鑑真が残したもの
 
                 唐招提寺 宗務長 西 山(にしやま)  明 彦(みようげん)
一九五一年、三重県生まれ。一九八二年、龍谷大学大学院修士課程修了。伝香寺住職。二○一○年より唐招提寺執事長。
                 き き て    杉 浦  圭 子
 
ナレーター:  奈良の唐招提寺(とうしようだいじ)。天平宝字(てんぴようほうじ)三年(759年)、日本で最初の戒律を専門に学ぶ道場として開かれました。唐招提寺を開いたのが、苦難を乗り越えて唐からやって来た高僧鑑真(がんじん)です。唐招提寺で宗務長を務めるのが西山明彦さん。西山さんは、決死の覚悟で海を渡った鑑真の志に思いをよせています。
 

 
杉浦:  国宝の鑑真和上像のお身代わりが去年完成しまして、私たちはいつもお姿を身近に拝見することができるようになったんですけれども、とても静かでみんなを包んでくださるような穏やかなお顔をなさっていますね。
 
西山:  今まで国宝の鑑真和上像が、六月の五、六、七の三日間だけご開示で、ちょっと照明ができないものですので、遠目にお詣りをして貰っているんですけども、なかなかお姿がわからなかったんです。昨年が鑑真和上円寂祭(えんじやくさい)二百五十年。亡くなられて一二五○年経ったので、今まではそれはしてはいけないことだと言われておったんですけども、和上のお身代わりの像を造らせて頂いて、そしてみなさんに和上の本当のお姿というんですかね、和上のご苦労されたお顔を、もっとはっきりと詣って貰った方に拝顔して貰いたいというので、我々思いきって、今までしてはいけなかったことをやらせて頂いたということで、一年間経ったんですけどもね。やはり詣って貰った方は、今まで鑑真和上のお像って、なんか暗くてわからなかったけれども、今よくわかると。一番印象は、がっちりとしたお体でしょ。お顔も凄く少々の苦難に堪えられるという感じのお顔というのがよくわかって貰えたと思うんですけどもね。
 
杉浦:  その鑑真和上は、どんな思いで海を越えて日本に来られたんでしょうか?
 
西山:  おそらくいろんな先生方のご本なんか読ませて頂くと、我々仏教徒と言いますか、出家した者たちは、お釈迦様の教えを伝える義務がある。要するにお釈迦様の教えが伝わっていないところには、自分の身命を惜しまずに伝えなければいけない。現在の我々はちょっとそれには二の足を踏むんですけどもね。そんな大変なところに行きたくないとか、そんな恐いところかなわんとかなるんですけども、その当時の和上たちの考えというのは、法が伝わっていない、お釈迦様の教えがあまり伝わっていないところには、命を惜しまない、進んで出掛けるんだ、というお気持ちが出てくるんですよね。ですから和上はとにかく〈日本の方たちにお釈迦様の法を伝いたい〉、そしてもっと言ってみれば〈幸せになってほしい〉と願ったわけですよね。当然その当時の唐の国の技術は進んでいましたからね―医療も文化すべてが進んでいましたから―おそらくはあまり進んでいないであろう日本に行って、「私たちの文化を伝えたい。お釈迦様の教えを伝えたい、日本の方がより幸せになってほしい」という、それが仏法を伝える一番の目的なんですよ。現在の一二五○年経った現在、ズーッとその歴史を振り返ると、鑑真和上が指導してくれたことが、今花開いている。ですから一二五○年前に、種植えををしてくれたということが今わかってきたわけです。ですから和上は、おそらく〈私の言ったことは千年後に花咲くでしょう〉と、多分思っておったでしょうね。それはどんなことかというのは、最後には仏の国、いわゆるお釈迦様の教えが、津々浦々まで行き届くようなシステムを作りあげてくれた一番最初の恩人だったわけですね―と私は思うんですけどね。
 
杉浦:  では、今日は天平の昔に、鑑真和上が日本でどんなことをなさったのか、具体的に教えて頂きたいですし、今の現代の時代に私たちが鑑真のなさったことから受け取るメッセージを是非教えて頂きたいと思います。
 

 
ナレーター:  当時中国の揚州(ようしゆう)(現・江蘇省)にいた鑑真は、仏教の戒律を伝えてほしいという朝廷の招きで日本へ渡る決意をします。しかし日本への渡航は苦難を窮めました。行くのを止めようとする人たちの妨害や、海での遭難で、失敗は五度に及んだのです。六度目の試みで漸く日本へ辿り着き、鑑真が九州の太宰府(だざいふ)に入ったのは、天平勝宝(てんぴようしようほう)五年(753年)十二月のこと、日本へ渡る決意をしてから十年あまりが経っていました。翌年平城京に到着した鑑真は、東大寺で聖武(しようむ)太上(だいじよう)天皇以下に授戒(じゆかい)を行いました。鑑真を日本へ駆り立て、苦難を乗り越えさせたのは、仏の教えを人々に広めたいという強い思いでした。鑑真は、奈良の都で天武(てんむ)天皇の皇子新田部親王(にいたべしんのう)の屋敷の跡を与えられ、戒律を修行する道場を開きます。これが唐招提寺の始まりです。以来一二五○年あまり、唐招提寺は鑑真の教えを護り、今に受け継いでいるのです。
 

 
杉浦:  鑑真和上は、朝廷から招かれて戒律を伝え、戒を授けるために日本に来られたそうですけれども、そもそも仏教のいう戒律とはどういうことなんでしょうか?
 
西山:  私たちは、今「戒律(かいりつ)」という言葉を使っているんですけども、それは中国で「戒律」と熟語でなってしまうんですよ。もともとお釈迦様がお出でになったインドでは、「戒」と「律」というのは違う意味があった。サンスクリットという昔の言葉でいうと、「律」は「ヴィナヤ」、「戒」は「シーラ」と言われるんですけども、「戒」というのは、毎日の「正しい習慣、良い習慣」。例えば朝起きれば顔を洗うとか、自分にとって良いこと、良い習慣を「戒」と言ったんですね。「律」は「何か法に触れると罰則がある。してはいけませんよ」という。ほんとに私たちが思っている「戒」というのは、そちらの方の意味が多くなったんですども、「律」というのは罰則が伴う、してはいけないことを「律」と言った。ところがいつしか「戒律」という一つの言葉になってしまって、それも「律」の方の意味が非常に重くなって、「戒」という本来の「良い習慣」―いわゆる今でいう「倫理道徳」ですね。倫理道徳的なことを意味した、それを二つ併せ持って「戒律」というふうな形に本来はあるべきなんですけどね。
 
杉浦:  その倫理道徳になる「戒」には、どういうものがあるんですか?
 
西山:  既に鑑真和上がお出でになる二百年前に、ご存知の聖徳太子さまの「十七条憲法」中に、「篤(あつ)く三宝(さんぽう)を敬え」という文言があります。「三宝」というのは、「仏」と「お経(法)」と「サンガ(僧伽)」なんですけどね。それで二百年前に、そういうふうな日本に仏教が伝わってきているんですけども、仏教の「戒」というのは、一番私たちが最低限守らなければならないこと、これが五つあるんですよ。鑑真和上がおっしゃったのは、とにかくお釈迦様がおっしゃっているのは、最低私たちは五つ守らなければならないことがありますよ。それも二つの流れがあって、一つの流れが、先ず聖徳太子さまの時からずっと日本にテキストとして入ってきています。仏教としては「学ぶのが五つありますよ」というようなことが、奈良に都ができた段階で、そのテキストは十分伝わっていたんだけども、鑑真和上がお出でになって、もう一つ違う種類のテキストをお持ちになったんですね。その鑑真和上がお持ちになった『梵網経(ぼんもうきよう)』というテキストは、出家者も、それから在家の人―一般の人も、共通に人間としてこうあらねばならないという最低の「五つの戒」だったので―それはどんなことかというと、
一番最初は、今までは「あらゆる生き物を殺してはいけませんよ(不殺生戒(ふせつしようかい))」という。絶対生き物は殺生してはいけませんという。じゃ人間はどうして生きるの、ということになると、それはベジタリアン(Vegetarian:菜食主義者)でいきましょうという。僧侶に関してはそうなりますけども、鑑真和上がお出でになった時には、「殊更生き物を殺してはいけませんよ」と、その「殊更」という字が付くんですよ。要するに今でいう日曜日にお魚を釣りに行って楽しむとか、それは一切ダメだけども、生きんがため、殊更生き物を殺してはいきませんよ。「殺生戒」というのはそんなふうに変わってくるんですね。
二つ目は、「他人のものを盗んではいけない(不偸盗戒(ふちゆうとうかい))」。これは人のものを盗んではいけないというのは、二つの流れは共通なんですよ。
三つ目は、いわゆる「男女の関係を正しくしなさい(不邪淫戒(ふじやいんかい))」というのは、インドのお坊さまというのは、もう肉食妻帯をしてはいけませんよ。まさに妻帯をしてはいけないという独身生活を送るんですけども、鑑真和上がお出でになった時には、『梵網経』というお経に基づいて一般在家の人にもそれを適用しますから、当然結婚して夫婦生活する、それが普通の状態なんだよ、ということを言いますので、いわゆる夫婦間の結婚は認めましょう、という形を取るんですよ。それが『梵網経』の特徴でもあるんです。これがお寺で肉食妻帯していくという一つの修行の生活もOKだし、また一般の形と同じような生活をしながら、仏様の教えを伝えていくといくというその姿も認めましょうというのが、『梵網経』の考えなのです。和上がお持ちになったそのテキストの三番目は、いわゆる「男女の関係を正しくしなさいよ」という。今の言葉で平易に言えば、「浮気をしちゃあかんよ」という話ですね。
 
杉浦:  結婚相手以外とは交わってはいけない、と。
 
西山:  そうですね。四つ目は、「嘘を付いてはいけない(不妄語戒(ふもうごかい))」。これは両方の流れは同じです。
五つ目は、これは非常に私たちは誤解受けているんですけども、「お酒を飲んではいけない(不飲酒戒(ふおんじゆかい))」。一般の方は、「お坊さんはお酒飲んでもいけませんよ」となりますよね。これはいろんな時代によって解釈があるんですけれども、中国も日本も神に仕えるとなると、「お酒」と「お餅」というのは切って離せない。それは神様にお供えするとても大事なものだということになってくると全面否定はできないで、もともとサンスクリットのインドの五つの戒のうちの「お酒を飲んではいけません」と、漢訳した部分の原点を、前田先生がおっしゃっているのは、「心の惑わすものを服用してはいけません」ということが書いてあるそうです。それを漢字に訳すと、「酒」という字に変わってくる。ですから「酒」という字を使ったために、私たちは「お酒」とすぐ結び付くんですけども、そうじゃなしに、今の時代にいうと、薬物だと思うんですね。要するに、「心を乱す薬物を服用してはいけません」という一つの流れ。ですから非常に人間らしいというんですか、一般の生活をしながら、お釈迦様の教えを伝えていこうというためには、このような『梵網経』という戒律―五つの戒を守ることが先ず基本なんですよ。これだったら守れますよね。それで鑑真和上の時代から、それを一晩だけ飲むとか、一週間しましょうとか、三百六十五日は無理だけども―出家者は三百六十五日そういう生活をするんだけども―在家の人は普通のお仕事をしながら、例えば一週間とか日を決めてそれを守りましょうと。それでいてお釈迦様の教えを伝えることができる。そして自分自身もそれを守って、次の人にバトンタッチができますよ、というライセンスを鑑真和上はみなさんに与えようと思って日本にお出でになった。というのが、鑑真和上がお出でになったもう一つの理由なんです。とっても大事な理由なんですけどね。
 

 
ナレーター:  生き物を殺さず、人の物を盗まず、男女の交わりを正しくし、嘘を付かず、心を惑わせるものに手を出さない。日々を安らかに送るために守るべき決まりを説いている『梵網経』は、この世に生きる人々を広く救おうという、当時最先端の経典でした。唐招提寺では、この『梵網経』の教えを、今も大切にしています。西山さんは、『梵網経』が説く五戒を守ることを誓う受戒を、僧侶だけでなく、一般の人々にまで広めようとした鑑真の思いが、日本の仏教の礎になっていると捉えています。
 

 
西山:  それまで鑑真和上がお出でになる前は、「授戒」というのは、僧侶のためのそういう儀式だと思われておったのが、鑑真和上が、『梵網経』というテキストによると、一般の人にもそれをしてもいいですよと。というか、当然それはするべきだということが、まだ日本には伝わっていなかったみたいですね。鑑真和上がお出でになって、受戒を受けた者だけが正式なお坊さんですし、その時に一般在家で受戒を授けられた方は、仏教徒ですよと。その時にペーパーでライセンスを与えるんではなしに、心の言葉として貰う。それはいわゆる仏教の一番大事な心の問題なんですね。
 
杉浦:  その戒を授けるというのは、どういう意味合いがあるんですか?
 
西山:  「受戒」というのは、今の人たちは理解し難いんですが、一番特徴的なのは、「未来に約束をすること」なんですよ。それはどんなことかというと、今言った「五つの戒を絶対守る、という誓約をしなさい」と。何か私たちは、今まである種の行(ぎよう)を踏まえてきて、そしてライセンスを頂戴するというイメージがあるんですけども、そうではなしに、「将来今日からこれを絶対守ります」という約束をしてライセンスを頂戴するという。そういうような受戒をした時に、どんなことが行われたかというと、あなたが誓うのは、私にも誓って貰う必要があるし、仲間の僧侶にも誓って貰うけども、もう一つ後ろに、この地上、この地域におられる神様に今来て貰っているので、神様にも誓って欲しい。そしてもう一つは、過去のお釈迦様―二千六百年前に誕生なさったという、お釈迦様にも誓って欲しいし、現在此処におられるであろう仏様にも誓って欲しいし、未来にこの世に現れる仏様にも誓って欲しい。三世の仏様に約束をして欲しいという。約束というのがとても重いんですね。そしてまた受ける方も、約束というのは凄く真剣に守るんですよ。それを破るということはとても恐いことだと。「罰が当たる」という言葉が今残っていますけどね。ですから私たちの今の精神状態とはまったく違う。神と約束をするということはとても大事なことなんですよ、と。ですから一度壇に上って、和上から受戒を受けたものは守るんですよ、それを守ろうとする。
 
ナレーター:  唐招提寺には、授戒の儀式を執り行う場所―戒壇が今に残っています。鑑真が築いたと伝えられるこの戒壇で、多くの人々が五戒を守ることを仏に誓ったのです。
 

 
西山:  もう一つ、日本人がその誓うことによってどうチェックするのかというので、昔と言っても、私たちも幼い頃やっておったんです。田舎でしたが、半月半月毎月毎月お寺に集まって「布薩(ふさつ)」というのをするんですよ。いわゆる「懺悔行」と言いまして、その時は懺悔をして赦してください、ということで、仏に赦しを乞うという儀式があるんですが、表裏一体になっているんですね。表は受戒。一回受戒を受けると、半月半月に懺悔式がありますよ、という。
 
杉浦:  戒を守ることを誓い、そして半月毎にちゃんと守られているかを、懺悔をする―反省をするということですね。
 
西山:  「布薩」という懺悔式がある。守られていない場合は指導に従うという。それが鑑真和上が、日本にお出でになって、一番先にやられたことが、日本にまだなかった「授戒」と「懺悔式」―布薩というんですけどね。
 
杉浦:  鑑真和上は、命を懸けてそれを実践して、私たちに見せてくださったという。
 
西山:  そうですよね。なんか凄く「えっ!そんなこと」と、誰しもがそう思うんですよ。「そのために命を懸けたの?」って。でもとても大事なことだ、ということが、今あまり感じられないですよね。神様に対して嘘を付くというのも凄く当たり前のようになってしまっている。でもそれはとても恐いことなんだ、人間にとっては恐ろしいことなんだ、ということは、今なかなか理解できない。平気で嘘をついてしまうという。昔の人は、凄く真剣だったでしょうね。約束に対して嘘を付くということは、とても恐いことなんだ、ということを。
 

 
ナレーター:  受戒によって、三世の仏に戒を守ることを誓う。鑑真が、日本に伝えようとしたのは、人が生きていくための基本姿勢でした。それは、人々が戒を守ることで、平和で平等な世界が現れるという仏教の根本的な教えだったのです。
 

 
西山:  日本の仏教界に関わらず、いろんな世界に仏教を説明する時に、「お浄土」というのはとても大事なことで「天国―次の世界」。「次の世界」に安寧(あんねい)を得るためには、この世でしっかりとした生活をしなさいよという、その目標というか目的は、「お浄土」もしくは「天国、次の世界」に良いポジション(position:立場)でいたいというのが、我々の願いなんですけども、鑑真和上は、まだそれよりも「この世でどういう生活をするか」というのがとても大事なことで、それは次の世界のためではなしに、「今この世でみんなが幸せになるためにすること」であって、また『梵網経』というテキストもそういうふうに書いてありますね。「今この世でどうあるべきか」ということを。ですから、私たちの奈良の仏教を「南都仏教」(奈良時代に奈良の都に興隆した仏教。南都六宗・南都七大寺に代表される)と言うんですけども、奈良の僧侶というのは、浄土へいく別れ式―いわゆる葬儀ですよね―を担当しないんですよ。むしろ今のように、元気な方に仏様の教えを伝えたい。そのためには先ず仏教徒になって頂きたい。それは先ずお釈迦様の教えを信じて貰いたい。そのために先ず「授戒式」という式を経てお釈迦様の教えを理解して貰う。どんなことを理解すればいいの?なんていうのは理屈ではなしに、人間として毎日の生活の中で守らなければならないことがありますよ。それが倫理道徳。今の言葉で言えば「倫理道徳」を守ることが最善なんですよ。それがお釈迦様の最後の教えとは言いませんけども、最初おっしゃった言葉、そして現在そうあるべきだというのが「五つの戒」。
 
杉浦:  一般庶民で言いますと、「五つの戒」を守ったら極楽浄土に生まれ変われると、
 
西山:  それはわからですよ。
 
杉浦:  そのために今、戒を守らなきゃというふうに発想としてはどんどんなるんですけど、鑑真がおっしゃったのは、そういうことではないんですか?
 
西山:  じゃ、何故それをするの?というと、最後の究極の目的は、「周囲の人、自分以外の人を幸せにする必要がある。だから自分よりも他の人のことを考える心が大事ですよ」ということを鑑真和上が教えた。これは「大乗戒(だいじようかい)」というんです。「利他行(りたぎよう)」ともいうんですけども、「自分自身の悪いことをしない、善いことをしましょう。次に他の人のことを考えて生活をしなさいよ」という、そこの部類に入るんですね。だから鑑真和上は、おそらく浄土思想もあったと思うんですけども、もっと現実に受戒では、「他の人のことを考えて生活しましょう。そのために五つの戒―僧侶になるともう少し増えるんですけどもね―五つの戒を守ることによって、自分自身を浄くするけども、周囲の人、他の人も幸せにすることがとても大事なことなんですよ」という考えを始めて紐解いてくれたのが鑑真和上だった、というわけですね。
 
杉浦:  それによって実現する世の中というのは、どういう姿なんですか? 鑑真和上が理想となさった世の中の姿というのは?
 
西山:  それを世界の人が追い求め、日本の人がそれを追い求めて、一二五○年経ったんですけどね。まだ生き物を喜怒哀楽で殺しているし、人のものを盗み合うし、非常にややこしい男女関係も大変多いし、麻薬を―薬物を吸っている方も後を絶たないし、実現していないのと違いますか。
 
杉浦:  じゃ、あの世でも幸せのために現世があるのではなく、現世をよくするために戒を守って、
 
西山:  いきましょうという。
 
杉浦:  戒を守るということは、「すべて他人(ひと)のために」というところに繋がっていくんですか?
 
西山:  最終目的は、「他人(ひと)のためにしなさい」という「三聚浄戒(さんじゆじようかい)」―「利他行(りたぎよう)」というんですけど―最終目的はそこにあると。でもそれをなすためには、普段から自分で悪いことをしないで、善いことを積んでいかないと、すぐに飛び越えてはなかなかできにくいですよね。ですからあえて鑑真和上は、授戒というのは生きた人に授けましょう。そしてそれは生きている間に守らなければならない。三世の仏に嘘を付いてはいけませんよという、絶対的な条件で守れ、と。それは何故守らなければいけないというのは、未だに実現しないそういう理想世界、それが仏教の理想でもあるんですよね。
 
杉浦:  そういう仏教の理想を、日本に伝えてくださった鑑真和上のことを、西山さんはどんなふうにご覧になっていますか?
 
西山:  実はこのお寺にお邪魔したのが一九七○年からなんですけども、それまでは教科書に出てくる「鑑真」という一人のお坊さまだったんですけども、このお寺へ入って「祖師さま」ということで、絶えず『梵網経』というお経と鑑真和上の宝号(ほうごう)「南無過海大師(なむかかいだいし)」というお名前を唱えるんですよ。ですからそういうふうなあまりにも身近すぎて畏れ多いというんですかね。
 
杉浦:  西山さんのお立場でもそうなんですか?
 
西山:  なるべく和上のお像の傍に行きたくないという。凄くなんか自分を見透かされているというんですかね。多分和上はおっしゃっていると思うんです。一二五○年後の弟子はこの程度かと思われたら困りますから、傍に行きたくないという。それで知れば知るほど凄く大きすぎるというんですかね、私たちにはとても近づけない、及べないというんですかね、そういう存在になっています。これからも多分そうなっていくでしょうね。でも何かここにいるからには、みなさんに鑑真和上の思いを伝えたい。それの正確に伝える必要がある。なるべく鑑真和上がお思いのことを、少しでも伝えられたらいいなと思うんですけどね。多分今頃笑っておられるでしょうね。
 

 
ナレーター:  西山さんは、昭和二十六年、農家の次男として三重県に生まれました。熱心な仏教徒だった母親の姿を見て育ったと言います。高校卒業した西山さんは、大阪の会社に就職し、会社員としての生活を始めます。この時下宿したのが、奈良市内にあるお寺伝香寺(でんこうじ)―唐招提寺の末寺です。当時住職を務めていた徳田明本(とくだみようほん)さんが、西山さんお母方の叔父という縁からでした。徳田さんは、西山さんに大学への進学を奨め、のちには仏道の師匠となります。徳田さんとの出会いが、実は西山さんの仏道への入り口だったのです。
 

 
西山:  その時で、一九七○年ですからね、ちょうど学生運動が下火になった頃ですよ。だから日本中がみんなが大学へ行く時代に、私たちのとこはそんな発想でなかったんでしょうね―行く子は行っていましたけどね。で、師匠は、「時代が違うから勉強して行きなさい」と。「せめて大学を出たらどうや、と。資金的なものは援助するから」ということで、私にとってはそんはもう棚からぼた餅どころの騒ぎじゃないですよね。〈えっ、そんなことになるや〉と思いましてね、もう気持ちはそこへ飛んでしもうたんですけども。「ただし条件があると。朝ご飯を炊いて学校へ行きなさい。帰りは夜遅くならないで、五時に帰って来て夕飯を作れ」というわけですよ。「日曜日は寺の掃除をしなさい。私のものの洗濯もせい」と言われたんですけども、その時はそんなことは軽く聞き流して、それで〈大学へ行けるんだったら、儲けもんや〉と思って、ですからもともとお寺を目指して行ったよりも、「大学へ行かしてやる」という、それが凄い甘い言葉で、四年間そこに行って、そういう能力もないのに、学校の先生をしたい、という思いだけは人一倍あって、教職の免許を取ろうと思いました。それでその当時としては、社会科なんですけどね。それをなんとか取って、免許取ったらこのお寺とも〈はい、さようなら〉と思っておったんですけどね。
杉浦:  お師匠さまのお寺とも別れると、
 
西山:  まあお寺の跡を継ぐというのは、他の方からも「そうやったんだろう」と聞くんですけどね。その当時の私としては、お寺は、お坊さん、誰か偉い人が嗣いでいって、というのは、師匠は独身でしたし、大分そういう話聞いていましたから、そういう関係の方がまた来られてやるもんだろうと思って、私は違う道を行かんならんと思っていましたのでね。
 

 
ナレーター:  教職を志し、伝香寺から出ることを考えていた西山さんですが、大学を卒業すると、高野山で修行し得度することを、徳田さんから求められ従います。しかし僧侶として生きていくには、迷いがありました。ところが、高野山で修行続ける最中に、徳田明本さんが亡くなったのです。西山さんが徳田さんの寺を守ることになるのです。
 

 
西山:  後から思えば、師匠が亡くなって三十五日に遺言状が出てくるんですよ。本人も書いたのを忘れていたぐらい昔の遺言状でしたね。ですからそれが出てきたというのはほんとに偶然のことなんですけども、私の母が妹に当たりますので、「妹に次男ができたらしいから、そいつを得度さして、その跡継ぎにしてくれ」というふうな死後の願い事を書いたのが出てきたんですよ。
 
杉浦:  つまり西山さんを跡継ぎにしてほしい、と。
 
西山:  ええ。それでまあこのお寺の先輩の方たちが、気の毒がっておられたんでしょうね。「後はお前が坊さんになりたいというんだったら認めてあげましょう。その代わり一からしなさい」ということで、今で言う親戚預けという状態で、上席のお坊さんが自分の住職になる。私は留守番役ということで、一から知って頂戴という感じになって、「じゃ、一からやらせてください」ということで、そこからがほんとに僧侶になろうと決心したスタートですね。大分遅いんですけどね。
 

ナレーター:  昭和五十一年四月、徳田明本さんの思いを受け止めて、西山さんは伝香寺の留守居役となりました。そして本山である唐招提寺の僧侶としても活動することになります。西山さんの仏道が本格的に始まったのです。西山さんは、名僧と称えられた奈良の僧侶とも間近に接しました。
 

 
西山:  龍谷大学で仏教を勉強さしてもらっておりましたから、勉強のため課外研修と言うんですかね、いろんなお寺に接する機会があるんですよね。このお寺の隣に薬師寺という大きなお寺があるんですけども、その時高田好胤(たかたこういん)という管長猊下(かんちようげいか)が伽藍復興で、今まさに金堂を立ち上げるという時の現場で、修学旅行生にお話をなさっている時に、それまで実はお寺にお邪魔してどうのという機会がなかったというんか、積極的に動かなかったので、初めて行かせて頂いた時のお話が、私が思っていた田舎のお寺のイメージと、また師匠の生活しているスタイルとはまったく違う、若い人を集めて面白おかしく、今まで私はお寺というのは腰が曲がった年配の方が訪れるところだというふうに思っておりました。ところが、全然もう修学旅行の若い方が管長猊下の話にゲラゲラ笑いながら拍手をしている。その管長猊下の姿が凄く輝いていた。こんなお坊さんがおられるんやというほんとに思いましたね。
 

 
ナレーター:  高田好胤さんは、当時薬師寺の貫首を務め、仏の教えを若い人たちにもわかる易しい言葉で説いていました。
 
高田: 薬師寺へ来るちゅことは、仏さんの前に立つということやから、この機会を逸してですな、宗教的情操の涵養はどこでやれるんだと。俺がやらずんば誰がやると、気をとりました。ところがこっち一人気負っていてもね(笑い)、これ二回言うたらね、なんだ、坊主の話かって、聞けるじゃないかというもんやね(笑い)。ようやっと耳を私の話に向けてくれるんです。
 
ナレーター:  西山さんは、誰とでも分け隔てなく笑顔で接する高田好胤さんの姿に憧れを感じたと言います。
 

 
西山:  それから何年かここのお寺にお手伝いにこさして貰って、僧侶になってからお使いで、ほんとに三回ほどかな、いわゆる「届けよ」という命令を受けて、この寺から持って行くんですけども、その時管長猊下が会って頂いて、「実は唐招提寺から預かってお届けに来ました」。わざわざ玄関まで出てくれましてね、私が帰る時にはずっと見送ってくれるんですよ。唐招提寺と薬師寺の道って一直線なんですよ。姿が見えなくなるのに大分時間掛かりますんね。時々チラッと振り返ったらまだ猊下立っておられるんですよ。私はこの唐招提寺まで真っ直ぐだから、ずっと立っておられたらどうしたらいいんかと思いましてね、用事を無いのに脇道へ入ったんですよ。姿を隠さんと思いましてね。ですからそんなに直接お話をさしてもらう機会ってなかったんですけども、私にとっては凄く印象に残る奈良の代表的な僧侶で、いつまでも忘れない。今までも一番どなたかを尊敬するか、理想にすると言われれば、ほんとに会えてよかったお坊さんは高田好胤猊下に会えて良かったと思いますね。ああいう方がおられるんやという。自分はなれないけども、お寺のイメージが全然違うという、そういう思いを今でも思っていますね。
 
杉浦:  高田好胤さんには学生時代に最初にお会いになって、
 
西山:  そうですね。また師匠が亡くなって、見習いから始まったその十五年間には、今度は、東大寺が、昭和の大修理で大仏殿の修理があるんですよ。「昭和の大修理」ってね、大きな事業があったんですけども、それがちょうど私が、ここの僧侶にして頂いた五十一年の間なしにあったんですけどね。それがここの長老さんのお付きで鞄持ちながら行くんですけどね。その時、東大寺管長を務めておられたのが清水公照(しみずこうしよう)猊下という、非常に書や絵画を得意とした有名な方なんですけども、なんとかその方に書いて貰いたいと、また余計な分不相応なことを思いましてね。それで何も知りませんから―仲介してくれる人がいたんですけども―千五百円ぐらいのお菓子を買って、「書いて頂けませんでしょうか」ということをお願いしに行ったんです。そうしたらほんとに快く書いてくれるんですよ。今逆の立場になって、急に来られて、さあ書けと言われても、ちょっと待てと。お前、ちゃんと筆も用意しているのか、色紙も用意しているのか、ということを言いたくなるような自分がいるんですけども、その時の清水公照長老猊下は、「わかった。ちょと待ってよ」と言って、以前に書いてあったものをくれはったのか、その場で書いてくれたのかはわからないんですけども、玄関先で頂戴したのを覚えているんですよ。高田好胤猊下も清水公照長老も、二十代のこんな若い小僧が訪ねてきたことに対して応えてくれたその姿勢というのが、明治の人、大正初めの人のスタンスとしては、私は真似できない世界。こんな方がおられるんやという。要するに、なんぼお金を積んでいっても、ダメなものはダメだけども、その人がほんとに思うているということを、見抜く力があるというのか、こういう時には書いてあげようという思ってくださる、まさに大乗の心をお持ちだった。こういう方もおられるんやという。もう東大寺の大仏殿の開眼式では、一番のトップに立たれた立派なお方が、私みたいなものの話を聞いてくれるんかなと思い気や、行ったら凄くフランクに応えてくれたというのは、ほんとに私はそうありたいと願っているんですけどもなかなかできないね。だから求めてきた人には断らないという、鑑真和上がお伝えになったまさにその心を、長老猊下さんたちは実践してはったというのは凄く感激ですね。それを今でも思いますね。
 
杉浦:  年齢やお金で判断しないで、まさに利他行、
 
西山:  求めてきた人には応えてあげるというその精神。そしてその奈良のお寺から仏教のイメージを変えられた方でしょうね。若い人でもフッと寺へいけるという。そういう寺もそれに応えてくれるというのが、お隣の薬師寺さんが長年培ったそれを実現されているんですね。東大寺は、聖武天皇の思いを未だに伝える大きさというのは凄いなという。その時はまだ自分がお世話になっているというようなことは思わなかったですよ、あまりにも身近すぎて。
 

 
ナレーター:  唐招提寺の境内にある御影堂(みえいどう)。こちらには鑑真の功績に心打たれた日本画の大家東山魁夷(ひがしやまかいい)さんの作品が収められています。東山さんは、鑑真を讃えるこれらの作品を、十二年という歳月をかけて描きました。東山さんが、大作の最初の作品を奉納したのは、昭和五十一年。西山さんが、唐招提寺の僧侶となった年です。大作に取り組む東山魁夷さんの姿から、改めて鑑真の偉大さを知ることになったと、西山さんは言います。
 

 
西山:  障壁画が収まったのが五十一年で、私がここに席を入籍させて貰ったのが五十一年なんですよ。ですから私は、障壁画が同期生だと思っていますのでね。多分同期生は何十年と続いていくだろうと。でもその誕生した時の姿を垣間見たし、それをお描きになった先生が、どんな思いで描かれたのかというのは、それはほんとに万分の一でしかないんですけども、それを見せて頂いたというのが、あ、鑑真和上凄い方なんだと。それまでは教科書とかで教えられたり、修学旅行の方もお出でになって、「鑑真鑑真さん、鑑真さん」とおっしゃるので、そうやと思っているんですけども、実際にそういう現場に立ち会ったというのか、現場に居合わせた時に初めて凄いんだというふうに感じましたね。それはその時の印象が心の中にほんとに深く残っていることなんですよ。
 
杉浦:  東山魁夷画伯のお姿と、それから鑑真和上の海を越えてやって来られた思いというのは、何か通じ合うもの、重なるものを感じられましたか?
 
西山:  同じ生涯を懸けて何かをなそうという方のお姿というんですかね、それは高田好胤猊下も清水長老猊下も同じような思いですが、寄って来る人には、頼る人には嫌がらないという―まあ嫌な時もあったんでしょうけども―私にとっては凄く気さくに応えてくれる、それが凄いなと思うんですね。それはできないことなんですね。同じように、一二五○年前に、鑑真和上はその何倍のことを日本にお出でになってやられたんでしょうね。ですからみなは感激したと思いますよ。わざわざ来てくださったという。私もそうなりたいと思いながら、今の歳になってしまったので、おそらく無理だと思うんですけどね。
 
杉浦:  改めて今思いましたけども、ほんとにこの場所に一二五○年前に鑑真和上がいらっしゃったんですものね。そういう場所なんですものね、ここはね。
 
西山:  亡くなられた場所も残っているし、その当時のお像もお祀りさして貰っているし、そして去年一二五○年後に造らせて頂いたお身代わり像も、すべてが和上のその当時のお弟子さんたちの思いが残っているというのは素晴らしいですよね。そしてまた残した人がたくさんおられたんでしょうね。
 
杉浦:  鑑真和上が、日本にもたらした仏の教えというのは、現代世界においてはどういう力をもっていると、西山さんはお考えですか?
 
西山:  やはり一二○○年も前の話なんですけども、一人の人間が命を懸けて唐の国から日本のために来てくださった。そういうことをやってくれたという。享受(きようじゆ)した我々にとっては忘れ難い出来事だったし、またそのお持ち頂いたいろんなことが、未だに日本で使われているというんですか、その精神が受け継がれているというのはあまりないと思うんですよ。いろんな分野で、日進月歩一二五○年ですべてのものが変わってしまったんだけど、その「思い」というのは変わらない。というのは、これも東山画伯が著書にちょっと記されておるんですけども、東山先生曰くは、「日本人には故郷と思うところが二カ所ある」って。それは京都へお行きになったら「茶室」、小さな部屋があって、その空間でお接待をして貰う。そしてお庭の綺麗さ、これは日本を代表する故郷なんだ、ということで、日本中の人が京都と言えば、「私たちの故郷だ」という認識だ。東山画伯はもう一つ故郷がある。それは「東大寺の大仏殿と唐招提寺の金堂」。あの大陸的なスケールのでかい、およそ侘(わび)・寂(さび)の世界とはかけ離れたようなゴツゴツした世界と言いますかね、あんな大きな柱のお堂の建物を見ても、日本人はここが私たちの故郷なんですよ、と思うことができる。東大寺や唐招提寺へ行って、これは他の国の文化ですね、という感じにはならないでしょう。それを作り上げた人々が天平時代にいた。それが鑑真和上であり、その当時の芸術家というんですか、建築家であり、仏を造る仏師であったり、そしてそれを纏めた聖武天皇以下その当時の国を司る人たちによって造られたこの奈良というのが、日本人も普段はあまり感じていないんだけども、何かある時に、ふと奈良を見ても故郷だと思う。これが今でも生きているというのがとても大事。その礎を築いてくださった一人が鑑真和上だったということで、それが今も生きていることなんですね。日本人の心の奥底に生きている思い、それが故郷を作ってくれたのが鑑真和上さん。
 

ナレーター:  日本人の心の故郷を築いた鑑真。西山明彦さんは、鑑真の教えを守り伝える唐招提寺の僧侶として活動しながら、幼稚園の園長も務めています。幼い時から仏の教え、殊に人が人であるために守るべき五つの戒律―五戒を心に留めてほしいと、西山さんは考えています。
 

西山:  私が願っているのは、毎日お寺の門を潜ってくれること。そしてお堂があって、大きな楠(くすのき)があるんですよ。もう四方八方に伸びている枝を植木の方に言って、こんもりとした木に仕上げて貰った。それで初めて入ってきた三歳の子が、その木を眺めているんですね―ちょうど今頃ですよ。これは先生に聞いたんですけども、なんでやと言ったら、「上から葉っぱが落ちてくるのが面白い」という。みんなマンション住まいの子ばかりだから、自然のスタイルが珍しいんですね。葉っぱがいっぱい。ちょうど常緑樹(じようりよくじゆ)が落ちるのが今なんですよ。そういうふうな木の姿とか、それでお堂があって、二メートルほどの石のお地蔵さんがあるんですよ。一五一五年に造られたかなり古い地蔵なんですけども。それを奥にあったのを前に出して来て、子どもたちが毎日拝めるようにしたんです。ということは、私が下手な説教言うよりも、その環境―ステーション(station:場所)を拵えて、子どもたちが自然と見たり感じたりして貰う。これがお寺の役目なんだと、私は思っているんです。言葉じゃなしに、例えば泥遊びしたり、次に手を洗いなさいよ。これも良い習慣―戒ですからね。その時にお友だちが並ぶんだったら、それは譲り合う、順番にしなさいよ、ということで。毎月「御仏様との約束」というのを決めているんですよ。だから月に一回お詣りをして、今月は、「ご挨拶をしましょう」とか、「順番を守りましょう」とか、「生き物を大切にしましょう」とお約束をする。そのシーズン、シーズンに合ったことを決めてする。運動会が近づくと、「力を合わせましょう」とかね。それが子どもたちにとって鑑真和上の教えを教えていることに繋がるんだろうと思うんですけどね。それをよく考えると、先ほど申しました大人が守るべき五戒のうちの三つが入っているんですよ。嘘を付かないとかね。やはりもう人間として守るということは、幼稚園児も、私たち大人も一緒ですよ。基本的なことは同じなんだという。
 
杉浦:  現代社会さまざまな問題を抱えていますけれども、鑑真和上の教えを、どんなふうに生かしたらいいんでしょうかね?
 
西山:  「教え」というのは、日々進歩することもありましょうけども、私は同じ教えを、同じことを何十年と言い続ける必要がある、それが教えだと思うんですよ。ですから百年経ったら、考え方がどんどん変わっていった、進歩したという。そうじゃなしに同じことをズッと言い続けている。これがその教えであり、鑑真和上のおっしゃった戒なんですよ。ですから、そんな古い昔のことを何故今言うの、じゃなしに、昔言っているから今も言うんだという。幼稚園の教育でも同じことを何回も繰り返す。三歳や五歳の子どもに、毎日同じように「手を洗いなさいよ」「挨拶をしなさいよ」という。で、年長になっていくと、ちょっとレベルアップして、「友だちに譲りなさいよ」と、そういうことを言い続ける。それは宗教も同じですよ。百年経てばまったくバージョンアップするんじゃなしに、同じことをいうことがとても大事なんだけれども、年代を経ることによって、同じことを言っているということが古いことなんだ、少し遅れた教えなんだというふうな感覚を持ってしまうので、でもよく考えれば、一二五○年経っても、鑑真和上がおっしゃった人間としてあるべき姿の基本形というのは、これは変わらない筈なんですよね。それをあえて私たちが言おうと。もう少し挙げてみれば難しいテキストを勉強するのと―それも平行して必要ですけれども、人間として守らなければならないことを、先ず思い起こす。そして懺悔を絶えず繰り返すということが、基本形なことなんですよ、ということを、逆に今の時代だからこそ問いたい。いくら立派な学問をお持ちでも、五戒が守られなかったら、それは釈迦の弟子にはなりませんよ、というのが、和上の教えの基本じゃないでしょうかね。
 

 
ナレーター:  鑑真が命を懸けて日本に伝えようとした仏の教え。その根底となっているのが、殺さず、盗まず、嘘を付かないという、人としてのあるべき姿です。それは国境や民族を超えて共通することであり、宗教の役割がますます重くなると西山さんは考えています。
 

 
杉浦:  国境を越えて、民族を超えて、みなが共有できる教えって、どういう?
 
西山:  五戒です。だから中国から日本に伝わっても理解できる。また逆に元に戻ってもできる。いわゆるキリスト教でも十戒はある、イスラムでもあるんです。その場合一つの倫理道徳、それは地域地域の倫理も大事ですけども、人間として共通の倫理というのは共通なんですよ。「人を殺すな。人のものを盗むな。嘘を付くな」同じことを言っていますよ。ただ「律」は地域と時代が変わると変わるんですよ。例えばイスラム教の世界では女性はベールを被る。それがある国へ行ったら学生はベールを被ってはいけないとか、牛を食べてはいけない。豚を食べてはいけない。それは地域地域の生活環境によって編み出されたのが法律の「律」なんですね。それは変わっていると思うんですよ。でも「戒」は同じなんですよ。だから世界の人々が宗教で喧嘩をしているのは、「律」で喧嘩をしているんです。お前のところは豚を食べている。牛を食べている。いろいろあるじゃありませんか。衣装や服装にしてもどうやとか、それはすべて地域地域時代時代の決められた法律に違いがあるから。
 
杉浦:  自分のところとは違うから許せないという。
 
西山:  でもよく見たら「戒」は一緒だと。各宗教が説いている「戒」は共通ですよ。ほとんど一緒です。教義が言っている、人間としてどう暮らすかというのは、そんなに違いがあるものじゃないですね。ですから「戒」をもって生きるというのは、世界の人々が幸せになる唯一の手段だと私は思うんですけどね。
 
杉浦:  「戒」を子どもが守ったら、虐めは無くなるでしょうし、大人が守ったら、戦争をやらなくなりそうですね。
 
西山:  それは一口で言えば簡単だけども、人間は有史以来なかなかそれができないのが現実ですよね。そういう意味ではキリストの教え、ブッダの教え、イスラムの教え、国境を越えることができる、そういうふうなグローバルなというんでしょうかね、そういう教えを、これから日本も持つ必要があるし、それを持てば世界の人たちからも理解して貰うことができる。日本独特の宗教観というのを持ち続けることはとても大事なんですけどね、しかし理解をして貰うためには、仏教を越えて、共通の認識が持てる宗教であるべきだと。そういう意味では仏教というのは、まさにそういうことを叶えることができる宗教だ、と私は思っているんですけどね。
 
杉浦:  今日はどうもありがとうございました。
 
     これは、平成二十六年六月八日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである