さとりへの道―華厳経に学ぶB輝く叡知
 
                 東京大学名誉教授 木 村(きむら)  清 孝(きよたか)
                 き き て    川 野  一 宇
 
ナレーター:  千年以上前から『華厳経』を大切に受け継いできた奈良の東大寺。日々の勤行で必ず唱える「如心偈(によしんげ)」という経文があります。これは「唯心偈(ゆいしんげ)」と呼ばれる偈文の一部です。最後の部分は、「心造諸如来(しんぞうしよによらい)」心が如来をつくる。心をおさめると、真実が立ち現れてくる、という意味です。この「唯心偈」は、『華厳経』を支える中心的な思想の一つ、「唯心観」を表しています。「唯心観」とは、すべては心の現れである、という思想です。だからこそ、瞑想によって心を深く見つめ、心を静めることは、菩薩道を歩む上で重要な要素とされました。心をおさめると、どのような世界が現れるのか。『華厳経』では、仏の境地に至ると、世界は美しく厳かに装飾され、菩薩たちで満ち溢れた蓮華蔵(れんげぞう)世界となると説かれています。今回は、悟りへの道を歩む中で、自らの心と、心が映し出す世界はどのように変わり得るのか見ていきます。
 
 
川野:  川野一宇です。「こころの時代」さとりへの道―『華厳経』に学ぶ。お話は東京大学名誉教授木村清孝さんです。今回も先生よろしくお願いします。
 
木村:  よろしくお願い致します。
 
川野:  今回第三回のテーマは、「輝く叡知」なんですが、『華厳経』の叡知というのは、これはどういうものなんでしょうか?
木村:  今回は、この『華厳経』の教えとして出てまいりますものの中から、特に私どもの常識的なものの見方を打ち破ってくれるような深いしっかりとした物事の見方、存在の捉え方、あるいは世界観、そういったものについてお話をさせて頂きたいと思っております。
 
川野:  それでは今回の内容の要点を挙げておきたいと思います。まず
 
すべては心の表れである 唯心観
仏の願いから生まれた蓮華蔵世界
「一と一切」「小と大」はひとつである
 
まず一つ目の「すべては心の表れである 唯心観」というのは、どういうことでしょうか?
 
木村:  「唯心」と言いますと、多くのみなさんは、唯物論―唯物に対しての唯心とお考えかも知れませんけれども、先ず「唯心」という言葉は、仏教の独自の意味付けにおいてご理解を頂きたいと思います。と申しますのは、仏教そのものが、実は基本的に私どもが現実に生きているこの人生の中で、さまざまな迷いや苦しみを感じながら生きているわけですが、その実相がどういうものであるのか。そしてどうしたら、そういう生き方あり方から逃れることができるのか。ほんとに安らぎを得られるのか、ということを基本的にして展開をしてきた思想です。そういう意味で、私ども一人ひとりにとっての認識される世界とか存在ということが、根本の問題であると、そう申し上げていいかと思います。その前提でお考えを頂きますと、明らかになりますが、初期仏教以来、心について、あるいは私たちの知覚・認識について、さまざまな教えが説かれております。先ずこの仏教の唯心説と言われる大乗の代表的する一つの哲学的な展開とされておりますが、そのルーツに当たる釈尊の言葉、あるいは釈尊の言葉に由来する初期の仏教の言葉というものを見ておきたいと思います。
 
ナレーター:  人間の心について、初期仏教の経典には、このように書かれています。
心は捉えがたく
ざわざわと揺れ動き
欲するままに向かう
その心をおさめることは善いことだ
心をおさめれば
静かな悦びがもたらされる
(ダンマパダ三五偈)
 
木村:  今お読み頂きました言葉ですが、これは「ダンマパダ」と言います。漢訳、あるいは日本語では「法句経(ほつくきよう)」と訳されている経典でございます。短い詩句からなる詩句の集成された経典なんですが、その中から取り出してみました。意味は、お読み頂ければそのままおわかりかと思いますけども、先ず前半三行では、心の日常的な姿というか、それを示しているわけですね。私たちは心というのは、しょっちゅうあっちへ向いたりこっちへ向いたり、揺れ動いております。そしてその基本には、私たちが何を欲するか、何をしたいかということがあります。そしてその欲する気持ちのままに、対象に向かって働きかけていくわけですね。しかもその心は、これだと捉えてしっかりと頭に入れようとしても、なかなかこれというふうに決め付けられないようなところがあります。そのことが先ず前半の三行で説かれているわけですね。しかしこれですと、なかなか例えば波だった波打つ水面に周りのものが、決してその姿を綺麗に映し出さないと同じように、心が静まること、おさめることが、物事を正しく捉える基本にあるわけですが、それを仏教では先ず勧めるんですね。それが「心をおさめることは善いことだ」という表現です。そしてこうして初めて物事が見えてくる。正しく見えてくると同時に、その心がおさめられますと、悦びがあわせてもたらせてくると。心にああそうなのだと静かな悦びが心のうちに湧いてくるという、こういう意味だと思うんですね。ここに仏教が瞑想を中心とする、心を落ち着かせ澄ませるということの大切さ。実際のありようと言いますか、それが示されていると申し上げていいかと思います。
 
川野:  もう一つあります。
 
苦しみが起きるのは
すべて識(しき)に依る
識が消滅すれば
もはや苦しみが
生起(しようき)することはない
(スッタニパータ七三四偈)
 
木村:  これは、「スッタニパータ」という全体としてもっとも古い経典とされているものでございます。先ず「識」ということですが、この場合の「識」は、私たちが物事を識別して、区別をして知るというその働きのことを指しております。ここにはそういう意識、物事を率直に表現したものであろうと、そう思います。このことが基本になりまして、すべてを心との関わりにおいて捉える、世界を捉えていくということから、もはや苦しみは起こってこないのだ、ということになるわけですね。
 
川野:  木村さん、釈尊は何故こういう考えを持つようになったんですか?
 
木村:  そうですね。この言葉自体が、釈尊の言葉そのままかどうかわかりませんが、それに根ざすものであることは確かだと思います。このような教えが説かれてくる基本には、先ず私たちが自分の心を深く見つめていく、明らかにしていくということがあるのではないか。「自分の現に苦しんでいる心を静めて深く見ていけば、心をしっかり見つめること、そのことによって、その心がおさまった時には、心が穏やかになり、静かになり、開かれてくる、そうすると自ずから苦しみも消えてくる」と、こういう体験がある。内観―心の内側を見つめるということと、その結果としての体験的な裏付けと言いますか、それがこの言葉には私はあるように思います。おそらく釈尊の教えの説き方というものが、よく「待機説法(たいきせつぽう)」とか「応機説法(おうきせつぽう)」と言われますが、相手に応じて具体的な教えを示されるということで、すぐ〈ああ、そうなのだ〉と頷いて実行に移せるような、そういう押さえ方、説き方が初期仏典の特徴なんですね。従って私どもにもスーッと入ってくる、理解できると。大乗仏典になりますと、どうしても哲学的―これは人間の思考能力の発達・発展ということとも関わっていると思いますけれども、特にインドは哲学的な試練が大変盛んな国でどんどんブラッシュアップ(brushup:みがき上げること。学問などの再勉強や鈍った腕や技のみがき直し。また、一定のレベルに達した状態からさらにみがきをかけること)されていくわけですね。そういう中で大乗仏典が生まれてきますから、当然大乗仏典自体もかなりの深い哲学性をもつようなものになってくる。だから理解する方からいうと、なかなか大変ということになるわけですね。
 
川野:  その話の少し難しくなってくる表現なんですけれども、心についてこんなふうに表現されている部分がございます。
 
ナレーター:  心が苦しみを生むことについて、『華厳経』ではこのように説かれています。
 
三界(さんがい)は虚妄(こもう)にして
(た)だ是(こ)れ心の作(さ)なり。
 
三つの迷いの世界は
仮に現れている
空虚なものであって
ただ心が
作りだしているにすぎない
 
木村:  これは『華厳経』の中でも、重要な、前回もお話致しましたが、「十地品(じゆうじぼん)」に出てくる言葉でございまして、実は元のインドの言葉―サンスクリット語のテキストによりますと、もう少しすっきりしておりまして、「三界に属するものは、心のみなるものである」と、こういう表現がなされているんですね。これは漢訳者の立場で、漢訳のものとしてここにございますように、「虚妄」という、ちょっと価値的な表現を入れ、そしてまたわかりやすく心がつくるものだという、こういう意味合いを含めて、表現を少し変えた形で『華厳経』はできあがっているということになります。もとのサンスクリットのテキストで則して考えますと、おそらくこれは深く「唯心観」と言いますか、心を観察していく中で、自分が瞑想に入って捉えられた世界、それは心を離れては存在しない。そういうことを率直に表現したものであろうと、そう思います。このことが基本になりまして、「すべてを心との関わりにおいて捉える、世界を捉えていく」ということから、理論化が進んでいく中で、「世界は自分の心が作り出したものだ」というような方向も明確に後には現れてくることになります。要は「徹底して自己自身の心との関わりにおいて、この世界が存在するんだ」と、そのような認識を表明していると、そう捉えればよろしいのではないかと思います。
 
川野:  とても積極的に自分が関わっていくという考え方のようですけれども、ただ私などが感じますと、できあがっている世界へポンと生まれて、できあがった世界の中で亡くなっていくと。外界というのは、厳然としてそのままあるものだ、という感じが非常にするんですけども、その関係はどうですか?
 
木村:  そうですね。ただ先ほどのお読み頂いた初期仏典の言葉にもありますように、仏教はあくまで何を問題にしているかと言いますと、「私たち一人ひとりの心のありようが、今現に苦しみや悩みの中にある。それを何とかしなければ」というそういう問題意識なんですね。だから私にとっての世界という形で世界観を表明されているということになります。問題なのは、私にとっての世界なんですね。だから客観的に、この世界がどういう物質で構成されているかとか、社会がどう成立をしているのかとか、その仕組みがどうであるとか、そういう客観的な観点での認識とは違うんですね。ですから端的にというか、率直にわかりやすく言いますと、「私たちは一人ひとり現に生きているわけですが、その私が死ねば、私にとっての世界はそこで消滅をします。だから私にとっての世界はそのような形で存在をするものに他ならない」というのが、仏教の基本的な捉え方であると、そう申し上げていいかとお思います。もしもそこに客観的な世界があって、私たちがそれを受け止めて、ものを考え行動しているんであれば、何か鏡に映すように、みんな同じようにものを認識し行動していく筈なんですが、そうじゃない。ということは、「一回外にある世界を、外に現れている世界を私自身の問題として受け止めて、私たちがいわばイメージの中で再構成をする。それがベースになって、私たちのものの考え方が形成され、また生き方ができてくる」ということなんだと思うんですね。そういうところで世界を押さえる、捉えると言いますか、仏教の特徴になっていると考えていいかと思います。私たちにとって、多くの人たちがほぼ共通的認識とされている世界は、やはり仏教の文脈で言えばその苦しみの世界とか、迷いの世界ということになるわけですね。
そしてもう一つ積極的に、今度は清らかな世界、美しい世界であるという捉え方も生まれてくる、というですね。決して苦しみや迷いを永遠のものとして、私たちが忍受(にんじゆ)するということはあり得ないことになってくるわけですね。だからやはりきっかけは、「気づき」とか「心の転換」というようなことになるんではないかと思います。
 
川野:  木村さん、「気づき」というのはなかなか難しいのではないですか。どういうふうにすればよろしいんですか?
 
木村:  そうですね。これはおそらく体験の世界ですので、私も、「こうだ」とはっきり言えるものは何も持ち合わせていませんけれども、あるふっとした瞬間に、例えば一本の花を見て美しいなと思って感動するという、そういうことでもいいと思うんです。いろいろどこかでふっとした気づきが、私は人生の中で起こると思うんですよ。そのベースになるのは、私たちが素直になること。つまり雁字搦めの自分のものの考え方やとらわれからふっと解放される。そういう状況がベースになるんだろうと。一般的な言葉で言えば、「無心」と言ってもいいですが、そういう心の状態、素直なそういう何かとらわれを離れたような状態にある時に何かに触れて一つの気づきがあったり、あるいは場合によっては大きな転換が生まれてくるんではないかと思います。
 
川野:  ただこれは、気付いて、転換をして、悟りに達した場合には見えてくる世界がまったく違ってくるんですね。
 
木村:  そうですね。はっきりそこは違ってくる。『華厳経』は、さとりへの道を歩む中で起こる「気づき」によって、苦しみの世界は清らかで美しい世界に転換することを非常に明快に率直に詠えあげているんだと思います。仏の悟り―気づきや転換の究極点が、いわば悟り―仏の悟りだと思いますが、その悟りにおいて、この『華厳経』は、蓮華蔵世界(盧舎那仏のさとりの世界)を描き出していきます。その描写にありますように、まさにそれは浄土なんですね。仏の国で清らかで美しいものという捉え方。その具体的な現れとして、蓮華蔵世界というのを打ち出しているということになるわけですね。
 
ナレーター:  では、仏の願いから生まれた蓮華蔵世界とは、どのようなものなのでしょうか。釈尊が悟られ、盧舎那仏となられた時に、美しく厳かに飾られた世界が出現したと、『華厳経』では説かれています。それが蓮華蔵世界です。
 
(こ)の蓮華蔵世界海(せかいかい)は、是(こ)れ盧舎那仏(るしやなぶつ)、本(もと)菩薩の行を修(しゆ)せし時、阿僧祇(あそうぎ)の世界の微塵数(みじんすう)の劫(ごう)に於(おい)て厳浄(ごんじよう)したまいし所なり。
 
この蓮華蔵世界は、盧舎那仏がかつて菩薩の行いをおさめておられた時に、長い時間をかけて浄め語られた世界である。
 
一一(いちいち)の劫(ごう)に於て世界の微塵に等しき如来を恭敬(くぎよう)し、供養したてまつり、一一の仏の所(みもと)に於て世界海の微塵数の願行を修したもうなり。
 
盧舎那仏は過去の一つひとつの時代に、菩薩として無数の仏たちを尊敬し、一人ひとりの仏のもとで限りなく多くの誓願を立てて修行を積まれた。
 
仏子(ぶつし)よ、当(まさ)に知るべし、須弥山(しゆみせん)の微塵に等しき風輪(ふうりん)有りて、彼(か)の香水海(こうすいかい)の中に、大蓮華有り。香幢(こうどう)光明(こうみよう)荘厳(しようごん)と名づく。此の蓮華蔵荘厳世界海を持(じ)せり。
 
仏の子たちよ。初めに須弥山を形成する無数の風の渦が重なり合っている。最上の層には、香水海という大海があって、そこに香幢(こうどう)光明荘厳という大蓮華が生じ、これが蓮華蔵世界を支えているのである。悟りへの道を真剣に歩んでいくと、苦しみの世界に生きていたものも限りなく美しい蓮華蔵世界を作り上げることができるというのです。
 
川野:  今ご覧頂いたように、蓮華蔵世界。釈尊、盧舎那仏の世界で、これが蓮華と非常に関連しているというのは、これはどういうわけなんでしょうか?
 
木村:  経典にいろいろと書かれているわけではないのですが、私は先ず一つベースには、「蓮華」という花がインドを代表する花であって、一種の聖なる美しさを持っているという捉え方が古くからあったのではないかと思います。それがベースになっていると思うんです。それともう一つ、これはインドの瞑想の仕方の特徴として考えるべきですが、私どもは、特に禅宗の場合で言いますと、「只管打坐(しかんたざ)」と言いますが、ただ坐禅に徹していくという、そういうあり方が坐禅の方法というふうに多くの方が認識されていると思いますけど、インドにおける瞑想は、初期仏教以来そうだったんですが、具体的な対象を観察する、静かに見つめていく。「観想(かんそう)」と言えばいいでしょうか。そういう静かに見つめることが瞑想の基本的な特徴になっているんですね。その対象としては、じゃ、何があるかということですが、これもいつからどのように広がったとよくわかりませんが、実はつい先日ダライ・ラマ法王のお話を伺う機会がありましたんですが、その時に法王がおっしゃっていた瞑想の方法は、「止(し)」と「観(かん)」―「止観(しかん)」と言います。天台系で使う概念なんですが、その「止」は、日本の禅宗と同じように心を集中する、落ち着かせていく、澄ませていくという方向なんです。「観」の方は、どんなものでも、あらゆるものが対象になるのだ、と。何かに対して、それを深く観想する。何でもいいんだよ、というお話をされていました。そのことからもわかりますように、おそらく私は、「蓮華」そのものが一つの観想の対象となるという修行の仕方というのか、実践の仕方があったんではないかというふうに思うんですね。だから一種の「蓮華観」(蓮華のイメージをひろげていく観想)というような瞑想法というものがベースになっている。花の花弁の集まり、外側にある花弁から、さらに中の花托のありようと言いましょうか、そういうものを宇宙大に拡大をしていくような形での瞑想が行われて、それが蓮華蔵世界のもとになっているんじゃないのかなと、そのように今考えております。
 
ナレーター:  世界を作り上げる働き、『華厳経』では、それを「因縁」(物事が生じる直接間接の要因)という言葉で表しています。世界は無数の因縁が重なり合って作り出されるというのです。木村さんは、その中でも特に四つの要素に注目しています。
 
木村:  『華厳経』の、ここで説かれている「因縁説」というのは、この世界の成り立ち、世界を造ったものは何かという観点で説かれている因縁でございまして、これには無数の因縁があるんだけれども、特に重要なものは四つ挙げていいかなと思います。
一つは、「仏の神力」というふうに、「如来の神力」というふうに表現されておりますが、「神通力」の意味ですね、ですから素晴らしい力―スーパーパワーと言いますか、そういうものだと思いますが、「仏の力」というもの。
第二には、いわば「自然の道理」、当然そうあらなければいけないそういう普遍的な法の真実と言いましょうか、そういう働き、道理の働きがある。
第三に、これは大変興味深いんですけども、「衆生の行い」そのものが関わっている。因縁の一つである、というんですね。
第四に、「普賢菩薩(ふげんぼさつ)の願い」。普賢菩薩は『華厳経』を代表する菩薩です。仏の力を体現できるくらいの菩薩なんですが、その普賢菩薩の願い―「自在の願力」と言っていますが、自由にこの働き掛けをすることができる願いの力というものを挙げているんですね。私たちの思い量りを越える力が、常に私たちのおそらく行いにも深く関わっている、働き掛けでいる。特に普賢菩薩の願いというものが、私たちに関わってきているのだという、こういう捉え方をしている。
 
川野:  「衆生の行い」というのは?
 
木村:  そうですね。この「衆生」は、勿論言うまでもなく、生きとし生けるものすべて、ということですね。だからすべての人たちの、あるいはすべての生きるもの、生きとし生けるものすべての存在の日々の行動―思いも含めてですけども―思いや言葉、そして実際の身体的な活動。全部含めて、それらが蓮華蔵世界を中心とする、直接には蓮華蔵世界と考えてもいいんですが、この世界を作り上げている、この仏の浄土を作り上げている働きの一つとしてあるんだ、ということになりますね。この「行い」というのは、決して善い行いとか、菩薩行に相当する行いに一生懸命励んでいる人だけではなくて、ぐうたらなことをしていても、それは一つの行いでありますから、そういう行いは行いでまた関わりをもっているんですね。しかも同時に、先ほどのことから言えば、仏の力も働いているし、普賢菩薩の願いも働いている。そういう場の中で、そういう行動が行われていて、その行動がまた世界形成に、世界を変えていく一つの一環になっていることでしょうね。
 
川野:  お話を伺っておりますと、蓮華蔵世界というのは、どこか遠いところにある理想郷のようなところであって、私たちとは直接関係がないというふうに最初聞いた時は思いましたけれども、伺っていますと、そうでもなくて、我々も構成している有力な一員と言いますか、メンバーというのはおかしいけれど、そういうふうに考えてよろしいんですか?
 
木村:  そうですね。私たちが現にこうして生きているということは、普段に何かの行いをしているということだと思います。眠っていたり、ボヤッとしていたりする時は、何もしていないじゃないか、と言われるかも知れませんが、これもやはり行いなんですね。そのことから言いますと、生まれてから死ぬまで、私たちはある行い―これは心で思うことも、言葉で話すことも、身体的―体を動かして活動することも全部含みますが、何らかの行いをし続けている。それが生きている、いのちというものの実相だろうと思うんですね。しかもその一つひとつの行い、どれを取り上げましても、私たちはこうしたいとか、あるいはこうありたいとか、そういう願いとか、欲求というものに支えられて、おそらく行為、行いをしているんだろうと思います。じゃ、その願いや欲求というのは、どこからくるのか、ということをもう一つ踏み込んで考えますと、それは決して自分の意思、自分の思いだけからきていると。根拠はそこにある、自分だけにあるということは、どうも言えきれそうもない。いろいろな置かれている自分の状況、勿論一人ひとりの思いにもいろんな自分自身に関わる条件、因縁が関わっているわけですけれども、しかしそれ以外に特に目に見えない働きというものがあるんではないかと。例えばちょっと私自身の経験で申しますと、例えばある講演をする時に、一応どんなことを話そうかと決めて壇上に立つわけですけれども、それを話している中で思いがけず、ある別の話をしてしまう、ある展開をその講演の中でする。後で考えると、よくあんなことが言えたなと。どこからその発想が出てきたのかなと不思議に思うことも実はあるんですね。あくまでも一例ですけれども、これも何か目に見えない力というのか、大きく言えば縁起的な場に私たちはいるからだと思いますけれども、それを人格的、あるいは神格的に表現すれば、仏の力とか、菩薩の願いとか、そういうものになるのかも知れません。そういう何か目に見えない力が同時に働いていて、私たちはこの一つの行いをするという、そこへ進んでいるのではないのかなと、そう思うんですね。だから因縁のあり方というものを、世界形成―世界がどうできてくるのかという、そこのところまで広げて、実は『華厳経』は明らかにしていっているんですね。
 
ナレーター:  この世界における「一と一切」「小さなものと大きなもの」の関係性について、『華厳経』は、どのように説いているのでしょうか。普賢菩薩のこんな言葉があります。
 
(こ)の蓮華蔵世界海の内に於(お)いて、一一(いちいち)の微塵(みじん)の中に、一切の法界(ほつかい)を見る。
 
蓮華蔵世界においては、一つひとつの微細なものにも、真実の世界のすべてを見ることができる。どんな小さなものであっても、世界全体を形作る上では等しく尊い価値があるということです。
 
木村:  これは普賢菩薩が蓮華蔵世界を讃えておっしゃっている言葉なんですが、「蓮華蔵世界海の内に於て、一一の微塵の中に、一切の法界を見る」一一のこの世界においては、一つひとつ小さなもの、そのすべての中に一切の法界が詰まっているんだと。すべての存在世界が、真実の世界がそこに凝縮されているんだよ、ということを説いています。だからもうまったく徹底して美しく清らかな仏の世界、しかも無数の仏の世界が、ありとあらゆるものに満ちていると、こういう特徴をもつと、そのように経典は説いているんですね。ですから私たち自身も、具体的に何かを見つめるということを通して、そのような世界へと入っていくことができる、ということにもなりますよね。そして何を対象としても、それを通して仏の世界というものを、しかも無数の仏の世界を、そこから感得することができてくるんだと。体験的にそれが可能なのだ、ということでしょうね。
 
ナレーター:  小さなものと大きなもの。一と一切が一つである。これは悟りへの道を進むことを決心した初発心の菩薩が目指す世界の見方であると説かれています。
微細世界即ち是れ大世界なるを、大世界即ち是れ微細世界なるを知らんと欲す
 
悟りへの心を起こした菩薩は、微小な世界が広大な世界そのものであり、広大な世界が微小な世界そのものであるということを知ろうとする。一滴の雫が、大宇宙全体を宿しているように、小さなものと全体とが等しい存在であること、これが『華厳経』の説く重要な世界観です。
 
木村:  これは小さな世界と大きな世界。空間的な観点で、その両者の相即性(そうそくせい)と言いますか、両者が一体であるということを、初発心の菩薩、つまり初めて真実の悟りを究めようとした菩薩は、それを知ろうと願うのだという、こういう意味でございます。ここもだから知られるべき内容として、小と大の一体性、両者が一つであるということが真実としてあるのだと。
 
川野:  「一滴の雫に大宇宙が宿されている」というような表現を伺いますと、私は京都に何年間かおりまして、お茶に馴染んでおりました。禅と非常に関係が深いんですけども、ご承知のように、「一椀の中に大宇宙が潜む、凝縮されている。その一杯のお茶をグイと飲むことによって宇宙を飲み込むんだ。つまり宇宙と一体になるんだ」と、そのようなお話を聞きまして、おぉ・・凄いなと感じたことがありましたけども。
 
木村:  おそらく私どもの現実の経験世界の中でも、実はこの『華厳経』の「一と一切」「小と大」との関わりの世界というのは、いろんなところで味わえるものだろうと、私は思います。今のお話もその一つだと思います。実際私たちが日常的、あるいは常識的にものを考えるというのは、個と個をまったく別のものとして捉える。そして個の集合を全体と捉えるということで、切り離してしまうという、個と個、あるいは個と全体を切り離すという思考方法に慣れているんだと思うんですけど、「個と全体」「特殊と普遍」とか、いろんな対応の仕方がありますが、すべてそういうものを深く関わり合う存在のものだということをしっかりと『華厳経』では説いていきますし、そういう認識の仕方をすることによって、初めて調和した世界というものを、私たちは、実際上も現実的にもつくっていくことができるんではないかと、私はそのように思います。基本的に私たちは、個々別々で、善いものは善い、悪いものは悪い、あれとこれとは違うという、そういう見方をしておりますし、それからいわゆる個別性と全体性をはっきりと分けてしまうという考え方に慣れているわけですね。それを一つ大きく転換させる押さえ方となると思います。そうしますと、この微細世界は、私たち一人ひとりがもっている世界というふうに理解してもいい。大世界は、みんながつくっている世界。そしてまた同時にその微細世界をもっている人間―私だけではなくて、あなたもそうだし、その周りの人たちもみんな一人ひとりがそうなんですね、私はそのように思います。
 
川野:  こういうことを私たちが知ることによって、私たちの生き方とか暮らし方とか、ものの考え方に、どういう影響があり得ますか?
 
木村:  「如実(によじつ)」という言葉がありますが、「ありのままにあるものとして、あるんだ」ということを認識するだけで、そのように捉えるだけで、随分世界の見方も、それから一人ひとりの行動の仕方、あるいは場のつくられ方も変わってくるんではないか、と思います。そういう意味での尊厳性を一人ひとり持っている。だからそうなると、その大きな世界、全体を支えている一人ひとりの存在そのものの繋がりの中で現実の世界がある、ということになりますから、そうすると横の連帯がお互いにできてくるようになるんではないか、と思うんですね。
 
ナレーター:  個と全体が等しく尊いことを知る悟りの境地。それを目指す菩薩の最初の一歩について説いた言葉があります。
 
初めて発心する時、便ち正覚(しようがく)を成(じよう)ず(初発心時、便成正覚)
 
初めて悟りへの道を歩む決心をした時、直ちに悟りは完成している。
 
川野:  初めて発心する時、便ち正覚を成ず。これはどうでしょう?
 
木村:  これも中国や韓国、日本など東アジアの世界でもっともよく知られた『華厳経』の言葉の一つでございます。『華厳経』の実践論を代表する語句としてよく人口に膾炙(かいしや)していると言ってもいいと思いますが。意味は、初めて菩提心、つまり悟りへの心を起こした時に直ちに正覚、つまり仏の悟り―正しい悟りを完成しているのだと、そういう意味なんですね。だから一般的に言えば、「初めが終わりである」ということになりますが、そういうことで初発心というものの本質を非常に簡潔に表現したものと言っていいと思います。
 
川野:  具体例を挙げて頂くと、どんな例がありますか?
 
木村:  私は、今はもうなかなかそういう機会がございませんし、年齢的に少し無理ですけど、けっこう昔は山が好きで、山に登りました。ちょっとその譬えで申し上げますと、山登りする時の最初に踏み出す一歩ですね、その時に既に山頂を踏みしめる最後の一歩というものが、経典通りに言えば、「実現されている」ということですね。現実体験的に言えば、「それが実現されつつある」と言い換えてもいいかと思います。そういう意味だと思うんですね。勿論これは単に山登りの場合だけではなく、あらゆる目標を立てて実践をする。何かをやっていこうと、進んでいくという時に、当てはまることだというふうに思います。昔から「初心忘るべからず」というふうなことが言われますけど、やはり初心の大切さ。最初にどう決意するか。それが極めて重要であるということを最大限に強調しているというような受け取り方をしてもいいかと思います。
 
川野:  この初めの一歩がとても大事です。一歩が踏み出せない場合はどうしますか?
 
木村:  そうですね。それはやはり先ず決意の一つは、心の弱さというか、ほんとの意味で山に登ろうとしているのかどうかという、先ずその気持ちですよね。その強さの問題があると思います。もう一つは、おそらく不安と言いますか、準備をどこまでちゃんとするか、あるいは山をほんとに好きなのかどうかですね、そういったことがやはり関わっているんだと思います。ですからしっかりと学びとって、前にも申し上げましたが、菩薩道を歩んでいく上で、やはり「信解行証(しんげぎようしよう)」というコースがあるということをお話しましたけど、やはり「そうだ」と、「こうなのだ」とこう決めて、「信じて歩き出す」。そのためにも正しく理解することが必要なんですね。そのことがあって、初めて安心して、しかも堂々と強く一歩踏み出せるんではないかと思います。
 
川野:  そうすれば、その一歩が山頂に至る一歩に繋がってくると。
 
木村:  ええ。繋がる一歩だと思います。
 
川野:  決心をして、歩み始めました。しかし途中で進めない、進まない。そういう場合どうすればいいですか?
 
木村:  それは身体的理由がある場合もあるでしょうし、精神的なというか、気持ちが萎えてしまうということもあると思います。これも私は菩薩道の展開の中でも、あるところまでいかないと―「不退転(ふたいてん)」後戻りしないということですが、「不退転」でなければ実現しないと言われているんですね。つまり逆にいうと、後戻りすることが、決意をしても、あるところまではむしろ当たり前なんで、決して私だけがもうダメな人間だということではないと私は思います。止まってしまったら、一つは元へ戻ればいいんですよ。戻ることを怖れてはならない。無理をして、さらに前へ行かなければいけないとしますと、そこに何か事故が起こってしまう。そういう恐れもあるんじゃないでしょうか。だからそれはやっぱり私にはできないという―仏教では「懺悔(さんげ)」と言いますけどね―その懺悔の心が働くことが、実は心を綺麗にし、さらに強い一歩を改めて踏み出すきっかけに私はなると思うんですね。日本の曹洞宗を開かれた道元禅師は、この懺悔することによって、私たちは深い私たちの罪業と言いましょうか、罪をなくすることさえもできるのだ、というふうなことを説かれていますけども、やはり浄める力というのか、それが深い反省にはあるんではないかと、そういう点では退歩を逆に怖れてはいけないんですよ。前へ進むだけが絶対ではないと思います。
 
川野:  それを聞くと少し安心致します。
 
木村:  私自身も後戻りはいろいろありますので。
 
川野:  そうですか。
 
木村:  だから繰り返しかも知れませんね。人間というのは、何かをしようとして決意してやってみる。しかしやっぱりダメだと言って後戻りする。だけどそれをやっぱりダメだなと反省することですね。もっともう少し次はなんとかしようと、そう思い直すこと、これを繰り返す中でだんだんに真っ直ぐに進める力というのが、それができてくるんじゃないでしょうかね。経典の中にも、反省とするということの大切さも説かれておりますし、しかし先ほど挙げた「初めて発心する時正覚を成ず」だから、もういいんだと。最初でストップしちゃっていいんだと思ってもこれはいけないんで、むしろだからこそ一歩一歩を着実に歩んで行きましょう、という決意を改めてしていくと言いましょうか。その都度して行くことが大事なんではないでしょうかね、それが菩薩行だろうと思いますけどね。
 
川野:  『華厳経』の教えをさまざま三回にわたって解説をして頂いておりますけれども、自分の世界、自分に関わりのある世界だから、主体的に自分の方から取り組んだよというお話を縷々なさいました。なるほどそうかと思います。
 
木村:  ほんとに『華厳経』が説いているのは、「主体的に求める、正しいものを求めてしっかりと歩みなさい」ということで、それが結局やはり私の人生は勿論今の私がつくる人生です。もっと言えば、私たちは、それぞれが一人ひとりが、先ほどの唯心のことからもおわかり頂きますように、掛け替えのない固有の、あるいは独自の世界をつくりあげていく。そういう存在であり、それは誰にも真似ができないことなんですね。だから世界にただ一人と言いますか、そういう世界を私たちが、「私はこうつくるのだ」ということを、是非それぞれがしっかりとお考え頂いて歩んで頂けるとよろしいんじゃないでしょうかね。
 
川野:  このシリーズでは、現代に生きる私たちの心に響く今の木村先生のお話のように、『華厳経』の言葉を中心に六回にわたってお送りしています。今後の予定をご覧ください。今日は第三回でした。第四、五、六回と、後残り三回、「真実を求めて」「教えを慕う人々」「今、ここに出会う」という予定になっております。どうぞお楽しみになさってください。木村さん、今回もどうもありがとうございました。
 
     これは、平成二十六年六月十五日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである