内村鑑三その面影をたずねて
 
                  立教大学名誉教授 鈴 木(すずき)  範 久(のりひさ)
一九三五年、愛知県に生まれる。東京大学大学院宗教学専攻博士課程満期退学。一九六七年立教大学一般教育部、文学部、コミュニティ福祉学部を経て、二○○二年定年退任。立教大学名誉教授。専門は宗教学・宗教史学。主として内村鑑三など、近代日本キリスト教を研究する。著書に「内村鑑三日録」「内村鑑三」「聖書の日本語」「中勘助せんせ」「近代日本のバイブル」「内村鑑三の人と思想」ほか。
 
ナレーター:  今年八月、神奈川県大和市(やまとし)で「平和を考える集い」が開かれました。幕末から昭和を生きた思想家で、キリスト伝道者の内村鑑三(うちむらかんぞう)が唱えた非戦論を学ぶ会です。講師を務めたのは、半世紀に亘って内村鑑三の思想を研究してきた鈴木範久さん。この日は日清戦争を是(ぜ)とした内村が、何故非戦論に転じたのかを語りました。
 

 
浅井:  内村鑑三は、もう生誕から百五十年以上経とうとしていると思うんですが、今でも内村の著作が新たに出版されたり、あるいは内村の思想を学ぼうという、何がそういった今も内村を学ぶということが続いている理由だと思われますか?
 
鈴木:  最近になって一つわかってきたことかも知れませんけどね、例えば内村のもつ戦争と平和の考え方とか、あるいは文明の考え方とか、人間の見方とか、いろんな面で長い時間感の中でものをみるという、そういう人だなという感じが、最近つくづくとわかるようになりましたね。内村鑑三の場合は、一つの戦争でも、日清戦争、日露戦争、その後来そうな戦争だとか、すべて長い目で見ているでしょう。人間の場合も、今当座の失敗・成功ではなくて、長い目で見るという。彼の信仰の時間みたいなものがあるから、もっと極端に言うと、長いというのは、この世だけじゃないとこまで視野に入っている。そういう両方が混じった時間だなとは思いますね。戦争一つにしても、内村の見た通りに進んできていますので、そうするとそういう内村の言った言葉が、決して死んだ言葉じゃなくて、生きていたという。そういうことがまた現代の我々にも参考になっているんではないでしょうかね。
 

 
ナレーター:  内村鑑三は、幕末の一八六一年、高崎藩士の家に生まれました。明治維新で没落した家の再興を担い、開校間もない札幌農学校やアメリカに学びます。そこでキリスト教徒として歩み始めた内村は、信仰故に、時代の荒波に真っ向からぶっつかる道を行くこととなります。一八九一年、第一高等中学校の教師だった時に起こった不敬事件。教育勅語に書かれた天皇の署名への拝礼を躊躇(ためら)った内村は、日本中から国賊と非難され辞職に追い込まれます。困窮の中著した著作や講演録は、後々まで多くの若者の心を捉えることになりました。日本は、日清から日露の戦争へと向かう時代、内村はジャーナリストとなり、足尾(あしお)鉱毒事件など社会問題に鋭く切り込みます。しかしロシアとの開戦に反対する非戦論を唱え、辞職。当時の住まいがあった東京角筈(つのはず)に籠もった内村は、「角筈の隠者」と呼ばれます。以後内村は、人々と聖書を学ぶ会を続けるとともに、雑誌『聖書之研究』の発行に情熱を傾けることになりました。教会堂もなく、聖職者の資格や儀式にもとらわれずに、共に聖書の言葉に向き合おうとする内村の生き方は、「無教会(むきようかい)」という新しい信仰のあり方を生み出します。亡くなるまで、聖書の講義を続けた内村は、その信仰に照らして、文明や社会のあり方にも鋭い目を向け続けました。その生涯を閉じたのは、一九三○年、六十九歳の時でした。内村鑑三は、六十九年の生涯に、膨大な数の文書や講演録を残しています。教師、ジャーナリスト、伝道者など、さまざまな顔をもつ内村の思想は、どのように形作られたのか。鈴木さんは、内村が生きた時代やその時代と内村がどのように関わったのかを示す資料を丹念に収集、著作を読むだけではわからない内村の思想の背景を多角的に理解しようと努めてきました。また内村を知る人々の言葉を拾い集め、人間内村の実像に迫りたいと考えてきました。
 
鈴木:  内村の書で、一番右側の「単独之幸福」というのは、よく私も使いましたけれど、内村自身の思想を表すのに、「孤独の幸福」というより「単独」というところが、日本でこれを強調した人はほとんど少ないと思いますが、単独者内村という、それがよく出ておりますので、私も好きな内村鑑三自身の書ですね。左のは、ちょっと年月がはっきりしませんし、英語で「If I am not changed in all life,I am died.(変らざらんか、我は死せるなり)」もし私の全生活に非常に変わらなかったならば、私は死んだも同然だ、ということを書いております。
 

 
ナレーター:  内村が亡くなって五年後、一九三五年に、鈴木さんは生まれます。内村が案じた新たな戦争の時代に少年期を過ごしました。国民学校一年生の頃、母が亡くなり、父は出征、親類の家に預けられます。敗戦のショックもさめやらぬ中、新制高校に入学しますが、結核のため、すぐに退学。内村鑑三の著作に出会ったのは、度重なる挫折を経験した失意の病床でのことでした。
 
鈴木:  一九四五年を境にしてですね、ガラッとひっくり返って、私の担任は、非常に愛国心がつよい女性の先生でしたけれど、学校の裏山の山火事の時に、火が学校に迫って来たら「保安林が焼ける!」と言って、泣き叫んだという話もあるぐらいの先生でした。その同じ先生が、敗戦と共に墨を擦って、そして教科書に今まで一番強調したところを「塗りつぶせ」ということをやったわけですよ。これほど酷い、我々に対してのある面で裏切りはないですね。だから先ず人間とか大人とか、そういうものを信用しないという、そういうのが戦後の私どもが体験した一番大きな経験だと言っていいだろうと思いますね。そしてそういうような時に、最初から信用するなということを、内村は、特に日本の教育についてもかなり手厳しい文部省批判とか、そういうこともしていましたしね。
 
浅井:  最初にお読みになったのは、おいくつの時、何をお読みになったですか?
 
鈴木:  初めは、『後世への最大遺物』とか、そのうちこれはちょっと大変な人だというところで、著作集という二十一巻の岩波書店から出ていたあれを一夏かかって読みました。内村自身もあそこで人生の失敗を重ねてきましたね。人生の失敗を重ねてきた者は、普通は人生の落伍者としての意識しかなくて、それの道しか生きるのはないというふうに思っているところへ、ある面で『後世への最大遺物』では、いや、それで良いんだ、と。そしてその道の方がほんとの人間らしい生き方なんだ。さまに私が思っておったようなこの世的価値観じゃない価値観を抱いた人物、抱いた思想が内村の中にあると思ったことは、やっぱり引き付けられた最初だろうと思いますね。
 
浅井:  内村を一つの研究の対象と言いましょうか、内村の思想を追っていこうというふうに思われたのはいつ頃?
 
鈴木:  大学の半ばぐらいからでしょうかね。高校の先生をコツコツやっているいる人に小沢三郎(おざわさぶろう)という先生がいましてね。その人のところへ訪ねて行ったんです。「私は今これこれこういうことで内村の勉強をしている」ということを言いましたら、「資料はそれだけでいいですか?」と言って、私の目をしかっと睨むようにおっしゃってですね。今時―戦後ですから内村もちょっとしたブームでしたから、いろんな人たちが内村のことを称えるような論文をたくさん書いております。そういう人たちを挙げながら、「あれだけの資料であんな大きなことが言えるんでしょうか」ということを言われましてね。「ああっ」と思って、そしてものが言えるための十分な資料とは何なのか、ということを考えさせられたことがありました。それからもう一人は、古本屋をしていた品川力(しながわつとむ)さんという人で、本郷の落第横丁で古本屋「ペリカン書房」というのをやっていた。品川さんの実家は、新潟県の柏崎で、内村鑑三たちが新潟の信徒たちを集めた会合を開いた時に、その品川さんもお父さんと一緒に子どもで写っている写真がありますけども、その後なんとなく内村に惹き付けられたようですね。神田にありました古書店とか、私も古書店などは比較的あの頃は行っていた方ですから、そうすると品川さんと毎回といっていいほど出会います。ちょっと声を掛けるのも憚るように、こうしてある文献の前へ来ると打ち込んでいるんですね、それに。で、そしてまったく内村とは関係ないような文献の中から、ある人が内村鑑三についてちょっと触れたりした言葉を集めて、その結果を『内村鑑三文献目録』という形で作られた方ですね。だからある面では私がそういうことの生活に入る発端には、小沢さんの「資料はこれだけで良いのか」ということ、それから品川さんの普通の、唯の中でも出てくる一見見逃しそうな資料の中に出てくる内村という、そういう二人の人、二つの方法で、私も教えられて、そのような時期をかなり―今でも続けているかも知れませんけどね。
 

 
ナレーター:  一九八○年、内村の没後五十年を期に作られた全集は、内村の著作などを徹底した編年体(へんねんたい)で並べ、その思索の歩みを辿れるように編まれていました。鈴木さんは、その編纂に携わった一人でした。
 
鈴木:  ここは内村鑑三の生涯を、生まれた時から、
ナレーター:  それまで知られていなかった資料を発掘し、また日記や手紙、関係者の証言など、内村に関わるあらゆる事柄を日付順に整理、その成果は『内村鑑三日録』に纏められています。内村が一日一日をどのように生きたのか。詳細に明らかにしたこの仕事は、内村の人間像を思想と共に浮かび上がらせるものとなりました。その日録に、隠者と呼ばれた頃の内村を訪ねた雑誌記者の記事が収められています。
 
応接室からは、すぐ通路を真下に見下ろすことができる。家中がらんとして物静かに、ただ裏の方でオウムが「オタケサン、オタケサン、ハ〜イ、ハ〜イ」などとおしゃべりをしておるのが、四辺の静寂を破って、やや喧しく聞こえるのみである。待つがほどなく背の高い、髭の濃い、眼の光った主人の姿が応接室に現れる。
この文の記者は、内村先生と初対面で、初めは定めて気難しい涙もろくにせぬ、何か言えば、すぐ怒り出すような人と想像していたが、会うてみると予想したよりは打ち解けた親しさのある態度で話し掛けられる。
 
鈴木:  戦後内村鑑三のことについていろいろ書かれたり、書いたりしている人たちからみると、内村鑑三というのは、厳しい人とか、ある面では怒りっぽい人とか、偏屈な人だとか、信仰的には譲らぬ人とか、まあそういうようなイメージでどうも語られるのが、偉大な思想家だけども、そういう人物だという面が多かったですね。私の内村研究に心掛けていた時代には、生前の内村を知る人たちも少なからずまだご生存でした。だからそういう人と出会う度に、「どんな人物でしたか? どんな方でしたか?」と、よく訊きました。私は頭に入れてた、あるいは人から受け売りされていたような人物と違う面が出てきましたね。例えば長いこと集会でオルガンを弾いていた音楽学校の学生だった女学生がいますけど―まあ私がお会いした時は、もうおばあさんでしたけども―その人が先ず強調して言ってくださったことは、「内村鑑三先生はね、私の労をねぎらってプレゼントで、赤い靴を買ってくださったんですよ。そういうふうに内村鑑三先生は、乙女心のわかる先生なんですよ。ところが内村の近い弟子たちは、日曜日がきても、黒い着物を着て、そして小脇に聖書を抱えて気難しい顔をして集会に通っているけれども、そういう人たちから見た内村と、私が見た内村先生とは随分本当は違うんですよ」と、そういうことをおっしゃったり、あるいは内村家で長いことお手伝いをしたそういう人たちの思い出をみますと、内村家では奥さんが、子どもたちやお手伝いの人にプレゼントするけど、奥さんはプレゼント貰わない。そうすると内村がある時、フッと奥さんに差し出したプレゼントがある。何かと見ると、蒔絵のついた櫛だった、というんですね。そのお手伝いの人は、「あ、先生は、こういう人なんだ、ということもわかった」ということを言ったりしていますね。あるいはまた集会なんかの会場に、割合早く集まった人が見かけた風景があるんです。それは内村先生がもっと早く会場に来ていて、窓を開けたり閉めたりしている。つまり大勢の人が集まるから空気が悪くなる。空気を入れ換えしなくちゃいけない、と言って、通風にとても神経を使ったと言いますし、私も初めて教えられてビックリした出来事は、そういう大勢の集会の真ん前にズーッとベッドが並んだというんです。ハッと私も訊きました。身体障害があったり、寝かせないと話の聞けない人のために、最優先に一番前にベッドを並べたというんですね。アッと思いましたね。内村はそういう心使いをしていて、会場でもしていた人なんだ。あんまりそういうのは書いたもので見たことがないですね。だからそういう語った人の口を通して相当わかりました。写真なんかのせいもあるかも知れませんけど、一見気難しいような怖い人というイメージがありましたけれど、内村の書いたものを読んでいくと、例えば私なんかが非常に印象的だったのは、「一番嫌いな人」というところで、「それは宗教を人に押し付ける人である。これまったくご免だ」というようなそういう言い方をしましてね。あぁ、ほんとの意味の宗教的涵養というのを、内村は心掛けていた。だからあまい宗教的涵養ではなくて、ほんとの意味の宗教的涵養というのを体得している。そういう人だなということもそこでわかったですね。
 

 
鈴木:  これが『余は如何にして基督(きりすと)信徒となりし乎(か)』の英文『How I Became a Christian』で出した初版ですね。一八九五年ですね。
 
ナレーター:  内村が若き日の信仰の歩みを記した著書『余は如何にして基督(きりすと)信徒となりし乎(か)』、この本は、内村の生きた時代に既に世界各国で翻訳されていました。内村は、札幌農学校で学んだ十七歳の時に、キリスト教徒となり、生涯その信仰と信仰に根差した思想とを深めていきました。鈴木さんは、内村が生きた足跡を実際に訪ね、その歩みを辿っています。
 
鈴木:  何か宗教の研究というと、観念的な偉い宗教家の思想を思想として追うような―これは日本の哲学でもそうですけれども、そういういき方が一般的にあったですね。それに対して人間と結び付いた思想として捉えるという、そういう研究態度が、私なんかが学生の頃はちょっと行き渡っていまして、できるだけ内村鑑三の人生、辿った道を少し遅ればせながら辿ってみたいという、そういうことは一つの方法としても試みましたですね。彼は上州(じようしゆう)の高崎で生まれましたが、内村家のお墓があるお寺があります。そのお寺へ行ってお墓を見ますと、かなりのお墓が、内村鑑三が建てていますね。昔は長男という立場は非常に複雑のようですね。特に弟たちが不敬事件だとか、いろんなことで内村及び内村の一家に対して世間から攻撃されるし、そして家計的にも苦しい状態、そういうところへ追い込むわけですね。そうするとその責任はみな長男である鑑三だという。それでお母さんが亡くなった時にも、弟たちは―内村も書いておりますけど―ちょっと精神的な病気でお母さんは、あの頃巣鴨にあった病院へ入れたわけですね。そうしたらそれを母に対する虐待だというふうに見る弟たちもいて、ほんとに私もビックリしたことの一つは、内村のもとに書生役でおった人がいます。そこの家へも行ったことがありますけど、そういう頃は娘さんの時代でしたがね。「こういうものもあります」と、ちょっと見せてくれたものがあります。それは葉書の束でしたけどね。どういう葉書かと言いますと、弟たちが兄の鑑三に宛てた呪いの手紙ですね。朱い字で書いてあったり、酷い文面が二言三言並んでいたです。それをその書生役の人が、「これはちょっと先生にはとても見せ難い」と言って、自分の懐へ入れていたんですね。ソッと内緒で取ってあったんですね。だから私なんかも、そういう手紙を見ると、弟たちの兄鑑三への反感と言いますか、敵視というのがやっぱり本物だなということが改めて確認できましたね。だから内村が、いよいよ後に、「肉の兄弟よりも霊の兄弟」と言って、あの頃から全国から教友会(きようゆうかい)と言って信仰のグループを方々に、地方毎に展開していく一つのきっかけになったと思いますね。
 

 
ナレーター:  鈴木さんは、内村の信仰に大きな転換をもたらしたアメリカでも、その足跡を辿っています。内村は、札幌農学校を卒業し、農商務省の役人として働きますが、最初の結婚の失敗の後、アメリカに渡ります。キリスト教国アメリカで働きながら境涯を切り開こうとした内村に、信仰の大きな転機が訪れました。
 
鈴木:  アメリカへ行くきっかけは、いろいろ内村は、伝記風の作品の中では、社会事業の探求とか、一応理屈付けておりますけど、やっぱり私は前の奥さんとの離婚の問題と、そしてそれからの再起を懸けて、自分に札幌で与えられた信仰の母国であるところへ行けば、ひょっとするとそれが契機が与えられるかも知れないと思って、自分の再起を求め、再生を求めた旅だろうと、未だに見ておりますけれども。ところがなかなか就職口がなくて、最初行ったのはエルウィン(ペンシルベニア州)という知的障害児の教育施設ですね。教師と言われているけれども、実質は看護人という、そういう生活に入りました。あそこは、小さな鉄道の田舎駅―一時間に何本といって―一本もあるかないかぐらいのところでしたから、それにちょうど私どもが行った帰りは遅れちゃって三時間ぐらい駅で待っている。そうすると誰もお客は乗らないです。その生活に入った直後の内村の手紙を読みますと、ほんとに嘆きの手紙ですよね。まあそれはそうだと思います。昨日まで農商務省のお役人だった人が、一夜明ければ、アメリカへ来て、当時の言葉で言えば、白痴(はくち)(重度の知的障害の古い呼び方)と言われた子どもたちに、「おい、尻を拭け」というと、お尻の世話をするとか、こんな惨めなということを本人も零していました、最初はですね。だけどそこで生活しているうちに、一人ひとりの子どもたちと親しくなっていって、今度は考え方が変わってきましたね。神はどんな人間をも決してムダにはお造りにならなかったと。その後でアマスト大学へ入りますけども、私はアマスト大学でシーリー総長との出会い。これも大きな出来事だけれども、その準備をさせた者としてエルウィンでの知的障害児たちの看護人生活というのが大きな備えをなしている、準備をしていると、そういうふうに思いましたね。内村は、罪の問題には非常に苦しみまして、その克服のために罪のいろいろ辛い仕事は、先ず試練であるとか、修行であるとか、そういうふうに思って自力でそこから克服しようと歩んでいましたね。だけどなかなかその時が訪れない。その時に学長が、そういうことで悩んでいる内村の姿を見て、「内村君、自分のお腹ばっかり見ていてはダメだ。天を仰ぎなさい。キリストを仰ぎなさい」という、そういう言い方をして、ハッと彼は気付いたんですね。自分の力じゃないところ、そういう道があるんだと。内村が、エルウィンで出会った子どもたちというのは、自分の努力や自分の良い行いで立派になられる。いわゆる一般社会の子どもたちみたいな可能性というのは否定されていたんですよね。否定されていたけれども、しかしそれは一般の見方であって、内村も最初はそう思っていたけれども、あそこで滞在している間に、そうじゃないんだという。彼らは彼らなりに存在としての価値があるんだ、ということを気付くわけです。だから人間観の転換ですよね、エルウィンは。人間観の転換があって、そしてその次は、信仰観の転換と言ってもいいと思いますね。だから今までの自分の行い、自分の良い行為、そういうもので何とか克服しようとしていた生き方は吹っ切れた、と言ってもいいと思いますね。で、そこでじゃキリストへの道を示されたかも知れませんけれど、私が思うには、まだこれからの彼の人生のいろんな経験を経て、それが少しずつ少しずつ身に付いていくんじゃないかと実は思っています。
 

 
ナレーター:  アメリカから帰国した内村が、二十九歳の時に直面した不敬事件。教育勅語への拝礼を躊躇(ためら)ったことから、国賊のそしりを受けたこの事件は、内村の人生を変えたもっとも大きな出来事と言われています。
 
鈴木:  「辞表は書かされた」ということになっていますが、これ一目見て、内村自身の字じゃないです。「村」をこういう字で、内村が書いたものを見たことがない。
 
ナレーター:  鈴木さんは、関係者が残した当時の資料を発掘。事件を報じた新聞記事や周囲の人々の記録などを内村の行動に重ねて事件の実相に迫る日録に纏めあげました。
 
鈴木:  私の今手にした情報による限りは、確かに式場へ臨む前は、キリスト教信徒の先生は三人いて、あとの二人はみな予想して欠席しちゃいました。内村のそうしようと思った時があると思います。だけどそれを欠席しないで臨んだということは、敢えて何かをしようとしたと思います。内村はひょっとすると、そこで拒否しようと思って行ったと思いますが、ほんとの土壇場になったら、ちょっとそれを敢行(かんこう)できなかったですね。それで躊躇しちゃった。躊躇しちゃった態度は、今度はやり玉に挙げられたのが、私の見た実相かなと思っております。そう右か左かを、いつもはっきりしているわけじゃない。形式的に、あるいは頭の中だけで決めてない。そこも一つの、私は若い頃は「なぁに潔く拒否すれば良かったのに」と思った時もありましたけど、だんだんそうでなくなりますね。やっぱりそこがかえって私は親しみを覚えます。迷っている姿。例えば文献的にいうならば、当時一高の校長は、木下廣次(きのしたひろじ)という人ですけど、その子孫の家へ行きまして、不敬事件の顛末、あるいは内村に渡そうとした手紙―あの頃の時代の人は、みんな手紙に控えを取っておりますね。その控えが残っていましたね。木下校長が、内村をどう説得しようとしたとか、その前後の動きもかなり残されていました。それからあるいは不敬事件で寝ている内村の家庭にいろんな人が押しかけては乱暴狼藉を働いたということもよく言われている。だけど具体的となるとない。だけどこれも品川さん的な探し方ですけれども、ほとんどと言っていいほど知られていない中に、後に大学の先生になった人が書いた文の中に―彼はその頃一高生、内村の事件も身体で体験した一人ですね―その人が書いている文章を見ると、あの頃自分も内村家へ行って放尿して帰って来たと。尿をふっかけて帰って来た。そういうことをはっきり書いていましてね。言われているだけでなくて、はっきり書いている文章というのはやっぱり初めて見たと思います。本人の文章で、やっぱりそれが裏付けられると、初めて、「あ、本当だったんだ。大変だった」という実感が確証させられますよね、新聞の中のそういういろんな記事を見ると、もう総攻撃ですね。あらゆるありとある新聞ほとんどですね。一月に事件があって、四月ぐらい、内村が新婚してそれほど経っていない奥さんがやっぱり病死して、内村はあの若い身空(みそら)で国賊の妻として死なざるを得なかった妻への思い、それから妻の心を推し量ってほんとに涙したり嘆いていますね。発表したものでしたら、『基督信徒のなぐさめ』がありますね。不敬事件の直後にですね。あの中で初めて「無教会」という言葉が当用してきます。結局あの事件によって、教会側のキリスト教というのは、大多数は内村を見捨てたと言ってもいいと思いますね。キリスト教は、文明開化と共に鹿鳴館ぐらいをピークにですね、上昇気味できたけれど、あの前後は、教育勅語やら、いろんなことがあって、日本主義に反するというような、あるいは国家主義に反するというような批判を受けておりました。そこへ不敬事件が起きたから、一般の世のキリスト教は、内村で迷惑を感じたと。せっかく自分らが努力してきたのは、これで水泡に帰しちゃう。それを内村がやったという形で、教会が内村を非難するという、そういう人たちもいました。だから内村はあの時に、初めて世の教会からも一歩引いて、そしてその代わり別の教会があるんだと。教会は建物んじゃなくて、松林であるとか、そういうものも教会だし、風の音も賛美歌だ。そういう「無教会」という言葉を初めて使いましたね。そういうふうで、一つの転換というものが不敬事件によって与えられました。
 

 
ナレーター:  余は無教会となりたり。人の手にて造られし教会今は余は有するなし、余を慰むる讃美の声なし、余のために祝福を祈る牧師なし、さらば余は神を拝し神に近(ちかづ)くための礼拝堂を有せざるか。彼(か)の西山に登り、広原沃野を眼下に望み、俗界の上に立つこと千仞(せんじん)、一人無限と交通する時、軟風背後の松樹(しようじゆ)に讃歌を弾じ、頭上の鷲鷹(しゆうよう)比翼を伸(のば)して天上の祝福を垂(た)るるあり。
 
鈴木:  今になって変ですけれども、「改めて」と言ったらいいかも知れませんけど、本当に内村研究に着手してからこれで数十年経ちますが、やっぱり不敬事件が大きかったなという実感を、同じ内村の面影でありながら、面影はもう一歩進化というのか、転換というんですか、そういうことを最近になって感じました。それは一つには内村を攻撃した大筆頭が井上哲次郎(いのうえてつじろう)という東京大学教授ですね。しかも倫理の哲学の教授。教育勅語にも非常に専念やなんかに務めた人ですが、この人が一九二六年ぐらいに不敬事件を起こしちゃったんです。天皇家のシンボルである三種の神器という「鏡と剣はあれは本物じゃない」というようなことを書いて発表したんですね。そうしたら頭山満(とうやまみつる)(明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭。玄洋社の総帥でもある。玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在であり、後の愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされる)とか右翼の連中が猛然と攻撃しまして、「井上哲次郎不敬事件」と言って騒ぎ立てたんです。井上哲次郎は貴族議員でもあったですが、もういろんな名誉職なんかをいっぱい持っていた人が右翼の思想家たちに血祭りにあげられたんです。その記事を見て、内村が実にいろいろな感慨を漏らしています。内村としてはおそらく自分の不敬事件の時の最大の敵と言いますか、最大の攻撃者が井上哲次郎だと言っていいと思いますが、何度も何度も自分の不敬事件の頃を思い出して書いている記事がいっぱいありますが、「自分は、不敬者と言われて二十年間苦しんだ」ということの記事がいっぱいあるんですね。何であの事件から井上の事件まで三十数年経っているから、何で二十年間苦しんだかと思って考えてみますと、不敬事件から二十年後というと、幸徳秋水(こうとくしゆうすい)の逮捕事件(大逆事件の一つ。明治天皇を爆裂弾で暗殺しようとした計画が発覚、この事件をきっかけに多くの社会主義者、アナキストに対して取り調べや家宅捜索が行なわれ、社会主義者を根絶する弾圧を政府が主導し、捏造したとされる事件。一般に「大逆事件」と言われる際は、この幸徳事件を指す。幸徳秋水事件ともいう)の年ですね。幸徳秋水の逮捕事件が出て、初めて不敬者がもう一人できてきたと言っていいかも知れない。それまでは内村の専売特許だったですね、不敬者は。内村鑑三というと「不敬者」という形で通ってきて、そして苦しんできたということは、その実感に―私は変な意味ですけど―幸徳秋水が出てきたことによって、自分一人でなくなっちゃったということを、内村は言いたかったと思いますね。それぐらい彼にとって自分というものを二十年間にわたってまったくの追放してきた「不敬」の意味を改めて思って、でも内村の日記などを見ますと、その井上の事件について語っている言葉で、とても印象的な言葉がありました。「自分は但しあの時はまだ若かった」―内村は三十そこそこですが―「自分は若かったから再起できた。井上さんの七十歳ではこれはそういうことを思うと、とても同情に堪えない」というような言い方もしていますね。だから七十歳ではとても身に背負い切れる重さじゃない、ということを、自分の経験を出して述懐していますよね。あの不敬事件直後だけの辛さだけじゃなくて、一生貫いた辛さで、結局彼の思想の根幹と最後まで中心の軸に不敬事件があったということを私も改めて感じますね。
 
ナレーター:  不敬事件後の困窮の中、内村が貪るように読んだと言われる旧約聖書のヨブ記。人は何故苦難に遭うのか。神から与えられる苦難の意味とは何かを問い掛けた物語です。
信仰も篤く、正しい行いの人ヨブは、ある日幸せな暮らしが一転、財産や家族を奪われ、耐え難い病に見舞われます。周囲の人々は、それが悪い行いの報いに違いないと言って、ヨブを一層の孤独に追いやりますが、ヨブは姿を見せない神に、一人その苦難の意味を問い続けます。人生に数々の困難が続いた内村は、このヨブ記をしばしば読み返しています。
鈴木:  そのヨブ(約百)記は、実をいうと内村が初めて一生懸命に読んだというのは、実は不敬事件の直後ですね。不敬事件の直後に内村はヨブ記を読んで、自分とほんとに同じ境遇に陥っているからどんどん読み進めていく。読み進めていくけど、あるところまできたら、これ以上は涙が出てきて読み進められなかったという、そういう場面に陥りますけど、その場面というのは、ヨブがまったく誰にも相手にされず、孤独になって、そして山犬だけを友だちとして過ごしていったという、そういうくだりですね。内村はおそらくそこでヨブと同じように、内村自身も山犬だけが友だちであるというような日本での状況に追い込まれていた時だろうと思います。内村はヨブ記については、三回講義をしました。第一回は、一九○四年(明治三十七年)ですから、その前の年に戦争廃止論という形で非戦論を唱えて万朝報社(よろずちようほうしや)を退社した直後ですね。ですからここでも世論には反する形ですし、収入の上では、それこそ餓死を覚悟した時期でもあった時に、やはりヨブ記の講演をしております。それから第二回目は、一九一五年(大正四年)になりますが、第一次世界大戦が始まった直後で、人間のすることに内村が疑問を抱いた時に、第二回目のヨブ記をしております。そしてここでは文明とかキリスト教というものに大きな懐疑が起こったそういう時期でもありました。そして後に割合大きな本になりますのが、一九二○年(大正九年)ですね。これはどんなことがあるかと言いますと、無教会を唱える内村鑑三に、教会の人たちの経営している会館を使わせるのは問題であるという反論がでまして、そして内村はYMCA会館を追われるという。その後ほんとに会場では苦労する時期がありますけど、その時にヨブ記の講演をしております。いずれもこの世的と云いますか、そういうところで追われているような立場でやっぱりヨブ記に何か惹かれたような気が致します。いろいろと自分の体験とか経験がほんとに一つひとつヨブの体験経験に思い当たり、何度も出てくる言葉は、やっぱり最初の時にあった「付き合うのは山犬」―具体的にオオカミかどうかはわかりませんけど―そういう人間からみな見捨てられたという、そういう時ですね。そこでヨブにとって一つの転機というのは、山犬と一緒におって、山犬と一緒に終わらなくて、ヨブは神と出会うわけですけど、内村にとっては、ヨブ記の中で、実はそこにヨブが希望を見出したところにキリストを見た、と言ってもいいと思います。この辺は現在でもそうですけど、旧約聖書学の、いわゆる学問的な方では問題はある読み方かも知りませんけれど、キリスト教的に言うと「福音」ですけども、そういうものを受け入れることによって、人生が今度は希望へと転換をするという。そこをヨブが神と出会ったことと同じように、内村は、そういう教えをキリストを介して伝えたんだという、そういうメッセージを内村はヨブ記に読み込んでいる、あるいは見出していったと言っていいと思います。内村鑑三のことを「日本のヨブ」という言い方で言われることが時々ありますけれど、内村本人は、決してそういう言い方はしてないと思いますが、アマスト時代の信仰義認(ぎにん)(キリストを信じる信仰によって、神に義と認められる)という行いとか、努力とか、そういうものによって救われるのではないということは、観念的にはわかっていても、実際の生活ではなかなか身に付かなかったと思いますね。その後事件とか、奥さんの死だとか、職業の失職だとか、あるいは娘の死だとか、そういうものを体験経験することによって、そしてヨブ記に描かれているように、自分もそういう行いとかなんかで人間の価値が決まるものではない。それによって救われるものではない、ということを、一歩一歩また深めていっただろうと思います。そして内村にとっては、キリストの伝えたメッセージとその神による希望しかないという、そういう内村のヨブ記理解であり、内村を「日本のヨブ」と言っていいんじゃないかと思っていますね。ヨブ記に続いて『羅馬(ロマ)書』の講義という一生にとってかなり大掛かりな聖書講演会をしていますが、ロマ書はまさに罪との克服の問題を主体にしておりますけれども、最後にですね―最近になって改めて気付いたことは「キリスト教道徳」というところを設けています。普通「キリスト教道徳」というと、一般にもフッと浮かぶのは「愛」という言葉ですね。キリスト教と愛とか。ところが内村鑑三は、第一番に「謙遜」という言葉をキリスト教道徳の最高として挙げています。これは一見ちょっと意外に見える。何故「愛」でなくて「謙遜」だろうと思いますけれども、その「謙遜」も普通の意味での諂(へつら)いでもなければ、無用なへりくだりでもない。どういう意味かというと、人間が自分以上でも自分以下でもないという状態の認識。つまり一方には、神の前で、ということがあると思いますけれど、それを謙遜の実内容というふうに内村は語っていますね。そしてそれを聖句で表すと「鼻より息の出入りする人」(イザヤ書二章二二節)というイザヤ書にあるその言葉を使い、そしてそれをこの前後ぐらいから内村はかなり度々使うようになります。敢えて言えば、「たかが人間じゃないか」という。だから思い上がってはいけないよと。自分の行為―行いによって救われると思ってはいけないよ、という言い方だろうと思いますね。まあここに内村の見る人間観というんですか、そういうものがもうエルウィンの時ぐらいにちょっと見えてきたような、どの人間も鼻より息が出入りする人、という意味では、まったく変わりはないんだという、ところが出てきて、それが晩年の内村が示した言葉とか行動だとか、そういうのでよく表れてきて、その一つが晩年の日記にチラッと見えるサンという知的障害のある子どもがたまたま内村家にお手伝いに来た。具体的にはどんな仕事を手伝いに来たのかわかりませんけれども、掃除ぐらいだったかも知れません。サンという少年が犬と遊んでいる姿を見て、内村は自分が働いていたエルウィンの施設時代をお思い出して、そして内村がどういう言葉で日記を結んでいるかというと、その頃内村が付き合っているどの人間にもまして、このサンが「素晴らしい人間だ」ということで結んでいます。内村鑑三の思想という場合にも、私が面影をどんどん変えていく、あるいは再認識して、未だにもう数十年―これから先も変わる可能性もありますけれども―ような気付かれなかったようなことの中で、私にとって、「あぁ、あぁ」と思うことが未だに続いています。
 
ナレーター:  東京目黒にある今井館聖書講堂。内村が聖書の講義を行った講堂が、この場所に移築され、今も聖書を学ぶ会や内村の研究会などに使われています。
 
キリスト教道徳と云へば直ちに「愛」と人は云ふ。併しパウロの為す所は少しく普通の信者と違ふ。彼は、第一に謙遜について記して、しかるのち愛に説き及ぶ。これは注意すべきことである。パウロの教ふる謙遜とは如何。謙遜の消極的反面は、一言にして云へば「思い上る勿れ」である。神に対して己の無知無力なること、キリストに対して己の罪深く穢れ多きことを知りて、人は心に謙遜を抱くべきである。謙遜の積極的半面は、自己に与へられし賜物を其儘(そのまま)に、その値だけに評価せよである。如何なる人と雖も何を持たずして生まれ来(きた)るものはない。いかに自己の罪は深くとも神は我に能力を賜ひて益々之(これ)を聖化(せいか)せんとし給ふ。信者は此(この)賜物の与へられあることを認めて感謝し、之を神のため主のため又人のために用ふべきである。
 
     これは、平成二十六年十月五日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである