仏教を生きる@永遠への帰入
 
                       東洋大学教授 田 村(たむら)  晃 祐(こうゆう)
昭和六年生まれ。昭和二十九年、東京大学文学部印度哲学梵文学科卒業。同大学院修士課程修了。博士課程満期退学。セイロン政府文化省英文仏教百科大辞典編纂所員、二松学舎大学助教授を経て、東洋大学文学部教授。
                       き き て  草 柳  隆 三
 
草柳:  今日からこの時間は毎月一回、十二回にわたりまして、「仏教を生きる」というテーマで、六世紀に仏教が日本に渡って来て以来、その時、仏教が日本にどのように受け入れられたのか。そしてその後、どういう経緯を辿って日本に定着をしていったのか、ということを、仏教に生きた人々を中心にして考えていく。そういうシリーズにしていきたいというふうに思っています。この十二回のシリーズを通して、お話をして頂きますのは、東洋大学教授の田村晃祐さんです。一年間、これから長丁場ですけれども、どうぞ一つ宜しくお願い致します。
 
田村:  どうぞ宜しくお願い致します。
 
草柳:  「仏教を生きる」というテーマなんですが、考えて見ますと、日本に仏教が伝わって来たのが六世紀、ということは、インドで仏教が誕生して、興ってから、ほぼ千年経って、日本に来ていることになるわけですね。
 
田村:  そうですね。
 
草柳:  それ以来、千四百年。
 
田村:  それですから、仏教が栄えた国の中でも、日本は決して短い期間ではないんですね。インドは最初、お釈迦様がインドでお生まれになって、仏教をお開きになりましたけれども、後で殆ど絶えてしまうということになってしまいますね。日本よりも長く仏教が栄えている国は、例えばスリランカとか、中国とか、他にもありますけれども、これだけ盛んに今に伝えられて、仏教教理の研究も盛んだ。それから仏教の教理に忠実に信仰が行われているという国は、また非常に稀な国の一つだということになると思いますね。
 
草柳:  千四百年前にそもそも日本に仏教が入って来た時には、どういう形で入って来たのか。それからその後、千四百年の間に、どういうふうに変容していったのか。或いは変容していかなかったのか、ということは物凄く長い時間の中で、ほんとにさまざまな問題があったと思いますので、それをこれから一年間繙いて頂くわけなんですけれども、最初に日本に入って来た時の入り方、これはまあいろいろな説があるというふうに伺っていますが、どういうことだったんでしょうか。
 
田村:  普通に、仏教が入って来たと言われているものは、『日本書記』とか、その他の文献に 出ておりまして、百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)という王様が日本の欽明(きんめい)天皇に宛てて、仏像経巻を送って来たという時が考えられているわけです。ところがこれは公伝(こうでん)と言われておりまして、公に伝わった。政府から政府へ伝わって来た。或いは向こうの王様から日本の天皇へ伝わって来たということで、それ以前に民間に伝わって来たということは一般に承認されていますですね。ただ民間に伝わって来たのは、いつ頃どういう形で初めて伝わって来たのかというのは、ちょっとよく分からない、ということです。
 
草柳:  もうその辺の記録もありませんでしょうしね。
 
田村:  そうですね。そういう古い時代のものはね。ただ民間に伝わってきている間は、あまり問題はなかったんですけれども、日本の天皇のところへ伝えられてきたという時に、いろんな問題が出て来たということになるわけですね。
 
草柳:  いろんな問題とおっしゃいますと。
 
田村:  これは仏教が、例えば朝鮮で高句麗(こうくり)とか、或いは新羅(しらぎ)とか、百済(くだら)、いろんな国がありますけれども、そういう国で仏教の受け取り方がいろいろ違うわけですね。これはまあ言うならば、宗主国(そうしゅこく)から属国的な地位にあるところへ仏教が伝わったという時には、これはもう否応なしに受け入れるということになりますね。それに対して、そういう関係でないところへきた時には、「受け入れようか、受け入 れまいか、どっちでもいい」という自由があるということになるわけです。日本の場合も、そういうことで、欽明天皇は、天皇という地位は言わば神道の神様を祀る神官の最高の地位の人ということになりますから、そこへ外国から新しい宗教が入ってきたということになると、「どうするか」ということで、問題になってしまうわけですね。それでよく言われておりますように、臣下を集めて意見を聞いたら、「仏教を崇拝しよう」というのと、「受け入れられないでおこう」 というのと、二派に別れたというので、結局、欽明天皇がなさったことは、蘇我(そが)氏に、「やって見なさい」ということですから、いわば宮廷外交のところで伝えられてきた仏教を、民間人にやらせてみるというような、そういう形で受け入れたわけですね。
 
草柳:  その頃、既に日本は大和朝廷というのがあったわけですね。さっきおっしゃった公に入ってきた仏教というのは、つまり政府と言うか、国と国との関係の中で入ってきた。
 
田村:  そうですね。丁度その頃、中国では揚子江の南の方に梁(りょう)という国がありまして、この梁の武帝(ぶてい)(464−549)という人が、中国の歴史を通じて、皇帝で最も仏教を信仰した人としては、武帝が挙げられるというのは非常な信者だったんですね。それで仏教史全体の流れから言いますと、中国で最も盛んになった武帝の仏教が、百済の聖明王のところへ来て、聖明王は武帝と非常に親しくしていて、朝鮮の歴史の本を見ますと、聖明王は武帝にお願いして、「涅槃経を分かる人を送って下さい」とか、いろんなことで仏教の交流があるわけですね。そういう中で、武帝から聖明王へ、そして欽明天皇へ、というような流れで入って来たというふうに理解することが出来るんじゃないかと思うんですね。
 
草柳:  そうですか。日本の仏教と言いますと、真っ先に思い浮かべるのは、これは誰でも直ぐに聖徳太子ということになるわけで、聖徳太子はその仏教が入って来て、暫く後の人ですね。
 
田村:  五十年位。
 
草柳:  五十年位後。それにしても、いわば仏教が公に入って来て、殆ど直ぐに聖徳太子が出て来ると。
 
田村:  聖徳太子(574−622)は仏教が日本に定着するというのに、最も大きな力を発揮された方だというふうに思いますけれども、いろんな側面がありまして、今申したように、欽明天皇は、いわば民間の仏教として受け入れるという形で、しかもそれを廃止するという方向へ向かったわけですね。ところが聖徳太子という人は叔母(おば)さんの推古(すいこ)天皇という方が天皇になられると、直ぐ摂政(せっしょう)という地位に就かれて、実際の政治は聖徳太子が行ったんだろうというふうに言われておりますけれども、摂政になった翌年に、「三宝(さんぼう)興隆の詔(みことのり)」というのをお出しになります。「三宝」三つの宝というんですけれども、これは今の言葉で言えば、「仏教興隆」仏教を盛んになるようにというのを詔勅(しょうちょく)の形で出したということで、そこで民間の仏教が、国家としての仏教として受け入れられて来たということで、仏教が日本に定着し発展する基をそれが開いたということがありますね。
 
草柳:  推古天皇の摂政ということは、つまり推古天皇は女帝ですから、いわば聖徳太子は天皇の代わりとして、政治の政府の中心にいたわけですね。
 
田村:  はい。これも実際には学者の間で、いろんな意見がありまして、やはり「どうして女性の天皇を立てたか」ということで、女性の天皇に宗教的な権威を与えて、そして実際の政治は甥の聖徳太子が執られたという見解もありますし、やっぱり蘇我(そが)氏の勢いが実際には強かったんだろうというような見解もありますけれども、聖徳太子の政治上に占めた位置というのは、非常に大きなものだというふうに思いますね。
 
草柳:  聖徳太子は仏教を国の政治を進めていく上で、ある意味では仏教をその支えにしたというふうに考えてもいいわけですか。
 
田村:  そうですね。これはそれまでの仏教理解というのは大体呪術(じゅじゅつ)的なもので、病気が流行るとか、流行らないとか、病気を治すとか、そういうような面で仏教が考えられていたわけですけれども、聖徳太子という方は仏教の思想を非常に正確に理解された方ですね。その仏教の正確な理解を、仏教の教理の面だけではなくて、今おっしゃったように、内政の面でも、外交の面でも、実際の政治的な動きの基本に据えられたというところが、もの凄い方だったというふうに、私は思いますね。
 
草柳:  聖徳太子がそれだけ仏教に肩入れするというか、仏教をきちんと位置付けて、その国の政治の中にも取り込みながら、支えとしながらおこなっていったということは、聖徳太子の仏教に対する理解というものが、これがやっぱり相当正当な理解者と言うか。
 
田村:  正確な理解者だったですね。これは素晴らしいものですね。例えば叔母さんの推古天皇に仏教の講義をして上げたということが伝えられておりますし、そういうものが基礎になって、三つの書物を書かれた。『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』と言っておりますけ れども、『法華経』というお経と、『勝鬘経(しょうまんぎょう)』というお経と、それから『維摩経(ゆいまぎょう)』という、三つのお経に注釈書を書かれたというわけですけれども、この注釈書は非常に正確な理解に基づいて書かれておりまして、例えば『法華義疏』というのは、中国で書かれた『法華義記』という本を参考書にして書かれたということが分かっておりますけれども、それにただ従うのではなくて、ご自身の見解を強くお出しになって、中国で書かれた書物について、「これはちょっと違うんじゃないか」というところが沢山ありまして、「ここを私はこう思う」というようなことは非常に沢山書かれていて、従ってご自身自身の思索に基づいて書かれた注釈書だということになりますね。
 
草柳:  その今の注釈書にしても、おっしゃるように、「いやここの理解は違うんじゃな いの」というふうに、聖徳太子が自信を持っておっしゃったということは、聖徳太子が如何にまだ入って来て、僅か五十年か、六十年の仏教に対して、それだけやっぱり深い理解というか、洞察力をもって見ることが出来た、という能力の素晴らしさと言うか、凄いですね。
 
田村:  そうですね。それで『法華義疏』という書物は、草稿本と言われているものが残っておりまして、これは宮中にあるんですけれども、やはりずっと見ていくと、いろいろ訂正を加えたところがあるわけですね。それでそういうものがあるわけですから、草稿本というふうに言われているわけなんですけれども、この草稿本に対して、「本当に聖徳太子がお書きになったものだ」という考え方、「それからそうではあるまえ」というような考え方、いろんな考え方が出ているわけですね。その中の一つに、今おっしゃられたように、日本へ仏教が入って来てから、僅か五十年の間に、こんなにも透徹した理解で書物を書くなんていうことは、ちょっと信じられないというような、まあ常識的な反論ということになりましょうけれども、そういうことを考える人もおりますね。でもやはり私は聖徳太子自身の、さっき申しましたように、現実の政治の方法への生かし方とか、いろいろな面から見ると、これは証明するということはちょっと出来ないんですけれども、『法華義疏』は、やはり『三経義疏』はやはり聖徳太子がお書きになったものだろうというふうに私は思いますね。
 
草柳:  そうですか。もしほんとにそれが聖徳太子が書かれたものだということになると、これは日本で最古のもの、
 
田村:  日本で最古のものですね。ですから最古のものだということは、後のものはみんなそれより新しいものですからね。それがほんとに聖徳太子がお書きになったということは証明しようとしても、他の文献は新しいんですから、決定的な証明にはならないんですね。それで偽撰説(ぎせんせつ)も決定的な偽撰説はないです。真撰説(しんせんせつ)も決定的な真撰説という程のものはないですね。ただ、いろいろな状況からどう判断するかということになるんだろうと思うんですね。
 
草柳:  もしそうだとすれば、何故これがそれだけ貴重な、というふうに考えられるわけですか。
 
田村:  やはり日本仏教の基礎をそれで築いた、という評価が出来ると思いますので。
 
草柳:  その後、千数百年続く日本の仏教の基礎が築かれたという。
 
田村:  そうですね。
 
草柳:  それに一番最初に手を染めたのが聖徳太子だったということですか。
 
田村:  はい。
 
草柳:  凄い人なんですね。
 
田村:  私はやっぱり理解が凄いと思うだけでなしに、それを現実の政治の上に、いろいろな意味で活かしていったという、それが素晴らしいと思いますね。それはやはり『十七条憲法』にもその姿が出ておりますし、中国との外交のところで、外交文書の中に出ている言葉が、どういうふうにして使われたかというようなことを考えると、それがこう出ているというふうに思いまして、そういう点で非常に素晴らしいと思いますね。
 
草柳:  『三経義疏』ですか、三つのお経の注釈書の中で、その中ではさっき言った『法華義疏』ですか、『法華経』の注釈書というものが、やはり一番、
 
田村:  そうですね。それが中心だと言っていいんだろうと思いますね。
 
草柳:  じゃ、それの一端を見ながら、お話を進めていきたいと思うんですが、
 
若し釈迦如来の此土(このど)に応現(おうげん)(機に応じて身を示現す)したまえる大意を論ずれば、将(まさ)に宜しく此の『経』(法華経)の教を演(の)べて、同帰(どうき)(万善同じく一如に帰す)の妙因(みょういん)を脩し、莫二(まくに)(一乗平等)の大果(だいか)(大乗の極果)を得せしめんと欲してなり。
(『法華義疏』)
 
これはどういう意味ですか。
 
田村:  これは『法華義疏』の一番最初のところで、全体を要約して書いていらっしゃるんですけれども、「若し釈迦如来の此土に応現したまえる大意を論ずれば」とい うところは、お釈迦様がこの世に生まれられた。お釈迦様は何の為にこの世に生まれられたか、という、その生まれられた目的のところを、釈迦如来がどうしてこの世に生まれて来たかというと、この「法華経」を説きたくて生まれて来られたんだ。お釈迦様は沢山のお経を説かれますけれども、その中でも最も説きたかったお経はこの『法華経』なんだと。『法華経』の中には何が書いてあるかというと、「同帰(どうき)」同じく帰するというわけですね。「万善」というのは、どんな善を行っても、ということですけれども、〈どんな善を行っても、その結果としてみんな同じ世界に帰する〉。「同じ世界」というのは、後に出て来る「莫二(まくに)の大果(だいか)」というふうに説明されておりますけれども、「莫二」というのは、「莫」は何々でないという意味で、二でない。一つの同一の大きな結果、「大きな結果」というのは〈悟り〉ですから、大きな結果ということになりますけれども、この大きな結果を得る原因となるというので「妙因」〈素晴らしい原因〉というふうに書いてあるわけですね。これは常識的な考え方から言いますと、いいことをやるというのでも、非常にいいこともあれば、大していいことでもない。いろんな段階があるというふうに考えるわけですね。その段階があるものを違うというふうに見ると、これは仏教の中では低い段階だ。『法華経』になると、どんな原因、これは『法華経』の前半のところに書いてある行の仕方を、一つ一つ細かく上げた人がおりまして、「五十近いものがある」と言うんですけれども。〈仏様の前で、ただ一回だけ手を合わしたという人でも、一生懸命になって学問し修業した人でも、みんな最高の仏の悟りという世界に入っていくことが出来る。永遠の悟りの世界に入っていくことが出来る〉というのが、このお経の説かれていることでもあるし、ここのお経によって、そういう道が開けている。それがお釈迦様が説かれたものの最高の道なんだ、というような考え方ですね。
 
草柳:  それで、つまり太子の仏教の理解の仕方の、いわば根本みたいなところであるわけですか。
 
田村:  それでまた後で、「一乗思想」ということを述べますけれども、「一乗」という 考え方をここで採用していらっしゃる。「一乗」〈全ては平等だ〉という考え方が、日本仏教を通ずる一つの大きな特徴になっていますね。
 
草柳:  もうその時代にしっかりそのことを見据えていったわけですね。
 
田村:  はい。そうです。
 
草柳:  もう一つは今の『法華義疏』から続けて紹介をしたいと思うんですが、
 
すなわち、義(ぎ)は自(おのずか)ら応(まさ)に万善(まんぜん)を以て一因(いちいん)と為して、得(う)るところの果(か)の相(そう)を明かすべし。ゆえに、此(ここ)には万善を以て一因と為して得るがゆえに仏の寿命(いのち)も亦長遠(じょうおん)にして窮(きわ)まり無しと明かす。
 
これはどういうことを言っているんですか。
 
田村:  これは『法華経』というものを理解する時に、大体、前半と後半と二つに分けて理解するわけです。前半と後半の関係論というようなものが、各々いろいろな考え方があるんですけれども、聖徳太子の場合は、前半が原因で、後半が結果だという。原因と結果というふうに分けて考えられるわけですね。その原因と結果の原因のところが、先程申しましたように、どんな善を行っても、善を行えば、というのが、悟りの世界に入るというのが前半で、この文章は後半に入るところの文章なんですけれども、その結果が永遠なる仏のいのちを得るんだ、ということを書いてある部分なんです。そこで、「すなわち、義(ぎ)は自(おのずか)ら応(まさ)に万善を以て一因(いちいん)と為して」どんな善を行っても、それが同一の原因となる。同一の原因となるから、同一の結果をもたらす、というわけですね。それで同一の原因となっているということなので、今度、後半のところでは、その原因の「得るところの果」その原因を収めることによって得るところの結果の「相を明かすべし。ゆえに、此には万善を以て一因を為して得るがゆえに」というので、結果の相は「仏の寿命(いのち)も亦長遠(じょうおん)にして窮(きわ)まり無しと明かす」その結果得られる「仏の寿命(いのち)」というのは、永遠にして窮まりない。すなわち、『法華経』によって、〈善を行えばその結果として、永遠なるいのちを得ることが出来るんだ〉ということを述べている場所ですね。
 
草柳:  大事なところはこの最後のところですね。多分きっと、「永遠なる寿命を得るのだ」。「永遠の寿命」ということを、ここではしっかりと言いたかったということなんでしょうね。
 
田村:  そうです。我々は人生生きている中で、大体目先の問題に煩(わずら)わされて、それで目先の有限な人生を生きている。そういうものに関わっているというところで、苦悩が出来る、ということになりますね。目先の問題だと、あの人は偉いし、私はあまり偉くない。あの人はお金持ちだけど、私はお金がない。それからもう少し本質的なことを言えば、最後はもう人間は誰でも病気になる。或いは歳を取る。歳を取りたくなくても取っていかざるを得ない。最後は病気でみんな死んでいく、という有限の生を生きているというところに、もっとも根本的な人間の苦悩の原因があるわけですね。それをそういうものを超越した永遠の生命を得るんだというところで、やっぱり宗教的な救いの原理になっている、ということだと思いますね。
 
草柳:  ということは、聖徳太子が亡くなってから、「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」というのが出来ますね。その中にあるという、聖徳太子が世間というものをどう見ていたのか。そしてその仏教というものをどう見ていたのか、ということがもの凄く端的に現されている言葉なんだそうですね。
 
田村:  そうです。これは聖徳太子が亡くなられると、奥様のお一人が、自分の夫が死後行っている世界を絵にして現したいということで、その奥様は天寿国という世界に生まれているというふうに信じられたわけですね。「天寿国」というのは、そ の「天寿国繍帳」の中に亀がちらばされておりまして、亀の背中に四つずつ文字が書いてあるんです。元々これが百匹の亀がおりまして、それで四百字の文章が書かれていたということが分かっておりまして、その四百字の文章を記録したものがあるんですね。その中に聖徳太子はご存命の時に、奥さんに対して、「世間(せけん) 虚仮(こけ) 唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」(世間は虚しく仮のものであるにすぎない、ただ仏だけが真実である)とおっしゃっておられた。だから亡くなった後で、天寿国へという世界に生まれているだろう、というふうに書いてあるわけですね。「世間虚仮」〈この世の中は虚しく仮のものである〉ということですけれども、これは仏教の基本的な原理なんですね。インドでも「諸行無常」「諸法無我」というふうなことを言いまして、〈あらゆるものが移り変わる。あらゆるものは永遠なものはない〉というようなことが、仏教の最高の原理ですね。そういうものを「世間虚仮」という、より短くした端的な文章で現していらっしゃる。先程申しましたように、聖徳太子は日本の文化の基礎を築いたということが言いますですね。それまでの政治の面でも、「十七条憲法」を制定するとか、「冠位十二階」を制定するとか、中国との交際を開くとか、いろんな面で日本の現実的な問題に、非常に尽くされていながら、しかも「世間虚仮」全ては空の世界なんだということを見ていらっしゃる。その目が素晴らしいですね。そして「唯仏是真」〈仏のみが永遠なる仏の楽の世界が真実のものなんだ〉というような見方をしていらっしゃるわけですね。
 
草柳:  今出た繍帳というのは、今帳(とばり)みたいな物、
 
田村:  繍帳というのは、刺繍です。刺繍したものと言いますか、「天寿国曼陀羅」とも言われますけれども。
 
草柳:  そうですか。全部ではないんでしょうけれども、当時の物がまだ残っているわけですね。
 
田村:  先程映った中では、左上のちょっと紫がかったところが、あれが本来のもので、後の部分は鎌倉時代辺りに修復をされたものだというふうに言われておりますけれども、この部分がほんとの最初の頃からの物だというふうに言われております。
 
草柳:  そうですか。日本の仏教を遡って考えると、先ず最初にのっけに大変な人物がいたことになるわけですね。
 
田村:  そうなんです。                  
 
草柳:  さて、その後の仏教というのは、どうなんでしょうか。
 
田村:  その後は大体奈良時代を通じて、学問仏教と言われておりますけれども、中国で発展した、或いはインドで発展し中国に受け伝えられて、中国で発展した仏教を一生懸命になって学問して理解するというのが中心だったというふうに考えられているわけですね。ところがそういう学問の基礎の上に立って、日本的な仏教を展開したというのは平安時代、鎌倉時代の仏教だ。普通、「鎌倉仏教が日本的な仏教だ」と言われていますけれども、それの先駆けをなして、それの準備をしたのがやはり平安時代の仏教だというふうに思いますね。それで平安時代の仏教は最澄にしても空海にしても、やはり中国になかったような独自のものを主張しているというところに非常に大きな意味があると思いますね。
 
草柳:  では代表的な最澄と空海について少しずつ触れて頂きたいですが、最澄という人はどういう人だったんですか。
 
田村:  最澄(767−822)という人は近江の国で生まれて、大体帰化人の系統なんです。この人の先祖は中国の後漢(ごかん)という、漢の国の皇帝なんですね。最後の皇帝の子孫―最後の皇帝ですから、その子供達は皇帝にはなれなかったというわけで、四方へ散らばったんでしょうけれども、その皇帝の子孫達の一部分の人が日本へ来ておりまして、これは近江に居たわけです。これはまたいろんな文献でそういう人達が近江に割に沢山居たということが分かっておりますけれども、そういう中の一人で、若い時に近江の国分寺へ入ってお坊さんになる。その後で比叡山へ入って、これは修行の生活に入ったんでしょうね。最初は禅宗の人なんです。禅宗なんです。ですから、比叡山へ入って坐禅の実践をしようと思って入ったんだろうというふうに思いますけれども、その後自分で勉強して、天台に変わっていって、そして後で中国の天台山(てんだいさん)という、天台宗の中心地のところに留学して、帰って来てから、日本の天台宗というのを創り上げたということですね。
 
草柳:  中国へ留学して勉強して戻って来た人の一人なんですね。
 
田村:  はい。そうですね。
 
草柳:  最澄の思想と言いますか、考え方のポイントになっているもの、特徴的なものというのは何なんでしょうか。
 
田村:  これは伝教大師最澄という方は、いろいろな人と議論をなさいますけれども、これも後で出てきますけれども、東北に居た徳一(とくいつ)という人との議論の中で、やっぱり議論していると、その過程でいろいろ独自のものというのが、ちゃんと形を取っていくということがあるわけですね。その形を取ったものというのは、私は「果分(かぶん)への直入(じきにゅう)」という言葉で紹介しているんですけれども、「果分」というのは、原因と結果の、結果の部分ですね。仏教の結果の部分というのは「悟り」ということですね。悟りに直接入っていくというのが、果分への直入という。
 
草柳:  前段抜きで、
 
田村:  前段抜きですね。普通の仏教ですと、やっぱり学問をして、修行して、修行を積み重ねていって、最後に悟る、というのが常識的な考えということになりますね。ところがそうではなしに、修行すれば直接悟りの世界に入っていくんだということを言いまして、そういうものが日本仏教教学のズッと後の教学まで基本的な教学の特徴をなしているというふうに思うんです。それでそういうことを申し上げるのに、『法華経』の中の一つの譬え話を申し上げたいと思うんですけれども、『法華経』の中に「火宅の譬え」―「火宅」というのは、火事になっている家という意味ですが、そういう譬え話があるんです。これは大きな長者さんの家で、屋根に火が付いて、火事になっているけれども、子供がその中に「二、三十子」と書いてあるから、二、三十人の子供が居て、自分の家が火事になっているということを知らないで遊んでいるというわけですね。これを現実の人間に当てはめて、そのままで居れば焼け死んでしまうのに、それに気が付かなくて、目先のことだけで遊んでいるというのを、普通の人の状態に譬えるわけですね。ところがお父さんが屋敷の外でそれに気が付いて、子供を何とかして外に出して安全な所に運びたいというふうに思うんですね。それでどうしたかと言うと「方便」―「方便」というのは手段という意味ですけれども、手段として、「羊の車をあげる。鹿の車をあげる。牛の車を上げる。だからみんなここへ出て来なさい」と言って、呼び掛けるわけですね。そうすると、小さな子供だったら、羊が引っ張る車が丁度いい。今で言えば、三輪車が丁度いいとか、それから自転車が丁度いいとか、やっぱり車が欲しいとか、いろんな子供の大きさによって相違があるでしょうから、それぞれ車が欲しいと思って外へ出てくるわけですね。そういうところで実際にはそういう車を用意しなくて、大きな白い牛の引く車を一台だけ用意して、素晴らしい立派な大きな物を用意しておいて、そして出てきた子供を全部それに乗せて運んでいくというようなお話が『法華経』にあるわけです。
 
草柳:  じゃ、その辺のところを、またちょっと読みますけれども、今のエピソードというのは、要するに、さっき先生がおっしゃったように、「果分への直入」と言うんでしょうか、つまり直接もういきなり人というのは悟れるものなんだよということを教える為のお話。
 
田村:  『法華経』に書いてあるところではそうではなんです。
 
草柳:  違うんですか。
 
田村:  それを最澄はこう変えるわけです。
 
草柳:  最澄が変えるんですか。
 
田村:  変える。それで変えるところは、そんな日本の国の仏教では羊の車に当たる仏教、鹿の車に当たる仏教、牛の車にあたる仏教、手段として子供を外に引き出す為の教えなんかもう要らないんだとやるわけですね。それで火事のところから子供を安全なところに連れ出すというならば、最後に乗せる大きな白い車を、直接燃えている家にくっつけて、ドンドン子供を直接それに乗せて運べばいいじゃないか、というわけですね。その車を用意するお父さんというのは、〈仏様に当たる〉わけですね。それでその車というのは〈真理そのものの車〉と言いますか、「諸法実相」という言葉を使うんですけれども、その車に最初から全部乗せてしまえ。日本はそれでいいんだ、というわけですね。そういうふうにして、普通お経の中に書かれているものを変えるというようなことはしないんですけどね。それを変えて、日本ではこういう手段になるような小さな車なんか要らない。〈最初から 最後の車に直接乗せてしまえ〉というふうに最澄は変えるわけですね。
 
草柳:  その辺の教えのところがそれまでの奈良の仏教と明らかに違うところというふうに考えていいわけですか。
 
田村:  そうです。最澄は奈良仏教を批判しまして、〈奈良の仏教は悟りへいく原因のと ころを一生懸命やる仏教〉なんだ。ところが〈天台宗は結果のところへ直接入る仏教〉なんだ。だから奈良の仏教よりズッと優れた立派な仏教なんだ、ということを主張するわけですね。
 
草柳:  最澄のお弟子さんという人が書かれた今の下りについての文があるんですが、それをご紹介した方が宜しいでしょうか。
 
田村:  お願いします。
 
草柳:  法華の意に約するに火宅の内に於て大白牛車(だいびゃくごしゃ)に乗り、家の外に大白牛車に乗らず初めより後に到る。菩薩戒を受けて菩薩僧となり、自性清浄(じしょうしょうじょう)の三学を修持し、迂廻(うえ)の道に留まらず、直ちに宝所に往き仏果を得。
(光定『伝述一心戒文』)
 
田村:  これは今申したような内容のことを最澄自身が徳一(とくいち) との人の論争の本の中でも書いておりますし、ここに出てくる戒律の部分にも書いているんです。ただその文章はこれほどハッキリは書いていないんですね。もう少しぼんやりした形は表現していらっしゃるということがありますので、お弟子さんが先生から聞いたという本は端的に書いてありますので、その文章を出したわけですけれども、「法華の意に約するに火宅の内に於て」というのが、火事の家の中で大白牛車という最後の車に直接乗せるんだと。家の外に大白牛車に乗るというのが、法華経の譬え、そのものなんですね。一旦羊の車とか、何かに引き寄せられて外へ出て、家の外で大白牛車。そうではなくて、もう家の中で、家のところに直接付けて乗せる。「初めより後に到る」最初から最終的なものに乗せるんだというようなことが書いてあるわけですね。それでその後の「菩薩戒を受けて菩薩僧となり、自性(じしょう)清浄(しようじよう)の三学を修持し、迂廻(うえ)の道に留まらず」これの言葉の内容はまた後の回でこういうことが出てきますので、ちょっと長くなりますので、今、省略しますけれども、「迂廻(うえ)の道」というのは、回り道ということですね。悟りにいく道に真っ直ぐな大きな道「大直道(だいじきどう)」と言いますけど、真っ直ぐな大きな道もある。しかし寄り道するのもある。「歴劫道(れきごうどう)」と言いまして、長い時間のかかる道もある。いろんな道もある。だけれども最澄自身の考えるのは「大直道(だいじきどう)」真っ直ぐな道へ直接入るんだ。先程言いましたように、一旦羊の車とか、鹿の車とか、牛の車をやるからと言って引き寄せておいて、それから大きな白い牛の車に乗せるというのは、これは回り道だ、迂廻の道だと言うんですね。日本は迂廻の道は必要なんだ。最初から最終的な道に入っていけばいいというのが、この言葉の意味するところということになるわけですね。
 
草柳:  今の回り道をしなくてもいいんだよという、つまりその「果分への直入」ということなんですよと、いうのは、多分これからのシリーズの中でキーワードの一つになりそうですね。
 
田村:  そうですね。
 
草柳:  覚えておきたいと思うんですが、その最澄と殆ど同時代の人で、さっき名前を挙げて頂いた空海―弘法大師空海、この人はどういう人だったんですか。
 
田村:  弘法大師(774−835)も、やはり「果分への直入」という言葉で最澄の思想を捉えれば、やはり同じですね。「三密加持(さんみつかじ)」三密の行(ぎょう)を行うということなんですけれども、「三密」というのは、「三業(さんごう)」と言いまして、仏教では「行い」というのに、三つの、三種類の行いがある。これは普通我々が「行い」と言いますと、身体で行うことだけを「行い」と言っておりますけれども、仏教ではそうではなくて、〈口で話をする〉ことも行いの一つ、〈身体で行う〉こと、口でいうことの裏に〈心がある〉というので、身体と口と心というのが人間の行為のあり方だというふうに考えるわけです。この行為のあり方で身体で印を結ぶ、口で陀羅尼(だらに)を唱える。心で仏様と、それから迷っている人間と本来一体なのだというようなことを感じて修行を行うということになるわけですね。この修行を行うと、仏様の三業と我々の修行を行っている三業と相応して一体になるというわけですね。三業の、こういう修行を行うことによって、それで仏と一体になることが出来る。ですから果分の方へ直接入っていくということになりますですね。
 
草柳:  その辺のところをまた仏典から見てみたいと思うんですが、
 
「三密加持(かじ)するに速疾(そくしつ)に顕(あら)わる」という。加持とは如来の大悲と衆生の信心とを表わす。仏日の影、衆生の心水に現ずるを「加」といい、行者の心水、よく仏日を感ずるを「持」と名づく。行者もしよくこの理趣を観念すれば、三密相応するが故に、現身に速疾に本有の三身を顕現し、証得す。
(空海『即身成仏義』)
 
ちょっと難しいですね。
 
田村:  これは言葉は大変難しいですけれども、「三密加持するに速疾に顕わる」とい うことで、「三密」というのは、密教で三業を行うことをする側ですね。「加持」加えるという言葉と、「持」たもつという言葉の説明がこの後にここでは出て来まして、これは仏様を仏日で太陽に譬えるわけですね。衆生の心を水に譬えるわけです。太陽と水というので、天に太陽があると、その方向、太陽の姿が水に映るということになりますね。同じように仏の知恵が衆生の心に直接こう太陽が水に映るように映ってくるというわけですね。それで修行している人が、仏を感ずるのを、仏の方から言うと、仏があって、〈仏がその力を衆生に与えるというのが加える〉ですね。それから〈行者の方がそれを頂いて、それを持(たも)つという意味で加持〉と言いますけれども、こういう道理をよく考えて修行すれば、仏の三密と衆生の三密と相応して、今の、この我々の生きている身体のままで、「速疾に」というと、素早くという意味ですけど、素早く仏の姿を現し出す。この姿を現し出す仏の姿というのは、「本有(ほんぬ)」と書いてありますけれども、〈本来我々が持っている仏がその時に現れて、そして今のこの身体のままで成仏することが出来る〉ということですね。これもやはり同じように、〈修行すれば直接仏と一体になって、仏になることが出来る〉というような考え方ですね。それですから、そういう「果分への直入」というような言葉で、最澄の思想も、最澄は天台宗ですし、空海は真言宗ですし、教えの立て方は違うけれども、そういう意味では共通するというふうに考えているわけなんです。
 
草柳:  今の最澄にしても、それから空海にしても、一番最初にお話のあった聖徳太子の基本的な考え方がやっぱり底流にあって、そして脈々と伝えられて来ているという繋がりで捉えていいわけですか。
 
田村:  そうですね。そういう永遠の仏の世界へ入るということについての入り方のところで、やっぱり空海、最澄のところでは聖徳太子とちょっと違うあり方が出て来るということになって、その入り方の点から言うと、そういう「果分への直入」というのが、後の鎌倉時代、それから鎌倉時代にいろんな宗派の方々にも同じ形が受け継がれているというふうに、私は思っているんですけれども。
 
草柳:  ちょっと駆け足ですけれども、今日は日本の仏教を千数百年もの間を、エッセンスだけ今お話して頂いているんですが、その後の時代ということになりますと、私達に直ぐ名前が浮かんで来るのは、当然鎌倉仏教の人達ということですね。じゃ先ず親鸞から。
 
田村:  親鸞聖人(1173−1262)は多くの方がご承知かと思いますけれども、「浄土真宗」、或いはただ「真宗」と言いますけれども、真宗を開かれて、「悪人正機(あくにんしようき)」という立場に立たれた。これは悪人こそ仏は救うんだという形ですね。
 
草柳:  有名な、「悪人なをもて、
田村:  そうです。「往生をとぐ、いわんや善人をや」ということですね。それであれは 『歎異抄』の中にそういう言葉が出ておりますけれども、『教行信証』というの をその目で見ると、最初から最後まで、全部悪人正機で一貫されていますですね。それで信仰信心ということを重視されまして、念仏の行を信じて、念仏の行を唱える。「信ずる」ということ自身が仏から与えられた信心なんだ。念仏の行をただ行うということでも、〈自分が行をしているというのではなくて、仏から与えられた行なのだ〉というので、〈全ては仏から与えられた、いわば仏の世界の中のものだ〉という考え方ですね。従って我々がお念仏を唱えると、その時、〈煩悩のある迷っている人間のままで、仏の智慧の光の中に収め取られて、そして仏に救われていく〉という考え方ですね。従って親鸞聖人のところでも、やはり同じように〈仏の世界に直ちに入れて貰う〉というような教理が、浄土教の立場の中で開かれているというふうに思うんですけれども。
 
草柳:  親鸞の『浄土和讃』を用意してありますので、ちょっとこれも見て見たいと思います。
 
十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる
 
信心よろこぶそのひとを
如来とひとしとときたまふ
大信心は仏性なり
仏性すなわち如来なり
(親鸞『浄土和讃』)
 
この辺は七五調で調子がいいですが。
 
田村:  親鸞聖人は沢山の和讃を書いていらっしゃいますから、それから沢山の本を書いていらっしゃいますから、どこを出してもいいようなものですけれども、今お読み頂いたところは、最初はやはり仏の立場からのことをおっしゃっておられるというふうに思いますね。「十方微塵世界の」無限の数の、あらゆる世界の念仏の 衆生を、仏様というのはちゃんとご覧になって、そしてそれを救いとって捨てない、というようなことで、仏は念仏の衆生を救うということですね。「阿弥陀となづけたてまつる」。そこで「阿弥陀」というのは、〈無限なるもの、無限なる仏、無限の光を持った仏、無限のいのちをもった仏〉というのが、阿弥陀ですけれども、そういうあらゆる念仏の衆生を救い取って捨てないから、そこで無限なる仏となづけたてまつる、というわけですね。今度はその仏に救われる人から言うと、「信心よろこぶその人を」阿弥陀仏の信心を非常に喜んでいるその人を、「如来とひとしとときたまう」その人はもう仏様と等しい存在なんだ。〈我々は念仏を唱えれば、その時もう仏と等しい存在になるんだ〉ということですね。「大信心は仏性なり」〈我々の信ずる心というのは、それがそのまま仏の本性であり、仏の性質であり〉、「仏性すなわち如来なり」〈その信ずる心がそのまま仏の心なんだ〉というようなことですね。長い間かかって、修行して、何かしてだんだん仏になっていくというんじゃなくて、〈お念仏を唱えればその時直ちにもう如来と等しい、仏に等しい存在なんだ〉ということなんですね。
 
草柳:  今の和讃なんかを見ておりますと、親鸞の場合などは特に一般の民衆と言うか、大衆に向かって語りかけている、という雰囲気がもの凄くありますね。
 
田村:  そうですね。親鸞聖人という方はそれに非常に努力された方ですね。沢山の書簡を書いて、お手紙を出されて、人々を教化しておりますし、その書簡の中にはいろんな人が疑問をもって、親鸞聖人に「こういうことはどうですか」と手紙を出されると、京都から関東の門弟達にとって、「それはこういうことですよ」と、丁寧に書いて返事を出されるというのもあります。いろんな本を和文でお書きになるというのがありますね。そしてこういうふうな、やはり歌の形になさると、やっぱりそれを歌って覚えやすい、ということがありますから、人々を教化するということに、非常に努力された方で、ご自身がほんとに悟りを求めて、浄土の真実を求めて努力していらっしゃった、というところだけでなしに、それをいかにして人々に伝えるかというところでも非常に努力をなさった方ですね。
 
草柳:  この時代の後、今の親鸞とは何かちょっと肌合いが相当違うような気がしますが、禅の方で言うと、やっぱり道元(どうげん)ということになるでしょうか。
 
田村:  そうでしょうね。
 
草柳:  この人はどういう人だったんでしょうか。
田村:  道元禅師(1200−1253)も、私はある人の解説の中で、もし仏の世界というものを金色(こんじき)、金色(きんいろ)で表現するとすれば、道元禅師が坐禅をすると、その時全てが金色の世界に変わる。これは金ならこういう色をして、この色そのままで金色に光り輝く。そのあらゆるもの、例えば汚いものがあっても、汚いものは汚い色をしながら金色に光り輝く、という。道元禅師が坐禅した世界というのは、〈坐禅に入ると、途端に周りが全部仏の世界に転換する〉わけですね。〈自分の心が仏の世界で、周りが全部仏の世界で、周りが仏の世界だから、また自分の心も仏の境地に入る。自分が仏の境地に入ると、周りが全部仏の世界に転換する〉というのですね。こうした〈修行する、坐禅するというのと、悟りというのと一つだ〉というわけですね。〈坐禅がそのまま悟りの世界に入ることである〉というようなところに、非常に特色のある思想があって、これも私は「果分への直入」という言葉を使えば、それも含めて考えることが出来るというふうに思っているんです。
 
草柳:  道元の書かれたものの中で、『正法眼蔵(しようぼうげんぞう)』という書物が最も有名なものの一つだと伺っているんですが、『正法眼蔵』というのは、とても難しいですね。読め ないんですけども、やはりあの中に道元の一番言いたいエッセンスが含まれているんですね。
 
田村:  素晴らしい文章ですね。
 
草柳:  じゃ、その『正法眼蔵』の中の一部をまた見ながら、お話を進めていきたいのですが、
 
仏法には修証これ一等なり。いまも証上なるゆえに、初心の弁道すなわち本証の全体なり。
(『正法眼蔵』弁道話)
 
田村:  これは先程申しましたように、〈修行と悟りというのは一つだ〉ということです ね。仏法には修と証、修行と悟りとこれは一等なり。一つのことなんだ。だから証上の修、いまも証上の修なるゆえに、修行が悟りの上の修なんだ。悟りを得る為の修行だったら、原因の部分ということになりますけれども、悟りの上の修だということになると、果分の方ということになりますね。それで〈坐禅をなさると、それ自身直ちに周りが悟りの世界、証上の悟りの世界に転換する〉。そこで、「初心の弁道」初めて坐禅をやる人でも、〈それが元々の悟りの全体なのだ〉ということで、これは非常に素晴らしい言葉で、非常に素晴らしい境地を書き表していらっしゃる、というふうに思いますね。
 
草柳:  道元という人も中国へ渡って勉強して来られた方ですね。
 
田村:  そうですね。道元さんという方は天台宗から臨済宗へ移られて、最後中国で曹洞宗に入って、如浄(にょじょう)禅師という方の下(もと)で、自分の元々もっていた疑問をそこで晴らすことが出来て、こういう素晴らしい境地に入っていかれた、ということになるでしょうね。
 
草柳:  そうですか。親鸞、それから道元と並んでもう一人代表的な宗教者と言えば、日蓮ということでしょうか。日蓮という人は道元よりちょっと後の人なんですか。
 
田村:  そうですね。それで日蓮上人(1222−1282)も題目を唱える。親鸞聖人だったら、「南無阿弥陀仏」とお念仏を唱える。それから道元禅師だったら坐禅をなさる。日蓮上人だったら、「南無妙法蓮華経」というふうに題目をお唱えになるというので、こう修行の仕方は違うということになりますね。ところが「南無妙法蓮華経」というふうに唱える「妙法蓮華経」という題なんですけれども、これは「妙法」の「法」ということを言えば、仏教の教え全部その中に入ってしまうわけですね。法ですからね。その仏教の教え全体の中で、妙なる法、素晴らしい法、悟りの法というのがある。このお経の中には、妙なる法が説いてある。「蓮華」というのは普通はそれを悟りの法自身を、蓮華に譬えているというふうに解釈しますけれども、それで〈題目を唱えると素晴らしい法、悟りの法そのものが自然に自分の中に譲り渡される〉。『法華経』というお経の中に書いてある釈尊の縁起を果徳というので、釈尊が悟りを得られる為に修行した原因の部分で一生懸命になって努力されたもの、果徳、仏という結果を得られた果徳、そういうものを『法華経』の中に含まれている、そういう〈仏様の教えそのものが題目を唱えると譲り渡される〉というわけですね。お釈迦様の方から言うと、譲り渡すということになりましょうし、我々受ける側から言えば、譲り渡されるということになりましょうね。そういうことで、日蓮上人の場合も、やはり長い間の学問修行を続けて悟りというのではなしに、〈お題目を唱えれば、その途端に仏の悟りが与えられる〉というような形で、そういう意味のもので言うと、日本仏教全体を通じて一貫する特徴があるというふうに、私は思っているんですけれども。
 
草柳:  そうですか。聖徳太子の言葉にありました「世間虚仮 唯仏是真」という、あれは言ってみれば、二千四百年前に、釈迦の基本的な考え方ということでもあるわけですね。つまりいつもそこへ戻っていくということの繋がりの中で、日本の仏教がこうずうっと続いてきているというふうに。
 
田村:  そうですね。
 
草柳:  今日はかなり駆け足で流れを見てきたんですけれども、今日出てきた人達はこれからも屡々登場致します。その時にまたじっくりとお話をお聞き致します。今日はどうも有り難うございました。
 
田村:  有り難うございました。
 
     これは、平成十年四月十九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである