心をつないで命を守る
 
                   防災学者 室 崎(むろさき)  益 輝(よしてる)
1944年生まれ。1967年、京都大学工学部建築学科卒業。1971年、京都大学大学院工学研究科博士課程単位取得退学、京都大学工学部助手。1977年、神戸大学工学部講師。1987年、神戸大学工学部教授。1998年、神戸大学都市安全研究センター教授。2004年、独立行政法人消防研究所理事長。2006年、総務省消防庁消防大学校消防研究センター所長。2008年、関西学院大学総合政策学部教授。関西学院大学災害復興制度研究所所長。
                   き き て 住 田  功 一
 
ナレーター:  一九九五年一月十七日の早朝、強烈な地震が近畿地方を襲い、兵庫県を中心に甚大な被害が出ました。阪神淡路大震災、あの日から二十一年が経とうとしています。室崎益輝さん、七十一歳。災害から命を守ることの研究に五十年近く取り組んでいますが、二十一年前、阪神淡路大震災に遭遇、防災の専門家として大きな挫折感を味わったと言います。
 

 
室崎:  もう家という家がもう全部ほんとに瓦礫の山になっていたんですよね。その時に涙が出てくる。これもどうして涙が出てきたかって、出たことは覚えているんですけどね。多分それは自分を責める涙だったような気もするし、それからやはりそういう専門家としてこういう事態が起きるということを見抜けなかった。
 

 
ナレーター:  神戸市にある「人と防災未来センター」です。室崎さんは、今この施設を運営する公益財団法人の副理事長を務めています。この施設では阪神淡路大震災の被害の模様を伝えると共に、地震などの災害に、人はどう向き合ったらいいのかを考えるための資料を展示しています。数多くの資料には、被災したり、自然や復興に携わったりした大勢の人々の思いが込められています。室崎さんも震災直後から被災地で調査と支援に取り組みました。
 

 
室崎:  二度とああいう悲しい悲惨なことを繰り返したくないということですよね。そのためにはその時の悲しさとか、あるいは怒りの気持ちもあったかも知れませんし、いろんな気持ちをやっぱりしっかり素直に多くの人に知って貰いたい。
 

 
ナレーター:  室崎さんは、自ら体験した阪神淡路大震災で、それまでも研究のあり方を根本から見直したと言います。今回の「こころの時代」は、防災学者室崎益輝さんに災害から命を守ることに懸ける思いを聞きます。
 

 
住田:  室崎さんが、「毎年同じテーマで呼び掛けているけど、なかなか伝わり切れない」と呟かれるのを思い出すんですけれども、メッセージというのは、思いというのはなかなか伝わり難いですか、どうですか?
 
室崎:  基本的にはあの時あの場に居た人でなければやっぱり感じられないというか理解できないことって沢山あるんですよね。それをその場にいなかった人というか、これからの世代の人たちに伝えようとすること自体ね、とても難しいことだと思われないといけないと思うんですよ。だからと言って、じゃ伝えるのを諦めていいかというとそういうことでもなくて、じゃどういう形で伝えたらいいかということだろうと思うんです。それもとても難しいことで、私は、だからそういうことを伝えることを考えた時に、四つのことをきちっと伝えないといけないと思ったんです。
一番に、自然の大きさというか、偉大さというか、それに対して人間が如何にちっぽけな存在かということを、我々はきちっとそこを理解しないといけないと思うんです。人間というのは凄く驕り高ぶっているところに、技術の力によって自然を押さえ付けられるんだと思っていたかも知れないんですが、そうではないんだと。もっともっと大きな存在だということをきちっと地震というエネルギーなどを通じて伝えないといけない。
二つ目は、人間の素晴らしさというのがあるわけですが、こんな大変な中でもみんな逞しく甦っていくというかね、再び生きていく力を得るわけです。自立していくというか、立ち上がっていくその後ろ側に多くの人の支えというか、助け合いだとか、そういうものがある。人間というのはそういうふうに助け合ったりするようなそういう素晴らしいところをもっているんだということを大切なことだから伝えないといけないと思うんですね。
それから三つ目は、こういうことが起きたのはどうして起きたんだろうか、ということ、一つは当然自然の大きさがありますが、それだけではなくて、私たちの社会の側にも、人間の側にも弱さがあったんではないか。高齢化社会がどんどん進んでお年寄りが古い街の中に取り残されているような、そういう状況を我々自身が作ってきたわけですよね。あるいは自然を破壊をして、今までだったら溜め池があったりとか、緑があったりしたけど、そういうものがどんどんなくなっていっていた。そのことが大きな被害を生み出したわけなので、そういう人間の愚かさみたいなことを率直に伝えないといけないと思ったんです。
四番目は、これが私は一番大切なことだと思っているんですけど、とても災害というのは冷酷で悲惨・残酷なものなんです。その悲しさというのはもうほんとに言葉に尽くせないようなもの、その悲しみをきちっと伝えないといけないと思ったんですね。じゃないと、というか、その悲しさがほんとに理解して貰えたら二度とこういうことをしてはいけない。それはしてはいけないというのは起きてから助け合うという以前に、起こさないように、例えば家が壊れないようにとか、街が焼けないようにとか、そういう私たちができることをしっかりする。その原点がこんな大変なことをしたくないんだという思いがないと、それは進まないので、そのための残酷さみたいなのを伝えたい。しっかりトータルに伝えることによって、多分それが次の災害の防止というか、まさに減災という―被害を少しでも少なくしていくという方向に進むんではないか。そういうためのやはり伝え方というか、努力をしないといけないですよね。
 
住田:  「防災」という言葉がズーッと言われてきて、そして阪神淡路大震災があって、その後ですね、「減災」という言葉が生まれた。
 
室崎:  そうですね。今までは「防災」というのは、防ぐというか、押さえ込むという感じなんですよ。それはやっぱり我々人間の力で被害が起きないようにしようという、そういうのが防ぐという考え方で、その背景には少し人間の驕りみたいなものもあるわけです。技術の力で押さえ込むんだ。ところがそれは小さい災害だったら押さえ込むことができるわけです。寝たばこだとか、あるいはちょっとしたミスで火事を出すというようなことは、自動的に消火ができるような設備を開発するなどして防ぐことができるんですけど、富士山が噴火するとか、南海トラフ地震が起きるとか、そういう大災害について、じゃ被害をゼロにできるのかというと、それはどう考えてもできないわけです。遙かに自然の力が大きなわけですよね。そういう遙かに大きな力に私たちのようなちっぽけな人間が向き合うということはどういうことかというと、完全にそれは押さえ込むんではなくて、少しでも被害を少なくしていこうというか、小さな努力を積み上げていって、何もしないで十万人の命が奪われるんだったら、あることをすることにそれを五万人にする。あるいはさらにもう少し努力すると一万人にする。五千人にする。できれば十人ぐらいにとどめたい。そういう引き算をすることによって少しでも被害を少なくしよう。それが減災という考え方だと思うんです。ですから減災という考え方はやっぱり大きな自然に対する小さな人間の向き合い方みたいな、そこ哲学的な思いが込められていると思うんです。まさにそういうことを突き詰めていくと、人間の生き方みたいなもの、こういうほんとにいろんな意味での被害・危険の多い時代の中で、その中ででも少し我々としては夢をもって豊かな―ほんとの意味での豊かな暮らしを築きあげていこうとして努力しているわけですよね。だからそういう中での生き方みたいなものが厳しく問われたと思います。
 

 
ナレーター:  地震などの災害は、ある日突然平穏な暮らしを奪っていきます。しかし被災した人々はただ打ち拉(ひし)がれるのではなく、互いに手を取り合って困難な状況に立ち向かっていこうとする。多くの災害を見つめてきた室崎さんが気付いたことです。
 

 
住田:  「災害ユートピア」という言葉があるんですよ。災害直後はみんな犠牲者になる、被災者となるわけですよね。そういう中からお互いに助け合うというか、お互いが先ず苦しみがお互いに理解し合えるし、苦しみを理解しあうだけではなくて、力を合わせないと苦しみが乗り越えられないということがあるので、ごく自然に力を合わせていくようになるという。それが人間の本来の姿かも知らないんですけれども、やっぱりそういう助け合いだとか、支え合いが自然発生的にというか、あちこちで生まれていくわけですよね。多分それが僕は復興の一番原点だと思います。
 
室崎:  まったく知らない居合わせた人同士が力を合わせて、お互い様だからやっていこうという、その最初に芽生えてきたそういう場面がありましたよね。
 
住田:  ほんとに大阪だとか、近隣の都市からたくさん中学生とか高校生が歩いて来てくれるんですよ。必死になって、「何かお手伝いできませんか」とか、その辺りの避難所の手すりを一生懸命拭いてくれたりしている姿って、今も忘れられないですよね。だから一日に、一万人二万人のボランティアの方が来て頂いて、それもやっぱり一つの新しい社会というか、ボランティア社会、ボランティア文化というのが、あ、こっから生まれるのかなというふうに思ったんです。ただたくさん来られても、今度は被災地の我々が受け止めきれないわけですよ。「何かお手伝いしましょうか」と言っても、何を手伝って貰っていいかもよくわからないし、非常に混乱のなかたくさんの方来て頂いたんだけど。だから一生懸命ほんとに被災者のために頑張って頂いている姿も見たし、帰る時に、せっかく来たのに被災地のために何の力もなれなかった、という気持ちでね、
 
住田:  ほんとはそうじゃないんだけど、
 
室崎:  がっかりして帰って行く女子学生の姿というのは忘れられないですよ。だからなんかそれが災害だと思うんですよね。せっかく助けてあげようという気持ちを被災地では受け止められなかったし、そういう場―環境が作れなかった。それもだから次の災害というか、の一つの宿題ですよね。助ける人と助けられる人たちが一体になって、力を合わせてそういう次ぎに向かって進んでいくような環境をどう作るのか。
 
住田:  もう一つ、阪神淡路大震災では「街づくり」という言葉があの時広がりました。復旧というのは街の単なる作り直しではないんだと。
 
室崎:  一つは、復旧・復興というのは、まさに一人ひとりの人がいるということですよね。だから人間の心だとか、暮らしを抜きにして復興というのは議論できない。だけどややもすると、復興というのは道路を造ることだとか、家を作ることだとか、近代的なビルを建てることだというところに目がいってしまう。「どれだけ家が建ちましたよ、どれだけ道路が回復しましたよ」という議論になりがちなんですけど、逆にいうと我々が復興に取り組んでいく時は、やっぱり一人ひとりの暮らしを見ながら復興というのは考えないといけないというのは、それはとても大切なことだと思うんですよね。
 
住田:  そういう意味では、「コミュニティーが大切だ」という言葉もあの時私たち直面しましたね。
 
室崎:  そうですね。
 
住田:  ほんとに私たち気が付きましたね。
 
室崎:  コミュニティーというと、みんな人と人との繋がりと先ず考える。それとても大切ですけど、僕は土地との繋がりとか、歴史というか、時間との繋がりもとても重要で、端的にいうと、土地とか時間との繋がりでいうと、先祖代々のお墓がある。お墓を今までは見守ってきたけれども、そのお墓から切り離されるということは、とても人間にとっては辛いことなんですよね。それから生まれ育ったところの景色だとかという、いつも窓を開けると六甲の山が見えていた。それが突然山が見えなくなるとかという、いろんなものが切り取られていくというか、それもとても辛いことだと思うので、僕はやはり生まれてから育った場所、土地、そこでの記憶というのはとても大切なので、そういうものを大切にしたような復興を考えていかないといけないと思うんです。だからそういうものでいうと、災害で、さっき悲惨ということを申しあげましたけど、あらゆるものを奪うんです。最終的には希望も奪ってしまうんですよね。だからじゃ今度は復興という―人間の復興でいうと、その失った希望を取り戻すということがとても大切―生きていく勇気だとか、社会に挑戦していく気持ちだとか、そういうものを取り戻すということが重要なので、だから僕は単に建物とか、道路を作ることではなくて、夢とか希望を取り戻すことが復興の一番重要なことだと思うんです。
 

 
ナレーター:  人の歴史は災害と向き合ってきた歴史でもあります。災害が起きる度に、人々は立ち上がり、元の暮らしに戻す努力を重ねて未来への希望を繋いできました。そこには如何なる困難に出遭っても生きることを諦めない人間本来の強さがあると室崎さんは言います。
 

 
室崎:  私はいつも「復興にバネが働く」と言っているんですよ。どんなバネかというと、一つは、これは精神的な表現なんですけど「気概のバネ」―何くそというバネが働く。人間というのは、辛い状況になっても、そこから立ち上がろうという気持ちを本能的に持っているんだと。そういう意味でいうと、苦しさに挑戦(チャレンジ)するような気持ち。だから困難になればなるほど頑張ろうとする気持ち。それが一つの原点だと。二つ目のバネは、まさにちょっと「助け合う」と言ったんですけど「連帯のバネ」―苦しい時はみんなで助け合う。絆だとかそういうものが働くわけですよね。平常時も働くんですけど、非常時はそれが何倍も大きな絆を我々に与えてくれるので「連帯のバネ・助け合うバネ」が働くんです。三番目は、「反省のバネ」というか、あ、こんな暮らし方をしていたからダメだったんだとか、こんな街づくりをしていたらダメなんだと。もっとこういう社会を作ろうとかという、まさにいいものを作っていくという課題ができる、チャレンジする目標ができる。その目標に向かって進んでいこうとするバネが働くんですよね、「反省のバネ」と言っているんですけど。四番目は、いろんなものが失われたんですけれども、それを取り戻すために、都市計画事業が起きたり、住宅の再建の事業が起きたり、いろんな事業が集中してくる。これ「事業のバネ」というんですけど、いろんなきっかけになるような資源だとか資材だとかいろんなものが集まってくるバネがある。この四つのバネが働くことによって前に進めるんだと思うんです。そういう目で過去の世界中の復興の歴史を見た場合に、復興で失敗した例はないんです。必ず復興するんです。ただ百点の復興もあれば、六十点、及第点そこそこの復興もあるんですけど、でも復興は成功するんです。それはバネが働いて、基本的には人間が困難を克服する。あるいはよりよい理想に向けて頑張ろうとそういう気持ちを人間が持っているからだと思うんです。それはまさに私は阪神を見ていると、そのバネが働いていて、前よりはとても良い社会ができたと思うんです。
 
住田:  これはバネは一人ひとりの心の中にありますね。
 
室崎:  そうですね。だからそのバネはとても大切。そのバネを持ち寄れば、1+1は十にもなるような大きなバネになっていって、それは社会を突き動かしていくんだと思うんですよね。
 
住田:  その防災学者の室崎さんの一番のバネは何だったですか?
 
室崎:  なかなか難しいんですけど、現象だけいうと、私は阪神大震災に遭わなければ、今のような―今のようなというのは、私自身の自画自賛かも知れないですけど、僕は、ある種良い専門家になれたと思っているんですよ。それはやっぱり災害に学んだことだと思うんですよ。災害がなければ象牙の塔というか、大学の中で研究室に閉じ籠もって一生懸命論文を書いて、論文で評価されるという、何かそういう研究者になっていると思うんですけど、今そうではなくて、その論文を書くことはとても大切なことだけど、その前提として、もっと現場に目をやる。一人ひとりの市民に心を寄せるというか、市民が何を求めているのかというか、市民の求めていることは社会が求めていることで、社会にとって科学ってどうあるべきかということを、現場に行くことによって教えられるわけです。それは震災がなければ研究室の中に閉じ籠もっていることになるし、閉じ籠もっていると、そんなことは誰も教えてくれないんですよね。震災によって教えられた。
 
住田:  私もいろんな方を取材していて思うのは、これは行政の方も、そして街のリーダーの方も、ジャーナリストの人、みんな言っていますけれども、「あの時できなかった。あの時できなかった後悔がそこにある」とおっしゃっていたが、自分を責める後悔も一つのバネ、
 
室崎:  そうです。だから先ほど言った「反省のバネ」は、「後悔のバネ」かも知れないですよね。後悔すること。反省と後悔というのは裏表の関係だと思うんですよね。もしこうしておれば、という気持ちがある。だから今度はそういうことがないようにしようということだと思うんですよね。だからそういうことでいうと、やっぱり反省をするというか、後悔するということはとても大切なことで、そこに何とも思わなければ、それは人間ではないと思うんですよね。
 

 
ナレーター:  室崎さんは、もともと建築家を目指していました。防災を研究することになるきっかけは、一九六八年に兵庫県の有馬温泉で起きた旅館の大規模な火災でした。当時京都大学大学院で学んでいた室崎さんは、その火災現場を訪れ衝撃を受けたと言います。
 

 
室崎:  十一月だったと思うんですけど、僕は冬休みにそれこそ野次馬でちょっと見に行ってやろうか、ってぐらいで行ったわけですよ。行ったその旅館の間取りというんですか、間取りを見たりしていると、どうもこれは多くの人が亡くなったのは、この建築家の設計が悪かったんではないかと僕は思ったわけです。その複雑な曲がり角のところでみんな亡くなっているんです。こんな廊下の角度でやると、ドンと突き当たって袋小路だとみな思って、そこから頑張って行けば逃げれたのに、そこでみんな固まって死んでいるんですよ。
 
住田:  棟がいっぱい廊下で繋がっている?
 
室崎:  昔のそういう旅館の迷路のような。だけど見た目ではデザインとしては面白いんですけど、くねくね曲がっていて、変化があって、とても迷路のような楽しさがあったりするわけですけど、そのことは今度は安全にとってみると凄くマイナスになる。だけど火事が起きて人々が逃げ惑って、逃げ道を失って亡くなるというのは授業でなかったので、「火事だとかそういう人間の非難―まさにそれこそ人間の非難だとか、人間の行動を考えた防災の授業というのはないんですか?」と聞くと、「それは建築基準法とか消防法に書いてある。それで十分です」と言われたんですよ。その時に何か凄くギャップを感じて、単に法律で書いてあるからいいのか、ということでやっぱりこういうことをもっと研究というか、勉強しないといけないのかなというふうに思ったのがそもそもこの防災に変わる。私は最終的には一九六九年から防災の研究を始めるんですけど、七十年には天六ガス爆発(1970年4月8日、大阪市の地下鉄「天神橋六丁目」駅の工事現場で起き、約80人が亡くなる)―これ万国博の地下鉄の工事で大きな爆発が起きるんですよね。その二年後に今度は千日デパートビル火災(1972年5月13日、大阪市の繁華街にあったビルが焼け、100人余りが亡くなる)という大阪の難波にあるビルで大きな火災が起きて、百名以上の方が亡くなるわけです。で、その千日デパート火災が起きたその秋に、今度は北陸トンネル火災(1972年11月6日、福井・敦賀市にある長いトンネルを通過中の列車から火が出て、約30人が亡くなる)と言って、北陸トンネル通過中の列車火災でたくさんの人が亡くなる。さらに次の年は熊本の大洋デパート火災(1973年11月29日、熊本市にあったデパートが焼け、100人余りが亡くなる)で起きるんですよね。
 
住田:  ちょうど昭和四十年代の半ばから後半、
 
室崎:  だから次々にそういう災害が起きる。だからそういう社会状況の中で私に「安全って大切だよ」ということを気付かせてくれた。社会が気付かせてくれたことがあるし、それから私自身はいろんな現場というか事例を見ることができ―見るというのは亡くなられた方にはとても失礼だけど、でもそういう修羅場というものを目の当たりにできる。その当時はまだ火災の現場にもすぐに入ることが許された時代で、私はその千日デパートも大洋デパートのビルの中も見せて頂いた直後に、やっぱり如何にまさに火災で人が亡くなるということが悲しいことか、現場を見ることができるわけですね。それが全部、いや防災をしっかりやらないといけないと栄養になっていったので、社会のその時期がそうさせた。たまたまきっかけはその旅館の火災だったかも知れないですけど、そういう社会の状況の中で、でも「建築を止めて防災をやります」と言った時は、私の友人も周りの先生方も、その時言われたことは「そんなの止めておけ。防災なんか金儲けにならない。嫌がられたことだ。防災というのは、こんなもの作ってはいけませんよと。このようにしてはダメですよ。こんなのを作るんだったらこれだけお金をかけてやりなさいということをいうので、防災は嫌がられることなので、あんまりそんなことしない方がいいよ」と。揚げ句の果てには、「防災は功成り名を遂げた年寄りの先生がやることで、まだ若造の君なんか防災の災害の「さ」の字もわからないのに、そんなことやっても無理だよ」と言われたのをもの凄く覚えていますよね。でもやっぱりなんかそういう後ろから何か突き動かすようなものがあったので、この道に進んだ。だけどそれはとても辛い道ではあるわけですよね。その一つがやっぱり阪神淡路大震災で人の命を救えなかったというところに繋がっていきますし。
 

 
ナレーター:  一九九五年一月十七日、阪神淡路大震災。神戸大学の教授を務めていた室崎さんは、その日防災に関する国際会議の幹事として大阪にいました。神戸の被災地に入ることができたのは翌日のことでした。
 

 
住田:  翌日ですか、 被災地に向かわれたのは?
 
室崎:  そうですね。まあ最大の被災地に向かった目的は、大学がどうなっているかというか、大学の生徒たちがどういう状況になっているのかということが一番心配だったので、家に帰るよりも大学に向かったわけですよね。で、タクシーをチャーターして大阪からズーッと行くんですけども、武庫川の川を越えた時から大渋滞で、
 
住田:  ちょうど尼崎から西宮、
室崎:  そうです。大渋滞で運転手さんも「これ以上行けませんよ」と言われたので、そこから歩き始めるんですよ。でも歩き始めたら、すぐにほんとに外の印象が空がもの凄く綺麗という印象なんです。もう二階建て、三階建てが全部一階建てというか、もう無くなっているので、まあ瓦礫の山になっているので、
 
住田:  住宅が低くなってしまったわけですね。
室崎:  最初の印象はほんとに明るいという印象があるのと、それからやっぱり家の壊れ方が私の想像していたというか、まったく違うんです。僕は、日本の木造住宅は粘りがあるので地震が起きても傾きこそすれ、もう柱から梁から全部粉々になって瓦礫の山になるというようなことは理解できていなかった―勉強不足かも知れないんですけども、僕はそういうことを信じられなかったんです。家という家が全部ほんとに瓦礫の山になっていたんですよね。その時に涙が出てくる。これもどうして涙が出てきたかって。出たことは覚えているんですけどね。なんか多分それは自分を責める涙だったような気もするし、それからやはりそういう専門家としてこういう事態が起きるということを見抜けなかった。住宅が倒壊をしてこんなに多くの人たちがその瓦礫の下に閉じ込めてという実態にまったく想像できていなかったので、だからその光景はもうまったく新しい世界というか―ほんとに昔の人が空襲に遭った時はそうだったとか、いろんな時にそうだったと思うんですけど、やはり一つの地獄を見た思いがしますよね。途中でほんとにまだくすぶっていて燃えているところもあるし、それから私が瓦礫のところに近寄るとそこに居た人が、「この中にお婆ちゃんがいるんだ。助けてくれ」と、私に言われるんです。どうしようもない。そういう修羅場というか凄惨な場をいくつか見ながらも大学に夕方に辿り着くんですけどね。学生がもういっぱい来ていまして、それもどうしてかというと、避難所に一旦行くんですけど、「御前ら若い者はここから出て行け」というか、場所がないんです。結果として学生はやっぱり大学に来るしかないので、教室のところにいる。みんな生気を失っているというかね、私から見たらドス黒い、黒っぽい顔をして拉がれた形で呆然として立っているんですよ。ひょっとしたら僕もそうだったかも知れないですね。私を見た学生がみんなほんとに打ち拉(ひし)がれています。生気がないというか、血の気のないような。で、それを見た時に、〈あ、学生をこういう状況にしておいてはいけないんだ〉。それが最初の仕事で、この学生たちをなんとか早く元気にするというか、学生たちの居場所を見付けてやらないといけないと思って、その時は学生を故郷に帰そうと思いました。こんなところに居ていてはいけないんだと。だから帰るように「みんな帰りなさい」ということを先ず伝えるのと、それからもう一つは、たくさんいるというけど、ほんの一部の学生しかいないので、じゃ他の学生はどうなっているのかということがとても心配になって、ちょっと元気な学生に安否確認というか、「友だちがどうなっているか。できるだけ調べるように」という、今でいう安否確認をした。安否確認はもう時間かかりました。もう一週間も、一ヶ月もわからない学生がいてて、それはとても心痛めながらも一生懸命やるし、それから帰るようにと言った学生も、実は数日経ったらみんなじゃないけどかなりの学生がまた戻ってくる。学生も実家にいても堪らない。やっぱり大学のある神戸の街が大変なことになっているから学生たちが戻ってくるんですよ。そういうこともあって、戻って来た学生たちはどうやったら元気になるのかということなんですよね。それは学生たちに一緒にボランティアになって一緒に被災者を助ける、あるいは私の場合は専門家としてのボランティアは何かというと、それは被災のデータというか、あるいは被災者の声を残す、あるいは纏めることだと。いわゆる「調査ボランティア」というんですけど、調査に学生たち一緒に出ようということで、だからもう次の次ぎの日ぐらいから火災現場をズーッと学生たちと一緒に歩き回って、どこまで燃えたのか、どういうふうに燃えたのか。どこから火が上がったのか、という調査を始めるんですよね。
 

 
ナレーター:  震災直後から学生たちと行った被災地の調査。被害を受けた建物は五十万棟に及ぶことがわかりました。建物の壊れ方を徹底的に調べる必要を感じた室崎さんは、五十万棟すべての調査に取りかかります。そこにはこのような事態を予想できなかった専門家としての後悔がありました。
 

 
室崎:  普通は五十万棟の調査なんかは誰が考えてもできないです。不可能な。それをいろんな大学の先生たちと議論していると、大阪芸大の先生が、「うちの学生は全部出す」というんですよ。「大阪芸大が出すんだったら、神戸大学も出すよ」って。「いや京大も出す」「阪大も」。近畿圏の学生に協力してもらうと。蓋を開けると三千人ぐらいの学生が集まってくれた。その力で五十万棟の建物、一棟一棟どういう被害だったのかと調査することができたんです。それで神戸大の学生も元気になる。助けられる側から助ける側に切り替えることによって、自分の位置というのか、居場所が見付かるわけですよ。そしてどんどん元気になっていく。でもほとんどの学生が全部来てくれた。これまた素晴らしかったですよね。それで五十万棟の建物被害調査ができたし、それから火災についても火災原因の調査ができた。それはとても二つともとても重要な調査ができたと思っているんです。
 
住田:  完全調査ですね。
室崎:  そうです。それが次の一つの研究、我々の専門の研究というと、倒壊を予測する式というか、地震の揺れと家屋の倒壊の関係だとか、そういうデータとしてとても大きな役割を果たしているんですよね。ただ私がその調査をしながら思ったことというか、通常我々の世界というのは、多分その研究者がどうあるべきかという時に、こういう災害の調査があると、被害を纏めたり、そこから出てくるいろんな法則性を明らかにして論文の書くわけです。論文を書いて、その研究者としての評価がされる。だから一年か二年掛けて学会誌に発表するというのが通常の我々のスタイルなんですよね。建物の調査をしたり、あと避難所の調査もしたんですよ。避難所の毎日毎日どういうことが必要になっているかということを知る。そういうことを調査をしていた時に、こんな避難所の状態でほっといていいのかというようなこともありますし、建物の調査をしていても、その住宅再建する時に、みんなどうしたらいいかと途方にくれておられるんです。「どうしたらいいんですか?」そういう声を聞くに付け、一年後とか二年後に論文を書いても何の意味もないんだ。今、この人たちが求めているのは明日にでもその調査の結果がほしい。あるいは結果を踏まえた提案がほしいと思っているわけですよ。じゃ今までのようなやり方ではいけないんだということなんですね。すぐにでも報告をしたり、発表しないといけないということで、最初にやった時は火災の調査なんですけど、論文に書く前に三宮に勤労会館というところがあって、そこのホールを借り切って、何人来て貰えるかわからないんですけど、メディアの協力を頂いて、調査の報告会をやるから被災者の方に来てくださいということで、
 
住田:  先に報告会をやった。
 
室崎:  そうです。まさに調査した人に返さないといけないし、単に返すだけではなくて、「こういうふうに頑張っていかないといけませんよ」ということを言わないといけない。超満員になったです。だから如何に被災者の方がどうしようかと悩んでおられたと思うんですよね。で、そういう形で返すんですけど、その時にまたとても私にとってはとても重要なアドバイスを頂いたんですけどね。この方が手をあげて、「私は一生懸命涙を流しながらこの調査票に答えを書きましたと。丸を書いたり、とても辛い思いで書いたんですけど、その結果が被災地で困っている人が十四・三パーセント。この○・三パーセントの○・一が私なんですか?」と言われたんですよ。「そういう数字では私の気持ちは表れていない」ということを言われたです。その時は、「私は○・一パーセントですか?」というそういう質問だったです。その時にやっぱりこれは一人ひとりに返す。一人ひとりの個別性だとか一人ひとりを大切にしないといけない。ザッと集めて百人中何パーセントという議論ではなくて、「こういう人もいる。こういう人もいる」という形を伝えていかないといけないし、悲しみとか苦しみが伝わらないんだという。
 
住田:  数字の一コマに私は押し込められたくないのだ。私はここにいるんだ、ということをそこに気付かれた。
 
室崎:  そうですね。それはとても私にとって―その後の被災地の調査活動にとってみると重要なアドバイスをそこで頂いたと。それはすぐに返そうとしたし、それはやっぱり市民に向き合ったからそういうリアクションというか、アドバイスを頂けたと思っているんですけど、今までは「次の災害に向けてどうやるのか」というのが我々の仕事だったけど、今度はまさに被災地の中にいる。今まで外から被災地を見ていた場合は、次ぎに起きた時どうしようか、ということでよかったんですけど、自分も被災者の中にいる時に、次の災害じゃないんです。今の災害をどうするかということが我々に課せられているので、まさにそこの研究のあり方みたいなものが根底から変えなければいけないということで、すぐに被災者に返す。それから一人ひとりの被災者の声を聞くということだと思うんです。
 
住田:  いろんな課題が見えてきたという中で、これを専門家だとか、あるいは一部の知っている人にだけにおいておくのではなくて、私たち暮らす一人ひとりが心に刻んでおかなければいけないですね、そういうことを。
 
室崎:  そういうことでいうと、僕は専門家の役割というのが厳しく問われたと思うんです。先ず最初の段階で問われたこと、私自身もその当事者ですけど、「大きな地震がくるよ」ということを、あるいは「もし地震がきたら街は火の海になるかも知らないし、家がたくさん壊れて多くの人が命を奪われるよ」というようなことは、専門家はそこそこ研究していますから、あるいは過去の災害の記録もちゃんと調べているのでわかっていたわけです。その専門家の知識をどれだけ一般の人たちというか居住者に伝えていたかというと、それは不十分だったというふうに思うわけですよね。まさにリスク・コミュニケーションというか、自分たちはどういう危険な社会に住んでいるか。あるいはもう少しどうすれば安全に暮らすことができるかというのはとても重要な部分で、そこは一つしっかり危険を知らせていなかったという責任が問われるわけですよね。私の場合でいうと、直後にある被災者から電話が掛かってきて、「先生が震度七の地震が起きるよ、と。起きると家が壊れてしまって、みんな生き埋めになるよ、というようなことを言って頂ければ、私は耐震補強をしたかも知れない。耐震補強をしていると、私の父親の命は救われたかも知れない」という電話が掛かってきたわけです。それはまさにその通りだと思うんです。そのことに対して私は返す言葉がなかったわけですよね。ほんとに一人ひとりの市民の側に専門家が顔を向けていなかったんじゃないか。我々は決してそれを無視しているわけじゃないけど、一生懸命行政のために仕事をするわけです。行政から頼まれて被害想定の報告書を纏めるだとか、過去の災害の歴史を纏めるとかして、行政に報告書を出すわけです。そのことによってなんか社会的責任を果たしたかのように思っていたんですけど、実はそれは行政に顔を見ているだけで、一人ひとりの市民に顔を向けていなかったと思うんですよ。
 
住田:  一人ひとりの悲しみがあって、
 
室崎:  その話が調査の報告会で、「私の苦しい思いは○・一パーセントですか?」ということに繋がっていく。一人ひとりの記録を残さなければいけないというふうに思ったわけです。さらにその時思ったのは、先ほどの電話の問いかけなんですけどね、遺族にそこから逃げてはいけないと思ったんです。ちゃんと説明責任も果たさなければいけない。遺族にどうしてこうだったのか。その遺族と向き合わないといけない。そうすると一人ひとりを大切にするということが、遺族に向き合わないといけないということはどういうことかというと、亡くなられた一人ひとりの記録を遺族の方からきちっと聞き取って、単に聞くだけではなくて、私の思いも語るので、「被災者聞き語り調査」(19995年に神戸大学工学部の大学院生が被災者の聞き語り調査を開始)というネーミングをして六千人の遺族と話をして記録を作ろうということに取りかかるんです。結果的にはこれは三百人ほどの人の記録しか作らなかったですけど、でもそれは私にとってみると、遺族と向き合う。遺族の声を聞く。面と向き合って悲しみもちゃんと聞かないといけないし、あるいはひょっとしたら科学に対するご批判をきかないといけない。でも一人ひとり大切にするということと、遺族一人ひとりに向き合うということをやはりしていかなといけない。だからそういう調査の形が最初アンケートを配ったり、それから火事がどう広がったかという事実を追い求める調査だったんですけど、だんだんそういう記録―遺族の心を残すという形にシフトしていくわけですよね。アンケート調査なんかしていてわからないことをいっぱい教えられるし、何よりもやはり家族を亡くした悲しみは如何に深いかというか、それは聞きに行かないといけないですね。向こうの方がもう泣き出されるのも、何遍もそういう現場にぶち当たりますし、私も涙をする。そういう形の調査でしたけど、なんか災害というものの本質というか、そういうものに近づけたし、災害と向き合うということはどういうことかとか、あるいは現場をよく見ないといけないというようなことだとか、一人ひとりの人をちゃんと見るようにしなさいとか、そういうことをやっぱり若い人たちに伝えていかないといけないので、それは今私に課せられた役割だと思っている。
 
 
ナレーター:  二○一一年三月十一日に発生した東日本大震災。室崎さんも一早く被災地に入りました。阪神淡路大震災の体験と教訓を活かして被災者を支援するためでした。
 

 
室崎:  東日本の方が、自然と人間の関係を厳しく問われていると思うんです。今までは豊かな海があって、その海辺に暮らすことによって海の素晴らしさみたいなものを享受してきたわけです。他方でいうと、その素晴らしさ享受する媒体としてまた海の危険も受け入れてきたわけですよね。その中で自然と人間が共生することが豊かな暮らしに繋がるんだと思っていた。ところがあまりにも自然が狂暴だったということもあって、その自然の破壊から逃げようとした時に、自然と人間の間は巨大な堤防を造らないといけないという、そういう局面に追い込まれてしまったわけですよ。そこで自然と人間の分断みたいなものが行われてくる。果たしてそれでいいのかということですよね。とても難しい問題ですけどね。じゃ堤防もなくして上に住んだらいいのかというと、また今度、じゃ次ぎに来た時にどうするのかという課題が残されるので、でも単に命を守るというか、防災だけで我々は生きているわけではない。日々の暮らしというか、豊かな自然を思い切り受け止めないといけない。それも我々の生き方なんですよね。だから自然の豊かさを受け取ることと、自然の厳しさを蒙ることを防ぐという防災ということと、それから自然の豊かさを享受するという利便性と快適性という、それを両立させる。どちらも満足させる答えを見付け出さないといけない。それはとても大きな問題だと思う。
 
住田:  それはやっぱりそこで暮らしている人の思いだとか光景だとか、心に何があるから落ち着くのかということと向き合っていないと、それはやっぱり享受できないことですよね。
 
室崎:  基本は、私は、思いを形にする。先に思いがあるんです。復興への思いだとか、あるいは未来への夢だとか、そういうものはみんな持っているわけですよね。思いをだから大切にするということ、思いを聞くということだし、思いをぶっつけ合うということですね。それが街づくり協議会みたいな、みんなで喧々諤々の議論をする。僕はそこで意見が対立してもいいと。みんなそれぞれの思い、でも相手の思いも理解しながらというプロセスがとても重要ですよね。
 

 
ナレーター:  室崎さんは、海外の被災地にも出向いています。災害から学んだことを伝え、日本が外国から受けた支援への恩返しをしたいと思うからです。災害から命を守り困っている人々を助けたいという願いは、海外も日本も変わることはありません。
 

 
室崎:  私のやっぱり大きな思いは、阪神の時ほんとに多くの人に助けて貰ったということなんです。もうほんとにたくさんボランティアが三ヶ月間で百万人もののボランティアが駆け付けてくれましたし、あるいは私のところだけについていっても、全国の大学から私の友人の先生が、「学生を十名そちらに送りますから使ってください」。私の研究室はいっぱい大学生が来てくれるんです。そういう人たちが、先ほど言った調査活動なんかにも関係してくれて、大きな力になった。それだけ助けられたというところの有り難さみたいなもの、あるいは助け合うことの大切さみたいなもの、とても痛切に感じたわけです。そういうことを踏まえていうと、やはり助け合う、あるいは助けに入るということはとても重要で、やっぱり自信も付いて起きてくるんですけど、まさに真っ先にやっぱりそういう被災地の体験をした我々がやることは、その有り難さを今度は自分たちが届けるんだということだと思うんですよね。だから直後には返せなくとも、次の災害でいくらでも返せるんだと。返すということがとてもやっぱり大切だということで、それを私は「支援の数珠つなぎ」数珠を繋いでいく、どんどん繋いでいくんだと。だから阪神のそういうことは、先ずは台湾(1999年9月21日、台湾・921大地震)とかトルコ(1999年8月17日、トルコ・イズミット大地震)の支援に向かうんです。特に台湾に私は何度も行きましたし、ボランティアも台湾に行くんですよね。台湾の場合は日本人が一生懸命支援したので、台湾の新幹線は最初フランスと契約していたのが、日本の新幹線に変わるぐらい人が感謝の形ですけど、我々は。台湾での取り組みが、今度は新潟の中越(2004年10月23日、新潟県中越地震)に行くんです、二○○四年に。台湾の人たちも中越へ行きますし、我々も当然中越に行く。この中越への経験が、今度は能登半島(2007年3月25日、能登半島地震)だとか、中越沖(2007年7月16日、中越沖地震)に繋がっていくとかという形でどんどん支援の輪が広がっていくんですよね。その支援の輪が広がる中で、災害ボランティアセンターの仕組みができたりとか、それから多くの災害ボランティア組織というか、NPOという法律も阪神淡路大震災をきっかけにできて、市民活動の裾野が広がっていくわけです。そういうたくさんのボランティア組織もできるし、そういうボランティア組織の交流というか、ネットワークができるようになって、どんどんそれが一つの支援の数珠繋ぎの土台を作っていっている。
 
住田:  だんだん太くなっていく感じですね。
 
室崎:  太くなっている。太くなっていっているんですけれども、少しボランティア文化がまだ日本の場合は完全に定着していない。ボランティアは好きな人たちがやる文化だというふうに思っている人がいるんですね。今度東日本のボランティアの状況を私から見ると少ないと思うんです。もっともっと行かないといけない。阪神の何倍ものボランティアが行かないと、必ずしも必要なだけのボランティアが行けていないんですね。それはどうしてかということなんです。二つ理由があって、一つは、今の若い人たちは忙しくなり過ぎて自分のことで精一杯。就職活動もしないといけないし、あるいはむしろアルバイトしないといけないんですよ。仕送りが我々の時に比べてズーッと減ってるので、とても忙しくなって、助けに行かないといけないと思われる半面、自分も仕事をしないといけないということで、忙しくて行けないという部分が一つと、東北というと神戸から考えてとても遠いんです。行って帰ってくると旅費だけで二万円とか三万円要る。そんなお金は学生は出せないので、お金がないからということで。だから結局仕方なしに神戸に行って募金活動をしたりとか、そういう支援しかできない状況だから、だから行けないんですよ。特に二つ目の問題のお金がないという問題がとても重要で、それはほんとは社会全体でボランティアに出してあげないといけない。
 
住田:  みんなの力で送り出してやらなければいけない。
室崎:  ほんとはみんなが行かないと行けないんです。私でもすべての仕事をなげうって行かないといけないんですけど、やっぱり仕事があって行けない人もいる。行けない人は、自分が行けない代わりに行って貰えるんだと思ったら、旅費ぐらい出そうという気持ちになるわけです、本来は。だけどみんなが行かないといけない。みんなが支援する責任を持っているというところまで、まだ日本の考え方はいっていない。物好きが行っているんだとか、まあお金がちょと余ったら募金でもしようかとぐらいのところで留まっているんですけど、本来はみんな行かなければいけない。みんなが行く代わりにあの若い学生たちが行ってくれる。そのバス代を出してあげようかとか、なんかそういうサポートをしないといけない。それはなかなかできないので、やっぱりボランティアの方が少ない。少ないと復興が遅れてしまうという状況になってしまう。
 
住田:  課題ありと。
 
室崎:  阪神の時に芽生えた一つの文化で、それは日本としては大きな財産を得ているんですけど、まだそれは成熟しきれていないんですね。もっとそういう寄付文化だとか、ボランティア文化を育てていかないといけない。まあそういうことで今、私たちが呼び掛けて「ボランティアの割引制度みたいなものを作らないか」ということで、今、国にも働き掛けているし、
 
住田:  割引とは?
 
室崎:  私のイメージは、帰りの汽車代だけ出してほしいと。ボランティアへ行くでしょう。ボランティアがお宅で泥だしやったら、ちょっと「この人はボランティアしました」って、その人のサインを貰ってくると、被災者の。そのサインを駅の窓口で示せば「はい。ご苦労様」と言って「どうぞ、無料で」というか、できれば、その時にほんとはコーヒー一杯ぐらい付けて、「どうもご苦労さん、コーヒー飲んで帰ってください」と、そういう文化がほしいと思う。だから割引と。全部出して貰うということではなく、少しでも助けてあげる。社会が助ける仕組みを作らないといけない。そうするとボランティアも援助して貰えるというか、交通費が安くなるということは、社会の応援してくれる空気を感じられますよね。
 
住田:  支えられて出て来たと。
 
室崎:  今度はボランティアの使命感とか生き甲斐に繋がるので、ボランティアも気持ちよくできるわけです。でも「彼奴等勝手に行っているんだ」とか、「自己満足だ」とか言われてしまったら、ほんとに行ける人だけ行けという世界になると、ボランティアの輪が広がらないですよね。
 
住田:  そこはまだ考えなければいけないと。
 
室崎:  とても大きな宿題が残っていると思うんですよ。
 
 
ナレーター:  阪神淡路大震災から二十一年。一見すると、神戸の街は復興を遂げたようにも見えます。しかし震災が突き付けた課題はまだ残っていると室崎さんは言います。それは人々が安心して暮らすことができているかということ。震災が遺した教訓を一人ひとりが忘れることなく、心に持ち続けることが大切であると、室崎さんは考えています。
 

 
室崎:  一月十六日から十七日の朝にかけては、僕は火災で大きな火事が起きた長田の地域をズーッと歩き回るんですよ。この時だけはメディアの方もお断りして、私は一人になる時間をちゃんとつくって頂いて見て回るんですね。それはやはり私は火災の専門家として火事を防げなかったし、火事によって多くの人が命を失ったので、やっぱりそれは火災の現場というのは原点ですよね。原点で直後の光景というのはとても大切。今、光景は変わっていますけど、直後の光景をしっかりもう一度記憶に留めるためには、被災地を歩き回らないといけないということだと思うんですよね。それは私の宿題で、やはりそういう原点を忘れてはいけないということだし、そこから出てくるメッセージを受け止めないといけないので、一月十七日の五時四十六分はとても意味のある時間で、これは大切にしていきたいというふうに思っているんですよね。それは私にとって一つの宿題だけど、それは一人ひとり個人がまた宿題を持っているし、社会全体の宿題でもあるわけですよ。やはり社会にというか、我々に課せられた課題っていっぱい阪神大震災であったと思うので、その宿題・課題を一つ一つきちっと果たしていかないといけないというふうに思って、でもほんとに山のようにあるんです。だからそれは当然私一人だけではできないと。これも大震災の教訓で一人だけではどうにもならないんだと。みんなで力を合わせていかないといけないということでいうと、我々こういう研究者も手を繋がないといけないし、後継者の学生たちとも手を繋がないといけないし、何よりも市民の方々とも手を繋いで、どんどん大きな手を繋ぐという努力をする中で、やはり課題を一つひとつ改善していかないと思っているんですけれども。たくさん宿題が残っている。私は復興の直後に、二つのことをしないといけないと思ったんです。一つは、「建て直し」元に戻す。それからもう一つは、「世直し」。その社会の矛盾みたいなものを直していくという「建て直し」と「世直し」をしないといけないというふうに思ったんですけど、この二十年間にできたことは、建て直しはどうにかです。まだ完璧じゃないです。まだほんとに取り残されている人がまだいるので、でもどうにか建て直しはできた。でも世直しの課題ですよね。ほんとに安心して暮らせる社会、あるいは真に豊かな社会みたいなものですね。僕はその家族がほんとに和やかに笑い合って団欒しているような姿。すべての家にそういうものが戻ってくるような社会にしないといけないというふうに思っているわけで、やっぱりそういう社会をどう作っていくのかということだと思うんです。それは今少子高齢化社会で、家族がどんどん分裂するような社会でほんとにいいんだろうか、ということは痛切に思っているので、家族関係のあり方みたいなところ、それは街づくりの中でも改善していかなければならない。それはいろんなところで私はやっぱり一人ひとり、復興は一人ひとりの個別性があるので、一人ひとりの生き方だとか、思いだとか、そういうのを大切にしながら復興していかないといけないんですけど、他方でいうと、一人ひとりにとっての復興と社会全体の復興ってあるんですよね。社会全体がよくならないといけないし、そういう意味でいうと、一方では社会復興といって、人間復興と社会復興というのを、車の両輪のように両方見ていかないといけない。社会復興という目で見た時に、やはり被災地がどう変わっていったのか、変わっているのかというところだろうと思うんですよね。そういう中の一つが、復興というのは一人ひとりの問題だけど、でもその一人ひとりの問題は、社会全体のみんなの問題だ。社会全体としてもよくしていくというかね、これが要は宿題です。それはまだ大きな世直しなんだけど、やはりそこに与えられた宿題に対しては十分やり切れていないので、それをどう作っていくかというのはとても大切なことだと思うんですよ。
 
住田:  力になるのは、先ほどおっしゃっていた一人ひとりの心の中で、「ああすればよかった、こうすればよかった、こうできたのにな」というか、それをもう一度思い出すことが大切ですね。
 
室崎:  思い出す。初心に帰るということかも知れないんですよ。我々にとってみると、震災が起きた直後に帰るということ、それが私がもつ毎年十七日に長田に行かせている理由かも知れないんですけど、初心に帰って、そこに捉えたことをもう一度思い直して何ができ、何ができなかったのか。できなかったことをこれからどうしていくのかということを考えるということがとても重要だと思うんですよね。
 
住田:  今日はお忙しいなか、どうも有り難うございました。
 
     これは、平成二十八年一月十日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである