さとりへの道―華厳経に学ぶC真実を求めて
 
                 東京大学名誉教授 木 村(きむら)  清 孝(きよたか)
                 き き て    川 野  一 宇
 
ナレーター:  インドネシア・ジャワ島中部にある世界遺産・ボロブドゥール。八世紀から九世紀にかけて造られた世界最大級の仏教遺跡です。釈迦の前世や生涯にまつわる説話の一四六○年のレリーフ。その二○○年以上に『華厳経』の中でも多くの人に親しまれてきた物語が彫られています。最終章にして、全体の四分の一以上を占める「入法界品(にゆうほつかいぼん)」です。跪(ひざまず)いて教えを請う一人の青年、「入法界品」の主人公・善財童子(ぜんざいどうじ)。善財童子が、悟りを目指して、五十人あまりの善知識に出会う旅に出ます。師を敬い、ひたすら教えを受けようとする求道者の姿です。日本においても、善財童子の名は語り継がれてきました。奈良東大寺に伝わる「華厳海会善知識曼陀羅図(けごんかいえぜんちしきまんだらず)」。中央の盧舎那仏(るしやなぶつ)を囲んで、善知識の元を訪ねる善財童子の姿が描かれています。この曼陀羅を本尊として、毎年四月二十四日に開山堂で営まれている法要「知識供(ちしきく)」、一山の僧侶によって執り行われます。盧舎那仏と善知識、善財童子の名を恭しく唱え、この法会(ほうえ)の場に来臨(らいりん)されることを願います。善財童子が教えを請う善知識には、菩薩、神だけでなく、仏教以外の宗教者などもいます。善知識の勧めを信じながらも、時には湧き上がる疑いや迷い、自らの心と向き合い、旅を進める姿は、さまざまな人との出会いを繰り返して生きる私たちにも重なります。今回は悟りへの道を説く『華厳経』から、善財童子の求道の旅に込められたメッセージを紐解きます。

 
川野:  川野一宇です。「こころの時代」さとりへの道―『華厳経』に学ぶ。お話は東京大学名誉教授木村清孝さんです。今回もよろしくお願い致します。
 
木村:  よろしくお願い致します。
 
川野:  この第四回は、「真実を求めて」です。ご覧頂きましたように、冒頭では東大寺で今回の主役とも言ってもいい善知識たち、そして善知識を訪ねて求道(ぐどう)の旅をする善財童子を供養しております。
 
木村:  今お話のように、東大寺さんにはさまざまなご法要がありますけれども、これもその大事なご法要の一つだと思います。善財童子とその善財童子に教えを授けていく善知識たちすべてを、その法要の場にお招きをして、そしてお祈りを捧げ、この世界の平安、特にすべての全体が和合の世界になる、よき友同士の世界になる、それを祈るご法要ではないのかなと、私は思っております。私たちが生まれ変わり、死に変わりする中で、この善知識たちに出会いたいものだと、こういう素晴らしい教えを、深い教えを聞いていきたいものだと、こういう願いを明らかにしているんですね。この「生生世世(しようじようせせ)」という考え方、そういった大変深い思いのこもる法要であろうと思います。
 
川野:  この善財童子の求法の旅というのは、『華厳経』の中でもなんか特別な存在、今までとはちょっと違った味わいですね。
 
木村:  そうですね。全部で「七処八会(しちしよはちえ)」、そして章で言えば、三十四章からなるわけですけれども、この一番最後に位置づけられる「入法界品」とそれ以前とは少し趣を異にしております。と申しますのは、その前までは、仏法、あるいはその仏法を体得する境地を中心にして説かれていくんですが、この「入法界品」だけは、今お話のように前段がございますけれども、それを受けて後半では、明確に善財童子という求道の心に燃える青年を主人公として、どのように人の道を求める、悟りを求める旅が続いていくのか、ということを明らかにしていくんですね。従って内容的には、私たち自身にとって、私たちがどうこの人生を歩んでいくのがいいのか。どういう人との出会いを持ち、どのようにその出会いを通して成長していくのか、といった意味合いもありまして、私ども方から言いますと、大変楽しく読むことができる独立した文学作品としても優れたものではないかと、そのように思います。
 
川野:  それでは、今回の要点を見てみることに致します。「善財童子の求道の旅」です。
 
「善財童子の求道の旅」
一、文殊菩薩に見いだされた善財童子
二、菩薩、神、出家者、遊女、子ども・・・
     バラエティに富んだ善知識
三、旅を通して見えてくる「真実」
 
では、一番目、「文殊菩薩に見いだされた善財童子」から見ていくことに致しましょう。
ナレーター:  「入法界品」という章は、文殊菩薩が覚城(かくじよう)という町を訪れる場面から始まります。集まった五百人の童子の中から、文殊菩薩は一人の青年を見いだします。それがこの章の主人公・善財童子でした。善財とは、生まれた時から七つの宝を具えていたため名づけられたとされ、常に清らかさと仏法を受ける心構えを具えていました。この善財童子に、文殊菩薩は目を留めて「真の法を説こう」と言われます。しかし善財童子は、自らについて告白を始め教えを請います。
 
貪愛(とんあい)の纏縛(てんばく)する所にして、
諂曲(てんごく)、正行(しようぎよう)を壊(え)し、
疑惑、慧眼(えげん)を障(さ)ゆれば、
(もろもろ)の邪道に流転(るてん)
 
私は愛着に纏(まと)いつかれ、諂(へつら)いによって正しい実践ができず、疑いによって智慧の眼が塞(ふさ)がれてさまざまの邪道を経巡(へめぐ)ってきました。
 
浄法界(じようほつかい)を具足し、
大慈(だいじ)もて観察(かんさつ)を為(な)し、
功徳の華、荘厳(しようごん)せり
我に第一の乗(じよう)を賜(たま)いたまえ
(「入法界品」)
 
文殊菩薩、あなたは清らかな信心の世界を実現し、大きな慈しみをもって生きとし生けるものを正しくご覧になっておられ、さまざまの功徳の華があなたの身を飾っています。私に第一の教えをお与えください。
 
川野:  ご覧頂いた善財童子の言葉は、一部なんですけれども、全体としてはどういう意味になるのでしょう。
 
木村:  大きくポイントを申しますと、二つあると思います。一つは、善財自身が、これまで自分が歩んできた道、迷いの中にあったその思いを深く感じている中で、懺悔(さんげ)をすると言いましょうか、そういう静かに反省をする、そのことが一つ。それからもう一つは、まだ至らない自分ではあるけれども、しっかりとこの菩薩の道を歩んで行くんだと、そういう決意が滲んでいる、込められている、そのように思います。
 
川野:  それでは、先ほど見て頂いた言葉一つひとつを、木村さんにまた解説をして頂きたいと思います。
 
木村:  全体の意味は、貪愛(とんあい)―これは貪(むさぼ)りの心ですね。善財童子の言葉ですから、善財が、ということなんですが、広げて言えば、私ども一人ひとりが、ということになります。貪りの心、愛着の心に縛られてきて、そして自らが人に対して、ねじ曲げて媚び諂うといった、そういうことをしてきた。そのことが私の正しい菩薩道の実践を妨げてきた。壊してきたんだと。それだけではなく、私にはさまざまな疑い、そして惑いをもつ、そういう心がある。そのことが私自身の智慧の眼を妨げてきた。しっかりと物事の真実を見通す眼を持てずにきている。そのためにさまざまな誤った道に流転をしてきた。迷いや苦しみの輪廻(りんね)の生存を繰り返してきたのだと、こういう告白懺悔の文章ですね。
 
川野:  文殊菩薩に見いだされた善財童子でさえ、これだけの告白を、
 
木村:  そうですね。
 
川野:  だからこういう告白をしたんだ、というふうに見ることができると思いますけれども、さて善財童子はこういう願いの言葉もあります。
 
木村:  これもたくさん並んでいる中の一つでございますが、文殊菩薩を讃えて、これは先ず歌い出しております。「あなたさまは清らかな真実の世界をしっかりと身に具え、そして大いなる慈しみの心をもって、私を含むすべての生きとし生けるものを見てお出でになる。そしてそういう文殊菩薩であるあなたさまであるから、その功徳は量り知れないものがあって、その華がその身をしっかり飾っておられる。そういうあなたにお願いをします。どうぞ私に第一の乗(じよう)―乗とは教えのことを意味しますが―このうえない究極の、と言ってもいいですが、そういう教えを私にお与えください」と、こういう願いの文章なんですね。
 
ナレーター:  そして文殊菩薩は、善財童子に菩薩道とは何か。問い続けることの重要性を説きます。
 
木村:  素直に原点に返って道を問うというその問いですね。質問をするということが大変大事だということを、私どもは学ぶべきではないのかなというように思うんですね。おそらくこうした問いを、道それぞれの境地が進んでいきながらも、善財童子はこれを繰り返すなかで、いわば善財の歩みが純化されていくと言いましょうか、そういう方向性が出てくるんではないかと。
 
ナレーター:  この後文殊菩薩は、善財童子の心を誉め励まし、求道の旅へ出るよう勧めます。
 
(よ)い哉(かな)、功徳の蔵(ぞう)よ。
(よ)く我が所に来詣(らけい)し、
広大の悲心を発(おこ)し、
(もつぱ)ら無上の道を求めたり。
(ことごと)く十方界に於(おい)て、
(あまね)く無量の仏を見、
(もろもろ)の願海(がんかい)を成満(じようまん)し、
菩薩の行を具足せよ。
 
川野:  よく来たという意味のことを先ずおっしゃっている文殊菩薩なんですね。ほんとに励ましの言葉ですよ。教えのポイントを突きながら、こういうふうに言われると、非常に嬉しくなって、求道の旅が励みがつくんじゃないでしょうか。
 
木村:  そうですね。私自身もそういう師、これまでにも出会ってきたと思いますが、これからも残り少ない人生であっても、そういう師に巡り会っていきたいなと思っております。
 
川野:  先ほどの善財童子の願いに応えるかのように、文殊菩薩の言葉がありました。
 
木村:  「善(よ)い哉(かな)」なんと素晴らしいことだ。「功徳の蔵(ぞう)よ」と言いますのは、この功徳を具えた人、功徳を具えたあなたよ。ほんとによく自分のところに来られた。そしてもう既にあなたは広大な憐れみの心―慈悲の心と申し上げていいでしょうが、その心を起こして、ひたすら「無上の道」つまり仏の悟りそのものを求めていらっしゃるよ。そう思えるんですね。そういう内容です。そしてありとあらゆる十方の世界において、あなたはこれから普くすべての無量の仏たちと出会い、その仏たちがもつ願いをしっかりと受け止めて、それを完成をして、そして菩薩としての実践―これは後に出てくる普賢(ふげん)に代表される菩薩の行いを、しっかりと完成をしなさい、こういう励ましをするわけですね。
 
川野:  さて、では二番目です。菩薩、神、出家者、遊女、子ども等々非常に善知識はバラエティに富んでいますね。
 
木村:  そうですね。これはこの「入法界品」あるいは善財童子の求道の旅の特徴なんですね。「善知識」という、先ず言葉ですけれども、これは漢語でそのように訳されたわけですが、この言葉ですとちょっと固くて、素晴らしい知識あるいは徳を具えた高僧のようなイメージを私ども持ちますけれども、原語「カルヤーナ・ミトラ」と申しますけれども、直訳すれば、「善き友」という意味ですね。ですから漢訳でも「善友(ぜんゆう)」という表現をするものもございますが、おそらくそれは「共に真実への道、悟りへの道を歩むもの」という、そこでみれば、「同じ仲間、同じ同朋である」という、そこにそういう考え方に基づいているだろうと思います。人数で言えば、一般には五十三人、あるいは五十五人という数え方を致します。そして場所としては五十四箇所、あるいは五十五所という数え方を致しまして、少しこれは文学としての構想の問題と関わるんですが、どういう視点で捉えるかによって、数が少し動くというところがございます。いずれにしましても五十人以上の先生たちと、五十箇所以上の場所を訪ねて、善財がその修行を重ねていく、道を求める旅を続けていくということになります。今回は、現代を生きる私たちにとって、特に大事な、あるいは大切な示唆を含む、こういう善知識をここでは取り上げることにしたい。つまりこうした取り上げる人たちを通して、より深い学びができるんではないか、そういう視点で私が選ばせて頂いた方々―善知識たちが以下には登場してまいります。
 
川野:  ではその善知識を見てまいりましょう。
 
ナレーター:  「入法界品」に登場する善知識は、神、菩薩、人間などさまざまです。人間の中には、出家者、商人、仏教以外の宗教者、女性、子どもなども含まれています。東大寺の法要「知識供」では、一人ひとりの善知識への帰依を表します。文殊(もんじゆ)菩薩に始まり、次々とあらゆる善知識から謙虚に学ぶ善財童子の姿を見てまいりましょう。善財童子は、一人目の善知識功徳雲比丘(くどくうんびく)に、「菩薩道とは何か」と問います。すると、比丘は答えます。「念仏三昧に入り、無数の仏の世界を観察することである」。そして次の海雲比丘(かいうんびく)を訪ねるよう善財童子に勧めます。二番目の善知識に出会うべく南へ進むと、浜辺でひたすら海を見つめている海雲比丘に出会います。海雲比丘は、十二年間ここでじっと海を見て瞑想していました。すると海の上に蓮華に座した如来が現れて法を説き、海雲比丘はすべてのものが見通せる境地になりました。海を深く見つめることで、すべてに繋がる真実が立ち現れてくる。一つのことに集中し専念することの意義を学ぶのです。
 
川野:  最初に訪ねたのが功徳雲比丘ですね。
 
木村:  そうですね。文殊菩薩の指示を受けて、最初に善財童子は功徳雲比丘を訪ねます。この比丘の境地というのは、簡潔に申しますと、「念仏三昧」と言ってよいかと思います。ただ念仏と申しましても、今日本では、念仏と言えば口に唱えて「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と称するという形で、みなさまご理解されていると思いますが、ここでの念仏は―後には「憶念(おくねん)の念仏」と言っておりますが、「心に仏、あるいは仏の世界を思い浮かべる」という、そういう意味合いでの念仏なんですね。従って「三昧」とくっつくと言いましょうか、一つの三昧の境地―「観想三昧」ですね。先ず仏に帰依するというのが基本ですよね。その帰依するあり方を通して、私どもに先ず受け止められる具体的な実践に、それが結び付く形としてはやはり念仏だと思うんです。仏の世界を自らのものとしてしっかりと刻み込んで、それに準ずるありようを求めていくというか、そういうことになるんだと思います。その意味ではここで説かれる念仏というのは、仏道あるいは菩薩道の基本に置かれる、そのことを言いたいために「入法界品」では第一にこの功徳雲比丘をあげているんではないかと、そのように思うんですね。
 
川野:  その次には海雲比丘ですね。
 
木村:  功徳雲比丘が指示をして、善財が次に訪ねる比丘が海雲比丘という比丘でして、これは私は若い頃にハッと思って大変注目をした善知識なんですね。海を見つめることを通して、言ってみれば大変一つの深い菩薩の境地が習得されたということにもなるわけですよね。その意味で、これは初期仏教以来観想の対象というのは、限定することはないという考え方があるわけですが、この海というのが、私は大変大事な点ではないかと思うんですね。今の科学でもいのちの基(もと)と。先ずいのちがどこで生まれたかご存知の通り、海から生まれたとされていますよね。またまだまだ知られていないものがたくさんあるわけですが、知られている限りでもまことに豊かな比喩的に言えば、宝を蔵していると、そのように思います。そういうものが海を見つめること、海を深く観想することを通してその海自身がこの自らを開き示すと申しますか、その素晴らしさ、美しさを見せてくれるという、こういうことではないか。このような行(ぎよう)―実践のあり方が境地との関わりでは「普眼(ふげん)」すべてを見る眼というふうに言ってもいいでしょうが、そういう言葉で象徴されているわけです。だから海を観想することを通して、すべてが見えるようになる、こういう境地ではないのかなとそう思いますね。
 
ナレーター:  五番目に出会った善知識・弥伽長者(みがちようじや)。大勢の人々に法を説いているところでした。善財童子が尋ねます。私は悟りへの心を起こしましたが、菩薩行とはどういうものかわかりません。すると、弥伽長者は聞きました。「君は既に菩提心を起こしたのか」。善財が、「はい。そうです」と答えると、弥伽長者はすぐに説法の座を下りて礼をし、「悟りへの心を起こすとはなんと素晴らしい」と、善財を誉め讃えたのです。
 
川野:  今度、弥伽(みが)長者という、この善知識はどういう特徴がありますんですか。
 
木村:  この弥伽(みが)―「メーガ」という名前の音写なんですが、『六十華厳経』では「良医(りようい)」―優れたお医者さんという職業を当てております。しかし『八十華厳』では、単に「人(にん)」人(ひと)という呼び方をしているだけなんですね。どうも原文サンスクリットのテキストがありますので、それを参照しますと、現在の呼び方では「ドラヴィダ人」と言いますが、インドの先住民族の流れを汲む部族に属しているもので、従ってアーリア人がインドに入って来て支配階層を形成するようになりますと、社会的には下層に置かれる、そういう人たちの血を受けているということになろうかと思います。先ず私たちが注目しなければいけないことは、こうした階層の人を善知識として先ず取り上げている、きちんと位置づけているということですね。それとやはり師と弟子との関係というものが、決して上下関係ではないんだ。お互いがいわば拝み合う関係、学びあう関係を示している。これは先ほど申し上げた、「善知識」という言葉の語源からも言えることだと思いますが、そのように同じ道を歩んでいく存在として、師と弟子があるということ。例えば学校教育にしろ、その他の教育の場においても、心に留めておくべきことではないか。師は弟子から逆に学ぶということですね。そういう側面が必ずありますので、そのことを忘れてはならないのではないかと、そう思うんですが。
 
ナレーター:  十番目の善知識・勝熱婆羅門(しようねつばらもん)。刀の山から火の海に飛び込む苦行をしていました。善財が、菩薩の実践について尋ねると、婆羅門はこう言います。「君が今この刀の山から火の海に身を投じたら、菩薩の諸行はみな清らかになるだろう」。善財は疑いを抱きます。〈こんな人は悪魔の使いで、善知識のふりをしているのでは〉。その時、梵天が現れ諭します。「この婆羅門は偉大な聖人で、衆生の貪りや煩悩をなくし、闇を除こうとしているのだ」。そして善財は疑いを無くし、遂に火の海に飛び込み、菩薩の境地に至るのです。
 
川野:  「刀の山に上れ」とか、「火の海に下りろ」とか、激しいことを要求する善知識が出てきましたね。
 
木村:  そうですね。ちょっとみなさんもビックリされるんではないかと思います。基本的には、この勝熱婆羅門は、「婆羅門」という言葉からわかりますように、仏教外―どちらと言えば仏教とむしろ対立的にある当時のインドのバラモン教に属する存在と言いますか、そういうことで。これはしかし実際には婆羅門が釈尊に帰依するという話でありまして、その辺りがベースになっているんじゃないかと思いますが、とにかく婆羅門であって、この仏教に帰依をし、仏教的な場で菩薩として生きようとするという、その一つのありようをここで示そうとしているんではないかと思います。ただこれはおそらく「入法界品」―遡れば「ガンダヴェーハ」ですが、これが成立をする時点において、むしろ対立的な宗教であったバラモン教乃至ヒンドゥー教と、一つの融和的な調和する方向というのを、当時の大乗仏教徒が考えていた。その具体的な現れでもあるのではないかと思います。ただこの点が一つ押さえなければいけない点ですが、ここで当然のことと言えば当然ですが、ここまで修行を重ねてきた善財が、ここで疑いをもったということですね。これもやはり菩薩道全体を考える上では大事なことだと思います。仏教が基本的に否定をしております苦行に類することを、勝熱婆羅門―方便命(ほうべんみよう)婆羅門はするわけですから、善財がそれを見て、果たして善知識なのかどうなのかと疑うということも、無理からぬところであろうと、そのように思います。私たちが、何か真実なるものを求めて歩んでいくという中でも、必ずどこかで戸惑ったり疑ったりということが出てくると思うんですね。そのことはむしろ自然であって、それをただ問題はどう乗り越えるのかということだと思います。善財の場合には、その疑いを克服をして、彼はひたすら方便命に学ぼうという、そういういわば善知識に学ぼうという原点に立ったと、立ち直したということなんだと。その一つのありようというものを、ここで経典は示しているんではないか、そのように思います。
 
川野:  二十六番目の善知識・婆須蜜多女(ばしゆみつたじよ)。釈尊の時代の有名な遊女がモデルであるとも言われています。その前に出会った善知識・獅子奮迅比丘尼(ししふんじんびくに)から婆須蜜多女を訪ねるように言われ、善財童子は向かいます。その道中、ある人からは、「清らかな求道者であるあなたが会うべき人ではない」と言われますが、別の人からは、「あの方は大変素晴らしい徳を具えた人であるから、行って是非教えを請いなさい」と背中を押されます。善財は、意を決して会いに行きます。婆須蜜多女は、美しい宮殿に住み、気品と聡明さに満ち溢れた絶世の美女でした。善財童子を迎えて、婆須蜜多女は説きます。「私は、欲を離れる菩薩の境地に至りました。自分を求めてやって来るどんな衆生も、どんな神々にも、その人が望む姿となって、欲から離れる境地をもたらします」。
 
善男子(ぜんなんし)よ。
我れ已に離欲実際清浄の法門を成就せり。
若し衆生の我が手を執(と)る者有らば、
(けい)一切仏殺(ぶつせつ)三昧を得ん。
若し衆生の我れを阿梨宜(ありぎ)(抱擁)する者有らば、
(しよう)一切衆生三昧を得ん。
 
誰もが持っている愛欲などの煩悩を、婆須蜜多女は、その愛欲の行いがそのまま底が抜けるように澄み渡る三昧への境地へと転ずると説くのです。
 
川野:  婆須蜜多女、この方が説く重要な点はどういう点でしょうか。
 
木村:  そうですね。この絶世の美女という設定になっておりまして、いずれにしましても、おそらくこれも前の善知識が勧めてくれたということが、背中を押したんだと思いますが、善財は最終的にこの美女の善知識を訪ねるわけですね。で、彼女が得ている法門、境地について、このように経典は説いております。その名前は「離欲実際清浄法門(りよくじつさいしようじようほうもん)」と言います。言葉としては名前の通り「離欲実際」これは欲望を離れることですね。「実際」というのは、真実の領域という意訳を当てればいいと思いますが、既にいわば利己的な、自己中心的な欲望をすっかり離れて、真実の領域に生きている。その清らかなそういう領域に生きるということを身に付けたそういう私であるという、こういう意味合いになろうかと思います。だから、婆須蜜多自身は、愛欲を離れて、真実の境地にいることで、いわゆる私どもが普通使う意味での「愛欲」というもの、「性的欲望」というものは、完全に乗り越えられている、あるいは突き抜けられていると、そう言っていいんだと思います。じゃ、具体的に彼女が説く教えとはどういうものかと。それについて、二つほど例を挙げさせて頂きます。「私の手を取る人がいたら、その人はその瞬間にすべての仏の国に入ることができる」つまり三昧が得られるだろう、ということですから、つまりすべての仏と出会える、ということなんですね。そういう三昧の境地が、私の手を取ることによって得られるんですよ、と。こういう教えを一つ説いております。それから「若し衆生の我れを阿梨宜―阿梨宜というのは、抱擁する、抱くという意味で、抱擁する者あらば―阿梨宜するものあらば、摂一切衆生三昧を得ん、という言葉でして、私を抱擁する人―抱く人がいたら、その人はすべての衆生を摂(おさ)め取るという三昧を得られるだろうと。すべての衆生を摂(おさ)め取るというのは、浄土教の方で強調致しますが、阿弥陀如来の働きの一面を「摂取不捨(せつしゆふしや)」と表現します。摂(おさ)め取る。「不捨」は捨てないという意味です。摂め取って捨てないということですが、そういう三昧を、私を抱く人は得られるんだと、このように教えているんです。非常にドキッとするような教えの説き方というのをされています。愛欲のように見えるというか、愛欲的な姿がそこにそれを現しながら、その愛欲そのものがいわば浄化されていて、人を逆に救う深い宗教的な境地へと導く働きをしているという、こういう捉え方なんですよね。
 
川野:  ただ私たち生きていくうえで、欲というのは切り離せない。その中でこういう教えがあるということですね。
 
木村:  そうですね。私どもが生きていること自体が、ある一つの見方からすれば、欲望のうえに成り立っているわけですね。食欲や性欲を含めて、そういう生命欲の上に私たちの命があるわけですから、根源的というか、根本的にいうと、離れ切れるものではない。しかしそれを突き抜けると言いましょうか、心理学的な用語を使えば、「昇華する」と言いますか、そういうあり方は、私は可能ではないか。大変厳しい難しい問題ではありますけれども、そこをきちんとクリアしなければ、本当の意味で宗教的な世界へは行けないのではないかと思うんですね。大乗仏教では、しばしば「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」という言葉を言いますが、時にこの言葉は、非常に簡単にというか、観念的に迷いの心がそのまま悟りの心であるということで、だから煩悩のままでいいんだよ、みたいに言ってしまうおそれもあるんですけれども、そのような観念的な理解では、とてもこれは抑えられるもんではない。ここの善財と婆須蜜多の関わり方というのは、そういう意味では「煩悩即菩提」の本当の意味を教えてくれる。それを非常にはっきりした形で示唆を含むお話なのではないかと、そのように思うんですがね。
 
ナレーター:  五十二番目の善知識・弥勒菩薩(みろくぼさつ)は、善財童子がこれまで立ち止まることなく、さまざまな善知識から学び続けてきたことを誉め、悟りを求める心を起こすことの意義を力強く説きます。そして「君がこれまで会って来た善知識たちの境地は、文殊菩薩の威神力(いじんりき)によるのだ」と、文殊菩薩との再会を勧めます。善財は文殊菩薩との再会を念じます。すると、文殊菩薩が遙か彼方から右手を伸ばして善財の頭を撫で、その歩みを誉め労(ねぎら)います。そして「信心を離れては、菩薩道は成り立たないのだ」と言い残して姿を消します。善財が、最後の善知識である普賢菩薩(ふげんぼさつ)にお会いしたいと念じていると、大光明と共に普賢菩薩が現れます。一切の世界を照らすその姿を見て、善財は菩薩としての究極の智慧を体得します。そこで普賢菩薩は語り掛けます。
善男子よ、
汝且(しばら)く我が清浄なる法身(ほつしん)を観ぜよ。
もし衆生有りて、
我が身を見聞(けんもん)せば、
必ず我が清浄なる身(しん)の中に生ずることを得ん。
 
木村:  最後に出てくる三人の善知識として、弥勒菩薩、文殊菩薩、そして普賢菩薩と並んでまいります。先ず最初の弥勒菩薩でございますが、徹底して求道者を、修行者を導く大切な菩薩という位置づけでございまして、実際に善財はこの弥勒菩薩のもとで、大きく心が開かれると言いますか、深く一気に境地が深まっていくという、そういう場になっています。ただ弥勒菩薩が、ここで本当に強調していることは何か。それは菩提心ですね。発心(ほつしん)―菩提心を起こすことが菩薩道の出発点ですが、その点を実は詳しく説いておられるんですね。菩提心の説示が、段落の中心的な問題になっているということでございます。また次に文殊菩薩が登場してまいりますが、その文殊菩薩も、今度はスッと現れて、言葉は発せずに、遠くから遙か彼方から善財の頭を撫でて、「仏道の根幹である信―信ずることを離れては、菩薩道は成り立たないよ」ということだけを明らかにして姿を消すという形になっているんですね。
 
川野:  最初に出会って、ここで再開されて、
 
木村:  前の弥勒菩薩が、菩提心についての説示をなさいますので、それを受けて、さらにそれを支える根底にある「信」信ずることを改めて確認をされるために、お出ましになると言いますか、遠くから手を伸ばしてそれを確認されるという、そういう設定なんですね。
 
川野:  そして普賢菩薩の元へまいるということになりますよね。これが最後の善知識となりますね。
 
木村:  そうですね。普賢菩薩は、前にお話したように、文殊菩薩と並んで、盧舎那仏あるいは毘盧遮那仏(びるしやなぶつ)を支える菩薩を代表する存在ともされますが、一人を挙げるとすれば、やはり普賢菩薩が『華厳経』の菩薩の代表になるんですね。ですから、しばしば「普賢行」という言葉で、菩薩行の理想を示してもおります。ここで普賢菩薩は、いろいろな教えを説いておりますが、一番大事な点は、「発心を観ぜよ」我が清浄なる発心を観ぜよ、ということだろうと思います。「私をしっかり観なさい」という。この「観」はもちろん「観想」の「観」でございますが、こういう教えを説かれます。そしてその教えを述べる中で、私の、つまり普賢菩薩という存在を見聞きをすれば、必ず我が清らかな身体―身の中に生まれてくることができるだろうと。ともあれ、先ず普賢の名に出会うこと、名を聞くこと、そしてその身を観ることが、真に希有なことである。そしてこれは後の浄土教の思想とも繋がってくることなんですが、たとい「私を観る」と言いましても、例えば夢の中で観るということ、あるいは一日一夜でも私を念ずるということがあれば、そこから必ず菩提心を起こして、不退転の世界まで導かれて行きますよ、ということを保証されてもいるんですね。「発心を観ずる」ということが、最終的に普賢菩薩が勧める実践として注目をしなければいけないものだと思われます。
 
ナレーター:  求道の旅を終えた善財童子。最後に普賢菩薩は、善財が必ず悟りを開くだろうと告げます。
 
此の法を聞きて歓喜(かんぎ)し、
信心ありて疑うこと無きものは、
速やかに無上の道(どう)を成(じよう)じて、
(もろもろ)の如来と等しからん。
 
仏の教えを聞いて歓び、信心を起こし、疑いを捨てるものは、速やかに仏の悟りを完成し、仏たちと等しい境地に到達するだろう。
 
川野:  なるほど。このような言葉で締め括られるわけですね。
 
木村:  そうですね。この言葉が一番最後に出てくる詩句になります。これを含む全体の詩という言いますのは、位置づけとしては、普賢菩薩ご自身が説かれるということでもあるんで、普賢菩薩の教えの集約であると同時に、『華厳経』全体の教えを締め括るものでもあると、そのように捉えていいのではないかと思います。法を聞いて歓喜(かんぎ)―大喜びをし、そしてこの教えに対して信心を持ち、疑うことがないものは、必ず速やかに無上の道(どう)―究極の仏の悟りのことです―それを完成をして、仏たちと同じ境地に到達するのであると。こういう意味合いになるわけですね。ここでもやはり先ほどの弥勒菩薩から文殊菩薩へと、菩提心、さらにその根底にある信の問題について説かれておりましたが、改めてこの信心が根底にあることが確認されている。そしてその信心に則って教えを聞き、菩薩道を行じていけば、必ず仏と同じ境地に達するというか、自らが仏となるのだよ、と、こういう約束をされているということだと思うんですね。例えば日本の浄土真宗を開かれた親鸞聖人も大変大事にされておりまして、『教行信証(きようぎようしんしよう)』という章でも引用されておりますが、お手紙の中でも、例えば「信心喜ぶ人は諸々の如来と等し」というような言い方で、この教えを深くご理解をされていると思います。ちょっと読み方が、「此の法を聞きて信心を歓喜して」というように、切り方を変えて読まれているんですが、これはやはり親鸞聖人のお立場では、信心に歓ぶ、信を歓ぶという、そこにこそやはり宗教者としての原点があるという捉え方を明示するものとして、この経文を受け止められたんだろうと、そのように思います。どっちにしても、この『華厳経』自身も、信心がある、信心をもつことが、菩薩道完成の根本的要件であるという立場を、最後に確認をしているということになろうかと思います。
ナレーター: 
此の法を聞きて歓喜(かんぎ)し、
信心ありて疑うこと無き者は、
速かに無上の道(どう)を成(じよう)じて、
(もろもろ)の如来と等しからん
 
木村:  まあ信の問題が表に出るわけですが、私はやはり前にこれもお話したと思いますが、やはり願いというもの、例えば「浄行品(じようぎようぼん)」に表れる願いの世界がなければ、本当の信というのは根付かないというのか、生まれてこないだろうと、そのように思いますので、やはり「願と信」願いと信心、ここが根底になる。「入法界品」の構想に則して言いますと、そこからさらに願いをもつのも、先ほどの自己を深く反省する、懺悔するということと、ちょうど表裏の関係にもなっていると思うんですが、そういうあり方のもとに生きとし生けるものの安らぎを目指して、真摯に、しかし着実に歩んでいく。そのためにはやはり善知識との出会い、善き師との出会い、善き友との出会いが基本になるわけですよね。その願いを善知識との関わり交わりを通して、その教えを受けることを通して、しっかりと進んでいく。これが菩薩としての生き方であり、それが悟りの完成に真っ直ぐに繋がっているんだ、ということを、結局「入法界品」は善財童子の求道の物語を通して明らかにしようとしているのではないかと思います。
 
川野:  お話のように、今回は、善財童子の求道の旅を見てまいりました。文学的香りが高く、そしてストリート性が豊かで、非常に興味深い内容ということがおわかり頂けたかと思います。さて六回にわたってお送りしておりますこのシリーズ、次回第五回は、「教えを慕う人々」と題してお送り致します。東アジア世界で『華厳経』の教えを受容し発展された人々の姿。日本では鎌倉時代『華厳経』の教えの再興に尽くした明恵(みようえ)についてなど、如何に教えが受け継がれてきたのかをお話頂きます。どうぞお楽しみに。木村さん、今回どうもありがとうございました。次回もよろしくお願い致します。
 
     これは、平成二十六年七月二十日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである