自分を知る
 
                  龍泉寺参禅道場師家 井 上(いのうえ)  哲 玄(てつげん)
                  き き て     金 光  寿 郎
 
ナレーター:  静岡県浜松市。今日は半田山(はんだやま)という小高い丘の上にある龍泉寺(りゆうせんじ)参禅道場をお訪ねします。道場の師家(しけ)井上哲玄さんは、昭和八年のお生まれ。福井県小浜(おばま)の発心寺(ほつしんじ)で十年、鶴見の総持寺(そうじじ)で五年間の修行を積み、後に総持寺の講師も務められました。龍泉寺の先代は、父・井上義衍(いのうえぎえん)老師。その教えを受けに、日本各地から集まった数多くの真剣な修行者たちを導いた老師として知られています。幼い時から父の薫陶を受けて育った哲玄さんは、昭和五十六年、義衍老師が、八十八歳で亡くなった後の龍泉寺坐禅道場の師家として、今に至っています。龍泉寺の門には、坐禅の指針となる道元禅師の教えが刻まれています。
 
仏道は自己なり
 
仏の道である自己とは何か。自分を知るということについて、井上哲玄さんに伺います。
 

 
金光:  今日は、「自分を知る」というテーマにさして頂いたんですが、これは昔から東洋・西洋を問わず、人生を生きるうえで自分を知るというのが、一番大事だということは言われているんですけれども、現代の世界とか、日本のニュースなんかを拝見していますと、大きなところでは、国家と国家、あるいは民族と民族、あるいは宗教集団と宗教集団同士の争いがありますし、それから小さなところでは、人生に絶望して自分は死にたいけれども、誰でもいいから殺して一緒に死にたいとか、中には子どもが親を殺し、親が子どもを殺すみたいな、どうしてそういうことが起こるのかというようなケースも随分あるようでございますが、こちらでは昔ながらの仏法の伝統を受け継いで、仏法の場合は、自分を知るというのが大事なことになっているようでございますが、現代のそういう世相等になって、井上さんはどんな印象をお持ちでございましょうか。
 
井上:  今おっしゃる通り、自我を?き立てるようなことばかりが、教育にしろ、社会にしろ、全体そういうことでしょう、今。そういうことですと、これからもっともっと問題たくさん出てくると思いますね。
 
金光:  結果としては、今おっしゃったように、自己を確立するというよりも、自我を確立するという方向にいっているようですね。
 
井上:  そうですね。
 
金光:  で、こちらは入り口のところに、「龍泉寺参禅道場」とありますけれども、坐禅というのは、私なんか聞いているとこだと、要するに坐って、身体を調えて、心も調える、というようなことだと聞いているんですが、一体じゃ、黙って坐って、何を狙っていらっしゃるのか。先ずその辺からお話頂けませんでしょうか。
 
井上:  通常坐禅をして、何もしない、ということに関して、どうしていいのかわからんという意見が多いんですね。それでその内容としては、これうちの師匠の言葉なんですけれども、
 
金光:  井上義衍老師の言葉ということですね。
 
井上:  そうです。
工夫は唯(た)
人我(にんが)の見(けん)を離(はな)
見を離るるの機要(きよう)
内 虚(きよ)にして
外 事(じ)あるのみ
これ人我を離るるの道
これ坐禅の玄旨(げんし)なり
(井上義衍老師)
 
という。これで全部言い尽くされていると思うんですね。
 
金光:  今の人には、崩した字なんか読みにくいかと思って、読みやすい字に書いて頂いたものを用意して頂いたもので、ちょっとそれをもう一度読まして頂きますと、
工夫は唯(た)
人我(にんが)の見(けん)を離(はな)
見を離るるの機要(きよう)
内 虚(きよ)にして
外 事(じ)あるのみ
これ人我を離るるの道
これ坐禅の玄旨(げんし)なり
 
ということですけれども、「人我(にんが)の見(けん)」というのは、一体何でございますか?
 
井上:  「考え方」ということですね。「生まれて出てきたこの私」というものは、いわゆる「自我」とか「先入観」とか、そういうものがまったく無しにこの世の中に出てきたんです。
 
金光:  ということは、「人我の見」というのは、生まれた時には無かった。
 
井上:  無い。全くない。無いところに、自我の確立みたいな、さっき言われたようなことがありますので、それを自我の確立というのは、最初はこの自分を、生まれてきた「公(おおやけ)の活動をしているこのもの」を、「私の個人的なもの、私的な私」というふうに、これを思い込んでしまった。それが「我(が)」の始まりですね、「人我の」。
 
金光:  「人我」というのは、いわば「自我の自分というものはこうだ」というふうに、「自分の考えはこうだ」とか、「自分の身体はこうだ」とか、そういうふうに思い込む。それが「人我の見」と。それを離れなさいと。その離れるについての「機要」一番大事なことというのは、「内 虚にして、外 事あるのみ」。「内 虚」というのは何ですか? 内が空っぽということでしょうか?
 
井上:  「このものに、持ち物がない」と言った方がいいでしょう。
 
金光:  そうすると、身体がありますね。それで眼で物を見ます。耳で音を聞きます。鼻で香りを利きます。そして舌で味わいます。そういうものは、私のものではないと。自分のものと思い込んだら、それは間違いである、ということになるわけでしょうか?
 
井上:  そうですね。
 
金光:  ということは、でもやっぱりお腹が空いて食べたくなる。良い匂いがすると、食べたいと思ったり、それから食べてみると美味しかったり、不味かったりしますね。それは私のものでは?
 
井上:  そういう活動も、私の活動ではない。もっと「このものの公(おおやけ)の活動として、そういうことがある」ということです。
 
金光:  考える以前に、食べなければお腹の方が勝手に空いてくれる。それは私じゃないと。
 
井上:  そういうところまでみな全部「私の考え方、私の思いだ」というふうに、通常みなさんが理解していますのでね。
 
金光:  「外 事あるのみ」―「事」という字がありますね。「外事あるのみ」お腹が空いてものが食べたいという場合は、お腹が空いて物を食べる。それは「事」になるわけですか? 外の出来事。
 
井上:  「食べたい」というよりも、物が目の前にあったら、見えるという活動があるでしょう。そういうふうに眼には、物が見えるもの。それから耳には、声なり、音でしょう。鼻には匂い、舌には味、身体には感覚、そういうような機能としての五官(ごかん)(五感を生ずる五つの感覚器官。眼(視覚)、耳(聴覚)、鼻(嗅覚)、舌(味覚)、皮膚(触覚)をいう。仏教にいう五根から出た語)。五官に対するいわゆる環境、対象としてあるものを「事(じ)」と言っているんですね。
 
金光:  ただそれだけだったら、別に問題がないわけですか?
 
井上:  そうです。
 
金光:  そこで、しかしお腹が空いているけれども、食べる物がないというと、そこでどうすればいいのか、という悩みが出てきたりするわけですけれども。
 
井上:  小さな子どもだったら悩んでいないんでしょうね。例えば要求するということでしょう。無ければないで済むでしょう。泣いたりはしますけども、済むでしょう。大人になると、そうはいかんということですよね。
 
金光:  そうすると、「内 虚」というのは、そういう働きはあるけれども、それはそれをどうこうするという考える以前に、もう働きそのものがある。
 
井上:  そうですね。「人が考える以前の機能としての純粋な働き」。そこのところが、ここでいう「内虚にして、外事あるのみ」と言われている内容なんで、それに対して、「良いとか悪い」「好きとか嫌い」とか言った場合、物が出てきてから後でしょう。
 
金光:  その場合に、「眼・耳・鼻・舌・身」までは感覚ですね。その後に「意」という意思の「意」がありますけども、これ「心」ですね。その「心」も、そうすると「事」に―対象物になるわけですか?
 
井上:  同じです。
 
金光:  同じことになる?
 
井上:  同じことです。
 
金光:  そのことが、内が虚で、外がそういう対象物があるだけで、それはそれで思いの前に動いているわけですね。そのことを認識することができると、そこから我執を離れる道が見えてくる。
 
井上:  見えてくることですね。最初はそういう道理と言いましょうか、そういうことがちゃんと認識できて、「あ、そういうことなのか」ということがはっきりして、それじゃ日常生活にしろ、坐禅をするにしろ、どうしたらいいのか、ということが、初めてそれで明確になるわけですね。
 
金光:  ただ私なんかは、その坐禅というのは習ったこともないんですけれども、真似事をしてもちょっと坐ると、「痛い痛い」と思ったり、その痛さのことを忘れていると、それこそ川柳にありますけれども、昔人に貸したお金のことを思い出したり、変なことが頭の中に浮かんでくるわけですけれども、そういうのに対しては、坐禅の場合どうするばいいんですか?
 
井上:  だから勝手に出てくるんでしょう。出てきたものは断ち消えきって、どんどん。
 
金光:  相手にしなければ、
 
井上:  相手にしなければ断ち消えでしょう。取り上げると、そこからそれに対して思いというは、いろんな思いがくっつくでしょう。どんどん膨らんでいくんじゃないですか。
 
金光:  膨らみますね。嫌な相手になんか言われたということを思い出すと、あの時ああ言ったけれども、それに対してどうすればとか、なんか余計なことが次から次にいろんな思いが湧いてきますね。相手にしないと消えるもんですか?
 
井上:  必ず断ち消えていきます。
 
金光:  それがしかし、「人我」という言葉に慣れないとすると、「我執」というか、「自我」の思いを離れる。
 
井上:  それがもう既に自我を離れている様子なんですね。これから離すんじゃなくて、既にもう離れている。手をつけなければ、そのまま全部通り過ぎて終わりでしょう。そこには「私」というようなものがくっつかないでしょう。いわゆる「人我の見」というようなことは、何にもくっつかないで終わる。ところがそれを掴んで、「あの人はいつもそういう言い方をする」とか、「そういう態度で接する」とかっていうようなことが思い出されて、そういうのをどんどんそこに重ねていくと、それはもうどんどん膨らんで、そのためにみんな悩んだり苦しんだりしているんです。だから悩みや苦しみが起こる一番のもとというのは、そういうことに対して、一念思いが動くということでしょう。その思えたものの方を膨らませる。ただ一念ですからそういう思いも起きるんだけれども、それも知っているから、そのままにしておかれる。そうするとそこには「人我の見」らしきものが介入する余地がない、ということです。
 
金光:  今お話を伺いながら、私の知っている人が、この間胃癌の初期の状況で、胃袋を取ったんですね、手術で。その前は「自分の胃が悪い」とか、「胃がおかしい」とか言っていたのが、胃袋取っても、「自分は自分」ですね。腸を取っても自分は自分で、自分の身体でさえ、自分のものと思っているのが、「本当は自分のものでない」ということに気が付くと、自分と外との境目がだんだん無くなることになって。
 
井上:  そこが大事なんですね。だから生まれたばっかの五官を具えた機能が、機能として生まれて活動を始めるわけですよ。そこのとこには、それらのもの一切ないですね。どうしなければならんというようなことは。縁のまま活動しているだけで、良いとか悪いとかというようなことが、どっこにも介入する余地がないようになっている。そういう時には、自分と物との隔てがないですよ。物と一つになって活動している。それが人の一番本質なんですね。
 
金光:  ただ物心ついて大きくなると、物事についてわかりたいと。「わかる」というのは、自分が何かを理解する。分ける。それで自分と対象物との間に境目ができる。今おっしゃったように、自分が無くなると、それが音が聞こえたら聞こえただけ、ということなんでしょうけれども、現実には音が聞こえた、何の音か。あの音はどういう意味か、と、つい考える癖が付いていますけれども、坐禅の場合は、そういう音がした場合に、その音について考えることはしないわけですね。
 
井上:  しない。
 
金光:  そうすると、何がわかってくるんですか?
 
井上:  徹底的に何もしないんですよ。こうやって音に触れたらですよ(パンと扇子で机を叩く音)いきなり触れるんでしょう。
 
金光:  予期しない音が。でも聞こえます。
 
井上:  でも聞いた自分なんていうものは、その時に出てこないでしょう。
 
金光:  自分が聞いたという。扇子がどうこうなんていうことは考えないで、「あ、聞こえた」という。それも「聞こえた」というのも、後で考えたことで。
 
井上:  そうそう。後で認識したことです。認識以前の様子というのは、ただほんとにこの音と同化してしまっていて、どっこにもない。そういうことがほんとに坐禅するという中で大事にされている。
 
金光:  そうすると、音が聞こえた時には、あ、音が聞こえて、考える以前に音が聞こえている。それが人我の見を離れているという。
 
井上:  そうそう。もう既に離れている、ということですね。普通は人我の見を起こしたものを問題にするでしょう。これがあってはいけない、というから、そうすると、取り除こうとするじゃないですか。他の話にしてみると、「雑念が、坐禅中起きてしょうがない」というんですけども、その雑念にしても、自分で決めたんですよね。起きてきたものに対して雑念と。誰かに尋ねたわけでもない。だから自然の動きとしてあるものは、それ雑念でも何でもないですね。
 
金光:  なるほど。取りつくから雑念になるという。
 
井上:  取り合うから「雑念」という名称を付けるんですね。そうでなかったら、「真実そのものの活動」ですよね。
 
金光:  なるほど。ただ昔試験の勉強なんかすると、勉強始めると途端に他のことが出てきて、なかなか集中できない。で、「自分はダメだな」みたいな余計なことを考えるわけですけれども、そういう思いが湧いてきた時に、その思いを相手にしないで、とにかく今やることに集中すると。
 
井上:  そうです。不思議に人というのは、思いが出てきて、ダメだとか、上手くいかないとか、そういうことがあると、「上手くいかないのはどうしたら上手くいくんだろう」というような方向に、どうしても人は動くじゃないですか。
 
金光:  考えますね。
 
井上:  そこからが道を誤るんですよ。それで追求して、自分が理想として思っているような方向にいくんかと思ったら、それは考え方の世界へどんどんのめり込んでいくことでしょう。どこまでいっても解決にはならない。
 
金光:  でもその話を聞くと、「それじゃその方向へ行かないためには、どう考えればいいんでしょうか?」というのが出てくるんですよ。
 
井上:  そうなんですよね。どこまでいっても、そういう考え方の世界で取り扱うということを。坐禅するということは、もう徹底的にそういう考え方。
 
金光:  ということは、考える以前の事実、その音がして音が止んだと。それで次に何か見えてくると、それはそれで見えたと。で、聞こえたとか、食べたら食べたと。これは美味しかったから次どうこうなんて考えないで、「あ、美味しゅうございました」という、とにかく刻々の事実を知る。
 
井上:  刻々と変化している事実だけに身を任せると言ったらいいんでしょうか。そこに身と置く。
 
金光:  ただ悩みの時は、一つのことを考えると、そのことに取り憑かれると言いますか、それから離れられなくて、「ああかしら、こうかしら、こうしたらどうか」みたいなので、だんだんその悩みが膨らんでいきますよね。それは要するにスタートが間違っている。内は虚なんだと。もともと自分の心というのは、そういうものがないのが本来の姿だ、と。思いを相手にしない。「ああしたい、こうしたい」というようなことを止めてしまうと、新しい間違った道でないものが見えてくるわけですか?
 
井上:  見えてくるんですね。ところがどうしても考え方に、そうやってのめり込んでしまっている方にはいっくら話をしても通じないんですね。
 
金光:  それなら「違う新しい方向というのは、どう考えればいいのかな?」とすぐ考えますよね。
 
井上:  そうそう。どこまでいっても、そういう考え方でいくから、そういう人の場合はしばらく元々を考えたらと言うんですよ。そうすると、自分は一体何やっているんだろうか、ということになるんですね。そのうちに自分も無くなってしまうから、まったくほんとに何やっているんだろうか。そこまでいくと、考え方から離れている事実―離れるんじゃなくて―離れている事実に触れる、ということが出てきますよね。あくまでも離れている事実の方が大事なんで。
 
金光:  今お話を伺ったようなことは、老師さんがお考えになったというよりも、仏法の伝統の中に、そういう実践の仕方があるわけ、ということでございましょう。それでその大先輩である鎌倉時代の道元禅師に、その辺のことをお書きになった『正法眼蔵(しようぼうげんぞう)』の中の「現成公案(げんじようこうあん)」というところに、これもわかりやすい字で書いて頂いたものがあるんですが、読まして頂きますと、
 
仏道をならうというは
自己をならうなり
自己をならうというは
自己をわするるなり
自己をわするるというは
万法(まんぼう)に証せらるるなり
 
それに続きまして、
 
自己をはこびて
万法を修証(しゆしよう)するを迷(まよい)とす
万法すすみて
自己を修証するは
さとりなり
(「正法眼蔵」現成公案)
 
という言葉があるんですが、自己の確立どころか、「自己を忘るるなり」とおっしゃっているんですね。これは「忘るる」というのは、でも忘れようと思ったって、自分というのはずっとついて、忘れるなんて難しいような気がするんですが。
 
井上:  そうなんでしょうかね。こうやって対談しても、私の話を金光さんが聞いていらっしゃるとか、そういうようなところで、自分を持ち出して聞いているということは、まったくないです。ということは、ただ聞こえているだけでしょう。そうすると、とっくに自己なんてどっこもないじゃないですか。
 
金光:  それを理屈で考えると、老師さんが話しているのを、「私が聞く」というふうに分けて考えますけれども、それは事実でないと。思いで勝手にそう思う。
 
井上:  そう。事実はただ言葉が往ったり来たりしているだけであって、それもその時その時の、「あいうえお」だけですよね。その事実だけですよ。だからいつでも生きているのは、事実のうえにしかないということですよ。事実を除いて生活はあり得ないですね。
 
金光:  そうですね。
 
井上:  そういうことについて、道元禅師のあれもそうですけれども、先ずは仏教の一番もとの、お釈迦様が、考え方であれ六年間も苦労なさったわけでしょう。一口で言えば、考え方で、その自分の思うように「人間改造」と言っていいんでしょうか、これを改造しようとすることに六年間も取り組まれたんでしょう。その暁に、「そういうことでない」ということを知られて、それで人の機能というものが、機能のまんまであって、それに今までは手を付けて、何か改造していくみたいな、作り替えるみたいなことをやっていたけども、そうではなくて、「機能は機能のまんまで、一切人間の考え方で手をつけない」ということだけが、唯一六年間の中でやり残されたんですね。それで初めて菩提樹下で―菩提樹下と言っても特別の木があるわけではないですけども―木陰で静かに振り返られた結果が今いうことです。それで「本当に純粋に機能は機能のままに一切手を付けない」ということにおいて、初めて境がなくなったんですね。自他の関係で。対象物でなくなったんですね。本当にこの後の活動というのは、常に一体ですね。一つになって活動している。そういうところがはっきりされたんですね。そのうちにそういうことを知っている自分すらも綺麗になくなってしまった。認識作用が本当に無くなってしまった。そこに明けの明星の光によって、再び認識作用が動いた、ということですよね。認識作用が動いた時に、初めて「人が何にも存在していない」ということが明確になった。これが今日までですねよ、そういう体験者から体験者へと伝わって、二千五百年あまり、体験者から体験者にきちんと伝えられているということが一番大事ですよ。その中の、これ道元禅師ご自身も、そういうところで苦労なさった揚げ句のお言葉として、「仏道をならうというは自己をならう」。仏道とは何か特別のものがあるんじゃない、ということですね。本当に「このものの様子でしかない」ということに気が付かれたんで、それで「仏道を習うというのは、自己を習うなり」。その内容はというと、自己を習うというのは何かと言ったら、自己を忘れるなり。自己を忘るるというのは、今おっしゃるように、あるものをどうしても認めているから忘れなければならない、というんだけども、実際に忘れるなんて必要ないほど、そんなもの出てきていない。そういうところが、ご自分の様子としておわかりになって、それでそこへ入るところまでいく。それには万法に証せられるという。
 
金光:  すべての物事という、証せられる。
 
井上:  「証せられる」ということは、こっちから「これは茶碗だ」というんじゃなくって、向かったら、その通りに、名称はともかく、向かったら「この通り様子がある」。物の方からでしょう。こちらからあれは茶碗だとか、そうじゃなくて、
 
金光:  この茶碗は、後で、どこで作られた、というのは、後で考えることであって。
 
井上:  そうそう、後で。考えることができないようになりなさい、ということではなくて、いくらでも考える力は持ち合わせているんだけども、今の「本質的な自分のありようというのは、どうなのかな」というと、そういう考え方では到底及びがつかない。「それほどはっきりした事実が今ある」ということですね。その事実のまんまに身を任せておかれた。そういう任せるということが、「万法に証せられる」と言われる所以なんですね。それによって、ほんとに隔てのないありようというのが手に入るということですね。
 
金光:  その言葉を聞くと、思い出すのが、お釈迦様が最晩年におっしゃった、「お釈迦様が亡くなった後、残された私たちはどうすればいいんでしょうか」という、阿難さんというお弟子さんが尋ねられた時に、「自分を頼りにしなさい。法を頼りにしなさい」。あるいは「自灯明」「法灯明」という言葉がありますが、これは自分を灯火とする。それからもう一つ、法を灯火とする。その場合「自分は」というと、自己を頼りにするというと、いろんな思っている自分を頼りにするという意味に取りがちなんですけども、今ご説明聞くと、その自己は普通の一般に考えている自己とは違いますね。
 
井上:  違う。根本的に違うと言った方がいいでしょうね。
 
金光:  その自己は、今おっしゃったように、「万法に証せられる自己」ということなんですか?
 
井上:  そうです。
 
金光:  ただそれを自覚するというのは、「これはどうやって掴まえればいいんでしょうか?」というのが出てくるわけですね。
 
井上:  そこまでいっても、そうやって、「どうしたら」ということで。「どうしたら」ということで、長い年月みなさん時間を取るんですよね。
 
金光:  そうすると、「自己を頼りにする」ということは、経典なんかいっぱいありますわね。随分いろんなものがありますけれども、そういうものよりも、この与えられた身体、その感覚、いろんな身体の働きみたいな、先ずそれを確かめる。どういう働きをしているか。その思いとの関係みたいなもの、自分の身体で確かめないと。
 
井上:  そういうことですよ。あくまでも、経典として残されている言葉があったり、文字があったりしますけれども、「その内容は」と言ったら、ハッキリしているでしょう。お釈迦様にしても道元禅師にしても、自らが体験なさった内容から述べられたことでしょう。そうすると、ああいうもの読んでいくら探しても、あの中には答えはないということですよね。答えとして、言うならば、全部「このもののありよう」の中に、「法」と言われるものも、「仏道」と言われるものも、すべてこの中にある、ということですよ。「このものの活動以外に何もない」ということ。そういうことがあるから、どうしてもこの自己にほんとに学ぶということが大事になってくるんじゃないですか。
 
金光:  先ほど紹介した言葉を、もう一度拝見しますと、
自己をはこびて
万法を修証(しゆしよう)するを迷(まよい)とす
万法すすみて
自己を修証するは
さとりなり
 
「迷い」と「悟り」という言葉が出てきますが、大体煩悩というか、迷ってばかり、「ああしようか、どうすればいいだろうか」みたいなことを自分なりに考えるわけですけれども、それが迷いであります。で、それは自分が世の中のいろんな出来事の中で、どうすればいいのかというのを一生懸命大体のものを考えて、この道が良いだろうとか、どうだろうかと思ったりするのが迷いでありますと。ところが現実の出来事が、自分の方に何を問い掛けているか。何を自分にさせようとしているのか、ということを、最初の言葉にあった、「内が」自分の立場が虚であって、要するに外の出来事のみあって、その働きを自覚できると、そうすると、迷いでない世界に気が付くという。
 
井上:  そうそう。今おっしゃったようなことも、迷いではないですよね。ただそういうことがいろいろ思いているという活動が、今自分の様子ですよ。
 
金光:  そうです。
 
井上:  紛れもない自分のことですよ。だから今の活動の中に迷うということと悟るということと、両方使われているんですよ。一つのことなんです、内容は。
 
金光:  ただ、そういうのが両方ともあるということを認識しますね。そこで、「あ、そうか」で止めてしまえば問題になるわけですね。
 
井上:  「そうか」ということがわかったから、それじゃ考え方を使うという方向じゃなくて、「今触れている事実だけをほんとに大事にする」ということがある。それだけが二千五百年ずっと大事にされてきたんです、今日までね。「もうこの教え以外に、ほんとに人は根本的に救われるという教えは他にはない」というほど明確なものなんですよね。
 
金光:  とは聞きましても、私もいい歳になったわけですけれども、もうそんなに長くは生きていないんじゃないか。そうすると、死ぬという現実が訪れるんではなかろうか。時にはそういうことも思うんですけれども、生まれる時は何も何も考えないで生まれてきているんですけども、死ぬというのはやっぱり気になるんですね、考えると。
 
井上:  気になるんですね。
 
金光:  生き死にというのは、生きているのがあって、死ぬと、今の人だと死んだら何にも無くなるんだと。無になるんだ、というふうに考えている人が、結構多いんじゃないかと思いますが、その辺はどういうふうに考えればよろしいでしょうか。考えたらいかんのか?
 
井上:  「考える」ということではなくて、今生まれるということでも、自分の発生も、生まれたことも、そして生きていることも知らなかったんでしょう、生まれたばっか。
 
金光:  生まれた時は知りませんね。
 
井上:  死ということでも、死というものを対象にいろいろ観察をするとか、考え方を使うということになると、あるということが出てきます。だけど実際に、自分の死というものは、自分で確認できないでしょう。
 
金光:  できません、これは。
 
井上:  生きている人が、「ああこう」言うんであって。そうすると、それも同じじゃないですか、生まれた時と。何にも知らないところに、ゴロッと生まれてきて活動しているということと、このものがほんとに息が絶えたという時に、この後の活動を全部停止するでしょう。そうしたら生まれた時には、このものと同時に、世界も宇宙も、何もかも、この世の中にゴロッと出てきた時から始まったんじゃないですか。このものの活動として、宇宙もあり、勿論お釈迦様にしろ、道元禅師にしろ、このものから全部生まれるわけですよ。で、このものが消滅する時には、同時消滅です。宇宙の何も一切、何もかも同時に消滅してしまう。
 
金光:  そうすると、自分と他人、自分と外界の自然というのが、普通はばらばらで、自分は死んでも他の人はみな生きていると。どこへいくんだろうみたいなことを考えているのは、頭の中だけのことでありまして、その事実・事柄としては、生まれる時と同じように、死ぬ瞬間は今、今のという時に意識しないところへいくというのか、迎えられるというのか。ただそうなってくると、その先は考えてもしょうがないわけですね。自分の見解で苦しんでいるんだから、見解がなくなれば苦しむ必要はないと。
 
井上:  そう。だから亡くなった人のことを、「仏」というんだけれども、悟ったということとは内容を異にしますけれどもね。ただほんとに考えるということがなくなれば、迷うということも苦しむということも当然なくなりますからね。そういうところで救われているという表現をしている。
 
金光:  そうすると、今生きていると思って、自分は苦労して生きていると思っているけれども、それは自分と外界というか、対象物、他人とか、いろんな自然の出来事なんかを、別なものとして考えていると、悩みがでるんだけれども、それと一体になって、自分と周囲との区別がない。「自他不二(じたふに)」という言葉をよく使いますけれども、そういうところで生きている場合は、思い以前に事実が刻々と変わってくる。自分の生まれるも死ぬも、刻々と変わっている今というものの、そこで生きているという事実は、生も死も同じところであると。
 
井上:  全部同じです。だから生涯時々刻々の変化の中で活動しているんですよ。その活動の内容というのは、対象物じゃないですね、みな。すべてこのものの活動で、一体なんですね。そこのところが明確にならないと、なかなかそこは理解のうえでも突破できないところがあると思うんですよ。それで私いつもこうやって扇子を出すと、いきなり出てくると、いきなり見えますよね。だけど下に持っていった時に(机の下に隠れて見えない状態)、無いってほんとに信じられますか?ということです。
 
金光:  いや、信じられませんね。見えないけれども、あるんだろう、と思います。思いがくっついていきます。
 
井上:  そうでしょう。明らかにそこに思いを使うと、下にあるということです。事実だったら視野から消えた時には、無いんじゃないですか。視野から消えたということは、私のこのものの活動としては、視界から消えた時には何もないんですよ。だけど、有ると言わさせるのは、これを見えたものを、ずっと認識が追っ掛けているんですね。追っ掛けていくから、下にあるというだけなんですよ。
 
金光:  そうです。だって、「有るじゃないか」と、そう思いますものね。
 
井上:  そう。ここのところは、どれだけいっても、何と言っても、「いやぁ、それは下にありますよ」となるでしょう。ところが、だけどそこで大切なのは、このものの活動というのは、刻々変化しているんですよ。千変万化でしょう。その様子の中には、出てきた時はっきり間違いなくそうなんだけれども、目の前から消えた時には、すっかり自分の生活から何にもないでしょう。そういうところがほんとに「自分を知る」という、「自己に学ぶ」ということが大事になってくる。
 
金光:  自分と思っている思いでなくて、刻々と展開している今という時の事実はどうか、ということを自分で確かめると。
 
井上:  「確かめる」というよりも、事実は確かめようも何にもないんですよ。いきなり触れた時に(扇子で机をパンと打った音)いきなりそれで。じゃ、人がとやかくいう時には、もうこの音は、どこを探しても無いでしょう。だから尋ねようもどうしようもないということ。それをやっぱりどっかへ尋ねて、確認をして、それのように、人のありようというのは、時々刻々変化をしている、そういう様子なんだな、というのは、後追いでしょう。
 
金光:  後追いですね。
 
井上:  やはりそれも考え方ですよ。だからそうでない、今ほんとに今触れているだけで生活して頂くというのが、それを初めて「坐禅」と言っているんですね。
 
金光:  そういうお話を聞きますと、また「でも」という言葉が出るんですけれども、やっぱり私たち人間というのは、考える癖が付いているもんですから、やっぱりそうやって考える思いを離してしまうと、取り付く島がないんじゃないだろうか、という。どうしていいかわからなくなるんじゃないか、という気もするんですが。先ほどからの道元禅師のお言葉に、こういう言葉もあるんですね。そこのところは、
 
この法は人人(にんにん)分上(ぶんじよう)
ゆたかにそなわれりと
いえども
修せざるには
あらわれず
証せざるには
得ることなし
(「正法眼蔵」弁道話)
 
という言葉があるんですが、これ、でも、どうすれば、「修せざるには」「証せざるには」と「修」と「証」というのがありますが、これは考えるとは違うんですね。
 
井上:  違います。だから「人人分上にゆたか」ということは、人のこの六感としての機能。機能というものは、地球上にどれだけの人がいるか知りませんけれども、一人としてそういうものが具わっていない人はないでしょう。
 
金光:  それはそうです。
 
井上:  そういうところは、誰ものことですから、一人もそこから外れることがないほど、人々にきちっと具わっている。「あ、ほんとに機能は機能として活動するだけなんだ」という、そういう機能が調っているということは、先ず理解できないと困りますよね。道理としてハッキリしたら、そうしたらそれじゃどうするかと言ったら、このものがほんとに道理の通りにしているかどうかというでしょう。そうすると、聞いたことと、実践してみると、ここは上手くいかないとか、というでしょう。そこから始まるんですね。ところが上手くいかなかったためしはは、生涯一度もないということを知って欲しいんですよ。
 
金光:  えっ!上手くいかないことの連続のような気がしますけれども。そうじゃなくて、
 
井上:  上手くいかないことの連続でしょう。上手くいっていることの連続であって、上手くいかないことはただの一度もない。
 
金光:  「上手くいかない」というのは、どっからそれは出てくるんでしょう?
 
井上:  こっち(頭を指す)でしょう。
 
金光:  なるほど。勝手に頭が考えているから。頭の思うようにいかないから上手くいかない。
 
井上:  聞いて理解しているものがある。「理解しているもの」と、「この自分の今」と、ものが二つ並んでくるでしょう。そうすると合わないじゃないですか。合わないから、やっぱり上手くいかない、になるんじゃないですか。
 
金光:  なるほど。そうすると思いの方を外したら上手くいくわけですか?
 
井上:  そうそう。で、ほんとは機能は外さんでも、思いを外さんでもいいようになっているということです。何回でも使いますけど、こうやって(扇子で机を叩く音)音がしたら、考える前でしょう。そうすると、お茶を頂くにしても、お茶というのは、眺めていたって味しないですよね、食べるものは。口に入れるといきなり味がするんでしょう。これも考え方じゃないですよ。
 
金光:  考え以前に、味がします。
 
井上:  そうすると、目の前に出てきたら、その通りに見える。だから思いとして、いろんなことを思えています。上手くいかないという思いもあります。その思いだって、今上手くいかないと思いていることが、上手くいかないという思いていることと、もう一つ上手くいくということと、もの二つ出てこないでしょう。一つでしょう。考え方を使うと、もう一つ上手くいくということがあって、そうやってみると、生涯ずれようがないようになっているんですよ。絶対にずれない。
 
金光:  いつも人間は、すべて与えられている、と言いますか、「事実としては、満遍なく誰でもそういう事実のうえで生かされている」という。
 
井上:  そうそう。生かされているんですね。仏法として述べられているようなことが、ほんとにそうなのかということは、この身でしか確認もできないし、するわけですから、この身で実践しているわけでしょう。そうすると、今いうように、上手くいかないとか、そういうようなことが出てくる時に、ほんとに上手くいかないのか、いっているのか、どっちなんですか、ということを、指導する側としてはあるわけですよ。じゃこうやって(扇子を叩く音)「上手くいっていませんか?」と言ったら、「いや、そんなことない」って。「じゃ、そんなにハッキリしているのに、じゃ、何が上手くいかないって、そういう思わせるのか」ということですよ。
 
金光:  そのことの譬えは、五官・六感ありますね。この眼、耳とか心まで、意思の意まで入るわけですけれども、その心まで含めて、そういう事実がある。
 
井上:  そうです。
 
金光:  「心」というのは、日本語の「心」と言いますけれども、いろんな心の意味みたいなあるようですね。心というのを、我が自分の心というのを、どういうふうに?
 
井上:  仏教で「心」と言っているのは、六感、特に縁に触れたら触れた通り活動をするということを「心」と名付けたんですね。その働きを「心」と呼んでいる。だから名前はいっぱい出てきます。「心」と言ってみたり、「法」と言ってみたり―「法」というのは、「法則」ですからね。そうしかあり得ないということでしょう。
 
金光:  それはそうです。眼は見る、舌は味わう。
 
井上:  それしかないですよ。
 
金光:  他の働きはありませんね。
 
井上:  他の働きは無いですよ。他の働きのない中で、砂糖を嘗めたら甘い味がするし、塩を嘗めたら、塩っぱい味がするし、紛れもなく寸分ずれもないようになっているでしょう。
 
金光:  昔の中国の偉いお坊さんの話で、「眼で聞き、耳で見る世界」という、そういう言葉がありますね。そうなってくると、眼で見るというのは、よくわかるんですけども、眼で聞き、耳で見る世界というのは、これは眼と耳の区別がなくなっている世界ということですか?
 
井上:  そうそう。考え方を離れている、ということを言いたいだけです、中身は。
 
金光:  なるほど。思いでなくて。
 
井上:  「事実はどうなっていますか?」ということを。
 
金光:  後で考えると、眼が見るみたいなのは、後で分析した場合は、
 
井上:  分析することがいっぱいあるでしょう。
 
金光:  それ以前の世界というのは、「眼で聞き、耳で見る」ということの、
 
井上:  そういう表現をしても、その場はピッタリするということで言っているんでしょう。そういう中で、ずっと思い出したんですけれどもね。うちの師匠がよく使っていたものの中に、
 
世の中に
雪ほど黒いものはない
(井上義衍老師)
 
金光:  えっ! 雪ほど黒いものはない?
 
井上:  「どういうことか?」って尋ねるんですよ。そうすると、大抵雪は白いと認識していますから、雪は黒い理由を、それぞれいろんなことを言いますよ、。
 
金光:  それはそうでしょう。
 
井上:  「空中が今汚れているでしょう。落ちてくる間に汚れて黒くなったんでしょう」とか、いろんなことをいうけれども、それはすべて考え方の世界の話でしょう。で、耳は騙されないですね。「世の中に、雪ほど黒いものはない」といったら、言葉の通り触れて、耳は疑いを起こさないでしょう。眼もそうでしょう。白いのか、黒いのか、汚れているのかは、それに触れたら、その通りに見えるんで、眼も騙されないでしょう。そうすると、人の機能というのは、そういうふうに、絶対騙されないようになっているんですね。だから「機能のままにしておく」ということが、この「自分自身を知る」という一番根本じゃないですか。その通りくるということが事実でしょう。
 
金光:  聞こえるのはその通りですわね。
 
井上:  そうすると、この機能というものは、そういうように、言葉は言葉の通り、例えば「バカヤロウ」と言われたら、「バカヤロウ」と聞こえるんですよね。
 
金光:  聞こえますね。しかし、「何を」というのが出て、
 
井上:  「何を」でしょう。「何を」から始まるんですよ。一番最初の話のようにですね、「人の言葉で傷付く」と言うけど、「何を」というところから始まったんですよ。言葉は言葉の通り、叩かれたら叩かれて痛かったということはあるけれども、「俺に対して何」というようなことは、思ったんでしょう。事実は痛かっただけ。そういうこれは、「公の活動をしている」ということを、ほんとに知って欲しいんですよね。そこに「俺が」というものが、「私が」というものが出てくると、必ずそれは自我ですから、思いは、自我をひょっと掴むと、「この私に対して」というから、すぐ対象として見るようになるでしょう。すべて対象。そうすると、このものが悩んだり苦しんだりしている原因は、思いじゃないか。そっちじゃないかということになるでしょう。ところが、確かに道元禅師は面白い表現をしています。「確かに対象があるように見えて、言葉にしても、確かに言葉はあったように見えて」という表現をしています。これは普通に、そういうふうに感じられますから。だけども、よく見てご覧。じゃ、「この野郎」と言っているのは、どこから起きているのかと言ったら、心の中から起きているんですよ。
 
金光:  要するに、眼がものを見たり、耳が音を聞くというのは、私の活動ではなくて、公の活動でありますと。それを掴まえて、いろいろ考えるのが、私が勝手に考えると。叩かれた例が出たんで、思い出したんですが、有名な良寛さんが、お月様見ていて、つい芋畑かなんかに入って、お百姓さんに見つかって袋叩きに遭って、だけれども
 
打つ人も打たるる人も諸共に
如露亦如電(によろやくによでん) 応作如是観(おうさによぜかん)(露のごとく雷のごとし まさにかくのごとき観をなすべし)
 
という。両方とも、露のごとく雷のごとく、まさにかくのごとく観ずれば、要するに、叩かれて、痛いなら痛いだけが残って、誰が叩いたとか、痛かったとか、そういう思いがない世界のことを。やっぱり良寛さんは、そういうところで暮らしていらっしゃった。
 
井上:  そうそう。いろんなことを言われておりますけれども、禅僧としてはずば抜けた境涯の方ですよね。だって五合庵(ごごうあん)(良寛が約二○年過ごした小屋:新潟県燕市)みたいなところに独りで長い年月よう過ごしませんよ、そういうことがしっかりしていないと。
 
金光:  子どもが遊びに来て、「良寛さん」と言ったら「はい」。また子どもが逃げて、また来て「良寛さん」と言ったら「はい」って。何回来ても、「はい」って返事されていたというのも、「あの子また来たか」なんて思わない。
 
井上:  そういう逸話があるでしょう。だから毎回「良寛さん」と言われたら「はい」。私は、今話だから「毎回」と言いますけれども、良寛さんの生き様としては、毎回じゃないですね。「その都度」。その都度「良寛さん」と言われたら「はい」。行って見たら誰もいないから、また入って坐られる。また「良寛さん」と言った時に、「また」じゃないですね。
 
金光:  「その都度」と。そうしますと、例えば悩んでいるということは、掴まえるから悩むんであって、刻々と現実というのは移っているという、そちらに眼がいけば、そのことに気が付けば、その日々刻々新しい世界に直面していると。刻々と変わる事実というのは「一期一会(いちごいちえ)」、これはよく使われる言葉ですけれども、今という時期に、ある出来事に出会うというのは「一期一会」。
 
井上:  そうそう。刻一刻、生涯刻一刻変化する中に身を置いているんですね。生涯一度の出会いですよ、みな。どことっても。だからこのものがそういうように、「時々刻々変化をしていくありよう」というものを、それを「法」と名付けたんですね。今の様子は法であり、道であり、心と言われる様子であって、ものが二つあるわけではないですね。自分と心とか、自分と道とか、自分と法とかというのがあって、じゃ、法に近づくとか言うんではなくて、いきなり「法それ自身」なんです。
 
金光:  先ほどのお釈迦様の言葉でいうと、自分を頼りにするというのは、今の人も、「自分だけが頼りだ」ということはおっしゃいますけれども、「法を頼りにする」というのは、「自分と法が一つである」と。
 
井上:  そう。やっぱり「私は」と言ったら、みなちっぽけな一個の人間がほんとに公の活動をしているという、そういう内容のことを、これは教育の中なんかですよ、やっぱり日本が教育の中から宗教を排除してしまったというのは、最大の欠陥ですよ、今の現状があるということは。
 
金光:  ということは、「無縁社会」だとか、いろんな言葉が出ますけれども、「この与えられている自分というものは、全宇宙と繋がって、刻々と宇宙と一緒に移り変わっている人間だと。宇宙と自分は別々ではない」と。
 
井上:  対象として宇宙があるわけじゃないですね。すべて、味として対象があるわけではなくて、「このものの活動がただ味として現れたり、それに変化している」ということでしょう、一刻一刻。
 
金光:  そのことに気がついて日々過ごすと、悩みみたいなものも、これ持ってしがみつく必要はないと。
 
井上:  だから私はいつも申し上げているんですけども、「悩むとか、苦しむということは、百パーセント自己責任です」と申し上げるんですよ。
 
金光:  自己責任?
 
井上:  さっき申し上げたように、「バカヤロウ」と言われたって、言葉があったりするけども、じゃ、ほんとに言葉が悪いんなら、誰もがみんな悩まなければならんでしょう。ケロッとしている人もいれば、悩む人もいるということは、受け方を間違えたということでしょう。受け方を間違えたということは、公のものだったら、その通りに聞こえて、その通りでその場でほんとに終わっている。そういうとこをやっぱり知って貰わないと、そこから先は勝手な思いで自分を縛ったんでしょう、思いが。それが悩むとか苦しむとかということの原点じゃないですか。他にあるんじゃなくて、自分の中にあるんですよ。それほとんど気付かないんですよね。
 
金光:  そのことは頭で考えて、「そういうことか」というんじゃなくて、自分に与えられている、そういう事実を自分の身体で味わうというか、そこで生きることができると。
 
井上:  実践していて頂くと、必ずどこかで、「ああ言われていたことは、こういうことか」ということは、腑に落ちる時節は必ず来るということですよね。
 
金光:  そうしますと、「小さな自分が、ほんとは宇宙大の自分である」という。
 
井上:  そうですよ。宇宙大の自分ですよ。
 
金光:  永遠の世界に通じる話ということになるわけですね。
 
井上:  そういうので、「永遠のいのち」と言うんでしょう。
 
金光:  今日は最後が非常に大きなところまでご案内頂きまして、どうもありがとうございました。
 
     これは、平成二十六年八月二十四日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである