さとりへの道―華厳経に学ぶ@教えとともに
 
                 東京大学名誉教授 木 村(きむら)  清 孝(きよたか)
一九四○年、熊本県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学。文学博士。四天王寺大学教授、東京大学文学部教授、同大学院人文社会系研究科教授、鶴見大学学長などを経て、現在、東京大学名誉教授。専攻は、華厳思想の思想史的研究、漢訳仏典の特質の比較思想的研究など。主な著書は「初期中国華厳思想の研究」「東アジア仏教思想」「華厳経」「中国華厳思想史」「ブッダの世界」「華厳経をよむ」ほか。
                 き き て    川 野  一 宇
 
ナレーター:  大乗仏教の代表的な経典の一つ『華厳経(けごんきよう)』。華厳とは、華で偉大なる仏の悟りの世界を飾ることを意味しているとも言われています。『華厳経』では、生きとし生けるものが悟りを開くために、如何なる道を歩むべきか、が説かれています。では『華厳経』はどのように成立したのでしょうか。今からおよそ二千五百年前、仏教はインドで釈迦によって開かれました。その後仏教は、大きく二つの道筋を辿って、アジアを中心に世界各地に伝わります。出家者を中心に形成された上座部(じようざぶ)仏教、そして紀元前一世紀頃に興った大乗仏教です。大乗仏教は、主にシルクロードを辿って伝わっていきます。その経典の多くは、北インドを中心とするインド文化圏内で製作編纂されました。その中の一つである『華厳経』は、四世紀末から五世紀初頭、中央アジアのコータンの辺りで成立したと推定されます。その後東アジア各地に広められました。五世紀初め、『華厳経』は、南北朝時代の中国に伝わります。今も残る仏教遺跡のいくつかには、華厳の思想を見て取ることができます。世界遺産龍門石窟(りゆうもんせつくつ)。洛陽(らくよう)の南方十二キロの川沿いの崖に、大小十万に上る仏像が彫られた遺跡です。中心には、悟りを開いた釈迦の像である盧舎那仏(るしやなぶつ)。向かって右が文殊(もんじゆ)菩薩、左には普賢(ふげん)菩薩。この三尊は、「華厳三聖(けごんさんしよう)」と言って、『華厳経』世界の中心的存在とされています。『華厳経』において、盧舎那仏は、悟りの瞑想の中にあるので声は発しません。その代わりに、仏の神力を受けた菩薩たちによって悟りへと至る道が説かれるのです。八世紀の前半、『華厳経』は、日本の奈良の地へと伝わり、現在の東大寺の辺りで教えが説かれたと言われています。以来、国の護りとして大切にされていた仏教に、『華厳経』は大きな影響を与えていきます。
 

 
川野:  「こころの時代」、今回からご案内を勤めます川野一宇です。こちらには、研究を続けて四十年以上、そして世界の『華厳経』の研究者たちとも交流を深めていらっしゃる東京大学名誉教授の木村清孝さんにおいで頂いております。どうぞよろしくお願い致します。
 
木村:  よろしくお願い致します。
 
川野:  ここは背景でもご存知かもわかりませんが、奈良の東大寺ですね。
木村:  そうですね。
 
川野:  『華厳経』の研究を続けていらっしゃる木村先生にとって、この東大寺といのは、特別なところなんでしょうね。
 
木村:  そうですね。私も学生時代から時々伺っております。それは一つには、ここが東大寺さんが持っている図書・蔵書類大変貴重な文献がございます。それを拝見するということでしたが、同時にここへまいりますと、何か他のお寺とは違う大きな仏の世界に包まれるような、そんな感じをいつももってまいりました。そんなことで私の故郷の一つとも言えるかも知れません。
 
川野:  では、早速大仏様をお詣りにまいりましょう。
 
木村:  どうぞよろしく。
 

 
ナレーター:  奈良東大寺で『華厳経』の教えが説かれて以来、この経典は、仏道を歩む人々にとって重要なものとして、一二五○年以上にわたり守られてきました。聖武天皇が、国の安寧(あんねい)を願って造った大仏。これが『華厳経』のもっとも重要な仏・盧舎那仏(るしやなぶつ)です。
 

 
川野:  やっぱりいつ見ても巨大なお姿ですね。
 
木村:  そうですね。ほんとに大きい―大きいというのは、形の上で大きいというだけでなくって、この大仏さんが持つ雰囲気と言いますか、空気全体が大きいなという感じをいつも受けるんですね。同時に入った時には、お堂に足を踏み入れますと、とても厳粛な気分になるんですが、手を合わせ、あるいはお顔を拝観致しますと、ここから醸し出される雰囲気と言いましょうか、全体を包んでくるその大きさというものを、私、いつも感じます。しかもその空気の柔らかい、そして温かいという、そんな雰囲気じゃないのかなと感じております。
 
川野:  そうですね。
 

 
ナレーター:  『華厳経』の中心的存在である盧舎那仏は、サンスクリット語で「ヴァイローチャナ」光の仏という意味です。盧舎那仏は、太陽の輝き照らす働きを神格化したものとされます。あまねく照らし出す真実の光に貫かれて、どんな小さなものも価値のある尊い存在となるのです。
 

 
木村:  私は、この手の佇(たたず)まいといいましょうか、両手十指あるわけですが、その指も、指の位置も含めまして、その佇まいと、それから後でお話が出ると思いますが、創建時から残っているといわれる台座の蓮弁の毛彫(けぼり)ですね。その絵柄が特に重要なんじゃないのかなと思います。
 
川野:  手と申しますのは、どういうとこですか?
 
木村:  これは勿論両手がこう一つのバランスの中でできておりまして、詳しく言えばいろんな印相(いんそう)が、仏様には、あるいは菩薩様にはあるんですが、私はこの大仏さんの場合には、あまりそういう細かな区別というよりは、この形を通して人々を大きな仏の世界へと誘(いざな)う、引き込んでいくと言いましょうか、特に『華厳経』では盧舎那仏、あるいはお悟りの中のお釈迦様ですが―釈尊ですが、直接教えを説くことはなさいませんので、沈黙の中に生きとし生けるものを仏の世界へと誘う、こういう意味合いを私は感じます。
 

ナレーター:  盧舎那仏は、蓮華座と呼ばれる二十八枚の蓮の花弁(はなびら)の上に座しています。その一枚一枚には、細かな彫刻が施されています。盧舎那仏を囲むように菩薩、仏、そして人間といったあらゆるものが息づく壮大な世界のあらましを見ることができます。これが『華厳経』の世界観の中心となる蓮華蔵世界です。
 

 
川野:  これが蓮弁の一つに彫ってあったものだったんですね。
 
木村:  はい。レプリカ(replica:模写、写し)ですけれども、この文様が台座の蓮弁に彫られているということでございます。
 
川野:  これは何が彫られていますか?
 
木村:  これは全体として蓮華蔵世界図と呼ばれています。『華厳経』のこの中心の仏様である盧舎那仏を真ん中に配しまして、周りに菩薩たち、そしてその他いろんな世界と言いましょうか、世界のさまざまなものを仏の世界として表現していると。簡単に言えば、そういうことだろうと思います。
 
川野:  ではこの世界はどんなふうにできているんですか?
 
木村:  経典の記述によりますと、蓮華蔵世界と言いますのは、いわば世界の宇宙の始まりと言いましょうか、そういうところから説きだしているんですが、風の渦が最初にできまして、その上に大地が成立する。そしてまた風の渦があり、さらに大地があるということで、それが幾重にも重なって、一番最後に大きな湖と言いましょうか、水の世界ができる。その水から生え出すのが大蓮華―大きな蓮華であると言われます。その蓮華に包まれた世界、これが盧舎那仏の浄土―仏の国だと、こういう記述になっています。何故そういう世界が生まれたかということについては、経典の記述によりますと、盧舎那仏が菩薩であった時代に、自らの悟りを求める。と申しましても、自分だけが悟るということではなくって、生きとし生けるものすべてが救われていく。そういう悟り、これが大乗仏教全体に通じる悟りの考え方ですが、その意味での悟りを求めて、願い―願・誓願を立て、その誓願を実現されて生まれたのが、この蓮華蔵世界であると、そのように説かれております。
 
川野:  その世界がこの図に彫られているわけですね。
 
木村:  そうですね。勿論この現し方というのは、具体的に経典の中に細かく出てくるわけではございませんので、おそらく一種の観想と言いましょうか、深く心を澄ませて思いを深める中で浮かび上がってくるイメージですね、それの一つの具象化だと、そう申し上げていいのではないかと思います。
 

 
ナレーター:  奈良時代、八世紀時代の『紺紙銀泥華厳経(こんしぎんでいけごんきよう)』。江戸時代火災に遭い、一部に焼け跡が残っています。この中にも、仏が求めた悟りのあり方がみて取れる言葉があります。「微細世界即是大世界」取るに足らない小さな世界が、即ち大きな世界そのものである。すべてのものがなんの差別もなく、宇宙大の価値を持っているという意味です。長きにわたって『華厳経』が伝えられてきたのは、こうした深い意味を伝える美しい経典の言葉が、人々の心に届いてきたからではないかと、木村さんは考えています。
 

 
川野:  ここからはスタジオでお話を伺ってまいります。東大寺の大仏さま―『華厳経』では、盧舎那仏の前で、「仏の願う悟りとは、生きとし生けるもの、すべてが救われる世界である」というふうなお話を伺いました。私は大変感銘を受けましたけれども、この『華厳経』における悟りというものが、大乗仏教全体についてというのは、どういうことなんでしょうか?
 
木村:  大乗仏教の立場では、「生きとし生けるもののすべてが仏の子である、あるいは仏のいのちをもっている」こうした考え方を一つの基本にしておりますので、そうしますと、すべてがこの手を合わせられる対象でもあるわけですね。従って『華厳経』は、そういう大乗仏教の考え方を、ある意味で突き詰めたところで成立をしておりますので、その広がりがまさに宇宙大に広がった形の共同体を考えていると言えるんではないかと思います。その意味で、宇宙全体が手を合わせる対象、帰依の対象になる、ということでないのかなと。従ってその中で、お互いが生きとし生けるものすべてが救われていくという、こういうことですね。『華厳経』は究極的には説こうとしているんだと。そんな受け取り方ができるんではないかと思います。
 
川野:  しかし四十年以上にわたって『華厳経』の研究をされてきた、この『華厳経』の魅力というのはどこにあるんでしょうか?
 
木村:  そうですね。『華厳経』は、昔から大乗仏教の経典の中でも、特に難しいものということが言われたり、あるいはある種貴族的な経典であるとも言われたりしております。しかし実際に読んでおりますと、決してそんなことはないと私は思います。筋道もしっかりしておりますし、物語としての構成と言いますか、それが素晴らしい。私は、前にこのお話をした時にも、ある種宗教歌劇、特に宇宙を舞台とする宗教歌劇の台本という見方ができるんじゃないか、ということも、実は申し上げたことがあるんですが、それほど劇的な構成をもっております。そしてその中で非常にきらきらする素晴らしい教えが、その中に含まれ具体的に現れてくるということで、その辺りですね、大変私は構想と言いますか、大きさ、そして中身の素晴らしさ、輝き、そういうものに強い魅力を感じて、だんだんこう深みに入っていくと言いましょうか、研究を進めることになったと、そう申し上げていいかなと思います。
 
川野:  研究を始められたのは、確か二十代ですよね。
 
木村:  そうですね。もともと私は、哲学、倫理学一般と言いましょうか、むしろ西洋の哲学を学ぶことからスタート致しましたが、大学院に行きましてから仏教の研究に取り組むようになりました。ちょうど時代も、六十年安保、七十年安保と言われる時代、そして学生紛争が続くこういう時代でしたし、外には特に大きな事としては、中国の文化大革命にも連続しているような時代です。そんな中で、一人ひとりが、人をどう考えるのか、あるいは社会をどう捉えるのか。どう生きるのかということを問われた時代でもあったと思うんですね。そんな中で私自身いろいろ悩みもありましたし、苦しんだ部分もあるんですけれども、やはり素晴らしい恩師の先生方に出会ったこと、特に私は、『華厳経』研究に入りましたきっかけは、直接の論文指導―指導教官と申しますが、それを引き受けてくださいました玉城康四郎(たまきこうしろう)(1915-1999)先生でございましたが、その先生が、「君は華厳がいいんじゃないか」という言葉を私にかけてくださいまして、それで修士論文、さらには博士論文を、この華厳研究を軸とする研究生活というものに入っていったということでございます。
 
川野:  そうだったんですか。具体的に『華厳経』に説かれた悟りへの話を伺ってまいりますが、まず改めて『華厳経』というのはどういう経典なんでしょうか?
 
木村:  詳しいことは次回少し申し上げたいと思っておりますが、簡単に申しますと、『華厳経』は、正式名称―正しい名前は、『大方広仏華厳経(だいほうこうぶつけごんきよう)』と申します。全体で、章―仏典の場合、「品」という字を書きまして「ほん」と読みますが、品(ほん)で申しますと三十四の数、三十四品からなるということになります。しかしそれと同時に、「七処八会(しちしよはちえ)」と申しますが、その舞台となるところが、ステージと申しましょうか、それが七つあります。これは早く訳された『華厳経』の場合ですが、七つあって、そして一カ所同じ場所が出てきますので、もう一つプラスされる。七処八会と、そういう捉え方ができます。それが地上から天上の世界へと、いくつかの天上の世界へ上がって行って、また地上へ戻るという、そういう舞台設定の上に物語が展開をするという形になっているわけでございます。そういう文学的な構想としても、とても魅力のあるものであると、そう申し上げていいのではないかと思います。
 
川野:  よく仏教一般もそうですけれども、『華厳経』の中でも、「菩薩」というのが出てまいります。それから「仏」、そして「神々」も出てまいります。それぞれどう違うんでしょう?
 
木村:  「仏」と「菩薩」との関係と言いますのは、基本的には正しい心を起こす。仏教では「菩提心(ぼだいしん)」と申しますが、悟りへの心を起こす。起こして実践、そのための修行を続けている人たちは、すべて「菩薩」と呼ばれるのが本来の意味でございます。そしてモデルは釈尊ご自身でありまして、釈尊が悟りを開かれる前に、インドの輪廻思想の中で説かれるわけですが、生まれ変わり、死に変わりしながら修行を続けた。そのありよう、姿が、「菩薩」と呼ばれております。これがモデルとなりまして、正しい悟りへの心を起こしたものは菩薩である、ということになります。その菩薩が、修行を重ねていって完成されたあり方、それを示すものが「仏(ほとけ)」―仏(ぶつ)でございます。「神々」は、仏典の中では主に仏教の教えを護る存在、あるいは人々の安らぎを支える存在、そのような意味付けができるかと思います。『華厳経』の基本的な枠組みで申しますと、『華厳経』は、仏も複数の仏が登場致しますけれども、中心になります教主(きようしゆ)と言いますが、これは盧舎那仏(るしやなぶつ)でございます。そして菩薩が、それを支えるわけですが、盧舎那仏ご自身は直接に教えを説かれない―説法はなさいません。そしてそれに代わって、菩薩たちが教えを説く。そして神々は、今の教えを護る存在というのが主な役割ですけれども、『華厳経』の中では、仏、あるいは仏の世界を讃える、賛歌を歌うという、こういう役割を担っているんですね。
 
川野:  その『華厳経』というのは、その前の時代のものを基礎にしながらできあがってきたというふうにわかっています。どうなんでしょう?
 
木村:  そうですね。歴史的に申しますと、『華厳経』は、ある時期に、ある場所で一気にできあがったお経ではなくて、既に大乗経典として成立をしていたいくつもの経典がございます。それの中で、いわば構想に合う経典を選び取って、それを柱にして、それにいくつかの章を付け加えて、そして全体として一貫したものになるように編纂をされた、編集をされたというもので、従って「集成経典(しゆうせいきようてん)」というような呼び方ができるだろうと思います。
 
川野:  では、編纂者たちが、どういうことを伝えようという狙いで纏めたのか、ということなんですけれども、読む際の手掛かりとして、木村さんに四つに纏めて頂きました。
 
「華厳経を読む手がかり」
一、盧舎那仏 不動のまま地上から天へ 天から地上へ。
二、「蓮華蔵世界」を中心とする宇宙観
三、哲学的思惟の豊かさ
四、善哉童子 さとりへの道を歩む
 
と四つに纏めて頂きましたが、先ず一つ目、「一、盧舎那仏 不動のまま地上から天へ 天から地上へ」、これはどういうことでしょうか?
 
木村:  ちょっと驚かれるのではないかと思います。勿論文学的な構想と言いますか、それが深く関わっていると思うのですが、本質的に申しまして、これは経典の中では、悟りを開かれた釈尊が、悟りの場から動かずに、この天上世界―これは仏教でいう三界説(さんがいせつ)(さとりに至るまでにある世界を欲界・色界・無色界と分ける説)と申しますが、三つの大きく迷いの世界の範疇をわけるのですが、そのうちの一番下の私どもが現に生きている欲望の世界―「欲界」と申します。その中に決まった定説では、固まった説では、六つ挙げますけれども、そのうちの四つの転移ですね、釈尊が悟りの場を動かずに、そのまま次々と移動されてそれぞれの場で、そこを座として―「会座(えざ)」と申しますけど、舞台としてそこに落ち着かれる。そしてそのそれぞれの場において、菩薩たちが登場して教えを説くと、こういう構想になっております。
 
川野:  木村さん、そこがわかりません。「釈尊が悟りの場を動かずに、そのまま次々と移動されて」ということは、不動のままでなく、動いているんじゃないかという感じがするんですが、そこはどうして?
 
木村:  さとりにある釈尊が、地上から欲界の四天へと「不動のままに」次々に移動し、さらに再び地上に戻るという点です。これは、初期仏典の『華厳経』に、釈尊が涅槃に入られる直前、色界・無色界の瞑想のすべてを修められた。そういう瞑想の世界に入ってまた戻られて、そしてまた色界の世界を通過されて涅槃に入られたという、こういう実は構想になっているんですが、瞑想の世界で生み出されてくる深い体験的なイメージの世界、それが次々と展開をしていく。そのようにお考え頂ければいいと思います。
 
川野:  悟りの釈尊自身は不動なんだけれども、瞑想の世界の中では移動している。
 
木村:  イメージの世界として、それが天の世界が実現し、そしてやがてまた地上の世界へ戻って来ると。
 
川野:  二番目です。「二、「蓮華蔵世界」を中心とする宇宙観」。
 
木村:  これも経典の記述によりますと、決してこの世界は、あるいは宗教的宇宙と言ってもいいですが、それは蓮華蔵世界だけではないという考え方で、具体的に十方に―これは我々が言う「四方八方」と「上下」を加えて「十方」と言います。インドでは古い時代から方角を立体的に捉える考え方。私どもは平面的に捉える癖が付いておりますけれども、縦が必ず入るんですね。上下を加えまして十方になります。その十方に世界があるということで、その中心にいわば蓮華蔵世界が位置づけられているということです。そのことが一つ。それからその世界全体の生まれ方と言いましょうか、何故そういう世界ができているのか、ということにつきましても、実は仏と菩薩と衆生の思いと言いますか、深い思いや力、これが関わり合う、働き合う中で、その宇宙世界が、大宇宙ができあがっているんだと、こういう捉え方がございます。それからもう一つ、中心の蓮華蔵世界に関して押さえておかなければいけないことは、その蓮華蔵世界は、例えば阿弥陀如来、阿弥陀仏の西方極楽浄土が、漢訳で申しますと、十万億土西の方(かた)、西の方角の十万億土の先に阿弥陀仏の浄土―極楽浄土があると、こういう説き方を『阿弥陀経』がしているわけですけれども、『華厳経』ではそういう設定は致しません。どうも本質的に、先ほどの説明からもおわかり頂けると思いますが、釈尊が悟りを開かれたこの場が、そのまま美しい浄土に変わる。従ってこの現実の世界がそのまま実は本質的に言えば蓮華蔵世界であると、そのように申し上げていいのではないかと思います。
 
川野:  私たちの現在生きている世界と密接な関わりがあると。
 
木村:  そうですね。密接どころかその真ん中に生きているという、こういう捉え方なんですね。ただ気が付かないだけであるということになろうかと思います。
 
川野:  空を見上げて、今でいう科学的に天を眺めるということも多分行われていたんだろうと思います。ギリシャとか、そういう例を見るまでもなく、それとの関連はどうなんですか?
 
木村:  おそらく宇宙観という視点で捉えますと、『華厳経』が説く世界観、あるいは宇宙観と言いますのは、私は観想―瞑想的なところで捉えられてくるイメージですが、そういう直感的なところから生まれてくるもの―イメージと、今おっしゃいました科学的な観察、例えば天文学とか占星術があったでしょうし、それも『華厳経』の編纂者たちも一定程度知っていたんではないかという気もしますが、そういう科学的にこの空を見る、世界を見るという、こういうところとが融合して生まれたような気が致します。
 
川野:  三つ目です。「哲学的思惟の豊かさ」、これはどうなんですか?
 
木村:  「哲学」という言葉も、人によりまして使い方がいろいろあるかと思います。突き詰めていえば、一人ひとり誰でもがある種の哲学をしているということも言えるかと思うんですが、ここで使いましたのは、私どもが常識的に理解する、ものを考える、そういうものとはちょっと違う。アッと、そういう点からいうと驚くような問題、命題の立て方と言いましょうか、捉え方、提示の仕方というのがあるというふうに思うんですね。
 
川野:  それはどういう点ですか?
 
木村:  例えば先ほどの『華厳経』の一節にもございましたが、小さな世界がそのまま大きな世界である。小は大である、ということが説かれております。あるいは後のところでもまた出てきますけれども、一輪―小さなちっぽけなものの中に、すべての存在世界が含まれるという。これは常識からいうと、とても信じられない、わからない世界ですよね。こういうことが、これ一例ですけれども、『華厳経』の中にはいくつも出てくるわけですね。だからこのような私どもの今の常識的な、もっというと科学的なといってもいいんですが、それだけに固まってしまっている私たちのものの考え方を、一回新(さら)にすると言いましょうか、突き破って、もう一度世界を、人生を、人間を捉え直そうという、こういう時に非常に刺激的な参考になる示唆的な教えが、『華厳経』にはたくさん出てくるということでございます。
 
川野:  お終いの四つ目のポイントです。「善財童子 さとりへの道を歩む」。
 
木村:  これは『華厳経』の最後の章を飾ります「入法界品」に出てくる物語でございます。『華厳経』の中でも纏まったものとしては、一番有名だと申し上げていいかも知れません。善財童子(ぜんざいどうじ)という純真な―青年だと思いますが、道を求める青年の修行の旅を描いたものでございまして、ここに実際の修行がどのようになされていくのか、ということが、このモデルとして示されている。そう考えていいのではないかと思います。その時に特に大事なことは、善財童子は、最初に文殊菩薩の指示を受けて、次の師―善知識(ぜんちしき)と呼びますけれども―師を訪ねて行くと、またその師はまた次の師を紹介すると、こういう形で次々と師を訪ね歩くという構想になっているんですが、その旅というのは、ある意味で私どもの人生を、理想的な人生のあり方と言いますか、それを示しているとも読めるような内容なんですね。
 
川野:  次々に師を紹介するというか、この師に会いに行きなさい、と言われるんだそうですけれども、そうすると、例えばどんな先生―師がいらっしゃるんですか?
 
木村:  そうですね。先ほど申し上げたように、『華厳経』全体としては、菩薩がある意味で主役的な役割を果たすんですけれども、「入法界品」は菩薩だけではない、さまざまな神々も先生として登場しますし、それからいろんな人たちも登場するんですね。しかもそれはそれこそ大人から子どもまで、男性も女性も、ということで、色取り取りでございます。出家者とも限らない。それから仏教者とも限らない。この中には、後でまたお話がございますが、バラモンと言いまして、インドの仏教から外道(げどう)というふうに呼ばれている存在ですが、その仏教外の宗教者もその先生の一人として登場致しますし、それから大変美しい魅力的な女性―お母さん、大体それくらいの年代―世代的なもので言えばそれくらいになると思いますけれども、そういう女性も登場して、善財を教え導くという物語もございます。
 
川野:  そうすると、先生、さっき人生に即してとか、人生に近いというお話がありましたけれども、そういうふうになんか伺っていると、我々の身近な話にさえ思えてきますね。
 
木村:  そうですね。ほんとにそのように受け止めることができるんではないかと思うんですね。私どもは、普通もう最初から自分の偏見なり先入見で、この人は偉い、この人はダメみたいな枠組み付けてしまって、あまり素直に接しようとしないわけですけれども、善財童子の場合には、どうもそれがないんですね。そういう意味で、非常に素直にこちらから何を学び取ろうという姿勢が先ずあるだろうと思うんです。その素直な心で何かを学びたい。しかも彼の場合には、前の自分がしっかり教えを受けた先生に師事されておりますので、安心感もあるのかも知れませんけれども、いろんな人が登場しますが、そこからしっかりと聞き取っていくと言いましょうか、こういうことをしていく。これはだから、私たちが素直な心で、この人はもしかしたら素晴らしい人かも知れない、そう思って接した時には、例えばどんなみすぼらしい、とても外見はみすぼらしいご老人であっても、あるいは小さな子どもであっても、何か素晴らしいものをもっているかも知れないんですね。そういう接し方が、実は問題で、そういう素直な気持ちで、何かを学ばせて貰おう。こういうことがありますと、私は必ず何かがそこから大事なものが自分のものになってくる。
 
川野:  大事なものになってくるためには、この人が本当に正しい師であるかどうかを見極める力というか、それが必要ですね。
 
木村:  それも必要だと思います。ただそれは見極めようと思って、何かしたら見極めがつくかというと、それはいかないんですよね。例えば「朱に交われば朱くなる」と言いますけどね。自分自身それぞれのところで判断して、できるだけいいものに接する、善い人に接することをしていく。途中で必ず失敗があると思います。しかしあっていいんですね。ある時にはそこでどういう反省をするか―仏教では「懺悔(さんげ)」と申しますが、懺悔をするか、それによってだんだんにこちらの心も調いられてくる、綺麗になっていくんだろうと思うんです。やっぱりいろんな経験の中で反省をする。自分で失敗したなということも含めて学んでいく。いわば試行錯誤的にだんだんに自分に身に付いていく力だろうと思うんですね。その力が熟していく中で、ほんとに聞き分ける力も出てくる、身に付いてくると思いますし、そしてそれがまた真っ直ぐ自分の中に入ってくるということにもなるんじゃないでしょうか。
 
川野:  なるほど。そういうお話が展開するのかということを伺いますと、正直言って、私は、『華厳経』―非常に「華(け)」はよろしいですけど、「厳(ごん)」は厳(いか)めしくて難しそうで、そんなふうなイメージを最初持っておりましたけど、今のお話を伺って、少し肩の力も抜けてまいりました。
 
木村:  もっと抜いて頂いてよろしいんじゃないかと思いますが、「厳(ごん)」を厳(いか)めしい方の「厳(ごん)」ではなくって、後にこれもお話致しますが、「厳力」と言いますが、美しく厳(おごそ)かに飾る、厳(おごそ)かの方なんですね。現在使われている意味で申しますと、そのようになります。だから厳かに美しく飾るという、それの意味ですので、決してガチッと頑張ってしまうようなものではございませんので、素直に接して頂ければよろしいんじゃないかと思います。
 
川野:  では、『華厳経』の経典の中から、仏への悟りの道を示す言葉を見ていきたいと思います。先ずこちらです。
 
如来の清浄にして妙(たえ)なる色身(しきしん)は、悉(ことごと)く能(よ)く顕現(けんげん)して、十方に遍(へん)
 
これはどういうことなんでしょうか?
 
木村:  「如来」と申しますのは、先ず仏を表す敬称がいろいろございますけれども、その一つであるということです。由来を申しますと、如来というのは、真如の世界―仏教でいう真理ですが、その世界からやってこられるという、そういう意味合いを取って敬称としているわけですね。「仏」と言い換えても同じでございます。その仏の清らかな、そして妙なる―美しいと言い換えていいでしょう。その色身ですが―色身というのは、私どもの目に見える五官で捉えられるお姿ということになります。それが悉くよく顕現する。悉くということで、さまざまな身を表されるということが暗示されているわけですけれども、それがすべてはっきりと現れ出てくる。そして十方―あらゆる世界、十方の世界へと行き渡るのだ、とこういうことでございます。だから真実の仏、そのままリアル、あらゆる世界に出現されている。私どもの方から申しますと、いつでも誰でもどこに居てもお会いできる可能性がある、ということにもなるわけですよね。
 
川野:  つまりこの言葉は、冒頭の章に書かれているということは、つまり『華厳経』では、仏というのは非常に現実感のある存在だと考えてよろしいんですか?
 
木村:  そうですね。実はこれはいわゆる教学―教理の問題としては、いろんな議論がこれまでございましたけれども、私は、あまり「仏身観(ぶつしんかん)(三身説:仏の身のあり方を法身、報身、応身などに分ける見方)」と言いますが、仏をいくつかに分析的に分けて理解するというような捉え方をしないで、仏そのもの、如来そのものとして受け止める。その仏は、ですから法身と言いますが、真理そのもののありようとして、私の目に見えないようなお姿を想像させるような教えもありますし、ここにありますように、目に見えるリアルな形、現実に触れ合う形で出現されるという表現もありますし、もっと直接的にいわゆる応身と言いますが、わたしども一人ひとりに関わってこられるような説き方がなされている部分もあるんですね。だからいわば究極の仏がそのままスッと私どものすぐ傍までというか、寄って来られるような、そういう仏だろうというふうに思うんですね。その仏の一面を、この言葉はとってもよく表しているんではないかと思います。
 
川野:  何か遠い存在の厳かなお経の世界の中の話ではなくて、非常に身近な感じがしますね。
 
木村:  そうですね。そのきっかけはいろんなところに私はあると思うんですけどね、人それぞれで何か深い思惟すると言いましょうか、あるい深く感じ取る。例えば芸術的な、芸術家の方には、あるいはそれに近い経験というのは何かおありじゃないかという気もするんですけれどもね。なんかこれしかないという真実に触れ合う。何かの瞬間に触れ合うという、そういうことだと思うんですね。それがこの十方に偏する仏を私自身が受け止められた、ということになるんじゃないでしょうか。
 
川野:  さて今度は、
 
一毛孔(いちもうく)の中に無量の仏刹(ぶつせつ)あり。荘厳(しようごん)清浄にして、曠然(こうねん)として安住す
 
木村:  これもちょっとわかりにくい教えではないかと思います。この小さな「一毛孔」という、「毛孔」と書いていますが、ほんとに小さなものを強調して表現する言葉ですけれども、とっても小さなものの中に限りない仏の国がある。「仏刹(ぶつせつ)」は、仏の国―仏国土を意味致します。限りないほど多くの仏の国があるという意味ですね。それがしかも「荘厳清浄」美しく飾られ清らかであって、広々とゆったりと、いわばそこに安定して厳然として存在をしているんだと、こういうことなんですね。
 
川野:  「安住す」というのは、安心して住まうということではなくて、安定してある、と。
 
木村:  そうですね。安定と言い換えてもいいと思います。こちらから言えば安心できるんですけど、それ自身が人々を生きとし生けるすべてを、それと関わる時に少しのぶれもないと言いましょうか、そういう形で存在をするということでしょうかね。
 
川野:  そうすると、それがあらゆるものに及ぶわけですね、ここの意味は。
 
木村:  そうですね。すべての物事、一つひとつにそこに無量の仏の国が、実はぎっしりと詰まっているんだと。例えばここにあるお花の一輪一輪に、その無量の世界、仏の国を見ることができる、ということにもなりますよね。ですから喩えを申しますと、一本の雑草―雑草という言葉も、実は私はあまり好きではないんですが、雑草と言われる草であっても、あるいは捨てられた一枚の布であっても、そこにそれが素晴らしい仏の国に生かされているのだと。そのように『華厳経』では捉えていると。『華厳経』の教えとしては、そのように理解できるということだと思いますし、すべてのものが、ある種、ある意味では絶対的な尊厳性をもっている。何ものにも代えがたい価値をもっていると、そう申し上げてもいいのではないかなと思います。
 
川野:  『華厳経』の中にある教えというのは、さまざまあるんですね。
 
木村:  そうですね。今のこの教えと非常に近い、ある意味では近いんですが、「一一の微塵の中に一切の法界を見る」という、こういう言葉もございます。小さなほんとに微粒子と言いますか、そこに法界(ほつかい)―真理の世界、真実の世界と言い換えていいと思いますが、そのすべてが含まれていると言っているわけですね。後に『華厳経』教学の中では、そういうところを捉えまして、「一即一切(いちそくいつさい) 一切即一(いつさいそくいち)」つまり一がそのまま一切であり、一切がそのまま一である、といったような論理が完成されていくんですが、実際に『華厳経』の中でも、一つの菩薩のものの見方として、このような似た今申し上げたよう見方がきちんと提示されているんですね。
 
川野:  では、経典です。
 
(しん)、諸(もろもろ)の如来を造(つく)
 
木村:  この教えは、基本的にはインド仏教、大乗仏教の一つの大きな流れをつくりました瑜伽行派(ゆがぎようは)というところで完成されていく「唯心説(ゆいしんせつ)」と申しますが、この世界は心のみである、という考え方の一つのバリエーションと考えてもいいと思います。「すべては心からなる」というような言い方をするんですけど、ここではもっと私たち自身一人ひとりの心に即して、しかも実践的な視点で、この心の本質、心のあるべきありようを説いていると、そのように私は思うんですね。この心というのは、ですから直接には、私自身の感情とか意志を含めた広い意味での心。ものを考える、分別する、ということだけではなくて、すべてトータルな心と考えて頂いていいと思います。それはですから当然、もっと言えば「身心一如(しんしんいちによ)」と言いましょうか、体験的・経験的なものまで含めたものと考えていいと思うんですが、その心がどのような方向を向いているのか。どのような鍛えられる方と言いますか、どのような育てられ方をしていくのか。そういうことによって、それは必ず仏となる、仏をつくる働きをしていくんだ、と、こういう意味だと思います。だから仏をつくるものは心だよ、ということですよね、裏返しに言いますと。
 
川野:  それは「如来を造る」と言っている部分なんですね?
 
木村:  はい。だから逆に言いますと、心のありようによっては、逆の世界―「鬼をつくる」と言ってもいいかも知れません。だから正しく心をどっちへ向けるのか。どのような育て方、心構え、心がけをして、毎日を生活していくのか。そういうことが如来への道であると、そう申し上げてもいいかも知れませんね。
 
川野:  心が行動を定める、ということなんでしょうかね。
 
木村:  そうですね。心を離れて仏はないと言ってもいいです。決して仏様は向こう側にある存在ではない。私自身が仏となっていく存在。可能性としては、既に仏である存在なんだ、というのが、この大乗、特に華厳の世界における仏、如来の捉え方なんですね。
 
川野:  例えば、私のような世俗の塵にまみれたこういう人間でも仏となり得るんですか?
 
木村:  それは、どれほど時間が掛かるかわかりませんが、「必ずなれる」というのが、『華厳経』も保証しているところなんですね。これはまさに因縁という中で人は生きますので、時間の長短はある。しかも時間と言いましても、これはこの一生だけで切らないで、考えていくべきなんですね。大乗のある論証―教えによりますと、私どもが仏になるのには、「三祇百大劫(さんぎひやくだいこう)」という長大な時間、数え切れないくらいの時間が掛かるという説もございます。東アジアに仏教が入ってきましたから、どんどん時間が短くなってきまして、「一念成仏」とか「無念成仏」、つまり一瞬のうちに仏になる。あるいは「即身成仏」という考え方が生まれますけれども、それは本質的なところで捉えた時の捉え方であって、現実にはそう簡単になれるものではありませんけれども、必ずなれるという。それは大乗仏教の共通して保証しているものだと思います。『華厳経』は、その中でも特に率直にその辺りを明らかに、明示していると言いましょうか、いうものだと申し上げていいかと思いますが。釈尊の最後の遺言と言いますか、最後の言葉としても、「怠ることなくつとめ励めよ」という言葉が、実は残されているんですが、まさにそれだと思います。それが行われる中で、やがて「必ず仏となる」ということが信じられることが、いわば大乗仏教徒の基本だろうとも思うんですね。
 
川野:  悟りへの道に至るまでは、なかなか厳しい世界がありそうですけれども、でもいつかはそうなれると。
 
木村:  そうです。だから確信と言いましょうか、その意味で安らいでいられるんですね。安心して歩んでいけるということになるんではないかと思います。
 
川野:  そうすると、一日、一刻、毎日毎日が大事な瞬間あるということが実感としてわかるような気が致します。
 
木村:  そうですね。突き詰めれば、結局一日一日、あるいは一瞬一瞬しか私たちのいのちの燃える時間はないんですよね。それがどれだけのものであるか。どれだけの輝きなり清らかさなりをもっているかで、その人自身が決まっていくというのかな、ということになるんじゃないでしょうかね。
 
川野:  「心、諸の如来を造る」というその言葉の中身が少しずつわかりかけてきたように思いますが。
 
木村:  私にも十分にわかっていると思いませんけども、
 
川野:  お話を伺っていますと、現代に生きる我々に、根本的なところで投げかけてくるいろいろな考え方が詰まっているお経というふうに言いそうですね。
 
木村:  そうですね。そういうふうに私自身もそうでしたけども、受け取っていいんじゃないかと思います。
川野:  現代に生きる私たちの心に届く『華厳経』の言葉、その世界について今回も含め六回にわたってお送りします。今後の予定はこのようになっています。次回第二回では、悟りへの道が仏や菩薩が織りなす壮大なストーリーの中に描かれています『華厳経』の全体像について、お話を頂きます。そして第三回以降はこのような内容となっています。木村さん、今日はどうもありがとうございました。次回もよろしくお願い致します。
 
     これは、平成二十六年四月二十日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである