人生〜「花に祈る 山に祈る」
 
               金峯山寺一山宝勝院住職 田 中(たなか)  利 典(りてん)
一九五五年、京都府綾部市生まれ。七一年、吉野金峯山寺にて得度。七四年、延暦寺学園比叡山高校卒業後、一年間吉野山東南院で随身生活を送る。同年四度加行満行。七九年、龍谷大学文学部仏教学科卒業。八○年、伝法潅頂履修。八一年、叡山学院専修科卒業、同年金峯山修験本宗総本山金峯山寺奉職。九三年一千座護摩供修行満行。一九九三年、金峯山寺の塔頭「宝勝院」の名跡を継ぐ。二○○一年、金峯山修験本宗宗務総長と金峯山寺執行長に就任、同年自坊林南院住職就任、現在に至る。二○一五年三月、宗務総長を退任。帝塚山大学特定教授、紀伊山地三霊場会議代表幹事、日本山岳修験学会評議員なども務める。
               き き て       濱 中  博 久
 
ナレーター:  紀伊半島の真ん中近くに位置する奈良の吉野山。古くから桜の名所として知られ、毎年春ともなれば、多くの花見客で賑わいます。この吉野山に鎮座するのが金峯山寺(きんぷせんじ)です。平安の昔から、修験道(しゆげんどう)の聖地として信仰を集めてきました。金峯山寺の僧侶田中利典さん、五十九歳。昭和五十六年(一九八一年)に金峯山寺に入り、広報の仕事を手始めに、宗門の要職まで務めました。田中さんがその道を歩んできた修験道は、役行者(えんのぎようじや)(役小角(えんのおづの/おづぬ/おつの)は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者である。修験道の開祖とされている:634-701伝)が開いたと伝えられます。日本古来の神道(しんとう)と伝来してきた仏教が出会うことで生まれ、山を修行の場としています。山伏の姿で山を廻り、自然の中に身を置くことで心を調え、人々の苦悩に寄り添えるようになることが修行の目的とされます。田中さんも、金峯山寺に入ってから三十年余り、吉野山での修行を続けてきました。山での修行を長年続けることで、心が広がり鍛えられたと言います。長年に亘って吉野山を廻ることで見えてきた心の世界とは、どのようなものでしょうか。金峯山寺の僧侶田中利典さんに聞きます。
 

 
濱中:  吉野と言えば、先ず思い出すのは、あの一面の見事な桜でございますが、毎年春にご覧になるのはとても羨ましいと思いますが。
 
田中:  吉野の桜は、今から千三百年昔に、役行者という修験道を開いたとされる大行者さまが、吉野から南へ二十四キロまいりますと、大峰山(おおみねさん)山上ヶ岳(さんじようがだけ)という霊山がございます。ここで一千日の修行をされて、修験道という信仰独特のご本尊を祈り出された。これを「蔵王権現(ざおうごんげん)」と言うんですが、この権現さまを山桜の木に刻んでお祀りをした。その伝説から、吉野山では蔵王権現さまのご神木が山桜であると。そういうお話が伝わりまして、土地の人々は千年に亘り山桜を大切にしてまいりました。また蔵王権現信仰がだんだん広がっていくと、その権現さまを訪ねて吉野にお出でになる方が、権現さまへの信仰の証に山桜を献木をして、で、吉野は山桜の名所になっていったわけであります。ですから日本の多くの桜の名所は、基本的に人間が楽しむために、愛でるために植えていったところが多いんですが、此処の桜は人が愛でるために植えた桜ではなくて、権現さまの信仰の証で植えられてきた桜である。そういう山桜。現在日本中にいろんな名所がありますが、その多くが染井吉野(ソメイヨシノ)という桜が植えられている。例えば本居宣長(もとおりのりなが)(江戸時代の国学者・文献学者・医師:1730-1801)が詠んだ、
 
敷島(しきしま)の大和心(やまとごころ)を人問えば
  朝日に匂ふ山桜花
 
本居宣長も実はこの吉野との深い関わりのある方なんですが、芭蕉(ばしよう)にしても、西行(さいぎよう)にしても、先人たちが桜を愛でて詠んだのは山桜花。権現さまのご神木であるという、そういう歴史の中で、吉野は桜の名所になってきて、多くの人が吉野の桜に憧れるようになった。
 
濱中:  私どもは、つい桜の花の美しさに目を奪われがちでございますが。
 
田中:  自然というのは、そういう意味では、桜の花の美しさのような清らかさ・華やかさもありますし、ちょっと天気が崩れてしまうと、山に入っていると命をも奪うような恐ろしさも持っている。両面を持っているわけであります。私どものご本尊というのは、実はその両面をビュジュアル化したと言いますか、形としたようなところがありまして、権現さまは青黒いお姿をなさっているんです。顔は凄く恐ろしいですけれども、実はその青黒(しようこく)―青黒い肌の色に大きな意味がありまして、これは何かというと、青黒は慈悲を表すというんですが、顔は大変お恐(こわ)い、お姿も怒りに満ちたお姿である。しかし肌の色の中に元々仏さまのお心がある。仏さまが、その日本の大地、その時代、その場所に応じて、姿を変えて―変化(へんげ)して、いわば数多(あまた)化身となって現れたのが権現さま。そうすると、大峰全体が権現さまの現れであるとするなら、その柔和な仏さまのお姿、それと荒々しい荒(あら)ぶる姿、これはまさに自然が持っている恩恵と脅威、両方を我々に教えつつ、山の修行を力強く守って頂ける。そういう権現さまのご神木が、桜というのは、ほんとに仏の慈悲と自然の恩恵とを間近に感じながら、我々は拝むことができる。
 
濱中:  地元の方が、桜を―山桜を大切にされるということ、具体的に、例えばどういうことでございましょう。
 
田中:  江戸時代には、特に桜一枝切る者は、「桜一本首一つ、枝一本指一つ」と言われて、一指を取るほどに、厳しい掟をみなが守って、枯れ木でさえも薪にしなかったというぐらい畏れて大事にしてきた。そういう桜なんですね。
 
濱中:  そうしますと、山全体を覆い尽くしている桜は、信仰の対象であると。
 
田中:  そうですね。その地元の人々も守ってまいりましたし、訪れる人たちが献木をして、山を埋め、谷を埋め、吉野はその献木の力、信仰の力によって、山全体が桜の山になっていったと。見守る人も訪れる人も信仰の気持ちを大切にしてきた、そういう山の歴史、花の歴史を持っていると思うんです。
 
濱中:  田中さんたち修験者に取りましても、そもそも役小角(えんのおづの)が祈りだしたという非常に深い意識としておありなわけですね。
 
田中:  そうですね。祈りの心を形として現れてきた。そこに意味があって、我々にとって自然というのは、欧米人が考える自然とはちょっと違う。その自然の中に神・仏がいます。桜の木に権現さまがいます。そういう気持ちが山の修行をする時には、大きな力となって、いろんなものに繋がっている。自然とも繋がっている。大地とも繋がっていく。我々の修行がいろんなものと一体となって大きな力を得ていく。そういう世界があるんですが、その一つの信仰の形が、権現さまのご神木という。山に祈り、花に祈り、祈りの中で私たちの宗教というか、修行というか、そういうものが形作られている世界がそこにあるんだと思います。ですから吉野などは、ほんとに全山が蔵王権現さまを中心に咲き揃うわけですけれども、ほんとは権現さまが愛でるために植えられた桜ですから、人間はその余禄(よろく)で桜を楽しむ。今は何かというと、人間が中心になりますよね。自分たちが中心で、自然が付属品のように思うようなところがありますが、そうではなくて、自然が先にあって、神・仏が先にあって、その余禄の中で我々の楽しみ、我々の営みがある。そういうことも、吉野の桜に学んで頂くというか、そこを見て頂くことによって、そんじょそこらの桜ではない。ほんとに日本の歴史の中で見守られてきた、受け継がれてきた桜の意味が、より深く訪れる人たちに伝えることができるのではないかと思うんですけれども。
 

 
ナレーター:  春は、毎年三万本もの山桜で彩られる吉野の山々。千三百年前の昔、役行者(えんのぎようじや)がこの地で修行を重ねたことが、修験道の始まりとされます。吉野の修験道を象徴するのが、大峰奥駆(おおみねおくがけ)修行。吉野から熊野まで百七十キロメートルに及ぶ紀伊半島の山道を、八日間掛けて歩き通すのです。途中山中にある七十五箇所の聖なる場所―靡(なびき)では揃って祈りを捧げます。田中さんが、初めて大峰奥駆修行を行ったのは、金峯山寺に入る直前のことでした。
 

 
田中:  私は、初めて本格的な山伏の修行と言いますと、大峰奥駆修行という、吉野から熊野を行くきつい修行があるんですけども、二十五の時に行くんですね。その時はただ歩くのに一生懸命で、もうほんとにくたくたになって疲れ果てて満行(まんぎよう)さして頂くんですが、その後お寺に入りまして、何回か行くんですけども、こんな辛い修行なのに毎年全国から嬉々として行者さんが来るんですよ。一年に一度、これに来ないと、もう一年が始まらないし、終わらないぐらいの人ばっかりが歩いている中で、私は山嫌いでしたので、ほんとに山へ行きたくなかったんですが、
 
濱中:  えっ! 田中さんがですか?
 
田中:  はい。山嫌いですよ。修行以外に山には行かない。それが、そうですね、七回目か八回目行って漸くね、大峰の修行はみんなこうして嬉々としてお出でになるのは、これなんだなというような山の修行の良さを、漸く知るのはそれぐらいからなんですよ。それまでは嫌々行っていた。そこから先ね、最後十七回ぐらい行くんですが、後は楽しいばっかりの修行で、毎年行っても楽しかったんですけども、初めはほんとに辛くて、山伏になっていなかったら来なかったと思って歩くんですが、そういう毎年行く中で、人間の心が漸く自然の中で鍛えられていって、分かっていく世界があるという。
 
濱中:  そういった苦しいことを、わざわざ体験することによって、「大変嬉しくなって楽しくなった」とおっしゃいましたけれども、そこはどういうものが得られるという感覚なんでしょうか。
 
田中:  人間って、やっぱり我(が)というかね、我が儘の気持ちを持っているじゃないですか。いろんなことを思うわけですよ。山を歩いていると、自分の我(が)がいっぱい出てくるんです。よく先達(せんだち)から「我(が)を捨てなさい」とよく言われるんですが、ほんとに我が捨てるどころか、大きくなっていくぐらいなものでね。ところが十時間を過ぎて、あるいは三日を過ぎて同じことをしていると、我(が)も一歩も動くことができないぐらい、もう委せるままに歩かざるを得ないわけですから、そういう身体の疲れと共に、心のいろんな我執(がしゆう)というか、そんなものが消えていくような、しかも山に入りますと、坂にかかると必ず先達(せんだち)から「懺悔懺悔(さんげさんげ)、六根清浄(ろつこんしようじよう)」と、自分の身も心も神・仏に懺悔(さんげ)して―キリスト教は「ざんげ」というんですが、仏教は「さんげ」と言うんです―懺悔して、「眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)」。私たちが下界のものを感覚する、眼とは、耳とか、鼻とか、舌とか、身体とか、あるいは心とか、これを「六根(ろつこん)」というんです。六根を清浄にして「六根清浄」。神・仏にひれ伏して、懺悔して六根を清浄にしていく。初めは〈坂を登るのにそんな声出して歩いていられるかえ〉と思うんですけども、言われるまま歩いて行くと、ほんとに声を出して歩く中に、なんとなく自分の中の我(が)も消えていくし、六根も清浄になっていく。そういうことを体験する瞬間が何度もおとずれて、それでも毎年〈今年も行きたくないな〉と思いながら参加していたんですが、その繰り返しの中で漸く「自然の中で生かされている自分を見つめ直す」というか、見つけ直す。我々は、「山に歩かせて頂く」というんですけれどもね。言いますけども、どっかで自分が歩いているつもりで歩いていますし、それも繰り返しの中で、〈ほんとに山に歩かせて頂いているな。山の神・仏に包まれて、そして身も心も浄められているな〉ということを、それはほんとに私が出来が悪いせいかも知れませんが、何度も何度も行くうちでないと、分からなかった世界が広がってきて、分かってからはほんとにあんなに山が嫌いでしたのに、けっこう最近は富士山も行ったりね、そのように行くようになりましたけれども、そういう体験を通じて心が修められていく。そういう世界が広がっていくんですね。
 

 
ナレーター:  山をひたすら歩くことで、心と身体が清められていく。自然の中に身と置くことで、神仏を身近に感じるようになる体験は、普段の生活では味わうことのできない貴重なものだと、田中さんは言います。
 

 
田中:  日本人の生きていく感覚の中で、「晴れ」という「褻(け)」を往き来する、というのがあるんですが、日本人は、日常毎日毎日、同じような生活が続いていく、これを「褻」と考えるんですね。同じ生活をしていくと、だんだん心がくたびれてきて、心が汚れてきて、心が弱ってきて、終いに心が病んでいって病気になると。それを時々元に戻さなければいけない。気を元に戻すから「元気になる」というんですが、日常が「褻」であるとするなら、元に戻すのは「晴れ」。「晴れ着」というのは、晴れを行う時に着るもののことをいうそうですけれども、「晴れ」を行う。じゃ、「晴れとは何ぞや」というと、日常ではない非日常。しかも日常は俗ですから、俗ではない聖なるものに触れる。その日常の俗なるものから、日常を離れて、非日常の聖なるものに触れる。これが「晴れ」なんですが、「一月元旦」「三月三日」「五月五日」、日本人は節気節気にそういう晴れを行ってきたんですけども、今の日常というのが、逆に毎日美味しいものを食べたり、毎日豊かな生活をして、「晴れ」と「褻(け)」を往き来する装置のものをだんだん失ってきているところがあるじゃないですか。そういう意味でも、山の修行というのは、日常を離れて、まさに非日常―一日十何時間も歩くことはないわけですからね。しかもおにぎり三個持たされて、リックに荷物背負って、朝から晩まで歩く。で、しかも歩いている世界が、神・仏の聖なる世界。聖なるものに触れながら非日常を体験する。それがこの山修行の素晴らしさで、自分の何遍も行く中で、そこが沁みていって、時々「晴れ」に行かないと―我々坊さんも普段は日常生活は日常ですからね―山での「晴れ」を行うところに、極めて現代社会だからこそ意味を持つような、そういう修行の世界が伝えられてきた。素晴らしいなという。
 
濱中:  修行が非常に動的な、身体を動かすということが本質のように聞こえますが。
 
田中:  山の修行ってね、いろんな気持ちでお出でなんですが、小さな気持ちでお出でになった方も、大きな気持ちでお出でになった方も、それなりに与えて貰える世界があるんですよ。一緒に歩く中でね。それなりになんか得ていく世界がある。それはなかなか人の心って、心を以て心を修めるというのは難しいところがあって、身体を調えて、で、心が修まっていく世界が広がっている。そういう親切さというか、歳を重ねて、あまり身体が動かなくなると、山の修行のようなことはできなくなるかも知れませんけれども、それは身体を使えるなら、使える範囲内で、使う中で心が修まっていく。そういうことの方が万人性を持っていて、誰でもできるのではないかなという。しかも自然と相向かうというか、街の生活をしていると、人間が自然の一部であるということを、ややもすると忘れがちなところがありますけれども、自然の中に入ると、ほんとに「自然の中に生かされて自分がいる。自然の一部として自分が生きている」そういうことを体験できますので、素晴らしいなという。漸く言えるようになったんですけども。
 
濱中:  田中さんにとって、共にあった自然というのはどういうものなんでしょうね。
 
田中:  いろんなことを教えて頂いたんですね。ある時、大峰の奥駆道に、七ヶ池(ななつがいけ)という靡所(なびきしよ)―修行の場所があるんですね。そこでお勤めをしていますと、一本の大木がありまして、そこは奥駆修行の時はみなそこでお勤めをするんですけれども、一本の大木にこんな青虫がお勤めをする間上っていくんですね。お経そんなに長くあげませんから、『般若心経(はんにやしんぎよう)』という短いお経をあげるわけですから、そんな何分も何十分もかからないんで、わずかなとこに進んでいくわけなんですが、それを見ながら私は、〈僕はいつかの時代―それは前世の、前々世かも知りませんけれども、この青虫であった〉ような気がしたんです、自分が。それは多分ああやって自然の中で修行しているからそんな気持ちになるので、自分はこの青虫だったというふうに思った途端に、あるいろんなものに対して非常にシンパシー(sympathy: 同情,思いやり,あわれみ)を感じるというか、人間だけが偉いのではない。ほんとに小さな虫の命と共にあるということを、目の当たりに感じることができた。あるいは七曜岳(しちようだけ)のところで遙拝(ようはい)をしながら、向こうに見える山を遠くに拝みながら勤行している時に、もの凄い雨の日でね、雨が降っていて、〈この雨が降っているこの雨と、あるいは降られている大地と、で、自分のいのちが一体であるみたいな、連なっているというか、連続しているというか〉そういうことを感じたんですね。それは想定するものではなくて、まさに「自ずから自然はあって、我々も自ずからあるいのちとして生まれてきて死んでいく。自ずからあるという世界が、そこに自ずからあるので、それは聞いているようなネイチャー(nature)という自然ではなくて、私も含めて自ずからあるものである。そこに帰っていく」みたいな、山の修行では帰らせて頂いた感じを、そういう体験を一緒にするんですよ。
 

 
田中:  役行者によって開かれた修験という信仰。蔵王権現という信仰が、全国に弘まっていった一つの証でもあるわけであります。
 
ナレーター:  田中さんは、自らを修験道の広告塔と称しています。全国各地へ講演に出掛けたり、本を出したりと、自然の中に身を置き、心を調える吉野での修行の世界を、多くの人々に知って貰う活動に取り組んでいるのです。
 

 
田中:  お寺って面白くて、うちだけではなくて、どこのお寺もそうなんですが、けっこう内向きなんですよね。僕、お寺に入って、いろんな編集の仕事とかするんですが、私、金峯山寺に一般の方が参加できる―山伏ということは俗人ですからね―一般の人に門戸は広がっているんですよ。山全体で正式に入峰(にゆうぶ)する「蓮華入峰(れんげにゆうぶ)」という修行があるんですが、これは一般の人も一緒に歩くんです。一般の人が一緒に歩くんですが、うちの機関誌を読んでいるのはうちの信者さんですからね、一般の人は読まないわけでありまして、そうすると、それは「一般募集」とは言わないだろうと。
 
濱中:  そこが内向きなわけですね。
 
田中:  で、雑誌にこういう募集をしているという案内を出したり、沿線の鉄道会社と一緒に、一般に広げて「みんさん方も来て頂きますよ」という、案内をするようになって、今は蓮華入峰は、百二十人ぐらいで行くんですが、その内の半分どころか、七割ぐらい一般の人がお出でになって、その中からまた新しい山伏も出てきている。だから修験って、知らせていくと、こんな素晴らしい世界があるんだという世界をほんとにもっているんですが、一般の人にとっては、敷居も少し高いし、情報も少ないし、そうすると、テレビの時代劇に出てくる悪い奴のイメージしかみんなには伝わりませんから、本当のところが伝わっていかない。で、そういう一般募集を始めてみたり、吉野という場所を多くの人に知って貰うと共に、この吉野という吉野大峰の信仰を紡いできた修験というものがもっと見直されるべきではないか。常に修行し続ける実修実験というのを「修験」というんですが、そういう宗教であるということは、まさに現代的にいろんな意味を用いると。堂々と現代に意味をもつ宗教であるという思いをもって、いろんなことに関わらせて頂いた。
 

 
ナレーター:  田中さんは、昭和三十年、京都府に生まれました。父親の得詮(とくせん)さんは、国鉄に勤めながら、山伏修行に打ち込んでいましたが、やがて勤めを辞め、専門の僧侶となりました。田中さんは、信仰に生きる父親の姿を見ながら育ったのです。
 

 
田中:  母が、私が二十歳を過ぎてから教えてくれたんですが、私が五歳の時に、父に連れられて大峰山山上ガ岳、大峰修行に来るんです。あの当時のことですから、多分全部歩いていないと思うんです。強力さんに背負われながら、何で五歳の時に来たかというと、母に聞くと、私は一歳半の時に、肺炎になりまして、死にかけたそうなんです。医者はもう無理だと。その前に父は山伏一本というか、祈祷師一本になっていましたから、母が、「自分の子の命も救えないで、何が山伏や、祈祷師や」と言うたそうなんです。父は大峰山の山上ガ岳のご本尊の蔵王権現様、役行者様に願をかけて、「この子は五歳になったら連れて上るから、どうか命を助けてやってくれ」と。それで見事に助かるわけですね。それで約束で、五歳の時に連れられて大峰に来るようになって、毎年信者さんを連れて、父は上っていましたから、こういう世界には早くから身に付けられたんですけれども、ただ、だんだん学校に行き出すと、近所の人たちから、友だちから、いわゆる「拝み屋さんの子」と言われるんですよ。それがやっぱり嫌でね。特に隣に禅宗の檀家のお寺があったんですが、そこの娘さんなんかにも「拝み屋さんの子」とよく言われまして、高校は比叡山高校という天台宗の学校に行くんですが、その時も「拝み屋の学校があるんか」みたいなことを言われたりして、そういう思いの中で大きくなって行って、父のことは信者さんも含めてみんな慕っていましたから、尊敬はしていたんですけれども、拝み屋の子であるということが、私にはやはりかなり辛いというか、苦しかったですね。
 
濱中:  ただ、お父さまを頼って信者の方々がお祈りをしてくれとか、頼って来られるわけですね。そういう姿はどのように映っていたんですか。
 
田中:  父自身が、「儂は拝み屋じゃない」とよく言っていましたしね。「拝み屋として来る人は来なくていい」というようなことを言っていましたから、みんなの評価とは別に、父は父なりで信仰者として真っ当に歩んでいましたし、それを慕う人もたくさんいたので、父は一度も「坊主になれ」とか、そういうことは言わなかったんですけども、ふっと振り返ると、なるべくしてなるような道を、五歳の頃からだんだん歩まされてきたのかなという。
 
ナレーター:  田中さんは、十五歳で得度、僧侶の道を目指すことにしました。仏教の勉強を続けることで、信ずる道を進むことへの決意が徐々に固まっていったと、田中さんは言います。その影には、修験道に対する世間の評価への反発がありました。
 

 
田中:  学校へいく前は、拝み屋さんの子できたわけで、そうすると、学校へ入ると、お寺さんの徒弟の人たちが多いわけです。で、彼らの中でまた修験の評価が低いんですよ。一歩下に見るというか、一段下に見るようなところがあって、いわゆる二足の草鞋というんですが、修験の多くが、うちの父もそうだったんですが、仕事をしながら修行をしたり、信仰に関わっていく。いわゆるもともとのお寺のようなお寺があって、で、お坊さんだけをしていてというのではなくて、一般の仕事を持ちながらやる人が多い。今もうちの宗門も七割以上は、そういう一般の仕事を持ちながら関わっておられる方が多いんですが、私のようにお坊さん専職でやりながら山伏をやっている数の方が圧倒的に少ないわけです。そうすると、いわゆる在家であって、お坊さんをしているというのが、山伏の世界でありますから、専門のお坊さんからすると一つ下に見るようなところが、高校も大学も、そういう傾向はあったんですね。私にとっては、言ってみると、みなさん立派な方もたくさんおられますけれども、そうでもない方もたくさんおられて、下に見られるようなことが納得できないような、もしかすると、今も思うんですが、お坊さんという資格を取ってなったら、それでそれ以上の修行ってあまりしなくても住職を続けていかれますが、我々はズッとけっこう元気な間は修行し続けるみたいなところがあって、そういうことの方が、何で下であるのかという、そういう思いがその後私がいろんな活動をしていく力になったような気がしますね。
 
濱中:  修験の道に入るということに、何か抵抗感を覚えたことはないんですか。
 
田中:  まあ今から振り返ると、こういう修験の世界ですから、霊的なこともみなさん経験はなさるんですが、私ね、最近思い出すんですね。忘れていたんですけども、高校生ぐらいの頃から、十五から二十歳ぐらいにかけて、よく金縛りにあったり、寝ていると変なものが起こしに来たりね、随分苦しんだことがあったんですね。これ、僕、忘れていましてね、そう言えば、あったなというのを、つい最近思い出すんですけれども。で、自分自身はお坊さんになろうとも思っていなかったし、父も一度も「僧侶になれ」とは言ってはいなかったんですけれども、実際には天台宗の宗門校に入り、周りがお坊さんたちがたくさん居て、大学もそうである。まあ自分の中で大きな自覚があったわけではないんですが、そういう霊的な触りも「四度加行(しどけぎよう)(密教で、伝法灌頂(でんぽうかんじよう)を受ける前に行う、十八道法・金剛界法・胎蔵界法・護摩法の四つの修法)」という修行を受けたり、この道に進む中でだんだん起こらなくなってきたんですね。それは何だったんかなというと、自分でもよくわからないんですけれども、まあ子どもの頃に病気をして、父が山上の権現様、行者様に願をかけて、そういう仏縁が、若くしてできていて、それに気付かない自分が、そういう霊的なことで、苦しむの中で、自分で決意して入ったわけではないんですが、そういう修行を重ねるうちに解けていった思えば、ほんとに導かれるまま導かれた。勿論若い時ですから、葛藤もありましたし、大学時代はお酒飲んで道端で寝転ぶようなこともありましたし、なんかこのまま進むことに抵抗もあったりしましたけれども、振り返ると自分の思いとは別に、ほんとに仏縁というんですが、仏縁に導かれるようにしてきたという感じが自分の中ではしているんですけども。
 

 
ナレーター:  田中さんは、二十五歳で金峯山寺に入りました。以来今日まで三十年あまり吉野での修行一筋に生きてきました。長年の修行で気付かされたのは、「人間は自然の一部分でしかない」ということだと言います。しかしかつては人々が持っていた自然を畏れ敬う気持ちが、日本が近代化する中で失われていったようだと、田中さんは見ています。
 

 
田中:  阪神淡路大震災、それから東日本大震災、昨年は御嶽山の噴火とか、広島の土砂被害とか、天変地異災害が続いていますですね。特に東日本大震災というのは大きな被害が出たんですが、原発の事故も起きましたし、連日のように、津波の映像、あるいは原発の事故の映像が報道される中でそれに違和感を感じたんですね。
 
濱中:  とおっしゃいますと?
 
田中:  想定外の大きな被害が出た。想定外の津波であった。だから大きな被害が出た。だから原発が、事故が起きた。「想定外」という言葉の裏には、まるで自然が悪いような、自然に善悪があるような、自然によって人々の大きな命が、たくさんの命が失われて、たくさんの人の生活が失われて、事故が起きた。自然が悪くて、というようなふうに聞こえたんです。自然にはもともと善悪はないわけですよね。私の中では、大きな被害が起きようが、原発が事故が起きようが、自然が悪いのではなくて、自然というのは、常にそのように自ずからあるようにしてきて、日本の歴史の中では、千年単位で同じような津波とか、地震とか起きていますし、御嶽山の噴火にしても、こうやって起きてきたわけで、人間が、「自分たちはその中で生かされている」ということを忘れているのではないか。我々が、長い間培われてきて、私もそう大した修行がないにしろ、山で修行さして貰って、思うところは、自然の中で私たちは共に生きさして頂いているということを、今の人たちはつい忘れているのではないか。その忘れているのを、ああいう災害が起きる度に、その自然の声というか、私たち日本人がそうやって営んできたことを忘れているのではないか。それを私たちに今繋いでくれてきたのが、修験修行、山伏の修行というふうに思うと、こういう自然への畏怖とか、恩恵とか、感謝を忘れさりつつある社会だからこそ、自然の中へ入っていって、単なる登山というか、トレッキングではなくて、そこに神・仏がおられることを前提に祈りを捧げていく。祈りの奥には、畏敬の念とか、感謝とかありますから、それは恩恵をもたらしてくれるから感謝するのではなくて、自ずからあることに感謝をする。そういう世界を、逆にいろんな、これからもきっとこの国は、そういう天変地異を経験していくんでしょうけれども、その中で私たちは、今の私たちを迎えてきたわけですし、そこのところを忘れずに、自然と向き合っていく世界をもっていくのが極めて大事だという。現代社会だからこそ、逆に修験が持ってきた自然に対する祈り、畏敬・感謝で共に行く。「共生」という言葉がありますけれども、実は「共生は共死を伴う」。「共に生きる」ということは、「共に死ぬ」ことでもある。一度大きな地震が来て、大きな津波が来ると、荒れ狂う津波に人々の生活は無くしてしまうわけですね。それはそうやって、共に生き、共に死ぬこともあると。そういう目線で自然に対して畏敬の念を持つことが大事で、人間の都合で自然を考えてしまうから、量ってしまうから、想定外という言葉を生んでしまったのではないか。
 
濱中:  「自然は、自ずとそこにあるものだ」とおっしゃいましたが、
 
田中:  自ずからあるもの、
 
濱中:  それはつまり人が想定できるようなものじゃないという意味でもあるんですね。
 
田中:  想定すること自体が、烏滸がましい話でね。
 

 
ナレーター:  吉野の山に伝わる教えの根本は、自然への畏怖であると、田中さんは言います。人間は、自然や神仏に守られて生きているという気持ちを取り戻し、日々の暮らしのあり方を見つめ直す必要があると、田中さんは考えています。
 

 
田中:  私たちが、もしか戻るべきもの、取り戻すべきものがあるとするなら、人が自然と繋がっていたり、社会と繋がっていたり、家族と繋がっていたり、そういうことの中に生きている本質があるのではないか。そんな難しいことを考えて、誰も山を歩いているわけではないんですけども、山を歩く中で得たことの知恵というのは、近代が今非常に閉塞感を持ちつつある中でヒントになるのではないか。土地との繋がり、土との繋がり、そういったものを重点において、私たちが山で修行して、まさに土の修行ですわ。土にまみれながら歩いて行く。それは例えば、私たちは、「歩く時に登山靴で歩な」というんです。登山靴というのは、岩の肌の温かさとか、土の軟らかさとか、そういうのをあんまり伝えてくれないんです。我々は白い地下足袋で歩きなさい。昔は草鞋だったんです。流石に草鞋では今の現代人は無理でしょうから、せめて地下足袋。地下足袋を通して土の温かさ、土の柔らかみ、足の裏を通して土の持っている力、そういったものを感じるのが修行だというんですけれども、まさまに土の力、それは場所によってさまざまな土の形があってそこから生まれてくる花も違うし、言語も違うし、考え方も違うし、そういったものを大事にしながら近代と向き合っていく。それを私は「修験道ルネッサンス」という。私が勝手に言っているんですけれども、修験道という日本人が持ってきた極めて希有なものの中に新しい価値観を見出していくことが、実は世界を救うヒントになるのではないか。違うもの同士が一つの価値観で、括られようとするから軋轢が起こって、衝突が起こるけれども、それぞれ持っているものを、それぞれで認め合いながら繋がっていく。人との繋がりが、人間はいろんなものを作ってきましたし、自然との繋がりがいろんなものを生み出してきた。社会との繋がり、人との繋がり、いや自然を含めての社会である。
 
濱中:  そこで「修験道ルネッサンス」でございますが、修験道が新しい時代をこれから作る。新しい時代に生きていくという言葉だと思いますけれども、どういう役割を果たすんだというイメージを描いていらっしゃいますか。
 
田中:  現実に答えというのは、私も知らないですし、誰も教えてくれないんですけども、私に取りましては、今言ったような評論家みたいなことばっかり言うてきたんですが、その裏には、父がやってきた拝み屋さん的なことが、やっぱりあまり好きではなかったんです。だけど仏教はグローバル(global:国家の垣根を超越した状態や行為のこと)な教えなんです。世界三大宗教というのは、キリスト教、イスラム教、仏教。世界三大宗教ってグローバルな宗教なんです。神道というのは、ローカルな宗教なんです。で、修験はそのローカルとグローバルが融合してできた、そういう宗教ですから、超ローカルなんですね。超ローカルな山伏を支えたのは、それぞれの土地で山で得た力を里で活かす山伏の活動、祈祷師の活動だったわけですね。父がやってきたことも、そういうことでいうと、決してそんなに卑下するものではなくて、人が生きていくのにどう寄り添っていくか、ということを生涯を通じてやってきたとするなら、私もあんまり評論家みたいなことばっかり言っていずに、ほんとに山で長いことお世話になったものを、里で活かしていく。そういう中で私自身が、ローカルリズムとグローバリゼーションとの棲み分けを体現していくことになればよいなと思っているんです。
 

 
ナレーター:  京都府綾部市(あやべし)にある林南院(りんなんいん)。田中さんの父・得詮さんが建てたお寺です。田中さんは、今年の四月から父が建てたこの寺を拠点に、新たな修行の道を歩み始めました。吉野の山での修行で培ってきたことを、これからは多くの人が暮らす里で活かしたいと思っています。
 

濱中:  田中さんは、この度宗門の職を辞せられて、お父さまが開かれたお寺に戻られたと伺っておりますが、これはどういうお考えからだったんでしょうか。
 
田中:  私、今年六十なんですね。いわゆる還暦。お坊さんの世界では、四十、五十は洟垂(はなた)れ小僧と言われまして、六十になって漸く一人前。考えてみると、私にとっては今年から一人前になるのかなという大事な時ではあるんですが、長いことうちの家、父が亡くなって以降、私が住職しているんですが、ほったらかしにしてきて、先ず随分逼塞もしているんですけども、もう一つは、金峯山寺というお寺での活動を通じて、いろんなグローバリゼーションの問題であるとか、ローカルな問題であるとか、いろいろ学びが生まれるわけですけども、最終的に気付くのは、山伏というのは、実は「山の行より里の行」。山の行は大事だけれども、それをどう里で活かすかということが大事で、今まで本山でいろんな勉強さして頂いて、修行もさして頂いたけれども、私にとっての里は、やっぱり父が拠点とした自坊での活動である。漸く「拝み屋」と言われていた子どもの頃の呪縛というか、そういうものが取れて、逆にローカルな、そこに生きる人たちに直に寄りそう、そういうことこそが、山伏道というか、究極だなと。確かに山で修行した力を、広く評論家のようにやるのもよいとは思うんですが、父がやってきたことは、どっちかというと、そうではなくて、もうちょっと里での人に寄り添うような、そういうものをやってきたということに漸く気付く歳になって、ちょうど六十というのは還暦ですから、リセットの時ですので、一度リセットしてやり直すには、自坊での生活を取り戻すことが一つの形であろうと。東京でも、護摩道場を持ったりしているので、そんな活動も含めてですけれども、一度本山での大きい視点での活動から、ローカルな、極めてローカルな活動に居を置くことで、いわゆる親父から受け継いだ山伏道の答えを見つけたいな。意味を見出せるものがあるように思うんですけどね。
 

 
ナレーター:  父・得詮さんが、この世を去るまで続けてきた悩み苦しむ人々に寄りそう生き方。父の生き方こそが、山伏修行を続けてきたもの、本来の姿であると。還暦を迎える歳になって漸く気付いたという田中利典さん。多くの人々と交わりながら、悩みや苦しみと日々向き合っていくことが、吉野の山で修行を続けてきた自らの務めであり、父の志を継ぐものだと考えているのです。
 

 
田中:  五年ぐらい前から、〈七十の田中利典に会いたいな〉という。五十五ぐらいからね、七十の田中利典に興味があるな。七十の時の自分に会うためには、六十という還暦に一度リセットをして、もう一度仕切り直しをして、世の中に相対していく、自分に相対していく、自分の周りのものに相対していく。それが大事なと。
 
濱中:  ただ里への、里での修行に帰るということは、やはりお父さまの道に帰るということでもあるんですね。
 
田中:  そうですね。父ほどの力はないので、どれほど里で役に立てるかどうか、わからないんですけれども、でも私なりにできることもあろうかと思いますので、それをつとめることによって、七十の自分が見えてくるのではないか、そんなふうに思いますけども。
 
濱中:  七十になった時のご自分の姿を思い描くというのは、どういうことでしょう。
 
田中:  私、十五で得度して、で、それまで幼名を「よしえい」という名前だったんです。「利典(りてん)」という法名を頂くんですけど、三十まで両方の名前を使っていたんですが、二つあるのではよくないだろうということで、戸籍も「利典」に三十で変えるんですが、この「利典」という名前が嫌いだったんですよ。
 
濱中:  えっ!
 
田中:  なんと坊さんらしくないし、ところが、いろんな人から―田中という名字が多いせいもあるでしょうけど―「利典(りてん)さん、利典さん」と呼ばれるんですよ。出入りの畳屋さんまで、「利典さん」と言われるから、〈俺はお前の友だちか〉というような感じでね、思うことが多かったんですが、いつの時代からか、「利典さん」というのは、親しみがあってみんな呼んでいるんやから、あんまり「利典さん」と呼ばれることを嫌ってはいけないと、何人かの人に言われるようになって、〈そうかな〉そう言えば、台所のおばちゃんもみんな「利典さん」とよく言いやすいかして、前からよく呼んで貰うなという思いがあってね、そうや良寛さんというのは、「良寛さん」という言葉で、なんかこう和んでしまうような、そういう響きがある。良寛さんを喩えるのは大変ご無礼な話なんですけれども、多分「利典さん」という「利典」という名前も、そういうような響きを人に伝える名前なんだな。七十になった時には、誰からも「利典さん」と言うて貰えるような、そういう居るだけで穏やかにみながなれるような、そういうお坊さんになるのが、一つの目標というかね。なんか難しいことばっかり喋っていることを続けているのではなくて、「利典さん」「はい」というだけで、みんなが和んでしまうような、そういう七十を目指していければな、と思っています。人間というのは、面白いもので、他の動物と極めて違うところがあるんですよ。何が違うかというと、犬も猫も象も牛も、みな生まれてすぐ歩けるんです。ところが人間のいうのは、歩けるまで約一年も人の手がかかる。つまり人の手が掛からないと、歩くことさえできない。食物を得たり、自分で自立するためには、随分いろんな人の手を掛けなければ、人は人となっていけない。その辺は他の動物界のものとは随分違いがあって、繋がりの中で生きているというのが、人間の人間たる所以なんですけども、そうした時に、勿論それは人間と人間の繋がり、人間と社会の繋がり、人間と国の繋がり、人間と風土との繋がり、人間と自然との繋がり、いろんな繋がりがある。そういうことを、修験道が体現できている部分をまだ残してきている。修験道という修行を通じて、一緒に山を歩く中で、人との繋がりの中で生かされていることも知るし、自然との繋がりを取り戻すし、あるいは実践ですから、身体を使って心が修まっていく。そういうものも用いた。それが全部今失われてきているのが現代社会とするなら、今こそ修験道が持ってきたそういう力が出番を迎えているのではないか、そういうふうに思うんです。
 
     これは、平成二十七年四月二十六日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである