仏教を生きるC留学僧の苦難
 
                       東洋大学教授 田 村(たむら)  晃 祐(こうゆう)
                       き き て  草 柳  隆 三
 
草柳:  「仏教を生きる」の四回目、今日は日本から外国へ仏教を求めて渡った留学僧の話です。留学と言いますと、今から千年以上も前のことでありますから、今日の留学とは違って本当に海を渡って、大陸へ行くというのは命がけの旅であったということは容易に想像出来ることなんです。そして大変な難渋をして、法を求めた人達の事跡を中心にして、今日もいつものように東洋大学教授の田村晃祐さんにいろいろとお話を伺っていくことに致します。先生、今日も宜しくお願い致します。
 
田村:  どうぞ宜しくお願い致します。
 
草柳:  今、私は「留学僧(りゅうがくそう)」というふうに、「りゅうがく(留学)」と言ったんですが、もともとの言葉は正確には「りゅうがく」ではないんだそうですね。
 
田村:  そうでしょうね。「るがく」というふうに読むのが本来だと思いますけれども、現在我々は「りゅうがく」というふうに言いますので、そういうことでいいんじゃないでしょうか。
 
草柳:  じゃ、今回はそれでずうっと通させて頂きます。その留学僧の歴史を遡ってみると、随分古く渡っているんですね。
 
田村:  そうですね。これは朝鮮とか中国、或いはインドから日本へ来て、法を広められたという方々の苦難は大変なものであっただろうというふうに思います。日本から朝鮮へ行って、或いは中国へ行って、場合によっては、インドへ行こうとされた方々というような人々の苦難は、現在と交通の事情も違いますし、いろんな面で非常な苦難を体験されて、そしてその中で仏教を勉強されて、日本に広められたということになると思いますね。
 
草柳:  まだ勿論、荒海を渡る航海術だって発達はしていませんでしたでしょうしね。
 
田村:  日本から政府が派遣した遣隋使、遣唐使なんかでも、非常な苦難をして、船が沈むというようなことがたくさんありました。それでも苦難を経てでも、日本へ帰って来て、日本に法を広めて、後いろいろな形で影響を残していった方々というのはまだ恵まれた方で、全く人に知れずに海の底に沈んでいったというような方々もたくさんいらっしゃったんだろうと思いますね。
 
草柳:  今日はそうした人達のお話が中心になるわけですが、記録に残っている限りでは一番古い留学生、留学僧というのはいつ頃、どんな人達だったんですか?
 
田村:  これは日本で最初の出家というのは女性で、三人の方(善信尼、禅蔵尼、恵善尼)が尼さんになられたわけです。仏教が日本へ公式に伝わってから、三、四十年位後ということになります。この人達は百済(くだら)へ行って、そして戒律を受ける。仏教は戒律が一番元なんだからということで、百済へ行って戒律を学び、またその戒律を受けるという儀式をして貰って帰って来たということになるわけですね。
 
草柳:  最初の留学僧は尼さんだったんですか。
 
田村:  そうですね。
 
草柳:  七世紀の後半位ですか、時代的には。
 
田村:  そうですね。
 
草柳:  当時は勿論、今のお話のように、朝鮮半島に渡って百済へ行った。中国へ、中国大陸の方へ留学僧達が行き始めたのはいつ頃からなんですか。
 
田村:  これもやはり飛鳥時代からということになると思いますね。例えば、聖徳太子は何宗の人かと言っても、特別宗派というのはないんですね。ところが中国の方ではその当時、随とか唐とかいうような時代に、いわゆる中国的な仏教が成立していったという時代で、そういうことを背景にして、飛鳥時代、聖徳太子の亡くなられた後ぐらいから、中国で発展した、いわゆる宗派の仏教が入ってきたということになるわけですね。それで三論宗(さんろんしゆう)というのが最初に入ってくるわけです。三論宗を伝えたのは朝鮮の方なんです。それを日本で学ぶと、そのお弟子とか孫弟子あたりが、今度直接中国へ行って勉強して来ようということになりまして、三論宗の方あたりから、中国へ行くということになりますね。
 
草柳:  その頃になると、もうそろそろ留学の仕組みみたいなものもだんだん整って来始めた。
 
田村:  そうでしょうね。やはり聖徳太子の頃、遣隋使、その後、唐が成立しますと遣唐使というので、日本の政府から派遣されるという使節が行きますし、そういう使節に伴って、留学僧、留学生―「留学生」と言ったら大体儒教なんかを学んで来るんだろうと思いますけれども。それから仏教を学びに行く留学僧というような人達が中国へ行く。それで遣唐使は唐の政府のところへ行って、政府に貢ぎ物を上げるとか、いろいろな儀式をしてくるんでしょうけれども、それと同時にそういう人達を連れて行って、留学させることを通じて、発達した文化を受け入れる、学んでくるということも、一つの大きな仕事であったわけですね。
 
草柳:  最初の頃の留学僧の中で、真っ先に挙げなければいけない人というと。
 
田村:  そうですね、非常に苦労した人ということでは、智蔵(ちぞう)という三論宗(「中論」「十二門論」「百論」の三つの論を専門に研究)のお坊さんなんかおりますですね。
 
草柳:  どんな人だったんですか、智蔵という人は?
 
田村:  この人は中国へ行きまして、江南(こうなん)と言って揚子江(ようすこう)の南、今の浙江省(せっこうしょう)あたりへ留学するんですけれども、三論宗というのも、吉蔵(きちぞう)という人が中心になるんですけれども、吉蔵の後、だんだん衰えていくわけですね。それで中国へ行った時に、非常に学問のある尼さんに就いて習った。尼さんに就いて習ったというのは、あんまり他には出てこないですけれども、非常に優秀な方であって、その為に、またいろいろな苦難があったということのようですね。
 
草柳:  智蔵という人が中国へ渡って、どういうふうなことがあったのかということを先ず最初の文献から見てみたいと思うんですが。
 
智蔵師(ちぞうし)は、俗姓禾田氏(ぞくせいあわたうじ)。淡海帝(おうみのみかど)の世(みよ)に、唐国(とうこく)に遣学(けんがく)す。時に呉越(ごえつ)の間に、高学の尼(に)有り。法師(ほうし)尼に就(つ)きて業(ぎょう)を受く。六七年(むとせななとせ)の中(うち)に、学業穎秀(えいしゅう)なり。同伴の僧等(ら)、頗(すこぶ)る忌害(きがい)の心有り。法師察(し)りて、躯(み)を全くせむ方(すべ)を計(はか)り、遂(つい)に被髪陽狂(ひはつようきょう)し、道路に奔蕩(ほんとう)す。密(しの)びに三蔵の要義を写し、盛(い)るるに木筒(もくとう)を以(も)ちい、漆(うるし)を著(つ)けて秘封(ひふう)し、負擔遊行(ふたんゆぎょう)す。同伴軽蔑(けいべつ)し、鬼狂(ききょう)なりと以為(おも)い、遂に害を為さず。
(『懐風藻(かいふうそう)』)
 
田村:  これは『懐風藻(かいふうそう)』という奈良時代の詩集に出ているものなんですね。智蔵という方は非常に詩を作るのが上手であった。漢詩が『懐風藻』に出ていて、その詩の前に簡単な履歴が書いてあるわけです。中国へ行って、非常に優秀な人であった。「学業穎秀(えいしゅう)なり」と書いてあります。そうすると、一緒にいた人達から妬まれ嫌われ殺害されようとしたということですね。それでこの人はうっかりすると殺害されるということを知って、それで精神が異常になったというような振りをしたと言うんですね。それで「被髪陽狂(ひはつようきょう)し」髪を伸ばした。お坊さんは髪を剃っているのが当たり前ですね。髪を伸ばして、そして精神がおかしいような振りをして、そして道路を走り回ったりした。実際にはそういうことではありませんでしたので、「三蔵(さんぞう)の要義」三蔵というのは、これは仏教の書物を全部纏めて、経律論の三蔵というわけですけれども、三蔵の要義というと、仏教の一番大事な教義を写して、そして木の筒の中に、その紙を入れて、漆で密封して、その木の筒を担いで道路を歩き回ったということなんでしょうね。それで他の人達はあまり優秀なので、害そうと思った人達も軽蔑して、これはもう本当にダメになったんだというふうに思って、害を為さなかった。そういうことをして日本へ帰って来て、三論の宗義を伝えたというような人なんですね。
 
草柳:  渡るのも大変だし、命がけだし、渡ってからも、今の智蔵の場合なんかですと、命がけだった。
 
田村:  そうですね。実際その当時、中国人の中でも、例えば後で、「聖徳太子に生まれ変わった」と言われている慧思(えし)禅師という人は、優秀な学僧であると、三度も鴆毒(ちんどく)というんですが非常な猛毒を盛られたということで、一緒にいた人達が亡くなったというようなこともありまして、本人はそれで死を免れたんですけれども。もう既に末法の時代に入ったというような意識を強く持ったというような人もおりますし、他にも中国のお坊さんで優秀であった為に殺害されようとしたというような方のことが伝えられております。日本人の中でも、霊仙(りょうせん)という人は中国へ行って、そして訳経僧(やつきようそう)となったというので、般若三蔵(はんにやさんぞう)という人がお経を翻訳する時に、翻訳を助けるお坊さんになった。ところが非常に仏教に精通していて、そういう翻訳を助けるというような役割をしたわけでしょうけれども、後で五台山というところへ入って、そこで殺害されたというふうに伝えられているような人もおります。実際に非常な苦しみを得た人、それから殺された人、いろんな人が出るわけですね。この智蔵という人もそういう危険性を察っして、それで何とかして日本へ仏教を伝えたい。自分が中国で学んだものを伝えたいということで、こういう苦労をして日本へ帰って来たということになるわけでしょうね。
 
草柳:  しかし、今の智蔵にしても、それから毒殺されてしまったという霊仙ですが、しかし考えて見ると、不思議な気がする。何故そんなふうなことになるのか。
 
田村:  妬む心というのは凄いですね。
 
草柳:  それは勿論こちらからの留学生、留学僧達も向こうへ渡れば、向こうの僧侶達と一緒に勉強したり、或いは行をしたりするわけですよね。そうすると、必ずしも同国人同士ということではなくて、それぞれの集団の中で妬みがあったり、恨みがあったりしている。人の心を、いのちを大切にする宗教とも思いないような出来事ですね。
 
田村:  そうです。ほんとにそういう人を殺そうとする、妬みのあまり殺そうというような人達はほんとに仏教に反する存在ですね。
 
草柳:  今の智蔵、霊仙その他にはその時代特筆すべきというか、どうしても挙げなければいけない人というと。
 
田村:  そうですね。智蔵という人が三論宗を伝えた人ですけれども、三論と並ぶ大きな宗派で法相宗(ほつそうしゆう)というのがありまして、これを最初に日本に伝えた人が道昭(どうしょう)(629-700)という人ですけれども、この人なんかも、別な意味で非常な苦労をし、また努力していった人だということを思います。
 
草柳:  道昭(どうしょう)という人はどういうような人物だったんですか?
 
田村:  道昭(どうしょう)という人は、大化改新の時に燃えている蘇我氏の家の中からの『国記』というのを取りだしてきたというふうに伝えられている人がいるんですけれども、その人(船恵尺(かなのえさか))の息子さんだと言うんですね。それで中国へ留学した時に、玄奘三蔵(げんじようさんぞう)にお弟子になって就いた。玄奘という人はこの人もインドへ旅行する時に非常な苦難を受けるわけですね。この人は中国の政府からインドへ出国することを禁止されていたにも関わらず、どうしても法を求めたいというので、それでインドへ行くわけですね。ですから、今の言葉で言えば、密出国なわけで、正規のルートを通って行くわけにいかないんですね。隠れながら出ていかなければいけない。中国からインドまで行くというだけでも大変な苦難なのに、それを密出国で隠れながら行くというところで、非常な苦難がありましたし、またインドへ着いてからもいろいろありました。留学で非常に大変な目に遭っている人なんですね。後で『西遊記』の孫悟空の主人公にされているということになります。自分が非常な苦難をしたものですから、日本から苦労して留学して来たという、道昭(どうしょう)という人を大変大切にしてくれたようですね。
 
草柳:  玄奘三蔵と言えば、大変有名な人だったわけですから、その玄奘三蔵の弟子になるということは、やっぱり道昭(どうしょう)という人が優れていたという。
 
田村:  非常に優れていた人でしょうね。やっぱりそれだけの大きな仕事を日本の仏教史の上に成し遂げたということになるわけですね。
 
草柳:  その道昭(どうしょう)のことについて、これは『続日本記』からなんですが、読んでみます。
 
孝徳天皇白雉(はくち)四年、使に随いて入唐して適(たまたま)玄奨三蔵に遇いて師として業を受く。三蔵特に愛して同房に住せしむ。(中略)又謂いて曰く、「経論は深妙にして究竟する能わず、禅を学ぴ東土に流伝せんに如(し)かじ」と。和尚(かしょう)教を奉じて始めて禅定(ぜんじょう)を習う、悟る所稍(やや)多し。後に於て使に随いて帰朝す。訣るに臨みて三蔵所持する舎利・経論を以て和尚に授けて曰わく、「人能(」よ)く道を弘(ひろ)む、今、斯(そ)の文を以て附属す」と。また一つの鐺子(とうす)(なべ)を授けて曰わく、「吾西域より将来(もちきた)る所なり。物を煎(に)て病を養うに神験(あやしきしるし)あらずということなし」と。是に於て和尚拝謝して啼泣して辞す。〈中略〉元興寺の東南の隅に別に禅院を建てて住す。時に天下の行業の徒、和尚に従て禅を学ぶ。後に天下を周遊して路傍に井を穿(うが)ち、諸(もろもろ)の津済(わたり)の所に船を儲(もう)け橋を造る。
(『続日本紀』文武天皇四年三月、卒伝)
 
田村:  それで中国へ九年ぐらい留学して玄奘三蔵に就いた。「三蔵に特に愛して同房に住せしむ」というので、同じ建物の中に住まわせたということなんでしょうね。他の文献なんか、基(き)という人と一緒に住んでいたというような記録があります。基(き)というのは中国の法相宗の初代の人、玄奘三蔵がインドから伝えるんですけれども、玄奘三蔵を初代としなくて、その弟子の基(き)という人を初代の法相宗の初代の人というふうに数えているわけですね。その人と同じ部屋に住んでいたというような記録もありまして、とにかく玄奘三蔵は大事にしてくれた。そしてただ教義を勉強するだけではなしに、実際に坐禅をするようにということを奨めてくれたと言うんですね。これは玄奘という人は、やっぱり仏教であれば、学問だけではなくて、修行も行うというのがあり方ですね。それで玄奘三蔵が嵩山(すうざん)という山、これは例の達磨(だるま)大師がいたという嵩山(すうざん)に入って、「修行をしたい、禅をやりたい」ということを何回か皇帝にお願いするんですけれども、「お前はそんな修行なんかしなくて、一生懸命になって翻訳しなさいというので、とうとう許可されなかったというんですね。道昭という人には、「ただ学問をするだけではなくて、坐禅もやりなさい。実践もしなさい」ということで奨めてくれたというわけですね。その前に一つのエピソードがありまして、玄奘三蔵は西域を旅行した時に、喉が乾いて、どうしようもないという時に、西域の人が自分に梨をくれた人がいる。その梨を食べて自分はその喉の乾きをいやした。「お前はその時、私に梨をくれた人の生まれ変わりだ」と言って、非常に大切にしてくれたというようなことも、ここに書いてありますね。それから今読んだところでは、「人能(」よ)く道を弘(ひろ)む」仏道を弘めるのは、人なんだということで、「あなたが日本へ仏道を弘めて下さい」ということを言ったということと、同時に別れる時に、一つの鐺子(とうす)(なべ)を授けたというようなことが伝えられております。「鐺(とう)」という字を辞典なんか引いてみると、足が三本ある鍋、鍋と言っても、今、我々が使う普通の鍋ではなしに、三本の足を持った鍋で、自分が西域から持ってきたものだ。「物を煎(に)て病を養うに神験(あやしきしるし)あらずということなし」と言うんですから、おそらくこの三本足の鍋で、薬草かなんかを煎じるかなんかをして、具合が悪い時に、元気を回復したというようなものだったんじゃないかと思うんですね。それを、「自分が西域に旅行した時に、実際に使っていたものだから」と言って下さったというので、これはもう大変な感激をして頂いてくるということになるわけですね。
 
草柳:  それだけ道昭という人は玄奘三蔵のお眼鏡にかなった人ということになるわけですね。
 
田村:  そうですね。
 
草柳:  今、道昭などを中心にして、遣隋使から遣唐使が終わるまで、大体期間にすると二百年位なるんでしょうか。
 
田村:  それ位でしょうかね。
 
草柳:  その七世紀の後半から、九世紀の後半あたりにかけて、全体としては大体どの位の人達が渡っているんですか?
 
田村:  これはよく分からないですけどね。森克巳先生がお調べになったところでは、九十六人のお坊さまの名前が分かっているということですね。ですけれども、行く途中で海に沈んでしまった人達なんていうのは、名前が伝えられないという人もあります。それから、中にはいろんな文献を調べると、この人は行ったことが確実だと思われているが、他の文献にあまり出てこない。例えば、中国へ留学した人がみんな大成功かというとそうでもないわけですね。中には行ったけれども、あんまり思うようではなかったというような人がおりますね。そういう人の名前はあんまり残らないということもあります。百人位の人の名前が残っていても、実際にはそれよりも遙かに多い人が中国へ留学を志して、志の達せられた方、達せられなかった方いろんな人がいるだろうと思いますね。
 
草柳:  そうでしょうね。今のお話のように、必ずしも船が順調に向こうに着く、また戻って来るという保証なんていうのは、殆どなかったわけですから。
 
田村:  そうですね。さっきの道昭という方についても、日本へ帰る時に船が途中で動かなくなって、どうしようもないという時に、船の中の人が、「海の底にいる龍神が、あなたの持っている玄奘三蔵から貰った鐺子(とうす)(なべ)を欲しがっているんだろう」と言われて、やっぱり人の命には代えられないですから、それで海に沈めて龍神に差し上げたら、船が動いたというようなことが伝えられております。これは今からみると、勿体ない。そういうものが実際に伝わっていたら、これは大変な文化財だろうと思います。百人位乗っておりますから、人の命には代えられないというところがあったということでしょうね。
 
草柳:  記録に残っている人達だけでも、何十人かの人がいて、その記録に残らない人まで含めたら、もうそれこそ大変な数だったということが分かるんですが、あの時代によくそういう試みを果敢にほんとにしたものだなあという気がするんです。あの大化改新の後、纏めて随分行っておりますね、記録によれば。
 
田村:  そうですね。やはり遣唐使というのは、結局十七次位まで、計画されるわけですからね。全部が行ったわけではなさそうですけれども、そういう時に、やはりかなりのお坊さんが就いて行くということになりますから、全体の数からいうと、大変なものでしょうね。やっぱりそれだけ当時の、いわば世界の最高の文化を求めて、日本人が非常な苦難をして、留学して努力してきたということになるでしょうね。その中には、例えば玄宗(げんそう)皇帝の前で仏教の講義をしたというふうに伝えられている道慈(どうじ)とか、或いは玄ム(げんぼう)とかいう人もおりまして、中国の仏教界でも代表的な学僧というふうにみられるような人もおりましたですね。
 
草柳:  あんまり成績が優秀なんで、そのまま「中国へ残れ」というふうに言われた人も、もしかしたらいたのかも、
 
田村:  もしかしたらいるかも知りませんね。
 
草柳:  この間の経緯というか、当時のことを書いた井上靖の『天平(てんぴょう)の甍(いらか)』という本がありますね。
 
田村:  そうですね。
 
草柳:  あれ読みますと、何か当時の大変な留学僧達の経験がなんかチラッと垣間見る気が致します。
 
田村:  あれにはフィクションも含まれておりますけれども、大体史実ですね。
 
草柳:  そうですね。
 
田村:  その中で、井上さんはやはり日本から留学した人の苦労も伝えたい。表に出ない人もいただろうというようなことで、事実ではなかったかも知らないですけれども、真実を伝えたということもあるでしょうね。
 
草柳:  その中で、まだ何人か挙げて頂くと、例えばどんな人を、
 
田村:  そうですね。平安時代の初めになると、やはり日本で密教が盛んになるものですから、中国へ行って、密教を伝えた人というので、大体八人位の人を代表的な人として挙げられますが、その中で非常な苦労したという人に、円仁慈覚(えんにんじかく)大師(天台宗第三祖:794-864)という方がいられますですね。
 
草柳:  円仁というのはどういう?
 
田村:  この人は大体栃木県の出身の方なんですね。それで最澄という人が栃木県から群馬県辺りにかけてあった道忠という人の教団と非常に密接な関係があった。道忠教団の出身者で、最澄のお弟子になって、そして横川(よかわ)という比叡山の中でも一番奥のところの修行の場所を開いた人ということなんです。後で中国へ行って、この人も非常に苦労するわけですね。船が揚子江の北側に着く。一番目的にしたのは天台宗の本拠地の天台山へ行きたいんですけれども、揚子江よりずっと南側なんですね。北側へ着いたら、今度北の管轄しているお役人が、「自分は北側を管轄している。南へ行く旅行許可書を出せない」と言って頑張るわけですね。それでしょうがなしに揚州(ようしゆう)という、これは鑑真(がんじん)が日本へ来る前に居た町ですけれども、揚州に留まって、それで遣唐使が中央の長安へ行って帰ってくるのを、そこで待っているんですね。中央の政府だったら、どこへ行く許可書でも出せるだろう。ところが実際にはそれを持って来られなかった。それは何故か。おそらく理由は円仁は遣唐使と一緒に中国へ行って、そして遣唐使と一緒に日本へ帰って来るという予定で行きますから、遣唐使が揚州まで帰って来た時に、天台山へ行く許可書を貰っても、天台山へ行ってくる時間はないですね。そこで合流しても、そのまま船に乗って帰って来なくちゃいけない立場ですね。だからおそらく出来なかったんだろうと思います。「一緒に居て、二十年位中国で滞在するように」「勉強して来るように」という命令で行った栄西という人には、天台山へ行く許可書が出るんですね。円仁には出ない。ところが円仁にしてみれば、生死をかけて中国へ行っているわけですね。しかも日本に残っている天台宗のお坊さんから、「中国へ行ったら、中国の天台宗のお坊さんにこういうことを質問して、回答を貰って来て欲しい」というような質問状を何通か頼まれて持っているわけですね。そうすると、「天台山へも行けませんでした」「長安の都へ行けませんでした」「一年間、揚州の港で待っていたら、その後はどうにもなりませんでした」というわけにはいかないですね。それで遣唐使が出航する時に、隠れて船に乗らないんですね。密入国ではないんですけれども、不法滞在になりますね。不法滞在をやるわけなんです。ところが忽ちにして、見つかってしまった。その時にもう一隻日本の船が残っていたんですね。これはどういう事情かというと、小野篁(おののたかむら)という人が責任者で乗って行く筈の船が、小野篁(おののたかむら)という人が乗船を拒否してしまったんですね。それでこの人は後で流し者にされて、流される時の歌が百人一首の中に入っている歌なんですけれども。それでその一隻が責任者が乗らないものですから、他の三隻と一緒にいかなかった。後で行ったという。その帰りも、そうすると、その一隻だけが残っているわけですね。その一隻に乗せられてしまうわけですね。その船はたまたま出航したんですけれども、また中国へ吹き戻されてしまって、北の方へ行った。そしてそこに朝鮮の貿易商が居まして、非常に大きな影響力を持っている人で、その人が、「滞在許可を取ってやる」ということで、円仁はそこで残って、その人から滞在許可を取って貰う。それで円仁自身は南の方の天台山へ行きたいと思っていたのが、船がだんだん北の方へ行ってしまったということになるわけですね。それでそれから五台山というところを回って、長安の都へ入っていくということになるわけですね。
 
草柳:  何が運命を左右するか分からないですね。
 
田村:  そうですね。
 
草柳:  ただ、円仁が唐に渡っていた頃、九世紀の半ば時代、八百何十年代になるんでしょうか。その頃唐は大変な事件が起きていたわけでしょう。
 
田村:  それで中国は時々仏教弾圧事件というのが起こるんですね。普通四つ大きな仏教弾圧事件―代表的なものとして挙げられておりますけれども、その一つに丁度ぶっつかるわけですね。その為に円仁という人は非常な苦労をしますけれども、また日記を付けているわけですね。『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』と言います。その日記がそういう大変な事件にぶつかったものですから、そこに書いてあることが非常に細かに、その実状を知らせていて、非常に大きな価値があるということになるわけですね。これは前に中日大使であったライシャワーさんという方が、旅行記の研究の専門家で、日本と中国を股にかけた専門家なんです。その人は、普通、玄の時代の『マルコポーロの見聞録』というようなものが、非常に持てはやされているけれども、それよりも何百年も前に、しかも日記体で、しかも細かく実状が知らされてあるというので、大変高い評価をしていらっしゃるというようなことがあります。
 
草柳:  では是非その日記の一部を拝見したいと思うんですけれども、『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』から、
 
日本国の僧円仁・惟正(ゆいしょう)また唐の祠部(しぶ)の牒(ちよう)なし。功徳使は勅に準じて還俗の例に入れぬ。また諸寺に牒す。牒にいえらく「もし僧尼の還俗にしたがわざるものあらば、違勅罪に科して、たちどころに決殺せん」と。このことを聞きて、文書・所写の経論・持念の教法・曼茶羅などを装束して、ことごとくよそおいつつみおわりぬ。文書とかねて衣服とはすべて四籠あり。すなわち三頭の驢をば買いて処分の来るを待つ。心には還俗を憂えず、憂うらくば写すところの聖教(しょうぎょう)をば身にたずさえゆくをえざることを。また勅してしきりに仏教をば断ちたれば、恐らくば在路の諸州府が検勘して実を得て、違勅の罪に科せんかと。
(小野勝年『入唐求法巡礼行記の研究』巻四、鈴木学術財団、昭四二)
 
田村:  それで仏教弾圧事件の時には、お坊さんというお坊さんは、最初のうちは少し弾圧と言っても、柔らかなんですけれども、だんだん厳しくなっていくわけですね。それでここに出てくるのは、「日本国の僧円仁、惟正また唐の祠部の牒なし」。「祠部の牒」というのは正式のお坊さんの資格を得ましたという政府の発行する証明書なんですね。「牒」とか「度縁(どえん)」とかというふうに言います。円仁なんか日本にいる時に得度して、その時におそらく日本政府から正式な度牒というのを与えられたでしょうけれども、中国でお坊さんになったわけではないですから、中国のそういう証明書は持っていなかったでしょうね。それで正式のお坊さんの証明書がない。それですから、「功徳使」というのは長安の都で仏教なんかを管理しているお役人です。お役人は、「勅に準じて還俗の例に入れぬ」。円仁とか惟正もまたお坊さんでなしに俗人に戻すというような人達の中に入れたというわけですね。「諸寺に牒す」たくさんのお寺に命令を発して、もし僧尼の還俗にしたがわざる ものあらば、「違勅罪に科して、たちどころに決殺せん」還俗しなさいという命令に従わないものがあったら、もう殺してしまえというような命令を出されたということになるわけですね。
 
草柳:  けたたましい。還俗をしなければ今のように、もう殺してしまうと。
 
田村:  殺されてしまうわけですね。
 
草柳:  今の『入唐求法巡礼行記』の後のところで、そういう大変な弾圧をかいくぐって、円仁がどうしたのかという下りがあるわけですね。そこのところを続けて見て見ます。
 
このことを聞きて、文書・所写の経論・持念の教法・曼茶羅などを装束して、ことごとくよそおいつつみおわりぬ。文書とかねて衣服とはすべて四籠あり。すなわち三頭の驢をば買いて処分の来るを待つ。心には還俗を憂えず、憂うらくば写すところの聖教をば身にたずさえゆくをえざることを。また勅してしきりに仏教をば断ちたれば、恐らくば在路の諸州府が検勘して実を得て、違勅の罪に科せんかと。
(小野勝年『入唐求法巡礼行記の研究』巻四、鈴木学術財団、昭四二)
 
田村:  それで還俗させられるということになった時に、還俗されられるのはやむを得ない。還俗させられる。お坊さんの籍を剥奪されるということは憂えないけれども、ただ自分が中国へ来て、一所懸命になって集めた仏教の文献、写したお経とか、論、曼陀羅、その他いろいろなものをなんとかして日本へ伝えたい。そういうものが持って行けなくなることを、非常に怖れたということで、これを包んで、いつでも日本へ帰ることが出来るような準備を整えたということですね。実際に円仁はそういうたくさんの経論をもって日本へ帰ってくることが出来まして、それで日本へ帰って来てから、日本の天台宗の中の密教の、いうならば、開祖というような地位を得るわけですね。天台座主(ざす)というのにもなります。それからもう一つ大きなこととしては、念仏の法を伝えたということがあるんです。これはさっき言いましたように、北へ回って行った時に、五台山というところへ行きますけれども、五台山に伝わっていた法照流の念仏というのを伝えまして、これは節を付けて、「南無阿弥陀仏」と称えるもののようですけれども、そういうものを伝えた。それで比叡山の中にそういう常行三昧堂というわけですけれども、その常行三昧堂というお念仏を称えるお堂を作りまして、これは日本の念仏なんかの一つの大きな起源をなすというようなことになるわけですね。
 
草柳:  結局、還俗をしなければ国を出られないわけでしょうから、僧籍を捨てて、戻っ て来るということになるわけですか。
 
田村:  俗人になって戻って来るというわけですね。
 
草柳:  平安時代に、前回、前々回もお話が出た、例えば最澄とか空海とかという人達も大体この時代の留学僧なんですか。
 
田村:  そうですね。最澄、空海はちょっと前ですね。円仁は最澄のお弟子ですから、ちょっと後になります。最澄、空海も中国へ行って、いろんな苦労をするわけですね。これは最澄、空海の時も四隻の船で出航した。最澄の時は最初に浪速から出航するんですけれども、瀬戸内海で忽ち遭難するんですね。それで遣唐大使なんかは一度都へ戻って、任務を返上するというような形になるわけですね。その時、おそらく最澄は九州まで行って、九州で一年間過ごすということになったようです。その間に多分空海も同行して行くということになったのでしょうね。それで翌年九州から出航することになるわけです。やはり大体風に乗って中国へいくということになりますね。風がある時に出航する。その風が適当な風であればいいですけれども、沖へ出てみたら、台風の風だったというようなことになると、忽ちのうちに遭難するということになりますね。最澄、空海が行った時は一緒ですし、それから他にも何人かお坊さんが行くわけですけれども、最澄が行った時は沖へ出てみたら「黒風」黒い風というふうに表現されているんですけれども、暴風に吹かれたわけですね。その為に四隻の船でいったのが、四隻バラバラになってしまう。それで第一船、遣唐大使の船に空海が乗っていたわけですね。第二船、遣唐副使の船に最澄が乗っていたわけですけれども、この二隻が中国へ着くことが出来て、後の二隻は中国へ着けなかった。一隻は東シナ海の真ん中で沈んでしまったんでしょうね。全く消息知れず。全員死んでしまったというようなことですね。一隻は日本を出てから間もなく遭難致しまして、この船の何人かは帰ってくることが出来たということになるわけですね。朝鮮の船なんかだと、大体一週間から十日で日本から中国の港に入っていた。円仁が行った時は、その位で中国へ行っていますね。ところが最澄の船は五十日近くかかっているんですね。空海の乗った船はもう少し早く着くんですけれども、ずっと南の方へ流されて福州(ふくしゆう)という所へ、台湾の対岸ぐらいまで流されて着いたので、これもまたその為に非常な苦労をするということになりますね。最澄の乗った船はそれで漂流している間に、やはり非常な苦難であったらしくて、その船に乗っていた責任者の遣唐副使というのは明州という中国の港に上陸して間もなくそこで亡くなってしまいますね。おそらく船の中で病気になっていたということでしょうね。最澄も具合が悪くて、暫く港町にいた後で、天台山へ向かって出発していくというようなことになりますね。
 
草柳:  もしその空海にしても、最澄にしても、それから今日取り上げて下さった道昭にしても、円仁にしても、もし渡航、或いは帰りの船がうまく日本に着くことが出来なかった。仮にもしそういうことがあったら、もしかすると、日本の仏教というのは、また今とは違った変遷を辿っていたかも分からないということだって考えられるわけですね。
 
田村:  違う可能性がありますね。これは鑑真さんが来た時なんかでも、遣唐大使の船も沖縄まで来て、そこから南のベトナムへ流されていったということもあります。鑑真さんを乗せた遣唐副使の船が九州まで着いたというようなこともあります。やっぱり偶然と言いますか、それによって日本の仏教が支えられてもきたし、また様子によっては別な形があり得たということは思いますね。ただ全体の流れとしては、大体奈良時代学問中心で、それから平安時代になると、学問と修行と、修行を非常に重視する仏教になっていって、そして鎌倉時代にそういう形で修行を中心にして仏教が展開していったという、そういう大きな流れは変わらないかもしれませんけれども、細かな点では随分違っていただろうというふうに思いますね。
 
草柳:  そういう留学僧、留学生達の中で、もっと気宇壮大というか、中国を通り越して、大本のインドまで訪ねてみようという試みをした人も何人かいたんだそうですね。
 
田村:  そうですね。これはまた日本から中国へ行くのにも大変なことですから、そこから更にインドへ行くというのは、大変だったでしょうね。そういうことを希望した人は何人かいるんですけどね。例えば有名な人で、これは後の時代になりますけれども、鎌倉時代に明恵上人高弁(みょうえしょうにんこうべん)(1173-1232)という方がいらっしゃいます。この人は武士の息子なんですね。武士の子供で、お父さんは源頼朝と戦って、負けて死んだというような人なんです。そういう出身なものですから、文覚(もんがく)上人について行をしたり、それから紀州の髪ヶ峯というところへ行くと、山の頂上に明恵上人が修行された場所というところもあります。それから京都でいうと、栂尾(とがのお)の高山寺(こうざんじ)というお寺の開創者だと言われる明恵上人という方なんかも、何とかしてインドへ行ってみたい。お釈迦様の本元のところへ行って勉強してみたいということで、いろいろ中国の長安からインドの王舎城まで何里、一日に八里づつ歩けば千日で着くとか、一日に何里歩けば行くという旅程の計算なんかまでして、なんとかして行きたいというふうに思っていたと言うんですけれども、結局お父さんが亡くなった後、育ててくれたのはお母さんの方の人で、湯浅(ゆあさ)という人なんですけれども。その湯浅氏の夫人が、「どうしても日本に残っていて欲しい」というようなことを頼んだとか、或いは、「春日明神のお告げによって」というようなことで、この人は中国へも行けなかった、というような人もおりますね。それからインドへ旅行を希望した人としては、やはり鎌倉時代ですけれども、禅宗を伝えた栄西禅師という方がいらっしゃって、この方は珍しく二度中国へいらっしゃるんですね。二度目に行った時には、中国から、更にインドまで行きたいということを希望していらっしゃるんですけれども、その当時の中国の事情で、宋の政府が押し込められて、南宋と言いまして、今の杭州(こうしゆう)と言いますか、上海(しやんはい)の南の方まで移って来ているわけですね。ですから、中国の政府に頼んでも、「北回りで砂漠を通ってインドへ行くというような許可はちょっと出せない」ということで、それから海を渡って行くということも、ちょっと出来なくて、中国に留まって、その代わり臨済宗を伝えて、臨済宗の開祖ということになったというような人もおりますね。
 
草柳:  それじゃ、結局記録上分かっている範囲内では、成功したケースというのはなかったんですか。
 
田村:  そうですね。平安時代の初めに真如親王(しんにょしんのう)という方がインドへ行こうとして、失敗したという、途中で亡くなられたということもあります。それからズーッと後のことになりますけれども、安土桃山ぐらいに、山田長政(やまだながまさ)がタイへ行ったとか、それから今ベトナムへ行っても日本町があったというので、ベトナムのホーチミン市ですか、昔のサイゴン市ですけれども、サイゴン市博物館なんかへ行くと、入り口の表面のところに日本の刀とか武具が飾ってありますね。その当時の日本人が持って来たものがありますね。そういう中の一人が思いますけれども、アンコールワットへ行きまして、これが祇園精舎だと思って、アンコールワットの絵を描いて、祇園精舎の図と題したというようなものがあったりしまして、なかなか日本人はインドまでは行けなかった。これは朝鮮の人は古い時代にインドまで行って、典籍を持ってきて、そして戒律の本ですけれども、翻訳したというような人がいるんですけれども、やはり日本と中国との間が大変だから、それから先というのはなかなか難しかったということですね。
 
草柳:  ただ、今話があった真如親王(しんにょしんのう)という人は相当ダイナミックに活動されたみたいですね。
 
田村:  この真如親王(しんにょしんのう)という方は、平安時代、桓武(かんむ)天皇の後、平城(へいぜい)天皇という方が天皇になられて、その方が弟の嵯峨天皇という方に位を譲られると、平城天皇の息子の真如親王(しんにょしんのう)というのを嵯峨(さが)天皇は皇太子にするわけですね。従って、その後、順調にいけば天皇になられた方ということになるんでしょうけれども、薬子(くすこ)の乱というのが起こりましたですね。これは藤原薬子という女性がお兄さんなんかと一緒になって、平城天皇をもう一度天皇に返して、そして奈良へ都を戻したいというような運動をするわけですね。これが失敗して、失敗すると平城天皇の息子であった真如親王(しんにょしんのう)というのも、皇太子を廃されるというようなことで、いわば悲運の皇太子ということになる。その後、お坊さんになって、弘法大師のお弟子になる。それから弘法大師のお弟子になれば密教のお坊さんということになりますね。ところがただ密教だけではなくて、道詮(どうせん)という人に三論宗を習ったというんですね。この道詮という人は法隆寺の夢殿を復興したという有名な人で、夢殿の中に道詮の像が祀ってありますね。その人のお弟子になって、三論とか、或いは真言とかを勉強されたということなんですね。それでこれは六十三歳の時ですが、晩年になって、中国へ行きまして、中国で勉強しようとしたわけです。ところが中国では、先程の会昌の仏教弾圧事件の後、間もない時ですから、まだなかなか仏教が復興していない時期だったわけですね。それでも真言宗については教えてくれるちゃんとした先生がいらっしゃって、例えば青龍寺の法全(はっせん)というような立派な先生がいたんですけれども、三論宗はその弾圧事件がなくたって、だんだん衰退してきて、あんまり盛んではなかったわけですね。三論のことを聞いても分かる人がいない。これはどこが一番疑問であったのかよく分かりませんけれども、やっぱり空海について、真言を勉強すると、真言が最高ということになりますね。道詮について三論を勉強すると、大乗仏教の大本は竜樹菩薩だというので、やはり真言と三論が最高だという、もっとも根本的なものだというような考え方でしょうし、やっぱりちょっと三論と真言と違うところがあって、これは両方学ぶとちっと矛盾があったんではないかなあということを考えられないではないですね。おそらくいろいろ問題意識を持って、六十三歳で中国へ行く。昔の人で六十三。一千何百年前で六十三ですから、大変なものだと思いますけれども、六十三でいらっしゃった。
 
草柳:  多分、今の歳だと八十位の感じ、
 
田村:  九十位の感じでしょうね。
 
草柳:  じゃ、真如親王の記録を見てみることにします。
 
(親王)真言宗義、師資相伝するも猶(なお)通ぜざるあり。凡(およ)そ此(こ)の間に在りて疑を質(ただ)すべきこと難し。況んや復(また)、電露の遂に空なるを観(み)、形骸の早く棄(す)つるを顧み、苦(ねんごろ)に入唐して幽旨を了悟せんことを求め、乃至(ないし)天竺を尋訪せんことを庶幾す。・・・・(貞観)四年奏請し、西唐に入らんと擬す。適(たまたま)、可許を被り、乃ち一舶に乗じて海を渡り唐に投ず。彼の道俗に甚だ珍敬せらる。
(『三代実録』巻き四十、元慶五年十月十三日条)
 
田村:  そうすると、ここでは真言の宗義についても、先生から弟子へ伝えることがあっても、猶通じないことがあるということで、真言宗のことについて、中国へ行って聴きたいということになるわけでしょうね。「凡(およ)そ此(こ)の間に在りて疑を質(ただ)すべきこと難し」この時は弘法大師は亡くなっていらっしゃったんだろうと思うんですけれども、況やそこで、歳を取っているけれども、人間なんか朝露と同じようなもので、いつ死ぬか分からないし、空の存在であるし、「形骸の早く棄(す)つるを顧み」人間なんて直ぐ死んでしまうかも知れない。死んでしまうかも知らない人間のことを大切にして、日本に居て真理を学んでも、学び得ないということでなしに、なんとかして、この歳であっても、中国へ行って、奥深い意義を了解したいということを求めて、或いはまた天竺へ、インドを訪ねたいということを希望して、中国へ渡って行ったというようなことが『三代実録』という、これは政府の編纂した正式な歴史書ですけれども、その中に載っているわけですね。
 
草柳:  この真如親王の場合もやはり政府からの正式な派遣ということで行っているんですか? それともそうでなくて、もっと自分自身の、いわば今で言えば自費留学みたいな形で行っているんですか?
 
田村:  これは政府の遣唐使の最後が円仁という人が行った時なんです。その後は遣唐使は派遣しようという議論がないわけではなかったんですけれども、菅原道真が申請して、もう無意味だから出す必要がないということで取り止めになったわけですね。その後で行ったのですから、これはおそらく政府の費用ではなくて、何らかの形で費用を工面して行ったんだろうと思いますね。
 
草柳:  もう一つ続けて親王のことについての記録を紹介致しましょう。
 
親王遍(あま)ねく衆徳に詞うも疑碍(ぎげ)決し難し。書を律師道詮に送って曰わく、漢家の諸徳多く学を論ずるに乏し。意あるを歴問するも吾師に及ぶことなし。真言に至りては共に言うに足るあり、と。親王遂に錫を杖し、路に就いて 脚孤行す。
(『三代実録』巻き四十、元慶五年十月十三日条)
 
田村:  それでここで、中国からインドへ向かう時に、「書を律師道詮に送って曰く」道詮という人は今申し上げたように、法隆寺の夢殿の復興に尽くした人で、三論宗の人ですから、その前にある、「遍ねく衆徳に詞うも疑碍決し難し」というのは、おそらく三論のことについて、空の道理について、いろいろな人に質問したけれども、なかなか疑いを晴らしてくれる人がいなかった、というような意味なのではないかと思いますね。それで日本にいる先生の道詮に書を送って、「漢家の諸徳多く学を論ずるに乏し」というので、学問について議論しても、どうも相手は学問が乏しくて、なかなか思うようにいかない。「真言に至りては共に言うに足るあり」と言うので、これは先程言いましたように、青龍寺の法詮というような人がおりますので、真言宗のことについてはいろいろ疑問をぶっつければ、議論するに足る相手はいるけれども、どうもその他のことについて議論すると、論ずるに足る人はいない。やっぱりこういうところにも会昌(えしょう)の破仏(845年)の影響というのは、非常に大きく残っていたということじゃないんでしょうかね。それでこの方は南の広州の方からインドに向けて、海路―海を伝わってインドへ行こうとするんですけれども、今で言うと、マレーシア辺りまで行って亡くなった。随行した人が中国まで帰って来て、この人は日本まで帰って来られなかったんですけれども、中国から噂で真如親王が羅越(らおつ)国―マレーシアで亡くなったという噂が日本へ伝わって来たということになりますね。実際には病気で亡くなられたんですけれども、これは虎肉を食べて亡くなったというような伝説が日本にも広まったということになるんですね。
 
草柳:  志半ばにして、倒れてしまったということになるわけでしょうけれども、インドまで、実は渡ったんだけれども、日本に帰って来なかったという、半ばちょっと伝説上の人もいるんだそうですね。
 
田村:  これは中国の『酉陽雑爼爼(ゆうようざっそ)』という本に載っているというんですけれども、金剛(こんごう)三昧(ざんまい)という人です。そうすると金剛(こんごう)三昧(ざんまい)という人は、これはおそらくお寺の名前かなんかで、個人の名前ではないんじゃないか。個人の名前が欲しいんだけれども、それは分からないという人です。玄奘三蔵を慕って、玄奘三蔵が実際にいらした後を歩いてみたいというので、中国から更にインドまで行って、玄奘三蔵が学んだお寺へ行って、那蘭陀(ナーランダ)寺へ行くと、食堂中にハイがいっぱいいて、大変だとか、なんとかと言ったという記録が残っているようです。この人は中国までは帰って来て、こうして中国の書物の中に載ってはいるんですけれども、日本までは帰って来なかった。また日本仏教にあんまり影響は与えなかったというような、残念な立場の人もいるようですね。
 
草柳:  そうした大変な時代に中国に渡って、仏教のみならず、文化までも、勿論当然日本に持ってきたに違いないわけで、そういう人達の礎の上に、今の日本の仏教があるということになるわけですね。今日はどうも有り難うございました。
 
田村:  有り難うございました。
 
     これは、平成十年七月十九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである