さとりへの道―『華厳経』に学ぶE今、ここに出会う
 
                 東京大学名誉教授 木 村(きむら)  清 孝(きよたか)
                 き き て    川 野  一 宇
 
ナレーター:  今からおよそ一六○○年前に成立したと言われる『華厳経』。その中心となる思想の一つが、縁起的な世界観です。すべてのものが相互に関係しあうというこの考えが、今改めて、文化、科学などさまざまな分野で見直されています。今回は、現代の思想や研究の中に息づく『華厳経』の世界観を見ていきます。
 

 
川野:  川野一宇です。「こころの時代」さとりへの道―『華厳経』に学ぶ。今日は最終回第六回になりました。東京大学名誉教授の木村清孝さんに今回もお話して頂きます。木村さん、よろしくお願い致します。
 
木村:  よろしくお願い致します。
 
川野:  今日は、テーマが、「今、ここに出会う」となっています。
 
木村:  『華厳経』の思想というのは、古くて新しいと言えるかと思います。既にお話申し上げておりますように、今から一六○○年ほど前に生まれているわけですけれども、ある意味では、むしろ現代人にとってこそ、新鮮な思索的な、そういう教えとして受け止められる、そういうところがあるんではないかと。文学、哲学、あるいは科学という分野の方々、これからご紹介をしてまいりますけども、そういう人々が『華厳経』に、どのようにインスパイア(inspire:ひらめきを与える。奮い立たせる)されて、何を生み出してきたのか。『華厳経』の教えと生み出される新しい成果との共通性、そういったものが持つ意味と言いますか、それをご一緒に考えていきたいと、そのように思います。
 

 
ナレーター: 詩人、童話作家・宮沢賢治(みやざわけんじ)(1896-1933)。『華厳経』の教えからヒントを得たと言われる作品があります。『インドラの網』(インドラ=帝釈天(たいしやくてん))です。主人公の男性が西域を思わせる架空の高原を夜歩いている時、天人と天の子どもたちに出会います。そして天と地が交錯する不思議な時を共に過ごします。
 
その冷たい桔梗色(ききよういろ)の底光りする空間を一人の天(〔神〕)が翔(か)けているのを私は見ました。(とうとうまぎれ込んだ、人の世界のツェラ高原から天の空間へふっとまぎれこんだのだ。)私は胸を躍らせながら斯(こ)う思いました。
天人はまっすぐに翔けているのでした。
(一瞬百由旬(ゆじゆん)を飛んでいるぞ。けれども見ろ、少しも動いていない。少しも動かずに移らずに変わらずにたしかに一瞬百由旬ずつ翔けている。実にうまい。)私はうつぶやくように考えました。
(中略)
天の子供らは夢中になってはねあがりまっ青な寂静印(じやくじよういん)の湖の岸硅砂(けいしや)の上をかけまわりました。そしていきなり私にぶっつかりびっくりして飛びのきながら一人が空を指して叫びました。
「ごらん、そら、インドラの網を。」
私は空を見ました。いまはすっかり青ぞらに変ったその天頂(てんちよう)から四方の青白い天末(てんまつ)までいちめんはられたインドラのスペクトル製の網、その繊維は蜘蛛のより細く、その組織は菌糸(きんし)より緻密に、透明(とうめい)清澄(せいちよう)で黄金でまた青く幾億(いくおく)(たがい)に交錯し光って顫(ふる)えて燃えました。
 
川野:  これは非常になんか不思議な感じのする天上界と地上界とがお互いに入り交じったり、これが宮沢賢治らしい作品かなという感じがあるんですがね。
木村:  そうですね。ある意味でやっぱり宮沢賢治の文学性と言いますか、文学の特徴をよく表されている作品ではないかと、私は思っております。
 
川野:  まだ若い頃の作品だったそうですね。
 
木村:  そうですね。おそらくこれが生まれましたのは、宮沢賢治が二十歳代の後半ではないかと推測されているようですね。ただこれは体験的なもの、ちょうど彼が大きく法華経信仰に目覚めていくという流れ、それから農学校に仕事を得て教授として赴任する。その辺りのこと、それからもう一つは、非常に可愛がっていた妹さんが亡くなるという事件もございます。そういうことが重なってきた一つの人生の節目と言いましょうか、その辺に繋がって、何か構想された作品なのかなと、そんなふうにも私は感じておりますが。
 
川野:  宮沢賢治と言いますと、『法華経』と非常に縁が深い、そことの関連というのは何かありますか?
 
木村:  そうですね。法華信仰が非常に深いものを持っていたことはこれ間違いないと思います。ただ法華信仰、あるいは日蓮教学と言いますか、それを遡る天台教学でも、特に遡って天台教学の場合で言いますと、『法華経』が、ちょうど釈尊が最後に説かれた教えとされるのに対して、『華厳経』は一番最初に説かれた教えということになりますので、ちょうど対応する意味で、『華厳経』もある意味では大事にされるものなんですね。そういう意味で、繋がりが全くないということではありませんので、『華厳経』に関心を持つ、触れるということはそんな不自然なことではないと、私は思いますけども。それから先ほどお読み頂いた中に出てまいりますが、「天人はまっすぐに翔けている。しかし少しも動いていない」という表現がございました。これは『華厳経』の会座(えざ)―説法の場所が変わっていく、動いていく中で、その中心教主(きようしゆ)である盧舎那仏(るしやなぶつ)、あるいは毘盧舎那仏(びるしやなぶつ)ですが、この盧舎那仏が座を移されていく、その様子をそこからもしかしたらヒントを得た描写―書き方になっているのかと、そのように思うんですね。
 
川野:  今の作品について宮沢賢治自身の解説したものはないようですけれども、『インドラの網』というのは、結局どういうことを意味するということになっているんでしょうか?
 
木村:  そうですね。実は『インドラの網』と言いますのは、勿論『華厳経』以外のものに出てくるものでもあるんですけども、特に『華厳経』では大切な譬えの一つとして使われているものでありまして、もともとは「インドラジャーラ」(サンスクリット語)と申しますが、インドの説話に根差しているものでありまして、それが仏教に入ってくる。『華厳経』では、仏の世界、つまり世界観と言いますか、そういうものを喩えるとか、あるいは菩提心そのものもこれに喩えられる教説もあるんですね。いくつかの重要な教説の譬えとして出てきます。この譬えが示そうとしているもの、それは何かと言いますと、帝釈天(たいしやくてん)―「インドラ」というのは、もともとインドの神さまですが、これが仏教に入りまして帝釈天になります。その帝釈天がお住まいの宮殿に大きな網が掛かっている。その網の目の一つひとつに美しい珠玉がついていると。その玉がこの網全体をそこに映し出す。お互いがまた映し出し合う、そして映し輝くという、そういう喩えなんですね。それから『華厳経』自体が、インドラ網についてどう説いているかという点ですが、一つご紹介を致しますと、こういう教説がございます。
一切の諸仏は
智慧もて
一切の法界の因陀羅網(いんどらもう)
如くなるを分別す
(仏不思議法品)
 
という表現なんですね。仏はみなその智慧によってあらゆる世界がこのインドラ網のように深く繋がり合い関わり合っているものだということをしっかりとおわかりになっておられる。こういう意味になろうかと思います。こうした教説にヒントを得ながら、後の『華厳経』教学、華厳宗の人々は、これをきちんと理論化していく作業を行うわけですけれども、それが先ほどあげた帝釈天の宮殿に掛かる網、そこにたくさんの結び目に綺麗な玉が付いているんですけど、その玉の中にすべての像が現れ出てくる。どの玉もそうだけれども、無数の光、無数の色をお互いに重なり合って映し出す。しかもそれが決して混乱しない、あるいはボヤッとしたものにならない。原文では「歴々として区分す」となっておりますけど、はっきりとあれはあれ、これはこれ、それはそれ、これはこれという、いわゆる個別性をきちんと維持しているんだと。こういう表現でその説明をしているんですね。大変見事な説明だと思います。華厳宗の思想として最も大事なことの一つは、大きな縁起的な世界観、奥深い縁起の世界を明らかにするということなんですね。そのことに関連して、実は今日今取り上げていますインドラ網の譬喩として使われるということです。この現実の世界が奥深い縁起の世界、仏の悟りの世界、悟りの場と展開しているこの世界が、そのまま奥深い縁起的な関わり合いの中で成立をしているんだと、それを言おうとしている。明らかにしようとするものであるということだと思います。
 
川野:  そうしますと、宮沢賢治はこのインドラの網に、どういう点で関心を持ったのかというふうに推定できますか?
 
木村:  そうですね。宮沢賢治が、このインドラの網に気付いたことを伺わせる直接的な資料というのは、あまりないんですが、どうももとのこの作品の原稿の欄外に、「普賢菩薩が説かれた宇宙の夜」というふうな書き込みが実はあるんですね。そういうことから推測しますと、『華厳経』及び『華厳経』に基づいて中国で完成された華厳宗の哲学思想、その中でインドラの網の喩えは重要な意味を持ちますので、そこにそのことを直接自分で何か読んで知ったのか、あるいは誰かのお話を聞いて知ったのか、ちょっとこれはよくわかりませんけれども、ともかく知っていたということは間違いないと思います。それでおそらくある種のイメージをそこから既に得ていたんではないか。それを彼自身のイメージ力と言いますか、構想力と言いますか、それでさらに広げていく。大きくして美しいものに仕上げていくと言いますか、そういう形がこの作品に表れているんじゃないかなと。どうも私は、この作品を通してしか実は彼がもっていた『華厳経』の見方、感じ方、受け止め方というのはわからないんですけれども、これだけが頼りになるんですが、どうもここで描かれていますのは、例えば「まっ青な寂静印の湖の岸」というような言葉が出てまいりますよね。この「寂静印」と言いますのは、これはいわゆる仏教の基本を示す旗印に当たる一つとして、「涅槃寂静(ねはんじやくじよう)」という言葉がございます。つまり究極の安らぎの世界、それはほんとに静まった平安な世界なんだということを表す言葉なんですが、この作品には、その涅槃寂静、つまり涅槃を究極の安らぎというものを、彼がどのように見ていたのか。感じていたのか、あるいはこうあって欲しいという願いを持っていたのか。そのことが反映されているんではないのかなと、そのように思うんですけどね。
 
川野:  さて次は、韓国の詩人です。韓国と言いますと、前回もお伝えしましたように、「華厳の風土」とも言えるほど、華厳が根付いた場所でもあります。
 
ナレーター: 韓国の詩人・高銀(コウン)。人間の悲しみ、喜びを映し出し、世界的に高い評価を受けています。十代で朝鮮戦争を経験し、精神的不安から出家、華厳の思想に触れました。その後還俗(げんぞく)し、民主化運動に没頭、逮捕投獄されます。そうした中、二十年かけて小説『華厳経』を書き上げます。これは経典にある善財童子(ぜんざいどうじ)の求道(ぐどう)の物語に高銀ならではの人生観を盛り込んだ作品です。善財童子は、師の一人バラモン僧に出会います。異様な姿のバラモン僧は怪しげな苦行をしているところでした。
 
炎の間を剣の山に登ると、
鋭い玄武岩(げんぶがん)の石剣(せつけん)どもが
鋭く刺さっている
斜面の地帯に出会った。
(中略)
彼は見た。そんな石剣に
全身を血で染めながら、
ほとんど発狂したかのごとき
動作で岩を蹴とばし踏みつける、
孤独な苦行者を見たのだ。
バラモン僧 烈(れつ)だった。
―(中略)―
「・・・そなたは、わしのように、
あの剣の山に登り
体を傷つけるのを怖れることなく
この火の谷に体を投げ出せ。
わしはこの事を
十万回を越えるほどやって
真理に出会っているのじゃ」
―(中略)―
眼光に
ひやりとする鬼気(きき)が漂っていた。
善財は―
初めて帰依することのできぬ
疑問が起こってきた。
悪魔かも知れないと考えた。
その時梵天(ぼんてん)が現れ
この婆羅門僧は信じるべき善知識であると諭します
幼き子よ、汝誤れる思い棄つべし
飛び込め、火の谷に
汝の身の暗闇(くらやみ)と全ての暗闇が
一夜明けし後の朝、消え失すべし
―(中略)―
彼は目を閉じた。
そして体を投じた。
―(中略)―
「不思議でございます、お師匠さま。
火の窪みに達した時、
体が無事でございました」
―(中略)―
剣と火、そして全ての悪魔も
それが愛であるのを
彼はすっかり知ることができた。
―(中略)―
悪は仏陀であり、
あらゆる恐怖は慈悲であった。
 
木村:  この高銀(コウン)という作家ですが、大変力のある方だと思います。人生経験と言いますか、非常に問題を深く―これは人間性の問題、社会の問題を含めて、非常に深く考えられる方なんだなという気が致しますが、その方が、特に『華厳経』の「入法界品(にゆうほつきぼん)」に注目される。そしてそこの主役、中心的な意味を持つ善財童子の求道の旅というものを、自ら新たな文学として作り直すと言いますか、そういうことをされているんですよね。
 
川野:  今もちょっとお話がありました二十年もの時間をかけて『華厳経』を紐解いた、書いた作品として、どうお読みになりましたか?
 
木村:  そうですね。このことに関心をもたれたのは、きっかけはやはりご自分でも禅の修行をされたことがありまして、その師匠に当たるお坊さんから示唆をされたことがきっかけのようですけれども、七十年代に先ず『幼い旅人』という作品を書かれる。そしてその後いろいろありまして、十年後にその後半も含めてリライト(rewrite)と言いましょうか、全体を「入法界品」の善財童子の物語の全体を、この大きく纏め上げて『華厳経』という、ずばりその『華厳経』の名前をとってタイトルとして出版されたということなんですね。ですからその善財童子の旅というのは、柱と軸になっているわけですけれども、完全に『華厳経』に則した書き直しということではなくって、むしろ創作といった方に近いものだと思いますが、新たに十人以上だったと思いますが、多くの新たに登場人物を中に取り込んで小説として纏めあげるということをされているんですね。
 
川野:  善財童子が師を訪ねて行くというのは、もともとの物語で、その師が善知識と確か言われましたね。私などはバラモン(婆羅門)が印象に残っています。
 
木村:  『華厳経』の中でもちょっと圧巻(あつかん)と言いましょうか、非常に深く強く関心をそそられるところなんですけれども、そこの内容というのは、いろんな意味で深い考察と言いましょうか、私どもに問題を投げ掛けている、そういう感じも受けるんですね。その軸になっている考え方というのは、人生というものは、出会いの旅、出会いの連続であると。その出会いの連続の中で、私どもは生きていかなければいけない。その生きていく根底にやはり何か真実を求めると言いましょうか、それがなければいけない。そういうメッセージも込めた出会いの旅、人生の見方を示してくれているんじゃないのかなと思います。
 
川野:  この小説、『華厳経』の、それでは結びの部分をご紹介致します。
 
そうだ
幼い旅人善財菩薩は今や、
彼自身が
世界の数々の所を訪ね歩き
愛を訴えるのだ。
幼い境地ではあれ
いかなる底辺の境地であれ
異なった本性が
互いに一致する異体相即は
全く同じなのだ
そうしてより輝かしく燦爛たる
華厳は
狂気の者のうわ言とブッダの三昧を
一つに見ずには、
そこにすくっと構えて待っているのは
地獄であるのみだ。
幼い旅人はその森の深い所で泣く子供を連れて共に港に出て行った。
「私と一緒に行こう」
「・・・・・・」
 
木村:  今、お読み頂きましたが、これが小説の結びなんですね。ここにある意味で高銀の人生観とか世界観、存在感といったものが、ほぼ集約して出てきているように思います。先ずそのキーワードと言いましょうか、彼のこの作品の中で、私たちに強く訴えかけてくるものが何か、ということなんですが、私は三つほどあると思うんですが、第一は、「愛」だと思うんですね。やっぱり人に対する愛、もっと広くは生きとし生けるもの、さらには存在するもの、すべてだろうと思いますが、その愛をやはり根底に、私たちは持たなければいけない。愛の活動というものを進めていかなければいけないんだということですね。第二は、「共に分かつ」だと思うんですが、とにかく一緒に手を携えると言いましょうか、そういうこと。一つのものを半分に分け合う。そういうその平等と言えば平等なんですけど、そのような優しさ、あるいは自他の一体感というのかな、そういうものですね。これをやはり現実の場において、私どもが現にあるものとして、現実の行動として出していく必要があるんだということ。第三には、今のところに出てまいりましたが、専門用語ですけれども、「異体相即(いたいそうそく)」という表現で出てきておりますけれども、異なった本体、本質的なものを持つもの、異なった本体を持つもの同士が、お互いに相即する。一体視する。一つになるという、そういう意味なんですね。哲学的に、この譬喩からみますと、ちょうど極端―対極にあるものが一つになる。『華厳経』の中でも、「小と大」あるいは「一と十」という関係で、ちょうど対極におかれるものが一体的なんだ、という話が既にございましたけれども、この彼の表現は、もっとそれを突き詰め、かつ人間的というか、我々のドキッとするような身近な問題として突き付けてきておりまして、「狂気の者のうわ言とブッダの三昧」という、いわば世間的な価値観から言っても、言った場合に何の価値もない。何の意味もないとされている狂者のうわ言、そして宗教的には究極の真理をそこからその上にすべて生み出していくようなブッダの三昧の力。対極にあるように見えるものが、実は一つなんだと。そのことが見えないと、そこには地獄が待っているだけだ、あるだけだという、そういう表現をされているわけですね。反対の位置と言ってもいいかも知れませんが、こういう究極的な真実の目と言いましょうか、正しい目から見れば、その姿はすべてが一つなのだと。一体なのだと、こういう話で、そういう三つがキーワードになっているかなと、そのように思います。そして今お読み頂いた文末が、「私といっしょに行こう」という幼い旅人、つまりこれは純真な求道者で善財を意味するわけですが、その善財の言葉をあげた後、子供は何も応えない、点々点(・・・)で終わっているわけですね。これはやはり私はただそれを信じて付いていく。もしかしたら信じていないところも含めているかも知れません。彼のおそらく哲学の考え方から言えば、その可能性もあるんですが、ともかく黙って付いていく。黙って付いて行くことの大切さと言いますか、究極性のようなものを何か暗示しているのかなと、そんな感じも致します。
 
川野:  カギ括弧の中で、点々点(・・・)と何も書かれていないところにも、意味があると。
 
木村:  あると思いますね。これは私ども一人ひとりがどう受け止めるかで変わってくると思うんですが、基本的に私どもがやっぱり生きていく中で、フッと見た時に、あるいは相手から言葉を掛けられた時に、えっ!とこう思うことがある。戸惑ったり、疑ったりする気持ちが起こることがありますよね。それをやはりもう一回しっかりとそこで踏みとどまって、何故今ここに来ているのか。相手が今言ってくれていること、見せてくれていることは一体何なのか、ということを、できるだけ自分の目で素直な気持ちで見つめると言いますか、そしてそこで責任をもって決意をする、決断をするということだと思うんですね。最後はそこにかかってくるんではないかと思うんですね。
 
川野:  今度は、思想哲学の分野で、『華厳経』に注目した人をご紹介致しましょう。
 
ナレーター: こちらは哲学、言語学、イスラム学における世界的な研究者と知られる井筒俊彦(いづつとしひこ)です。生誕百年を迎えた今大変注目されています。
 
川野:  木村さん、井筒俊彦という方のお名前を伺いますと、私どもコーランの訳者としてのそういうお姿が浮かんでくるんです。
 
木村:  コーランを含めてイスラム学、あるいは非常に幅の広い哲学者でいらっしゃいますので、言語学者としても評価が高い方でしたし、あるいは思想的には東洋思想ですね。西洋の哲学にも明るいんですが、東洋の思想を深く共時的にという意味ですが、要するに、全体を通徹する思想の流れと言いますか、根底が何かないのかという、そういう問題関心を大変強くお持ちだった方で、そういう意味での東洋思想の研究者でもあられたと言えると思います。それともう一つ、先生の哲学で忘れてはならないことは、思弁と言いますか、頭の中でこう概念をあれこれと操ってという、そういうことではなくって、例えば、自ら禅に関しても非常に深い体験までなさっていらっしゃるんですね。体験的な知というのか、そういうものをお持ちの上で哲学的な探求を続けられたという先生ですね。
 
川野:  井筒俊彦は、主な著作である『意識と本質』の中で、華厳思想を例としてあげています。世界を形作るものについて、東西の思想はどのように捉えているか説いている部分です。
 
東洋の哲学的伝統では、そのような次元での「存在」こそ神あるいは神以前のもの、例えば荘子の斉物論(せいぶつろん)の根拠となる「混沌」、華厳の事事無礙(じじむげ)・理事無礙(りじむげ)の窮極的基盤としての「一真法界(いつしんほつかい)」、イスラームの存在一性(いつせい)論のよって立つ「絶対一者(いつしや)」等々である。
 
ということなのですが、老荘思想、そしてイスラームに華厳の考えが共通しているということなんですね。なかなか先生、難しいんですけど、井筒さんが関心を持たれたという「事事無礙」―『華厳経』の中の、それから「一真法界」という言葉が出てまいりました。これについて先生、ちょっとお話を伺わせてください。
 
木村:  そうですね。「事事無礙」は、基本的に物事と物事とが決して個別的にバラバラに存在するわけではなくって、そこに深く関わり合い、交わり合う、あるいは融合しあう、そういう世界が実は真実なのだと、こういう捉え方なんですね。そのことを井筒氏は非常に哲学的な構築と言いますか、理論構築のなかで意味付けておられまして、先ほどご紹介のあったように、関係性のような概念ですね、ここで押さえるということ、あるいはまた先生の主著の一つである『意識と本質』の中では、やはり事事無礙に関しては、例えば「無本意的に分節された事実の存在融合」という言葉を使っているんですが、言葉が大変難しいんですけども、要するに本質というふうな何か絶対的に動かないもの、変わらないものを設定することを突き抜けて、そのさらに根底ですね、本質を立てるのは、我々のむしろ表層意識と言いますか、表面的な智の働きの中で、何かすべての物事が独立してあって動かない、こういう捉え方をすることを突き抜けて、物事の関わり合いをみる。それを「存在融合」と呼ばれているわけですが、要するに融合的一体的なものと繋がり合うものとして存在をみていくんだと、こういうような説明もされていらっしゃるんですね。だから先生の問題関心も、先ほど申し上げたように、荘子の斉物論であるとか、イスラームの一者であるとか、そういうところとまったく質的に同じものとして華厳には、事事無礙が成り立つ根底に、「一真法界」という窮極的真実があるんだ、ということを、それを立てているんだ、ということをおっしゃっているわけですね。
 
川野:  さて今度は、『華厳経』の世界観が、科学の分野と重なってくる。こういう点をご紹介したいと思います。
 
ナレーター: 物理学者フリッチョフ・カプラ。一九七○年代、細分化されてきた科学研究に疑問を投げ掛け、総合的な観点から研究すべきだと主張しました。一九七五年に出版した「The Tao Of Physics(タオ自然学)」は、世界的ベストセラーとなりました。現代物理学に東洋思想のタオの見方を応用させます。一見対立する陰と陽の関係性にあるものが、実は相互補完的な関係にあるとしました。カプラは、欧米に東洋思想を伝えた仏教学者・鈴木大拙(すずきだいせつ)の影響を受けて『華厳経』の世界観に注目しています。
 
『華厳経』の中心テーマは、すべての事物・事柄の統一性と相互関連性である。この考え方は、東洋の世界観の本質そのものであるのみならず、現代物理学から出てきた世界観の基本的諸要素の一つでもある。そういうわけで、この古代の宗教のテキストである『華厳経』は、現代物理学の複数のモデルと理論に対してもっとも衝撃的な類似点の数々を提示していると見られよう
 
川野:   木村さん、非常に面白いですね。私は感じましたけれども、科学者・物理学者であるカプラという人が、縁起的な世界観にまで注目をして、現代科学の世界観というのは共通点がある、というふうに言っているのは、ほぉっと思いましたよ。
 
木村:  そうですね。先ほどご紹介にもありましたように、今カプラは、鈴木大拙先生の著書を通して華厳の世界に触れていくわけですけれども、その中にこんなに似ているところがあるのか、ということで一種の感動を多分持ったんですね。それでタオ物理学ですか、『The Tao Of Physics(タオ自然学)』と呼ばれる著書を書いているわけですけれども、彼の生きたと言いますか、実際に書いた時も、七十年代ですので、今はもっと進んだ理論がいろいろなされていると。ものの見方、あるいは物質の見方というものが生まれてきていると思いますけれども、ともあれ彼の思想―彼の著書を通して、『華厳経』の教えの素晴らしさというのか、奥深さと言いますか、そういうもの、そしてまた現代に通じる新しさというものを、これを多くの人が感じ取った、ということが言えると思うんですね。特に華厳思想において物理学的な視点から言えば、華厳思想だけではありませんけれども、やはり物質に関しては、窮極には実体を持たない。あるいは本質として固定的に捉えられるようなものを持たないということ。あるいは存在する世界が深く関わり合った、そういう場において成立するんだ、ということですね。仏教は、もともと大乗仏教の一つの大きな思想的な基盤として「空の思想」がございますよね。この「空」は、勿論ある種直感的なというのか、ところで捉えられると同時に概念化されたものですね。それがまさに進んでいきますと、存在するもの自体も、それ自体として本質を持たない、実体を持たないという、そういうところへと空の概念内容が広がっていくんですよね。今のおそらく物理学でも物質の捉え方も、もともと物理学の規定では、有限の質量を持つものということですし、私たちが感覚を通して、感覚的に存在することが確認されるものに関して物質と言われていたわけですが、今どんどん進んでまいりました。もう一方では、例えば量子論でも、物質自体が場として規定されてきますよね。これもまたある意味仏教でいう「空」とか、さっきの存在世界の関係性みたいな何かこう、そういう捉え方と通じてくる部分を持っているんではないのかな、という気がするんですが。
 
川野:  そうですね。最近のもっと新しい知見と言いますか、物理学と言いますか、ではどんな人に注目されていますか?
 
木村:  そうですね。最近私、読んだ本で例を申しますと、今アメリカを中心に国際的に活躍していらっしゃる宇宙物理学者というんでしょうかね、ローレンス・クラウス(1954-)という方がおられますよね。彼が最近出した本がありまして、『A Universe from Nothing』ということで、一般に訳せば、「無から生まれた宇宙」となるんでしょうけど、「A Universe」と表現しているのが一つ味噌で、彼は、「宇宙は一つじゃない」という立場を取りますので、「たくさん宇宙がある」と考え方をするんですよね。だから題もおそらく意味するところは、私たちが住んでいるこの宇宙ということをちょっと焦点に合わせて、こういうタイトルを付けた「一つの宇宙」と言いますか、それから「無から生まれた」という言い方をされているんだと思うんですけどね。彼の基本的なものの考え方が、先ず大変仏教―華厳だけに限らずですが、仏教の捉え方に近いなと思いますのは、「宇宙というのは、私たちが好むと好まざるとに関わらず、あるようにある」というんですね。これはおそらくキリスト教的な捉え方、もっともとはユダヤ教になりますけれども、宇宙は創造されたという、神によって造られたという、そういう考え方への真っ向から反論するような意味合いを持った表現だと思いますけれども、仏教で言えば、まさに「如実(によじつ)」―ありのままにあるのがこの世界であり、ありのままに見ることが仏のものの見方なんだという、「如実」という言葉を使いますが、そういう捉え方がありますよね。だから先ずは、有るものを有る通りに素直に見ようという、ここのところが先ず一つの共通的に、共通点としてあるんじゃないかなと。基本的な立場ですね、基本的にものを見るその視点が、視野が大変先ず近いというか、ものがあるということですね。その上で宇宙が始まる前、何があったのかという。彼は、「無から宇宙が生まれる」という捉え方を致します。そしてさらに「宇宙は、おそらく終末があるだろう」ということも言っている。「その宇宙自身も多世界と言いましょうか、たくさん宇宙があるんだ」という考え方をこの本の中では示しているんですね。
 
川野:  「たくさん宇宙がある」というふうにお聞きすると、この華厳の教えの中で、木村先生から教えてきたお話と通じますね。
 
木村:  そうですね。華厳でも、単に蓮華蔵世界だけではない、その十方に世界がある、宇宙がある、ということが説かれておりますけれども、それと共通することと言いますし、それから無から生まれて、さらに最後はあるだろうという、こういう考え方も、これは華厳ではなくって、さらに遙か前の仏教の一つの宇宙観として、しかも時間的な観点からみた宇宙観として説かれていることなんですが、「四劫説(しこうせつ)」というのがありまして―四つのカルパというんですが、長い時間の単位で考えると、この宇宙が成立し、この世界が成立し、消滅していくという、そういうプロセスがある、というんですよね。「成住壊空(じようじゆうえくう)」というふうに、それぞれ漢訳では表現しておりますけども、要するに先ず形成期があって、次に安定期と言いますか、安定する時期があって、さらにそれが壊れていく時期があって、やがて何もなくなる。壊れたままで止まってしまう。完全に壊れ尽くしてしまう。そういう時期があるということで、いわば無から生まれて、また無へ戻ると言いますか。しかもちょっと興味深いのは、この四劫説では、業の力、私たちを含めて生きとし生けるものの力、これは宇宙の世界の形成にも、私自身の力が関わっているという話が前にあったと思いますけれども、ここでは四劫自体が個々に生きるものの生きる存在の業の力、行為が持つエネルギーの力によって展開していくんだという、こういう押さえ方をします。『華厳経』の世界観では、仏の世界の描き方の中では、「願いの力によって、仏の力が建立される、作られていくんだ」と。これはむしろ仏の世界は終わりでなくって、永遠に続くんですが、その支える力、生み出す力としては、願―願いというものが注目をされている。だから四劫説の業に変わって、願というのが、大乗の浄土観と言いましょうか、仏の世界の見方としては、中心的なエネルギーと、要するに考えられているということになるんだろうと思います。
 
川野:  重なる部分が結構あるので、科学とそれから仏教の、例えば『華厳経』との類似は非常に大きいし、歴史からいうと、『華厳経』の方がずっと古いわけですから、なんか将来を予見しているみたいな言い方にも聞こえますけれども、それはそうではなくて、
 
木村:  そうですね。目指すところも違うと思うんですね。結果として世界がどうなっていくのか、という現実世界の展開を、あくまで物理学、科学の方は捉えて、きちんと分析的に見ていこうと。そしてその結末までを明らかにしようという方向性があるんだと思うんですが、宗教―特に仏教の『華厳経』的な立場で考えれば、私どももそういう日常の行いの中で、どのようなイメージをもって、何を目指して生きていくのか。その持つイメージの一貫として宇宙観と言いましょうか、世界をどう見るかというものがあるんだろうと思います。だからそこに違いと言いますか、大きな違いがあることは確かだと思いますね。
 
川野:  さてそれでは、先生ご自身は四十年以上も研究されていらっしゃいますけれども、どんなふうに受け止めていらっしゃいますか?
 
木村:  一番強く『華厳経』から学んだことは何かと言われますと、私は一つやはり根底的に私たちはしっかりと正しい願いを持たなければいけない。それからもう一つは、『華厳経』はこれまで既にお話したように、「初めて発心したときにただちに仏の悟りを完成する」と言ったように大変美しく、また本質的な仏道、菩薩道のあり方を説いた言葉がございますが、それに寄りかかるんではなくて、やはり着実に自己を自らを見つめて、そして一歩一歩歩んでいく、少しずつ自己を磨いていくと言いますか、そういう歩みを続けなければいけないんだと。勿論進歩と言いましても、ここにも真っ直ぐにいく筈はございませんので、当然揺れたり戻ったりがあります。それをしかし踏まえて、その時にはちゃんと反省なり懺悔なりと言いますが、それを加えて、やはり前を向いて一歩ずつ歩んで行こうと、努めるということですね。そういうあり方が大切だということを、逆に学んだなという気が致します。ただ『華厳経』も、このように大変大きな仏の悟りを背景に置いた誠実な菩薩道の展開を明らかにする経典でございますので、現代という視点に立って、現代という場から見れば、もう少しここのところは、私どもが自らの力で受け止め直していかなければならない部分があるんではないか、というふうにも思うんですね。
 
川野:  そのためにはどうすればよろしいんですか?
 
木村:  その点で、私は最初にヒントを得ましたのは、華厳の教え、智儼(ちごん)が書きました『一乗十玄門(いちじようじゆうげんもん)』(中国華厳宗の基礎を築いた第二祖智儼(ちごん)の注釈書)というテキストがありますんですが、その中にやはり縁起的な世界を説明して、「縁成(えんじよう)」という言葉を使っています。縁が成ると書くんですけど、これは勿論縁起という考え方、もう一つ前向きにというか、積極的に展開された概念だと思うんですけどね。その縁によってなる。あるいは縁を通して一つの物事が完成していくという、そういう意味なんですけど、この概念をもう一つですね、私は展開させまして、「共成(きようせい)」と一般的に読んでかまわないと思っています。共に成す。共に成るというこの言葉を使っているんですね。どういうことかと言いますと、要するに私どもがやはり深い縁起的な自覚と言いましょうか、そういうものをお互いに持ちながら、一緒にやはり本当の世界を、本当の意味で深く理解し合える、許し合える、あるいは気付きあえる、そういう世界を作っていくほかは、平和はないんではないか。当然それは国境とか民族とかの境とかを越えることになりますけれども、共に一緒に何か良いことを、というか、『華厳経』的に言えば、菩薩道に即応するという行為ということになりますけれども、そういうものをやっていく。その結果として共に成るですよね、共に菩薩になっていく。そういうことをやっぱり目指して初めて人類の大きく言えばですが、平和―もっと小さく言えば、私たち自身の小さなコミュニティでもいいんですけど、そこの平安―望ましいあり方が実現するんではないかな、というふうに思っているんですね。
 
川野:  この番組の最後に、この言葉をみなさんにメッセージとして伝えたいという言葉を一つ挙げてくださいませんか。
 
木村:  そうですね。いくつもいろいろあると思うんですけども、私はやはり主題と言いますか、「華厳」という言葉をみなさんと先ずは共有したいと思うんですね。
 
川野:  華厳自体は、
 
木村:  そうですね。どういうことかと申しますと、これはもともとですね、チベット語訳の『華厳経』の原語で明確なんですけれども、「仏を飾る―仏の華飾り」と言いましょうか、仏を華で美しく飾るという、そういう意味で「華厳」という言葉が使われているんですね。華で飾る。飾るのは単にきらきらと飾り立てるんではなくて、「厳かに」と言いますか、「深く」と言いますか、飾るというのが、この華厳の意味であるというふうに昔から言われているんですよね。字としては「雑華厳飾(ぞうけごんじき)」と言いまして、いろんな華で飾り立てると、厳かに飾る。そういう解釈をするんですが、いろんな華というのは、私たち一人ひとりのそれぞれ違った個性を持ち、違った活動をするわけですから、その華ですね、その行いのこと、それが仏の世界を飾っていくということで、仏の世界を飾るような行いを心掛けると言いましょうかね、お互いがそのことが大事なんじゃないかと。勿論華厳の世界は、もともと仏の悟りの世界です。従ってもともと綺麗な世界なんですね。仏の目から見ればというか、本質的にはというか、そういう言い方ができるんですけども、そこに華を添えることこそがやはり大事というか、本当のあり方だと思うんですね。だからまさにその喩えに示されるような一つの華になりたいというか、お互いがそういう心がけを、心掛けで毎日を送っていって頂ければ大変有り難いし嬉しいことではないかなと思うんですね。
 
川野:  華厳、そして仏教というものは非常に深い、そして広いという感じがつくづく致します。肝に銘じておきます。
 
木村:  どうぞよろしくお願い致します。
 
川野:  有り難うございました。六回にわたって木村清孝さんにお話を伺いました。ありがとうございました。
 
     これは、平成二十六年九月二十一日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである