生死を超えるいのちを信じて―源智上人造立仏の胎内遺文をめぐって―
 
                 浄土門主・知恩院門跡 伊 藤(いとう)  唯 眞(ゆいしん)
一九三一年、滋賀県生まれ。佛教大学を卒業し、同志社大学大学院文学研究科博士課程において民俗学、文化史学を専攻。佛教大学講師、文学部史学科教授、文学部長を経て、一九八九―九四年に学長に就いた。一九九七年より京都文教短期大学長。京都文教学園学園長を兼任した。また地元の浄西寺や善隆寺住職であった(現在は退任)。古代・中世日本仏教文化史、宗教民俗学専攻研究し、その視点からの念仏教団の展開・浄土宗史研究に新たな面を開拓した。日本民俗学会評議員、日本宗教学会評議員、滋賀県文化財保護審議会委員などにも就いていた。浄土宗内では教学院理事、教学審議会委員長、浄土宗聖典刊行委員会委員、知恩院文化財保存委員会委員長など歴任し、多くの浄土宗関連の資料・著作編さんにあたった。二○○二年から勧学職にある
                 き き て      金 光  寿 郎
 
ナレーター:  爽やかな風が吹く五月の京都。今日は、東山の木々に抱かれるように建つ浄土宗総本山知恩院(ちおんいん)をお訪ねします。知恩院は、法然上人(ほうねんしようにん)(1133-1212)が開いた専修念仏(せんじゆねんぶつ)の教えを伝えて八百年にわたり、多くの人々の信仰を集めてきました。法然上人が説かれたのは、誰もが仏の前では平等であり、誰でも浄土へ導かれるという革新的な仏法の教えでした。この時代は、天災地変が重なり、社会にも大変動が起きました。危機の時代に迷っている人々に、専修念仏の教えが急速に浸透、旧仏教を中心にした念仏への弾圧が強くなる中で、法然上人はこの世を去ります。それから八百年後の平成二十三年に、一体の仏像が知恩院に迎えられました。この阿弥陀如来像です。昭和四十九年、滋賀県で行われた県内の仏像一斉調査の際、信楽(しがらき)の玉桂寺(ぎよつけいじ)(真言宗)で発見され、知恩院に縁のある仏像とわかって、ここに納められることになりました。発見当時、阿弥陀如来像の足の部分は壊れ、壁に立て掛けられていました。胎内のレントゲン写真から、筒状のものがいくつも納められているのが見えました。専門家が解体して見ると、二十六点の古文書が収められていたのです。そこには東北や関東、北陸、九州などから四万五千を越える人々の名が記されていました。皇族、貴族、武士のほか、大多数を占めたのが死者も含む一般庶民の名前です。この仏像は何のために作られたのか、それを示す造立願文(ぞうりゆうがんもん)です。「沙門源智(しやもんげんち)」。源智(1183-1238)とは、法然上人に十八年間付き添って、その最期を看取った弟子でした。源智は、法然上人の一周忌までの十ヶ月あまりで、四万人もの人々の心を合わせて、この阿弥陀仏を造立したのでした。発見当時、この仏像の解体調査に当たった一人が、当時の仏教大学教授伊藤唯眞さんです。伊藤さんは、その調査から三十五年後、浄土門主知恩院門跡として、この阿弥陀如来像を迎えられました。法然上人の一周忌に間に合わせるために、この阿弥陀如来像の建立を発願し、全国の信者たちの力を結集させ、短い期間に完成された源智。これまであまり世に知られていなかったその人物像。師から弟子へ伝えられた念仏の教え、仏法の深さなどを、伊藤唯眞さんにお伺いします。
 

 
金光:  その当時の初めて阿弥陀さんのお像をご覧になって、しかも胎内から出て来た願文とか、あるいは縁のあった人たちのお名前が、どういう形で出てきたのか。その時の当時の心境を思い出して、その時のお心持ちなんかを聞かせて頂ければ、と思いますので、ちょっと現在のお立場を離れて、当時のお気持ちからお話を聞かせて頂けませんでしょうか。
 
伊藤:  当時と申しますと、今からもう三十五年前になってしまうんですが、夏の暑い時でした。琵琶湖の側にあります大津市琵琶湖文化館へまいりまして、初めて今おっしゃいました仏像、また願文、いろんな方の名前だけがずっと並べられたリストであります「交名(きようみよう)」と言われるもの、これがいっぱい出てきたのを目の前に並べられまして、それを拝見しました時には、まさにビックリ。今まで自分が知っておった人ではあるけれども、具体的にどういう方だろうかという、その実像に迫ることができなかった方の名前が願文に出てまいりました。「出てきた」というよりも、その方の願文なのです。仏像を造る願文でございました。その名前は、まさに浄土宗の方であるならば、法然上人のご遺訓と言われております「一枚起請文(いちまいきしようもん)」を、お勤めの際には絶えず拝読致しますが、その「一枚起請文」をお亡くなりになる二日前に書かれた、それを頂かれたのが、「源智(げんち)」というお弟子です。絶えず法然上人の側にお付きになってお世話をしておられ、十八年間も常随給仕(じようずいきゆうじ)をなさっておったお弟子の「源智」、その方の名前であったわけです。源智さんは、房号(ぼうごう)がありますが、勢観房(せいかんぼう)源智(1183−1238)と言います。我々は普通「源智上人」と敬いしておりますが、その源智上人が発願して、この仏像を造ると。そしてその発願文の最後に「建暦(けんりやく)二年十二月廿四日 沙門源智敬白(しやもんげんちうやまつてもうす)」とこう書いてありますので、これじゃまさに法然上人がお亡くなりになった(建暦2年(1212年)1月25日、京都東山大谷(京都市東山区)で死去。享年80歳没)、その年の暮れの十二月、しかも二十四日ですからお亡くなりになる前の日に当たる二十四日にこの発願文(ほつがんもん)が書き上げられた。発願文と申しますか、「造立の願文」ができあがったという、そういうことがわかったわけです。先ずは源智上人という方が、どういう考え方でこれを書かれたのか。また仏像を造られるというようなことも知られておりませんでしたし、その考えもわかっておりませんでしたから、そのことが造立の願文からわかるということがすぐ察知されて、大変な資料だと。一級の資料である、一等の資料であると、こういうようなことを感じまして、それは大きな悦びでした。まさに源智上人にお出会いしたような感じがしたことを覚えております。
金光:  源智という方は、宗派の方はご存知かも知れませんけれども、一般にはあまり知られていない方のようですけれども、「一枚起請文」という有名な法然上人の最期の御遺訓は、名前を知っている方も多いと思いますが、しかもそれを受け取られた方が源智と方だというと、これはまた私たちにとっては、新しい発見というようなことで、しかもその中の言葉、そのご遺文というのは、八百年経った現在も、念仏信心の方は毎朝お唱えになっていらっしゃる。今までに続いている一番大事な眼目みたいなものがその言葉に入っているんじゃないかと思いますが、私どもも有名な言葉ですので、殊に終わりの方の言葉をちょっと作らせて頂いているんですが、
 
念仏を信ぜん人は、
たとい一代の法を
よくよく学すとも、
一文不知(いちもんふち)の愚鈍の身になして、
尼入道(あまにゆうどう)の無智のともがらに
同じうして、
智者のふるまいをせずして、
ただ一向に念仏すべし
(「一枚起請文」より)
 
いろんな学問をしても、そういうのは全部捨てて、「一文不知の」何も知らない「愚鈍の身になして、尼入道(あまにゆうどう)の無智のともがらに同じうして」という。これは急所なんでしょうけれども、現代の人にとっては、そんなことでいいのかね、というようなことを考えないでもないと思うんでございますが。
 
伊藤:  そうですね。学問ということが尊ばれる。そういう立場からみますと、そういうようなことを捨て去って、「一文不知」一文字も読み書きもできないような愚かなものに自分の身をおいて、そしてひたすら念仏を唱えるべきだ、ということは、論議のための観念の論とか、念仏の念とは何ぞや、ということを論じているのではなしに、むしろその論じることよりも、弥陀の救済を信じて、ひたすら教えの通りお名前を呼ぶ。それは自分をすっかり無にして、と申しますか、学問などを、今まで習得したものを捨てきって、そして何も知らない者と同じようになって、自分を信の世界において、識の世界から信仰の世界へ入るという、それを成し遂げて、ひたすらに念仏を唱えよという。百八十度の大転回をそこにお示しになった。そういったことは、今の我々にとっても、知識というものにとらわれるのではなしに、弥陀の救済されるためには、念仏が大事だと言われた、そのことをひたすら信じていくと。身を投げ出して信じていくというようなことが大事じゃないか。信の世界に入っていく。信仰の世界へ身を置く、身を置いてみるという。論議の世界、理論の世界から、信の世界に置き直してみる、ということの大事さを教えて貰っていると思いますね。
 
金光:  そういう意味では、人間の知恵では、人間というのは生まれていずれは死ぬ身ですけれども、この生死(しようじ)の世界の中での知識、人間の淺知恵では、仏さんの世界はとても感じられないから、そういう一切の人間の意識的な「ああかこうか」というのはもう捨ててしまいなさいと。いくら学問しても、それは生死の世界の中のことだから、仏様の世界はそこにはないよ、という。そのために「愚鈍の身になして」と、今おっしゃったというようなことを、当時の人たちは非常に信じた方が多かったから、たくさんの何万人という方が、お名前を仏像の中に入れて頂くための協力をなさった、ということだと思うんですが、その源智さんという方のことを、たまたま今度調べましたら、法然さんが亡くなられるその当時は、有名な『方丈記』を書いた鴨長明(かものちようめい)はまだ生きていて、亡くなられた年に『方丈記』を書いているんですね。その『方丈記』を見ますと、京都は、その前の二十年ぐらいは、大風があったり、大火事があったり、地震があったり、しかも飢饉が続いて飢えて死ぬ人が街に溢れている、というような記事が『方丈記』の中にありますが、それと同時に、源氏が栄えて、平家が滅びて、というような、武士の騒乱の時代で非常に混乱ももの凄く酷い、平安から鎌倉に移る大変な騒動の時代でしたから、その中でしかもこういう願文を作られて、みなさんのお名前を集めて、それで仏像を造られるという。これはやっぱり相当当時の人たちは、自分たちの生きる道はこの方向に行く以外にないとお感じになっているもので、お正月に亡くなられて、その年の暮れに全国から何万の人たちの名前も集まるし、こういう趣旨で作ったんだという願文を書かれたものだと思いますが、この願文のことをちょっと教えて頂けませんでしょうか。
 
伊藤:  源智上人が、十八年間、法然上人にお仕えしておられたわけでありますから、その間に自分を育てて貰ったという、大きな恩をもっていらっしゃいます。それは日常的なことは当然入ってきますが、それよりも仏法を教えて貰ったと。本当の宗教というものを教えて貰ったと。これは非常に大きな、山にすれば太山よりも尚大きなご恩、深い海よりも尚深いそういうご恩だと。そのご恩に報いていかねばならないと。お亡くなりになった。だからそのご恩に報いていくためには、どうしたらいいんだろうかと、こういう場合に源智上人はお考えになった。そこで源智上人が思い付かれたのは、本当にご恩に報いるとはどういうことなのか、ということから、法然上人が生涯何を使命とされておられたのか。それは願文の中にありますように、法然上人は、迷える人々を、苦しんでいる人々を教化していくことを自分の使命としておられた。だからその使命を継承していくことが、法然上人のご恩に報える道になるのではないかと。こういう具合にお考えになって、自分もまた法然上人と同じように、念仏教化に行動的に出て行かねばならないと、そういうふうにお考えになったのでございます。そういうことがまた願文の中に出てくる。
 
金光:  伊藤先生が、現代語に訳して頂いたものの一部を拝見しますと、「何故仏像を建てたか」という原文を現代語で紹介さして頂きますと、
 
所以(ゆえん)は何となれば、
先師(法然)は
只、化物(けもつ)を以(も)って
心と為し
利生(りしよう)を以って
先と為せばなり
よって数万人の姓名を書(しよ)して
三尺の仏像に納む
 
「所以(ゆえん)は何となれば、先師は」原文は「先師」ですけれども、これは「法然」さんのことですね。「先師(法然)は、只、化物(けもつ)を以(も)って心と為し、利生(りしよう)を以って先と為せばなり」―「化物(けもつ)」とか「利生(りしよう)」というのは、衆生を教化するというか、そういう意味でございましょうね。「よって数万人の姓名を書(しよ)して三尺の仏像に納む」。続けて申しますと、
 
(も)し、此の中の一人(いちにん)
先に浄土に往生せば、
(たちま)ち還り来りて
残衆(ざんじゆ)を引入(いんにゆう)せん
もし又、愚痴の身
先に極楽に往生せば
速やかに生死(しようじ)の家に
入りて残生(ざんしよう)を導化(どうけ)せん
自他(じた)善く和合すること
(ひとえ)に網の目に似たり
 
「残生(ざんしよう)」というのは、残っている衆生ですね。もう一つ後にですね、
 
(わが)(がん)を以って
衆生の苦を導き、
衆生の力を以って
(わが)苦を抜き、自他共に
五悪趣(ごあくしゆ)を離れて
自他同じく
九品(くぼん)の蓮(はちす)に生ぜん
この願、実あり
この誓い尤(もつと)も深し
 
伊藤:  今読んで頂きましたように、法然上人が、衆生教化ということを自分の志―願いとしておられたし、生涯懸けての使命となさっておったし、また同じ意味合いですが、衆生利益(りやく)―衆生を利益することを一番先に、何よりも先に衆生利益の用をなすことを考えておられたから、そこで私もまた法然上人のように、衆生教化の道をそのまま継いで、自分も師匠の跡を追い掛けていきたいと、こういうことから衆生教化にあたる。それが結果的に数万人に及んでくる。その姓名を書いた紙を三尺の仏像の中に納めようとしておるのだと、こういう意味合いであります。その当時は三尺の仏像を造るのが、ちょうど適当な大きさであるというお考えでありまして、法然上人もこれは祇園精舎の風儀によって三尺の来迎印を持った仏像を造るのがよいということを別の箇所で説いておられますので、それに基づいて教化した結果、教化の方々のお名前を書いて貰って、それを三尺の仏像に納めたのだという、こういう意味合いのことが出ています。
 
金光:  今ご説明頂いた次の文としては、
 
(も)し、此の中の一人(いちにん)
先に浄土に往生せば、
(たちま)ち還り来りて
残衆(ざんじゆ)を引入(いんにゆう)せん
もし又、愚痴の身
先に極楽に往生せば
速やかに生死(しようじ)の家に
入りて残生(ざんしよう)を導化(どうけ)せん
自他(じた)善く和合すること
(ひとえ)に網の目に似たり
 
これは現代人には、あれっと思う言葉だと思いますが、これはどういうことを述べていらっしゃるんですか?
 
伊藤:  そうですね。背景にあります二つの世界のことを、先ず知っておいて頂かねばならないと思うんです。「この世」と「あの世」と言いますか、あるいは「穢土(えど)」と「浄土」、あるいは「現世」と「来世」、「現世」と「後生」というような、この二つの世界を昔の人たちは考えていましたし、その次の世―「来世」というものを、罪深い者は、地獄・餓鬼・畜生というように、六道(ろくどう)を輪廻して、絶えず繰り返し回っていって、安住した世界には至れないのだという、こういう六道輪廻の世界が、次の世にもあるわけですが、そういう六道とは別の次元の、一旦そこへ救われたならば、永生(えいせい)のいのちが得られるという、「浄土」という世界。これは六道とは別の次元にあるわけですが、その生き死にの世界の六道輪廻から離れて浄土へ往生をするという。その「浄土往生」という別の世界を理想として―願いとして考えているわけであります。もし念仏に結集(けつしゆう)している、名前を書いてくれているこの中の一人が、もし浄土に往生したならば、その浄土に安住していうのではなしに、直ちに、忽ちすぐにもう一度この世に還って来て貰って、この世には悩める苦しむ人たちがいっぱいいる、まだ煩悩も断ち切れないものが多い。この世界へ還って来て残っておるそういった人々を浄土の世界へ救い取って欲しいと、引き入れて欲しい。引き入れることを十分よく考えておいてほしいと。
 
金光:  繋がっているわけですね。
 
伊藤:  繋がっているわけです。「もし又、愚痴の身」愚かな身―この場合は、源智自身が、自分の身をそういっていらっしゃるところですが―愚痴な私が、先に極楽へ往生したならば、速やかにすぐにまだ悩んでおる現世へ戻って来て、そして残っている人たちをお浄土へ導いていきましょう、というように、浄土という世界と穢土でありますこの迷いの世界―「現世」と言ってもいいし、「穢土」と言ってもいい、今のこの世です。現実のこの世へもう一回還って来て、そして残っている人を極楽浄土へ導いていきましょうというわけです。つまりここで昔から二つの世界が考えられるわけですが、現在において考えますと、現代人もまた「ものの世界」と申しますか、これは「目に見えるものの世界のこの世」というものをみな考えております。ところが「心の世界のあの世」というものは、みんなこれはそれは目に見えないものだから、信じることはできん、という具合に、峻別しがちになるんであります。また峻別する方が科学的な立場になるんだと、こういうような考え方がありますが、そうではなしに昔の人は、二つの世界を考えるんではなしに、輪廻の世界と浄土の世界を二つとも考えておる。我々は今輪廻の世界におる、悩みの世界におるけれども、これは今の人の考えでいけば、「もののあるこの世の世界である」見えるものの世界という。ところが、これをものは助かって、源智さんや結集の人たちが、念仏に集まった人たちが生まれた、あるいはそこへいこうと往生しようと願っている世界は、心のものの見えないあの世ではありますが、往生して永いいのち―永生の世界のところへいこうというもので、この二つの世界がお互いに離れているんではなしに―現在のように一方は非科学的として否定する、別に切り取ってしまいますけれども―昔の方はそうではなしに、離れておらず、むしろ繋がっておると。相補い合うもんだと。ないものも補うものだと。苦しいものは断ち切って、それを補うところで世界へ入っていくと。そして入っていったならば、そこで留まって自分だけの自利だけで終わるのではなしに、再びこの世界へ戻って来て悩んでいる者も一緒に連れていこうという、こういう二つの世界を考える心の豊かさをもっておったということが、かつての人々の世界観―来世観であったわけですね。
 
金光:  お念仏でいうのは、「南無阿弥陀仏」ということでございますが、「阿弥陀仏」―「アミターバ」とか「アミターユス」というのは、「無量寿」とか「無量光」とか、要するに無限の世界でありますと。それで、「自他」の「自」と「他」と、あるいは「この世」と「あの世」を分けるのは、人間の分別の世界ですけれども、無限の世界というのは、それより遙かに広い大きな世界ですし、そんな区別のない無限の時間的にも空間的にも、姿形にはつかない無限の中に生かされている。そこだと、お終いの今ご紹介頂いた言葉の終わりに、「自他(じた)善く和合すること」という、自分と他人の区別がなくなってくるんだと。「偏(ひとえ)に網の目に似たり」と。「網の目」というのは、一箇所引っ張ると全部動くように繋がっている。自分も他人も繋がっているという。
 
伊藤:  繋がり合っているという、そういう世界だという。先に自分が浄土へ行けば、残っている者を呼んでくると。他の人が先に行ったら、今この世にいる苦しんでいる私を救ってくれと。
 
金光:  生き死にも死んでしまえばお終いでなくて、
 
伊藤:  この世とあの世はそういう意味合いで、お互いに救われることによって、最後は一緒になる。
 
金光:  人間の見えないベースのとこは、ちゃんと繋がっている世界なんだと。それもしかも実感として信じていらっしゃるから、こういうお像を造ったり、お名前をみなさんが全国から集めて書かれたりと、そういうふうにできるわけですね。
 
伊藤:  できるわけですね。だからもし先に死んだ方でも、もしお念仏も唱えずに、尚苦しんでおられる、六道輪廻している方がおられるかも知れないと。そういう方のためにも自分が念仏を唱えて、先に行ったならば、そういう方のところにも行って一緒に連れて、弥陀の浄土へ行ってもらおうと、行きましょうと、そこで一つになろうじゃないか。繋がり合おうじゃないかと、こういう考え方でありますから、次元を超えた世界の地域とか時間を超えて繋がり合うということになりますから、この中にはもう既に亡くなっている人も、自分の唱える念仏で、もしまだ極楽へいっておられなければ、その方を念仏の功徳で浄土へいって頂けるんだということで、亡くなった方の名前もいっぱい書いてあります。
 
金光:  今の文の願文の終わりの方に、その続きを読まして頂きますと、
 
(わが)(がん)を以って
衆生の苦を導き、
衆生の力を以って
(わが)苦を抜き、自他共に
五悪趣を離れて
自他同じく
九品(くぼん)の蓮(はちす)に生ぜん
この願、実あり
この誓い尤(もつと)も深し
 
九種類(九品(くぼん))―上品(じようぼん)、中品(ちゆうぼん)、下品(げぼん)とあるわけですけれども、それを纏めて言えば、「浄土」というわけですね。「この願、実あり、この誓い尤も深し」非常に力強い言葉で締めくくっていらっしゃる。
 
伊藤:  源智さんは、これは、私が本当の心からの願いで、真の気持ちでもって、法然上人から教えられた念仏の教えでもって唱えてくれる人々が、みんなして「五悪趣」―地獄・餓鬼・畜生というような輪廻する、輪廻の世界から浄土の世界へ一緒に行こうではないかという。そういう真実の真を披瀝された言葉でございますね。そういう具合に受け止めていいと思います。
 
金光:  ちょっとお話が前後するかも知れませんけれども、この源智さんという方は、実は平重盛(たいらのしげもり)のお孫さんだそうですね。平清盛(たいらのきよもり)の曾孫さんで、ということは、この時は平家はもう滅びてしまっているわけですね。源氏の勢いの盛んな時で、しかも名門中の名門、平清盛、重盛の血を引いた子どもがいるとなると、源氏に見つかったらこれは大変だというんで、殺されるかも知れないような中で、法然さんのところへ入られたわけですね。
 
伊藤:  そうですね。この方は、平家が都落ちをしましたその年の寿永(じゆえい)二年にお生まれになった。しかしその時は、お父さんの平師盛(たいらのもろもり)と一緒に西国には行っていらっしゃいません。私の推定ですが、平家が都落ちをする時は、師盛は一人で行って、愛を与えられた方は身重であったろうと。後に生まれられた子は、それはそれこそ今時代の転換と共に、いつ平家の流れをもつ者であれば捕まるかわからない、斬首されたかわからない、こうなりますので、そのお母さんは密かに身の出自を明かさずして、法然上人のところへお預けになる。法然上人は慈円さんのもとに送られまして、
 
金光:  慈円さんという方は?
 
伊藤:  九条兼実公(くじようかねざねこう)の弟さんであります。天台座主にもなっておられる方であります。
 
金光:  確か何回もなっていらっしゃる方で?
 
伊藤:  ええ。四回ぐらいなっておられますね。
 
金光:  その方のところへお預けになって、
 
伊藤:  ええ。そこで得度されまして、それから勿論念仏の教団の方へ帰ってこられますが、法然上人の膝元において育てられていく。それが十三の歳。それからお亡くなられるまでずっと十八年間就いておられて、三十になった時に、八十の法然上人とお別れになる。これだけのことを、お考えをもった方は、その時三十歳であったわけです。如何に法然上人のお側でお世話をしながら聴聞をして、その教えを身の中に入れておられたかということがわかりますですね。
 
金光:  確か法然上人とは、五十歳お歳が違っていらっしゃったということですけれども、先生の発表なさったお名前が書いてあるものを拝見しますと、法然上人自体は、子どもさんの頃、父上が夜討ちに遭って殺されて、その遺言が、「仇を討つな。衆生済度のために坊さんになれ」と言われて、その道を歩まれたと同じように、源智さんも書かれた「交名帳」の中には、仇である源氏の人の名前もいっぱい出てくるんですね。だからもう自分の仇とか、そういうところじゃない世界で生きていらっしゃった、ということなんでしょうね。
 
伊藤:  恩讐を超えた世界は、この交名の中から読み取れますね。
 
金光:  お名前の中で、こういう世界かと思われた、お気づきになった点、特徴がいろいろあるかと思うんですが、どんなことをお感じになりますでしょうか。
 
伊藤:  いろんな方がありますが、まさに法然上人の眼差しが集まっておったのは、この知識のあるものよりも知識のない人、それから経済力をもつ人よりも卑賤の人、貧しい人たち、それからしっかりと戒律が守れているような形をしている人よりも、戒律を破らなければ生きていけないような人々とか、それこそ名もなき庶民、卑賤の人、それから地方の耕作民とか、農民とか、狩猟をする人々とか、そういう生産にあたっている人々、そういう人々の名前が出ておるように、私は思いましたですね。勿論どのような意味でもあれ、時代をその時引っ張ったような有力な人々とか、それから朝廷の人とか、官人であるとか、役人であるとか、地方の有力者であるとか、勿論その方は、武士であったり、荘園領主であったりしますが、そういうような人たちの名前がずっと出てくるように思いましたが、遊女とか、白拍子(しらびようし)も出てくれば、武士も出てきますし、農民も出ますし、普通の道俗(どうぞく)の男女ですね、通常の人々、庶民層がいっぱい出てきます。如何に彼らが貧しかった人もあったかということは、中に念仏を、交名帳の生(なま)のところを見ますと、生(なま)と言いますのは、名前でないところ、名前を後で整理して、ずっと書き添えたものですが、名前と一緒に誰のために念仏をいうのかという、亡くなった人の名前を挙げたり、それからお金を寄せた人もある。それを見ますと、お金を寄せた人は、まさに一文とか二文とか十文とかという、そういうようなものまで。むしろそういう貧しい人は、造立寄付できない人などが如何に多かったか。そういう人々が多い。しかもそういう人は、そのお金の代わりに念仏を、何遍、百遍、二百遍、三百遍、それを書き添えているんです。金銭の代わりに念仏の数、それを書き添えています。そういうなんで一万遍とか三万遍とかと、そういう具合に書いております。
 
金光:  それにしても、先生のお調べになった論文を拝見しますと、四万何千人という数ということですが―それは例えば当時の京都の人口は何人か知りませんけれども―京都だけでなくて、全国各地からのお名前が集まっているんですね。
 
伊藤:  そうです、願文自身には、数万人と書かれておりますが、実際に一つ調べてみようと思って、根気を詰めてやったんですが、根気が続かなくなってしまいましたが、もっともグループでやっておられますから、何人もの名前が出る。一人の名前が、こちらのグループでも、あちらのグループでもありますから、お一人が三回出る場合もあるし、四回出る場合もあります。
 
金光:  なるほど。リーダーがいて、その人が中心になって集めて、それが集まっているから。
伊藤:  その集まった人の思いが、もし一緒になった思いの中から―清盛を思っていると、「清盛」が二回出る。こういう具合に、平家の同じ名前は何回か出ます。それはやっぱり平家の縁の人が書いているわけですから、そういう数もあります。延べになっていきますが、根気を詰めて勘定をしましたところ、なるほど数万人は文字通り、源智上人も誇称の数ではないと思いました。そしてまた地域特有の姓を使われるところがありますので、それによってどのような地域か。畿内近国は勿論のこと、中国地方あります。それから関東もあります。それから北陸、越中からずっと東北にまで及んでおります。中には、東北のその当時いた豪族の名前と混じって、「エソ 三百七十人」とかいう具合に、「エソ」という名称が出てまいります。「エソ」とは「蝦夷(えぞ)」のことだろうと思われます。「南無阿弥陀仏」という、そのことだけで救われるというんですから、「南無阿弥陀仏」と口で唱えることの強さもあります。現代であればヨーロッパの人でも、その「南無阿弥陀仏」言葉で、信仰合掌しておられるという例がございますので、「南無阿弥陀仏」は普遍性をもったものだ、という具合に考えております。地域はほとんど全国に及んでおります。だから「燎原の火の如く念仏が、法然上人在世また没後のすぐ後には伝わった」と言われるのは、文字通り急速に伝わっていったと思います。そのことを証明するのが、源智上人の造られた仏像の胎内から出てきた交名帳によってはっきり傍証(ぼうしよう)できる。
 
金光:  有名無名―名前の知られていない方も随分いらっしゃると思いますが、法然上人という方は、いろんな人に易しくて、例えば「この世をどうやって生きたらいいかわからない」というような方にも、これは有名な言葉ですけれども、
 
現世をすぐべき様は、
念仏の申されんように
すぐべし。念仏の妨げ
になりぬべくば、
なによりともよろずを
厭い捨てて、
これを止むべし。
 
これはだから有名な言葉で、「お酒を飲んでよろしいでしょうか」と言ったら、「飲まないでこしたことはないけれども」おっしゃったり、
 
伊藤:  無知の人には、つまりその人なりに念仏を申せ、とこう言われるわけですから、在俗の人にまた知識の乏しい人に、学問をして出家者のように念仏申せ、とは要求はなさらない。それはそれなりに申せばいいのであると。だから今のような言葉、「現世をすぐに過ごしていくにはどうしたら良いんですか?」という質問に対して、「それは念仏は、現世を過ごしながら念仏を申していけばよい。念仏の妨げになるようなものは、それは捨てていきなさい。念仏を助けるものであれば、そうしなさい」と、こういう具合で、「妻帯しなければ、自分の生活ができないというならば、妻帯すればいい。家庭をもってこそ、念仏が唱えられるという人であったら、家庭を持ってよろしいよ。しかし反対に、妻子がおっては邪魔になって念仏申せないというのであれば、それを捨てなさい」というように、幅が広い方ですね。「自分ができるように、念仏が唱えられるような状態で唱えたらよいのだ」と。だからその状態が、他の人から見れば、あれは破壊者だと見られるような人たちでいいんだと。一番大事なのは、念仏を唱えることだから、念仏唱えられるようにして、というような精神ですね。
 
金光:  法然さんという方は、非常にお釈迦様の「対機説法」相手に応じてのお話と同じように、大らかな優しい心の広い方だったようですけれども、しかし一方では島流しと言うか、流刑に遭った時に、「もうお念仏を唱えるのをお止めになったらどうですか」と勧められた時に、非常に強いことをおっしゃっていますね。
 
われたとい死刑に
おこなわるとも、
この事いわずば
あるべからず
(法然上人絵伝)
 
死刑になっても、このことを言わないわないわけにはいかない、とおっしゃっているんですね。しかもそしてその後に、
 
世間の機嫌を憚(はばか)りて
経釈(きようしやく)の素意(そい)
かくすべきや
 
お経の中にある本来の意味を隠すということはいけない。そんなことをしてはいかん、ということをおしゃっている。大事な一番基本的なところは守って譲られない方で、やっぱりそういう優しさと同時に強さをお持ちになった方ですね。
 
伊藤:  法然上人が、お弟子さんから、世間の機嫌を思って、「ちょっとはお念仏お止めになったらどうですか」と。これは我が師の身を案じてこういう言葉を掛けたら、師匠はキッとして、「何を言うか。私はたとい死刑になっても、この念仏の法門のことだけは、言わずにはおられないぞ」という、決然たる姿勢を示されたということに、人々は改めて師の姿を仰ぎ見たと思いますね。妥協すべき点とそうでない点、枝葉末節の点と譲ってはならない点、これをはっきりと念仏を唱えるということ、念仏の教えを説くということ、これは忘れてはならないことだと。しかしその説き方は「対機説法」で、いろいろでいい。人によって違うんだから、その人々に合ったように、立場を変えれば全然別のことを言っていらっしゃるように見える点もあるけれども、それはその方の包容力からくることでありますから、包容力・多様性説法の言われ方の中にも、違いがあるように見えるその点もあるけれども、大事なところはやっぱり押さえておいてほしい。その大事なところというのは、自分にとっては、「弥陀の本願を信じるということと、その信じることから出てくる念仏を唱える」というこの一点だけは、みな忘れてくれてはダメだと。そのことをみなに説く以上、私もまた死刑になっても、念仏を説くということは止められないと。衆生を先とし、教化をすることを生涯の使命とされた法然上人らしさが、そこに出てきておると思いますですね。
 
金光:  源智さんも、なんか日頃は非常に人前に出るのをそう喜ばれなくて、たくさん人が集まったらすぐ姿を隠されたとか、
 
伊藤:  そういう方が、こういうことをなさっているわけですね。だから非常な決意で、師の志を継ぐのだという強い決意をもって事に臨まれて、あれだけのことを完遂されたと思います。またそれに応えた人々も、念仏によって救われようとする人々が、多く念仏を唱えるべく集まってくれておるということを思いますと、やはり念仏に対する人々の期待というものが、これから救われていきたい、救われたいという強い信仰心が湧き上がってきたことだろうと思うんです。あの仏像が、念仏を説かねばならないという源智上人の師を思う思いとが籠もって、あれが納められているんですから、非常に大事な人々の心を入れた空間だった。そういう仏像の胎内を持ったあの阿弥陀仏であったわけですね。だから中に納められてあるのは、そういう人の名前だけじゃない、その人たちのもつ心がそこに納められている。私は、非常な宝物だと思うわけですね。
 
金光:   当時の人々にとっては、死んで良いところへ行きたいというその程度のことではなくて、「生死を超えた仏様の世界と自分が繋がる」そういう結縁の思いというのが非常に強くなっていると。
 
伊藤:  我々は、法然上人によって、このような動乱の世の中で、愚かな者も、罪を犯さねば生きていけない者も、すべて平等に救われていくんだと。知識のない者も、貧しい者も、男性も女性もすべて救われていくという一つの新しい念仏の法門を教えて頂いた。その仏法で、個々が救われていく。全体が救われる。国家が救われる。朝廷が救われる、貴族が救われるというのではなしに、悩んでいる個々人が、個が救われると申しますか、ですから仏像は「迷悟一如(めいごいちによ)」迷える凡夫と救済される仏様とが一体になっておる仏像だと。一如になっている仏像だということが言えるわけでありますね。
 
金光:  今日のお話を伺っておりますと、八百年という年代は非常に長いようでございますけれども、現代の私たちが忘れているこの世と生死を離れた世界。生死を超えた世界との繋がりを、もう一度考えないといけないんじゃないかなというふうに思われた時間でございました。どうもありがとうございました。
 
     これは、平成二十六年六月二十二日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである