魂 この内なる声
 
                同志社大学教授 樋 口(ひぐち)  和 彦(かずひこ)
一九二七年、横浜市生まれ。青山学院専門学校英文科卒、1955年同志社大学神学部卒業、1957年同大学院神学研究科修士課程修了。米国ボストンのアンドヴァー・ニュートン神学校で修士課程、博士課程修了。1970年、同志社大学神学部教授、1980-1983年神学部長、1998年定年、名誉教授、京都文教大学教授、学長。2009年退職。スイス・チューリヒのユング研究所に三度にわたり研修に行き、ユング派精神分析家。臨床心理士。2013年86歳没。学校法人家政学園常務理事、日本いのちの電話連盟理事長、社会福祉法人京都いのちの電話理事長、日本ユングクラブ会長、国際箱庭療法学会副会長、日本キリスト教団京都丸太町教会担任教師、日本ユング心理学会会長。
                き き て   有 本  忠 雄
 
有本:  私たちは、日頃「自分の魂を見失った現代人」などという言葉を耳にすることがあります。私たちにとって、「魂」とは一体何なんでしょうか。今日は、心理学がご専門の同志社大学教授樋口和彦さんに、魂についてお伺い致します。よろしくお願い致します。
生生は、同志社大学神学部の教授という、勿論肩書きがございます。その他いろんなお顔がございますね。
 
樋口:  私は、たくさん顔がありましてね、ほんとに恥ずかしいんですけれども、ユング派という―みなさんご存知ないかも知れませんけれども―そういう分析家の資格も持っておりまして、夢の分析を致しまして、それから今おっしゃられました同志社大学の神学部―神学部というのも日本の大学の中には大変存在するのが珍しいんですね。それから日本キリスト教団の京都の教会の牧師も末席を汚しておりまして、いろいろ顔があるんです。でも私は―みなさんもおそらくそうだと思うんですけれども、お父さんである顔とか、会社員である顔だとか、さまざまないろんな顔をお持ちなんですけども、私もそうですが、私と致しましては、私が勉強致しましたユング(スイスの精神医学者。分析心理学の創始者。ケスウィルに牧師の子として生まれ、バーゼル大学医学部卒業後、チューリヒ大学の精神科でブロイラーの助手となる。フランスに留学、ジャネの下で研究し、帰国後、言語連想法の実験による研究で有名となる。S.フロイトの《夢判断》を読み感激したユングは、1907年にフロイトを訪ね、両者は協調して精神分析学の建設と発展に寄与する:1875‐1961)というスイスの精神医学者で、分析家ですが、この人は、ご自身を「魂の医師」というふうにおっしゃいましたんですけども、私は、「人の魂を世話する人」というふうになりたいな、と自分では思って試みておるわけでございますけれども。
 
有本:  そう致しますと、今日は、人の魂をお世話なさる先生、心理学者という立場でお話を伺いたいと思いますが、その「魂を見失った」というふうな言い方がございます。それの魂というのは、大変漠(ばく)としているんですが、「現代人が見失った魂」といった時には、見失ったものはどういうものなんでございましょうか。
 
樋口:  実は私は、宗教心理学という学問を勉強しておりますけれども、私の興味のあるのは、京都に住んでおりますから、京都には大変有名なお坊さんとか、それから人格が高潔なそういう宗教者とか、そういう方たくさんいらっしゃいますね。私自身はそうではありませんし、しかし私は、そういう方々の宗教というのはどういうふうになっているかということについてはあまり興味ないんです。そうでなくて、私は普通のサラリーマンの方、普通現代生活を送っていらっしゃる方、いわば宗教なしで生きている方々ですね。こういう方々が、心の底でどういうことを感じていらっしゃるか。それについてずっと研究してまいりましたし、興味があるわけです。
 
有本:  心の底から感じるもの、それをじゃ魂と置き換えてよろしいですか。
 
樋口:  そうですね。ここで申しますのは、あまり硬くならずにですね、「魂」と言いますと、さっき申し上げましたように、ちょっと大袈裟のように感じられますし、実は「大和魂」とか、「肉弾」とか、「闘魂」とか、そういう言葉で言われておりますように、私の体験から言いますと、大抵は負けそうになるとそういう「魂」なんていう言葉を持ち出してくるようなんですけれども、しかし私はもっと「心」というふうに言ってもいいんじゃないかというふうに思っておりますので、広く考えて頂いていいと思います。特に戦後五十年間ですね、我々日本人は一生懸命に働いてきましたし、会社を興しましたし、社会を復興したわけですね。そのためには「物」と言いますか、そういう「物を中心に外の世界をどういうふうに立て直していくか」ということに全力をあげてきたんではないかと思いますね。ですから「心」と「物」というふうに分けますと、そうすると心の方はとても小さくなって、そして物の方は、非常に価値が大きくなって、大体こういう「近代」という―西欧はこれで四百年ありますし、日本でもこれで百年ありますけれども―大体こういう近代人―現代人と言ってもいいですけれども、こういう我々普通の人間は、どうしても「物」というものに対して、これは客観的で、確実で、大体重いですし、ここに色というのはずっとついておりますからね、なんか非常に確実なように思うんですね。反対に人間の心というものはどこにあるかわからない。それこそ魂がどこにあるかわからない。ですから小さい、それからまた当てにならない。主観的なもの。だから気の持ちようで、これはどうにでもなる。今では宗教というのは、大体それは弱い人が信仰するもので、心の迷いからいくのではないだろうかと、普通の人は思っておりますね。ですから一生懸命にこの五十年間、企業戦士と言われる方々は働いていらっしゃったわけです。そしてここへきて、急に自分の心の空腹感というのを考え始めたところではないだろうかと思うんです。私はそういう意味で、現代人、特に日本人は、自分の心を失っているのではないか、そういうふうに感じた次第です。我々は、非常にはっきりして確実なもの、これを常に求めたがりますね。その反対に不確実なもの、あるいは見えないもの、漠然としたものというのは、なんかこれはあまり大切でないように思うのじゃないでしょうか。
 
有本:  「魂」という言葉、強いて定義をつけるとしたらどんなふうに?
 
樋口:  そうですね。「魂」という言葉を、強いて定義するならば、「如何なる定義をも拒否するところの曖昧で確実な概念」と言いますか、そういうふうに言ったらいいのかも知れないと思っているんですけれども。
 
有本:  曖昧?
 
樋口:  というのは、我々現代人というのは、明瞭で確実な概念というのを持ちますと、これが一番信頼するに堪えるというふうに考えるんですけども、それに反して曖昧で、見えなくて、不確実であると、これは信用しないと。取るに足らない、というふうに思いますけれども、私はこれはちょっとおかしいんじゃないか、というふうに思うんです。それは初めは曖昧で、私にはよくわからないけれども、例えば夫婦の愛というようなものは、初め自分はほんとに愛しているかどうかわからないけれど、長い年月一緒に暮らしてくると、もうこれは非常に確実なものですね。見えないけれども、非常に確実なものです。誰が何を否定しても、私はそれは存在する、というふうに言えるものなんですね。ですから曖昧だからと言って、これは確実でない、ということにはならないのではないか、というふうに思うんです。
 
有本:  先ず最初に、魂の正体と言いましょうか、顔はどんなふうにご説明なさいますか。
 
樋口:  実は「魂」というのは、我々現代人は、みんな自分に付属していて、自分が所有できると。プライベートなもんだというふうに思っていますけれども、例えば私たちは、自分の気分というものですね、支配できませんね。勉強したい時に必ずできるという人はあまりいらっしゃらないんじゃないかと。できると思ったらできなかったとかね。それで狼狽(うろた)えるとか。あるいは眠りでもそうです、睡眠でも。睡眠がとれない方、夜寝れない方というのは、非常に苦しいですね。これは自分でもコントロールできないわけですから。そういうふうに自分でもコントロールできないものというのはたくさんあるわけです。それを現代人というのは、全部意識でコントロールできる、と思っているところに間違いがあるわけです。ですから今度は「魂」が、そういう形で感情を通して働き掛けてきた時に、私たちはそれを所有するのではなくて、その魂が何を私たちに教えているのか。何を語り掛けているのか。それを聴くということ。私は、「内なる声を聴く」ということが、これが非常に大切だというふうに思っているんです。魂というのは、みなさん個人で所有できるというふうに思っているんですけれども、実は彼は自立的なんです。彼自身の世界を持っておりますし、彼自身は人のお世話や人の支配を受けないで、自立的動くわけですね。ですから魂というのは、魂それ自体の世界があって、そして時にその魂に対する態度を、私たちが間違いますと、我々は裁かれることもある、というふうに思います。しかし反対に、裁くだけではなくて、我々を助けてくれるという、そういう側面もあると思いますね。
 
有本:  裁かれることもあるけれども、受け止め方によっては味方をしてくれるという。
 
樋口:  そうです。私は自分の魂に対して、敵対的に出ている以上は、魂は自立的ですから、我々を反対にその力で裁ききってくると思いますね。しかし我々が魂に対して、正しい態度というものを取ったならば、必ず魂というのは、我々を包んで、そして癒やしてくれる、そういう働きがあるんではないかというふうに思います。
 
有本:  先生、魂との出会い、あるいはきっかけ、こんなことがあるよ、というお話に移りたいと思うんでございますが。
 
樋口:  大変難しいんですけれども、私はここで三つのことを考えてきたんですけども、一つは、「夢」のことですね。これは朝起き掛けに見る夢というのは、そういうことです。それから二番目は、私大変興味を持っておるんですけど、「箱庭療法」というのがございまして、それでこれは主に子どもさんのためにするわけですけれども、大人の方も一生懸命作ってくださるんですけれども、こういうふうに内界を投影するというものなんですね。それでご自分が作られた結果、そこで意外に自分の心の中をそこに見ることができるんですね。そして一体一体次に自分は何を置こうかというふうに考えてはいらっしゃるんですけど、やり始めると、自分も思ってもみなかったような、そういう光景がそこに展開されるんですね。そして箱庭療法を行っている人と、その箱庭を作って下さった人が、そこでその絵のイメージを中心にいろいろお話し合いをするわけです。そしてその中で、自分の歩んで来た道、これから行く道、そういう筋道がわかるようになってくるんですね。これで今全国の児童相談所とか、さまざまなカウンセリングセンターとか、そういうところでこれが今使われております。子どもさんたち、まだこれ自分に自分を表現できない、言語では表現できない人たちも、特に寡黙のお子さんとか、そういう方は非常にその箱庭のイメージを通して雄弁に語ってくれますね。
 
有本:  三つめは、何でしょうか?
 
樋口:  三つめは、私はこれが一番やっぱり重要だというふうに思いますのは、その魂は見えないわけですけれども、時に姿を現すことがあるんですね。それは感情の非常に深い強い感情の表出、これによって、その方の心とか魂の所在がわかるという場合なんですね。例えば英語で「パッション(passion:情熱、激情などを意味する。イエス・キリストの受難」という言葉があります。「受難」とか、あるいは「情熱」とか、いうふうに訳されていますね。こういう苦しみを受ける、絶望する、筋道がわからなくなってくる。行く生きる道がわからなくなっていくような、そういう時に突然この感情が深いところから突き上げてくる。〈あぁ、あの時、ここにあの人の黙っていない魂があるんだな〉ということがわかるわけです。
 
有本:  それでは今おっしゃった「夢」、それから「箱庭療法」、そして「受難」、この三つについて詳しくお話を伺っていきたいと思うんですが、先ずその「夢」からお話頂けませんか。
 
樋口:  私は、「夢」というのは、非常に不思議なものでして、これについてお話しますと、それは切りがないんですけれども。その中で私は、夢から覚めてくる時のことについて今日お話したいと思うんですね。それは有本さんもご経験あると思いますけど、朝明け方これから起きてくるという時に、まったく夜寝ている時と違いますわね。ちょうどいわば朝日がスッと差し込んでくるという、この時我々はたくさんいろんなことを考えるんです。外国へ行ったらどうだろうだとか、あるいは十七世紀に生まれていたらどうだろうか。夢の中では、自由自在に、我々は活躍できるんですね。だからそういう意味では、まったく「自由人」というんですか、創造的な人間ですね。そして自分は、こんなことやりたいとか、こうだなと言って、自分の姿を思い浮かべたりなんかしているんですけど、だんだん光が射してきまして、ひょっと目覚まし時計なんか見ると、そうすると、「あ、大変だ。学校遅れてしまう」と言って昼間の意識がそこにパッと入ってきますと、今までのそういう自由な考え方が全部吹き込んでしまってですね、あ、十時に会議が始まるから、あの時、自分は何をしなければいけない。昼間のスケジュールがパッパッパッと入って来るんですね。これが昼間の意識です。夜は無意識の非常に豊かな世界があり、昼間はまた違った非常に意識の勝った、ちゃんと統制のとれた自己コントロールのできる世界があるんですね。私は、この朝のご来光と言いますか、ですからみなさん、富士山に元旦に上がって、初めに射してくる柔らかい自分の一日の意識を拝まれたりするんじゃないかというふうに思うんですね。こういう時の感じですね。これは私は非常に人間の創造性にとって必要だというふうに思います。普通の方は、昼間の意識に生きていますから、自分をきちっとコントロールして、そしてそういう一生を生きて、それで死んでしまうわけですね。私は、それだけが人間の一生ではない。昼があるように、夜があって、夜にはたくさんの夢を見て、その夢の中に自分を見ている自分もあるし、動物になっている自分もあるし、さまざまな自分が非常に豊にそこに出てきているんですね。私が、死の問題などあって、興味を持つのも、実は夢の中ではたくさん人が毎日死んでいるんですよ。自分自身の死も体験するんですね。事実寝汗かきますしね。感情は本当に死ぬと同じくらい非常に強力な力を持って私に作用しますね。
 
有本:  夢の場合ですね、「あ、夢を見た」「夢幻(ゆめまぼろし)」ということで、現実とは、あるいは魂とは、心とはまったく関係がないと思う。あれは「夢なんだよ。夢を見たんだよ」というようなことで片付けませんか。
 
樋口:  そうですね。普通の現代人の方は、そういうふうに片付けるんです。でも現代人の人たちが言うんですけれども、小さい夢と大きい夢というのがあるんですよ。忘れようと思っても忘れられない夢というのがあるんです。これは夜見る夢ばかりではありませんね。昼間見る夢だってありますし、いつか我々は見た夢によってこの人生を生きているわけですよ。そんな夢が全然ないとすれば、朝起きる時、私、七十キロありますけどね、この肉体を動かしていくだけでも、これは大変ですわ。だけど私、夢があるからね、そういうイメージがあるし、目的があるし、未来があるし、夢があるから、私の身体は軽々と、ただの物質ではなくて、心を持った物質として、私が動いていくわけです。私は夢の分析の中で、勿論そうやって症状を持ち、いろんな神経を病んでいらっしゃる方、そういう方もいらっしゃるかも知れませんけど、そうでなくて、むしろ普通の人で、自分は何のために生きてきたのか。どちらから来て、どちらへ行くのか。そのことをその方の夢を通して、その道を発見する。そのお手伝いをしている、というふうに思っているんですけどね。
 
有本:  夢幻(ゆめまぼろし)という部分もあるけれども、もしかしたら自分の行く道を示唆してくれるようなこともあると。
 
樋口:  そうです。ですから忘れようと思っても、打ち消しても、夢の方が私を追っ掛けて来て離さない。今こういう職業をしているけれども、実は私自身に見た夢があった。私だってそうですわ。それで今があるわけですからね。夢の方が人生なのか、覚めている方が人生なのか。本当のことは、私は言えないんじゃないかと。
 
有本:  「箱庭」は如何なんでございますか。
 
樋口:  「箱庭」というのは、「箱庭療法」と言いまして、これはスイスの精神療法家のドラ・カルフ(Dora Kalff)さんという女性の方がお作りになったものですけれども、小さな箱に砂を入れまして、主に子どもさん、それから大人の方でも喜んでなさいますけども、自由に小さなオモチャをお取りになって―オモチャというのはたくさんあるんですけれども―そしてお取りになって、砂山を作ったり、そこに家を置いたり、道を作ったり、木を植えたりしてですね、そしてそこに自由に世界を作って頂くわけです。そしてこれやってみますと、大変面白いんですね。見ている時は、何作っていいかわからないんですけども、砂に触って始めますと、われを忘れて作るんですわ。その中に自分らしい人物が出てきたり、お母さんらしい人物が出てきたり、怪獣が出てきたり、自分が旅をしていたり、そこに自分の内的な世界をそこへ投影するわけです。ですからこれ「投影法」と言っているんですね。普通私たちは、人の心とか、人の心の中というようなことはわかりません。ですけども、「どうぞそういうふうにお作りください」と言って、何気なしにそういう方が作ってくださいますと、そうすると、その方とお話をしていくと、その方が今どんなことを考えていらっしゃるか。どういうところにいらっしゃるか、ということが、それでわかるんですね。私は、こういう「魂」というのは、故郷を持っていると思うんですね。私はスイスに留学しておりましたけれども、そしてスイスのユング研究所で勉強しておりまして、スイスの方々といろいろ接しましたけど、スイスの方々は、昔は主に男の人は外国の兵隊さんになって、例えばローマ法王庁の番人になったり、それから女の方では英国に家事見習いにいらっしゃったんですね。ですからスイス人というのは、割合外国語がお上手じゃないかと、私は思うんですけれども、こういう人たちの罹る特別な病気があったんですね。その名前は「ホームシック(homesick)」と言うんですね。「望郷病(ぼうきようびよう)」というように訳しているんですけど、そういう方が外国で苦労なさると罹る病ですね。ところが治す薬はないんですけども、その方たちを、スイスの綺麗な町や場所に帰しますと、お家に帰ると、たちどころに治ると。これに勝る薬はない、と言うんですね。ですから医学的な病気であると同時に、この病気は、心理的な病気であったわけですね。これと同じように我々の心では、深いところに心が本来所属すべき故郷を憧れるという性質があるんじゃないかというふうに思うんですね。
 
有本:  その三番目の「受難」。先ほどは「パッション(passion)」という英語をお使いになりましたけれども。
 
樋口:  私、こういうカウンセラー(counselor:個人の生活適応上の問題について個別的に指導助言(カウンセリング)する専門相談員。臨床心理学の技法を用いて問題状況の分析や本人自身の自己理解を助け,自己指導力を高めることを任務とする)をしていまして、人様のいろいろな悩みをお聞きしたりするんですね。そういう時につくづく思いますのは、多くの人は、「何で私にこういう不幸が起こったんだろうか」「何で私が癌になったんだろうか」ということをお尋ねになるわけですね。ということは、隣の人間は、こんな悪いことをしているのに、何で私みたいな生涯悪いことをしない人間が、他ならぬ私が癌になるだろう、というふうに、みなおっしゃるんですね。ということは、原因があって結果がある。だから原因を知りたい、ということなんですけども。お医者さんに聞けば、癌がどういうふうに発生していくかという、そういう医学的な説明はあります。しかし人間的な説明と言いますか、他ならぬ私がどうしてこういう不幸な目に遭ったのか、という説明は、誰からも与えられないんですね。これには黙っていられない。私にも言わせてくれ。このまま死んでしまったら、私は何であったんだろうか、ということですね。「石が叫ぶ」という言葉がありますね。石はこれは物体ですから、決して話さないし、叫ばないんですわ、本来は。木はものを言わないし、動物だってものは言いませんね。ところが我々の日常世界の中に、時に石が叫ぶような、そういう状況に陥るということがあるわけです。これをおそらく「石が叫んだ」というふうに言ったんじゃないかと思うんですね。先ほど私は日常世界の中に、非日常的なものが入ってくる、と言いましたけれども、そういうことで突然日常世界の中にそういうものが入ってきた時に、我々にその叫びが聞こえるということがあるわけです。私はこういうのを、「魂の叫びだ」というふうに思うんです。ですからそのためには、よく注意をして、その現象というのを見なければいけないんじゃないか、というふうに思います。
 
有本:  でも、個人いろいろおりますんで、そういう叫びを受け止める方も勿論いらっしゃるけれども、全く気が付かないというか、無視をするという、
 
樋口:  私は大体そうだろうと思いますね。我々は、そういう魂の叫びとか、声に応答する、そういうセンスと言いますか、感覚は、現代人はみな失ってしまっている、というふうに思うんですね。ですから今度反対に、自分に今度不幸であるとか、絶望であるとか、そういうものが起こってきた時に、激しい感情が出てきますね。その感情とともに、感情の一番激しい形は叫びですわ。悲鳴とか、泣き声とか、これは言葉にならない、そういう言葉ですけども。これも一つの魂がそこに存在しているという、その存在証明じゃないでしょうか。それで私は思いますのに、そういうふうに何かどっかに痛みがあるとか、どっかに病んだところがあるというと、我々は、特に痛いものはすぐ取ってくれという。ですから痛みというのは、ほんとに現在しかないんですね。過去はないんです。未来はないんです。痛み出したら、どの人たちでも―私でも「今すぐ取ってくれ」。今まできた過去、そういうものもすっ飛んでしまいますし、今取ってくれればそれでいい。未来もないんですね。ちょうど薄っぺらい現在という時に、張り付けになってしまうという状態ですね。これでは解決の方法というのはないわけです。痛みを取るというのではなくて、その痛みに聞くと言いますかね、痛みの中に入っていくという、そういうことが問題だというふうに思います。現代の人は、その痛みを取ってくれ、という時に、攻撃的に依存的になるわけです。そして痛みとか、病気とか、自分の責任ではなくて、向こうから自分の中に勝手に入り込んだものだから、自分のこれはものではない。だからどうぞ早く取ってください。自分はこれ責任をもってません、という形ですね。ところが面白いことに、癌になられた方で、長年癌に苦しんでいられる方は、ある方がおっしゃいましたけれども、この方は、「私の癌」というんですね。癌も長い間自分の中に棲み着いていますと、「これは私の癌なんだ」と。私はこの癌とずっと一緒に棲んできたんだから、これからもずっと彼は離れられないだろう。だから都合の悪いものなんだけれども、これは私の癌だからと言って、一緒に棲むことを習ってくるわけですね。そうすると、今度は癌の方が、この人に対して何をすべきか。どういうふうにしてほしいか、ということを語り出すんですね。楽しさは感じとれますんですけども、我々は苦しさとか、それから困難さというのは、ともすればそこから逃れたい。それを打ち負かして、摘出して、除去してしまいたい、そういうふうに思いますね。ところが私は、大切だと感じているのは、勿論そういうことはわかります、人間ですから、痛いんですから、苦しいですから。だけれども、魂というのは、これは自分のものでなかったならば、魂が何を私に今語り掛けてきているか、ということを、正面切ってその中に入るということ。そうすると、突然第三の道が開かれてくるわけです。苦難が、別の顔で、別の姿で現れてくるわけですね。
 

 
(この絵は、現代人が、心や体の傷という苦痛を体験うることにより、予期しないすばらしい発想に出会うという、人の「魂のはたらき」を示している)
 
 
 
 
 
 
 
 
樋口:  みなさんは、別に魂に会いたいなんて思っていませんし、大体あるとも思っていませんし、自分は持っているとも思っていませんからね。ですから遇った時というのは、それは大変なものです。何で自分にこんなことが起こるんだろうかという、そういうことですね。私は自分の生涯と言いますか、二つの主題がありまして、一つは、「夢」ですね。もう一つは、「死の問題」です。例えばターミナルケア(Terminal Care)と言いまして、今「末期医療」とも訳されておりますけれども、普通の人は、死に直面するまで大体死については考えないですね。そういうことについては、いずれ来ることはわかっているけど、いずれ考えるということですね。しかし最近のように医療機材が進歩してまいりますと、我々が死の前に、そういうものを告知されるということがあるわけですね。そうすると、いよいよ自分が逃げようと思っても、逃げられない。死が向こうから実力を持って自分に迫ってくる、というようになってくると、今まで死を考えなかった人ほど、反対に宗教的には別に生きて来なかった人ほど、非常に短い期間だけれども、非常に宗教的な課題と直面するということになるわけですね。ですから、こういう末期医療では、医学的な手当ばかりではなくて、心理的なサポートや、それから宗教的な手助けですね、こういうものが必要だ、というふうに言われてきているんではないだろうかと思うんです。こうやって、毎日今現代人として面白おかしく生活していますとですね、例えば死などは、私の生の延長上の何か向こう側の点だというふうに思っていますわ。ですから私が意識があれば、私は生きているけれども、死は意識がないんだから、死は私の経験することができない何かなんですね。だから私はそれは考えなくてもいい、というふうに思っているんですけれども、実際は生の向こう側にあるんじゃなくて、生に密着して死というのがあるんですね。それから私はいつでも不思議に感じるんですけど、生まれる前はなんというふうに名付けるんでしょうかね? 生まれた後、行く世界は死の世界ですけども、生まれる前の世界を何でしょうね。我々は死とは言わんのですね。だけどよく考えてみれば、それも死でしょうね、生ではないんだから。そうしたら、上にもあるし、下にもあるし、向こうにもあるし、こっちにもある。どこにでもある。そして死は、生を裏打ちして、逆照射して、生きていることの嬉しさとか価値というのを見せてくれる、そういうものじゃないかというふうに思うんですね。だから死の否定的な―こんなものはない方がいいという、そういうものとともに、死がこれはよくないけれども、こんなものは存在して貰っては困るんだけども、でもあるということは、もしかしたら私たちの今生きて生を裏打ちし、輝かしてくれる、そういう何かなのじゃないでしょうか。だからそっちを完全に否定して取り去ってしまうと、実は生そのものも怠い。生きていても何のために生きているかわからないような、そういうかったるい生になってしまうんじゃないでしょうか。
 
有本:  現代人は、魂を見失っている、あるいは現代が、時代が病んでいる、というふうに置き換えてもいいかと思うんですが、そういう現代の人たちが病んでいる、魂との出会いを忘れているとするならば、魂というのは治療できるものなんでございましょうか。
 
樋口:  私は、この魂というのを治療するというふうに考えるというのは、非常に間違った考えであるというふうに思っているんです。私の主張は、魂というのは、「治す」というような考え方ではなくて、「世話をする」ということ。「魂のお世話」と言いますかね。「お世話」と言いますと、我々は日常的には、「大きなお世話だ」とかね、お母さんが子どもに小言を言ったり、それから言わなくてもいいことを毎回言っているというふうに考えられるんですけども、実は「世話」―「ケア」ということですね、「世話する」あるいは「配慮する」。実はこれはもともと非常な宗教的な深い意味を持っていたんです。我々キリスト教の牧師というのは、古来から羊を牧する、そういう宗教家ということで、羊の世話をする人。ですから、羊が迷っていないか、病気になっていないか。いつでも注意深く関心を持って、そして観察して、そして何くれと無く、温かい心で世話をするということ。私は、この「ケア」という―「パストラルケア (pastoral care:牧師その他の患者の属する宗教(教会、会衆、その他)の宗教的指導者から与えられる心理療法的なケアのこと。家庭訪問からライセンスを受けた牧師による公的なカウンセリングまでのさまざまの形をとる)」言うんです。これは牧師さんの任務と言いますか、仕事というふうに本来考えておるわけですけれども、私はこれを「魂の世話」と言って、そしてこれは現代人にとって非常に大切な忘れられた勤めではないか、というふうに思っているんです。
 
有本:  具体的に「魂を世話する」、どういうことなんですか?
 
樋口:  一番大切なのは、私は、一人ひとりが先ず自分の魂について興味を持つと言いますか、自分の心について興味を持つ。もっと平たい言葉で言うと、「自分の心を満足させること」じゃないかというふうに思っています。それは「自分の心を満足させる」というのは、どういうことかと言いますと、例えば我々は美味しいご飯を食べるとか、味わって食べるとか、友だちと楽しくおしゃべりするとか、あるいは自分の祖先、そういうものを尊敬するとか、そういう日常の細々(こまごま)としたことに何くれとなく心を使って、そして、あ、楽しかったと思って、自分の心を和ませ満足させるということは、これは意外に大切なんではないかというふうに思います。
 
有本:  そうしますと、世話をするというようなことは、何かものを作っていく過程、あるいは織物ですと紡ぐ、あるいはお料理ですと、ほんとに下準備からというようなことで、あるいは養うというか、そんなことまで広がってくるように、
 
樋口:  そうです。と言いますのは、現代人というのは、何でも問題があると、それを解決するというふうにして、そして病根を取って、そして一挙に経済問題を一挙に解決するとか、家計を儲けて一挙に解決するとか、そういう男性的な、また英雄主義的な、そういう解決方法だけに慣らされて、私たちは来たじゃないかというふうに思うんですね。ですから非常時に振るって一挙に解決してしまう。だから最大のエネルギーを使うということになるんですね。ところがお世話というのは、私は男性的なそういう攻撃的な働きではなくて、言うなれば女性的な、一見受け身に見えるような、そういうことですね。それは細小の注意です。だから餌をやるとか、虫がついていないか、植物の葉っぱを取ってやるとか、あるいは糠味噌が腐らないように毎日掻き回すとか、子どもさんなんかが育っていくのは、そうやってもの凄く強い教えとか、メッセージを注入されるということも、それもある場合は大切かも知れませんけども、そうではなくて我々の心をそういうふうに育てられていった時に、本当に自分が使える、自分に役に立つ、そういうものができていくんではないでしょうか。
 
有本:  その「受難」で言えば、何で私だけがその病気に、何で私だけがこんな不幸に、と自分の問題として受け止めている限り、なかなかこう魂の境地まではいけない?
 
樋口:  いけないんですね。それは今みなさまが、結局自分が病んでいるとか、「自分が自分が」という形ですね。魂は、そこから離れて、そのお人を離れて自立しておりますから、その「自分が自分が」と言っているその「自分が」に向かって、何か作用するわけです。
 
有本:  しかし一般の人間は、「何故この私だけが」と嘆きたくなりますね。
 
樋口:  そうです。私は、今、口でこういうふうに簡単に言っていますけれども、実際は何とも言いようもない、そういうことをよく人間というのは、これに堪えられるなというふうな、そういう苦難を背負っていらっしゃる方、いらっしゃるわけです。
 
有本:  世の中いろんな方がいらっして、そして今日まで健康で幸せな毎日、それが病気をなさった、ある出来事があったというふうなことで、まるでこう自分の生活が変わっていく、そういうこともございましょうね。
 
樋口:  あります。私たち人間を親しくさせるというのは、例えば、実はお友だちができるというのは、よく考えてみますと、人間が幸福な時というのは、あんまり親しいお友だちとできないですね。一緒にいれば楽しいですけど、そんな深い友だちでもありません。人生の友だちというのは、大体は自分が傷付いた時、非常に困難に陥った時に、またその人のそういう困難の中にいらっしゃる。たまたま出会うということが多いわけです。昔ギリシャにデルフォイ(ギリシア中部のパルナッソス山の南麓にあるアポロンの聖地、神託地)というところがあって、そこの神託にこういうのがあるんですね。
 
傷付く者がまた人を癒やすことができる
 
という、そういう格言みたいなものがあるんですね。だから傷と傷がお互いに親しみを分かつ。傷と傷が結合した時、会った時、そこに愛が生まれるわけですね。私はキリスト教の世界におりますけれども、イエスさまの十字架というのは、ある意味で大きな傷ですね。そこで亡くなられるわけですから。そしてキリスト教徒になる時、一番深く自分に感動するのは、他ならぬイエスが、二千年の時間を超えて自分を愛しててくれる。その傷は、自分のこの傷のための傷だ、ということがわかった時ですね。これを同時性と言いますか、違うものが同時になる、ということですね。その時初めて愛の深さとか、そういうのがわかるんですね。私は、非常に魂を癒やすことで大切なのは、こういうことじゃないかというふうに思っているんです。
 
有本:  先ほど「この自分が」という、「この自分が」というのは、非常に小さな、まさに自分の世界。ところが魂というのは、宇宙規模と言いましょうか、大変大きなものだという、
 
樋口:  実は私も、結局こうやって魂について話していますと、自分の考え、自分の魂についての考えをズッとしゃべっているわけですけども、突然「お前は、何をやっているんだ」と。本当の魂は笑い出すかも知れないんですね。私は、自分の魂についてしゃべっているのに、いつしか大っきな魂の中に自分が生かされて、こうやって拙いながらも話をさせて頂いているんではないか、そういうふうに私は感じるわけですね。その時初めて、魂の存在がストンとわかった、という感じになるんではないでしょうか。私は、「魂を世話する」とか、「魂を養う」という、そういう言葉を使いましたけども、「世話する」というのは、小さなことを静かに持続的に注意深くすることなんですね。実は私は、これは非常に大きな意味を持っているというふうに思っています。何故かと言いますと、私たちは、現代はこういうふうに病んでいるというと、早く病根を全部除去しなければいけない。どういうふうに世界を変えるんだとか、そういう解決策をすぐ思い出しますけれども、実はそうではなくて、実は一番手短で確実なのは、人々の意識が変わっていくことだ、というふうに思うんですね。もしも私たち、例えば老いとか、病とか、不安だとか、そういうものがありますけれども、人生というのは、こういう起伏に満ちていきますが、こういう起伏の伏の方があっても、それを取り去るのではなくて、世話をするというのは、それは自然のあるがままにしておきながら、それをより豊にしていくことで、悲しみは悲しみとして、それから苦しみは苦しみと、歓びは歓びとして、それをできるだけ味わって、そしてしかも自分の心に満足感を与えるということなんではないだろうかというふうに思うんですね。最近特に女性の方々などは、自分で自分の生活に責任を持ち、そして自分の生活をどうやって人間としての生活を豊かにしていくか、ということに、非常な関心が集まっております。花を植えたり、花を咲かせたり、花を観賞したり、そこに小さな花がひっそりと咲いている。おそらく花は咲きたいから咲いているんだと思うんですね。「咲くことを愛している」というふうに言いますね。私は一人ひとりの人生というのは、いろんな人生がありますけれども、それぞれがみな違った人生でして、そこに見てくれるというようなことではなしに、そこに花を咲かせている。自分なりの花を咲かせていて、人を恨むのではなく、そこで咲かせていて、そこで見る人がいたならば、関心を持つ人があったならば、そこに愛というコミュニティが、そこに成立するんじゃないか。これが「魂を養う、魂を育てる、魂の世話」というようなことで、最近のエコロジカル(ecological:生態学の)な地球規模の環境、それが鉱物とか動物とか植物の、それだけの環境ではなくて、地球全体の環境というものが、それによって調えられていった時に、我々の社会が、この現代を超えて二十一世紀の新しい社会に生まれ変わっていくんではないか。何か非常に小さなことを我々は考えているようだけども、実はみんな意識がそこに伝播していくと、急に大きくなって、そして世界全体が変わっていくのではないかという、そんな望みをこの小さな彼の花に、私は希望を込めているんですけども。私は心理学というのは、ある時いわゆる魂がない心理学の方にいってしまった時があったと思うんですね。今ここで、私は本来の心理学、魂を持った心理学というものにこなければならないというふうに思っているわけです。これが本来の意味の心理学ではないかというふうに思います。従いまして、私は、もともと宗教というものと、こういう意味の心理学というのは、私の心の中では同一のものだ、というふうに思っているんですけども。私は、別に外の世界が大切でないということは言っていないんです。確かに外の世界は大切なんですね。しかしそれと見合うだけの心の内なる世界というのは、これはパスカルが、「空を見上げると、天の星が、満天の星がそこにあって、そしてまた海辺の砂を見ると、そこにも宇宙がある」ということを言っていますけども、自分の心の中でも、外の世界に劣らないところの、そういう非常に貴重な大切な世界があるということですね。これを意識した時に、初めて我々は、この世界に生きられるんじゃないか、というふうに思いますけど。
 
有本:  非常に大きな問題ですし、時間がいくらあっても足らないぐらいなんですが、テレビご覧のみなさまに是非魂 内なる声を、是非自分なりに受け止めて欲しい、見つめて欲しいと、そんな気が致しました。今日はどうもお忙しいところ有り難うございました。
 
     これは、平成八年七月七日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである