仏教を生きるJ禅の道すじ
 
                       東洋大学教授 田 村(たむら)  晃 祐(こうゆう)
                       き き て  草 柳  隆 三
 
草柳:  「仏教を生きる」の十一回目で、今日のお話は「禅」についてです。禅というふうに言いますと、ちょっと日常生活とは縁が遠くてとっつき難いというふうに思われる方もおありかと思いますが、考えてみますと、禅が日本に入って以来、長い間日本人の心のありようだとか、あるいは精神構造だとか、日本人に対する影響というのはとっても大きなものがある。それも禅なんですね。例えば今日もお話の後半の方に出てまいりますけれども、良寛さんとか、一休さんという、私たちに馴染みの深いお坊さんも実は禅宗のお坊さんだったわけです。そうしたことから今日のこの時間は、日本に於ける禅の流れということについて、いつものように東洋大学教授の田村晃祐さんにいろいろと興味深いお話を伺ってまいることに致します。今日もよろしくお願い致します。
 
田村:  よろしくお願い致します。
 
草柳:  禅というのは最近ではむしろというか、例えば英語に既になっていて、辞書を引けば「zen(禅)」という言葉が出ているくらいですね。ヨーロッパとかアメリカとか、そういうところで随分今関心を持たれているみたいですね。
 
田村:  そうですね。日本には今おっしゃったように古くからの禅の伝統がありますけれども、これが明治以後特に外国へも広めるということを努力していらっしゃいまして、その結果やはり西洋文明の行き詰まった形を打開するものとして世界中で関心を持たれているということになるんでしょうね。
 
草柳:  その禅の、今日は日本に於ける流れが一体どうだったのかという話を中心に伺いしていくわけですが、禅というのはもともとは勿論インドで興ったものですけれども、語源的と言いますか、言葉の元々の意味は何だったんですか?
 
田村:  これはインドの言葉(サンスクリット語)の「Dhy?na:ディヤーナ」という言葉の発音そのまま中国語に写して「禅那(ぜんな)」というような形でこういうわけですね。その「禅」という言葉が伝えられているわけですけれども、これは元々は釈尊自身が菩提樹の本で坐禅をして仏教を悟られたというようなところに因縁して、仏教ではほとんどあらゆる宗派が実際の修行方法としては禅を用いるということになるわけですね。
 
草柳:  確かブッダにしても長い間の苦行の後で、今おっしゃった菩提樹の本(もと)で禅定(ぜんじよう)というんですか、禅で悟りを開いたと。ですから古くから仏教の中心的な行の一つ、
 
田村:  そうですね。心を一点に集中して、そして本来の自己と言いますか、悟りの境界(きようがい)そのものと自分が一体化していくというようなことを目指す修行方法ということになるんでしょうね。
 
草柳:  日本に入ってきた仏教というのは、勿論中国経由だったわけですか?
 
田村:  中国から禅もたくさんいろんな形で入ってきますね。伝説上のことですと、達磨大師が日本へもいらっして、聖徳太子もお会いしたというようなことが言われておりますね。実際の禅宗は最初に入ってきたのが、いつかよくわかりませんけれども、例えば飛鳥時代に法相宗(ほつそうしゆう)と倶舎宗(くしやしゆう)を日本に入れられた道昭(どうしよう)(653年遣唐使の一員として定恵らとともに入唐し、玄奘三蔵に師事して法相教学を学ぶ。玄奘はこの異国の学僧を大切にし、同室で暮らしながら指導をしたという:629-700)という人が中国へ行った時に、先生の玄奘三蔵(げんじようさんぞう)という方が、「ただそういう教理を学ぶだけではなしに、実際に禅を学んできなさい」というので、禅を勧めた。それで道昭は日本へ帰って来てから禅院を造って―禅のお堂を造ってそこに住んでいたというようなことが言われておりますけれども、これは実際のいわゆる禅宗の禅であったか法相宗の禅であったか、学者によって意見を異にするところがありますけれども、中国で勿論いろんな宗派が禅を実際の修行方法として用いますけれども、その中でも禅自身を主にしたいわゆる禅宗というのが中国へ入ってくるわけですね。菩提達磨(ぼだいだるま)という人によってインドから導入されたというふうに言われておりますけれども。
 
草柳:  菩提達磨という人は、もの凄く卑近な例で言いますと、例の起き上がりこぼしのダルマに用いられたりしていますけれども。
 
田村:  中国へ来てから面壁九年と言いまして、壁に向かって九年間坐禅をしていたというので、そういう姿をああいう形に象徴するということになるんでしょうね。
 
草柳:  六世紀ぐらいの人?
 
田村:  そうですね。日本で言えば仏教が日本へ公式に入ってきたというような頃の人ですね。
 
草柳:  当時の中国の仏教の中の禅というのは、今でこそ宗派があってですね、禅宗は禅宗、他の宗は他の宗、ということにはなっているんでしょうけれども、いろいろな宗派の中で禅の修行というのは取り入れられていくわけですかね?
 
田村:  そうですね。中国でもそうです。日本でもそうですね。
 
草柳:  例えば中国の場合にはどんなふうに?
 
田村:  三論宗でも法相宗でも華厳宗でも天台宗でも、大体どんな宗派でも用いますね。これは日本の仏教でいうと、鎌倉時代にできた浄土宗とか、浄土真宗という念仏の宗派が禅を用いませんけれども、浄土教の中にも本来は禅が入っていたわけですね。これは『観無量寿経(かんむりようじゆきよう)』というお経の中に「定善(じようぜん)」というのがありまして、これは大体禅なんですね。
 
草柳:  さっきおっしゃったダルマ―菩提達磨が、いわばそもそもの禅をある種体系化したと言いますか、しっかりしたものにしていった最初の人というふうにみればいいわけですか?
 
田村:  ということになるでしょうね。
 
草柳:  その達磨が言っていたのは、どういうことだったんですか?
 
田村:  『二入四行論(ににゆうしぎようろん)』というんですけどね、禅の実践を通じて悟りの境界を達成するということになるでしょうね、簡単に言えばね。
 
草柳:  有名な言葉として、例えば「不立文字(ふりゆうもんじ)」であるとか、ああいう言葉が元々達磨が、
 
田村:  そうですね。禅宗の考え方の特徴、これは本来は仏教全体がそうなんですけれども、悟りの境界そのものは言葉では表せない。我々の思惟を超えたものである、ということで、我々の考えられる範囲を超えたもの、従って言葉で表せないものである。それを禅という実際の修行を通じてそこに到達していく、ということになるわけですね。禅宗の中で非常にたくさん言葉で禅の境界を説明しておりますけれども、こういうのは、いわば言葉を超えた世界へいくまでの、まあ最後のところまで言葉で言って、そしてその先、禅を実践するということで体得していくということになるわけですね。ですから「教化別伝(きようげべつでん)、不立文字(ふりゆうもんじ)」ということを禅では言いまして、それで教えの外に別に伝える。教えというのは、本来表現できないものを、表現できる究極のところまで教えの形でいっていく。その先は教えの外に別に伝える。実際の禅定の体験の中で、修行の中で、先生から弟子へ「以心伝心(いしんでんしん)」と言いますかね、悟りの法というのは、先生の心から弟子の心へ伝えられていくというようなことですね。ですから教えの外ですから、文字を立てない、ということをいうわけですね。
 
草柳:  説くに説かれずと言いますか、曰く言い難いというか、今おっしゃるように向こう側にある。これはもう体得をするしかない。
 
田村:  実際に修行して、実際に体得していくというよりしょうがないですね。これは大乗仏教全体に通ずることですね。例えば天台でも、「諸法実相(しよほうじつそう)」と「円融三諦(えんゆうさんたい)」という言葉で表明しますけれども、実際には解けない。不可思議である。不可思議のものを言葉で表現しようとすれば、そういう言葉で表現するんだ、ということになるわけで、禅宗だけの問題ではありませんけれども、特に禅というのは、そういう言葉を超えた世界であるということを非常に強調する。それで言葉の世界というものを、そいう教理体系として示すということではないわけですね。禅定の境地をなんとかして言葉に示そうというようなことになりますので、まあちょっと常識を外れたような表現が出てきたりする、ということになるわけですね。
 
草柳:  その辺が一つはちょっと取っ付きにくいというか、難しいという感じられる原因なのかもわかりませんね。
 
田村:  そうですね。言葉を言葉としてだけ捉えようとするのではなくて、言葉を超えた世界をどうして言葉で表現するか。どういう言葉でそこへ導いていくかということになるわけでしょうから、そこのところが難しいですね。
 
草柳:  しかも超えた世界を体得する行のあり方としては、これは禅の場合には坐禅ということなんですか?
 
田村:  そうですね。
 
草柳:  坐禅をして、で、そのインドで興って、中国に渡って、達磨大師以降ですね、日本にはどういう形で渡ってきたんですか?
 
田村:  中国の禅宗は、六代目のところで大きく二つに分かれます。これは北宗禅と南宗禅というんですけど、北宗禅は~秀(じんしゆう)という人から伝わるわけですけども、その伝統が奈良時代に道?(どうせん)という人によって日本へ伝えられます。これは最澄なんかは道?の孫弟子になりますので、北宗禅も一部伝わることは伝わったんですけども、あまり大きく日本で発展するということはなかったわけですね。中国でもわりに早く消滅していきます。それに対して南宗禅というのは、慧能(えのう)という人の系統なんですけども、これが中国で非常に発展しまして、普通「五家七宗(ごけしちしゆう)」というんですけども、中国では五つの関連の宗派ができた。あるいはまあ臨済宗も二つに分かれて、それでそれを数えると七宗というんですけれども、こういう慧能の系統の南宗禅というのが日本へ伝わってきまして、そして鎌倉時代に日本で成立した臨済宗とか曹洞宗というような宗派は、その五つの宗派の中の二つで、それが日本では中心になっていた、ということになるわけですね。
 
草柳:  日本に於ける禅宗と言いますと、お話のようにもう既に奈良時代から勿論あるわけですけれども、大きく花開くと言いますか、それはやっぱり奈良、室町以降の鎌倉に入ってからということになるんでしょうか?
 
田村:  そうですね。鎌倉時代に入ってきた曹洞宗と臨済が、やはり宗派として定着していきますから、そうすると禅宗として発展していくということになりますね。
 
草柳:  今までもお話がありましたけれども、例えば臨済宗の場合だと、日本だと栄西(えいさい)(「ようさい」とも読む:1141-1215)、あるいは曹洞宗ですと、道元(どうげん)という名前がすぐ思い出されますけども、しかし鎌倉の臨済と曹洞宗の礎をつくったのは帰化僧の働きが随分大きかったようですね。
 
田村:  そうですね。栄西禅師は日本人で中国へ行って学んでいらっしゃいますけれども、鎌倉の寿福寺(じゆふくじ)などを建てて、そして京都でいうと、建仁寺(けんにんじ)ですね、それで臨済宗の基を築かれますけれども、その後蘭渓道隆(らんけいどうりゆう)(鎌倉時代中期の南宋から渡来した禅僧・大覚派の祖:1213-1278)―鎌倉の建長寺(けんちようじ)の開山ですけれども―蘭渓道隆禅師とか、あるいは鎌倉の円覚寺(えんがくじ)の開山になった無学祖元(むがくそげん)禅師(中国明州慶元府(浙江省寧波市)出身の鎌倉時代の臨済宗の僧。諡は仏光国師・円満常照国師。日本に帰化して無学派(仏光派)の祖となる:1226-1286)、その他たくさんの中国からの渡来僧がおりまして、そしてそういう方々によって日本の臨済禅の基礎が築かれていったというふうに言っていいわけでしょうね。
 
草柳:  日本から逆に中国へ渡って行って、禅を学んできた人たちのチャンピオンというか、代表というと、どういう人で?
 
田村:  たくさんいらっしゃいますですね。例えば東福寺の開山になった円爾弁円(えんにべんえん)(弁円を「べんねん」とも読む。鎌倉時代中期の臨済宗の僧:1202-1280)というような方がいらっしゃいまして、それから俊?(しゆんじよう)(1166-1227)なんていう人もそうでしょうし、中国へ行って、特に径山(きんざん)万寿寺(まんじゆじ)辺りを中心にして禅を受け伝えてくるということになりますね。
 
草柳:  栄西、道元だって勿論当然あちらに渡ったわけですけれども。その中国から渡ってきて、蘭渓道隆だとか無学祖元だとか、あるいは栄西、道元たちによって広められていった禅というのは、その後の流れとしてはどういうふうな経過を辿るわけですか?
 
田村:  それで最初鎌倉に定着しますね。それは無学祖元禅師のお弟子の高峰顕日(こうほうけんにち)(1241-1316)という人がおりまして、そのお弟子に夢窓国師(むそうこくし)(1275-1351)という方がおられます。この方は鎌倉にも、例えば瑞泉寺(ずいせんじ)というお寺があって関係がありますけれども、京都へ教えを広めたということになりますし、時代も鎌倉時代から南北朝とか、室町時代という京都中心の政治の時代がきますと、そうすると、京都を中心にして非常に大きく発展致します。京都の臨済禅の流れとしては、大きく一方で五山派(ごさんは)というのがありまして、これは中国でも南宗禅の系統で五つの代表的なお寺というのが定められますけれども、それに習って鎌倉五山(ござん)、京都五山というのができますし、京都五山に準ずるものとして、十刹(じつせつ)―十のお寺というのができるんですけれども、実際には十だけでなくて、全国に二百くらい指定されたというんですけれども、「五山(ござん)・十刹(じつせつ)」というものが官寺(かんじ)で―官立の寺院というような形になりますね。それ以外のものを林下(りんか)というようですけれども、いわば私寺の形をとったものがありまして、そういう中で「応燈関(おうとうかん)の法門」というんですけれども、大応(だいおう)国師(南浦紹明(なんぽしようみよう):鎌倉時代の臨済宗の僧:1235-1309)という方、この方は鎌倉の建長寺にいらっしゃいますけれども、その後大燈(だいとう)国師(宗峰妙超(しゆうほうみようちよう):鎌倉時代末期の臨済宗の僧:1282-1338)という方で大徳寺の開山ですね。関山慧玄(かんざんえげん)(鎌倉時代末期から南北朝時代の臨済宗の僧:1277-1361)という妙心寺の開山ですけれども、こういう「応(おう)・燈(とう)・関(かん)」というような人々の系列が主流をなしていったということですね。
 
草柳:  今の大応国師の「応」、大燈国師の「燈」、関山慧玄の「関」をとって「応燈関」と。
 
田村:  そうですね。「応燈関の法門」というふうに呼んでいるようですね。
 
草柳:  禅の流れというのは、中国から遡って考えてくると、かなり複雑だなという感じがしないでもありませんので、今日これから後の話というのは、絞って、じゃ日本に入ってきた禅がどういうふうに日本の風土の中で日本人的な変化というか、変動というか、その発展を遂げてきたのかということを中心にお話を伺っていきたいんですが、先ず人で言えば、誰が挙げられますか?
 
田村:  そうですね。よく知られている人で、先ほどお挙げになりました一休(いつきゆう)禅師(臨済宗の僧で、後小松(ごこまつ)天皇の子とする説もある:1394-1481)という方は、普通は頓智の世界で有名ですけれども、しかしこの方も素晴らしい修行をして、素晴らしい悟りを得て、そしてそういう境界を詩に表したりした日本の代表的な禅師の一人ということになるでしょうね。
 
草柳:  一休のお話というのは、ほんとにさまざまいろんなバリイーションがあってですね、物語になったり、非常に親しみのある人なんですけども、もともと一休さんというのはどういう出の人だったんですか?
 
田村:  この人は後小松天皇という天皇の庶子(しよし)と言いますか、お子さんだったというんですけれども、若い時に出家して、そして坐禅に努力する。二十一歳の時ですけれども、自分の就いていた謙翁宗為(けんおうそうい)という先生が亡くなる。そうすると、そこで自殺しようと思うんですね。琵琶湖に身を投げて死んでしまおうと思った。ところが身を投げようとする時に、お母さんが遣わした使者がちょうどそこへ来合わせて、抱き留めて自殺しないで済んだと言いましょうか、自殺をしなかった、ということですけれども、その後また堅田(かたた)の華叟宗曇(かそうそうどん)という人について坐禅の修行をした。この人は大変厳格な禅宗のお坊さんだったようですね。そういう人の下で非常に坐禅に励んでいて、これは二十七歳の時ということですけれども、悟りを得た。悟りを得た時の状況というのは、琵琶湖に船を浮かべていて、船の中で坐禅をしていた。そうすると、状況はよく判りませんけれども、おそらく琵琶湖に波が立つ。そうすると、それに揺られて船が動く。船に乗って坐禅をしている一休さんも、ゆらゆら振られながら静かに坐禅をしているところで、天地同根―天も地も自分も一体なのだ。自然のままに揺られながら坐禅をしている。万物一如、あらゆるものは全部一体なのだ、というような感じを実感していらっしゃったようですね。そういう時にたまたま烏(からす)が鳴いたというんですね。「烏が鳴いた」というのも、おそらく坐禅堂で言えば師が一喝(いつかつ)を与えた、というのと同じような影響をもたらしたんでしょうけれども、そこで天地と一体となった自己。小さな自我を脱却して空(くう)の境地、天地そのものと一体となった境地を生きるというようなところで悟りを得たというんですね。
 
草柳:  大変な読書家というか、勉強家だったみたいですね。
 
田村:  これは凄いですね。
 
草柳:  一休さんについては、いろんな話があるんですけれども、もう一つそうした勉強家・読書家の半面で大変な艶福家(えんぷくか)でもあったという。
 
田村:  晩年ですけども、森女(しんじよ)という旅の芸人というんでしょうかね、旅の女性と一緒になって結婚しているということで、そういうところにも独特のところがありますし、そういうことを詩に創る。ほんとの悟りの境地を詩に書くということも一方でありますし、そういう実際に生きている様を詩に創るというようなところもあって、これは『狂雲集(きよううんしゆう)』というのはなかなか面白い詩集ですね。
 
草柳:  その中から一節を読んでみます。
 
木は稠(ゆら)ぎ葉落ちて、更に春を回(めぐら)す、
緑を長じ花を生じて、旧約(くやく)新たなり。
森也が深恩、若し忘却すれば、
無量億却、畜生の身。
(『狂雲集』)
 
田村:  「木は稠ぎ葉落ちて」というので、これは冬の光景でしょうね。冬になって木がゆらいで葉が落ちてしまった。葉が落ちたままでなくて、その後には必ずまた春が戻ってくる。春になると「緑を長じ」緑がこう出て、花が生じて、「旧約新たなり」自分と森女という人の関係を考えながら書いているわけでしょうけれども、昔ながらのしきたり、ちぎりがまたこう新たに回復していくというところで、「森也が深恩、若し忘却すれば、無量億却畜生の身」森也という女性と一緒になっていて、そして温かく抱擁してくれる女性の中に仏を見ていった、ということなんでしょうね。それで森也という女性の深い恩をもし自分が忘れ去ることがあったら、もうこれから永遠に畜生の身であって、人間から畜生の世界に堕ちていく身なんだということで、女性に非常に感謝している、というような詩ですし、まあ一休さんは、これはまだいいですけれども、もっと女性との現実的な生活の仕方と言いますか、感覚というようなものを書いた詩がいろいろありますですね。
 
草柳:  ただ一休さんのそうした多分きっと当時の僧としては常識外のことだったと思うんですけれども、そうやって女性に恋い焦がれるというか、その女性に対していた一休さんは何を見ていたんでしょうかね?
 
田村:  例えば『般若心経』で言いますと、「色即是空(しきそくぜくう)」と言って、あらゆるものは全部空である。空(くう)であるという境地は、これは禅僧全体に通ずるわけでしょうね。ところが「空即是色(くうそくぜしき)」と言って、空がまた現実の世界に戻ってくる。現実の世界が空だというふうに悟ると同時に、空の世界をまた現実の上に生かしてくると言いますか、そういう面があるわけですね。そういう「空即是色」で、色の世界に戻ってくる時に、その人の個性が出ると言いますかね、現実の世界というものを、例えば良寛だったら恬淡としてものにとらわれない、子どもと遊んで過ごすというような状況の中に生かしていくわけでしょうし、一休だったらこうして男女の間というのに、現実の世界のもっとも現実的なところをみていく。ただその場合にも普通の人が女性との関係を楽しんでいくというのと違って、やっぱり空という境地を透過した空の実現としての男女関係というようなものを見つめていくという、そういう面があるんじゃないかというふうに思いますね。
 
草柳:  多分きっと男女間の関係の向こう側に多分きっと深いものを見つめていたのではないかという気がするんですけれども。
 
田村:  それですから「女性自身を仏と見ていた」というような境界が開けていくということになるんでしょうね。
 
草柳:  「女性自身を仏と見る」という。
 
田村:  そうでしょうね。
 
草柳:  もう一つ『狂雲集』の中から悟りの境界を詠ったものがありますので、
 
「聞声(もんしよう)悟道(ごどう)
撃竹(げきちく)一朝(いつちよう)所知(しよち)を忘ず
聞鐘五夜多疑を絶す
古人立地皆成仏
淵明(えんめい)が端的独り眉をひそむ
(『狂雲集』)
 
田村:  いろいろこういう坐禅の境地を詠ったというような詩がありますけれども、一つだけ出して見たわけですけれども、「聞声悟道」という題で「声を聞いて道を悟る」というわけですね。撃竹(きやくちく)と読むんでしょうか、「撃竹一朝所知を忘ず」これは中国における香厳智閑(きようげんちかん)禅師という人の逸話なんですけれども、この人が非常に仏教の勉強をしていらっしゃった。大変な学者である。だけどもやっぱり学問だけでは悟れないんですね。坐禅をしてもなかなか悟れないというところで、武當山(むとうさん)という山の中の草庵に引き籠もって、そしてある時庭を掃いていて、飛んだ石が竹にカチンと当たった。その当たった声を聞いて「一朝所知を忘ず」今までのことをみんな忘れ去って、そして空の境地を体得していく。悟りの境地を体得していった、というようなお話ですね。これは夏目漱石の『行人(こうじん)』という小説の後ろの方にも出てきますけどもね。「聞鐘五夜多疑を絶す」―「五夜」というのは、「五更(ごこう)」というのを同じだと思いますけれども、ズーッと徹夜して坐禅をしていて、朝の三時から五時ぐらいになって鐘の音を聞いて、今まで持っていた多くの疑問を絶して悟りを得ていったというようなことを二つ出して、「古人立地皆成仏」古人は声を聞いたら即座に、音を聞いた即座にみな成仏していったというようなことを詩にしていらっしゃるわけですね。その後はまた一休さんらしいと思うんですけれども、「淵明が端的独り眉をひそむ」そういうものを褒め讃えているだけでなしに、そういう仏教の悟りの境地を眉をひそめて見ていたという。慧遠(えおん)(中国の東晋、廬山に住んだ高僧:334-416)という人が廬山(ろざん)というところの東林寺(とうりんじ)に住んでおって、「白蓮社(びやくれんしや)」これは中国の念仏の始まりだと言われているものですけれども、「白蓮社」を造っていた。そこで陶淵明(とうえんめい)が同じ廬山ですから招かれた。そうすると、「お酒が飲めないから行かない」と言ったら、「じゃ、お前さんには特別酒を飲んでいいということにするから来なさい」というので、陶淵明は一度慧遠のところへ行ったんですけれども、行くや否やすぐ眉をひそめて出て来てしまった、というエピソードがあるようですね。それでこういうものを後に付けるところが一休さんの非常に独特なところという感じがしますけどね。
 
草柳:  一休さんの場合には、ほんとにそうしたエピソードというのは、数えきれないくらいあるわけですけれども、今ちょっとお話をお伺いしているだけでも、単純と複雑、両極端のものが一つの中に体現されているというか、凝縮されている。実にこう複雑な人、屈折の多かった人だったんだろうなという感じがしますね。
 
田村:  そうですね。いろいろ屈折がありながら、やっぱり究極的には禅の悟りを得て、そういうものが、例えば一休さんの書いた書なんかでももう紙から飛び出て跳ね上がっているというような書を書きますね。そういうものと、やっぱり女性と一緒にいて女性を詠うというようなもの、こういう悟りの境地を詠った詩なんかと、全部共通するような感じがして、やっぱり素晴らしい禅者だというふうに思いますね。
 
草柳:  心腹の大きい人、
 
田村:  そうですね。
 
草柳:  一休さんに続いて挙げて頂くとすれば、
 
田村:  盤珪(ばんけい)禅師(江戸時代前期の臨済宗の僧。不生禅を唱え、やさしい言葉で大名から庶民にいたるまで広く法を説いた:1622-1693)という方がいらっしゃいますですね。これは禅の学者にとっては、日本の禅は「曹洞禅」と「応燈関の法門」と、もう一つ「盤珪の法門」があると言って、三つ並べて立てるというような人がいらっしゃるぐらい大きなものであったようですね。
 
草柳:  この人は江戸時代の人ですね。
 
田村:  江戸の初期の人ですけれども、この人はお父さんが儒医であった。儒教のお医者さんであったと書いてありますね。それでだからでしょうけれども、若い時から儒教の勉強するわけですね。それで『大学』という本の最初のところですけれども、「大学之道、在明明徳」(大学の道は明徳を明らかにするに在り)というふうに書いてある。その「明徳」明らかな徳というのは一体何か、ということで非常に悩んだようですね。明徳を明らかにする。これも中国でも王陽明(おうようめい)なんていう人は、この明徳を明らかにするというので、陽明学(ようめいがく)という新しい一つの学派を立てていきますけれどもね。日本で「明徳とは一体何か」ということで、盤珪禅師は非常に苦しまれた。いろんな人に聞いた。わからない。禅宗のお坊さんに聞いてみたらいいんじゃないかということで、今度禅僧について学んでいく。それが非常な努力をされたようで、例えば岩の上で一週間何にも食べないでただ坐禅しているというようなことを繰り返されたようですし、そういうことになるとお尻から血が出てくるというんですね、坐禅をし続けるので。それでも横にならずに坐禅し続けていたというような非常な努力をされて、その後で病気になるわけですね。病気で、もしかしたら死ぬんじゃないかというようなところに入って、それである時痰が真っ黒くなって、塊になってひょっと出てきて、その痰が出た時にフッと「あらゆるものは不生ということで全部理解できるんじゃないか。不生ということで、すべては解決するのではないか」と思い立ったというわけですね。その「不生」ということを考えた後、今度病気も治りますし、一生不生禅というのを唱道して人々を導いていった、ということになるわけですね。
 
草柳:  盤珪という人は語録をいっぱい書いていますね。その盤珪語録からそれらの下りをちょっと見てみたいと思うんですが、
 
仏心は不生(ふしよう)にして霊明なものに極(きわま)りました。仏心は不生にして一切事が整いまするわいの。したほどに皆な不生でござれ。不生でござれば、諸仏の得ておるというものでござるわいの。尊いことではござらぬか。
 
これはこうやって読んでいますと、おそらく当時の話言葉で書いていますね。
 
田村:  そうですね。
 
草柳:  とても易しい書き方ですね。
 
田村:  「不生」というのは、生じないということで、生じないものは滅しない。「不生不滅である」という言葉がありますね。これは仏心―仏の心というのは、新しく生じないものでもないし、滅んでいくものでもない。永遠のものだ、ということですね。しかも不生というのは、大体「空」ということの説明に「不生不滅」という言葉が用いられるんですけれども、「仏心は不生不滅である」ということを、「空だ」というふうに言えば、これは伝統的な仏教の思想ですけれども、それをもっと具体的にして、「自分が生み出したものではないんだ。仏心というのは親から生み付けられたものなんだ。親が自分を産んでくれた時に、自分の中にこう自分が生み出したものではない、仏の心というのを生み付けてくれたんだ」という考え方ですね。しかも「不生」というと、「不」という字が入りますので、ちょっと否定的な言葉に見えるんですけれども、この人は「仏の心は不生だ」というんで、不生―空というのをまた逆に仏の心―活如来(いきによらい)である、仏である、というような考え方ですね。「親が自分の心の中に仏を産み付けてくれたんだ。生み付けた仏に従って生きていればそれでいいんだ。それだけで済むんだ」というような考え方を説いたわけですね。「仏心は不生にして霊明なものに極まりました」仏の心というのは、自分が生み出したものではなくて、親が産み付けてくれた霊明なるもの。「霊明」という言葉をどういうふうに現在の言葉で表現したらいいかちょっとわかりませんけれども、非常に素晴らし言葉を使っていらっしゃるわけですね。「悟りそのもののあり方」というようなものを霊明なものというふうに表現しているわけですね。「霊明なものに極まりました。不生なる仏心、「仏心は不生にして一切事が整いまするわいの」こういう生まれながらにして与えられた仏の心、そういう仏の心というものをもって、あらゆるものは全部それで済んでいきます、というわけですね。「したほどに皆な不生でござれ。不生でござれば、諸仏の得ておるというものでござるわいの」だから自分の心というのは、仏の心そのもので、親から貰ったものであり、不生だというふうに考えれば、仏の得ておるものをそのまま自分が貰っているんだ。「尊いことではござらぬか」ということで、例えばある人が盤珪禅師のところへ行って、「自分は短気で困るんだ。生まれながらにして短気で困る。どうしたら短気を治すことができるでしょうか」というふうに相談しに行ったというわけですね。そうしたら盤珪禅師は「とんでもない。親はお前さんに仏の心を生み付けてくれたんじゃないか。短気という心は生み付けてくれないよ。自分が勝手に短気出していながら、生まれ付きだなんて言って、親のせいにするとはとんでもない」と言って怒ったという話がありますし、自分がもって生まれた仏の心というものを中心にして生きていく。それを自覚して生きていくと、短気なんていうのは起こさないで済む、ということになるでしょうね。
 
草柳:  適当かどうかわかりませんけれども、ある種の性善説みたいなふうに考えてもいいんですか?
 
田村:  そうですね。これは仏教のほとんど全体、あるいは禅宗は特にそうですけれども、「自性清浄心(じしようしようじようしん)」と言いまして、我々の心そのものは本来悟りなのだという考え方ですね。そこで煩悩をどう考えるかというので、いろいろちょっと意見が出てくるということになりますけれども、迷いそのものがまた悟りと一体なのだ、というような形で全部肯定していくというような世界が生まれてきますね。
 
草柳:  よく言う「煩悩即菩提」ということですか?
 
田村:  そうですね。
 
草柳:  じゃ『盤珪語録』の続きをもう一つ、
 
不生にして霊明なものが仏心、仏心は不生にして一切事がととのうということさえ、人々はたしかに決定(けつじよう)して知っておれば、もはや人には破壊せられず、いいくらまされず、人のまどいをうけぬようになれますわいの。そのごとくになった人を、決定(けつじよう)した人といいて、すなわち今日不生の人で未来永劫(ようごう)の活如来(いきによらい)でござるわいの。
(『盤珪語録』)
 
田村:  そうですね。これはさっきの文章の続きのところにある言葉ですけれども、「不生にして霊明なものが仏心、仏心は不生にして一切事がととのうということさえ、人々はたしかに決定(けつじよう)して知っておれば」自分の心は本当は仏の心なんだ。それを親に生み付けて貰ったんだということを、しっかりとはっきりと決定してですが、しっかり知っておれば、「もはや人には破壊せられず」人がどうこうだと言って、人に自分の立場を壊されるというようなこともないし、「いいくらませず」言葉で誤魔化されてしまうというようなこともないし、「人の惑いを受けぬようになりますわいの」人の迷いを受けないようになりますわいの、というので、これはそこで自己が確立すると言いますかね、人に動かされずに、ただ自分の持って生まれた仏の心に随っていくというようなことになれば、そういう迷いを受けないようになる。「そのごとくになった人を、決定した人」そういうふうなことがわかって、そういう立場で生きていくことができるようになった人を決定いた人、信心が決定した人、仏であることであることが、「決定した人といいて、すなわち今日不生の人で未来永劫の活如来でございまするわいの」そういう人は未来永劫活きている仏様なのだ。仏を活きているんだ、というようなことになるわけですね。これは仏教の真理を誰にでもわかるように、実に易しく説いて、しかもその分かり易く活きていくことができるというような形のものですね。
 
草柳:  しかも語録という性格もあるんでしょうけれど、とっても語り口が自然と言いますか、日常の多分きっと会話の口調によく似ているというか、近かったんじゃないかと思いますね。
 
田村:  日常の言葉を使って、日常の人々に働き掛けるというところに仏教の本来の姿があるわけですね。仏教はやっぱり自分で悟るという一面がなければならないと同時に、自分が悟っただけではなくて、人にそれを知らせていくという両面があって大乗仏教―大きな乗り物仏教ということになるわけですね。それをこういう誰にでもわかる言葉で、誰にでも説明しているところに、大乗をほんとに大きな乗り物として活かしているという世界があるんでしょうね。
 
草柳:  今日はいろいろな人物を仲立ちにして禅の流れをお伺いしているわけですが、次は誰に?
 
田村:  じゃ白隠(はくいん)禅師(白隠慧鶴(はくいんえかく):臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧:1686-1769)という方についてちょっとお話したいと思いますけれども。
 
草柳:  白隠はどういう人だったんですか?
 
田村:  白隠という人は、静岡県の人ですけれども、この人も子どもの時から非常に面白くて、なんというか教えて貰ったことをそのまま受け取って悩んでいくわけですね。地獄がありますよ。地獄をどんなに恐いところか。自分がそこへ堕ちたら非常に恐いと思うわけですね。地獄に恐れを持つ。それから例えば『法華経』の話を聞いていく。これはお父さんが『法華経』の信者であったようですけれども、そうすると観音菩薩の名前を称えながら「南無観世音大菩薩」名前を称えると、火にも焼かれない、という言葉があるんですね。ほんとに火に焼かれないか。焼け火箸を作って「南無観世音大菩薩」とやりながらこう手に当ててみた。焼け爛(ただ)れた。嘘が書いてあるんじゃないか。『法華経』なんてあれ書いてあることは嘘じゃないか。やっぱり爛れちゃうじゃないか、というようなことを思ったり、それからお坊さんになって禅の修行をするわけですけれども、中国の話で巌頭(がんとう)和尚という方が非常に禅に徹しておられたけれども、賊に首を切られて、その時大きな声を出して切られて死んでいった、というようなエピソードを読んで、いくら禅で偉くなったって、賊に切られて殺されてなんていうのは、そんなことがあるんだったら禅なんか詰まらないんじゃないか。いろんなことをお考えになるようですね。それでそういう疑問を持って修行に励んでいく。そして越後の田というところで悟りに達した、ということになるわけですね。
 
草柳:  その辺のところをまた読みながら考えていくことに致します。
 
一夜恍然(こうぜん)として暁に達(いた)る。乍(たちま)ち遠寺の鐘声を聞く。微音わずかに耳に入るとき、則ち底(てい)に徹して根塵(こんじん)を剥落(はくらく)す。恰(あたか)も耳辺(じへん)にあって洪鐘(こうしよう)を撃つが如し。豁然(かつねん)として大悟して、高声に叫んで曰わく、「阿呵呵(あかか)。巌頭(がんとう)和尚は万福現在(まんぷくげんざい)、巌頭和尚は万福現在。」
(年譜)
 
田村:  「一夜恍然(こうぜん)として暁に達(いた)る」恍然(こうぜん)というのは、辞書なんか引くと「うっとりとして」というような意味が出ていますけども、とにかく「暁に」朝方まで坐禅をしていたというわけですね。その時「乍(たちま)ち遠寺の鐘声を聞く」遠くのお寺から鐘を打つ声が聞こえて来た。「微音わずかに耳に入るとき」その遠くのお寺のかすかな鐘の音が耳に入ってきて、聞こえた時に、「則ち底(てい)に徹して根塵(こんじん)を剥落(はくらく)す」というわけですね。この時悟りを得た、というわけです。「根塵(こんじん)」というのは、「根」というのは主観というとちょっと言い過ぎかも知れませんけれども、主観の側に属するものということになりましょうかね。「塵」というのは、対象という意味で客観的なものですね。主観、客観の差別を全部剥落した、なくした。それで主観と客観と分けで見るというのは、これは分別の世界で、それを剥落して、そういうものを超えた真如の世界というか、悟りの世界そのものに入っていった。しかも底に徹して、これは決定という字ですからね、もうその悟りの境地に徹底していったというわけです。「恰(あたか)も耳辺にあって洪鐘(こうしよう)を撃つが如し」実際には遠くのお寺で非常にかすかな鐘の音なんだけれども、その音で悟ってみると、その音が「洪鐘(こうしよう)」もの凄く大きな鐘の音に聞こえてきた、というわけですね。「豁然(かつねん)として大悟して、高声に叫んで曰わく」そこで多く悟ってみると、前に巌頭和尚というのが、賊に首を切られて大きな声出して、喚きながら死んでいった、ということになるでしょうけれども、いや、そうではなかったんだ。巌頭和尚は今でも元気で生きていらっしゃるんだ。「万福現在」今でも現在元気で生きているという意味ですね。悟ってみると、そういう生とか死を超えた世界なんですね。永遠な世界なんですね。永遠な世界を自分は悟ってみると、前に死んでなかったと思っていた巌頭和尚だって、今実際に生きて人々を導いているではないかという感覚、感じを持ったんでしょうね。子どもの時から、前からの疑問である、何であんな偉いお坊さんも死んでしまったのかというのに対して、いや、死んではいないんだ。今現在生きているんだというところで、悟りの境界を得ているということになるんでしょうね。
 
草柳:  続けて「坐禅和讃」から、
 
衆生本来仏なり
水と氷の如くにて
水をはなれて氷なく
衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして
遠く求るはかなさよ
譬えば水の中に居て
渇を叫ぶがごとくなり
(坐禅和讃)
 
田村:  こういうのも先ほどの盤珪禅師と同じように誰にでもわかるように平明な和讃の形にして禅の境地を説明しているということになるんでしょうね。「衆生本来仏なり」衆生はもともとみんな仏なのだ。盤珪禅師の活如来と同じですね。「水と氷の如くにて、水をはなれて氷なく、衆生の外に仏なし」水というのをここでは仏に喩える。氷というのは衆生の煩悩に喩える。煩悩と菩提・悟りというのは別なようで一見あるわけですけれども、氷が融けて水になるわけですね。氷と水と本来一体のもの、同じものだというわけですね。煩悩がそのまま菩提である。煩悩がそのまま仏なんだ。「水と氷の如くにて、水をはなれて氷なく、衆生の外に仏なし」我々衆生がそのまま仏であって、我々衆生の他に仏様がいるというわけのものではないんだ。我々自身が仏なのだ、というわけですね。「衆生近きを知らずして、遠く求るはかなさよ」仏が自分自身が仏だというふうに、仏は自分に近いものだということを知らなくて、遠くどっかに仏様がいるというふうに遠く求めているはかなさよ。「譬えば水の中に居て、渇を叫ぶがごとくなり」そういう仏の求め方というのは、水の中にいながら、喉が渇いた、と言って叫んでいるようなものだということで非常にわかりやすいですね。
 
草柳:  真の世界というか、つまり我々が望んで止まない世界というのは、案外身近なところにあって、氷がなければ水がないんだし、水がなければ氷がない。つまりそういうことなんだと。そういう関係の中にあるんだということを、今の和讃の中では言っている。続けて多分こうしてだんだん境界が深まっていくんでしょうけれども、和讃のその次ぎ、
 
(そ)れ摩訶衍(まかえん)の禅定は
称歎するに余(あま)りあり
布施や持戒の諸波羅蜜(しよはらみつ)
念仏懺悔(さんげ)修行等(とう)
其品(そのしな)多き諸善行
皆この中(うち)に帰するなり
(坐禅和讃)
 
田村:  「夫(そ)れ摩訶衍(まかえん)の禅定は」摩訶衍(まかえん)の「摩訶」というのは、大きいという意味ですね。「摩訶不思議」という言葉で、「摩訶」というのが出てきますけども「大きい」。「衍(えん)」というのは、インドの「ヤーナー」という言葉の発音を写したもので、これは「乗り物」という意味なんです。「摩訶衍(まかえん)」というのは、「大きな乗り物」というので、「大乗」というふうに呼ばれているものですね。「摩訶衍の禅定は」大乗の禅定というものは、「称歎するに余(あま)りあり」褒め讃えても、どんな褒め讃えても褒め讃え切れないような素晴らしいものだというわけですね。「布施や持戒の諸波羅蜜(しよはらみつ)」これは「波羅蜜」というのは、大乗仏教の行で、その行を行って悟りの世界にいくと言われているのに、「六波羅蜜」と言われて「布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しようじん)・禅定(ぜんじよう)・智慧(ちえ)」の六つを数えますけれども、そういうあらゆる波羅蜜の行―念仏とか、懺悔するとか、修行など、「その品多き諸善行」こうして波羅蜜もあれば、念仏もあれば、仏の前へ行って自分の犯した罪を懺悔するということもあるし、いろんな修行があって、いろいろな善行はあるけれども、「皆この中(うち)に帰するなり」この中というのは、「摩訶衍の禅定」ですね、坐禅の中に。全部坐禅を行うとその坐禅の中にこういうあらゆる善行が含まれていて、すべての善行は全部この善行―すべての善い行いですね、全部善行の中に帰するのだということで、禅一本槍で、あらゆる仏教がその中に含まれていて、悟りを実現できる、というようなことをおっしゃっておられるんでしょうね。
 
草柳:  すべてはもう禅一つの中に入り込んでいるというか、
 
田村:  そうですね。
 
草柳:  最後に、最初にちょっとご紹介した良寛(江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家:1758-1831)なんですが、田村先生はこの良寛の日本の禅の流れの中での位置づけと言いますか、良寛をどんなふうに考えますか?
 
田村:  良寛という人は、禅宗史の中で主流を占めるとか、大きな位置を占めるとか、歴史の上でということでなしに、実際に日本人の中に与えた影響というのが非常に大きいというので、特異な人だと思いますね。この人は曹洞宗の方ですけれども、生まれ故郷の越後の国上寺(こくじようじ)の五合庵というところに恬淡として住んでいた。さっきも言いましたように、一休禅師だったら男女の中に現実の人間のもっとも現実的なものを見て、そこに仏の姿というものを見出し、仏の行を活かしていくということになるんでしょうけども、良寛さんだったら何にもとらわれない恬淡たる生涯を送っていく。まったく世の名誉とか利益を超越した世界に生きていくというような形で、まあ良寛さんのやったことがどこまで事実かわかりませんけれども、いろんなエピソードが伝えられる。これは常識的な見方からすると、非常にこうおかしなもんで具合が悪いんですけども、良寛さんがやったということになると、それが素晴らしいこととして受け取られていく。そういう中に私は日本人自身の宗教性みたいなものもみていっていいんじゃないかとふうに思うんですけどね。
 
草柳:  じゃ良寛の作品から一つだけ最後にご紹介致しましょう。
 
生涯身を立つるに懶(ものう)く、
騰々(とうとう)天真に任(まか)す。
嚢中(のうちゆう) 三升の米、
炉辺一束の薪
誰か問わん 迷悟(めいご)の跡
何ぞ知らん 名利の塵
夜雨 草庵の裡(うち)
雙脚(そうきやく) 等閑(なおざり)に伸ばす
(良寛詩)
 
田村:  「生涯身を立つるに懶(ものう)く」これは世俗的な生活をして、お父さんが庄屋さんだったわけですけれども、そういう家を立てていくというようなことは、どうも自分の生き方に合わなくて、「騰々(とうとう)天真に任(まか)す」ただ天然自然に自分は委せただけの生き方をしていくというところに良寛の良寛らしさがあるわけですよね。「嚢中(のうちゆう) 三升の米、炉辺一束の薪」それだけしかなくてもそれで十分満足していく。「誰か問わん 迷悟(めいご)の跡」迷っているとか、悟っているとかというようなことを言って、そのこと自身を問題にすることもないんだ。「何ぞ知らん 名利の塵」名誉とか利益なんていうのは、ましてそれを超越して、ただ小さな草庵の中でう〜んと思い切り脚を伸ばしていくというだけのことなんだということで、自然のままに生きたと言いますか、そういう名利をほんとに脱却して生きた姿というのがこういうところに現れていますですね。
 
草柳:  今のような境界の片一方で、それと裏腹のような関係の中で、もの凄くなんか俗っぽいところが良寛さんにはいっぱいあって、その辺の大変的な人間的な魅力ですね。
 
田村:  そうですね。
 
草柳:  あと一回になりました。今日はどうも有り難うございました。
 
     これは、平成十一年二月二十一日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである