さとりへの道―華厳経に学ぶA『華厳経』が語るもの
 
                 東京大学名誉教授 木 村(きむら)  清 孝(きよたか)
                 き き て    川 野  一 宇
 
ナレーター:  『華厳経』はこのように始まります。「一時(あるとき)・仏・摩竭提(まかつだい)国の寂滅道場に在(いま)して、始めて正覚(しようかく)を成(じよう)じたもう」。釈尊は、摩竭提(まかつだい)国の静かな瞑想の場で悟りを開かれた。悟った釈迦を表すのが盧舎那仏。その光に照らされながら、無数の菩薩、神々などが集まり、仏を讃える詩(うた)を詠(うた)え始めます。こうして宗教歌劇ともいうべき『華厳経』の幕が上がります。現存する『華厳経』のうち、全体像を残しているのは、二つの漢訳と一つのチベット訳の計三種類。もっとも古いのは、「六十華厳(ろくじゆうけごん)」と呼ばれる経典です。「六十華厳」は、文字通り六十巻からなります。全体は七つの場所と八つの場面からなり、「七処八会(しちしよはちえ)」と言います。一番目は、釈尊が悟りを開かれた菩提樹のことを舞台とする「寂滅道場会」。続く「普光法堂会(ふこうほうどうえ)」は、教えを説かれた場面。三から六は、天へと昇り、七では再び地上に戻ります。釈尊の悟りの場を起点として、地上と天を往き来して展開する『華厳経』。仏を囲む菩薩や神々の言葉で彩られています。シリーズ「さとりへの道 華厳経に学ぶ」第二回は、『華厳経』の全体像を紐解きます。
 
川野:  川野一宇です。「こころの時代」―「さとりへ道―華厳経に学ぶ」、お話は、東京大学名誉教授の木村清孝さんです。今日もよろしくお願い致します。
 
木村:  よろしくお願い致します。
 
川野:  この『華厳経』の歌劇のような書かれ方、そして釈尊の悟りへの道、どう関係してくるんでしょうか?
木村:  そうですね。『華厳経』の教えの原点は、申し上げるまでもなく、釈尊の悟りの場でございます。そこから出発をするわけでございますが、釈尊ご自身は教えを説かれない。しかしながら、その悟りの中におられるままに、自らの座を地上から天上へ、そしてまた地上へと移されていくという構想になり、そしてその釈尊に代わって、つまり悟りの仏としての盧舎那仏(るしやなぶつ)でございますが、その盧舎那仏に代わって教えを説く主役は、菩薩たちということになります。そしてその集会の場には、その他の菩薩を初めとして、多くのものたちが集まると、そういう場が展開をしていくということになります。
 
ナレーター:  『華厳経』の舞台は、会座(えざ)と呼ばれます。第一の会座「寂滅道場会」は、二つの章からなっています。「世間浄眼品(せけんじようげんぼん)」と「盧舎那仏品(るしやなぶつぼん)」です。「一時(あるとき)・仏・摩竭提(まかつだい)国の寂滅道場に在(いま)して、始めて正覚(しようかく)を成(じよう)じたもう。」これに続いて、その場の様子が語られます。
 
其の地は金剛にして、
厳浄(ごんじよう)を具足せり
衆宝雑華(しゆほうぞうけ)を以(もつ)
荘飾(しようじき)と為し、上妙(じようみよう)の宝輪(ほうりん)
円満にして清浄に、
無量の妙色(みようしき)を以て
種種(しゆじゆ)に荘厳(しようごん)せるは、
なお大海の如し
 
光溢れる悟りの場。盧舎那仏は、そこに居ながらにして、あらゆる世界を照らします。
 
其の身は遍(あまね)
一切の道場に座したまいて、
(ことごと)く一切衆生の所行(しよぎよう)を知り、
智慧の日光は衆(もろもろ)の冥(やみ)を照除(しようじよ)し、
悉く能(よ)く諸仏の国土を顕現(けんげん)
 
川野:  この後、無数の菩薩や神々などが登場し、仏の世界を讃える詩(うた)を詠(うた)え始めます。『華厳経』では、実際に言葉でどんなふうに語られているのか。経典の言葉を見てまいりましょう。
 
一時(あるとき)・仏・摩竭提(まかつだい)国の寂滅道場に在(いま)して、始めて正覚(しようかく)を成(じよう)じたもう。
 
「摩竭提(まかつだい)国の寂滅道場」とあります。
 
木村:  これは釈尊の悟りの場を、『華厳経』の立場で理想化し、あるいは象徴化して名付けたものだと申し上げてよろしいかと思います。実際釈尊は摩竭提(まかつだい)(マガダ)国のガヤの地ですね―今のブッダガヤーですが、ガヤの地で菩提樹の下に、最後静かな瞑想に入られて、そこで悟りを開かれたと伝えられております。それをそのまま受けているわけですね。「寂滅(じやくめつ)」というのは、これは実は「涅槃(ねはん)」―安らぎの訳語としても用いられることがあるんですが、ここでは心が静まり切るそういう瞑想。まさに本当の瞑想が実現する場。「道場」は、実は八十巻品の『華厳経』―『八十華厳経』では、「阿蘭若法菩提場(あらんにやほうぼだいじよう)」と呼んでいますが、菩提の場、つまり悟りの場とはっきり出てくるわけですね。静かな悟りの場という意味。摩竭提(まかつだい)国において釈尊はまず静かな悟りの場に坐られた。そこで初めて「正覚を成ずる」というのは、本当の悟り、正しい悟りを完成された、そういう言葉でございますね。主役に当たる存在は、菩薩たちでございます。ご存知の文殊菩薩(もんじゆぼさつ)や普賢菩薩(ふげんぼさつ)を初めとする菩薩たちなんですけれども、それ以外に多くの神々が登場する。「神々」と言っても、これはインドでもそうでございますが、仏教では神々の主な役割は、「法を護る」ということが主でございまして、それ以外に、しかしこの『華厳経』では、その役割以上に、「仏を讃える」あるいは「仏の世界を讃える」という役割を担っていることが多いんですね。ここでも金剛力士や竜神や風神そういう神々、あるいはさらに阿修羅―これはもともと阿修羅神と言いますのは、インドの神で、仏教ではその後帝釈天(たいしやくてん)の敵対者という位置づけも一方ではなされておりまして、それがいわゆる修羅道の考え方に繋がるんですが、もう一方では仏教に帰依をして、やはり仏教を護る役割を担うという存在にもなります。ここにも阿修羅も登場してくる。本当にそれぞれの神々が、とても大切な教えを説いていると思うんですが、毘沙門天(びしやもんてん)あるいは毘沙門夜叉王という神、その夜叉王の言葉が私はとても大事なことを、「何故仏が出現されたのか」ということを説いて述べているんですが、とても大事なことですので、ちょっとご紹介をさせて頂ければと思いますが、
ナレーター: 
衆生の罪垢(ざいく)
甚だ深重(じんじゆう)なれば、
万千劫(まんせんごう)に於(おい)
仏を見たてまつらず、
生死(しようじ)に輪転(りんでん)して衆苦(しゆうく)を受く。
是れ等を度せんが為に、
仏は世に興(おこ)りたもう
(世間浄眼品)
 
木村:  訳しますと、衆生―生きとし生けるものの罪・穢れというものは大変深く重い。それ故にこれまで果てしないほど、数え切れないほど長い時間の間、仏と出会うことができずにきている。結果生死は―これは輪廻(りんね)ということと同じでございますが、そのために苦しみ・迷いの世界を流転してきて、そしていろんな苦しみを受けてきたのだ。その私たち衆生を度(ど)する―救う、彼岸に渡すということでございますが、その私たちを救うために、仏はこの世に出現されたのである、という内容なんですね。親鸞聖人などもおっしゃっている言葉を使えば「罪業深重(ざいごうじんじゆう)」と申しますか、業的なものを負う中で、正しいこと、善いことをしようと思ってもなかなかできない。そういう存在であるということを、親鸞聖人は深く見つめられたわけでございますけれども、弘法大師も実は、これの言葉と非常に近いと申しますか、内容的に重なることを説いておられまして、私は、実はこの言葉は、若い頃仏教を勉強し始めて出会った言葉の中で非常に強烈な印象を受け、心に刻まれた言葉なんですが、ちょっとそれをご紹介したいと思います。
 
生まれ生まれ生まれ
生まれて
生の始めに暗く、
死に死に死に死んで、
死の終(おわ)りに冥(くら)
(空海「秘蔵宝(ひぞうほうやく)」より)
 
つまり真っ暗闇ということなんですけれども、そういう世界を私たちは歩いてきたのだということなんですが、「生まれ」と四回繰り返され、また「死に」これも繰り返す中で、その深さ・重さ、そういうものをほんとに強く訴えておられるわけですね。私たちが如何に罪深い存在であるかということを述べ、仏のこの世におこりたもう目的は、そういう私たち衆生を救うことなのだ、それ以外にないのだ、ということをピシッと簡潔に述べている、と、そのように思います。もっと踏み込んで言いますと、こうした輪廻の生存の中に、私たちは居るということを信じられるかどうか。真っ直ぐに受け止められるかどうか、というのが、実は非常に大事なんですね。これが信じられれば、私は本当の仏教者になれると申しますか、華厳経的な立場で申しますと、菩薩道への信心、あるいは発心というものが可能になってくるんではないかと。その基底にはこれがあるだろうと思います。
 
川野:  さて次に移りますが、「盧舎那仏品(るしやなぶつぼん)」というのが出てまいります。この中では木村さんが注目される言葉は、どれを取りましょう。
 
木村:  そうですね。「盧舎那仏品」も大変大事な章でございますが、盧舎那仏の浄土である蓮華蔵(れんげぞう)世界について、そのいわれ、成り立ちと申しますか、あるいは意味、そういうものがこの章において明らかにされるということになります。
 
川野:  それでは二番目の会座「普光法堂会(ふこうほうどうえ)」にまいります。
 
木村:  実は釈尊の伝記の中に、釈尊が悟りを開かれた後、すぐには悟りから出られて、金剛座から立たれて教えを説かれたのではないという伝承がございます。「梵天勧請(ぼんてんかんじよう)」ということで知られているお話なんですが、釈尊は悟りを開かれた後、教えを説くことを躊躇された。何故かというと、釈尊が悟った真理、悟りの中身というのは、現に居る人々に説いても到底理解はされないだろうと。今の私ども現実世界というのは、欲望に基づいて動きますよね。それを超えなさいというのが、釈尊の教えの方向性なんですが、そういう意味で、とても理解をしてもらえないというようにお考えになって、そのまま涅槃に入ろうとされた、安らぎに入ろうとされた、と言われるんですね。そこに梵天(ぼんてん)(ブラフマ)という神でございますが、この梵天が現れて、「是非この世界にも心の綺麗なしっかりと教えを受け止められる人が少ないけれども居るのだから、教えをお説きください」と、そのようなお願いを三回された。「三請(さんしよう)」と申しますが、そういう丁寧なお願いを致しまして、それで初めて教えを説かれ始めたということになっているんですね。
 
ナレーター:  二番目の会座「普光法堂会」。盧舎那仏の神力を受けた菩薩たちは、ここで初めて悟りへの道を歩む菩薩の心得について説き始めます。繰り返されるのは、菩薩はどのような時であっても、衆生を、人々の正しい歩みを願うということです。
 
樹の好華を見ば、当(まさ)に願うべし、
衆生、開浄(かいじよう)なること花の如くにして
相好(そうごう)満具(まんぐ)せんことを。
 
美しい華を見る時には、衆生が仏のように、華の清らかな風情を備えるようにと願う。
 
若し橋梁を見ば、当に願うべし
衆生、法橋を興造(こうぞう)して、
人を度(ど)すこと休(や)まざらんことを。
 
橋を見る時には、衆生が自ら正しい導きの架け橋を作り、人々を安らぎの岸へと渡し続けるようにと願う。この中に現代に至ってもなお仏教において重要とされている言葉があります。
 
自ら仏に帰せば、当に願うべし、衆生、大道(だいどう)を体解(たいげ)して、無上の意を発(おこ)さんことを。
自ら法に帰せば、当に願うべし、衆生、深く経蔵(きようぞう)に入りて、智慧、海の如くならんことを。
自ら僧に帰せば、当に願うべし、衆生、大衆(だいしゆ)を統理(とうり)して、一切に無礙(むげ)ならんことを。
 
木村:  この「普光法堂会」も、この教えの内容はかなり多岐にわたっております。初期仏教以来、原始仏教以来、中心的な教説として大事にされた「四諦(したい)」―四つの真理を説く章などもございますが、その他に菩薩行―菩薩の実践が全体としてどう展開するかといったことを説いている章などもございます。ただ今ご覧頂きましたところは、その中の「浄行品(じようぎようぼん)」という章、順番で言えば、第七品―第七章に当たるのですが、「浄行品」自体は、実は在家にある時に、まだ出家する前から、その時にどのような願いを持つのかというところから始まりまして、この出家した後、どのように歩みを進めていくのかと。そのすべての歩み、行いの中で、例えば花を見る時とか、橋を渡る時にも、その時にはこういう願いを持つんですよ、と説かれるんですよね。一々の行動に関して、願いに貫かれた実践を菩薩は行うのだというのが、この「浄行品」の章の中身になっているわけですね。その「浄行品」に出てくるものでございまして、現在も各宗派を通じて用いられます、いわゆる「三帰依文(さんきえもん)」の原型となったものでございます。仏教者となる基本の一つが、この三帰依でございまして、「仏」と「法」と「僧」。僧はサンガのことで、つまりしっかりと仏道を実践している者の集いのことですが、この三つに帰依をする。手を合わせるという、そういうあり方が仏教者の基本とされるわけですね。
 
川野:  一つずつ木村さんに解説をして頂きたいと思いますが、
 
「自ら仏に帰せば、当に願うべし、衆生、大道(だいどう)を体解(たいげ)して、無上の意を発(おこ)さんことを」
 
木村:  仏に帰依をする。仏に素直に手を合わせる。その時には、「どう、何を願うのか」ということで、これは菩薩の願いを示しておりますが、衆生―生きとし生けるものが、「大道」大きな道ですが、これは菩薩の道、あるいは仏の道と言い換えてもいいと思います。それを「体解する」しっかりと単に頭でわかるだけではなく、まさに身心、あるいは全身的にと申しますか、深く理解をする。そしてその上で「無上の意」自らも仏になろう。生きとし生けるものを救おうという、そういう意(おもい)。「意」は心、願いのことですが、その心を起こすようにと。だから菩薩の立場から生きとし生けるものみなが、本当の仏道を歩もうとするものとなるように、と、そのように仏に帰依する時には願わなければいけない、という意味なんですね。
 
川野:  続いて、「自ら法に帰せば、当に願うべし、衆生、深く経蔵(きようぞう)に入りて、智慧、海の如くならんことを」
 
木村:  次には、今度は法に帰依をする。つまり仏の教えに帰依をする時には、菩薩はこのように願わなければいけない。その願いの内容が、衆生―生きとし生けるものが、「深く経蔵」―「経蔵」ということは、お経の蔵。これは三蔵法師の三蔵でございますが、仏教の仏典―教えは「経蔵(きようぞう)」「律蔵(りつぞう)」「論蔵(ろんぞう)」という三種類の三つに区分されるんですが、その経、つまり基本となる釈尊の教えを集めたものですね、その教えというものに深く入って、そして自らの智慧が海の如く広大なものとなるように、しかも深く広く海のような、それほどの智慧を得られるようにと。生きとし生けるものがそのような智慧を得られることを、菩薩は願わなければいけない。当然のことながら、願うのだということなんですね。それが法に帰依することの本当の意味ですよ、ということになるわけですね。
 
川野:  それからお終いの所です。「自ら僧に帰せば、当に願うべし、衆生、大衆(だいしゆ)を統理(とうり)して、一切に無礙(むげ)ならんことを」
 
木村:  今度は、「僧」―サンガ、直接には出家者たち、真剣に修業、仏道修行に励んでいる人々に帰依をする時には、次のように願うべきであると。その内容が衆生―生きとし生けるものがみな「大衆(だいしゆ)」すべての存在と考えていいでしょう。すべての存在をしっかりと統(す)べおさめて、そしてすべてのものに対して無礙となるように。「無礙(むげ)」というのは、障りがないこと、一切の障害を持たないことですね。だから大きく言えば、この理想は「和合(わごう)」なんですね。今の言葉で言えば「平和」と言ってもいいでしょう。その平和な世界が実現するようにと。どこにもギクシャクしたものがなくなる、そういう世界が実現するように、そのようにサンガ―出家者の、仏教者の集いに帰依をする時には願うのだと、こういう意味になるわけですね。一般的には、菩薩の道というのは、「信解行証(しんげぎようしよう)」あるいは「信行証(しんぎようしよう)」という言葉で纏められます。つまり信心の段階。それから「解」は正しい理解ですね。「行」は実践です。そして「証」は悟りという意味です。だから信心から悟りへという、この四つで段階的に区別をされるんですけれども、その基本となるものとしての「信」というのを説いているのが、「普光法堂会」の中で何カ所かにわたって説かれているんですが、もっともよく纏まっているもので、その位置づけが明確なものというのが、この「賢首菩薩品(げんじゆぼさつぼん)」という章に出てまいります。
 
川野:  ご紹介致します。
 
信を道元(どうげん)、功徳の母と為す
信は是れ宝蔵、第一の法なり
清浄(しようじよう)の手と為りて、衆行(しゆぎよう)を受く
(賢首菩薩品)
 
とあります。
 
木村:  信は道(どう)の元(もと)。元は大本(おおもと)、根源であるということなんですね。「道(どう)」はこれ悟りの意味に理解して頂いていいと思います。悟りを実現する、その基本にあるのが信であると。そしてまた同時に、それはさまざまな功徳を生み出していく母でもある。この「功徳」も、「功徳を積む」ということが簡単に言われますけれども、これは身に付いてくる本当の力ですよ。仏道を実現する力になる、身に付くものが功徳でございますが、それを生み出していくのがやはり信なんだと。信がなければそれができないよというのが、その一つの句です。後世この言葉は、単独にとても多くの人々に引用され、また教えとして説かれてるというものでございます。もう一つ私が好きな句を、もう一つ読んで頂いたわけですが、信は宝の蔵である。「第一の法である」これは文字通りでございます。そしてそれはどうなのかと言えば、それ自身が清らかな手となって、あらゆる行い実践を受け止めていく働きを持つのだ。だからすべての実践は、逆に言えば信という清らかな手に受け止められて、そこに根ざすものとして展開をしていく、ということになるかと思います。
 
川野:  さて、次はいよいよ天へと舞台が移ります。三番目の会座からは、地上を離れ天上世界に移ります。「?利天会(とおりてんえ)」から「他化天宮会(たけてんぐうえ)」までの四つが、天上の会座です。仏教の宇宙観は、このように表されます。「須弥山(しゆみせん)世界観」と呼ばれており、私たちの住む世界は、南方の閻浮提(えんぶだい)(人間などの世界)にあります。悟りに至る世界は、低い方から、欲界、色界、無色界へ上昇していく三界説(さんがいせつ)によって説明され、一番下の欲界には、地獄から天までが含まれています。六つの天のうち、『華厳経』における天は、?利天から他化天の四つをさし、上昇すると共に悟りへと近づいていきます。悟りの中にある釈尊の心象風景が、地上から天上の歓びの世界へと向かい、再び地上の現実的な利他の世界へと戻っていく。木村さんは、そう考えています。『華厳経』における天の始まりは、第三の会座「?利天会」。六つの章からなっています。中でも菩薩道の始まりとして重要なことが語られているのが、「菩薩十住品(ぼさつじゆうじゆうぼん)」です。菩薩十住は、修行を続ける中で上っていく四十の階位。十住、十行、十廻向、十地のうち、最初の部分について語られたものです。その十住の始まりは初発心(しよほつしん)。菩薩となるべく決心すること、この初発心こそが重要なものとされているのです。
 
初めて発心する時、
便(すなわ)ち正覚を成じ、
一切の法の真実の性を知る
慧身(えしん)を具足し、
他に由りて悟らず
 
では今ご覧頂いた言葉について、特に「発心」について木村さんにまたお話を伺います。
 
木村:  まずこの言葉を少しわかりやすくお話を致しますとこうなります。初めて発心、つまり菩提心を起こすという意味ですが、悟りへの心を起こす。その時に直ちに「正覚」仏の悟りを完成して、一切の仏の真実の本性―本質を知ることができる。その時に既に「慧身」智慧の身、智慧をしっかりと完全に備えて、自らがいわば智慧の身なることになり、それに決して他によるものではなく、自らの悟りについて実現をするのだと、こういう意味になろうかと思います。「十住品」と申しますのは、それ自身として一つの菩薩の実践の体系をもともと示していたものでございまして、その最初にこの発心なんですね。ここから本当の菩薩行がスタートするということになります。そのことが実現する条件と言いますか、そういうものとして経典自体は、仏に出会うこととか、衆生が無量の苦しみを受けていることをしっかりと見て理解をする、といったことなどが挙げられております。そこから智慧が開けてくると、こんな説き方をしているわけですね。ただもう一つ深く考えてまいりますと、発心ができる。今の仏に出会うとか、無量の苦しみを知るとかということが実現する前提にはなろうかと思いますが、私は、特に阿弥陀仏教の中で重要視されてまいりました戒体(かいたい)の問題があるんではないかと思うんですね。「戒体」というのは、私たちがこの戒を受ける師匠に、「あなたはこういう誓いができますか」ということを問われて、「誓います」と。「そのように致します」と答える。これが戒を受けるということなんですが、その戒を受けることによって、私たちの身にいわば種が蒔かれて、正しい実践ができる種が蒔かれてくる、ということだと思うんですね。その種ができますと、これは例えば私どもの日常の生活でも同じだと思うんですけれども、誰か自分が、例えば信頼する人に、「これはこうした方がいいよ」と言ったようなことが、常にどこかに残っていれば、それに反するような行いというのは、なかなか出てこないと言いましょうか、自然にそれに従うような力というのが、そこから出てきますよね。なんか植え付けられたものが基本になる。働きのほんとに種となって、私たちを正しい方向へと導くことができる、という考え方なんですが、ですから戒を受け、戒を誓っての実践。正しい戒めを実践すること、例えば「不殺生戒(ふせつしようかい)」と言ったものが代表的なものですけれども、生きとし生けるものを傷つけない、殺さないという誓いをすることによって、それを自ら行為として実現できるようになる。そのことがあって初めて本当の意味での仏道への縁、ここで言えば発心への縁が熟するのではないかと、そのようにも思うわけですね。ですからこの発心そのものも、いわば信―信心をベースにしてできるわけでございますので、日本の仏教などでは、特に「信満成仏(しんまんじようぶつ)」と言いまして、信が完成する。信心が完成した時に仏になるのだと、こういう教えも説かれています。これはあくまでも本質的なところから見たものでございまして、下手をしますと、だから修行は要らない。不要なものだという方へいってしまうおそれも実はあるんですね。現に歴史的には、そういう流れも実際生まれているわけですね。後に批判的に用いられる本覚(ほんかく)思想といったような流れは、まさにそれに相当するわけでございます。
 
川野:  さて木村さん、四番目の会座「夜摩天宮会(やまてんぐうえ)」とあります。これはどういう会座でしょうか。
 
木村:  そうですね。この夜摩天に釈尊―盧舎那仏が、やはり前の座から動かずに移動されたという設定で、四つの章がここでは展開を致します。この中で思想的には十行という一つの実践の体系の上に『華厳経』で位置づける実践の体系が明らかにされるということが一つの大事です。特にここでは利他という問題が非常に強く出てきているというふうに思います。それからもう一つは、その前の章ですが、「夜摩天宮菩薩説偈品(やまてんぐうぼさつせつげぼん)」という章においては、非常に哲学的な思想が出てくるんですね。仏教的と言いますか、もっと言えば華厳経的な唯心論の基本の考え方が見えます。これについては、次回詳しくお話をさせて頂こうと思います。
 
川野:  それから五番目「兜率天宮会(とそつてんぐうえ)」。これについては菩薩の大いなる願いが説かれるわけですね。最後の纏めでお話することになっております。六番目の会座は「他化天宮会(たけてんぐうえ)」です。第六の会座「他化天宮会」は、天上の会座の最後に当たります。この会座は、十の章から成り立っています。今回は最初の「十地品(じゆうじぼん)」と最後の二つの品に注目します。特に重要とされるのが十地品。十地とは菩薩がいたるべき四十の階位のもっとも上に当たる部分です。十地は、歓喜地(かんぎじ)から法雲地(おううんじ)まであり、菩薩のもっとも高い十の境地が説かれます。例えば一番目の歓喜地には、真の歓びに至る菩薩の姿がこのように描かれています。
 
ナレーター: 
是の菩薩に、
便ち大喜(だいき)の相の
顕現すること有るも、
其の心は常に清浄にして、
大事を受くるに堪(た)
法を護(まも)り、仏所(ぶつしよ)に至り、
菩薩の妙行(みようぎよう)を行じ、
一切の衆生を化(け)し、
一切の仏土を浄め、
我が仏国土の中に、
(もろもろ)の大菩薩を満たし、
諸の菩薩は心を同じうし、
見聞(けんもん)皆空(むな)しからず、
一切の微塵(みじん)の中に、
諸仏、仏道を成ぜん、と
是れ初めの菩薩の地にして、
之を名づけて歓喜と為す
 
川野:  歓喜地を例に、菩薩の境地、十地についてご覧頂きました。これは木村さん、菩薩が目指す、かなり上の方の境地という理解でよろしいんでしょうか。
 
木村:  そうですね。『華厳経』の中では、全部で四十の菩薩の段階を設定致しますが、その最後の十段階がこの十地に至るということになります。このもとの経典は、『十地経』と呼ばれていて、そのサンスクリット本―インドの言葉で書かれたテキストも残っております。その十段階で菩薩の実践が深まっていくということですが、その深まりに関して、その中心となる実践について、六波羅蜜(ろくはらみつ)という随分早い時代から説かれている徳目ですね、実践徳目、この思想と対応させる考え方が定着をしているものでございます。その中で私たちにとってもっとも大事であり、強い関心を惹くものが最初の歓喜地だと思います。只今ご覧頂きましたのは、その歓喜地の要点を記している部分でございます。この歓喜という言葉自体が歓びということですね。真実への目覚めがここでほんとに実現をするわけですから、誰もが大きな歓びをもつ筈でございます。そのことを最初に述べるわけですが、しかしだからと言って、その歓びにとらわれてしまう。そこで止まってしまうということはないということを、後の句が述べておりまして、その心は常に清らかである、執着するものがない、とらわれるものがない、何かに穢れることがない。そしてそういう心であるが故に、その後の菩薩の実践をしっかりと歩んでいける菩薩道の展開に堪えるだけの心がそこでできるのだ、と、こういう意味に理解してよろしいのではないかと思います。次の言葉でございますが、「法を護り」以下ですけれども、法を護り、仏所―仏のおられるところに至り、そして菩薩の妙行―菩薩の優れた行いを実践し、一切の衆生を化し、「化し」は教化しですね―教え導き、一切の仏道―仏の世界を浄め、我が仏国土のうちに、自分自らの仏国土のうちに諸諸の大菩薩―偉大な菩薩たちを充満させる。菩薩たちでいっぱいな集会ができるというわけですね。その菩薩たちは心を同じくして、見聞―そこで行われる見ること聞くこと、すべてが充実したものであり、真実にいわば満ち溢れているということでしょうか。一切の微塵―一つひとつの小さなものの中にも諸(もろもろ)の仏たちが、仏道を完成しておられる、こういう中身になります。こういった実践の境地が、この歓喜地において実現をするということですね。
 
ナレーター:  「他化天宮会」の「普賢菩薩行品(ふげんぼさつぎようぼん)」には、悟りへの道を歩む上で見落としてはならないこととして、「怒り」について書かれた箇所もあります。「怒り」は、経典では瞋恚心(しんいしん)という言葉で表されています。
 
若し菩薩摩訶薩(まかさつ)
一瞋恚心を起こさば
一切の悪の中に
此の悪に過ぐるもの無し
 
川野:  今ご覧頂いたように、怒りは悪である。これは一般的にもわかるような気が致しますから、ここで取り上げられている意味はどういうことなんでしょう。
 
木村:  そうですね。ただ怒りを吐く、あるいは煩悩の一番大本(おおもと)にあるものと考える、提示する教えというのは、それほど多くない、少ないんですね。多くは貪りを置いたり、あるいは愛欲、渇愛(かつあい)、そういうものを置いたり、あるいは無明ですね、十二因縁説でご存知のように無明―無知を置いたりするわけです。ここで怒りというものを根本にもってきたというのは大変特徴的だと、私は思います。この怒りがどういうものか、どこから出てくるかということですが、これはやはり突き詰めれば、私たち自身が自分にとらわれる、あるいは自分のためを第一に考える。だから自分にとって好ましくないもの、嫌なこと、そういうものが出てくると、すぐにむらむらとする。怒りを覚える、ということだと思うんですね。どこに煩悩―迷いの心の根本をみるかは、いろんな見方があるでしょうけれども、この一つの見方として、私は大変納得できるものがあるんじゃないかと。自らの経験に照らしても、先ずはムッとする、ムカッとするということが、具体的な煩悩の表れとしては多いんではないでしょうか。
 
川野:  わかるような気が致します。
 
木村:  このような捉え方をした上で出てくる章は、「普賢菩薩行品」という章でございます。実際にどうしたらそこから脱却できるのか。その心を離れることができるのか、ということを丁寧に説いているんですね。全部で十種の正法―正しい法をおさめることということで纏めておりますけれども、特に先ず第一に、「衆生を捨てない」ということが挙げられるんですよね。これもちょっとビックリされるかも知れませんが、つまり生きとし生けるものすべてを、自らと区別しないで、自らの問題として衆生について思い続けるということですね。これは現在も「震災から心の復興」ということを、今よく言われておりますが、そのためにもこの心がやはりベースになるんではないでしょうか。生きとし生けるものを自らと同じ存在として受け止められる。その心を持ち続けることが、本当のボランティア活動になって行くんではないかと、そのように思います。これに合わせて、例えば「仏法を誹謗(ひぼう)しない、侮らない」といったような伝統的に重視されてきた徳目も合わせて説かれてはおりますが、第一にこの衆生を捨てないということが挙げられることが、もっとも注目されるところではないかと、そのように思います。
 
川野:  「他化天宮会」の最後にあたる「宝王如来性起品(ほうおうによらいしようきぼん)」。性起とは、真実そのものが起こる、現前するという意味です。ここでは何のために真実そのものである如来が出現するのかが説かれています。
 
ナレーター: 
仏子よ、如来応供等(おうぐとう)正覚(しようかく)
性起(しようき)の正法(しようぼう)は、不可思議なり
所以(ゆえん)は何(いか)
少因縁もて、等正覚を成じ、
世に出興(しゆつこう)したまうには
非ざればなり
 
そして仏は衆生を見つめ、如来の可能性があることに感歎します。
 
(そ)の時に如来、無障礙(むしようげ)の清浄の
天眼(てんげん)を以て
一切の衆生を観察(かんざつ)したもう
奇なる哉(かな)、奇なる哉
云何(いかん)が如来具足(ぐそく)の智慧、
身中(しんちゆう)に在るに、
(しか)も知見(ちけん)せざるや
 
木村:  この章は、おそらく本来独立した一つの経典だったと思いますが、特に仏の悟りに関わるあらゆることがいろんな譬え―譬喩を使いながら丁寧に説かれていると言ってよろしいかと思います。
 
川野:  先ほどの見ましたのがこの一文です。ご覧ください。
 
仏子よ、如来応供等(おうぐとう)正覚(しようかく)
性起(しようき)の正法(しようぼう)は、不可思議なり
所以(ゆえん)は何(いか)
少因縁もて、等正覚を成じ、
世に出興(しゆつこう)したまうには
非ざればなり
 
木村:  これが本章の中心的な教説の一つでございます。「仏子よ」仏の子たちよ、と呼び掛けまして、「如来応供」は、これはいずれは仏のことでございますが、その仏が完成された悟りである本性(ほんせい)より生起(せいき)した、つまり真実そのものから現れた真実の教えと。正しい教えというのは、思い量ることができないのだと。それは何故かと言えば、如来―仏は何か私たちが想定できる、考えることができるそうしたわずかな因縁によって悟りを完成し、この世界に出現されたというのではないのだから、と。こういう意味でございまして、つまり無量の因縁ですね、数限りない因縁の中で、仏の出現があるのだということを説いているわけですね。
 
川野:  続いて、
 
奇なる哉(かな)、奇なる哉
云何(いかん)が如来具足(ぐそく)の智慧、
身中(しんちゆう)に在るに、
(しか)も知見(ちけん)せざるや
 
木村:  少しかみ砕きますと、何と素晴らしい、また驚くべきことか、という言葉がありまして、「どうして如来が具えている智慧が、衆生一人ひとりのその体の中に存在するのに、そのことに気が付かないだろうか」と、こういう意味なんですね。私たちの一切はまさしくここに述べられているようなものだと思いますが、実はこの教えをもとにしまして、後に例えば日本では、
 
有情非情(うじようひじよう) 同時成道(どうじじようどう)
草木国土(そうもくこくど) 悉皆成仏(しつかいじようぶつ)
 
と言った言葉も生まれております。これは心あるもの―心を持ったものも、心を持たないものも、つまり生物も無生物も―自然などもということになりますが、同時に成道をしているのだと。私と一緒に成道しているのだと。草木国土―草木も国土も皆仏となっているのだという、こういう言葉。つまり仏が悟りを開かれたその瞬間に、すべてが同時に仏となっている、ということを意味する言葉として、このような言葉が生まれているんですね。そのことを私たち一人ひとりが、私自身は少しもわからない、気が付かないということが裏面にはあるわけですね。そういう意味では、無知と申しますか、無明(むみよう)と申しますか、それが私たちの本質的なものに対するありようを示す言葉ということにもなろうかと思います。だから逆に言いますと、私たちが知らないということを知ること。西洋の有名なギリシャ哲学の基盤をなしたと言われるソクラテスの言葉にも、「無知の知」ということがございますけれども、自ら無知に気付くこと、無知を知ることが、やはり仏道への、あるいは菩薩道―発心へのと言ってもいいですが、その出発点になると言えるかも知れませんね。
 
川野:  この後舞台は再び地上に戻ります。七番目の会座「普光法堂重会(ふこうほうどうじゆうえ)」は、二番目と同じ地上の場で、菩薩の実践の全体が総括されます。最後は「重閣講堂会(じゆうかくこうどうえ)」。ここでは、仏が光を放ち、菩薩が衆生を導くことが描かれます。この中では善財童子(ぜんざいどうじ)という青年が、さまざまな人を訪ね、学んでいく求道(ぐどう)の旅も説かれています。その舞台のモデルとなったのは、釈尊が実際に修行者たちに教えを説いたという祇園精舎(ぎおんしようじや)だと言われています。
 
今回は、『華厳経』の全体を見てまいりましたが、菩薩道の歩み方、そして歩む中で迷いがあり、それとどう向き合うのかということが語られていました。
 
木村:  菩薩道の歩みを明らかにするということですが、その中でどのような心構えが大事なのか。何が修行上のポイントなのかということが詳しく説かれていくわけですが、その中で一つ改めて私どもが注意を向けたいと思いますのは、これは「兜率天宮会」に属する十廻向品の中には、菩薩が遍く一切の衆生を救い護ろうという精神が貫かれているんですね。「廻向(えこう)」というのは、自分の持っている力、持っているものをすべて人のために、他者のために差しだそう、使おうということが廻向でございます。いわゆるキリスト教の方でも「代受苦(だいじゆく)」と、他者に代わって苦しみを受けるということ。イエスの十字架上のお姿も、ある意味ではそれを象徴していると思いますけれども、この代受苦(だいじゆく)に相当する教説も実はございます。そこまでのすべての生きとし生けるもののためにという心―精神と言いますか、そういうものをしっかりと根に―ベースに置くことが、菩薩道の基本。だから「菩薩道」と言いますと、自分が悟りを開く、安らぎに至るというふうにすぐ捉えがちですけれども、「すべて他者のために」ということがむしろ前提になって、他者にすべて、他者の救いを先に考えることが前提になって成立をしているものなんですね。そのことを改めて確認をしておきたいと思います。
 
川野:  お聞きのように、このシリーズでは現代に生きる私たちの心に響く『華厳経』の言葉、その世界について六回にわたってお送りをしております。今後の予定はご覧の通りです。
第三回 輝く叡智
第四回 真実を求めて
第五回 教えを慕う人々
第六回 今、ここに出会う
どうぞお楽しみください。
木村さん、今回もどうもありがとうございました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
     これは、平成二十六年五月十八日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである