さとりへの道―『華厳経』に学ぶD教えを慕う人々
 
                 東京大学名誉教授 木 村(きむら)  清 孝(きよたか)
                 き き て    川 野  一 宇
 
ナレーター:  仏教の「経」は、釈尊の言葉を伝えるものとされています。大乗仏教が展開していくなか、『華厳経』は、釈尊の悟りの世界を映し出すものとして生まれました。『華厳経』は、釈尊が悟りを開いて、すぐ菩薩に説いたものと解釈されていました。それは仏道を志す人々にとって、憧れの経典とも言えるものでした。『華厳経』は、四世紀末から五世紀初頭に、西城(さいいき)(現在の中央アジア)で編纂され、八世紀に日本に伝わりました。今回は、中国、朝鮮半島、日本において、華厳の教えを人々に伝えてきた求道者(ぐどうしや)たちの姿を見ていきます。
 

 
川野:  川野一宇です。「こころの時代」さとりへの道―『華厳経』に学ぶ。お話はいつものように東京大学名誉教授木村清孝さんです。今回もよろしくお願い致します。
 
木村:  よろしくお願い致します。
 
川野:  今日のテーマは、「教えを慕う人々」です。
 
木村:  これまで『華厳経』の内容につきまして、いろんな観点からお話をしてまいりました。その『華厳経』は、既に申し上げたように、おそらく西暦四百年前後に、西城(さいいき)のコータンの辺りで纏められたものであろうと思います。今、こうして私どもが、その『華厳経』の教えに触れることができる、ここまで届いているというのは、どうしてなのか。どういう人たちの力がそこにあったのか、ということを、しっかりとトレースしてみたい、そのように思うんですね。勿論私どものもとにこうして届いているその力、担い手としては、先ず『華厳経』を翻訳・漢訳し、そしてそれを説き広めて伝えてきてくれた人々、そういう僧侶たちがおられますが、合わせてその動きと言いますか、そういう活動を支えた―外護者(げごしや)と纏めればいいかと思いますが―財政的に、あるいは政治的な面も含めてサポートしてくれる人々ですね、そういう力のある人たち。さらにはその信仰的な面から、これに帰依をする、華厳の教えを学び帰依をしていく、そういう多くの一般の民衆の人々。そしてそういう『華厳経』を広める活動を参加をし手伝いをする。こういう役割を担う一般の人々、そういう方々の力も大きいだろうと思うんです。ですから今回は、この漢訳の『華厳経』を通して広まりました東アジア世界―中国、朝鮮半島、そして日本において、『華厳経』の教えを慕い、それを明らかにし、広めていった人々の中から、代表的な人たちを取り上げてお話を進めさせて頂きたいと思います。
 
川野:  それでは今回の番組の要点を挙げたいと思います。ご覧ください。
『華厳経』はどのように伝えられてきたか。
一、華厳宗の形成と展開 中国
二、華厳の風土     朝鮮半島
三、伝統と新生     日本
 
というふうに、三つに分けて、お話をさせて頂きます。先ず一つ目、中国では、華厳宗がどのように形作られ展開してきたのでしょうか。そのお話です。
 
ナレーター:  華厳宗は、『華厳経』を最高の経典とし、その思想を研究する、いわば学派のことです。『華厳経』は、中国に伝わってから約二百年の間重要な経として研究されました。そして唐の時代に華厳宗が誕生したのです。華厳宗を形作っていったのは、杜順(とじゆん)(557-640)、智儼(ちごん)(602-668)、法蔵(ほうぞう)(643-712)、澄観(ちようがん)(738-839)、宗密(しゆうみつ)(780-841)、偉大な功績を讃え五祖(ごそ)と呼ばれています。第二祖智儼(ちごん)は、華厳の教えを体系的に理解する教学を基礎づけます。それを第三祖の法蔵が宗教思想として完成させます。やがて第四祖澄観が現れ、時代の流れに応じて改革しました。そして第五祖宗密は、禅の流れを柱に中国の思想全体を統合する方向を、初めて明確に打ち出します。華厳宗から新しい時代の仏教へと繋げていきました。華厳宗を基礎づけた第二祖智儼(ちごん)は、六○二年に天水(てんすい)(現在の甘粛省(かんしゆくしよう))に生まれました。十二歳で杜順(とじゆん)に随い、十四歳で正式に出家して仏道を歩み始めました。智儼(ちごん)と『華厳経』の出会いのエピソードがあります。智儼は、当時中国の仏教界における主要な学問だった『十地経(じゆうじきよう)』やさまざまな経典の注釈書を一通り学びますが、心のより所を見出すことができませんでした。そこで仏になった後、数ある経典の中から、ふと手にしたのが、『華厳経』だったと言われています。その後智儼は、『華厳経』の研究に打ち込み、二十七歳の時、注釈書『捜玄記(そうげんき)』を書き上げました。そして長大な経典全体を見渡し、他の経と比較検討する教判(きようはん)(教相判釈)に取り組みます。『華厳経』独自の価値を見出していきました。智儼は、主に都長安(ちようあん)の喧噪(けんそう)を離れた終南山(しゆうなんざん)で修行を続けました。後年は長安に出て僧侶たちの教育に当たります。人生を通して、『華厳経』の教えに向かい合った智儼の言葉です。
 
仏となるということは
仏となり続けていく
ということなのだ
 
川野:  この智儼という方の存在は、『華厳経』の伝承という上では、どのくらい重要だったんでしょうか?
 
木村:  智儼は、ですからその基礎づけということになりますけれども、やはり智儼の働き、いろんな智儼は模索的にと言いましょうか、仏教者としてより真摯(しんし)に仏道を求めるという、そういう姿勢の中で、基(もと)になるさまざまな華厳の教えにとって重要な要素を取り出し、そして一定の纏め方をしていらっしゃるとそう考えていいと思います。
 
川野:  先ほど出てきました「教判(きようはん)」という言葉なんですが、これはどういうことなんでしょうか?
 
木村:  そうですね。「教判」と申しますのは、日本で生まれた言葉なんですけれども、実は中国の仏教というのは、実際に中国語に翻訳をする、漢訳をすることでスタート致しますが、それが大体紀元後二世紀くらいからでございます。二世紀と申しますと、インドでは、大乗仏教が生まれている時代なんですね。釈尊の時代からは、四、五百年は経っていることになります。そう致しますと、その間にインド仏教独自の展開をしているわけですね。その中でさまざまな経典も生まれてまいります。そうしますと、受け止める側、受容する側の中国の人々にとっては、このお経が、釈尊が、いつ、どういう意図のもとに、どういう人たちを対象にして説かれたものなのか、ということを、きちんと整理をして、理解をしないと、混乱をすることになりますよね。釈尊の教えに矛盾があるということは、信仰者の立場としては、これは絶対にあり得ない話でございますので、そのいわば仏説全体をきちんと整理し体系化する、その手法・手段として、この教判というものが生まれた、ということなんですね。実際彼が行った教判―結論だけを申しますが、その体系的な理解の中では、『華厳経』は、「円教(えんきよう)」―円かなというのは、完全なという意味なんですね。完全されたと、そういう意味でございます。「完全な教え、欠けるところがない教えである」という位置づけをする。そういう教判と、もう一つは、「一乗(いちじよう)」と言いますが、すべてのものが、すべての人たちが同じように救われていく、あるいは仏となって生きる。そういう教えを説いているお経であると、こういう理解をしております。『法華経』とちょうど対比するんですが、『法華経』がすべてを包摂(ほうせつ)する方向で教えを救いの問題を明らかにしているのに対して、『華厳経』はいわば超越的にと申しますか、そういう視点から、その救いの道を明確にしていると、こういう意味づけをする教判を晩年には打ち出しております。
 
川野:  木村さん、そうしますと、華厳の世界というのを、智儼はどうみていたんでしょうか?
 
木村:  そうですね。既にこれまでに触れましたように、『華厳経』には、いろいろな形で世界観と呼べるものが出てまいります。それをどのように体系的に示すかというのが、『華厳経』の一つの役割にもなったと考えられるんですが、私は、智儼が先ず一番根底的に押さえていたのは、やはり唯心の世界―心が作る世界として縁起する世界、縁起世界の全体を捉えようとしている。その縁起世界のありようとしては、決してあらゆる物事が、ばらばらのものの集積ではない。本来的に繋がり合っている、一体的である、そういう形での縁起の世界の捉え方というものをしていると思います。例えば『華厳経』の中に、既にご紹介をしたように、
 
微細(みさい)世界即ち
是れ大世界なるを、
大世界即ち
是れ微細世界なるを、
・・・知らんと欲す
(初発心功徳品)
 
という経典の言葉がありましたけれども、これは「小と大」「大と小」、空間的な観点から説いている経文ですけれども、そういった世界のありようというものを、より多角的・多面的に大きな縁起の世界として明らかにしようとした。その根底にはやはり唯心(ゆいしん)という捉え方、押さえ方があると、そう考えていいかと思います。こうした考え方、ほぼ智儼が作り上げていますけれども、その後の法蔵や澄観(ちようがん)は、これをより精密な論理的かつ体系的な思想として完成させていくという、こういう方向をとると考えていいと思います。
 
川野:  どんなふうにですか?
 
木村:  そのもっとも代表的な押さえ方の例が、言葉としては「事事無礙(じじむげ)」という言葉で表現されているものなんですね。「事柄と事柄との間に障害がない」ということで、「一つの物事と他の物事の間に本来的に互いに通じ合うもの、関わり合うもの、もっと言えば相即的なものをもっているんだ。常に働き合っているんだ」という、こういう捉え方なんですね。具体的な例を一つだけ申し上げますと、例えば家族で―お父さんお母さんがいて、子どもさんが一人二人いるという、そういう場をちょっと頭に浮かべて頂くといいんですが、この「無礙」を表す一つの形として、「主伴無礙(しゆばんむげ)」と申します。普通家庭は、主人という言葉が示すように、しっかりと生活費を家庭に持って来てくれるお父さん―今はもうお母さんの場合もありますけれど―かつての状況で申しますと、お父さんが給料を頂いて、生活を支えるという場合を例として考えますと、やはり家族の柱は主人であると。お父さんであるということになりますよね。そういう形で固定的に、私たちは普通捉えるんですけれども、実は働きの面、具体的な物事がどう展開していくか。例えば家庭のありようがどう展開していくか、というところで押さえていきますと、例えばお母さんがお料理を作って、みんなに「はい。今日はこれですよ。こんなご馳走ですよ」と出してくださる。その時には何と言ってもお母さんが主人公。みんなそれに注目するわけですから、主人はお母さんなんですよね。また食事をする中で、子どもさんが、「今日、学校でこんな面白いことがあったよ」と話をすると、お父さんもお母さんもしっかりと耳をそばだてて聞きますよね。その時には子どもが主人なんですね、主人公なんです。だからまさに主人公が変わるんですね。決して中心になるものが固定していて、周りにいるものが決まっているということではない。物事はまさに活性と言いましょうか、大きくダイナミックに展開をしていく。それが物事の本来的な関わり方なんですね。それはやはりお互いが理解しあえている。つまり唯心的に心が通じ合っている世界がベースにあるから、それがまた可能なんだと思います。それを物事のありよう、関わり方、全体に広げてちょっと抽象的に表現をしますと、「事事無礙」ということになるんだと思います。
 
川野:  なるほど。家族を例にとってお話頂きますと、華厳の教えがずっと身近になってきたような気が致しますね。この華厳の教えですけども、「智儼により理論的に基礎付けられて、法蔵によって大成された、と言われる」というお話ですけれども、その第三祖である法蔵という方は、どんな方なんですか?
 
木村:  法蔵は、第三祖という位置づけをされておりますが、生まれは実は中国で生まれていらっしゃるんですけれども、その血筋を辿りますと、かつての昔ありました康居国(こうきよこく)と呼んでいますが、サマルカンド地方の部族から中国へ帰化をした、そういう先祖の血を受けていると、そのように言われております。おそらく彼の非常に綺麗に非常にスケールの大きな理論の体系化を進めていくんですが、その点からみても、なんかそういう血筋が関係しているのかなという気も致します。この法蔵のことにつきましては、いくつかの押さえるポイントがありまして、一つは、則天武后(そくてんぶこう)(中国史上唯一の女帝。唐の高宗の皇后となり、後に唐に代わり武周朝(ぶしゆうちよう)を建てた)との繋がりが深いと。一種のブレーンの一人という、そういう押さえ方をされてきた面があります。それから一番古い伝記資料では、むしろ智儼は、「翻訳大徳(ほんやくだいとく)」と言っているんですが、直接には『華厳経』が、後に八十巻本の『華厳経』いわゆる『八十華厳』ができますけれども、その『八十華厳』の翻訳に参加したことも間違いないんですね。それ以外の翻訳にも関わっております。そういうことで翻訳者としての側面というのもございます。それから智儼は祈祷ですね、例えば日照りの時に雨を乞う、そういうことでも力を発揮したと、こういうところもありますし、それからもう一つ、社会的な勢力の拡大ですね、華厳宗が社会的勢力をもっていく上で主要な町々に「華厳寺」というお寺を―華厳の教えを柱とするお寺を作ったという、こういう側面もあるんですね。この『華厳経』の教えをどう大成したかという点から申しますと、先ほど申し上げた智儼の教えを受けて、それをより綿密に整理をしていく、体系化をしていくということで、それは一言で、例えば「従果向因(じゆうかこういん)」と言うんですが、要するに仏の世界の側から、現実の縁起の世界、私どもの世界を見ると言いましょうか、仏の眼で捉えると言いますか、そのような視点というものが強く働いた形での体系化なんですが、そういう形でともかくここで「華厳経学」は、一応の完成を見るということになるわけですね。その一つの例だけをご紹介致しますが、
 
(しよ)は毛端(もうたん)をもって
法界を該(か)
(じ)は刹那(せつな)をもって
劫海(ごうかい)を尽くす
 
という言葉があります。「処」というのは、場所という意味ですね。この場所という点に関して言えば、毛の先が、「法界」―宇宙全体と申しますか、真理の世界全体を該(か)ね包んでいるということが言えるし、時間という問題に関していうと、「刹那」一刹那ですね、ほんの短い時間、一瞬の時間の中に、「劫」は長大な数えきることができないくらい大きな長い時間を、そこに全部注ぎこむと言いますか、全部をそこに集約をしている。このような言葉を残しております。こういう非常に印象に残る綺麗な表現を使いまして、先ほど触れました、相関あるいは相即の世界の物事の関わり方というものを説いているわけですね。時間や空間の捉え方というものも、私どもは一つの範疇として、縦軸横軸の枠組みで捉えるわけですけれども、そうではない一瞬の、いわば絶対的な意味と言いますか、いわば「一と無限」と言ってもいいですが、「特殊と普遍」その一体性ですね、本質的な一体性というものを非常に明確に理論化していると、そう言ってもいいんじゃないかと思います。
 

 
ナレーター:  華厳の教えは、朝鮮半島にも広まります。それを担ったのは、新羅(しらぎ)から智儼のもとに学びに来ていた僧でした。新羅の僧・義湘(ぎしよう)(625-702)。唐に留学し智儼のもとで『華厳経』を学んだ後、新羅に戻り、その教えを広めました。七世紀、朝鮮半島では、新羅と唐の連合軍が百済(くだら)と高句麗(こうくり)を滅ぼし、統一新羅が生まれました。義湘は、荒廃した国土に生きる人々が救われるために華厳宗を広めました。この時義湘が重んじたのは、智儼から受け継いだ「一乗の思想」、そして「利他の精神」でした。これは、義湘が思想の集大成として表したと言われる「華厳一乗法界図(けごんいちじようほつかいず)」。七言三十句、二百十文字からなる詩に、すべてのものが救われていく真実の世界が表されています。義湘自身が、この詩について語ったものは残っていませんが、後の人々は意味を読み取ろうとしてきました。詩のすべての文字は、一本の線で繋がっています。その意味は、仏、菩薩の救いが完全であり、衆生がどんな性質であっても、悟りへの道が開かれていることだ、と言われています。もう一つの特徴は、全体が四角四面に分かれていること。菩薩の実践としての「布施(ふせ)・愛語(あいご)・利行(りぎよう)・同事(どうじ)」の四摂法(ししようぼう)。また「慈しみ・悲(あわれ)しみ・喜び・捨てる心=平等心」と言った四無量心(しむりようしん) を意味しているとも言われています。義湘は長大な教えの神髄を二百十文字に凝縮することで、華厳の教えが人々に広まることを願ったのです。この義湘と共に智儼に学んだのが、中国華厳宗第三祖の法蔵でした。法蔵が、兄弟子の義湘への敬意を表した言葉が残っています。
 
宿世(すくせ)の同因(どういん)、今生(こんじよう)の同業(どうごう)
(よ)りて此の報を得、
(とも)に大経(だいきよう)に沐(うるお)い。特に先師の
この奥典(おうてん)を授くるを蒙(こうむ)
 
過去の世も今生も、私とあなたは同じ師匠の下で学んできました。今、私とあなたは、このような親しい関わりを持つことができています。共に『華厳経』の教えに身を潤し、師である智儼が、この奥深い経典の教えを、私どもに授けて、今生きる糧となっています。
如来の滅後、仏日(ぶつじつ)を光輝(こうき)し、
再び法輪を転じ、
法をして久しく住(じゆう)せしむるは、
其れ惟(た)だ法師(ほつし)なり
 
如来、仏様が亡き後、仏という太陽を輝かせ、再び世界に教えを広めていく。そしてその教えを久しくこの世に留めさせるのは、あなたをおいてはありません。
 
川野:  法蔵から義湘宛ての手紙が残っていて、
 
木村:  そうなんですね。如何に法蔵が義湘に対して、深い敬愛と言いますか、敬慕と言いますか、さらには尊敬の念、それを持っていたかということがわかって頂けるのではないかと思います。この後に、この手紙では、実際には自分が書いた著書などにつきましても報告をして、また教えてくださいという、そういう意味の文章を添えてもいるんですね。そんなことで、義湘が如何に華厳の教えを体得し、広めて深いところで理解し、それを広めていくうえで、大きな力を持った人であったかということが、この手紙からも推測できるわけですよね。実際に、義湘が、どのように『華厳経』を広めたのかということですけれども、これには実は社会的な背景で言えば、ちょうど三国に分かれていた朝鮮半島が、新羅によって統一される。その統一には、実は唐の力が大変大きい。中国の唐が大きな役割を果たすんですが、その力を借りながら、新羅が全土を統一をする。そしていわゆる「統一新羅」と言われる時代が始まった頃なんですね。その頃にこの華厳の教えを広めていくという役割を担うわけでございます。新羅へ戻ってから、おそらく当時の新羅王朝のバックアップがあったと思いますが、いくつものお寺を造っていきます。その中でまた併せて多くの弟子たちを育てていくんですね。あまりこれも身分に関係なく、いろんな階層の人が弟子になっているようですね。そういう弟子を育てるということ、これは確実なことだと思います。その弟子の時代、孫弟子の時代ということでどんどん華厳の教えが広がっていって、今日の要点に掲げました「華厳の風土」とも言えるような、非常に華厳の教えが浸透するようになっていった、ということがわかるんですね。そのいわば大本に位置するのが、この義湘であるということです。
 
川野:  「一乗法界図」を、義湘が作ったのは、どういう目的があったんでしょうか?
 
木村:  そうですね。先ほどこれもご覧頂きましたように、七言三十句、二百十字という大変短い詩句でございまして、独特な描かれ方がしているわけですね。この「一乗法界図」という短い詩の中に、私は、この義湘は、自分の仏教観のすべてを注ぎ込んでいると言いますか、そこに集約的に示していると、そのように捉えていいのではないかと。いわばこの「一乗法界図」を通して、私の仏のいのちと言いますか、仏法を受け継いだ、継承したものとしての私のいのちはすべて注ぎ込まれているから、それをしっかりと受け止めることによって、そのいのちは繋がっていくんだよという、こういう思いがあったのではないかなと、そのようにも思うんですね。なお、この「一乗法界図」は、別名「海印図(かいいんず)」とも申します。これはおそらく華厳の教えの根底には、「海印三昧」という、仏の深い瞑想の境地がある。その世界からすべての存在の世界、あるいは一乗の教えが生まれているんだと、こういう捉え方があるんですね。特に義湘の場合には、仏の教えの中に現れてくるあらゆる認識される存在の世界、そのすべてがこの「海印三昧」から顕れているんだと、顕現しているんだという、こういう捉え方をしますので、おそらく「一乗法界図」を、ある種の観想すれば、ということなんでしょうけど、捉えることによって、あるいは体験的にそれを観ることによって海印三昧の世界を窺うことができる。こういう意味をもしかしたら、思いというか、願いも込められているのかも知れません。
 

 
ナレーター:  韓国南東部にある世界遺産伽耶山(かやさん)海印寺(かいいんじ)(ヘインサ)。この寺は、義湘が華厳の教えを広めるべく建てた「華厳十刹(けごんじつせつ)」と呼ばれる寺の一つです。重要な仏典を網羅する「八萬大蔵経」で知られています。義湘は、海印三昧(かいいんざんまい)こそ悟りの世界の源であると考えていました。
 
釈迦の教えに収めとられる
すべての存在の領域は
大海が周りの一切のものを
映し出すような
仏の深い瞑想の世界
海印三昧から顕れているのだ
 
義湘の「海印図」は、この寺の一角に、このように映されています。ここを歩くと、祈りと信仰が深まり功徳があると親しまれています。義湘が伝えた華厳の心が、今も人々に安らぎを与えています。
 
木村:  これも一つの継承の仕方、いわば頭で理解しなくても、わからなくても、歩くことを通して、何か体験的に―身体が知ると言いますか、味わうと言いますか、そういうことを願って作られている場ではないかと。一種の聖域だと思いますがね。そういうものが海印寺にはあるんですよね。この海印寺もまた曹渓宗(そうけいしゆう)(現在、韓国で仏教最大の宗派)のお寺でございますが、この曹渓宗の基礎を作った人が、高麗の時代の知訥(ちとつ)(高麗中期の僧。韓国仏教界で現在最大勢力を誇る曹渓宗(大韓仏教曹渓宗)の宗祖である)という方です。知訥(ちとつ)が曹渓宗の基を開いておりまして、この一つの思想そのものも、単に禅宗―禅の系統ではあるんですけども、華厳と禅とが融合した形の特色をもっている。だから日本の禅宗とは、そういう意味では大分中身が違うということになるんですけども、この曹渓宗にもそういう意味で華厳の伝統―海印寺を含めて曹渓宗という宗派の中にも、華厳の伝統が現に生き続けている、ということが言えると思います。合わせて実はほぼ同じ時代に、元暁(がんぎよう)(617-686)という方がいらっしゃいます。華厳の教えを広めるという点でも、大きな役割を果たしていますが、義湘さんがある意味で正統的なというのか、高僧あるいは清僧としての生き方を貫く中で広めていくのに対して、元暁さんは非常に自由に、まさに無礙と言ってもいいんですが、やがて彼は最初出家するんですけども、やがて還俗(げんぞく)をする―俗人に還るということで、結婚し子どもさんも設けている。そういう生活をし、また学者としてたくさんの注釈書等を書きながら、併せて瓢箪に「無礙(むげ)」という名前を付けて、それを担いであちこちを廻って、人々に華厳一筋というよりも、もっと広いところで仏教の教えを、特に民衆一般の人たちに対しては、念仏を中心にする浄土の教えと言いますか、これを広めるという役割を担っているんですね。
 
川野:  それではいよいよ日本には、どのように伝わってきたのか、見てまいります。
 
ナレーター:  日本に、『華厳経』が伝わったのは、奈良時代の七三六年だとされています。聖武(しようむ)天皇は、七四三年、国の安寧(あんねい)を願って、『華厳経』の教主盧舎那仏(るしやなぶつ)の像を造ることを発願(ほつがん)します。一枝の草、一握りの土でもいい華厳の教えのもとに、人々が心を一つにすることを願ったと言います。その後東大寺は、総国分寺としての役割を担うようになります。学僧たちが集まり、仏教研究の中心的な場ともなりました。しかし奈良仏教に陰りが見え始めます。平安初期に、天台宗、真言宗が興り、さらに平安時代末期から鎌倉時代にかけて浄土宗や禅宗などが興って、華厳宗などの奈良仏教は影響力を弱めていきます。こうした激動の時代に、華厳の教えによる仏教の復興に尽くした一人の僧がいました。明恵(みようえ)です。明恵は、一一七三年、現在の和歌山・有田に生まれました。八歳の時、両親を亡くします。明恵は、親類を頼って京都の神護寺(じんごじ)に入りました。これは明恵が肌身離さず持っていたという「仏眼仏母像(ぶつげんふつぼぞう)」です。右端に明恵自身の書き込みがあります。
 
モロトモニ
アハレトヲボセ
ミ仏ヨ
キミヨリホカニ
シル人モナシ
 
早くに親を亡くした明恵は、釈尊を父とし、仏眼仏母を母として、生きるよすがとしていたとも言われています。十六歳の時、東大寺戒壇院(かいだんいん)で僧侶となります。しかし二十代前半で、一人修行に勤しむべくここを去ります。そして生まれ故郷の紀州に戻り、釈尊が生きた天竺(てんじく)の方に向けて小さな庵を構えました。明恵は自らの心を静かに見つめた釈尊のように、一人瞑想に耽(ふけ)りました。『華厳経』の教えにある菩薩の実践を続けたのです。そしてある日、明恵が瞑想していると、眼の前に金の獅子に載った文殊菩薩が出現します。明恵二十四歳の時のことでした。この経験の後、三十代半ばには、明恵は再び京都に戻り、後鳥羽上皇(ごとばじようこう)から華厳宗興隆の院宣(いんぜん)を受けます。その後自らが修め学んできた華厳の教えをより多くの人々に伝えることに力を注ぎます。しかし戦乱の後のこの時代、不安に充ちた人々の心は、法然の説く浄土宗など新しく説かれた仏教に集まり始めていました。それに対し明恵は、『摧邪輪(ざいじやりん)』を著して、「浄土門は菩提心を否定している」と批判します。そして口で称える「口称念仏」に対抗する意図もあってか、仏・菩薩をイメージして瞑想する「憶念(おくねん)の教え」を強調しました。これは、明恵が「憶念の教え」を著したものです。中心が華厳三聖(さんしよう)―文殊菩薩・毘盧遮那仏・普賢菩薩の名が記されています。そこに私たちの心の本質と憶念の教えが一本の線で繋がれています。さらに下段には修行者に対する説法とも言える明恵の言葉が記されています。
 
若しは修行者にして
大菩薩心を求める者は
遠く求むるに
労すること無かれ
但、自ら一心を浄めよ
 
心を浄め続ける努力があれば、必ず菩提心を確立し、仏道を完成することができるという、明恵の確信と強い決意が込められています。
 
川野:  今、ご覧頂いたように、鎌倉時代と言いますのは、新仏教が広まってきて、それに対抗する動きが一方では出てくると、そういう時代ですね。
 
木村:  そうですね。武士の時代になっていく。そういう大きな転換点の中で、いわゆる新仏教運動が興ってくるわけですね。勿論これも後世伝えられるほどに、一気に爆発的にどんどん新仏教が出てきて、社会的勢力が大きくなったというわけではありません。そうではないんですが、やはり新しい一つの動きとして、伝統仏教の側からも無視できないものがいろいろあったわけですよね。華厳の教えというところで捉えますと、それを本格的に、本気で再興を目指したのが明恵さんであった、ということになるかと思います。そういうことで、明恵さん自身は、もともと真言宗のお寺で―神護寺で僧となっておりますので、その因縁もあって真言の教えには、あるいは儀礼には親しんでおられたかと思いますが、それと併せて華厳に、東大寺にこれは入って正式の出家をしますので、そのこともあって、華厳の教えにも若い頃から親しんでいたと言えると思います。
 
川野:  明恵さんは、ご自分の論をどのように展開されていったんですか?
 
木村:  そうですね。明恵は、特に前半生―若い時代には修禅―禅を修める、瞑想に徹するという方向性が強いんですね。ただある時期から学問の方にも随分力を入れるようになります。そして一つの実践的な面で大きく変わってくるのは、『摧邪輪(ざいじやりん)』を著した後ですけれども、唐代の李通玄(りつうげん)という独自の『華厳経』理解をした人の『華厳経』注釈書に触れまして、そこから仏光観(ぶつこうかん)という―仏の身から放たれる光を観想して宇宙大に広げていくような観法なんですが、そういうものを学びとる。それを勧めるということをされています。そしてさらにもう一つ展開をしていきますと、つまり晩年に近くなってきますと、「厳密一致」とも言いますけれども、真言と華厳と融和されるような、そういう世界ですね。しかもそれは極めて単純な、例えば「光明真言(こうみようしんごん)」という密教の方でもっともよく使われる真言がございますけども、非常に短い真言ですけれども、その光明真言を用いた「土砂加持(どしやかじ)」と言いますが、死者にその真言を称えることを通して、土砂をそれにかけて称えるんですが、そういうことを通して死者を安らぎの世界へお送りするということですね。そんな儀礼なんかも行って勧めておられますね。そういう真言、華厳を併せて学んでいく中で、最初にやはり大きな波紋を広げたのが、法然上人の『選択本願念仏集(せんじやくほんがんねんぶつしゆう)』だったわけです。それを受けまして、いわゆる伝統仏教の側からは、いろんな反論が出てくるんですけれども、本格的には明恵も、その『選択本願念仏集(せんじやくほんがんねんぶつしゆう)』に対して本格的な反論の書を書いているわけですね。それが『摧邪輪(ざいじやりん)』と呼ばれるものでありまして、法然が説く念仏の教えというのは、菩提心という、いわゆる菩薩道を歩んでいくうえで根幹になるその菩提心を否定しているのではないか、ということが、一番大きな反論のポイントなんですが、そういうところから非常に激しい反論書を著されています。ただ中身を見てみますと、どうも二人の仏教観、それぞれが立っている視点、あるいは仏道の歩みなり、仏という存在の捉え方というところで、少し違うものがありまして、それがこのような形の一種の外から見れば、論争のようになっているかと思いますが、どうも根幹にある部分で見てみますと、似ているところも実はあるんですね。一例だけご紹介を致しますと、例えばこれ明恵さん、これはお弟子さんが書いた伝記の中に出てくる言葉なんですけれども、
 
仏法に入ると云ふは
(まこと)に別のことなり
仏法に能(よ)く達したりと
(おぼ)しき人は、いよいよ
仏法うとくのみ成るなり
 
という言葉がございます。これに対しまして、法然の言葉の中には、
 
念仏を信ぜん人は、
たとい一代の法を
よくよく学すとも
一文不知の愚鈍の身になして
尼入道の無知のともがらに
同じうして、
智者のふるまいをせずして、
ただ一向に念仏すべし
 
という念仏についての教えがございます。おそらくいわば「信」といいましょうか、「信の純粋性」というんでしょうかね、先ず仏法に対する絶対的信頼がありますよね。これは明らかに共通的に根幹にあるものだと思います。本当の意味で「信仰に徹する」ということは、どういうことなのか、ということですよね。そういう点で、何か質的に共通するものが、これらの言葉からも感じられるのではないか、そのように思います。
 

 
ナレーター:  新しい仏教の展開の中でも、東大寺は学問の場として重要な地位を保っていました。そこで明恵に少し遅れて華厳の教えを受け継いだ人がいます。凝然(ぎようねん)(1240-1321)です。凝然は、華厳、天台、律など、あらゆる分野の仏教を習得した高僧でした。凝然は、伝統が崩れていた仏教界において、戒律を柱にした本来の仏教の再興に力を尽くしました。その頃、東大寺の僧によって書かれた『華厳宗祖師伝』です。『華厳経』の成立以来、教えを伝えてきた人々の名と功績が記されています。京都にいた明恵の弟子に協力を求めて纏めました。華厳の教えを慕い伝えようとした僧たちが、寺の枠を超えて手を携えていた姿が見えてきます。また東大寺は、三度にわたり焼失しましたが、再建の陰には常に多くの民衆の力と思いがありました。そのように時代が移り変わるなか、僧侶や民衆などさまざまな人が教えを慕い、『華厳経』は今に伝えられているのです。
 
川野:  今回は、この『華厳経』の教えを慕う人々の姿を見てまいったわけですね。
 
木村:  そうですね。今回取り上げました人だけに絞りまして、ほんのわずかしかご紹介しておりません。むしろ本当の意味で華厳を慕い、華厳の教えに心酔と言いますか、一つになっていくような、そういう人たちがたくさんおられたんじゃないか。もうほんとに静かに山に入って、ひたすらその道を究めようとしたという方も、歴史に残っていない人たちも、もしかしたら何人もいたかもしれないんですよね。しかしともあれ今、私どもが知られる範囲で見落としてはいけないという人たちを、今回は―私の好みもありますけれども―取り上げさせて頂いたということでございますが、ともかくこうして振り返ってみてもわかるように、例えば先ほどの法蔵から義湘に宛てた書簡「賢首国師寄海東書(けんじゆこくしきかいとうしよ)」にしましても、それから明恵がこのおそらくアイディアを作り、もしかしたら言葉書きもそうだったかも知れないと言われる「華厳宗祖師絵伝」がございますが、これも明恵の義湘に対しての非常に深い敬慕ですね、自分の行為を見習いたい先輩として義湘を見ている。非常に密接な人と人との肝胆相照らすようななんか繋がりみたいなものを感じさせますよね。だからこう仏教の教え、華厳も含めて仏教全体もそうだと思いますが、やはり国境を越えると言いますか、あるいは民族を越える、人と人との違いを越えるものを持っていますし、その世界へお互いが入っていくことができる、遊ぶことができる。そういう大きな世界なんだということを、先ず私ども確認できたんではないかと思います。そしてそれを作ってきた人たちが、単に具体的な一人ひとりの個人よりも、もっと大きなそれを支える人々がたくさんいた。そういう人たちの力が集まって、初めてそれができてきている。伝統が受け継がれてきている、ということを忘れてはならないだろうと、そのように思います。それからこの流れをまたこれまで見てきましたように、『華厳経』の教えにも、そして『華厳経』の教えを受けて理論化していった、体系化していった、こういう慕う人々のその思想の中に、私どもが学ぶべきもの、その学ぶことを通して、これからの世界に繋いで生きるものですね、あるいは今の問題を課題を解決していけるようなヒント、こういうものがあるんだと、私は思っております。それをやはりしっかりと見て、次の世代に繋いでいく、そんな役割も私たちの大事な仕事の一つではないかと、そう思っております。
 
川野:  今回は、第五回、次回はいよいよ最終回の第六回になります。次回は「今、ここに出会う」、どうぞお楽しみに。木村さん、どうぞ次回もよろしくお願い致します。どうもありがとうございました。
 
     これは、平成二十六年八月十七日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである