生死を生きる
 
                冠婚葬祭会社顧問・作家 青 木(あおき)  新 門(しんもん)
一九三七年富山県(下新川郡入善町荒又)生まれ。早稲田大学中退後、富山市で飲食店「すからべ」を経営する傍ら文学を志す。吉村昭氏の推挙で「文学者」に短編小説「柿の炎」が載るが、店が倒産。一九七三年冠婚葬祭会社(現オークス)に入社。専務取締役を経て、現在は顧問。一九九三年葬式の現場の体験を「納棺夫日記」として著しベストセラーとなり、全国的に注目される。著書に「納棺夫日記」小説「柿の炎」、詩集「雪道」、童話「つららの坊や」チベット旅行記「転生回廊」など。なお、「納棺夫日記」は一九九三八年に米国で「Coffinman」と題され英訳出版され、中国語、韓国語でも翻訳されている。また二○○八年に「納棺夫日記」を原案とした映画「おくりびと」がアカデミー賞を受賞して再び注目される。現在は主に、著述と講演活動。
                き き て       金 光  寿 郎
 
ナレーター:  葬儀の現場で、遺体をお棺に納める仕事、納棺(のうかん)を続けた体験を記した『納棺夫日記(のうかんふにつき)』。著者の青木新門さんは、生と死が交差する現場を見つめ続けてきました。今日は、東京葛飾区(かつしかく)にある青木さんご縁のお寺をお訪ねします。
 
金光:  どうもお久しぶりでございます。よろしくお願い致します。
 

 
ナレーター:  青木新門さんは、一九三七年富山県の生まれ。早稲田大学在学中に、六十年安保を経験。その運動の挫折から故郷に帰ります。作家を志しますが、その夢半ばにして冠婚葬祭会社に勤めることになりました。数多くの死の現場に立ち会ってきた青木さんが実感した人間の生と死と実相について伺います。
 

 
金光:  今日は、「生死(しようじ)」の生き死に、「生死(しようじ)」のことをお伺いしたいと思うんでございますが、人生というと、「人間が生きる」と書くわけですけれども、確かに人間が生きるのが人生ですが、現代の人はどうも「生死(しようじ)」じゃなくて、人間の生きる「生」だけ考えて、死の方はあまり考えていらっしゃらないようなんですが、ところが青木さんがお書きになった本を拝見しますと、お葬式の時にお棺に入れるお仕事を、しかも三千人の方のご遺体を納めるお仕事をなさっている中で、その生き死にについて考えさせられたというか、それ以来生きるということについてのお考えも随分変わってきているようでございますので、その辺の話を聞かせて頂きたいと思うんでございますが、先ず最初に納棺のお仕事をなさるようになった経緯を簡単に教えて頂けませんでしょうか。
 
青木:  はい。実は私、作家になろうと思って、それで吉村昭(よしむらあきら)(小説家:1927-2006)さんなんかに紹介されて、ある雑誌に初めて書いた小説が載って、そのつもりでやっていました。店もやっていたんです。水商売やりながらやっていたんですけど、それが倒産致しまして、ちょうど倒産した時に娘が生まれまして、ミルクも買えないような状態になった時に、たまたま富山県で初めて冠婚葬祭業というものを始めた男と出会ったわけですね。まあそんなことでそういう世界に入ったわけなんですけど、当時ね富山県なんかでは自宅で亡くなる人がほとんどでした。
 
金光:  昔は全国的にも多かったようですね。
 
青木:  日本の昭和二十年、三十年代と申しますのは、九十パーセントが自宅死亡だったそうですよ。今は九十パーセントが自宅外死亡なんです。
 
金光:  そうらしいですね。
 
青木:  病院とか老人ホームとかね。そういう時代でございましたんで、人数の少ない会社だったもんですから、何でもしなければならないというような状態で、当時は自宅で亡くなった方をお棺の中に入れるというのは、親族の者がやっておられました。他人は手を出さないで、親族の者でやるもんだ、という風習でございましたね。だから葬儀屋なんかもお棺を届けるだけで、何も手を出しませんでした。まあ何回か経験なさった長老などが、横から口出すけれども、手は出さないで、親族の者がやるという風習でした。それでそれを私、いつもお棺を届けに行って正座して見ていたんですよ。見ているうちに、あんまり酷いことをなさる家があったもんですから、口出したんですね。そうしたら、「おまえ、そんなによく知っているんなら手伝い」と言って、手伝わされたんです。まあ手伝っていたんですね。それを見ていた親族の方で、また不幸があって、「来てくれ」とまでいわれるようになって行くわけですよ。だんだんだんだんエスカレートしていって、そのうちに会社もちょっと大きくなりまして、葬式がしょっちゅう入るようになりました時点で、他の仕事しなくてもいい、誰もやってくれないもんですからね、納棺専従社員みたいな感じになって、私がひととき納棺だけをやっているそういう社員になったんです。大体十年間ぐらいやっていましたかね。その体験を書いたのが『納棺夫日記』でございますがね。そんな経緯なんです。ですから私は、納棺夫なんかになろうと思ってなったわけじゃないんで、行きがかりでなんかなっちゃった、というふうな感じなんですけどね。
 
金光:  私も、父親はもう六十年も前ですけれども自宅で亡くなりまして、それで亡くなった後、着物着せ替えたりするので、亡くなった身体を持ち上げた途端にですね、もう今まで生きていた時と違って、まったく陶器のような冷たい感触でビックリしたことがあるんです。人間が死ぬということはこういうふうなものかということで、これは五官で判断以前のビックリした経験があるんですが、十年間もそういうふうにご遺体を納めていらっしゃると、やっぱりご遺体に対する考え方というか、感覚も変わってくるもんですか。
 
青木:  最初は無我夢中でやっていましたけれども、納棺専従社員になって間もなくでしたがね、分家の叔父が私のアパートを訪ねて来ましてね、「何をやっているんだ。おまえは父もいない、母もいない、本家の長男として、俺たち親族みんなでおまえをなんとかしてやろうと思って、大学まで出したのに、それも中退して、なんか富山で変な店やっていると聞いた。それもなんか倒産して、大阪か東京に逃げて行ったのかと思ったら、なんだこんなところにいて、そんなことをやられたんじゃ、俺たち親族は街も歩けない」と、こういう剣幕で言われたら、ムカッとしましてね。そうしたら向こうにもそれわかるからね、「止めないんだら、お前みたいなもの、村へも来てくれるな。親戚でもなんでもない。おまえのようなもの親族の恥だ」とこういう剣幕でね。あの頃、私は大分歪んでおりましてね。人間挫折とか、倒産とか、失恋とか、いろんなものを重ねてきますと、やがてどうしても歪んだ思想が身に付いてきますね。父を恨み、母を恨み、社会を恨みというふうな、そういうことが身に付いていたんでしょう。ですから叔父から「親族でも何でもない」と言われた時、「こっちこそ清々した」という気でしたね。しかし友だちもいなくなったですよ。そんな中で結局閉じこもりみたいな、隠れるようにして納棺をしながらやっているうちに、やはり納棺の現場でいろんな出会いに遇うわけですね。元恋人だったお父さんの納棺に行ったりとかね、その恋人が汗を拭いてくれたとか、
 
金光:  慣れていらっしゃっても、汗が出るもんですか?
 
青木:  もうね、緊張するんですかね。もう汗がタラタラ出てくるんですよ。後から思ったんですけど、僕はそれとっても大事なことだと思うんです。物事をやるのに、慣れることによって汗も出なくなるという状態は危険だと思いますね。一人ひとりみんな違うんですから、全部汗が出る。その汗を拭いてくれた元恋人がいたわけです。それに私、非常に感動したんです。お父さんの額撫でたり頬を撫でたりしながら、時々私の方を向いて汗を拭いてくれた。その瞳が、私がやっていることも含めて、なんか丸ごと認めてくれている瞳に感じたんですね。それから考え方が変わりました。それまで実を言いますと、汚い服着てやっていたんです。何故かと申しますと、親族の方がやっておられる時も、わざわざ汚い服に着替えられた。何故そんなことをするんかなと思っていたら、納棺を終わりましたら、その着ていたものを丸めて縄で縛って、村の火葬場へ持って行って一緒に焼くんですよ。
 
金光:  一種の「穢れ」みたいな感じ、
 
青木:  そうです。穢れ発想です。ですから穢れを全部火葬場で焼いちゃうと。そういう風習が残っていますから、燃やしてもいいようなものを着てやっておられた。私もそれに相応しいようにしてやっていたんです。ところがその恋人の瞳に出会ってから、どうせやるんならきちっとやった方がいいんじゃないかと思いまして、お医者さんが着られる真っ白い外科の手術なんかに使われる白い服一式買いまして、言葉使いも大事だ、礼儀礼節も大事だという形でやり始めたんです。そうすると人間の行為って面白いですね、汚い服してコンプレックス抱いて嫌々やっているのと、きちっとやるのとでは、雲泥の差ほどの社会的評価が違ってくるということを学びましたね。だから物事って、どうせやるんならきちっとやった方がいいな、と、こんなことを学びましてね。それからですね、少し変わってきましたのは。
 
金光:  でもその三千体の中には、いろんな亡くなられる方もあるでしょうから、非常に考え方が変わるような、そういうケースにもお出会いになったでしょうね。
 
青木:  その白い服着てきちっとやり始めた。それから少し変わっていって、やがてその体験の中で、先ほど言いました「親族の恥だ」といった分家の叔父が、末期癌で入院した。それでおふくろから、「あなた、少年時代に育てて頂いたんだから、一度見舞いに行ったらどうか」と言われましてね。でも私、その電話がありました時に、むしろ「ざまあみろ」というような感じだったんですね。だってね、どんなに小さい時に世話になっていましてでも、「親族の恥だ」と罵倒されたことばっかり覚えているんですよ。で、行きませんでした。暫く経ったら、おふくろからまた電話がありまして、「今日、あなた、行っていないみたいだから、私行って来た。そうしたら意識不明の危篤で会話もできなかった。主治医が今晩か明日かというようなことを言っておられたから、行くんなら今日中に一遍顔を出せ」というようなことを言ってきたんですよ。私は行きたくなかったんですけど、おふくろの言葉の中に、「意識不明の危篤」という言葉がありましたんで、意識不明なら行ってやろうかなと(笑い)。「行ってやろうかな」ですよ。行きましたら、連れ合いの叔母が個室にいて、顔を見せたら、私の顔を見た瞬間に、富山弁丸出し「あれ、あんた、なんちゅういいとここらっしゃったのけ。あれうれしやいいとここらっしゃったわ。さっきまで意識不明だけど、今気がついておられる」と(笑い)。帰るわけにいきませんでね。「ベッドの横へ来い」と言われて、ベッドの横の椅子に坐った瞬間でしたね、叔父が手を出すんですよ、震える手を。ドキッとしてね、手を握った時に、叔父の目から大粒の涙がポロッと流れ落ちてね。柔和な顔をしてね。何か口が動いているんですよね。「叔母さん、これ何言っているんかね?」と言ったら、叔母が、「これ、ありがとう≠ニ言っているんじゃない」と叔母が言ったんですよ。その時に私の耳に「ありがとう」と聞こえた。聞こえた瞬間でしたね、椅子から転げ落ちるようにして、土下座してね、叔父さんの手を握って、私泣きました。〈ほんとに叔父さんすいません〉という気持ちでね、泣きました。そんなことがありましてね。その叔父の死と葬式のすぐ後ですわ、私の友人で、本願寺派の住職で、富山県に砺波市(となみし)というところがあるんですよ。そこに井村(いむら)病院という病院があるんですね。その住職の姉さんがその病院へ嫁いでおられた。その息子の井村和清(いむらかずきよ)(1947-1979)医師が、三十二歳で癌で亡くなって、そして癌になってから死ぬまで一年間日記を付けていた。その日記を病院の自費出版として出すわけです。それが偶然なんですが、『ありがとう皆さん』という題の本です。それやがて東京の出版社から『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』という題で出ましたけれども、最初は病院の自費出版で『ありがとう皆さん』という本で、それを私、読み始めた途端ね、涙が出て読めないんですよ。それどういうことかと言いますと、井村先生が癌になって手術して治ったかと思ったら、検査に行ったら、全身に癌が転移していた。その晩の日記に、
 
癌が肺へ転移した時、覚悟はしていたものの私の背中は一瞬凍りました。
その転移巣はひとつやふたつではないのです。
レントゲン室を出る時、私は決心していました。
歩けるところまで歩いていこう。
その日の夕暮れ、アパートの駐車場に車を置きながら、
私は不思議な光景を見ていました。
世の中がとても明るいのです。
スーパーへ来る買物客が輝いて見える。
走り回る子供たちが輝いてみえる。
犬が、垂れはじめた稲穂が、雑草が、電柱が、小石までもが輝いてみえるのです。
アパートへ戻ってみた妻もまた、手を合わせたい程尊くみえました。
 
要するに前身に癌が転移していて、自分は決意した。要するに「歩けるところまで歩いていこうと、こう思って、駐車場へ行ったら、駐車場にいるあらゆるものが、雑草も小石も、走り回る子どもたちも、電信柱もみんな輝いて見えていた」という場面が書いてあるんですよ。日記ですよ。私、ビックリしたんです。私は、生と死が限りなく近づくか、あるいは自分が生きていながら百パーセント死を受け入れた時、井村先生は、「歩けるところまで歩いて行こう」と日記に書いた。「歩けるところまで歩いて行こう」ということは、死を覚悟した文章だと思いますよ。次の瞬間、「駐車場へ行ったら、あらゆるものが輝いて見えて、差別なく」、ハッと思ったんです、私。ああ、私ね、叔父があんなに私のことを「親族の恥だ」という。「あんな者に連絡する必要ない」と言っておった叔父が、私が行ったら、柔和な顔して、涙を出して、手を出して、「ありがとう」と言った。あの時、叔父も井村先生と同じように、病院の窓も、看護師さんも、納棺夫になりさがった私をも、差別なく輝いて見えていたんじゃないかなと、このように思うようになったんです。それからというものは、僕はその叔父の死と井村先生の本に出遇って、その後というものは、納棺に行きましても、実はお顔ばっかり気にするようになったんですよ。今まであんなにたくさん納棺していたのに、顔の記憶ないんですよ。何故かと言ったら、結局は目を背(そむ)けて仕事をしていたか、真っ直ぐ見つめないで仕事をしていたんだと、私は思うんです。しかしそれからというものは、お顔ばっかり気にするようになった。多くのお顔見ているうちに、死者の顔ってみんな清らかで柔らかで安らかでいらっしゃるなと、このように思うようになっていくんですね。
 
金光:  やっぱり死を受け入れた井村さんが見た世界というのは、すべてが輝いて見える世界だというようなことをお知りになると、それまでの死というものに対する考え方はやっぱり変わってくるもんですか?
 
青木:  井村先生が、「あらゆるものは輝いて見える世界」という文章を書かれた、それを見た時、私は宮沢賢治の詩を思い出したんです。宮沢賢治の「眼にて云ふ」という詩の中に、
 
だめでせう
とまりませんな
がぶがぶ湧いてゐるですからな
ゆふべからねむらず
血も出つづけなもんですから
そこらは青くしんしんとして
どうも間もなく死にそうです
けれどもなんといい風でせう
もう清明が近いので
あんなに青ぞらからもりあがって湧くやうに
きれいな風が来るですな
もみぢの嫩芽(どんが)と毛のやうな花に
秋草のやうな波をたて
焼痕のある藺草のむしろも青です
あなたは医学会のお帰りか何かは判りませんが
黒いフロックコートを召して
こんなに本気にいろいろ手あてもしていただけば
これで死んでもまづは文句もありません
血がでてゐるにかかはらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄なかばからだをはなれたのですかな
ただどうも血のために
それを云へないがひどいです
あなたの方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとほった風ばかりです。
 
という、「惨憺たる景色を見ているの。残されたあなた方から見たら、惨憺たる景色でしょうが、私がみえるのは透き通った風と青い空ばかりです」という詩があるんですよ。僕は死者たちというのは、透き通った風と青い空を見ながら、あらゆるものは輝いて見える世界へいかれるんだと。そんな綺麗なイメージを、私は死者たちに描くようになるわけです。そうしましたら、どうなったかと言いましたら、精一杯死者たちを綺麗にしてあげなければいけないな、と思うようになった。そしてそれはとっても大事な仕事なんだ、というふうに思うようになった時に、私は納棺夫を自信をもってやれるようになったんです。今まであんな卑下しながら隠れるようにして、親戚にも気を使い、あるいは社会の白い目を気づかっていたのは、あれはなんだったんだろうと。彼らは死の真実を知らないんだ、と、このように思うようになったんです。
 
金光:  ご本の中で、いくつも印象に残っているところがあるんですけれども、その光の話で、あるお宅で木に止まっている糸トンボの卵が光って見えるようになった。普通おそらくそれまではあんまりトンボの姿なんかご覧になっていらっしゃらなかったんじゃないかという気もするんですがね。
 
青木:  あれは実は交通事故で親子四人が乗っていて、そして運転していた主人は重傷で入院している。奥さんはドアから飛び出して即死した。そして後ろに乗っていた娘たちだけが助かったというお家の奥さんの納棺に私は行ったんですね。だけど、行きましたら、四、五歳の子どもさんがおられて、その子が立ったり坐ったりして、お母さんの死体のところへ来るんですよ。そしてお婆ちゃんに、「おかぁちゃん、まだねむっているの?」っていうわけですよ。そうしたらお婆ちゃんが、わぁっと泣き出すわけですよ。もう納棺なんかできる状態でないんですよ。そんな中で納棺を致しまして、もう涙の中での納棺でした。納棺をし終わったら、手を洗面所を借りて洗いに行くんですよ。ところが「その水を流したらいかん」というんですよ。竹藪のところまで連れて行かれて、「この竹藪のところに流してくれ」と。流した時に、たまたま目の前をフラフラ飛んでいる一匹の糸トンボがいたんですね。その糸トンボがまた透き通っているような糸トンボで、青白く透き通ったトンボの体内いっぱいに卵が繋がっているようなトンボだったですね。それが光って見えた、そのことを書いたんです。やはりそういう状態というのは、先ほどの悲しみの中からそこへ出たという瞬間に見た光景なんですけど。その後一ヶ月ぐらいの間にそんなことが立て続けに起きているんです。その後に見たのが、ウジが光って見えたという現場なんですよね。
 
金光:  どういうことだったんですか?
 
青木:  それは警察から「お棺を持って来てくれ」と言われましたんで、お棺を届けに行きましたら、平屋の一軒家で、兄弟の人が周りに取り巻いているけど、誰も部屋の中に入っていないんですよ。お棺を持って来ましたら、警察が、「来たか来たか」と言って、警察とお棺を持って中へ入ったらビックリした。部屋中ウジだらけなんですよ。真夏に一人暮らしの老人が亡くなって、そして何ヶ月も誰も気付かなかったという、そういうご遺体。まあ犯罪かもしれないということで、富山医科大学の法医解剖室まで運びまして、帰ってまいりましたら、なんか親族の方が東京から向かっておられるということを聞きましたんで、その方がお見えになるまでに掃除ぐらいしておかんといかんだろうと思って、私は一人で箒(ほうき)でウジを掃き集めていた時に、畳を這っているウジもいれば、柱をよじ登っている奴もいるわけです。その時にハッと思ったんですよ。ウジもいのちなんだと。そのウジもいのちなんだと思った瞬間、ウジが光って見えたんですよ。それも本に書きましたけれども、そんなことが繰り返されて、叔父の死、井村先生の本、糸トンボ、あるいはウジの話という形で繰り返されて、そういう一ヶ月ぐらいがあったんですよ。その時、私は、ああ、そういうことかと。生と死が一つになった時に、見えてくる世界というのが、あらゆるものが輝いて見える。それが「いのちの光」なんじゃないかと、このように思うようになっていくわけですね。
 
金光:  そういうふうに、いのちの光というか、生きているもとにあるいのちについての考え方、これはそれまではあまり熱心に仏教の勉強なんかなさっていらっしゃらなかったようですけれども、
 
青木:  もう全然。六十年安保崩れのもんですから。宗教なんか麻薬に過ぎないぐらいにしか思っていなかったんですけど、結局葬式の現場で、あるいは納棺の現場で、死とは何か、ということを考えるようになって、そしてその死の実相を知った時点で、「これは宗教じゃないのか」と思うようになってから、私は仏教書を読み始めたんです。で、読み始めたのが、実は親鸞聖人の『教行信証(きようぎようしんしよう)』です。何故『教行信証』かと申しますと、富山県というのは、現在でも八十五パーセントが浄土真宗で行われている、そんな土地柄なんですよ。ですから葬式に行けば、「南無阿弥陀仏」ばっかり聞こえてくるわけなんで、そこから「南無阿弥陀仏」というのは、何だろうと。「往生」ってなんだろうと。「死ぬ」ということはどういうことなんだろうと、いうことから『教行信証』を読むようになった。「教の巻」というのが一番最初にあるんですね。ほんの二、三ページなんですよ。しかしそれを読み始めた途端に「光顔魏魏(こうげんぎぎ)」というお言葉が出てくるんですね。それに出会った瞬間に、実は涙が出たんですよ。ハッと思ったんですよ。なんか閃いたように。〈あ、そういうことか〉と。この私が現場で体験した生と死が交差する瞬間というのは、結局ここでいう「光顔魏魏(こうげんぎぎ)」という状態というのは、あそこの後に、「仏仏想念(ぶつぶつそうねん)」という言葉がございます。〈あ、そうか〉如来さまとお釈迦様が会った瞬間の顔なんだと、このように私勝手に自分で解釈して、そうしたらまた戻ってきますけれども、例えば恋人が私を丸ごと認めて汗を拭いてくれたのも、あれはお父さんが死の瞬間、お父さんの額を撫でたり頬を撫でたりしながら、私の方を拭いてくれた。お父さんが如来さんとパッと出会った瞬間に放たれた回向が、彼女の目に顕れて、私の方を丸ごと認めてくれたんじゃないかと。あれは叔父も、その瞬間に回向されたんで、その叔父が「ありがとう」と言ったんじゃなくて、如来が叔父の口を借りて「ありがとう」と言わせて、私を慚愧(ざんき)の回心(えしん)のように土下座して、「叔父さん、すいません」といわせしめたんじゃないだろうかと、このような捉え方をしている。
 
金光:  叔父さんの場合は、「こいつはけしからん奴だ」とか、「親族の恥だ」みたいな善悪とか、そういうのはもうとっくに超えた世界のことですね。
 
青木:  超えた世界です。叔父の価値観は、私、知っていましたから。家柄、地位、名誉、出世でしたから、叔父の価値観は。だから納棺夫になるなんていうのは、とんでもない話なんです。
 
金光:  そういう目で見ればね。
 
青木:  しかし納棺夫をまだやっている私がそこに行ったのに、叔父は涙を出して、「ありがとう」と言ってくれた。丸ごと認めてくれたと、こういう感じがした。あれは如来の働きだったんじゃないかと。
 
金光:  そうしますと、そこのところで、「光顔魏魏(こうげんぎぎ)」そういう今までのご体験がお経に書いてあるのと同じ境地ではなかろうかと思った目で、今度、たとえば『教行信証』読み直されたりしますと、納得できるところが、
 
青木:  そうすると、腑に落ちるんですよ。なんか知らんけど、そのうちに思ったことは、これ要するにブッダの体験談だと。仏典というのはブッダの体験談なんだというふうな捉え方を、親鸞聖人もそうなんだと、体験したことを書いておられる。それにマッチした仏典を選んで書いておられる。このような捉え方ができる。
 
金光:  『教行信証』でもいろんな経典とか論の引用文が多いんですけれども、その元の引用される経典は、そういうお釈迦様の体験を受け継いで、体験を持っている人が後年にまた現れていらっしゃると。
 
青木:  体験しない人が、頭で考えて解釈すると、違ってくるんじゃないかと、こんなことまで考えるようになったんです。例えば『教行信証』の「真仏土(しんぶつど)」の中に、
 
仏はすなわち不可思議光如来なり
 
とかという言葉がありますね。
 
金光:  「光」という字が使われていますね。
 
青木:  光ですね。それは宗教全般にもあることですが、例えば「ヨハネによる福音書」の第一章あたりが、「初めにことばありき、ことばはいのちなり、いのちはひかりなり」という形がありますし、結局この如来と交信しておられた瞬間―仏仏想念ですね。ですから三昧(さんまい)に入るということもそういうことだということもすぐ理解できますし、まあ特に親鸞の『教行信証』の冒頭に、
 
謹んで浄土真宗を按ずるに二種の回向(えこう)あり
一つには往相(おうそう) 二つには還相(げんそう)なり
 
と。『教行信証』の中での一番大事なところは、「二種の回向」だと思うんですけれども、「往相回向(おうそうえこう)」「還相回向(げんそうえこう)」という形が、私はその瞬間にあるという捉え方をしていくわけですよ。
 
金光:  「往相」というのは、お浄土にいく。「還相」というのは、お浄土から還ってくるという。
 
青木:  そうそう。それが私の捉え方が他の方々とちょっと違うんですけど、それは一瞬の出来事であると。喩えて言えば、真っ暗な闇の中にいる人間が―私みたいにあの時いたわけです―いる人間が、電気が点きますと、パッと明るくなって、電気が点くのが往相で、それによって明るくなって、私の心も明るくなるのが還相回向だという捉え方。それは時間がかからないわけです。光の速さで還相回向も往相回向も起きるんだと。だから即ちそれは「他力(たりき)」と言いますか、如来の働きなんだという捉え方を、私がするようになるわけですよ。
 
金光:  しかしそういうふうなご体験があっても、人間というのは、ものを食べないとお腹が空きますし、なんか悪口言われると、ムッとするようなこともあるでしょうし、そういう現実の娑婆世界、この世と後生と現在とのその辺の関係というのは、それはどうなるんですか。
 
青木:  それは私の場合は、言ってみれば、「縁覚(えんかく)」と申しますかね、縁に依ってそうであるということを知った、という程度であって、その中へ入った、ということじゃないんです。「声聞(しようもん)・縁覚(えんかく)」と申しますけど、その「縁覚」と言えば、一番わかりやすいのは宮沢賢治なんですけど、「雨ニモマケズ」にありますように、「そういうものになりたい」と思っているだけで、なったわけじゃない。それと同じ状態で、まったく私なんかというものは、そこに照らされて顧みますと、要するに三毒にまみれて生きている。「貪欲(とんよく)」「瞋恚(しんに)」「愚痴(ぐち)」―貪(むさぼ)りとか、怒りとか、愚痴とか、という状態の中で生きているわけですが、しかし一番最初におっしゃいましたように、私はこの納棺の現場で学んだことは、人間の最高の幸せというのは、このお釈迦様のおっしゃったように、「生老病死」の全過程を、安心して生きることだと思うんですよ。そのように導かれたと申しますか、現場で教わったというふうな感じがするんですね。しかし今日の社会は、先ほどおっしゃいましたように、「生老病死」の中の「生」にのみ価値を置いて、「老病死」を隠して生きている、掩蔽して生きている、そんな世界だと思うんですよ。そんな世界で我々は生きている。しかし考えてみますと、どんなに豊になってでも、生きる苦しみがありますし、どんなに介護制度が充実されたって、老の悲しみや不安があるわけです。高度医療がどんなに発達したって、病院のロビーへ行けばわかりますけど、たくさんの人が悩んでおられる。そして死の不安・恐怖というものを感じながら、二五○○年前も今も一つも変わらないわけでしょう。しかしそういう状態の中にあってでも、安心して生きていくというには、やはり死というものを、生死に生きるというか、死というものを知らないとダメだと私は思うんです。今日の社会は、まったく誰も死を見ようとしないんですよ。
 
金光:  確かに現代という時代は、できるだけ死に触れないように、死を見ないように、という生き方が増えているわけですけれども、死を見るチャンスというのは、少ないでしょうけど、そういうご経験の中で死を見ている人と、全然見なかった人の生き方の違いというのは当然出てくるんじゃないかと思いますが。
 
青木:  その典型的な例としましてね、平成九年に、「酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)」という十四歳の少年が大きな事件を起こしまして、その時に調査官が、「君は何故人を殺そうなどと思ったんですか?」という質問があるんですね。それにA少年は、次のように答えています。「僕、家族なんかなんとも思っていなかったんだけど、お婆ちゃんは大事な人だったんだ」と。あの子はお婆ちゃん子だったんですね。そのお婆ちゃんが死んじゃったんです、小学校の時。「それから僕は、僕が大事にしていたお婆ちゃんを奪い取っていったのは、死というもんです。だから僕は死とは何かと思うようになったんだ。最初はナメクジやカエルを殺していたんですが、そのうちに町内の猫を殺していたんですが、猫を殺しても死とは何かわからないので、やはりほんとのことを知るには、人間を殺してみなければならないようになったんです」という供述調書が残っているんですよ。
 
金光:  その子は、おばあちゃんが亡くなる時に立ち会っていないんですか?
 
青木:  「この子を生んで」というお母さんの私記がありますけど、お婆ちゃんが亡くなった時に起きていたんだけど、夜だったんで「あなたは、明日学校ですよ。留守番して寝ていてね。お婆ちゃんが具合が悪いというから、今からお父さんと行ってくるから」と言って、少年を家に残して行っているんですよ。見ていない。もう一つ、わかりやすくするために例を挙げます。九州のあるお寺へ講演に行きましたら、そこの檀家総代の一周忌でもありました。帰りにその総代のお孫さんが書いた作文を頂いたんです。その作文がどんな作文かと申しますと、
 
おじいちゃんが亡くなる三日間傍に居て、今までテレビなんか見ていても、どうしてあんなに人が死んだら悲しそうな、泣いたりするんだろうと思っていたけど、僕はほんとに僕のおじいちゃんの亡くなる時に立ち会って、悲しくて涙が出て止まりませんでした。その時おじいちゃんは、ぼくにほんとの人の命の尊さを教えてくださったような気がします。それからどうしても忘れられないことがあります。それはおじいちゃんの顔です。それはおじいちゃんの遺体の笑顔です。いつまでもぼくのことを見守ってくださるように、にこやかな笑顔でした
 
という作文を頂いた。私はこの二人の少年が、同じ十四歳の少年ですよ。片方はお婆ちゃんの死の現場へ行っていないA少年、ところがおじいちゃんの傍にずっといた少年は、そのような作文を書いている。特に私思うんですけど、おじいちゃんは黙って死んでいっているのに、それを見ているだけで、「人のいのちの尊さを教わった」と作文に書いている。それにもう一つね、「それはおじいちゃんの笑顔です」と。これが実際傍にいた子じゃなければ書けない。何故ならば二日ほど経って、葬式会館へ行ってお棺の蓋覗いたって、それは私に云わしたらデスマスク(death-mask:死に顔を永久に伝えるため、死者の顔から型をとって作る仮面、死面)ですよ。硬直した状態。あのね、解剖の先生に聞いたんですけど、大体人間の死顔というのは、平均で二時間だそうですね、硬直するまでの間が。平均で早い人は三十分、二日経っても硬直しない人もいる。しかし硬直すると、顔変わっちゃうですよ。あまりいい顔じゃない。ですから亡くなって二時間以内のお顔というのは、みんないい顔している。どんな死に方をしてもいい顔をしていると、私はそのように思うようになりました。
 
金光:  現実にいろんな方の亡くなられた後のお顔をご覧なるようになって、それが実感なんですか?
 
青木:  実感なんです。よくね、「病院の霊安室まで来てくれ」と言われるのがあるんですよ。そういうまだ亡くなって二、三十分しか経っていないようなご遺体なんていうのは、ほんとにいい顔していますよ。ですから現場に立ち会うということが大事。しかし今日の社会は、誰も見ていないですよ、誰も。核家族化、広域社会の仕事の関係とか、高度医療とか、ICUの中に入れられている者を廊下で待っているだけで、瞬間を見ていないんですよね。医者ぐらいは死の瞬間を見ているかと思ったら、医者も今見ていないんですよ。この間郡上八幡(ぐじようはちまん)というところへ講演に行った。そうしたら控え室にいましたら、立派な紳士が現れまして、「私は、実は東京の大学病院の医師ですが、あなたの講演聞いて感動しましたと。実は私は三十年間、教授や先輩から人間の命を一分でも一秒でも延ばすのが、医者の使命であると、このように教わって今まで使命感に則ってやってきました。しかしある日一人のおばあちゃんを担当しました。身寄りのない方で誰も親戚は来ていませんでした。三日前から口も聞かなくなったんで、もうそろそろだなあと思って私はモニターを見ていた―線が止まると死亡ということで―そうすると、三日前から口も聞かなくなったおばあちゃんが何か言ったような気がする。フッと振り向こうとした時に、おばあちゃんが、「先生、こっち見て!」と言った。私はその言葉で、ドキッとしてね、今まで医学の知識で病気を治してきたけども、人間を丸ごと見ていなかった。ハッと思ってね、三ヶ月後に辞表を出して大学を辞めて、今郡上八幡で往診医をしています。「看護婦」の「看」という字が手偏に目と書く。手で脈を診ながら、目を見ながら、そして医者をやっています」という、そんな先生に会いましたけどね。私は医者も見ていないと。誰も見ていない世界で、結局死というものを、社会全体の人が頭で考えているんです。九州の少年のように、五官で認識する人がほんとに少なくなった。それが今日の社会の大きないろんな問題を起こしていく諸悪の根源のように、私は思うようになったんですよ。
 
金光:  そういう意味では、実感の中で人間の生きているということと、死ぬということが別々ではない。しかも死ということを見つめて、その途端に世界が違ってくる、見えてくる。
 
青木:  見えてくる。私のこの思想というか、哲学というのは、結局触覚の世界なんですね。手で触れる。
 
金光:  ですからゲームばっかりやっていると、死んだ人もまたすぐ生き返るというような、それが現実だと間違って考えることも起こってくるでしょうね。
 
青木:  ですから、死というもの、「生老病死」というものを隠して、なるべく生にのみ価値を置いて、生を維持するための経済なり、あるいはお金なりというものが、目的みたいになっちゃっている社会というのは、やはり命の問題がどうしても横へ追いやられてしまうんじゃないかなというふうな、
 
金光:  科学的な立場というのは、自分を置いて、すべて自然にしても何にしても対象物として、対象のものとして見ますから、我が身の生きている現実、生(なま)の現実を見ない生き方になってきますね。
 
青木:  ですから結局近代の思想の科学的・合理的思想というのは、ものを分けて考えるんですね。理科、社会科、内科、小児科、産婦人科、と分けるようにして考える。そういう癖がやっぱり脳についている。そのせいだろうと思うんですけど、福島に盲目の詩人で佐藤先生が、私が行った瞬間、「あなたの点字で書いた『納棺夫日記』を読みました。こんな詩、あなたのためにとっておきました」と。全国の少年の詩を集めておられた詩人なんですよ。それをくださった。その中にこんな詩があるんです。
 
学校の帰りにトンボをつかまえて家へ帰ったら
お母さんがかわいそうだから放してあげなさいといった
ぼくはトンボを放してやった
トンボはうれしそうに
空高く飛んでいった
それからぼくは台所へ行ったら
お母さんがほうきでゴキブリを叩き殺していた
トンボもゴキブリも昆虫なのに
 
という詩なんですよね。僕は、少年というのは、昆虫という概念の中に、トンボもゴキブリも入っているんです。お母さんは完全に分けているんですよ。それは今のお母さんたちというのは、ちょうどヒューマニズムという思想を百パーセント身に付いた方々ですね。「ヒューマニズム」って、日本語に訳しますと、「人間中心主義」ということですね。人間に都合のいいものは可愛そうだから放してあげなさいと、優しいことをおっしゃるんですけど、人間に都合の悪いものは叩き殺しても、心に痛みも感じないんです。ですからそういう社会。僕は、「人間に都合のいいものは」という間はまだよかったと思うんです。そのお母さんたちの子どもはどうなったかと申しますと、「自分に都合のいいものは」になっていったんですね。自分に都合のいいものは、可愛そうとか、優しくするんだけど、自分に都合の悪いものは叩き殺す。それはストーカーにもありますし、いろんな犯罪はほとんどそうですよ。だから裁判所の判決文が全部一緒ですよ。「あまりにも身勝手な自己中心的な犯罪である」と。ですからそれは私に言わしたら、やはり自分中心の考え方だと思うんですね。
 
金光:  先ほどからのお話の関連でいうと、「死ぬ」ということは、自分中心ではないわけですね。向こうからやってくる、来てくださるわけで、それが我が身にも当てはまる。自分も死ぬ、死ぬ人間だというところで生きると、やっぱりそれは今先ほどからおっしゃっている世界は、現在の青木さんが考えていらっしゃることですけど、日本の昔から、あるいはインドのお釈迦さま以来、ズッと続いている世界の話であります、ということになるわけですね。
 
青木:  そうです。ですから家柄、地位、名誉、出世と言った叔父は、自分中心の発想なんです。でも死の瞬間に、私に手を差し伸べて、光顔魏魏とした顔をして、しかも涙を出して、「ありがとう」と言ったのは、もうそれは自分中心がなくなっているわけです。それによって、私は救われて、そして仏教に出会っていったわけなんですから、私はそれを親鸞聖人は、「他力(たりき)」という捉え方をなさったんだと、このように受け止めているんですけどね。
 
金光:  その「他力」と言いますと、現代では人任せみたいに考える人が多いみたいですけれども、そうではなくて、自分を生かしてくださっているいのちの働き、昔の言葉でいうと、「仏性(ぶつしよう)」というか、「仏様の働き」、あるいは親鸞聖人の言葉を借りると、「自然法爾(じぜんほうに)」自然の法のままにという、「自然法爾(じぜんほうに)」という、そこへいくわけで、そこには自分の都合、私の都合のいい社会ということではない世界があるわけですね。
 
青木:  そこなんです。
 
金光:  そこのところを、しかし現代のような時代に実感して貰うというのは、なかなか難しいんじゃないかと思いますが。
 
青木:  ほとんど伝わらないですね、難しい。私は実は『納棺夫日記』を書きましてから二十年経つんです。その二十年間に、私、実は二千回ぐらい全国で講演して歩いていますね。しかし私は、その二千回一度も題を変えていないんです。常に「いのちのバトンタッチ」という題で講演さして頂いているんです。そうすると、「いのちのバトンタッチ」というのは、私は、「叔父の死」と「ありがとう」の、それがバトンタッチだと思っているわけです。そして私の葬式の現場で出会った「光の世界」と申しますかね、どっかで私見たような世界だということをやがて思うようになるわけです。それがやっぱり満州での八歳の時の体験からきていると思う。
 
金光:  日本が負けて、それで日本へ帰る時に、収容所に入っていらっしゃったんですね。収容所の悲惨な生活はいろんなところで聞きますけども、青木さんご一家も収容所で食べるものは少ないところで暮らしたと、
 
青木:  そこで弟と妹が亡くなった。母が発疹チフスに罹って、ちょうど隔離されて、他のところにいると時に、私と弟と妹だけがいる時に、枕元で朝、目が覚めたら、弟と妹が死んでいたんですね。それを日中死体を焼いているところへポンと置いて来たという。八歳ですからね、置いてきただけなんで。要するに満州の荒野へ捨ててきたという感じなんですけどね。その時ポンと置いた瞬間に、ちょうど前に夕陽があった。その夕陽の記憶だけがもの凄く鮮明に残っているんですね。あんな時というのは、八歳や九歳の時は、親が悪いとか、戦争が悪いとか、国家が悪いなんで考えませんよ。それは後からの理屈ですよ。唯々(ただただ)大きな悲しみが身体を包んでいるような感じがしました。その時の感覚が、糸トンボとか、そういうところに繋がっているような感じがしてならない。後からですよ、思うようになったんですね。
 
金光:  私なんかも満州の、旧満州の夕陽の美しさというのは、よく話には聞くんですが、今の夕陽の印象が強かったというお話と、先ほどからの叔父さんのお顔はそれこそ輝いていたというか、非常に光に満ちた、それまでの名誉や地位に拘っていた人とはすっかり変わっていたとか、いろんなところで光という世界、これはどうもお日様が照って明るくなったというような光とはちょっと性質が違うような気がするんですが、その辺はどういうふうにお感じでございましょうか。
 
青木:  私が講演のなどで、「光」と言いますと、一般の人は、太陽の光とか、ろうそくの光とか、電気の光とか、そういう光をイメージなさるんですね。しかし仏教のいう光という、あるいは私が思っている光というのは、「無碍光(むげこう)」のことを言っているんです。遮断物があっても影ができない光。太陽の光でも電気の光でも遮断物がありますと、影ができます。そして一般の人は、「光」とか「影」とかいう言葉を使ったりしますけど、そういう光でない、透い通す光、あらゆるものに影ができない光、そういう光のイメージで、私が話しているんだけど、そういう光というのは体験した者でなければわからないから伝わらないんですね。結局方便で喋るしかない。先ほど言いました夕陽なんかにしてでも、これは太陽の光ですから、これも結局方便でしかないわけですね。その光のことを説明するには、朝から晩まで英語を語り尽くしても語り尽くせないというのが、ちゃんと『無量寿経(むりようじゆきよう)』には書いて、お釈迦さまがそうおっしゃっていらっしゃる、ということなんで、語り尽くせないんだけども、語り尽くせないそういう光、糸トンボの光もそうでしょうし、ウジの光もそうでしょうし、という捉え方を、私はしているんですよ。
 
金光:  「いのちのバトンタッチ」という講演をよくなさっていらっしゃるんですけれども、その終わりの方に、「光」という言葉も出ているんですけれども―光明ですね―それが「仏性」とイコールだとか、「真実」とイコールだとか、「清浄」とイコールだとか、光というと、なんか真実とか仏性とか、直接関係がないみたいですけれども、そういう言葉が引用されているんだそうですね。
 
青木:  私はそれが、例えば「光即ち如来」であり、「如来即ち仏性」であり、それをあまりにも不思議だから、親鸞は、「不可思議光」と言っていますね。
 
仏はすなわち不可思議光如来なり
 
と。透い通す、要するに何も不純物のない光という捉え方をしていますね。私もそのように思っているんですけどね。
 
金光:  その光が、我々生きている人間に、現在今もちゃんと届いているんだと。我々はそこで生きているんだ、ということをおっしゃりたいわけですね。
 
青木:  そうなんです。要するに、行き先を命にすべきだと思いますね、この社会が。
 
金光:  そうすると、「いのちのバトンタッチ」というのは、叔父さんが亡くなられても、甥である青木さんにいのちが伝わっていると。
 
青木:  伝わっている。決して家柄や地位や名誉じゃなくて、いのちを伝えたということ。ですから、道綽(どうしやく)禅師が「安楽集」の中で、
 
(さき)に生まれんものは後を導き
後に生まれんひとは前を訪(とぶら)
(道綽禅師「安楽集」)
 
要するに、先にあらゆるものが輝いて見えている世界にいったものが、残った者を導いているんだよと。だからそこをお訪ねしなさい、ということを言い、それが永遠に続いていくことを願うということを道綽(どうしやく)禅師が書いておられて、親鸞は、後書きの一番最後に、それを載せておられるというのは、私は凄いなと。これこそまさに「いのちのバトンタッチだ」と、こう思っているんですけどね。
 
金光:  どうもありがとうございました。
 
     これは、平成二十六年七月十三日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである