病み、老い、やがて死んでいく姿に衝撃を受けたことだと伝えられています。原田さんは、人の死を見つめることが、生きることの本質へ辿り着く上で、欠かせないのではないか、と考えるようになりました。死を間近にした人が、安らかな最期を迎えられるよう寄り添い、生きることと死を見つめる。原田さんは、平成十三年、アメリカでホスピスを始めます。あるアメリカ人医師との出会いがきっかけでした。
 

 
原田:  私のご縁のある方で、ニューヨークの巨大病院の内科医長まで務められたベッティという女医さんなんですが、その方が、乳がんになられて、そして自分の治療と闘病の中で、一応ガンを抑えておられるわけなんですが、もう仕事に関わっていたら治ることはない、再発も起こるということでリタイヤーされて、そして私の禅堂のあるフリッドビアイランドというんですが、そこにやって来られた。フリッドビアイランドはとっても自然の豊かな場所ですので、そこへ来られて、「わぁっ! こんなところで、私は人の死というものを、最期を送らせてあげたいと思うんです」と言うから、「あなた、そう思いますか?」こういうと、「はい。私は、あるお師匠のお世話をさして頂いて、そして人間の死とはこんなに美しいものか、と、ほんとにお師匠さんの最期を看取らせて頂いて感じました」と。
 
住田:  その女性の医師ベッティさんが、どなたかの死を看取られたということなんですね。
 
原田:  そうですね。その方の禅のお師匠なんですが、その禅のお師匠さんに、長年付いて来られて、そのお師匠さんが、晩年、「あなたは、私の最期を看取ってくれるかね」とこうおっしゃった。「ええですよ。私ができることならさして頂きます」と言うて、お世話をしたそうです。ところが、そのお師匠さんは、ほんとに隠すこともなく、自分の死へ向かっていく自分のいろんな人間の身体の問題ですから、いろんな表現があるでしょ。ですけども、それをほんとにまあ言えば明朗に感じられたというのか、そういう中で、人間というものが生きていた間は、その人その人のしがらみというものがあるんですよね。ですけども、その人がどのように生きたかということに意味があるのじゃなくて、人間の死というものを覚悟した時に、人間は生きてきたあらゆるものから解放されている。そのとらわれの中で生きてきたんですから、そのとらわれがすべて解放される。そういう人間の美しさというものが感じられる。私は実のところ、修行時に―修行に悩んだ時に一番感じたのは、その自分がとらわれているものからパアッと解放された、そのことを実感したわけなんです。その人は同じことを言っている。だから「あ、なるほど。それは大事なことです。人間というものは、生きている生活が、どんな立場の人であれ、そんなことではなくて、人間がもう最期だ、死を覚悟しなければならんと思った時に、ほんとに人間というものは、あらゆる負担から解放される。そのことが、その女医さんが実感してみておられる。「それがホスピスならば、それは大事なことで、それやりましょう。」何故いうたら、私の弟子にそれを見させてやりたい。だから私は幸いにして、シアトルの道場―広大な土地なんですが―それの隣にその土地が建物と共に手に入りましたので、そこでホスピスを始めることにしたんです。そしていろいろ試行錯誤しながらそこにホスピスを持つようになって、私のお世話をするのは、勿論ドクター、ナース、そしていろんなボランティアの人、そしてシアトルのホスピスのネットワーク、こういうものがなけらば成り立ちません。そういう人たちに囲まれておっても、その一人の人の最期を看取るというよりも、二十四時間付いている。それが私の弟子なんです。修行者が二十四時間傍についている。勿論交代ですけども。ですけども、傍に付いていると、その人が手を上げるだけで、テッシュを欲しいのか、水が欲しいのか、すぐに解るんですね、傍におるから。だからそういうような中で、付いていると、そして次第次第に周りの家族の方々も友だちもみな集まってきます。もう息が絶え絶えになってくる、そういう中で、うちの修行者が感じていたのは、「人間生きているのは身体じゃない、ということがわかりました。肉体じゃないんですね」と言う。「君、わかったのかい?」とこう言うと、「はい。空間が生きているんです。家族や、そしてナース、ドクター、そして当人、そしてそれらが、言えば息を引き取っても―今まで動いていた人、呼吸していた人、ピタッと止まります。止まりますけれども、ほんとに周りの人たちが一つになっている。その環境、空気が生きている。空間が生きているということが実感しました」「君、それがわかったか。それがわかるほどになったら、君はとても立派だ」。こうして修行者たちは坐禅をして―自分は坐禅をしておる、それではほんとの坐禅になりやしません―そうじゃなくって、この空間と共に一つになっておれる、その空間が坐っているという、その実感を味わって頂ける。これが私は、生きた坐禅だと思う。だからそういう人間のあり方は、個体じゃなくて、空間がその人を表している、ということがわかってくれただけでも立派だと、私は思っております。だからここから次々と送って、交代交代にその経験者を増やしていく。その経験した人はいい修行をしてくれます。もう私から見るならば、お釈迦さんほど大きな空間を感じられた方はないと思う。今の時代には、時間も越えて、そしてお釈迦さんは、「三界はこれわが有(う)なり」この世界は私の世界だ。そこに住む人たちはみんな私の子どもだ、と言えるのは、まさにそれだけの広大なお釈迦様の、いえば空間が生きている、と言えると思うんですね。まさに坐禅とは、個人個体が坐るものではなく、その空間が坐るということに気が付かして頂く。いうなれば、私たちは、自分が坐るだけではなくて、社会が坐る、地域が坐る、そして国が坐る。世界中の人たちが坐れるような社会が生まれなければならん、と思うんですね。私たちにとって一番大事なことは、ホスピスを作った時の意味は、人間の最大の知恵は祈りです。ですから我が儘で生きていては自分の人生に祈りが持てない。だけれども、私たちには、人生の中でいろんな意味の中で、自分の欲望や苦しみや悲しみがあるけれども、背景にもっと大きな宇宙大の生命を感じ取る。それが私は、「祈りだ」と思う。だから何かに祈るということではなくて、自分の生命の真実に目覚めていく。これが私たちの人生であろう、と。人生とは、自分の欲望を満足する場所ではなく、偉大な私たちの生命に気付かして頂く。何らかの形によって、私たちの人生の、いえば価値。要はそういう大きな背景を抱いた生命である自分であるというものの大きさを人は実感している。坐禅とはそうだと思うんです。坐禅は、自分の肉体じゃなく、その背景をなしている私たちの偉大なる大きな生命力を、私たちは実感することが坐禅だ、と思うんです。だから坐禅とは、私は「祈りだ」というのはそこなんです。だから坐禅は祈りです。祈りを私たちは失ったら、人としての、いえば希望、いのちの信頼、それは失われるでしょう。だから私たちは、やはり人生に祈りのない人生はあってはならないし、人はみな「祈り」と言ったら、何か有り難いものを探すんだ、と思われるから、それが大きな間違い。そうではなくて、何かを頼ろうとするんじゃなくて、既に自分が大きないのちを頂いていることに対する信頼を深めていく。私たちは、心の中のとらわれを放すことによって、その大きさを信頼していく。それが私は、「坐禅だ」と思うんですね。ですからそういう偉大さ、宇宙と一体となっておる偉大さに目覚める人こそ、私たちはその人の人生の最後は輝くと、私は信じております。
 

 
住田:  日々世界各地では、諍(いさか)いがまだまだ続いています。ということは、道はまだまだこれから、
 
原田:  そうです。実感するところは、今現在は、人間の横の繋がり、いえばフェイスブック(Facebook)やツイッター(Twitter)や、あらゆるものによって人間は、立ち所にして繋がりが持てます。だからその繋がりによって、一国はひっくり返ることだってあるんですからね。ですから今日はそういう人間の横の繋がりはあるけれども、みんなが根があるのか、ということになると、ないと思いますね。ですから繋がりはあっても、根がない。「根がない」ということは、絶えずみなが不安になる。不安でしかない。それを不安である一人ひとりが目覚めて頂く。時間はかかります。時間はかかるけれども、その努力をやはり私たちは怠ってはならんと思うんです。繰り返し繰り返し坐禅をし、そして一人ひとりが根を下ろしていく、そういうチャンスをみんなの力で開いていかなければならん、と思うところです。
 
住田:  もう七十を超して、まだまだ海外へ行って、
 
原田:  もう七十三。私が思うのはね、後十年は現役でやらないといかんと(笑い)。そしてみんなのサポートをして、根を下ろさしてやらなければいかんな、と思っているんです。終わりはないと思います。ですけども、私たちにはそういう願いをもって、一人でも多くの人たちに、その体験と自らの心境を深めるという努力をして頂ける、そのチャンス、その雰囲気づくり、その場所づくり、それをしていかなければならんと思っております。
 
     これは、平成二十六年五月十一日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである