海鳴りの果てに―言葉・祈り・死者たち―
 
                       詩 人  (キム) 時 鐘(シジヨン)
一九二九年、朝鮮元山市生まれ。光州の師範学校卒業。南朝鮮労働党の末端組織と関係していたため、韓国軍に住民多数が殺害された一九四八年の済州島四・三事件で生命の危険にさらされた。摘発を恐れ、密航船に乗り込み日本に逃亡、一九四九年六月五日、神戸沖(須磨付近)に上陸した。一九五二年には吹田事件に参画した。在留特別許可を得て在日朝鮮人の政治・文化活動に参加した。金嬉老事件では特別証人として出廷した。兵庫県立湊川高等学校教員となり、日本の公立学校で初めて正規科目として朝鮮語を教え、大阪文学学校理事長なども務めた。著書に「光州詩片」「新潟」「失くした季節」「猪飼野詩集」ほか。
                       ききて 西 世  賢 寿
 
金:  「帰郷」
故里(ふるさと)
帰り着くところであるためには
もう一度ダムに沈む在所(ざいしよ)を持たねばならない。
残り雪の里山に
明け方また霜が張り
それでもふくらむ朝鮮つつじの
かすかなほころびに霊気がおとなう
ある春の日の
誰よりも早い朝まで待たねばならない。
 
渓川(たにがわ)のせせらぎや 色めく花々。
高架にもやるさ霧のたたよいでは
人はむしろ はるばる戻ってゆくためにやってくる。
このあり余る自然とやらが仇(あだ)なのだ。
 
とりわけれんげ草の盛りは侘(わび)しいものだ。
ねぎを?(も)いだ老婆がひとり
とっくに出払った村の畦道(あぜみち)を歩いている。
その孤独が孤絶でないためには
満々たる水底(みなぞこ)
(くす)の大木をひとりひとり秘めていねばならない。
 
故里(ふるさと)
帰り着く国にあるためには
遠く葬(ほうむ)る故郷をもう一度持たねばならない。
 
またとは帰り着けない国であっても
行き着いてはいけるはずだと
ある春の日の
誰よりも早い蕾(つぼみ)のふくらみを
そっと胸の内でほころびるまで待たねばならない。
(金時鐘四時詩集「失くした季節」より)
 

 
田中: 大分山の方へ上って行くんですね。
 
金:  これは大分あるよ、これは年寄りは堪える。
 
ナレーター:  今年八十五歳になった詩人の金時鐘さん。五月、この韓国との国境の島を初めて訪れました。六十六年前、故郷チェジュ(済州)島で遭遇した「四・三事件」。捕らえられ、海に投げ捨てられて殺された多くの水死体が海流に運ばれて、この対馬に流れ着いたのです。
田中: これが墓地ですから。
 
ナレーター:  島の人々は、収容した遺体を無縁仏として祀ってきました。
 
金:  漂着した水死体は、この木立のこの木が茂るところに?
 
田中: ちょっと向こうですけどね。
 
金:  ありがとうございます。
 
田中: 子どもの頃は、山で遊んでいましたから、その時はこう埋めた、お祀りしたものがありました。
 
ナレーター:  一九四八年、祖国を分断する南朝鮮単独選挙に反対し、島民たちが立ち上がります。チェジュ(済州)島は、バルゲイン(赤)―赤の島とされ、軍や右翼団体などの討伐隊(とうばつたい)(韓国軍・警察・右翼グループによる鎮圧掃討部隊)によって殺戮が繰り返されていったのです。
 
金:  ここまで遺体担ぎ上げる、埋葬も大変な労力だったと思うね。ありがたいね。
 
田中: 近所の漁師さんとか、近所の人ですよ。
 
ナレーター:  風は海の深いため息から漏れる。当時若き活動家として事件に関わった時鐘さんは、虐殺の手を逃れ、日本に渡ります。消えやらぬ「四・三事件」の記憶。時鐘さんにとって、果たせなかった死者たちへの鎮魂の旅です。
 
金:  まなざしが一切そそがれることがない死みたいの。済州島の「四・三事件」の犠牲者。殺戮された人たちの隠された死です。あれ完全にもう密室状態で殺したわけですからね。戦争というのは、終わったら海が凪いで平穏な日々になったけど、平穏の中で深い海からもれ上がってくる言葉にならないため息。
 
ナレーター:  金時鐘さんは、一九二九年、朝鮮半島中部元山(ウォンサン)の生まれ。母の故郷チェジュ島で育ち、敗戦を迎えます。戦後は、「四・三事件」を機に、同じチェジュ島出身者が多く暮らす大阪に住み、日本語で詩を書き続けてきました。
 

 
西世:  今日は、金時鐘さんに、時鐘(シジヨン)さんの長い人生と、それから詩を辿って、いろいろお話を伺いたいと思うんですけども、金時鐘さんが故郷の済州島から日本に来て、もう既に六十数年、
 
金:  七十年に近いですね。私が、今八十五歳ちょっとですけどね。よもやこれだけ長生きできるなんて思ったことなかったですね。人生は短いというのが通説ですけど、一生というのは雑多(ざつた)に長いもんだと思います。
 
西世:  雑多に長いもの?
 
金:  人生は短いが、一生というのは実に雑多に長い。つまり日々の出来事が、それはもう際限ないぐらい続いて今日に至るんですよね。だから私は日本でこれだけ長生きできるとは思っていませんでしただけに、ともあれ詩を書くことで生きたというよりは、私の場合は、ちょっとしょった言い方になりますが、詩を生きた日々ですね。自分の詩を生きた日々です。私は詩というものは、万人等しく本性(ほんせい)的に持っているもんだと思っているもんですね。
 
西世:  すべての人が持っているもの?
 
金:  そうです。それで大方の人は、みな喉元までも突き上がる思いを抱えて、それを別なことに託して生きているんですよ。例えば飯を食うために、やりたくない仕事もやらねばなりませんし、暮らしていかなくちゃならないと。多くの人たちは、いっぱい思いを口で言えないまま、言葉で言い表せないまま、他のことに託して自分の詩を生きているわけですね。詩人というのは、そういう多くの人が、自分の思いを言葉で言い表せない人たちの思いをも表す責任を担っているものだと思うんですよね。何故なら、詩人とて、その他大勢の人に過ぎませんので。だから詩人が思うことは特別に思うことじゃない。みんなが思っていることを、主体性的に受け止めている人が詩人なんでしょうね。だから詩の共感というのは、よしんば詩を読まなく、詩を書かなくても、本性的にもっているものですから響き合うんですよね。「詩は永遠だ」というのは、そういうことの永遠だと思うんですね。だから私は、随分苦しい生活やひもじい思いも随分しましたけれども、自分の詩を生きることに邪魔になるようなことは、私の詩を生きることを阻害するようなことには、絶対苦にしませんでした。
 
ナレーター:  第一詩集『地平線』『日本風土記』、長編詩『新潟』、『猪飼野詩集』『光州詩片』『化石の夏』、そして四年前に発表した最新詩集『失くした季節』。詩を生きた六十年の歳月。金時鐘さんは、在日という自分の場所を追い求めながら、日本の現代詩に類を見ない傑作詩編を次々と発表してきました。
 

 
金:  私は、詩を書くようになってから、そういうことを想起―思い起こさせるんですが、朝鮮の植民地統治というのは、私は、昭和四年一月に生まれたんですからね、植民地統治の執政ができあがった時に生まれたんですよね。
 
西世:  ピッタリとこう重なって、
 
金:  それで植民地統治というのは、物理的に恐い統治でなかったです、少年の私には。むしろ統治が、非常に文明的な―日本は優れているし、みな身綺麗な人たちですし、折り目正しいし、僕は戦後の日本の人たちには、想像もできないぐらい、日本に対して蓄えがいっぱいありますよ。卑近な例が、童謡とか小学唱歌とか、戦時歌謡では知らないのは僕はないんですよ、ほどんど。それと日本の短歌、俳句、叙情詩と言われた、現代叙情詩には、特に溺れるぐらい読み耽ったもんですからね。うちの国(朝鮮)の農村の家というのは、ほんとに藁屋根の瘡蓋(かさぶた)がひっついたような薄っぺらい傾いた家ばっかり家ですよ、小さな。そこへ「夕焼け小焼け」を歌う時は、鎮守の杜を被せて歌うんですよ。うちの国は、そういう光景全然ないもんね。だからそういう歌から、遠いうちの国の風景とか光景は、少年の心から随分「この国はもうダメなんだ」というふうに、全然自分の国を遠ざけていきましたね。それから自分の国の言葉では、ほとんど勉強することはなかったわけです。
 
西世:  そうすると、今でも幼少期の記憶を思い出す時に、その記憶は日本語でやってくるんですか?
 
金:  そうです。言葉というのは、殊更に言う必要がないくらい、それはそのまま人間の意識でもあるものですね。自分のもっている言葉が、物事を判別する、できる筈なんですよね。だからそういう言葉まで、最初に私に居座ったのが、自分の国の言葉ではなく日本語なんですよ。ですから物事には、形とか、温(ぬく)もりとか、肌触りとか、いろんなものありますけど、その物事の奥の心情の襞(ひだ)みたいなものが、日本語でできあがっているんですね。ですから朝鮮が嫌いだったんですよ(笑い)、自分の国が。
 

ナレーター:  昭和二十年八月十五日、朝鮮各地に、「解放万歳」の歓声が沸き起こります。
 
何の前ぶれもなく 回天は
太陽のあわいから 降って来たのだった
(「猪飼野詩集・影にかげる」より)
 
故郷チェジュ島の海辺で、一人時鐘さんだけが取り残されていました。
 

 
金:  私は、十七歳で日本が戦争に負けて、「これはお前の国だ」という朝鮮に、僕は押し返されたんですよね。自分で望んだことのない、自分の国へ還らされること。本土決戦で米兵来たら、刺し違えてやろうと思うぐらい思っていましたからね。何にも知らん状態で、つまり昭和二十年八月十五日、よく晴れた日でした。そこに天がひっくり返ったみたい「日本が戦争が負けた」と言われるんですよね。決してこれ誇張でなく、立ったまま地の底へめり込んで落ちていくような失楽感というか、何せ言葉が途端に何にもなくなったんだわ。墨で塗ってしまったみたいに。というのは、言葉を知っているのは、僕は日本語だけだからね。つまり読み書きはもうできないわけですよね、僕は。そうすると、つまり自分の意識が真っ暗、どうして生きようかと思って。
 
西世:  茫然自失とか、そういう話じゃないんですね。
 
金:  でも凄まじい熱狂ぶりですけどね。私一人、そういう同胞からも置いてきぼり食って、ほんとに正体不明のわからんままでした。言葉は、闇の言葉になっちゃいましたしね。家が海辺でしたんで、毎日海辺へ出て渚に立っては、よく日本の「海ゆかば」とか、あんな歌ばっかり歌っていましたよ。何日間も。飯もろくろく喉通らない状態で。
 
西世:  そんな皇国少年だった時鐘さんの、お父さんの思い出というのは?
 
金:  親父の年配の人たちからすると、知識人の部類に入るんですよね。旧制中学校三年ぐらいまで、「3.1統一運動(万歳事件)」に関わってしまい、学校を放逐されて、かつての満州の各地を放浪したあげく、巡りめぐって済州島に居ついた人でした。というのも、実は、解放になって初めて知り得た事実でした。
 
西世:  日本語はしゃべれなかったんですか?
 
金:  「朝日」「毎日」といった日刊新聞まで取り寄せて読む人でしたけれども、日本語は使わない。父は日本を生理的、生理悪寒といっていいぐらい大変毛嫌いした人でした。ちゃんと洋服もあるんですよ、でも着ませんでしたね。周衣(トルマギ)というコートのような外出用の朝鮮服を着て歩いていました。その朝鮮服で街へ出ると、青年隊たちが、キンチョールの噴霧器に墨を詰めて、服へかけちゃうですよね。でも親父は悠然と歩いていましたね。ずっと親父は、「クレメンタインの歌」というのを朝鮮語で歌う歌ですが、それを口ずさんでいましてね。僕は、朝鮮の家では、お父さんがいつも口ずさんで、私に、まあこれはいつの間にか僕も覚えてしまいましたが、釣り糸を垂れながら、僕は弁当届けるのが日課でね、夕方弁当持って行って、親父と一緒に食べるのが楽しみで、
 
西世:  それは済州島の港のところで、
 
金:  だから食べ終わったら、親父の膝の間に坐って、僕も覚えて一緒に歌ったりしました。
 
西世:  どんな歌ですか?
 
金:  歌詞は、
広い海辺に苫屋(とまや)ひとつ
漁師の父と年端(としは)もいかぬ娘がいた
おお愛よ、愛よ、わがいとしのクレメンタインよ
老いた父ひとりにして
おまえは本当に去ったのか
 
それは風の強い朝のことだった
母を捜すのだといって渚へでたが、
おまえはとうとう帰ってこない
おお愛よ、愛よ、わがいとしのクレメンタインよ
老いた父ひとりにして
おまえは本当に去ったのか
 
という。僕は、それは朝鮮の歌だと思っていましたが、アメリカの民謡に近い歌だったんでがっかりしましたけどね。ただ、私には、父から受け継いだ唯一の朝鮮の歌でしたね。
ネサランア ネサランア(おお愛よ、愛よ)
ナエサラン クレメンタイン(わがいとしのクレメンタイン)
ヌルグンエビ ホンジャトゴ(老いた父ひとりにして)
ヨンヨン アジョカッヌニャ(おまえは本当に去ったのか)
 
私は、十七歳で、日本が戦争に負けて、何日間も飯がろくろく喉を通らない状態で、三、四日寝て、そこでフッと今のクレメンタインの歌が口をついで出ましたね。それで歌っていると、ほんとに滂沱と涙が溢れましてね。お父さんの気持ちが、わぁっとわかった気がしましたね。お父さんのクレメンタインの歌が甦ることでね、ほんとになんか植民地統治下できた親たちの思い、ひいては自分の国の状態がわけわからんのに生理的にグッと込み上がってきましてね。それで死にものぐるいで自分の国の言葉を勉強やりましたね。それこそ壁に爪を立てる思いで。自分の国の言葉を壁掻きむしるような思いで「いろは」の「い」から習っていくんですが、それでも二月そこらでとにかく死にものぐるいで、自分の国の歴史とか近代史の、日本の植民統治などわかってくると、逆に血が逆流するみたいに、まあ学生運動にのめり込んで行きましたね。
 

 
ナレーター:  壁に爪を立てる思いで朝鮮語を習い覚えた時鐘さん。しかし植民地支配からの解放はつかの間の夢でした。一九四五年九月、米軍は、北緯三十八度線の南半分を軍政下に置きます。以後、米ソ両大国の対立の中で、祖国が分断されていきます。一方チェジュ島では、民族独立と統一への気運が盛り上がっていました。そして一九四八年四月三日、南朝鮮の単独選挙を阻止しようと、島民たち三百名あまりが蜂起。時鐘さんは、島民たちが結成した山部隊への連絡係を務めます。四・三事件の真相は、韓国の軍事政権のもとで、半世紀近くも闇に葬られてきました。二○○三年、韓国政府は、「四・三事件真相調査報告書」を発表。遺族たちに初めて公式に謝罪を表明します。報告書によると、事件発生から一年あまりの間に、死者、行方不明者三万人以上、七つの村が焼き尽くされ、被害は全島の三分の二の地域に及びました。その八割が討伐隊によるものでした。女性や子どもにまで無差別に虐殺が行われました。そんな中、時鐘さんの叔父や従兄の夫など、親類たちも犠牲になったのです。
 

 
金:  僕は、これを公にしたのは何年でしょうかね―七、八年前でしょうかね、初めて小説を書かれる金石範(キム・ソクポム)(金石範(キム・ソクポム) :作家。1925年大阪生まれ。四・三事件を題材にした小説「火山島」など)さんにそつかれてね、いい歳だし、それを公にして知らない人たちに知って貰うべきだ、というので、金石範(キム・ソクポム)さんにそつかれて話をしたのが初めてですけどね。それは二つの理由から沈黙してきましたね。一つは、最初に「四・三事件」は共産暴動と言われているんですね、世間側からは。ですが、最初四・三蜂起を、私たちは、「人民蜂起」と言ってきました。人民が立ち上がったと。だから私は、共産暴動と言われる組織の南労党の党員でありましたから、私は、四・三事件の関係者ということになりますと、やはり共産党があったことではないかということになりますんで、人民蜂起という正当性が損なわれるんじゃないかという思いから黙っていました。もう一つは、日本に居住することが危うくなることになるという。つまり朴正熙(パクチヨンヒ)の軍事政権が長いこと続きましたのでね、もし言われたら私の人生終わるような立場です。
 
西世:  その当時はおいくつだったんですか?
 
金:  二十歳でしたね。武装隊を立ち上がらせた、一揆された組織の一員だったんですね。それが「南朝鮮労働党」(1946年11月発足。前身は南朝鮮共産党)と言いまして、満州旧市内の連絡員の仕事をやっていまして、
 
西世:  つまり組織と山部隊をつなぐ連絡役、
 
金:  僕は指名手配をくっておりましたから。ずっと一年ほど死んだほうがましだという思いの旋風が続いて脱出するんですけど。人がそんなに惨くなるもんかなと思いますね。同じ同胞としてね。私は、惨殺を間近に見たのは、私の母方の従兄の姉さんの夫の死ですけどね。漁師をしておったんですよね。磯近くでイカを釣っているところへ―日にちもようハッキリしていますが―一九四八年五月二十日ですね。本土から特攻隊が来て、「上がれ」と言って、漁師十名―ちょうど十名です―済州飛行場の西の小高い峰が見えます。トウトウ山という峰がありますが、その頂上に引っ立って行って虐殺をしました。「おまえはゲリラの食料を調達しているんだろう」と言って、それはほんとに酷い殺し方です。僕が行ったら、農家の前で寝かされていましたけどね、その遺体が。目玉が片っ方刳り抜かれていましてね。にらみ返したと言って目玉を刳り抜かれたのだそうな。どす黒い血がまだ垂れたまま重なっていまして、右腕は付け根の皮一枚でぶら下がっていた、その腕を横に置いてあるんですがね。口は開けたまま、叫びが届くような、硬直していましたけどね。本当に憎しみが湧きましたね。あんなにも惨いことができることかと思いますね。今までは私が潜んでおった私の母方の叔父貴になりますけどね、家の母の実家の砂水洞(サスドン)という村の区長なんです。その区長をやっている叔父貴の馬小屋の裏から廻っていく離れの種芋などを埋める穴蔵に、僕は弧も隠してあるところに潜むようになります。区長の家ですから、特攻隊たちの幹部がよく出入りするんですよね。そうすると、叔父貴は自分の甥を匿っていることもあって、さすがに区長の家ですから家捜しはしませんよ。その上役あたりが来たら、食事を簡単にもてなすんですよね。昼間は彼らの天下でね。山部隊からしますと、武装隊側からすると、討伐隊の方へ肩入れをしているというふうにとられて、真夜中処刑されるんですよね。山部隊に竹槍で腹部を二箇所刺されましてね。前庭で刺されて腸がはみ出したまま庭よぎって、家の真ん中の板間突きって、裏の石垣を乗り越えて向こうの小道に落ちたんですけどね。それでほんまに七転八倒のうめき声あげて、三日後に絶命しますけど。そのうめき声とか、家族たちの怨嗟(えんさ)の声がよく聞こえるんですよね。それは庭一つ隔てて、馬小屋の裏の奥に僕が隠れているわけですから、堪ったもんじゃないですね。私は死んだ方がいいと何度思ったかわかりませんけど。僕は、四・三事件を思い出したくないんですよね。ずっと黙っていて。ずっと忘れよう、忘れようと思って努めてきましたからね、思い出したくないんですよね。不眠が続いて、そのために私は一人息子なんで、妹一人おりません。老いたお父さんお母さん置いて来ちゃったもんですからね。ほんとに生きたまま、ミイラのようになって死んだんですよね。死んで逝ったんですが。お父さんは、私が指名手配で受けて、本人いなくなったもんですから、「代理拘留」と言いましてね、肉親を本人出頭まで拘留するわけですよね。親父は何事も一言も伝えてきませんでしたが、相当酷い扱いを受けたんでしょうね、それがもとで結局死にますがね。
 

 
ナレーター:  身を隠して一年後、時鐘さんは、チェジュ島を脱出します。父・鑽国(チヤングク)さんが密かに買収した漁船で沖のクァンタル島に渡り、日本への船を待ったのです。「自分の目の届くところでだけは死んでくれるな。母さん同じ思いだ」それが父の最後の言葉でした。時鐘さんが、島を去って八年目の秋、親類から届いた父・鑽国(チヤングク)(父・鑽国(チヤングク)さんは、学生時代「3・1独立運動(1919年、日本の植民地下で起きた朝鮮独立運動)」に関わり中国に渡る)さんの訃報。その三年後に、母・蓮春(ヨンチユン)さんもこの世を去りました。自分が生きながらえることができたのは、両親の祈りのお蔭だと、時鐘さんは信じてきました。奇跡的にチェジュ島を脱出した時鐘さんが、はるばる辿り着いたのは、大阪生野区旧^野の街。そこは戦前から一世たちが、チェジュ島の方言まじりの日本語で、昔ならがらのしきたり、そのままに暮らす、遙かな日本の朝鮮の街でした。
 

 
金:  ^野で行き暮れて、もう警察に自首しようかと思いましてね。もう死ぬと思いましたね。もう行くところもないし。そうしたら後ろから声掛けられて、見たら同じ船(密航)に乗っとっておった人で、戦後日本から引き揚げて行ったけど済州島で暮らせない。四・三事件が起きているので、日本に戻って来たおっさんの一人でしたけどね。歳が四十がらみの人でしたけど。「すぐ近くのろうそく工場で働くか」ということで、そこへ連れて行って貰って。工場といっても二坪ほどの裏庭を三和土(たたき)にした仕事場で、主ひとりの工場だった。先ず二階の三畳ぐらいの部屋に寝泊まりできることと、縁故者のない者にとっては飯を食うことだけでも大変だったものですから、飯を食わして貰えるのが有り難くて。そこへ行ったんですよね。僕は日本へ来て何よりも押っ魂消(おつたまげ)たのは、日本という文明国に住んでいる同胞たちは、さぞ文化的な生活をやっていると思ったのが、もうとんでもないのよ。僕が移り住んだ南生野町は、かつて鶏長屋というところは、もう目も当てられない。三十所帯ぐらい、こんな庭で飼っておったところらしいけど、一緒に暮らすんだけど、トイレがたった一箇所なのよ。そして水道も共同水道。トイレの裏側にあるんだけど、雨の日は汚水で行けんのだ。くみ取り口からあふれたやつが流れていて。なにしろお話にならん。ここ人間の住むとこかと思った。そういう言葉使いたくないけどね。それぐらい民族差別なんですよね。底辺労働でしか生きられなかった人たち。その日暮らしがやっとですからね。当時は、朝鮮の九割方は北朝鮮の支配でした。私は逃げて来たことが後ろめたくて、そういう在日朝鮮人組織の文化関係の活動家になるわけですけど、大衆の中で飯を食えと二銭の補助が組織であるわけでありませんで、大衆の中で飯を食えですからね。今日、一食ここでよばれたら(ご馳走になったら)、その前恥ずかしくてよう通らんの。今日ここの家で一食よばれたら、その前通ったら、また飯を食わせと、ねだりに来たかと思われると思って。
西世:  でも理念を追い掛けて運動を、
 
金:  運動はよく指示しますけど。朝鮮戦争になりますと、日本が鉄ブーム、金ブームが湧き上がりますね。時の首相吉田茂首相が、朝鮮戦争を、「日本の経済を立て直す天佑(てんゆう)だ」と。^野というところは、金属町工場がいっぱい川べりにあるんですよ。その川には屑鉄が投げ込まれておってね、それを拾うのにどぶ川に胸まで浸かって浚えては屑鉄を集めて屑鉄商に買い取ってもらっていた。親子爆弾というのは、今でいうクラスター爆弾の原型なんですがね、親子爆弾というものが朝鮮戦争で使われたんですね。もの凄く安直な爆弾で、殺傷兵器、殺人兵器なんですね。それを親子爆弾の部品作りが、二段階三段階下りて、^野に下りてくるんですよ。末端下請け。日本人が、一個一円ですめば、朝鮮人は、一個四十銭五十銭ですむわけです。ロクロでひくんですがね。そういうことで飯を食っているところへ説得に私は行かされるんですよね。如何に生活が苦しいとは言い、「同胞を殺すことに手を貸してはならないじゃないか」と言って、説得に行くんですが、でもそれは仕事やっている人たちにとっては平気じゃないの。たった一個のピンとかナットなんですよね。だから実感がないのよね。つまり如何に苦しくても同胞を殺す側に荷担してはならないという、一種の政治論と言いましょうかね。で、説得が、何度か行ってダメだったら、私は表へ出て、首を振ると、立ちどころ―町工場と言っても長屋の一階をぶち抜いて、ほんとにアッという間です、表通り三人待たして、ロープ引っ張れば梁が抜けちゃうんです。ガッと抜けて、玄関も吹っ飛んでしまいますね。つまりその零細の町工場のおっちゃん・おばちゃんたちから、私は一日一食でもありついて生きているのに、そのおっちゃんたちの仕事を潰す―家屋を壊す仕事になったわけですね。三十七、八にもなった長男なんて、度の強い眼鏡に、ひきものの工場だから汚れた牛乳みたいな液を垂らしてバイトが焼き付くのを防ぐわけだが、その油の飛沫を浴びているんですよね。その彼が、「チョーセン(朝鮮)ヤメヤァー!おれはチョーセン(朝鮮)ヤメヤァー!」と言って叫んで。お母さんがそこへへたって泣いていますしね。ほんとに悲痛な叫びでしたね。それを僕は、未だに脳裏にこびりついていますよ。ほんとに僕は一体何やっているんだという思いでしたね。
 
「寒ぼら」
なかおり≠ィっさんの
いわくを聞いた人は
まだいない。
しかし泣きじょうごの
なかおり≠ィっさんだけは
有名だ。
 
いつもなら
顔の半分 ひさしでかくして
口をへの字に謹直なんだが
あみだかぶりになっていくほど
酔いのほども上がっていて
だれかれなしに すがりついては
やたらと
長嘆息の泣きをいれる。
 
ヨボお
きいてくれやせえ
わしの刺網(さしあみ)
まだだれも上げてないんだで・・・
きまって同じくりごとなので
みんながまねあう
お笑い草だが
いったいどんなことが
なかおりおっさんの帽子の中に
つまってあるのか。
 
今夜は今夜で
中央市場までが とびだして
なんでも 韓国からの魚はいっさい
ご自分のものだと 言いはってやまない。
へその色が紫いろにかわるほど
こごえて
濡れて
朔風(さくふう)
ずきん ずきん
こめかみはらして
半日がかりの
網を張る。
ところがその夜
うむをいわさず やってきたのが
家をも凍らせた
徴用だそうな。
 
船底だったので
どこの海をよぎったかも知らず
戦後このかた
炭塵ならぬバフの粉で
眼のふちのくまどりだけはつづいている。
なによりも
還暦といわれることを不吉がり
鎮海(チネ)の海に帰るまではと
ひとりものの泣きをからめるのだ。
 
このなかおりおっさんのなにに
かかったのか。
夜半。
イカイノの寒ぼらが
一匹。
時代もののオーバーの肩に
潮風の記憶に吹かれて
ぶらさがっている。
(『^野詩集』「寒ぼら」より)
 
私にとって、言葉は日本語であったんですね。それが自分の知識を蓄えてくれたものなんですが、その解放になった途端、それが闇の言葉になって、意味をなさない言葉になってしまった。それを意を取り直して、自分の国の言葉の読み書きを覚えましたが、そのために自分の国におれなくなって、宝くじに当たるような確率で日本に生き延びたんですが、日本に来ることで。ということは、日本語とは決別した筈の私が、また日本語で生活している国に僕は来たわけですから、つまり決別した言葉にまた私は取り縋るようになるわけですね。だからその決別した筈の日本語に―決別したというのは、私を歪に育てた言葉でもあるんですね、日本語というのは、植民地統治から日本語ですから。つまり決別した筈の日本語で書くこと、日本に取り縋ってまた生活して暮らさなければならなかったわけですが、^野に行き着いたことで、僕の集落に行き着いたことで、私の日本語はより朝鮮語的な日本語になったんですよね。つまりもともと^野に生きている一世代の人たちの日本語が、日本語じゃない朝鮮語の日本語なんですね。
 
西世:  それまでは、ほんとに流麗な日本語をお話になったんでしょうね。
 
金:  私には、植民地統治というのは、日本の美しい歌が、優しい歌だけに、かつての日本のしでかしたことについては一切わからないんですよね。僕は今でも「おぼろ月」を歌うと目頭が潤るになりますよ。いい歌であるほど、時代批評はないんですよね。日本人だって、個別的には見れば優しい方ですよ。日本人というのは、折り目正しいしね。だから徴兵で行っている日本の兵隊たちも戦争の合間には、国のことを思い、親を思い、子どもを思い、妻を思ってね、叙情歌を歌った筈です。歌っていますわ。だから自分が戦場へ行って想像を絶する残虐なことをやっていながら、自分らの国について、故郷について、家族についてはいと優しい人間なんですよね。だからそういう歌を歌いながらでも、優しい人間でありながらでも、自分らがしでかした想像を絶する残虐さについて、そういう死をさせられた人たちの苦しみとか悲しさには、思いがいかないんですよ、歌というのはね。つまるところ歌は、情感を高ぶらせるとか、情感揺り動かすのが歌の限界なんですね。だからそこでつまりそういう批評を持たない日本語にならない、情感に陥る日本語を使わないということが、私が自分の日本語を使う詩の自己の縛りとなりましたね。私、これ私は自分を歪に育てあげた日本語への報復だと思っているんですけどね。それを抱えもって自分の日本語に対する報復だと思っている。それは自分の、それをしないと私は解放されたことにならない。でも私を作り上げたのは言葉ですから、つまり日本語は、私に全部居座ったままなんですよ。私は根元的に物事を書く物書きとして、私は何から解放させたのかというのは、これ日本に来て七十年、依然と続く私への自問なんですよね。
 
西世:  自問をずっと続けながらの。
 
金:  毎日詩を書くのは、自分への自問ですね。
 

 
「果たせない旅・帰る」
はるかな時空の置き去った郷土よ
残った何が私にあって帰れる何がそこにあるのか
さんざしはまだ井戸のほとりで実をつけていて
撃ち抜かれた押し戸はどの誰がどのように繕い
どこぞの盛り土の中で 父、母はその泥けた骨を傷(いた)めているのか
手筈のない陰画の 影の白さよ
 
ともあれ 戻ってみるのだ
絶えて久しいわが家にも
垣根の菊ぐらい種を継いでこぼれていよう
 
一生を空き家にして閂(かんぬき)を外し
うごかぬ窓をなだめてこじれば
閉ざした夜の一角もくずれて
私にも季節は風を染めて届くだろう
すべてががらんどうの歳月の檻で
降りつもっているのが積もりつもった理由であることもわかるだろう
 
すべてが拒まれ裂かれていった
白昼夢の終りのその初めから
思わしい過去などあろうはずもない
(な)れてなじんだ在日の居つくだけの自足から
異邦人の私が私を脱けて
行きつく国の対立のあわいを遡(さかのぼ)ってくるとする
 
そうもう帰らねば
ひとしお夕陽がにじむ齢ともなれば
老いた妻と置いたままの記憶の許へ帰っていかねば
(『化石の夏』1998年より)
 

 
ナレーター:  一九九八年、時鐘は、金大中(キムデジユン)大統領の特例措置で、墓参のため初めてチェジュ島へ里帰りします。父の死から四十年以上が過ぎ去っていました。両親の墓を建て弔ってきたのは、従兄弟のキムスンさん、故郷に逃げを打った自分を温かく迎えてくれた親類たち。以来毎年父母の墓詣りを続けてきました。自分のために犠牲になった両親や叔父、そして四・三事件の多くの死者たち。時鐘さんの鎮魂の思いが尽きません。
 

 
金:  信仰を持たない私が、何故シンバン(神房)に心を動かされるかと言いますと、その土地の災禍はね、その土地のシンバンじゃないと鎮められないような思いを持つようになったんですね。それはちょうど私が、日本へ来る直前指名手配で潜んでいるところの海辺の家でしたが、トーチカみたいなのを掘ってある堅牢な防空壕の中で潜んでおったんですが、夕方ちょうど十月頃でしたね―十月かかりぐらいかな―いわゆる鳴り物の声がずっと聞こえてきましたね、浜辺からね。日本で言えば鉦と太鼓の音ですが、済州島の私がいたところは、浜辺というのは砂浜じゃなくて、砂利浜なんですよね。その砂利浜で、石垣の隙間から覗きますと、シンバン(神房)が赤、青、黄の原色の着流しの衣装を着けて、夕陽を浴びて招魂の舞を鳴り物入りで踊っているんですが、それはちょうどスローモーッションの映像のように―四、五百メートルぐらい離れているんですよね―踊っているんですよね。で、私を匿ってくれた家のおばさんぐらいの歳でしたけど、あれは「魂鎮めの舞」である。それと「魂寄せだ」というんですね。ちょうど三、四体ずつ手首を括って、海へ投げ捨てられた遺体が、何日かして砂利浜に打ち寄せてくるんですよね。私はそれを二度ほど目撃していますんで。ちょうど長いこと水に浸かっている衣服は剥がれちゃっていましてね。ちょうど肉体がおから(豆腐の滓)になっているんですね。だから砂利浜に波でも寄せると向きが変わるんですが、そのために擦れて骨が少しずつ見えてくるんですよ。先ほど話しましたけど、私を匿ったために、その特攻隊から警官の上役が来ると、もてなししておった。それが山部隊すれば、特攻討伐隊に肩入れをしていると思われて、叔父さんが竹槍で刺されるんですね。その叔父さんへの思いがもうずっと凝っているんですよ。だから浜辺でスローモーション映画を見るように舞っていたシンバンに、一遍魂鎮めをして貰えないだろうかと思って。私は、父母にお茶一杯差し上げたことがないんですよね。その父母の魂鎮めを一緒にして貰いたいと思ってお願いしたんですよね。僕はあれでなんか凝りがかなり和らぎましたね。叔父さんの長男が、私の従兄弟の兄になるんですが、一家がみな来ていました、あの日。祭礼が済んで、兄貴が私の手を握って言った言葉が、「お前のせいではないんだから、お父さんの運命だったんだから、そういう時代だったんだから」と言って、済州島弁でね、私の手を握って、滂沱と涙を流してくれて、私も溢れましたけどね。「気兼ねせずに家に来るように」と。私もまともに見られなかったの。これでちょっと見たら心が晴れるというふうに感じて、自分もシンバンに救われたような思いですね。ですから、私の場合は、自分の境遇を生きてきてはいますけど、それでも私は、日本に東西南北もわからない、縁故者一人いるわけじゃないところにきましてね、今日まで生きて来られたんですよ。だからこれは母の祈りのお蔭だと、先ずは思いますが、つまり人との関係を生きることで、私は慈しみを受けてきたんですよね。だから自分一人であるという思いは全然ありません、いつも。
 
西世:  詩を生きて来た。そして詩を書くということは、ほんとに自分のあれでもなくて、他者と兼ね合って生きていることだというお話がありましたけど、そういう中で今時鐘さんの気持ちが三年前の東日本大震災と原発事故、
 
金:  私は、日本の市民全部が言葉を無くしたんですよ。何を言っていいのか。つまりどうしたらいいのかわからん状態ですね。私はそういう日本の詩人たちが、口を閉ざさざるを得なかった問題を、自分の詩としてほぐしていってみたいという思いがあります。言葉を発することができないままに、思いを抱えたまま生きている。声にならぬ声をもつ、そういう人たちの存在や生―生きる生すらも、思いを言葉で描けるものとして責務を併せもっているんですね。そういう人たちの声も足してあげる、つまりその人たちの声は別の声ではなくて、自分がそのうちの一人なんだから、そういう人たち思いが、私どもにそういう信念があれば、私の表現は、その人たちの心底から発し得ない言葉とも重なるものなんですよね。
 

 
ナレーター:  今、書かずにはいられない。時鐘さんは、3.11の直後から福島をテーマにした詩を書きついできました。地平にこもる一つの願いのために、多くの歌がなっている。八十五歳を過ぎた今も、時鐘さんは詩を生き続けています。
 

 
西世: 
私は見ました。
呼び合う間もなく裂かれていった人たちの
虚ろな心の空洞を、
空洞の奥の昏(くら)い沼を見ました。
澱みが鈍(にぶ)
放射能を湛えてしずもっていました。
浄めようにも浄めようがない
水の祟(たた)りをそこに見ました。
(「夜の深さを 共に」2011年6月)
 
金:  原子の青い火は、地球にあってはならない火、天外の火だと思っているんです。あれは人間が点してはならない火を点したんだね。だからああいう炎に未来があってはならないと思ってね。隣あっては過ごせないものであるならば、そこにあってはならないものなんです。
 
 
     これは、平成二十六年七月六日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである