仏教を生きるA渡来僧の足跡
 
                       東洋大学教授 田 村(たむら)  晃 祐(こうゆう)
                       き き て  草 柳  隆 三
 
草柳:  この四月から「仏教を生きる」の二回目です。今回のテーマは「日本へやって来た外国の僧侶達」ということなんですが、いわゆる渡来僧と言われた人達が一体どんなふうな経緯で日本にやって来たのか。そして日本でどのような影響を与えたのか。どういう足跡を示してきたのかということを中心に、今日も東洋大学教授の田村晃祐さんにお話を伺って参ります。田村さん今日も一つ宜しくお願い致します。
 
田村:  どうぞ宜しくお願い致します。
草柳:  書かれた本を拝見致しますと、かなり古く飛鳥、奈良の辺りに外国からやってきた僧侶達というのがいろいろな国から来ているんですね。
 
田村:  そうですね。この前お話申し上げましたように、公伝というのが百済から日本の欽明天皇に伝えられてくるということで、引き続いて百済から日本へ来たお坊さんというのが沢山いるわけです。朝鮮半島では百済と高句麗と相対立して戦争している中で、或いは百済と新羅と対立しているというような中でも、百済ばかりではなくて、高句麗からも沢山のお坊さんが来る。そのうちには新羅からも来るというようなことで、朝鮮半島全体から日本へお坊さん達がやって来て、それぞれ日本に仏教の教えを伝えるというようなことをしてくれたわけですね。従って飛鳥時代の仏教は朝鮮からいらっしゃったお坊さん達の努力によって、基礎が築かれていったということになると思います。それから奈良時代くらいになると、今度は中国からもいらっしゃる。或いは場合によっては、インドから中国へ来た人がそのまま日本へいらっしゃるというようなこともありまして、こういう外国から来たお坊さん達の努力によって、日本の仏教の基礎が築かれていったということが出来ると思います。
 
草柳:  飛鳥、奈良時代と言いますと、今から千三百年前、或いは千四百年前ぐらいになるわけですよね。当時のことを考えますと、例えば海を渡る技術にしても、航海術なんかにしたって、まだまだそんなにきちんとしたものではなかったと思うんですが、ああいう時代によくこれだけの人が来たかと思うくらい、いろんな余所の国から来ている。
 
田村:  やっぱり日本へ来て、日本の仏教の基礎を築いた方々の陰には、日本へ来ようと思っても、途中で船が沈んで来られなかったというような人達もかなりいるんじゃないかというふうに思います。そういう沢山の人の犠牲の上に成り立っているんだということを思いますね。これは逆のケースですけれども、日本から遣唐使というのが行きますね。遣唐使なんかでも、満足に行って、満足に帰って来たという例は、なかなかなくて、十五次ぐらい行った半分位の場合は、途中で遭難している。遭難している船が出ているというような調子ですから、向こうから来るにしても、同じだけの危険性を覚悟しなければ来られないということになるわけですね。
 
草柳:  ただ、日本の仏教の礎というのは、渡来して来た僧侶達によって築かれた、種が撒かれたということは勿論間違いのないことなんでしょうね。
 
田村:  そうですね。仏教では、例えば、「大乗仏教」大きな乗り物の仏教というふうに言いますけれども、大きな乗り物というのは、どういうことかと言うと、自分だけがその乗り物に乗るのではなくて、他人と共に乗る。他人もみんな同じ乗り物の中に乗せて、そして一緒になって悟りの岸へ行こうというのが、大乗仏教ということですね。それで自分だけが悟るということになると、これは小さな乗り物に乗る。一人だけ乗れればもうそれで良いということになりますね。そうではなくて仏教の用語ですと、「自利利他(じりりた)」とか、或いは「上求菩提(じょうぐぼだい)、下化衆生(げけしゅじょう)」というような言葉を使いますけれども、「自分が悟りを求めるだけではなくて、同時に他人を導く、これが大乗仏教なんだ」ということになるわけですね。そうすると、いらっした方々のお心を推察すると、やっぱり大乗に生きる、「人を救うことが、そのまま自分が悟りを得ることでもある」ということで、生死を落として日本まで法を伝えに来られたということになるんだろうと思います。
 
草柳:  今、おっしゃったようなそういう仏教の基本的な教えというものが、当時の渡来僧達の基本的な一番根底にある仏教の教えに対する構えというか、考え方というふうに見ていいわけですか。
 
田村:  はい。私はそうだと思います。これは何も外国から来たお坊さんだけではなしに、日本のお坊さんだって、自分が悟るだけではなくて、人をも導くということで生涯を尽くされていったわけですけれども、特にああいう航海の危険性の大きいような時代に外国から日本にいらっしゃるということの、そこにはなみなみならぬそういう大きな決心がいったんだろうというふうに思いますね。
 
草柳:  それは大陸のさまざまな政治状況とか、或いは日本側の状況と、いろいろ複雑なものが絡み合っていたんでしょうけれども、例えば日本の受け入れ側の日本の状況を考えた時にも、あの頃は勿論そんなに国家としてのきちんとした体勢が完全に調っていた時代ではなかったと思いますので、相当軋轢みたいなものもあったんでしょうね。
 
草柳:  なかなか大変だったろうと思いますね。やっぱり高句麗から来た人なんかで、高句麗の王様から派遣されて来たというような人もあります。そうするとやっぱりただ単に仏教というだけではなくて、政治的な背景というようなものも考えられるわけですね。まだ日本で国家として仏教を受容するという体制が出来る前に来られた方なんかは、やはりいろいろな苦難を、そういう意味でも覚悟して来なければならなかったということになるんだろうと思いますね。
 
草柳:  日本側の事情で言えば、曲がりなりにも受容する体制が、徐々に調って固まっていったというのは、やっぱり奈良時代に入ってからですか。
 
田村:  そうですね。奈良に入ればもう確立しているというふうに言えるだろうと思いますね。
 
草柳:  いろいろな国から沢山な僧侶達が入って来て、仏教を広めようとした。その広めようとした時の大変大きなイベントとして、奈良の東大寺の大仏開眼供養というのが必ず出てまいりますね。
 
田村:  そうですね。
 
草柳:  あれなんか凄いイベントだったんだそうですね。
 
田村:  あの頃のこととしては考えられないようないろんな国のお坊さんが来て、参列して、そして大仏の開眼供養の式が行われますね。導師を務め、開眼師を勤めた中心になった坊さんは南インドのお坊さんですね。このインドのお坊さんはインドからヒマラヤを越えて、そうして中国へ来ていらっしゃる。中国へ来ていらっしゃったところで、日本の遣唐使の要請を入れて、また海を渡って日本へいらっしゃるというようなことであったわけですね。そしてその時、一緒に仏哲(ぶってつ)という―これはバラモン僧侶で菩提遷那(せんな)(ボーデセーナ)という人なんですけれども―その時一緒の船で来た人に林邑(りんゆう)の仏哲(ぶってつ)という人がおりまして、林邑国というのは昔ベトナムにあった国の名前だというので、ベトナムのお坊さんだと普通は考えられておりますけれども、東大寺なんかでは北天竺のインドのお坊さんと書いてあります。学問的に言ってもインドに林邑というのに当たる国があったということで、その人もインドのお坊さんだというふうにおっしゃる方もいらっしゃいますね。もしインドの方だとすれば、インドのお坊さんが二人一緒に日本へお見えになった、或いはベトナムのお坊さんでもベトナムからはるばると中国へ来て、そして日本までやって来たというようなことがあります。それからその同じ時に中国のお坊さんの道?(どうせん)(702−760)という人がいらっしゃいます。この人は日本に戒律を調いたいということで、後で出てきますけれども、栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)というお坊さんが中国へ行って、いろんなお坊さんに呼び掛けて日本へ来て貰うわけですね。そういう中の一人としていらっしゃった。この道?という人はもともとは禅宗の人なんですけれども、戒律にも非常に詳しくて日本へいらっした。それですから、その時、インドのお坊さん、ベトナムのお坊さん、中国のお坊さんが揃っていらっしたということになるわけですね。こういう方々が大仏の開眼供養のお式の時の重要な役割を果たされて、あの大きな仏像に金が塗られて金ぴかになっている正面に、この絵では白く書いてありますけれども、まあ想像するに南インドからいらっしゃったんですから、黒い肌をしたお坊さんが輿(こし)に乗って、そして中心の役割を果たしていらっしゃるというのは、おそらくその当時の人々から言えば、素晴らしい国際的な行事であったんじゃないかというふうに思いますね。
 
草柳:  この東大寺の開眼供養というのは、中学とか、高校の歴史の教科書には大抵出ているくらい、当時としては大変大きな出来事だったようですね。
田村:  もう国家を傾けての仕事と言ってもいいでしょうね。
 
草柳:  ただこの大仏開眼供養をこれだけ賑々(にぎにぎ)しくというか、ある意味ではとっても派手に執り行ったというのは当時としてはどういうふうな意味があったわけですか。
 
田村:  やっぱり仏教への大きな期待でしょうね。期待の一番の中心は、来月に申し上げますけれども、これによって、「国を護って欲しい」という考え方がもとだと思いますね。
 
草柳:  国を護る?
 
田村:  はい。「日本の国を護って欲しい」というわけですね。この日本の国を護るというのも、今頃国を護るというと自衛隊が鉄砲を担いでとか、戦闘機かなんか使ってというような感じがしますけれども、その頃の国を護るということの内容は全然違うわけですよね。「宗教的な現象として、国を護って欲しい」ということを期待していたということになるわけですね。
 
田村:  国を治めていく上でのさまざまな仕組みの中に、宗教というものが果たす役割が、如何に大きいかということだったわけでしょうか、当時としては。
 
草柳:  そうですね。「仏様の期待するもの、神様に期待するもの」というのは非常に大きかったわけですね。今頃のように科学が発達してきますと、我々の目から見ればそれは宗教現象ではなくて、科学的な現象なんではないかというふうに思われものでも、古代の人にとっては、それは宗教現象であるに違いなかったし、宗教によって解決されるべき問題であったということになるわけですね。
 
草柳:  なんとなく宗教、仏教を日本の中で広めていこう、伝道して行こうという側の立場に立って考えると、これはもの凄い仏教一大キャンペーンみたいな感じがするんですけれども。
 
田村:  そうですね。
 
草柳:  東大寺の大仏開眼供養というのは、時代から言えば勿論八世紀ですよね。七百年代の半ばくらいになるわけですね。
 
田村:  そうですね。
 
草柳:  七百年代の半ばくらい、この時代に、さっきおっしゃるようにいろいろの外国からの渡来僧が沢山見えるわけですけれども、これも渡来僧の一人として後世に名を留めている人の中で、やっぱり私共の記憶として強烈にあるのは、唐招提寺の鑑真(がんじん)(688−763)という人ですね。この人は勿論唐の人ですね、中国の人ですね。
 
田村:  はい、そうです。
 
草柳:  この鑑真が日本にやって来るというのは、丁度東大寺の大仏開眼供養と、
田村:  ちょっと後ですね。
 
草柳:  ちょっと後くらいになるわけですか。
 
田村:  二年位後でしょうかね、後にいらっしゃいます。これは「戒律」を伝えに来て頂いたということですね。「戒律」というのは何かというと、これもまた後で詳しく述べる機会があると思いますけれども、一つは、「お坊さんの生活の仕方を規定する」というもので、お坊さんは戒律に違反した行為をしてはならないということになるわけですけれども、もう一つ別な側面がありまして、「戒律を守りますと誓うことが、そのままお坊さんの資格を得る」ということなんですね。お坊さんになるにはいろんな条件がありまして、借金がないことだとか、二十歳になっていることとか、両親の同意があるとか、お坊さんになってから、指導してくれる先生が決まっているとか、いろんな条件がありますけれども、そういう条件をクリアした後で、「お坊さんとしての戒律を一生守っていきます」ということを誓うと、そこでお坊さんの資格が出来るわけですね。その誓う時に、「誰に誓うか」というのですね。十人のお坊さんに立ち会って頂いて、十人のお坊さんに誓うわけなんです。ところがその頃まで日本ではその制度が出来ていなかったんですね。それですから、立ち会うだけの権限、地位を持っているお坊さんに、十人纏まって中国から来て欲しいということを思ったわけです。それで栄叡と普照という二人の日本人が中国へ行って、バラバラにいろんな人に声を掛けて、「日本へ来て下さい」とやるわけですね。なかなか十人揃わないんですね。
 
草柳:  今おっしゃった栄叡と普照という二人の僧侶は、これは日本から中国へ、
 
田村:  日本から中国へ行った人ですね。
 
草柳:  留学僧ですか。
 
田村:  そうですね。「留学(りゅうがく)僧」とか―「るがくそう(留学僧)」というふうに読んだりしますけれども―兎に角中国へ行って日本の戒律制度をちゃんとする為に十人来て欲しい。ところがなかなかうまくいかなかった。そこで揚州(ようしゅう)という街ですけれども、これは揚子江を少し遡ったところで、今で言えば南京の対岸よりは、ちょっと下流というところです。ここが昔から国際港なんですね。今は上海が国際港ということになりますけれども。大体揚州まで行って、それから遣唐使やなんかも揚州まで行って、揚州から黄河の方へ行く。それで随の煬帝(ようだい)が黄河と揚子江の間に運河を造りますけれども、揚子江の出発点が揚州というところですね。黄河への入り口が鄭州(ていしゆう)とか開封(かいほう)とかというあたりへ入るんですけども、それでそこのお寺の住職であったわけですから、やっぱり国際情勢にもある程度は通じていらっしたということなんでしょうね。それで栄叡と普照が結局鑑真のところへ行って、日本に戒律の制度をちゃんとしたいということでお願いするわけですね。
 
草柳:  その鑑真は、当時中国ではかなりの高僧だったんでしょうか。
 
田村:  大変有名なお坊さんで、中国のいろいろな文献にも出てくるようですね。
 
草柳:  そうですか。直接鑑真和上(わじょう)に、「日本へ是非来て欲しい」というふうに言った。
 
田村:  そうですね。お願いするということになりますね。
 
草柳:  その下りでしょうか、これは、
 
栄叡普照大明寺に至り大和尚の足下(そくげ)に頂礼(ちょうらい)し、具(つぶ)さに本意を述べて曰く、仏法東流(とうる)し日本国に至る。その法ありと雖も而も伝法の人なし。日本国に昔聖徳太子あり、曰わく、二百年後聖教日本に興らん、と。今此の運に鐘(あた)る。願わくば大和上東遊(とうゆう)して化(け)を興(おこ)せ、と。
 
田村:  そこで日本から行った栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)という二人のお坊さんが鑑真大和上のいらっしゃった大明寺に行って、そして大和上の足下に頂戴して、本意を述べていう、というわけですね。「仏法東流し、日本国に至る」仏教が東の方に移って来て、日本にまで到達致しました。しかし日本には仏法―教えはあるけれども、その教えを伝える人がない。この「伝える人」というのは、ただお坊さんが居ないというわけではなくて、ちゃんと戒律を守った仏教としての正式のお坊さんが居ないという意味なんでしょうね。そこで日本に昔聖徳太子という方がいらっしゃって、二百年後日本に仏教が盛んになるというふうにおっしゃっておられた。丁度今がその時期だ。だから仏教を盛んにすべき時だ。ですから大和上に、「是非日本にいらっして下さい」というふうにお願いするわけですね。
 
草柳:  それに対して、大和上がどういうふうに答えたか、ということを次ぎにみますと、
 
大和上答えて曰わく、昔聞く、南岳慧思(なんがくえし)禅師遷化の後、生を倭国の王子に託し、仏法を興隆し、衆生を済度す、と。又聞く、日本長屋王(ながやおう)、仏法を崇敬(すうけい)し、千の袈裟を造り、此の国の大徳衆僧に棄施す。その袈裟の縁上(えんじよう)に四句を繍著(しゆうちやく)して曰わく、「山川域を異にするも、風月は天を同じうす諸の仏子に寄す、共に縁を結び来れ」と。此(これ)を以て思量するに誠に是(これ)仏法興隆有縁(うえん)の国なり、と。
 
田村:  そうすると、鑑真大和上は日本に関していろんなことをご存じでいらしゃるわけですね。その一つは南岳慧思禅師という方が亡くなられた後、日本に生まれ変わって、王子になられた。そして仏教を盛んにして衆生を済度した、ということをおっしゃるわけですね。この南岳慧思禅師という方は中国で天台宗を作られた天台大師智義(ちぎ)という方の先生なんです。それで鑑真大和上は天台宗の方なんですね。ですから自分の宗派の大本の方なんですね。その方が日本へ生まれ変わって聖徳太子になっていると、生まれ変わられたということを自分は聞いていますというわけですね。それからもう一つ長屋王、これは奈良時代大変栄耀栄華を尽くしたというか、素晴らしい生活をしていたというので、最近長屋王の住居跡が発掘されて、その人の豪華な生活ぶりというのが明らかになっておりますけれども、この人が御袈裟を千枚作って、そして中国のお坊さんに寄贈したというわけですね。その時、その御袈裟の縁に縫い取りをして、「山川域を異にするも、風月は天を同じうする」中国と日本とでは、山とか川は―場所は違っているけれども、天にいる月なんかは共通なんだというわけですね。「諸の仏子に寄す、共に縁を結び来れ」そこで中国の諸々の仏教の方々に言うんだけれども、共に仏教に縁を結んでいこうではありませんか、というような詩を縫い取りして、そして中国のお坊さんに千枚袈裟を寄贈したと。そういうようなことがあるということから見ると、日本は仏教に縁がある国であり、これは是非盛んにしなければならないというようにお考えになるわけですね。
 
草柳:  鑑真和上としてはこの時に、この文面から分かるように、日本は既に仏法が興隆しかかっていて、今はもう既に期が熟しているから、是非行こうではないかというふうな、
 
田村:  ところが、鑑真大和上は、その時はお弟子に「誰か行かないか」とおっしゃるわけですね。そうすると、お弟子の中から反応がないんですね。みんなシュンとしちゃって、誰も行かない。それで暫くして、祥彦(じょうげん)という高弟が出て「日本へ行くのはどうも途中で船が沈んで死ぬかもしれない。増して日本へ行って、また中国まで帰って来るというのはちょっとおぼつかない。折角こう自分達は仏法に会っているんだ。しかも仏法に会うのに丁度いい中国に生まれて、折角中国人として生まれて、こうして仏法に会っているのに、途中で死んでしまうかも知れない所へはちょっと行けない」という返事をするわけですね。そういうお弟子の返事を聞いて「弟子が行かないならば自分が行く」ということで、鑑真大和上は来日を決意されるわけですね。
 
 
草柳:  それは確かに今まで散々如何に危険なのか、日本を往来するのは危険であるかということは、みんな知っているわけでしょうから、二の足を踏みますよ、多分きっと。
 
田村:  それで当たり前と思いますね。
 
草柳:  でもそこで、「お弟子が行かなければ、私本人が行く」というふうにおっしゃったわけですか。
 
田村:  そうですね。やっぱり「お弟子に行きなさい。行かなければ私も行かない」と言ったら、お弟子に勧めたということだとおかしなことになりますでしょう。日本は「仏法興隆有縁の国だ」という言葉を生かすことは出来ないということになりましょうからね。自分自身が生死を落として、兎に角日本へ行く。そうするとお弟子の中からも、かなりの人達が、「それでは先生に従って日本へ行きましょう」ということの決心をするわけですね。
 
草柳:  その日本から、招請、迎えに行った栄叡、普照の二人の僧侶もまさか鑑真和上が、「自分が行く」というふうに言ってくれるとは、最初は露思わなかったでしょうね。
 
田村:  そうでしょうね。本当に希望した以上のことが実現するということだったでしょうね。
 
草柳:  それから、しかし伝えられているように、鑑真和上は日本へ来るまでの艱難の何年かが始まるわけですね。
 
田村:  大変な苦労をなさるわけですね。それで「日本へ一緒に行く」と言っていた弟子達の内紛によって潰れたなんていうようなこともありますけれども、揚子江に船で乗り出して、揚子江の下流に行く途中でもう遭難してしまった。それから少し南の舟山(しゅうざん)列島というところまで行って、そこで沈没してどうにもならないということで、上陸して行ったというようなこともあります。それから中には高い地位のお弟子が妨害したということもあるんですね。これは、高弟は、自分の先生が日本へ行って、いらっしゃらなくなるというのは非常に残念に思いまして、それで鑑真が天台山へ行って―天台宗のお坊さんですから天台山に行って、それからもう少し南の方へ行って、そこから日本へ行こうとしている時に、官吏に手を廻して、そこで捕まえさせたわけですね。それで捕まえられて、鑑真の一行が戻っていらっしゃる。そのお弟子の妨害だということを知って大変怒られるわけですね。そうすると、三日三晩くらい鑑真の枕元に立ち尽くして懺悔するということになります。そのお弟子はまた後の話がありまして、第五回目の時というのは、鑑真一行はずうっと海南島の方まで流されたということになるんです。そうすると、もう何年も帰っていらっしゃらないので、てっきり日本へいらっしゃったと思った鑑真が、また海南島の方から帰っていらっしゃったということですね。そうすると、途中まで出迎えて涙を流して喜ぶ、というようなことがありますね。その妨害したお弟子のところへ鑑真が亡くなってからですけれども、聖徳太子のお書きになったという『法華義疏』と『勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)』が届けられるんですね。これはやっぱり鑑真としては、「日本に、聖徳太子に生まれ変わったというその人がこういう本を書いていますよ」というので、お弟子のところへ届けさせたんじゃないかというふうに思いますけれども、
 
草柳:  結局、五回試みて五回失敗するんですね。
 
田村:  六回目もまた大変だったんですね。六回目は、結局、日本の遣唐使の船に乗せて帰るということになったんですけれども、中国の政府が許可しなかったわけですね。その為に、遣唐大使は船に乗せて帰るという決意をして一旦乗せたんですけれども、もし日本からの正式の外交の大使の船が吹き戻されたら、そこから、「政府が許可しないお坊さん達が降りてきた」と言われたら、ちょっとどうにもならないということで、結局、断って降ろしたわけですね。そうすると、副使の大伴古麿(おおとものこまろ)という人が、こっそり自分の船に全員乗せちゃうというようなことをして、それで帰って来られたんです。結果から言うと、これは良かったんですね。大使の船というのは、結局ベトナムの方まで流されて、それに安倍仲麻呂(あべのなかまろ)という長い間中国へ留学していた人が帰ってこようと思って乗っていたんですけれども、ベトナムの方へ流されてしまったので、その人はついに一生日本へ帰って来られなくて、唐の政府のお役人として仕えていったということがあるんです。副史の船なんかは日本へ着くことが出来たということで、鑑真を迎えることが出来たわけですね。
 
草柳:  私はその話を聞いて不思議でしょうがないんですけれども、それだけ中国にあって尊敬を集めていた高僧が、結局最後は眼の病に罹って、ものが見えなくなってしまうというふうな苦労を冒してまで、日本に最終的にはやって来られたという。鑑真をして、そんなふうにまでして、日本にどうしても行かなければいかないというふうに思われたものというのは一体なんだったんでしょう。
 
田村:  鑑真大和上は眼を失われます。それから日本人の二人のお坊さんのうちの栄叡という方も途中で亡くなります。
 
草柳:  中国で亡くなっているんですね。
 
田村:  そうです。それから他にも日本へやってこようと思っていながら、そういう十一年、十二年の間に亡くなってしまったというようなお坊さんが沢山出ているようですね。「何故か」ということを言われれば、「仏法興隆有縁(うえん)の国なり」という言葉を最後まで貫き通したということなんだろうと思いますね。
 
草柳:  鑑真が来て、日本に広めた鑑真の基本的な考え方と教えというのは、その柱はなんだったんですか。
 
田村:  これは「戒律」なんです。「戒律」というのは、要するに、「お坊さんがどういう生活をしなければならないか」「お坊さんはどういうことをしてはならないか」ということを詳しく検討していくのが、戒律ということになりますね。これはやっぱりお坊さんというのは、お坊さんの守るべき生活をきちっと守った上で坐禅をする。そして般若の智慧を得るということで、お坊さんが悟りを得る為のもっとも基本的なものが戒律なんですね。それでそれを先ず日本の中に樹立しようということですね。
 
草柳:  ということは、そういうことを日本側も求めていたということもあるんですか。
 
田村:  はい。日本がその制度をキチッとしようとしたということで、ただ日本側の期待と、それから中国の鑑真さんの思いとピッタリ一致したかというと、どうもそうでもない部分もあったんじゃないか。鑑真さんは日本へ来てから冒涜を蒙る―非難されたということも載っていて、何で非難されたか、内容は分かりませんけれども、やっぱりそういう食い違いはある程度はあったんじゃないかと思われますね。日本は国家仏教という色彩が非常に強かったですからね。戒律なんかはいわば教団自身のコントロールということになりますからね。
 
草柳:  なんと言っても、鑑真というのは、日本の仏教に与えた影響度の大きさということから言えば、やっぱりピラミットのほんとに上の方にいた人だというふうに見ていいわけですか。
 
田村:  戒律を広めるという意味でも、日本にいらっした時に、日本全体の戒は鑑真大和上に任せるんだということになったわけで、戒律の基を築いたわけです。それから先程言いましたように、天台宗のお坊さんだということで、天台宗の関係の書物はほとんど全部持って来ますね。そして後で、伝教大師最澄が天台宗を学ぶ時には、鑑真さんの持って来た天台宗の本を写させて貰って、それで天台を勉強していく。平安時代の仏教を整理させる一つの大きな要因になっているということもありますね。そういうものの影響で、鎌倉時代になると、真言律宗と言って、真言宗と結び付いた律宗が成立していくというようなこともあります。律宗は現在に伝えられて、それで奈良の唐招提寺が律宗の本山になったというようなことでもあるわけですね。東大寺にいらっしゃると戒壇院というお寺があって、そこで戒律を授けるという儀式が行われたということになるわけですね。
 
草柳:  そうですか。その後勿論中国を中心にした渡来僧というのは、鑑真以後もずっと続くわけでしょうけれども、ちょっと時代が飛びますけれども、渡来僧の中で、日本の仏教に大きな影響を与えたということになると、時代がちょっと下って鎌倉ということになるんでしょうか。
 
田村:  そうですね。その間にもいらっした方がないわけではありませんけれども、沢山有名な偉いお坊さんがいらっしたというのは、鎌倉時代に臨済宗のお坊さんが中国から沢山いらっしたということがありますね。そういう人達が非常に大きな影響を、その当時にも与えますし、その後にも大きな影響を与えているということがありますね。
 
草柳:  そうした渡来僧の中で特に挙げて頂けば、どういう人達がいるんでしょうか。
 
田村:  やはり鎌倉の建長寺の開山になった蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)禅師(1213−1278)とか、或いは円覚寺の開山になった無学祖元(むがくそげん)禅師(1226−1286)というような方が大きな方でしょうし、その他大休正念(だいきゅうしょうねん)とか、一山一寧(いっさんいちねい)とか、兀菴普寧(ごったんふねい)とか、沢山の方が中国からいらっしゃいます。
 
草柳:  では、蘭渓道隆からちょっと詳しくお話して頂きたいのですが。
 
田村:  蘭渓道隆という方は中国の天童山(てんどうさん)、これは栄西禅師(1141−1215)とか、道元禅師(1200−1253)が悟られたというお寺におられた。そして日本から来たお坊さんと接触されて、日本の様子を知って日本へ行ってみたいと思われるわけですね。丁度宋(そう)の時代に、中国では禅が盛んであったものが、北から元が入ってくるというような、元は禅ではありませんからね。そういう時代の転換というようなこともあって、そういうことになったんだろうと思います。それで日本の船に乗り込んで、日本へいらっしゃった。そして同じ先生のお弟子というような方が、日本のお坊さんの中にも居まして、中国へ留学してきた方ですけれども、それで京都の泉涌寺(せんにゅうじ)に入り、それから奨められて鎌倉へいらっしゃった。そしてその当時、北条時頼(ほうじようときより)という方は非常に禅をなさった方で、蘭渓道隆とか、その後兀菴普寧(ごったんふねい)というような方について禅を修行されて、禅の悟りを得られた方です。そういう人に歓迎されて、建長寺を時頼が造って、開山―最初の住職ということになっていくわけですね。
 
草柳:  ところが時代も経っておりますけれども、鑑真和上の頃に比べると、鎌倉新仏教というか、鎌倉時代に入って来た僧達というのは、禅を中心にした教えということに大きな違いがあるわけですね。
 
田村:  そうですね。
 
草柳:  その蘭渓道隆の言葉をまた少し見ながら。これは道隆の言葉なんですね。
 
田村:  そうです。語録の中の一つですね。
 
草柳:  問うて曰わく、坐禅は諸法の根源なりと、意志いかん。
答えて曰わく、禅は仏の内心なり、律は仏の外相(げそう)なり。教は仏の言語なり、念仏は仏の名号なり。是れ皆仏心より出づ。是の故に根本となすなり。
 
田村:  問答という形で解説していらっしゃるわけですけれども、「坐禅は諸法の根源な り」坐禅というものは、仏教の一番の根源なんだ、というふうに言われているけれども、一体それはどういう意味のことですか、というふうに質問されるわけですね。そうすると、「答えて曰く、禅は仏の内心なり」。これはまた後で戻ってきますけれども、その次のところから解説していきますと、「律」戒律というものは、仏の外側に現れた姿である。仏の教えというのは、仏の言語なり、言葉である。念仏というのは仏の名前だ。こうして「律」は外の姿、それから「教え」は言葉、「念仏」は仏の名前、「是れ皆仏心より出づ」こういうものはみんな仏の心から出ているものだ。仏の心が外側に現れて律になる。言葉になって、現れて教えになる。それから仏の名号が念仏になる、ということで、仏心から出る。この仏の心というのが禅そのものなんだというので、一番先に返って、「禅は仏の内心なり」禅というのは、仏の内側の心なんだ。仏の心そのものなんだ。だから禅というものは、あらゆる教えの一番の根源なのだ、というような解説をなさるわけですね。
 
草柳:  続けてこれは紹介して宜しいでしょうか。
 
問うて曰わく、禅法は無想無念にして霊徳あらわれず、見性(けんしよう)もまた証拠なし、何を以(もつ)てかこれを信ずべき。
答えて曰わく、自心と仏心と一味、豈(あ)に霊徳にあらずや。我が心我れ知らずば、誰(なに)を喚(よ)んでか証拠とせん。即心即仏の外何の証拠を求めん。
 
これはどういう意味なんでしょうか。
 
田村:  そこでもう一歩突っ込むわけですね。禅法は無念夢想の境地にして、静かに座っているのが坐禅じゃないか。「無念無想」何も考えずに、ただ空の境地に坐るということになると、そこに「霊徳」仏の霊妙な功徳というのは、外に現れるということはないじゃないか。ただ無の状態に坐っているだけの話じゃないか。それから「見性もまた証拠なし」そうして坐禅していて見性する。一番心の奥底の悟りそのものを見ていくというふうにいうけれども、その人が見たと言っても、見ないと言ったって、一体余所からみたら分からないじゃないか。何にも証拠がないじゃないですか、というようなことで、「何を以てかこれを信ずべし」どうしてそんな禅なんか信ずることが出来ましょうか、というような質問をするわけですね。そうすると、答えて「自心と仏心と一味、豈(あ)に霊徳にあらずや」坐禅をしていると、その時、自分の心と仏の心と一体になっているんだ。仏と一体になっている境地、それ以上の仏の徳というのはどこにあるか。坐禅しているところで最高の霊徳が発揮されているんだ、という答えでしょうね。「我が心我知らずば、何を喚んでか証拠とせん」坐禅の中において、自分自身が自分自身の本性である悟りの境地そのものに住している。それが証拠じゃないか。他の人が見て、何か別の証拠があるとか、ないとかいうようなことでなしに、自分自身が静かに仏と一体になった境地を味わっている、それ以上の証拠が他にありますか、という返事をするんですね。「即心即仏の外何の証拠を求めん」即心、自分の心そのものが即仏、仏自身に他ならない、という以外に、一体何の証拠を求めると言うんですか、というようなことで、坐禅の中に霊徳があり、証拠があるということで、坐禅を奨める言葉になっているわけですね。
 
草柳:  今紹介して頂いた蘭渓道隆の禅に対する見方、考え方というのは、この時代に入ってきた人達の中心的な思想というか、中心的な教えとなるわけですか。
 
田村:  ということになるわけですね。坐禅の根源を突いた教えということになるんだろうと思いますね。
 
草柳:  鎌倉仏教の、この時代というのは、さっき挙げて頂いた今の蘭渓道隆の他に、祖元とか、一山一寧という人達が、いわば続々とやってきた時代ということになるんですか。
 
田村:  そうですね。
 
草柳:  無学祖元(1226−1286)、この人は今の蘭渓道隆よりもちょっと後の時代になるわけですか。
 
田村:  そうですね。三十年後ということで、丁度元寇(げんこう)が二度、元が攻めてきますね。その間だの時に来るわけですね。そうすると、元寇なんていうのは、元の国は日本を攻めますけれども、宋の国は元から攻められた側、滅ぼされた側ですね。宋で盛んな禅宗の坊さんというのは、日本は元、中国と戦争させられてというか、圧迫されていますけれども、南宋の人達は別に日本と戦争しているわけじゃないですね。その間でも行ったり来たりはあるんですね。それで無学祖元禅師という方は、中国におりまして、北条時頼の亡くなった時の様子をご存知だったんですね。話を聞いて知っている。北条時頼という人は政治家でもありますけれども、その後、お坊さんになって坐禅をしていらっしゃって、それで建長寺(けんちようじ)の第二世の兀菴普寧(ごったんふねい)という人から印可されたというで、これは悟ったということを認められているわけですね。その記録が残っておりまして、これは大変面白いものです。時頼が、「私は坐禅をして、一般の人の常識的なものに拘る考え方を超越することが出来ました」というような内容のことを言うわけですね。これは「非断非常を見得す」という言葉なんですけれども、「断常」というのは、普通の常識的な見方ということになりましょうけれども、人生に対する「断見」とか、「常見」とかいうような迷いの心を、私は超越することが出来ました、というんですね。そうすると先生の方が、「参禅はただ見性をはかる」参禅というのは、見性ということをはかるんだ。それで今度、「もし上人の心を識得すれば即ち自己根源の自性」もし悟った人の心というのが分かるならば、その心がそのまま自分の心なんだ。「自分の心と上人の心とは、実は一体なんだ」というようなことを話されるんですね。そうすると、北条時頼が、「私は無心を得ました。無なる心を得ました」というようなことを返事するわけですね。そうすると、またそれに対して、先生の方が、「もし信仰に無心ならば、縦三才を極め、横十方に偏し云々」ということですね。「もしあなたが本当に無心ということを悟ったならば、時間的にも無限、空間的にも無限、無限の世界に自分の心が行きわたるんだ」というようなことをおっしゃると、それに答えて、「森羅万象山河天地自己と異なく別なし」もうあらゆる森羅万象ですから、あらゆる現象、それから山河天地全部が自分と一つだ。自己と別なし。二なく別なし。自分と一つなんだ、というような答えをして、そして悟ったということを認められるわけですね。そしてこれが三十六歳の時で、もうその翌年亡くなってしまう。北条時頼は三十七歳で若くして亡くなるんです。亡くなる前、大病に罹って、それでどうしようもなくなって、最後重体に陥った時に、時頼はちゃんと袈裟を付けまして、そして椅子に座って、静かに泰然自若として、目を閉じて亡くなっていく、というような調子なんですね。そういうことを無学祖元は中国に居て知っているわけですね。それで日本に非常に関心を持つわけです。丁度そういうところへ北条時宗(ほうじようときむね)が招請状を出すんですね。
 
草柳:  時宗と言いますと、今の話の北条時頼の子供になるわけですか。
 
田村:  子供ですね。それで元の国が攻めて来るという時に、北条氏のもっとも中心的な人物だというので、十八歳かなんかで執権(しっけん)になりますね。そしてその当時の日本の最高の政治の責任者ということになるわけです。この人は元の国からいろいろな手紙を貰ったりなんかして、元から来た手紙というのは、表面上は、「仲良く、親しくしましょう」なんですけれども、裏にちょっと脅迫的な言葉が入っているんですね。それでこれは、「元に従っても地獄、従わなくても地獄」というようなところがあるわけです。高麗(こうらい)は元に従うんですけれども、そうすると、大変なことを命ぜられる。それは、「日本へ押し掛けるための船を造れ、軍人を出せ」ということで非常な苦労をするわけです。日本ではそれに対して、時宗は断固として断るという態度で出ていって、結局文永の役で押し掛けて来るわけですけれども、偶然もあって撃退することが出来た。その後、時宗は一方では、逆に高句麗に攻め入ろうというような計画を立てるようですね。そして今度蘭渓道隆なんかも間もなく亡くなるという時ですし、それから時頼の先生だった兀菴普寧という方は中国へ帰って行ってしまいます。そうすると、中国の天童山へ手紙を出して、日本の建長寺のお坊さんを二人使わして、「誰か偉いお坊さんを日本に寄越して下さい」というふうにお願いするわけですね。それに応じて無学祖元(むがくそげん)禅師が日本へやって来られたということになるわけですね。
 
草柳:  先程の北条時頼の話など伺っておりますと、時頼は武将ですよね。あの時頼という人などがまさに時代を遙かに飛び越えて、釈尊が、ブッダが悟ったと同じようなことを、つまり「一切は無である」というふうなことをちゃんと言われたわけなんですね。
 
田村:  そうですね。やはりお釈迦様以来、永遠と続いている仏の悟りの正体というものをそこで時頼もまた得ていった、ということになるんでしょうね。
 
草柳:  長い渡来僧の変遷の中で、いろんな教えやいろんな流派が入って来たのは間違いないんでしょうけれども、やっぱり一番根底のところのブッダのきちんとした教えというのは、ずっと底に流れていた、というふうに考えていいんですか。
 
田村:  私はそう思いますね。禅には禅の形で流れて来て、それから禅でなければ、それじゃ流れていないかというと、私はそうではなくて、やっぱり念仏者は念仏の立場で、お釈迦様の心を得ていった、というように思いますね。後世になりますと、いろんな形で、形は分かれて行きますけれども、その到達した最終的な境地というのは一つのものだろう、というふうに思いますね。無学祖元禅師というのは、また時宗が元寇に対処するということに関連して言えば、中国に居る間に、元の兵に襲われているんですね。これは元の兵が来るというので、そのお寺の他の方々は大体逃げてしまわれたようですけれども、祖元禅師だけは静かにそこで坐禅しているわけですね。そうすると、そこへ元の兵がやって来て、刀を抜いて突き付けて「殺すぞ」とやるわけですね。そうすると、無学祖元禅師は、
 
乾坤無地卓孤筑(乾坤孤?(こきよう)を卓するに地なし)
喜得人空法亦空(喜んで得、人空にして法亦空)
珍重太元三尺剣(珍重す大元三尺の剣)
電光影裏斬春風(電光影裏春風を斬る)
 
斬るなら切ってごらんなさい。人間も空だし、あらゆるものが全部空なんだと。あなたが剣を振るうならば、私はその剣を珍重してあげますよ、非常に面白いものと思ってあげますよ。あなたが振った時に、稲妻が春の光の中を切り裂いて落ちると同じようなものでしかない、というような意味の詩を吟じたら、大元の兵がそれに感じ入って殺さずに帰った、というようなエピソードが伝えられております。時宗が元に対して対抗している。無学祖元禅師なんかも、そういう元との経緯(いきさつ)の背景を以て日本へ来られる、ということですから、時宗にとっては非常に素晴らしい先生だったんでしょうね。
 
草柳:  大変肝の座った先生に教えを受けた時宗も、元が攻めて来るという時に、あれだけの態度が取れた、というふうに、これはお師匠さんの教えみたいなことがあったんですか。
 
田村:  そう思いますね。やっぱり時宗なんかは元寇に当たって、片方では戦闘の準備をして、蒙古まで攻め込んでやろうかというくらいの戦闘の準備を北九州でやりますね。しかしそれだけに忙殺されるのではなしに、やっぱり祖元禅師なんかについて静かに坐禅をやっていらっしゃるという、両面を持っていて、これはやっぱり素晴らしいですね。
 
草柳:  例えば中学の教科書などで、仏教史などを習いますと、必ず鎌倉仏教、鎌倉新仏教というのは、かなりのウエートを置いて書かれてあるわけですね。それは鎌倉の時代に禅が日本に入って来て、日本の仏教界に与えた影響の大きさということを物語っているんではないかと思うんですが、鎌倉時代の禅が日本の仏教にもたらした意味というのは、これは一言で言うと、どういうことでしょうか。
 
田村:  鎌倉時代の新しく成立した仏教宗派というのは、その後の日本人の心をもっとも広く救っていく仏教になりますね。従って、浄土宗でも浄土真宗でも非常に大きな教団になって発展する。それから禅宗が非常に大きな影響力を発揮する。日蓮宗が非常に大きい。今で言えば、日蓮宗が一番多くの日本人の心を掴んでいるんではないかと思いますけれども。こうして後々ずっと発展していくということが、即ち日本人の心をどれだけ救い続けて来たかということになりますね。そういう中で、日本の禅は大体こういう方々によって入れられた臨済宗とか、中国では五家七宗と言ってもっと沢山禅の宗派があるんですけれど、大体臨済宗と道元禅師の曹洞(そうとう)宗と、二つの宗派が大きくて、そうして江戸時代になって、隠元(いんげん)禅師という方が中国から来られて、黄檗(おうばく)宗―これも臨済系の禅の一種ですが―入って来て、日本では禅の関係は三つの宗というわけですけれども、その中の臨済宗は栄西禅師が日本に導入されたというわけですね。栄西(えいさい)禅師の導入された時には、純粋な禅ではなくて、他の禅と一緒になったような禅だったわけですね。他のものと一緒になったような禅で、それでこういう中国から来られた方々が純粋な禅を広められて、そして建長寺が純粋な禅の道場としては最初のお寺になるわけですね。これが鎌倉にも発展しますし、それからこの系統が今度は京都へも広まって行きますね。京都にも禅宗のお寺が沢山出来ます。そして、今度は京都に広まった禅宗は五山文学という文学活動が出てくる。或いはその他お茶なんかでも全部臨済宗の寺院の中にありますし、それから後で言えば、武道の神髄を語るというようなこともありますし、禅は禅として今までずっと伝えられて来ながら、しかもただ禅の枠を越えて日本の文化に非常に広い影響を与えていったということが出来るんだろうと思いますね。
 
草柳:  今日は鑑真から始まって鎌倉まで、ポイントポイントをお話頂いたわけなんですけれども、考えて見ますと、仏教も勿論外来の宗教、外来の文化ですよね。それを千何百年かの間に実に日本人の特性としてそれを巧みに取り入れてきた歴史ということになるのではないかと思いますけれども。これは追々またこの後のシリーズの中で細かくいろいろお話を伺っていけると思います。
 
田村:  またいろんな側面についてお話していきたいと思いますけれども、こうして外国のお坊さんの力というのが、日本の仏教に与えた力というのは大きかったし、この人達が生死を賭して日本へ来て下さったということが、日本の仏教にとって、文化にとって大変有り難いことであったということになるだろうと思いますね。
 
草柳:  どうも今日は有り難うございました。
 
     これは、平成十年五月十七日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである