私にとっての3.11「福島に生きる」
 
                  作家・僧侶 玄 侑(げんゆう)  宗 久(そうきゆう)
一九五六年、福島県三春町生まれ。安積高校卒業後、慶応義塾大学中国文学科卒。さまざまな仕事を経験したあと、京都天龍寺専門道場に入門。二○○○0年、「水の舳先」が「新潮」に掲載され、第124回芥川賞候補になり、二○○一1年「文学界」に掲載された「中陰の花」で第125回芥川賞を受賞。その後の小説作品に、『アブラクサスの祭』『化蝶散華』『アミターバ 無量光明』『リーラ 神の庭の遊戯』『テルちゃん』『御開帳綺譚』『龍の棲む家』『祝福』などがあり、ほかに仏教や禅にまつわるエッセイや対談本も多い。二○○八年より、福聚寺第35世住職。また妙心寺派現代宗学委員。福島県警通訳。福島県立医大病院、経営審議会委員。二○○九年より京都・花園大学文学部客員教授(国際禅学科)。二○一一年から、新潟薬科大学客員教授(応用生命科学部)。二○一四年、「光の山」にて平成25年度(第64回)芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。
 
ナレーター:  八月十三日、迎え盆の日、福島県三春町(みはるまち)の僧侶・玄侑宗久さんは、檀家を廻っていました。
 
質問者:  これお盆の印なんですね?
 
玄侑:  そうです。高灯籠(たかとうろう)と言って。故人が戻ってくるのに目印だから、なるべく高く立派なのを立てましょうというんですけどね。
 

 
ナレーター:  この一年の間に亡くなった人の魂が、初めて里帰りするという新盆(にいぼん)。この家の主は、今年三月、八十歳で亡くなりました。玄侑さんとは二十年来の付き合いでした。故人は大工仕事が好きで、この家も自分で建てたほどの腕前でした。玄侑さんは、その人柄を偲び、戒名に「木」の一文字を入れました。
 
主婦:   めいっ子の子ですね。孫じゃないけど、孫のようなものです。
 
玄侑:  孫じゃないけど、孫のようなもの?(笑い)
 

 
ナレーター:  この地の寺に生まれた玄侑さん。故郷の家々を廻り三十年ほどになります。
 
主婦:  ザル屋に嫁にきて、二十歳できて六十四年だ、今年で。
 
玄侑:  もともとザル屋さんだったんですか?
 
主婦:  はい。親たちはザル屋で・・・ザル作り私の生きがいで・・・
 
玄侑:  長生きしてください。
 
主婦:  はい。ありがとうございます。
 

 
ナレーター:  先祖を敬い、大地に根差して慎ましく生きてきた人々。玄侑さんは、震災後改めて自分が福島の人間であることに誇りを持てるようになったと言います。二○一一年のあの日、玄侑さんの住む三春町を震度五強の地震が襲いました。寺の建物に大きな被害はなかったものの、多くの墓石が倒れました。さらに東京電力福島第一原子力発電所が事故を起こし、多くの人々が放射能に苦しめられることになりました。僧侶という存在が、人々の心の拠り所になっていると改めて気付かされた現実。
 

 
玄侑:  まあ楽しみに、春が楽しみなんですけど、この町の人はみんな。室町時代には、「御春」と書いたんです、「三春(みはる)」って。それくらいやっぱり春が楽しみだったんですけど。誰のものでもない。みんなのもの。そういうものをこう一つのコミュニティに生きていくうえで、大きな支えになると思うんですよ。例えば墓地なんていうのもそうだし、お寺とか神社というのもそうでしょう。特にこういう震災みたいなことが起こってみると、復興にとって何が欠かせないんだろうというのを見つめてくると、やっぱり神社とお寺―お寺と言わないまでもお墓―神社の存在とお墓の存在というのは、とても大きいなと思うんですよ。何がどうなったら安心するのか。取り敢えず一息つけるのか、ということを、こう見ていると、祭のもとになっている神社をちゃんと整えるということ。それからやっぱりいつ死ぬかも知れないわけですから、自分があるいは家族が入るであろうお墓がちゃんとしていること。死者と一緒に生きているんですね、きっと日本人は。だから死者と一緒に生きていくという時に、お手伝いですかね、やっぱり人が生きていくうえで、どうしたら安心して生きていけるのかという、非常にベーシックなところに、お墓と神社があると思いますね。
 

 
ナレーター:  三春町には、原発事故による避難者の仮設住宅が建てられています。玄侑さんは、震災後新たに三春町に暮らすことになった人たちの悩みにも耳を傾けてきました。湊谷(みなとや)きよ子さんは、福島第一原発の十キロ圏内にある富岡町(とみおかちよう)から夫婦で避難してきました。夫の克巳(かつみ)さんは癌を患い、去年十一月に亡くなりました。生前玄侑さんの寺に通い、坐禅に励んでいました。住み慣れた我が家を追われ、仮設住宅で迎える新盆。玄侑さんは、残された家族のことを気にかけていました。
玄侑:  その後は変わりは無いですか?
 
斎藤:  はい。ようやく慣れてきましたけど。
 
玄侑:  斉藤さんたちは、富岡生まれの富岡育ちですね。
 
斎藤:  そうです。
 
玄侑:  湊谷さんは、富岡在住何年?
 
湊谷:  九年いたんです。震災に遭ったのでもう十何年
 
玄侑:  そうしたらやっぱり別のところで?
 
湊谷:  もう東京に帰って来いと言うんですけどね。いまさら東京に帰っても、何をやっていいか分からないし。
 
玄侑:  なかなか難しいね。
 

 
ナレーター:  玄侑宗久さんが、住職を務める福聚寺(ふくじゆじ)は、福島県阿武隈(あぶくま)山地の山間の三春町にあります。臨済宗の寺として室町時代に創建され、江戸時代には三春城主田村家の菩提寺でした。父の跡を継いで第三十五世住職になった玄侑さん。原発事故の直後未曾有(みぞう)の危機に玄侑さん自身も故郷を離れるかどうか迷っていました。
 
玄侑:  ここは第一原発から大体四十五キロくらいなんですけども、そのことを日常ほとんど意識していませんでしたから、ああいう事態になってどうするのか。やっぱりいざとなれば、ここを離れるという可能性も頭を掠(かす)めますよね。で、〈もしもの時は、これを持って出よう〉みたいなものを、その部屋の隅の方に纏めて置いたりはしたんですね。そこまではやりましたけど、あの時三月十二、三、四、あのくらいの日というのは、お彼岸のちょっと前なんですよ。春のお彼岸というのは、この東北は特に、雪が降っていて、一月二月とかってあまり法事できないんですね。三月になると、いっせいに塔婆(とうば)を頼んできたり、法事やろうという方が多いんですよ。で、「爆発しましたよ」ということで、町の防災無線で「無用の外出は避けるように」と。「どうしても外出しなければならない場合は、帽子を被って、マスクをして、ジャンパーを羽織って、外出から戻ったら、そのジャンパーは脱ぎなさい」とか、いろいろ細かく言っているわけです。そういう格好をした檀家さんが来るんですね。だから「無用の外出は避けなさい」と言っているのに、何しに来たんだろうと思うと、「和尚さん、頼んでいた塔婆出来ていますか?」って来るわけですよ。だから塔婆をあげるということが、そういう中でも外出しなければならない理由なんですよ、彼らにとっては。「こんな時にいいのに」って言うんですけど、「いやぁやっぱりお世話になっている先祖だし」とか、いろいろいうわけですね。これは頼まれている塔婆がまだ山とあるわけですよ。書いてあるのをこれから取りに来るという。ここにいなくなるとかいうのは考えられない。すぐに考えられないと思いますよね。それで父が入院していたんですね、郡山に。郡山も、かなり重油はなくなる、ガソリンは届かないという。暖房もまともにできないという状態に病院もなっていましたからね。でも檀家さんのお医者さんが、担当のお医者さんで、「まあ何があっても、この病院という船が沈没するまで私はいます」っておっしゃったんですよ。だから私の父も乗客として乗っていますけども、「お委せくださいませんか」ということを言ってくれたんですね。「病院を転院したければ紹介もします。薬も二週間分くらいはお渡しできます。でもそうすることをお勧めしない。何とか沈没したとしても、最後までいるから、ここに預けてくださいませんか」という話だったんですね。それがありましたから、こう迷う余地がなくなったんです。やっぱり迷う余地が早い時期になくなったということがとても有り難いことでしたね。
 

 
ナレーター:  この地で生きていく覚悟を決めた玄侑さん。しかし原発事故は、次第に玄侑さんを取り巻く現実に暗い影を落としていきました。三春町や近隣の市町村で見られる大きな黒い山。除染で出た土や落ち葉の袋が積み上げられたものです。原発事故後しばらくは、子どもや農作物などへの放射能の影響、そして風評が取りざたされ福島県に混乱を招きました。今なお低線量被曝の危険性については、科学者の間でも議論が分かれています。
 
玄侑:  精神が、ある種不安定になっている時期に、この感覚が捉えられないものの脅威というものは、もの凄く影響を与えますよね。見えもしない、匂いもない。だからそれにどう接するのかという。だから感覚が普通病んだ精神を繋ぎ止めてくれるわけですよ。身体を信じるということで、なんとか平静を取り戻すとうことが多いんですけども、それができない相手なんですね、放射能というのは。だから不安な人が、非常に不安を煽られたということはありますね。まして、その第一原発が危ないということになった時に、どうしようかという、みんな決断を迫られたわけですよ。その後の時間が経つほどに、最初に出した結論が違う人々がどんどん離れていくんですよ。〈やっぱり避難して良かったんだ〉というふうに思う人々と、〈やっぱり残って良かった〉。これはほんとに大きな深い問題ですね。どこで起こってもこういうふうになると思うんですよ。
 

 
ナレーター:  故郷を離れ、避難するべきか否か。家族、友人、地域―放射能によってさまざまな絆が断ち切れていく理不尽さ。それぞれの事情や思惑とは関係なく、分断が進んでいく現実に、玄侑さんは思い悩んでいます。作家としても活躍する玄侑さんは、この三年半、国の復興構想会議の委員に選ばれるなど、事態が刻々と変化する中で、行政やメディアから意見を求められてきました。これまで数々の著書で思いを発信してきた玄侑さんですが、実は震災後しばらくは小説を書く気になれなかったと言います。しかし理不尽な現実を前に、書かずにはいられないと執筆を再開します。
 
玄侑:  結局震災後に出版社やら新聞社から求められる言葉というのは、福島に住んでいる人間としてのジャーナリステック(journalistic:新聞雑誌向きの)な言葉なんですね。「状況を教えてほしい」という。それでもの凄く時間が取られたわけですけども、そういうものも書いていたわけですよ。でもなんかそういうものでは満たされないというか、自分の中のやっぱり不安定さというのがあったんだと思うんですね。やっぱりフィクション(fiction:小説)というのは、ほんとに現実を踏まえたうえで、やっぱり練り直したところから出てくるものなんですけども、踏まえるべき現実というのが変化し続けていましたから、よくわからない世界に突入していく感じ。ほんとにこのまんまどっちへいくんだろう、どうなっていくんだろうという変化のただ中でしたから、まったく自分自身が重心を―揺れる船の中で重心を取り戻すみたいな、そういう作業だったんじゃないでしょうかね。小説書いている時間って、ほとんど鬱々(うつうつ)しているわけですよね。「鬱々としている」というと変ですけど、現象としてやっぱりパソコンに向かい続けて、黙って、ああでもこうでもない、やっているわけですから。こういう時間というのは、もっと凄い禅僧ならば、無しで済むのかも知れないという気もするんですけど、私には必要なんですね。ただそういう表現というものが、広い意味で、何かを供養している、というような言い方はできるのかも知れないですね―供養。
 

 
ナレーター:  玄侑さんが、震災後初めて出した短編集『光の山』。老人や子ども、若い夫婦など、被災者が運命を必死に生きようとする姿を、六つの作品に描き出しています。「アメンボ」は、故郷に留まるか避難するかで、対照的な選択をした幼なじみ二人の物語です。主人公の小百合(さゆり)は、原発事故後も夫や子どもと共に福島に住み続けています。片や千春(ちはる)は、放射能を避けて、反対する夫を残し、娘を連れて県外に出て行きました。ある夏の日、小百合は千春と再会します。千春が夫と離婚するため福島に帰って来たのでした。
 
家に戻る途中スーパーに寄り、一緒に夕飯の買い物をした。
一瞬、福島産の肉でもいいかどうか訊いてみようかと思った。
しかし端(はな)から本気で訊きたいわけじゃないと、自分でも分かっている。
怖かった。
千春の反応で自分も傷つきたくなかったし、会った早々子どもの前で議論したくもなかった。離婚する意志の固い千春は、その場にあった般若(はんにや)の面と付けて小百合に呟きます。
「・・・あわせる顔がないのよ。ほんとは、小百合にだって」
小百合は籠もった声を頭の中で確かめるように反芻した。
そして唇を精一杯横に開いた千春の泣き顔を思いだした。
「・・・引き返せないの?」
思い切って言ってみたが、千春は暫く正面を向いて歩き、
それから般若の顔を大きく横に振った。
 
玄侑:  要するに、放射能という何の感覚も捉えられないものによって、楽観と悲観に分かれて、分断しているという状態に悲観しているんです。だから低線量の放射線の影響そのものよりも、人々がそういうことでいろんな理屈を言ってまで、分断の溝が広くなっているという感じがするんですね。そのことを非常に悲観してるんです、私は。ほんとに離婚やら、別居やらということがたくさん起こっていますから。どうしてそんなに放射能で線引きして、ものが考えられるのかというか、人間が生きている、生きさせる力というものをもっと見つめてほしいというか―例えば福島県のどこに住んでいても、個別の生活を持っているし、暮らしの歴史を持っているし、みんな違うわけですよね。例えばあの事故が起こって、どうするということを迫られた。その時点で抱えている家族の問題もあるし、夫婦の問題もあるし、いろんな要素がありますから、一律に考えることは無理なんですよ。例えば今現在、ほかの県のこういう町に住んでいる、こういう人がいて、というふうに考えた時に、みんな個別に考えてくれるんですよ。でも「福島県の被災者は」というふうに括られる、と個別性が一気に押し流されるんですね。放射能―だから「毎時何マイクロシーベルトの地域」ということで、まるで一色に染められるんですね。そのことに対するもの凄い違和感があるわけですよ。文学の仕事というのは、そういうやっぱり個別性を浮き彫りにすることだと思うんです。だから外目から見てよくわかる状況が揃っていれば、同じような人々だと思うのは大間違いだという。それはやっぱり小説でしかできないと思うんですね。
 

 
ナレーター:  『光の山』は、原発事故から三十年後の福島が舞台。一人の老人が、汚染された土や廃棄物の仮置き場に自分の土地を提供したところ、高さ二十メートルになった山が、不気味な光を帯びて輝き出し、観光名所になっている架空の物語です。
 
ほうら、そろそろ薄暗くなって、見え始めましたな。
じゃあそろそろ立ち上がって、皆で「光の山」に登りましょう。
はいはい、慌てなくても大丈夫。
五年前より少しは弱まってますが、
それでも充分に放射能は浴びられます。
おお、ご覧なさい。
この世のものとは思えん美しさじゃ。
透明で、清らかで、気高くて、
しかも毒々しい。
これが瑠璃色というもんなら、
阿弥陀さんじゃなくて
薬師如来のご来迎かもしれんな。
一回り八十ミリシーベルトのコースじゃ。
ほらほら、勝手に先に行って
二回りするのは反則というもんじゃ。
勘弁してくだされ。
まだ白装束に着換えてない人も
慌てなくて大丈夫。
はい、ではゆっくり出発しますぞ。
六根清浄、お山は快晴、
六根清浄、お山が光る・・・。
 
玄侑:  それは現実の中でスッと私の中に収まりきれない体験というのをするわけですよ。収まりきれないというのは、いろんなケースがありますけども、例えば怒りに近いものがあって、それを自分でどう自分の中に収めたらいいのか、というようなこともあるし、あるいは「光の山」なんていうのは、なんというんですかね、「みんな困っているんだったら家に持ってくれば」という、そういう人がいるんですよね。信じられないでしょうけどね。何だろう、みんなが助かるんだから、何とか飲み込もうじゃないかみたいな、そういうなんかこう心意気を持っている人がいて、ほんとに不思議なんですよ。自分でもそれよくわからないとこありますね。特に低線量被曝がどうなのかということは、おそらく科学的に結論を導くということは難しいだろうと思うんですね。メルヘン(独: Märchen:ドイツで発生した散文による空想的な物語。非常に古くて重要な文学形式の一つである。メルヘンの特徴として、動物が話をしたり、魔女や魔法使い、巨人といった魔法の助けを得るなどの空想的な要素がある。ドイツではメルヘンの概念はグリム兄弟によって形作られたと言われている)ですね。メルヘンって、もともと非常に毒を含んだものですから、それも毒があると思いますけど、美しいものって危険なんですよね。危険なものほど美しく―美しくというのかな、まあ毒々しいという見方もできるとは思いますけど、でもある種の鮮やかさで存在することがあると思うんですね。そういう山なんですけどね、それは。確かに悲惨なことが起こりましたけども、それを自分の思いによって何倍も悲惨にしていませんか、という部分があるじゃないですか。命そのものって、もの凄く逞しいし、凄い力を持っていると思うんですね。それを我々のさまざまな思いが、太陽を雲が隠すように覆ってしまう。それで悩み苦しみを深くしているという部分がとてもあるような気がするんですね。
 

 
ナレーター:  玄侑さんの福聚寺(ふくじゆじ)で、震災前から欠かさず続けていることがあります。毎月二十五日に行う地域の人のための坐禅会です。三春町の人だけでなく、福島県内から通っている人もいます。玄侑さんは、坐禅によって考え方を見つめ直すことで、悩みや苦しみから解き放たれるきっかけを掴んでほしいと考えています。夜の静寂の中、ひたすら自己と向き合います。
 
玄侑:  こうやって坐禅していて、「呼吸に意識を集中してください」と申し上げているんですが、そうじゃないことがいろいろ浮かびますよね。ああでもこうでもないと、いろいろ浮かんでくるわけです。この浮かんでくることを雲に喩えるんですね。煩悩みたいなものを雲に喩えているわけなんですけども、それを無くそうと、初めするんですね。雲というのは最初邪魔ものなんです。ですけども、浮かぶことが悪いのか。思わないということが自然なことかというと、そうではないですね。思っていいです。雲は浮かぶんですから。浮かぶんですけども、すぐに手放すんで雲のことが気にならない。ですから自分がその雲の上の青空―この晴天と言いますか、天になったような気分で眼下にこの雲を眺めていればいいんですね。そしてやり過ごす、あるいは楽しむ、そういう感じでもう一回坐ってみてください。
 

 
玄侑:  坐禅って、まあ何も考えないというのは目標ではありますけども、何というか、私の方の話も毎回、テーマみたいなものを立てますんで、ある纏まったことを考えてほしいなと思っているんですね。時間が経つ間に、こういう考え方もあるのかというふうに、思い直すというんですか、思い直すということが、今あんまり忙しさにかまけて思い直さないじゃないですか。そういう時間を意外に求めているのかも知れないなと思いますね。坐禅中に浮かんでくることというのも、とんでもないことが浮かんでくることがあるんですね。白隠(はくいん)(臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧:1686-1769)さんという方も、「昔そう言えば、彼奴に小豆何升、粉糠何升貸してたなぁ」とかって思い出したとかね。何でそれが浮かんでくるのかわからないということが、フッと浮かんでくるんですよ。ですから「雲」という表現が、我々をかき乱す煩悩の意味合いは確かにあるんですけども、それを無くすんじゃなくて、その存在が邪魔にならなくなるという、そういうあり方を求めているんだと思いますね。
 

 
ナレーター:  二時間の坐禅の後、心許し合える仲間との一時(ひととき)です。仮設住宅に暮らす斉藤泰助(さいとうたいすけ)さん、八十五歳。三春町に避難して来て、玄侑さんや多くの人と出会ったことで前向きになったと言います。
 
斎藤:  槍を振り回すらしいですね。仮設住宅に縮こまっていると、余計やりたくなる。
もうほとんど同情を買うような存在じゃないですもんね。ここに来て初めてなんだか人間ががらりと変わっちゃた。
なんだかおかしいんだな。
 
玄侑:  なんか私、どうまとめていいかわかりません(笑い)
 

 
玄侑:  心のあり方が変わってくると、全く見え方が変わってくるわけです。毒だと思っていたり、邪魔ものだと思っていたものが、何だ! 別に大したことないじゃないか、という。やり過ごせるようになる、ということだと思うんですね。仏教では「我慢」って、「七慢」(慢(まん)・過慢(かまん)・慢過慢(まんかまん)・我慢(がまん)・増上慢(ぞうじようまん)・卑慢(ひまん)・邪慢(じやまん)をいう)の一つと言って、傲慢( ごうまん)さの一種なんですよ、我慢するというのは。我慢しちゃいけない。こころをシフトしないで受け入れるのが我慢ですよね。そうじゃなくて受け入れられる心に変わっちゃうわけですから、それはもう我慢じゃないですね。その意識を優先させていますよね、今の世の中というのは。あまりにも言葉とか意識が作っている計画とか、目標とか、そういうものを優先しているんですけども、もっと深いところから訴えるものというか、聞こえてくるものに、耳を傾けた方がいいんじゃないかと。特に最近、原発事故以後よく使われる―それ以前からですかね―「想定外」とか、「想定する」という言葉がありますよね。意識が想定できる未来というものって、浅薄なものだと思うんですよ。コンピューターは何しろデータをほとんど無限と言っていいくらい蓄積してくれますよね。せっかくこんなデータがあるんだから分析したくなりますよ、無意味な分析でも。その分析しているうちに、シュミレーション(simulation:ある現象を模擬的に現出すること。現実に想定される条件を取り入れて、実際に近い状況をつくり出すこと)したくなって未来がわかるもんだと思い込んでしまう。だからなんというんですかね、それだったら天気予報をもっと当ててほしいですよね。私は、天気予報って見ないんですね。だって「こうなる筈だったのに」という思いがあったら、雨は二倍に辛く感じるし、なんか余計なものじゃないですか。こうなる筈だったのにって。筈はないんですよね。天気―自然というか、あらゆるものはそうだと思うんですけど、いろんな要素が突然加わってきて、微妙に変化して、微妙な変化が積み重なって大きな変化になって想像もつかなかったことが起こるわけですよね。意識というのは、それを決して捉えられないですけども、我々の無意識というのは、もっと深いものを感じられますよね。何かこっちへ行かない方がいいような気がするとかですね。理由は上手く言えないんだけど、なんか嫌な感じがするとか、あるいはこっちに行ってみたいような気がするとか、なんというか、そういう言葉にならない直感というものを、もっと信じたわけですね。言葉にならない直感というものを信じている人というのは、自動的にその時の直感が当たっていたんだという方向に歩んでいくんですよ。そうすると、なんとなく運がいいというふうに自分で思えるようになるんですね。予めこの道を行くんだと、行ったことのない方向に計画を立てるんじゃなくて、直感に従って進んで行って振り返ると、そこが道になっている。そういう進み方しかできないんじゃないですかね。だって予測したことしか起こらなかったら、生きていくという、わざわざ生きていくという意味がないじゃないですか。まったく予測しないことが起こってくるから、どう歩いていくのかという。その人生を自分で歩いて行くという意味になるんじゃないですかね。だから余りにも人生を計画を立てて進めるものというふうに考えるから、若い方々が特に生きる気力を失ったとか、やっぱり非常に悲観的に考えちゃうんですね。今現在から死ぬまでのことを、わかった気になるわけでしょう。だから生きていこうという気が湧いてこなくなるでしょう。それはなんでしょうね、今十年後も二十年後もわかった気分になるというのは、予測しないことがあんまり起こらないような暮らし方なんじゃないでしょうかね。突発的なことに対応するということが、日々誰でもあると思うんですけども、今後どうなっていくのかなんていうのは、自分でも予測つかないし、来年の今頃自分はどうしているだろう、というのもわからないですよね。そうしたらやっぱり生きていってみるしかないじゃないですか。
 

 
ナレーター:  玄侑さんは、この三年半、福島の被災者に向けて講演を続けてきました。この日は、今なお村の住民全員の避難が指示されている飯舘村(いいたてむら)から依頼されました。玄侑さんは、震災後大事にしている「風流」という禅の言葉をテーマに語り掛けました。
 
玄侑:  もともと今日は、震災以後、私もいろいろと揺れることがありましたし、いろいろと思うことがあったわけですけども、なんとなく震災というものに直面した人々が、心の中で起こったことというのは、大変共通したものがある程度あるんじゃないかと。まあ大変な出来事が起こって、みなさんの人生上の物語というのは、大きな転換を求められているわけですが、物語にやっぱり起承転結がないといけないわけで、転ができたんですよ、大きな転が。今日私は、「風流に生きる」という話で、「風流」という話をしたいんです。本来「風流」というのは、揺るぎのことです。揺らいでなんとか重心を取り戻すということです。予想外のことが起こった時に、この人はどう揺らぐのか、というところで、その人を見ているし、それが揺らぎっぷりがいいと非常に誉めるんですね。それが禅でいう「風流」という言葉のわけです。かなり風流なことでしたよ、この大震災は。いろんな揺らぎを与えてくれた。でも何とかこの重心を取り戻して、みんなまた立ったと思うんです。確かに今回起こったことは、「風流」と言っていらっしゃるようなことじゃないでしょうけども、でもやっぱり風流にしていかなければならなんじゃないかと、そういうことは。
 

 
玄侑:  いろんなものを、人は喪失しましたよね。でも、喪失したことによって、いろんなものが見えてくるということも体験したと思うんですよ。喪失によって、逆に人の情けに触れたこともあるでしょうし、いろんな人が訪ねて来たり、ということもあるでしょうし、まあほんとにダメージを受けた直後に、いろんなものが与えて貰えるということは、大事なことだとは思うんですけども、もう三年半経って、与えられないものというんですか、与えて貰うわけにはいかないものが大事になってきているな、という気がするんですね。震災後特に思うんですが、「風流」という言葉は禅語なんですよ。もともと千年も前から使われている言葉で、「人柄」という意味なんですね。「人柄」というものを、西欧みたいにアイデンティティ(identity:主体性、自己の存在意識)とかキャラクター(character:性格、人格)というものとして考えていないんですね。その揺るぎながらこの重心を取っていくというんですかね、揺らぎっぷりのことが人柄ですよ。だから例えば人間のあり方として、「風格」というのもありましょう。どっちにしても風なんですね。起こったことに対して、虚心に揺れるしかない。揺れて重心を取り戻すという、そういうふうに生きていくしかないわけですけど、「風流」というのは、だから揺れを楽しむような生き方なんですが、
 
山家富貴銀千樹(山家(さんか)の富貴(ふうき)(ぎん)千樹(せんじゆ)
漁夫風流玉一簑(漁夫(ぎよふ)の風流(ふうりゆう)(ぎよく)一簑(いつさ)
 
という言葉なんですけども、「山家」木樵(きこり)さんが、木樵をずっと続けていくんだという気持ちがしっかりあれば、雪が何日か降り積もって「銀千樹」という状景になっても、こんな富貴な景色はないじゃないか、と。あるいは漁夫が、雨が降り続いて漁ができない。でもそんな日が何日も続いても、漁夫で生きていくんだということが揺らがなければ、風流じゃないか、と。雨が何日か降るのも風流じゃないか、という言葉なんですね。「風流」と言えるのは揺らぎですから、あくまでも大揺れでなくて、小さな揺らぎ。そうすると、山家―木樵が続けられる。漁夫を続けるんだというのが揺らがなければ、あとは風流と思えるでしょう、という話なんですね。だから揺らぎとして、あらゆるものを楽しめベースには、どこで何をやっていくかというのが揺らがない。もっと欲を言えば、どこで、誰と何をやっていくか、というところだけ揺らがなければ、大概は風流と思える筈なんですけども。ここにかかっているのは、円覚寺という鎌倉の本山の前の管長さんの字なんですけれども、
 
不風流處也風流(風流ならざる処もまた風流)
 
風流ならざるところ―だから風流だなと思えないほど無様(ぶざま)なこともあるだろうけども、でも揺れて、なんとか重心を取り戻して、風流だったと言える。だから今回起こっているのは、風流ならざる事態なんですね。風流ならざるところなんですよ。でも、でもそこでもなんかなんとか重心を取り直して、やっぱり小さな揺らぎ、楽しめる程度の揺らぎに変えていかなければいけないですね。だから「風流ならざるところもまた風流」もの凄いこれ励みなんですよ。私が生きる、生き続ける、ということが大事なんで、これでいいという時はこないんですね、きっとね。振り返ってあれは風流だった、と言える筈なんですよ。こういう気持ちで生きていくしかないし、そう思っていれば、きっとそう思えるようになると思いますね。
 
     これは、平成二十六年九月二十八日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである